断捨離予定本が復活『東京人』

本棚の板が重みで歪曲して、ビスの部分がひび割れている。まずい。断捨離である。悪魔の手が伸びて生贄は、『東京人』(1999年8月号」)<特集 世紀末は落語で笑え!>。開いてしまったのが悪魔の運の尽き。面白くて、復活し、断捨離終了である。

立川談志さんと吉岡潮さんが、談志さんが「ゆめ寄席」に実際に選んだらどんな芸人さんが並ぶのかということで、選んでいく。人の並べ方だけでなく、この人のこれという指定がある。その中に、柳家紫朝さんの「両国」が入っている。この雑誌が出たとき、こちらは、紫朝さんは知らない。寄席で紫朝さんの都々逸などを聴いて気に入りCDを買った。ところが、響いてこない。骨折して時間を持て余し静かに聞いたところ微妙な声の響きと節つけに気がつく。紫朝さん選ばれたたのが嬉しい。かつて『文芸寄席』をやったことがあり<永六輔が講談、清川虹子と宮城千賀子の座談、手塚治虫先生が漫画を描き、俺と前田武彦が漫才、はかま満緒が手品、前座が円生師匠>との話しあり。止まらなくなる。

金原亭馬治さんが、馬生襲名予定の年で志ん朝さんも出てくる。

東野圭吾さんが、自分の作品に『快笑小説』『毒笑小説』という短編があって、「笑い」をテーマにしていて、「笑い」をテーマにすることは東野さんにとっては修業の一つであるとしている。そして『しかばね台分譲住宅』は志の輔さんが『しかばねの行方』と改題して創作落語にしていた。知りませんでした。

池内紀さん。どこかで目にしたお名前である。日本近代文学館の今年の夏の文学教室で、「森鴎外の「椋鳥通信」」の講演をされたドイツ文学者である。そのかたが「明治の大名人三遊亭円朝」を書いている。鏑木清方の高座での円朝の画像が有名であるが、清方さん、円朝さんについて旅をしているのである。明治28年、円朝さん56歳、清方さん17歳である。新し噺の取材旅行である。茶店があると疲れていなくても寄り、話しを聴くのだそうである。

「牡丹灯籠」にもふれ、下駄の音を「カラコロ」とでてくるのは、樋口一葉さんの「にごりえ」で、10年あとに円朝さんは下駄の音を「カランコロン」とする。

「「牡丹灯籠」では、因果物語と恋の怪奇がかわるがわる語られる。それぞれをA、Bとすると、ABABABといったぐあいに進んでいる。」

今日はAかなと思うとBの話しで、次はまたAの話しになるという続けかたである。聞き手の興味を裏切りつつ、その手の内にハマらせ、次を聴きたくさせるのである。

速記本として出し、手直しをしてまた発表して「原稿料」をとる。手直しは高座での客の反応を批評家として見立ててなおすのだそうで、清方さんの絵の円朝さんのじーっと客を見つめる眼が座っている。

「浅草十二階をつくった男」(稲葉紀久雄・文)浅草にあった<凌雲閣>の設計者バルトンさんの話しである。バルトンさん、衛生工学が専門で、日本や台湾の上下水道の整備をされたかたで、浅草っ子に気に入られ、高い塔を建てることに参加したのである。大阪に<凌雲閣>(のちの通天閣につながる)があり、いつしか<浅草十二階>と呼ばれるようになる。

最初は、浅草寺の五重塔の修理費用のため周囲に足場を組みお金を取って五重塔の上まで登らせたところ凄い人気となり、修理後、高いところを人々が好むことに眼をつけたのが始まりということである。<浅草十二階>は関東大震災で八階から折れてしまう。

しかし、バルトンさんは、日本各地に上下水道の設計をして衛生のために尽力されたことは残された。日本人女性と結婚し、日本で亡くなられている。明治の浅草の写真に写されている<浅草十二階>にはそんな歴史があったのである。

その他「ミステリー小説の東京・乃南アサ」(川本三郎・文)「川端康成と少女論」(小谷野敦・文)等、この一冊を選んだがゆえに断捨離の時間は、読書の時間になってしまった。

吉川潮さんが本格派声帯模写の丸山おさむさんを紹介していた。このかたの流行歌手の物真似は本格的で、時間的長さが必要のため、テレビでは無理であり、やはりな生で味わう人である。

東野圭吾さんの本は、旧東海道の帰りに古本屋で手に入った。友人は、値の下がるのを待っていた本が5冊見つかり重いリュックも何のそのである。

円朝さんの話から、歌舞伎座10月『文七元結』で感じたのは、円朝さんの眼は、角海老の女将として、和泉屋清兵衛の眼として見まわしている。清兵衛が文七を認めてはいるが、自信過剰の部分を見抜いている。それが、お金紛失と左官屋長兵衛との出会いによる経験で、独立させてもいい時期と思うのである。単に、めでたしの付け足しではなく、文七の成長をもきちんと描いていると思う。そして、お久の人間性。それらを見定めてのめでたしで、さらに、一皮むけた文七は、元結のアイデアをだすのである。円朝さんはきちんとその辺りを計算に入れていたように思えた。

一冊も断捨離できない原因は、本を開いたことである。しかし、16年前、一冊の本をこんなに愉しんではいない。それだけ少しは、振り幅が広がったのであろうか。

来年こそは、断捨離で本棚の歪みを正常にしよう。

 

 

 

 

『夢酔独言』(勝小吉著)(2)

小吉さん、あちこちうろうろして、やっと江戸に帰ることにする.

山の中で崖より落ちて大事なところを打ってしまいながら箱根に向かう。関所のことは出てこないが箱根から、三枚橋へ着いているから手形を持っていたのでろうか。書かれていない部分が気になる。小田原では漁師の家で漁師の仕事を手伝い息子にと請われるが、こんなことをしていてもつまらないとお金をちょっと拝借し江戸に入る。ところが鈴が森、高輪、愛宕山、両国橋、回向院の墓場と家の敷居が高く何日か帰る時間を伸ばしやっと家の敷居をまたぐ。四カ月ぶりの帰宅である。

21歳の時の出奔は、吉原に寄ってからである。剣術修行もしたが他の修行もしていたわけである。やはり、一泊目は藤沢である。昔の人は朝の出立が早い。朝4時である。先日、藤枝から途中までバスなので、朝一番のバスで初めて朝6時出立としたら予定より早く目的地に到着したので、早朝出立は検討の余地ありである。

さて、小吉さんは小田原で世話になった漁師の家により、盗んだお金も返し、三枚橋まで送られている。仲間にお酒もご馳走し、きっとにぎやかにあの道を歩いたのだろうと想像する。手形がないので、剣術の道具一式と雪踏(せった)のいで立ちで、剣術修行だからお通し下されと言って通してもらう。夜である。そこから三島に行く。真っ暗でなんぎしたとあるが、もっともな話である。三島宿に着いたのが夜中の12時である。

三島宿では、ひとり旅は泊められないという。問屋場(とんやば)に交渉する。ここは宿の事務手続きをするところである。そこでも断られるので、水戸のはりまの守の家来とうそをつき、脇本陣にとまる。旧東海道を歩くときは、宿場に入るとこの問屋場跡、本陣跡、脇本陣跡などを探すのである。小吉さんのお陰で流れが分るし、小吉さんもどうすれば人が動くかを学んでいて、堂々と嘘をついて押し出すのである。かごまで出してくれる。

14歳の時と大きく違うのは、剣術を身につけたことである。「なんぞあったら切り死に覚悟して出たからは、なにもこわいことはなかった。」

大井川である。96文川になっている。川の水位によって渡しの値段が違うのである。私が見た説明板では、一番深いのが人の脇のしたで94文、約2820円であった。96文川とは増水で渡れないということである。名前が功を奏し水戸のはりまの守の家来はきちんと渡っている。蓮台がついた渡しである。4人が担いだとして、前を4人水よけをしていて、荷物は別の人足が担いで運んでいる。川越人足は、12、3歳から先輩のお茶出しや食事の世話などの雑用をやり、15、6歳で荷物を運び、それから一人前に人を運べるようになる。14歳の時の小吉さんは、大井川のことは何も書かれていないが浅いときは、大人の股下くらいであるから自分の力で渡ったのかもしれない。

川止めの最高は28日ということである。川止めとなると、宿が幾つか前の宿場まで宿泊客で埋まり相部屋となる。そこを狙うゴマの蠅もいるわけで、旅人にとって川止めは大変である。大井川に架かる大井川大橋は渡る時間12分であった。

小吉さんそこから掛川宿に入っているが、私たちは掛川まで入れなかったのである。この前に<小夜の中山>があり、東海道の三難所の一つであった。七曲り坂は、日光のいろは坂の徒歩バージョンと名付けたが、小吉さん元気であれば、難所などありはしない。

掛川から遠州の森町の昔の知り合いのところで逗留していたが、甥が迎えに来て江戸へ帰ることとなる。遠州森は、実在したかどうかは判らないが森の石松さんの生まれ故郷である。そして小吉さんは江戸にて座敷の三畳の檻の中である。

これにて、小吉さんとの東海道の旅も終了である。

舟木一夫さんの芝居『気ままにてござ候』は、この後からの話となるのであろう。斎藤雅文さんの脚本である。

『夢酔独言』(勝小吉著・勝部真長編)のまえがきに、坂口安吾さんの『青春論』『堕落論』、大仏次郎さんの『天皇の世紀』に『夢酔独言』に触れているとする編者の一文も好奇心を誘う。

 

 

『夢酔独言』(勝小吉著)(1)

新橋演舞場の12月『舟木一夫特別公演』のチラシに、勝海舟の父である勝小吉の自伝『夢酔独言(むすいどくげん)』とあり、視線がとまった。歌舞伎でも、勝小吉をモデルとした、真山青果作の『天保遊侠録(てんぽうゆうきょうろく)』がある。今年の6月に歌舞伎座で上演されている。

勝海舟さんの『氷川清話』が面白かったが、父・小吉さんの『夢酔独言』がこれまた面白い。 勝海舟 『氷川清話』

勝海舟ありて、この親・勝小吉あり。勝小吉ありて、この子・勝海舟あり。と言えるであろう。とにかく好き勝手に自分の思うがままに生きた人で、自分のような生き方はするなと書き残したのが『夢酔独言』である。小吉さんは自分から渦を起こしていて、海舟さんは外からの渦の流れを見つめつつ、思うように生きた人である。人の見分け方は、同じ目を持っているように思える。

一番面白かったのは、やはり東海道中である。14歳で江戸から飛び出す。21歳で再び飛び出し、戻ったときには、座敷の檻の中の人となる。その三年間の間に字を覚えるのである。14歳の時は、何も知らずに世間に飛び出し、21歳の時は旅の経験も人生経験も積んでいるから、その道中の違いが面白い。

14歳の時は先ず江戸からでて藤沢で泊まっている。50キロは歩いていることになる。次が小田原、箱根の関所は旅人から言われお金で手形を手に入れる。その親切な人に浜松の宿で着ぐるみ奪われてしまうのであるから、このごまのはいは最初から手形を用意していたのかもしれない。

宿の亭主が柄杓(ひしゃく)を一本くれて、これに銭を一文ずつもらって伊勢参りをしてこいという。<おかげ参り><抜け参り>というのがあって、ひしゃく一本持って歩くと銭や米を恵んでもらえるのである。使用人が主人に黙って、子供が親に黙って伊勢参りに出かけ、お金がない場合はほどこしを受けつつ行くのである。小吉の場合は、上方へ向かったのであるが、ごまのはいに会い伊勢参りとなる。

伊勢の相の坂で、同じこじきから龍太夫という御師のところへ行けば留めてくれるといわれる。『伊勢音頭恋寝刃』の世界につながる。10月国立劇場の『伊勢音頭恋寝刃』の序幕に<伊勢街道相の山の場>があった。<間(あい)の山>とも書かれ、外宮と内宮の間で、この道にお杉とお玉という二人の女芸人が間の山節を歌って人気を得ていたらしい。お杉を蝶紫さん、お杉が梅乃さんが演じられていた。御師のことなど筋書に詳しく載っていたが、先に進まないのでこれくらいにする。

小吉さんが乞食が教えてもらった江戸品川宿の青物屋大阪屋の名は、御師にとってお得意さんであったのであろう。その名によって良い待遇を受けお札とお金をもらう。しかしまた乞食となり、府中(静岡)の宿へ着く。ここで、馬の乗り方を披露する。初めて小吉さんが旅で自分の技量を見せた場面である。宇津ノ谷峠の地蔵堂で寝たり、毬子の賭場へ連れていかれたりとこちらが歩いたところが次々と出てきて、風景が浮かび、夜の暗さが想像できて可笑しいやら、度胸の良さやら、体を壊し水杯の状態やらといやはや大変である。

今まで、生きてきた体で覚えたことを全部出し切り、そこに新しい体験を加えて、ぎりぎりのところを生きているのに、嘆きや弱音はない。死と隣あわせなのに、生しかない。そして人の意見はよく聞く。それでいながら、絡めとられずに、自分の生き方をつき進んでいく。

 

 

旧東海道の『丸子宿』『宇津ノ谷峠』での話題

JR静岡駅北口から200メートル先に旧東海道がある。そこから丸子宿を目指し、さらに宇津ノ谷峠を越し岡部宿となる。

府中宿は『東海道中膝栗毛』を書いた十返舎一九さんの生まれたところらしく、生家伝承地碑があるが、旧東海道からはそれているので確かめてはいない。駿府城跡地の駿府公園手前に札の辻跡がある。四つ辻にあった高札場である。

 

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七間町  家康が駿府96ケ町の町割りをした時のひとつ。道幅が七間。

 

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一里塚跡

 

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由井正雪墓碑

 

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丸子宿に入る前に大きな安倍川がある。安倍川を渡る前には安倍川餅である。柔らかくて美味であった。安倍川餅といえば、黄な粉であるが、黄な粉、あんこ、わさび醤油と三種類に舌づつみである。

 

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 安倍川義夫の碑   ある人夫が旅人の財布を拾った。旅人はお礼をしようとしたが受け取らない。奉行所が代わりに褒美を渡した。

 

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安倍川架橋の碑

 

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一里塚跡

 

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丸子宿の丸子川を渡る手前に<十返舎一九膝栗毛の碑>がある。その手前に<本陣跡><お七里役所跡>がある。西国の大名は江戸と自分の領国の間の通信網として七里飛脚を使っていた。五人一組の飛脚を<お七里所>に配置していた。この丸子の<お七里役所跡>は、紀州徳川家の<お七里役所跡>である。

普通便は8日で、特急便は4日で到着したそうで、毎月三回、江戸からは5の日、和歌山からは10の日に出発した。この日には飛脚が着くという日がわかっていたわけである。それ以外の日につけば、緊急であろうから受けたほうは緊張したことであろう。

 

本陣跡

 

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お七里役所跡

 

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そして丸子宿といえば、とろろ汁である。弥二さん喜多さんはこのとろろ汁が食べられなかったこともあってか<十返舎一九膝栗毛の碑>は、とろろ汁のお店の前にある。この日はそのとろろ汁のお店が休みで、弥二さん喜多さんと同じ運命かと思いきや、他のお店が開いていて無事食べることが出来た。満足。

池波正太郎さんは、岡本かの子さんの小説『東海道五十三次』の中で丸子宿でとろろ飯をたべている場面からどうしても食べたくなり丸子宿を訪れている。とろろ汁もであるが、岡本かの子さんの短編『東海道五十三次』も読めてこれまた満足である。

 

岡本かの子の碑

 

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京方見付跡

 

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丸子宿宇津ノ谷峠は、河竹黙阿弥の歌舞伎『蔦紅葉宇都谷峠』の舞台にもなっていて、是非ここは通りたいと思っていたのである。

 

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お羽織屋   秀吉から陣羽織を与えられた。

 

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歌舞伎の『蔦紅葉宇都谷峠』の紹介記事展示

 

 

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宇津ノ谷峠は、明治のトンネル、大正のトンネル、昭和のトンネル、平成のトンネルと時代ごとのトンネルがある。明治、大正は散策コースにもなっていて、さらに蔦の細道と幾つかの散策道があるが、こちらは、ひたすら旧東海道である。宇津ノ谷峠への登りがきつく大丈夫かなと思ったが登りが適当なところで終わってくれ、下りが長かったので助かった。

旧東海道を歩いていると距離の単位が<里>になっていて、言葉に何里とかでてくると、その遠さなどがすぐ体感できたりする。一里はなくても、高さがあると時間がかかるということも考慮に入れる。峠は薄暗く、やはり、川と峠は旅人の脅威である。そして、雨も。次の日雨となり、途中で早めに行程をあきらめて、駿府城見学に変えた。その夜、風が猛威を振るい箱根では木が倒れ、箱根鉄道は運休となったようである。

行くとき今回は富士山が全身を現してくれたのであるが、土色で何かぼやけてみえる。風のための土煙の影響であったようだ。

さて、今回、ツッコミを提供してくれたのは、テレビの『陰陽師』と映画『図書館戦争』である。『陰陽師』は、晴明と博雅の関係にブーイング。夢枕獏さんの『陰陽師』ではないとの結論。といっても、こちらは歌舞伎の染五郎さんと勘九郎さんのコンビを最高とおもっているので、原作と比較できない。脚色されるのは仕方のないことではあるが、原作を一冊読んだ。原作よりも、歌舞伎の晴明と博雅の微妙な関係のほうが味がある。やはり原作は読むべきである。『今昔物語』にも出てくる話しが書かれてあった。そして蝉丸さんが出て来た。あの世とこの世の境とされる<逢坂山>に庵を結んだと言われる琵琶の名手である。蝉丸さんが出てきてくれたことだけをとっても原作を読んでよかった。生きた人と人が作り出す芝居や映像は、原作とは違ってしまうのが宿命であろう。

かつては、原作派で、原作の良いものは、映像とか芝居は観る気がしなかったが、近頃は映像などで短時間でその概要を捕らえることが多くなった。原作を読む時間がないということ、集中力が低下して、本を読むのに時間がかかるのである。

映画『図書館戦争』は、原作を読んだ友人から、<図書館の自由に関する宣言>があるのを知っているかときかれ、知らないというと、こういうのがあるのだと教えてくてた。作家の有川浩さんも、<図書館の自由に関する宣言>を知ってそのことから作品の発想が生まれたようである。さっそく、レンタルする。不適当な本として取り締まる側とそれに抵抗し本と読み手の自由を守る人間とが戦争にまで発展してしまうのである。アニメ映画にもなっているらしい。原作は5巻くらいありさらに別冊が2巻あるらしく読むなら貸すといわれたが断る。今、その本を入れるゆとりがない。

映画ではやはり短すぎるが、こういう展開なのかということはわかる。

<図書館の自由に関する宣言>があるということを知っただけでもよかった。今、民間に図書運営を任せ問題点があることが住民から指摘されたりしている。資料として古くなったりしたものや、定説が新しい事が発掘され変更になったものなど、専門家の図書司書の方がきちんと調べてそろえたり、保存していくのが図書館の役目でもあるようである。そういえばこちらが調べたいことを察して、その関係ならこういう本もありますよと言ってくれた図書館の人もいたが、今はそんなこともない。ただし、個人情報として立ち入ることを避ける必要があるのかもしれない。

ただ、捜してる本の場所を見つけるのが、かつての係りの人はもっと早かったと思わされることは多い。

今夜、テレビで『図書館戦争』放送されるらしい。男女の背の高さが、かなり重要なポイントでもある。

TBSテレビ 21時~

旧東海道の言葉遊びとアニメ

井上ひさしさんが文を書き、さしえ絵は山藤章二さんの『新東海道五十三次』という本がある。言葉の好きな井上さんならではの言葉のことがたくさん出てくる。こちらとしては、井上さんと山藤さんの弥次喜多道中と思って購入したが、開いてみたら東京圏内での東海道体験では、つんのめるばかりで先に読み進めない。では府中まで進んだのだからと思って開くと少し楽しめた。

たとえば、江戸の寺子屋では、『都路』というのが教材として用いられていたそうである。どんなのかというと次のような文である。

都路は五十(いそじ)余りに三(み)つの宿、時を得て咲くや江戸の花、波静かなる品川や、やがて越えくる川崎の、軒波(のこは)並ぶる神奈川は、はや程ヶ谷のほどもなく、暮れて戸塚に宿るらむ、紫匂ふ藤沢の、野面に続く平塚も、ものの哀れは大磯か、蛙(かわづ)鳴くなる小田原は、箱根を越えて伊豆の海、三島の里の神垣や、宿は沼津の真菰草(まこもぐさ)さらでも原の露払ふ、富士の根近き吉原と、ともに語らん蒲原や、休らふ由井の宿なるを、思ひ興津の焼塩の、後(のち)は江尻のあさぼらけ、けふは駿河の府中行く

 

この調子で京まで続くのである。そして、この変形のひとつが明治期の「鉄道唱歌」ということである。この『都路』を覚えて次の東海道歩きのときには、紹介したいものであるが、暗記は苦手。コピーを渡すことになりそうである。

「道中新内節」というのもあって、

日本橋から二人連れ、七つ発(だ)ちにてやつやまをはなし品川いそいそと、磯辺伝いの鈴ケ森、古川薬師横に見て、わたしを越して川崎へ、ひとり行くとは胴欲な、晩に必ず神奈川(かんなかわ)

 

と続くのである。

枕詞東海道などというのもある。それが、戦争中カナダ人修道士が日本の収容所にいれられ、監督官が軍部から軍人勅諭を暗記させろと命令されたがあんなもの覚えても仕方がないから、むかし寺子屋で枕ことばを暗記するのに使ったものを教え、それを習ったカナダ人の修道士から井上さんが教わったのである。

おおふねの 沼津。あおやぎの 原。よしきがわ 吉原。あおやぎの 蒲原。さつひとの 由井。みさごいる 興(沖)津 ・・・

そこから、井上さんは枕詞に凝る。

岸恵子さん「いわそそぐ岸の恵子さま」。若尾文子さん「わかくさ若尾のむさしあぶみの文子さま」。五木寛之兄「みずとりのかもめのジョナサンしずたまき数にぞ売れしかきかぞう五木さん」。佐藤愛子さん「しろたえの月の光も照り負くる男まさりの愛子姉さま」などなど。

井上さんと山藤さんに比べようもないのが、こちらの東海道のお遊びはアニメの突っ込みであった。アニメ『バケモノの子』が面白そうというと、細田守監督のアニメ幾つかDVDになっているというので、ネタとして『時をかける少女』『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』を観る。アニメは実写の映画より突っ込みどころが沢山あり、道中には楽しいなぐさみとなる。時として突っ込みに夢中になり道を間違え暑い中をもどる羽目となってしまったりもした。

『時をかける少女』は、大林宣彦監督のとどう関係するのか尋ねたら、大林監督の続きがアニメ映画で、博物館で修復の仕事をしていた女性が原田知世さんで、アニメの方の時をかける少女はその姪にあたるのである。なるほど。

『サマーウォーズ』の旧家の素敵なお婆ちゃんの声は富司純子さん。『おおかみこどもの雨と雪』の頑固なお爺ちゃんは菅原文太さんの声である。『葛の葉』などは、狐が子供を産むのであるが、『おおかみこどもの雨と雪』は、人間が狐の子供を産み、その子は人間の世界で暮らしてもいいし、狼の世界で暮らしてもよく、子供が成長の段階で選ぶのである。子供が夢中になると、耳が出て狼のように走ったり発想が面白いと思ったが、かなり突っ込まれる。

ネタも必需品だが、テーピングも必需品である。箱根から三島への「下長坂」は「こわめし坂」とも呼ばれる急な長い坂である。あまりにも長く急な坂で、背負っていたお米が、汗と熱でこわ飯になったといわれる坂である。ここで足を痛めてしまった。なんとかテーピングで、次の日も歩くことが出来たのでホッとした。どういうわけかその日はテーピング持参していたのである。カンが働いたのか。ところがハサミがなくて、友人が爪切りを持っていてそれで引きちぎった。旅はなにがあるかわからない。くわばらくわばら旅まくら。

加藤健一事務所 『滝沢家の内乱』

『滝沢家の内乱』は再演である。2011年に加藤健一さんが劇団で100本目のプロデュース作品として選んだ作品である。『南総里見八犬伝』を書いた滝沢馬琴家の内幕である。

劇作家の吉永仁郎さんが、馬琴さんの残っている日記を探り、文字の演劇の馬琴像を作り上げた。あの『南総里見八犬伝』を書いた戯作者がどんな生活をしていたのか興味があるが、自分で日記を読んで馬琴像を作り上げる努力をする気がないので、吉永仁郎さんとカトケンワールドに任せることとする。

これが、面白かった。よく<面白かった>という言葉を使うと自分で自覚しているが、先ずは何かを食して「美味しかった。ご馳走様でした。」の感覚である。それから、味わいがあれば、何か言葉が生まれて来るであろう。

登場人物は、馬琴と、息子の嫁のお路である。初演も再演も、馬琴は加藤健一さんで、お路は加藤忍さんである。滝沢家の家族構成は、馬琴、妻のお百、息子の宗伯、嫁のお路、その後孫が二人と増える。お百は、高畑淳子さんが、宗伯は風間杜夫さんが声だけでの出演である。基本的に二人芝居であるが、声の出演の応援もあって、『滝沢家の内乱』がよくわかる。お百は神経の病気で宗伯も身体が弱く明るさの微塵もない家庭である。さらに暮らしは慎ましく、観ていると逃げ出したくなる状態である。

お路は二人の子を産み、筆記など出来ないほど目の不自由な馬琴に代わって口述筆記の代筆をして、『南総里見八犬伝』を完結させるのである。それが、7か月半の間で、漢字の書けないお路は漢字を馬琴から習いつつ書き上げるのである。初演のパンフレットに、代筆を始めたころの文字と八犬伝脱稿の文字の写真が載っていたが、信じられないほど美しい文字となっている。

再演のほうが、笑いが多くなった。なぜか。馬琴とお路の生き方のすれ違いである。それが顕著になり可笑しさを誘うのである。お路は、家族皆で話しを楽しむ家庭で育ち、『南総里見八犬伝』の作家の家に嫁にこれて、楽しい話しが沢山あるであろうと思ったのに、想像外のしつけに厳しく、倹約、節約の家である。お路の驚きと落胆、馬琴のお路に対する驚きと教育が、他人ごとなので可笑しい。お路の加藤忍さんが、どうすりゃいいのよこの私、バージョンである。

それに輪をかけて、声の出演だと思って勝手なこと言わないでよの高畑さんと風間さん。馬琴の加藤健一さんは屋根の上でしばし、現実を忘れるしかないのである。

お路さん次第に馬琴さんが、一人で滝沢家を守っていることが分って来る。世間で本が人気でも、その頃の戯作者の手にするお金は、今の流行作家の足元にも及ばない。さらに、滝沢家の内乱は、馬琴さんが戯作を書きたいう願望と息子を自分の思う方向に育てたいとの願望から生じた亀裂なのであるが、それは口にせず、お路さんは自分の役目を自覚する。そして、一度だけ、渡辺崋山が幕府からお咎めを受けた時、自分の気持ちを主張する。魅力的な女性である。馬琴さんが、ちょっと夢をみるのもわかる。

最期のお路さんの活躍は『南総里見八犬伝』の代筆である。お路さんが、滝沢家で我慢出来たのは、お路さんが『南総里見八犬伝』の読者であり、現実から逃避できたのは、『南総里見八犬伝』があったからで、漢字を知らないお路さんが代筆ができたのは、登場人物らがお路さんの中に生きていて、その名前などが漢字となる事に、お路さんは喜びを感じていたのであろう。ふりがなで読んでいたものが、自分で漢字を書くことが出来、登場人物との関係に新たな光がさし、読者として一番に八犬伝の先がわかるのである。これこそ、『南総里見八犬伝』の戯作者の家に嫁に来た時の自分の気持ちになれるのである。

演出の髙瀨久男さんがお亡くなりになられ、加藤健一さんが今回演出をされたようであるが、髙瀨さんの演出されたものに、二人の役者さんのさらなる演技が加味され、滝沢家の内乱は、より明確に個々を確立してくれた。偏屈であったと言われる馬琴さんも<馬琴の事情>として加藤健一さんの馬琴はよく判ったし、加藤忍さんのお路も大戯作者馬琴に負けないだけの生き方を示してくれた。『滝沢家の内乱』も<忠・孝・悌・仁・義・礼・智・信>をもって納まったわけである。

下北沢・本多劇場 8月26日~30日

滝沢馬琴さんは、江戸時代で亡くなられている。今、河竹黙阿弥さんと三遊亭圓朝さんが、江戸から明治を超えて生きたことに興味がある。

そして、やっと山田風太郎さんの『忍法八犬伝』に入れる。『滝沢家の内乱』を観てからと思っていた。山田風太郎さんのことである、滝沢馬琴さんもびっくりの世界であろう。

 

 

『春琴抄』

NHKBSプレミアムの『妖しい文学館 こんなにエグくて大丈夫?“春琴抄”大文豪・谷崎潤一郎』で、作家の島田雅彦さんが、佐助が眼に縫い針を刺す箇所の文章に言及されていた。

試みに針を以て左の黒眼を突いてみた黒眼を狙って突き入れるのはむづかしいやうだけれども白眼の所は堅くて針が這入らないが黒眼は柔らかい二三度突くと巧い工合にづぶと二分程度這入ったと思ったら忽ち眼球が一面に白濁し視力が失せて行くのがわかった出血も発熱もなかった痛みも殆ど感じなかった此れは水晶体の組織を破ったので外傷性の白内障を起こしたものと察せられる

 

島田雅彦さんは、金目鯛の目で試されたそうで、谷崎さんも試したのではと言われていた。そのことで面白い文を見つけた。

佐藤春夫さんは『最近の谷崎潤一郎を論ず 「春琴抄」を中心として』という文章の中で『春琴抄』を作品として高く評価している。そして、徳田秋声さんのこの佐助の失明の部分が不用意で痛くない訳がないとの意見に対し、佐藤春夫さんは専門家の意見を聞き、医学的には間違っていないらしいとしている。

さらに佐藤春夫さんは、谷崎潤一郎さん本人に尋ねている。「谷崎は自信に充ちた顔つきで、僕は専門家をそれも二人まで意見を微して安心して書いているのだからね」と書いている。

これらは失明の描写の問題であるが、作品の中での佐助の失明について、佐藤春夫さんは失明以後を好むとし、かれの小説は佐助の失明によって始まるとし「春琴抄」は寧ろ「佐助抄」であろうとしている。

佐藤春夫さんはさらに谷崎潤一郎さんに意見を言う。「作中の春琴の小鳥道楽の部分は甚だ手薄で間に合せな素人くさいものに見えたと言ってみると、すぐ兜を脱いで、あれはあんなに詳しく書かないですませて置けばよかったのに、とあっけなく承認してしまった。」谷崎さんは佐藤さんの自分の作品に対する意見を素直に認めているところに、佐藤さんと谷崎さんの関係が垣間見えて面白い。

谷崎夫人だった千代子さんが谷崎さんと離婚して佐藤さんと結婚したのが昭和5年(1930年)、谷崎さんが丁未子(とみこ)さんと再婚したのが、昭和6年(1931年)、『春琴抄』が発表されたのが昭和8年(1933年)、谷崎さんが丁未子さんと離婚して後の松子夫人と同棲したのが昭和9年(1943年)である。

佐藤春夫さんの『最近の谷崎潤一郎を論ず 「春琴抄」を中心として』が書かれたのが昭和9年(1943年)であるから、佐藤さんと谷崎さんの関係は良好で、佐藤さんにが谷崎文学を好意的に論じるだけのゆとりがあり、谷崎さんも佐藤さんからの意見を素直に受け入れる創作上の環境が出来たということである。

松子さんに対する谷崎さんの手紙は『春琴抄』の佐助である。佐藤さんが『春琴抄』は「佐助抄」であると言われた意見に賛成である。失明することによって佐助は、自分の中に永遠の<春琴>を完成させる。肉体関係にありながら最後まで師と弟子という関係を保つ。それは、失明しても<春琴>は永遠であり、失明することによってさらに研ぎ澄まされた<春琴>から学んだ<音>は常に自分の手の中にあり、再現できるのである。

佐助は春琴が亡くなってから21年後の同じ日に亡くなっている。この21年間のために<春琴>は存在してたともいえる。<春琴>も自分が亡き後、<佐助>のなかで生きる自分の存在を、佐助が失明した時悟ったのであろう。佐助が失明したのを春琴が知った箇所が次の文である。

佐助、それはほんたうか、と春琴は一語を発し長い間黙然と沈思してゐた佐助は此の世に生まれてから後にも此の沈黙の数分間程楽しい時を生きたことがなかつた

 

その後に例えとして、失明した悪七兵衛景清のことを書き足している。

佐助は、春琴に滅私奉公するが、きちんと検校となるだけの技量も会得している。現実離れしているが、きちんと土台も出来ていて、滅私奉公も耽美に描かれ、この辺りは谷崎さんの狡猾に構築された構成力と物語性である。

佐藤さんは、『春琴抄』に対する泉鏡花さんの受け取り方も書かれている。

「鏡花先生はめくらの女の琴の話の出るのは朝顔日記以来閉口(何でも少年時代にでもへたな村芝居か何かでいやな印象を得てしまったらしいので)で、好きな作者のもので少しでもいやな気がするのは不本意で読了せぬと理由は先生らしい特別なもので」「好きな作者のものでいやな気がしたくないというのは尤も千万な心理と僕にもうなずける。」

『春琴抄』から、作家達の感想、谷崎作品の分析、谷崎さんとの直接の会話など、作家佐藤春夫さんならではの文であった。この佐藤さんの文があるから、折り畳まれた『春琴抄』を開いてみたが、不用意な開きかたでありながら、手を離せば何もせずとも元の『春琴抄』にもどる力がある作品なので、安心して遊ばせて貰った。

 

 

映画『TOMORROW/明日』『美しい夏キリシマ』

岩波ホールの企画『戦争レクイエム』<戦後70年特別企画 黒木和雄監督4作品+α>のおかげで、観ていなかった『TOMOURROW/明日』と『美しい夏キリシマ』を観ることが出来た。

『紙屋悦子の青春』を観たあとに、『私の戦争』(黒木和雄著)を読んだが上手く頭に入りきらない部分があったが、『TOMOURROW/明日』、『美しいキリシマ』、『父と暮らせば』を観てから読み返すと岩波ジュニア新書版ということもあって、映像と監督の思いが重なって嬉しいほど想像力が加速する。

『TOMOURROW/明日』(1988年)は長崎に原爆か投下された1945年8月9日午前11時12分の24時間前の結婚式に出席した人々の日常が描かれ、その24時間と同時にそこまでつながっていた人々の命が一瞬にして、この世から消えてしまったということである。それぞれの生きてきた道が、光と共に消失してしまう。結婚し、これから、お互いの気持ちが解かり合えると予感させる新婚夫婦。8月9日にやっとこの世に誕生した小さな生命。まだ誕生していないが、そのことを相手に伝えられない女性。毎日、路面電車の運転手の夫にお弁当を届ける妻。赤紙の来た恋人同士。捕虜収容所に勤務する青年。結婚式の写真を撮った花婿のもと父親。その写真に写された人々が写真と共に消えてしまう。長崎弁が、日本という国にそれぞれ存在している生活のなかの言語を主張する。

この写真に写っていた人々を代表者として、生きていた証として黒木監督は映画を撮られたのであろう。物言わぬ人々への鎮魂の一つの形であり、それを観たことによって、鎮魂の一つとして隅のほうに位置できればよいのであるが。

「1945年7月16日、人類史上最初のプラト二ウム爆弾の実験がアメリカのニューメキシコ州アラモゴードの砂漠で行われたました。7月23日には、広島、小倉(現北九州市)、新潟の順で攻撃目標が選定され、準備が整い次第、気象条件さえ許せば、8月1日以降いつでも攻撃できるということになったのです。」

4番目として京都が候補にあがるが古都ということで、軍需産業の街長崎となる。その日、第1目標が小倉、第2目標が長崎。小倉上空は断続的に雲でおおわれ、2日前の八幡製鉄所を爆撃した硝煙がながれ目視爆撃ができなかった。目標を長崎にかえる。雲の切れ間に三菱長崎兵器製作所をとらえ投下。長崎には、連合軍捕虜が500人収容されていた。アメリカはそれも承知していた。(『私の戦争』より)

 

原作・井上光晴(「明日ー1945年8月8日・長崎」)/監督・黒木和雄/脚本・黒木和雄、井上正子、竹内銃一郎/撮影・鈴木達雄/音楽・村松禎三/出演・桃井かおり、南果歩、仙道敦子、大熊敏志、黒田アーサー、佐野史郎、岡野進一郎、長門裕之、殿山泰司、草野大悟、絵沢馬萌子、水島かおり、森永ひとみ、伊佐山ひろ子、なべおさみ、入江若葉、横山道代、馬淵晴子、原田芳雄、二木てるみ、田中邦衛、賀原夏子、荒木道子

 

『美しい夏キリシマ』(2002年)。題名のようにキリシマの自然は美しい。しかし、霧島連山が邪魔をして沖縄を隠しているとして、孤児になった沖縄の少女は引き取られた遠い親戚の屋根に登って、霧島連山の見えない先を見ようとしている。

この作品は黒木和雄監督の自伝のような映画でもある。黒木監督は満州国からの引き上げ者で、満州国という日本の後押しで作られた国を子供の目から実際に見ている。日本へ帰ってから、登校拒否児の形となり映画ばかり観て、家族と別れ、宮崎県えびの市の祖父母のもとで生活する。国民勤労動員令により、都城市の航空機の工場に動員され寮生活を送る。1945年5月8日米軍機の爆撃で級友が11人なくなってしまう。その時、友人を救うことをしないで逃げてしまった。

「頭が、ざっくりと真ん中割れて、脳漿があふれてくる瞬間を見たような気がします。両手を私のほうにさしのべて、「たすけてくれ・・・・」というようなしぐさをします。眼は空をみつめて放心して・・・・。ただただ恐怖のあまり、私は立ち上がるやいなや、後ずさりすると、そのまま夢中で走り出しました。」

この後この中学生は、学校にいくことができず、いまでいえば、PTSD(心的外傷ストレス)で医師の診断は肺浸潤ということで、家でぶらぶらすることとなる。祖父が、地主で女中さんがいるような、中学生にとっては違和感のある家であった。

この、ぶらぶらした中学生が見た終戦までの自分の周辺の人々の「美しい夏キリシマ」の生活である。どう生きればよいかわからない中学生の主人公を、柄本佑さんが、演技しているのかしていないのか、主人公そのままの中学生として、映像の中に存在している。助けなかった級友の妹が、屋根の上の少女で、彼女にどうしたら兄を見捨てた自分を許してくれるか尋ねると、妹は「敵をとって」という。主人公は、敗戦となり、ジープとともにゆっくり美しい村の道を歩く米兵に竹槍で一人突き進むのであるが、相手にされず道路から下に転がされてしまい笑われてしまう。主人公は叫ぶ「殺せ」と。米兵は、ライフルを上に向けて撃つ。その時、主人公に見えていた蝶が撃ち殺されてしまう。

霧島連山を望む田の稲は青々と優しく風になびいている。

この村にも敗戦までの夏、生きるために人々には様々なことがある。自分自身さえ支えられない主人公は、キリストの絵を自分の部屋に張り、回答を求めているようでもあるが、人の質問にも、そうとは思わないという能動的な回答しかできない。現実の捉え方ができないので、憲兵にも、解からなとしか答えられず鉄拳をうける。主人公だけでなく大人もどう捉えたらよいのかわからない状態だったのである。

 

監督・黒木和雄/松田正隆、黒木和雄/撮影・田村正毅/音楽・松村禎三/出演・江本佑、原田芳雄、左時枝、牧瀬里穂、宮下順子、平岩紙、石田えり、小田エリカ、倉貫匡広、中島ひろ子、寺島進、入江若葉、香川照之

 

黒木監督はドキュメンタリーやPR映画を撮っていて、劇映画の撮影所には入ったことがない 。

「ああ、劇映画というのは誰でも撮れるのだ。文法というのはあまり必要ないのだ。多くの映画を観て、自分が撮りたいものを撮ろうとすれば劇映画はなんとか、できあがるものだ。何も撮影所にはいって巨匠について学ばなくても、劇映画のイロハ、ABCを現場で覚えなくても映画館こそが学校ではなかったのか」

そう思わせたのが、ジャン・リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』とアラン・レネ監督の『二十四時間の情事』である。映画監督となった黒木監督は自分の仕事で亡くなった級友たちの代弁をされ、生き残った者と戦争の犠牲となって亡くなられた人々との交信を映画という媒介を通して教えてくれている。

さらに黒木監督には、撮りたいものがあった。

「じつは私は25年以前から、28歳10カ月戦病死した天才映画山中貞雄を主人公にし、山中の戦友で脚本家の三村伸太郎との友情と確執を描いた企画をあたため続けています。」

残念ながら撮る時間が黒木監督には残されていなかった。

『僕のいる街』は、1989年に撮られた短編である。銀座の空襲で一人だけ亡くなった泰明小学校の少年が、幽霊として現れ、戦争をはさんでの前、中、後、現代の銀座の路地などを歩き走り周るのである。映像と写真の中を。銀座という街が通過した時間がわかる。

長野の棚田、姨捨(おばすて)に行ってきた。青々とした田が観たかったのである。太陽の日を受けて緑が美しかった。美しさと暑さが比例していた。この青さを眼にしたかったのだから仕方がないが、暑さのため棚田は一時間弱しか歩けなかった。映画のキリシマの稲と信州の稲の色が重なる。

 

 

『画鬼暁斎展』幕末明治のスター絵師と弟子コンドル

鹿鳴館の設計者であるジョサイア・コンドルと絵の師である河鍋暁斎のジョイント展覧会である。開催されている<三菱一号館美術館>はコンドルの設計したときの建物の解体後に再建されたレプリカである。

展覧会には、鹿鳴館の階段の一部が切り取られた形で展示されており、暁斎の<河竹黙阿弥作「漂流奇譚西洋劇」パリ劇場表掛りの場>の行灯絵があり、明治の一部分も見せてくれる。

河鍋暁斎さんのこと、そして、ジョサイア・コンドルさんとの関係を知ったのは  河鍋暁斎とジョサイア・コンドル (1)  からである。

そのあと、埼玉県蕨市にある『河鍋暁斎美術館』も訪ねた。今回の展覧会は、師弟二人の作品が観れるわけである。

コンドルさんは建築家でもあるので設計された図もあるが、こちらの興味は絵と、日本舞踊家であった奥さんと踊られた時の『京人形』の時の写真などである。京人形の扮装のくめさんの指に三つほど指輪をしているのが面白い。コンドルさんも彫り師の扮装である。『鯉の図』の鯉の目を見て、金目鯛の目を思い出す。これは、谷崎潤一郎さんの『春琴抄』のことに関係するのであるが、後日書くこととする。暁斎さんの<鯉>の絵は口を開けていてその口の強調と詳細さ、水を動かして泳ぐ律動感ある水面の描き方などに惹きつけられるが、コンドルさんは、穏やかな絵である。

暁斎さんと旅を共にし師の絵を描く姿を描かれているが、絵も描書き方もスケッチということもあるのか、絵の中の暁斎さんも力の抜かれたもので、狂画師の趣きはない。

暁斎さんのほうは、才能のほとばしりが感じられ、展覧会での解説でもかつては評価が難しかったとある。美人画なら、美しく描けばそれで評価の高い作品となる腕があるし、そうした作品もある。ところが、それだけでは暁斎さんはあきたらない。美人の眺める先には沢山のカエルが描かれていたり、美人のそばに飾りものではない動物の姿が加わっていたりする。美しい太夫も『閻魔と地太夫図』となる。

鳥花図や自然の中の動物も、生きて行くための狩りや弱肉強食の世界がある。花が美しく咲き、うさぎがそれを愛でていると思ったらその下には蛇が頭を持ち上げて待ち構えている。鷲がゆうゆうとその雄姿を誇っていると思うと、その下では、猿が頭を抱えて震えている。赤い柿を狙う鴉。蛙を口に咥える猫。戸隠神社の中社の帰りに出会ったという生首を加えた狼の絵。

そうかと思うと、楽しい鳥獣戯画的作品がある。『風流蛙大合戦之図』『猪に乘る蛙』など。

さらに、『鷹匠と富士図』は、鷹を手に、富士を眺めている穏やかな鷹匠の後姿。子供が盥に入れた金魚と遊びその後ろで木に縛られた亀が何んとかして逃れようとしている絵。あらゆる感情を喚起してくれる絵の数々である。

コンドルさんは、噺家の圓朝さんの落語を書き起こしていたが、暁斎さんの幽霊の絵は『牡丹灯籠』の新三郎にまとわりつく幽霊のお露さんを見たという伴蔵の話しから想像する幽霊を思い出す。美しいのとは反対のあばら骨の見える恐ろしい姿である。こちらも『牡丹灯籠』は読み終わったのだが、新三郎の住んで居た根津の清水谷はどの辺りかと思っていたところ根津神社のすぐそばらしい。本に地図があったので、森鴎外さんの作品散歩の時、二つ合体で楽しむこととする。

鴎外さんが大正6年に総長となった帝室博物館の東京帝室博物館はコンドルさんの設計で、この時はまだ現存している。関東大震災で崩壊してしまう。この大正6年に竣工したのがコンドルさん設計の、古河虎之助邸で、現在の旧古河庭園にある洋館である。

暁斎さんもコンドルさんも多くの現物が失われているが、残されているもので今も、まだまだ楽しませてくれている。暁斎さんは観るたびに、どうしてこの作品からこの作品に飛ぶのかと、その腕と想像と創造力に呆れさせてもらっている。分類、分析などを超えたところに暁斎さんの楽しみ方があるように思う。

 

 

映画 『父と暮せば』

原爆を主題とした映画の中で、多くの会話で構成されている映画が『父と暮せば』(2004年)である。井上ひさしさんの原作で舞台化され舞台のほうは観ている。これを映画にしたのが、黒木和雄監督である。

黒木監督は、『私の戦争』(岩波ジュニア新書)の本も出され、自分の戦争の体験と映画への想いを語られている。今、岩波ホールで黒木監督の戦争を題材とした映画が四作品と劇場初公開の短編が上映されている。そのチラシにも載せられているのが次の文である。

これは大事なことですが、私たちの現在の日常の中に「戦時下」のあの日々の姿が形を変えて、再び透けて見えてくるような危機感を私はいだきます。これが「昭和ひとけた世代」特有のとりこし苦労であることを願います。(「私の戦争」より)

 

黒木監督が映画化されたのは、舞台『父と暮せば』を観られ、海外でも公演されているが映画のほうがもっと多くの人々にこの作品を観てもらえると考えたからで、井上ひさしさんも自由に撮って下さいといわれている。

広島原爆から3年たち、1948年夏の火曜日から金曜日までの四日間の父と娘の交流である。実はこの父は広島原爆投下の日に亡くなっているので、幽霊ということになるが、途中で観客はそれに気がつく。なぜ幽霊なのか。戦争や大きな災害などを体験された方は、その現実を共有した人とではなければ、そのことを語ることが出来ないほどそれぞれの心に大きなものを抱えておられる。原爆病との闘いをしつつである。

娘は恋をするが、同じ原爆の体験をして亡くなった方達に、生き残ったことへの罪悪感や後ろめたさがあり、倖せになることを拒否してしまう。その娘の気持ちの解かる亡くなった父は、恋の応援団として登場し、娘の気持ちを全て話させるのである。

終戦から70年、話すことを拒まれてきた方々も、忘れられる戦争について、これではいけないのではと、思い出したくない気持ちを抑えられ話し始めておられる。

原爆投下から3年目の設定で、話し相手を父の幽霊としているのが、井上ひさしさんの被爆者されてこれから生きて行かれる方々への想いがある。

娘の恋する心から父は胴体が出来、手足が出来、心臓が出来て姿を現すのである。日常生活を共にしつつ、娘と父は語り合う。この会話は、井上ひさしさんが2年かけて調べ、被爆された方々の手記を読まれ、それらをもとにして組み立てられた言葉の数々である。舞台はその息遣いが伝わるが、映画は、その言葉が頭の中で、文字となってひと言ひと言が浮かぶ。

原爆の熱は、すぐ頭の上で太陽が二つあった熱さであり、爆風は音より速い。原爆かわら。熱さのためにかわらが溶けて毛羽立ってそれが冷えてトゲのように表面に残っている。水薬ビンが溶けてぐにゃぐにゃになりそれが冷え固まった形となっている。爆風でことごとく窓ガラスなどが割れ飛び散り人の身体に刺さったガラスの破片。これは、原爆記念館から借りて来られたのかと思わせるが、小道具係りの方が苦心して作られたもので、映像でみることにより想像を実感に近づける。

娘の恋人は、こうした品物や原爆の資料を収集し保存することの必要性を感じている。当時進駐軍の目が光り、図書館に勤務する娘は原爆の資料を集めることが、困難なことを知っている。

娘の恋人は岩手出身で、娘は民話の語り聞かせのボランティアを女専の学生時代からやっており、宮沢賢治が好きで特に詩が好きで、父に「星座めぐりの歌」を歌って父に聞かせる。父はエプロン劇場と称して一寸法師が、赤鬼のお腹の中で、原爆かわらでおろし器のようにお腹を傷つけ、人の身体に食い込んだガラスの破片で攻撃する。そして、自分で作った星の歌などを歌い、娘に様々の考え方のあることをそれとなく教える。

娘は、父との最後の別れから自分が生きて来た3年間を語り、父から、亡くなった者はその問題は解決済みで納得していることを語る。父の死後3年間、自分の生きてきた事を認めてもらい 娘は踏みだせるのかもしれない。

「おとったん、ありがとありました。」

広島弁が、何とも切なく、優しく、特別の響きがある。

娘の宮沢りえさんが、思いを込めて丁寧に丁寧に演じ、父の原田芳雄さんは、娘の細い美しい線を、いびつでもいい、太さが違ってもいいと介入していくところに父親の想いを込めている。恋人の浅野忠信さんの物静かさも、父と娘からの言葉で形作る人物像を浮き彫りにさせる。

美術監督が、木村威夫さんで、『紙屋悦子の青春』も木村さんであるが、台詞を邪魔せず、登場人物の位置関係の流れを生かす配置で、心も写す。

撮影/鈴木達夫、音楽/松村禎三

岩波ホール 8月1日~8月21日 <戦争レクイエム 黒木和雄監督>

『TOMORROW/明日』『美しい夏キリシマ』『父と暮せば』『紙屋悦子の青春』 (18時30分上映は『ぼくのいる街』併映)