映画『岳 ーガクー』・テレビドラマ『學』

山岳映画の一つに『岳 ーガクー』(2011年)があるのを知りました。原作は石塚真一さんの漫画『岳 みんなの山』ということで、原作を読んでいないのですが、映画に出てくる主人公・島崎三歩がいつもニコニコしていて、救助した遭難者に「また山にきてよね」と声をかける様子から<みんなの山>となるのかなとおもいましたが、映画のほうは、一人の女性遭難救助隊員の成長とそれを助ける三歩とのからみ、そして遭難救助隊の仕事の在り方などを映像化しています。

観ていておもったのは、映画『劔岳 点の記』は明治時代でしたから、山に登るための装着の違いです。そのため山に登る技術も相当進歩しているのですが、その分山に対する生身の感覚が甘くなっているのではないかということです。ヘリも飛ぶし遭難救助隊の技術と使命感はしっかりしていても、自然の驚異に対しては、二次災害を起こさないの鉄則があります。<みんなの山>はどこまでなのかは山を登る人の意識が大切だとおもいます。

ニコニコの三歩(小栗旬)にも、無二の親友を山で失った体験があります。山岳遭難救助隊に勤務する父を山で亡くした椎名久美(長澤まさみ)は、自分も長野県警山岳遭難救助隊に入隊します。そこで、山岳救助ボランティアの三歩に出会うのです。

三歩はフリーの時間に久美に山のことを教えます。その時、山に捨ててはいけないものの一つを久美に宿題にし、久美が経験していくなかでそれは<命>と教えます。この言葉に久美は遭難救助隊の役割を意識し頑張るのですが、自分が遭難し救助ヘリの牧(渡部篤郎)に「アマ!」と言われたり、隊長の野田(佐々木蔵之介)の命令を聴かず、結果的に三歩に助けられたりします。

野田隊長は山が爆弾(雪崩)の起きる状態のため、遭難者を救助中の久美がいることを知りつち救助を中止します。三歩は散歩してきますと山に向かい、雪崩に遭い、久美は遭難者とともにクレパスに落下してしまいます。久美の父はクレパスで亡くなっているのです。雪崩から這い出した三歩は久美たちを探しあて、天候も変わり<命>は捨てずにすみました。

映画の内容としては、少し甘いとおもいますが、三歩が、かつて救った遭難者と山で再会し「感動した!」と抱きつくのが、「みんなの山」としての三歩の山に対する愛が表現されているのでしょう。次の展開が観ていてわかってしまうのも、物足りなさを感じさせられます。リュックからもの一つ出してもそれは命につながる道具成り装置なのでしょうから、そういう出し方なども工夫して映して欲しかったです。実写の場合、漫画よりもリアルさを出せる技術があるわけですから。

夢の中ででも、三歩が山に囲まれ満喫しつつ「あっち!」と飲むコーヒーの空間は体験してみたいですね。実際には登れない高さですから。

監督・片山修/原作・石塚真一/脚本・吉田智子/撮影・藤石修/音楽・佐藤真紀/出演・小栗旬、長澤まさみ、佐々木蔵之介、渡邊篤郎、石毛良枝、宇梶剛士、ベンガル、石黒 賢、石田卓也 矢柴俊博、やべきょうすけ、浜田 学、鈴之助、尾上寛之、波岡一喜、森 廉、ベンガル

 

』。こちらは同じ<ガク>の音ですが、カナダのローキー山脈の中を14歳の少年がサバイバルで生き抜き、里にたどり着く話しです。飛行機が墜落したのではありません。祖父の命をかけての、少年の生きる力をよみがえらせる想いだったのです。

WOWOW開局20周年記念番組(2011年)で、倉本聰さんの脚本によるテレビドラマです。倉本聰さんが、1992年に執筆したのですが映像化されなかった作品です。おそらくロケのことなどが障害としてあったのでしょう。ただ作品は今でもリアルにうったえるテーマです。

飛行機の中でイヤホーンをして指を動かす少年が、隣の老人から「學、シートベルトを締めなさい。」のセリフから始まります。少年は風間學(高杉真宙)。老人は學の祖父・風間信一(仲代達矢)です。

信一は元南極越冬隊員で、カナダに住むその時代の友人・モスを訪ね、そこからヘリでロッキー山脈に降ろしてもらい、一週間後に迎へに来てくれることを約束します。二人だけになった學と信一。信一はここから歩いて帰るとどんどん進んでいきます。學は一切言葉を発しません。

學は父親が商社マンで両親はニューヨークに住んでおり、ひとり東京で生活していました。ある日、知り合いの家の女の子(4歳・ユカ)なのでしょう、椅子に乗っかり机に上にある學のパソコンをいじっているのです。「何をしてるんだ!」と女の子を突き飛ばす學。學にとってインターネットは一番大切なものなのです。女の子は飛ばされ打ちどころが悪く亡くなってしまいます。パソコンはデーターが全て消えたことを表示します。そのことしか頭にない學は、女の子を段ボールに詰めゴミ捨て場に運びます。それが発覚し、両親は世間の非難から逃れるように自殺してしまい、學は北海道に住む祖父母に引き取られます。祖父にも祖母・かや(八千草薫)に対しても一言も言葉を発しません。

ロッキー山脈で祖父は自分の命を絶ち、一人で生きて里までたどり着けと手紙を残します。祖父は學に北海道の大雪山で、一年間自然の中で生きる方法を教えていました。少年は何も聞いていなかったのでしょうが、祖父はどこかにその体験が残っていることを信じ、自分が癌のため長く生きられないことを承知しての実行でした。

右往左往する少年。初めて発する声。少しずつ祖父の言葉を手繰り寄せていきます。先ず自分のいる位置を確認しろ。火のおこし、蛇を捕まえて焼いたり、木の皮やツルで紐を作ったり、罠を作り鹿を捕まえ「お前が憎いのではない」と殺し、それを解体し保存したりします。出しては読む祖父が祖母に書いた手紙。「學を頼って生きろ。」

信一からの手紙を受け取ったモスは捜索を頼みます。祖父の亡くなった場所には十字架が立っていましたが、探しあてることが出来ず捜索中止となります。

大きなグリズリーとの遭遇。力尽きた學の前に現れる亡き祖父。「まだナイフがあるじゃないか。川に乗れ。」ユカも一緒に現れて「頑張ってお兄ちゃん。」ユカはその前にも現れていて自分のお墓に遊びに来てと伝えていました。

學は祖父に「ユカちゃんの家族に謝って罰を受けたい。」とも伝えます。學は筏を作り川を下っていきます。筏が壊れればまた作り、そしてモスの待つところまで到達するのでした。モスには手紙をもらったとき、信一のすることが理解できませんでした。ただ學がここへくることを信じるだけでした。モスにも、過去にベトナム戦争で友人を誤って殺してしまい、その妹・マギーと結婚し、許しをこうというよりマギーを愛するという力を得ていたのです。

信一は、そうした友人であるからこそ、學の生きる力を得たあとにモスのもとにたどり着くことを願ったのです。學は、祖父から祖母への手紙をモスに差し出します。ぬれて乾かしたり、火を起こす時燃やそうとして代わりにお札を燃やして守って来た手紙でした。

生きていくことに必要なものは何なのかをテーマにし、壮大な自然を前に生きていく少年の姿を通して問いかけています。人間以外の多くの生き物が人間が生きるために命をさしだしてくれています。その命を受けながら、人間が人間の命を奪うというのは何なのか。何かが欠落しているのではないか。どこかの感情が壊されているのではないか。その感情が壊されてしまう状況がどこにでも存在しているのが感じられる現代です。

悠久の宇宙のなかで小さな自分の立っている位置を確かめる必要性を感じさせられるドラマでした。世の中動いてますからたえず自分の位置を確かめないと流されて終わってしまいそうです。などとおもいつつ大根の葉刻んで炒めています。関係があるのか無いのかそれが問題だ。

監督・雨宮望/原作・脚本・倉本聰/出演・仲代達矢、八千草薫、高杉真宙、勝村政信、松崎謙二、山本雅子

 

 

テレビドラマ『天切り松 闇がたり』

「近代文学館 夏の文学教室」での浅田次郎(作家)さん(三日目 三講時)の講演は『「天切り松 闇がたり」の大正』でした。

小説『天切り松 闇がたり』関係の参考本に『天切り松読本』(浅田次郎監修)がありまして、作品に出てくる、浅草、上野、本郷、銀座、丸の内等の地図や写真が掲載されてい風景が具体化されて面白いです。<天切り市電マップ>というのもありまして『天切り松 闇がたり』はもちろんですが、ほかの作品でも市電がでてくれば参考になるとおもいます。〔洲崎〕とあれば映画『洲崎パラダイス』が浮かびます。

さらに『天切り松 闇がたり』上演一覧というのがありまして、すまけいさんと鷲尾真知子さんとの朗読劇が載っていました。このお二人の朗読劇でこの小説を知ったのです。沁みる朗読劇でした。テレビドラマにもなっていまして、そのことは、『天切り松 闇がたり』第三巻(集英社文庫)の解説を十八代目勘三郎さんが書かれていてテレビドラマとなることに言及していますが、このテレビドラマがDVDになっていたのです。

2004年7月30日放映(フジテレビ) 監督・本木克英/脚本・金子成人/出演・松蔵(中村勘九郎・18代目勘三郎)、安吉(渡辺謙)、栄治(椎名桔平)、寅弥(六平直政)、志乃(篠原涼子)、きよ(井川遥)、永井荷風(岸部一徳)、東郷平八郎(丹波哲郎)、逆井重美(中村獅童)他とあります。

嬉しいことにとんとん拍子に動いてくれて、DVD、レンタルできたのです。

テレビドラマ『天切り松 闇がたり』は、「黄不動見参」「百万石の甍」「昭和俠盗伝」「衣紋坂から」が編集・脚本されて、松蔵が語ります。

警察の留置所に出入り自由の村田松蔵は、今夜も雑居房で六寸四方にしか聞こえない夜盗の声音、闇がたりで自分の歩んできた道を語っています。

松蔵は、盗賊の安吉一家に九歳のとき預けられますが、親分から黄不動の栄治に修業をまかされ天切りを教えこまれます。天切りとは江戸時代から続く屋根を切って忍び込む夜盗の技なのです。黄不動の栄治は、手広くやっている建設会社花清の妾腹の子で、母子は体よく追い払われ、口は悪いが腕のいい棟梁に育てられ一通りの大工仕事はしこまれています。

花清は実子を亡くし、前田侯爵を通じて安吉親分に栄治を花清の跡取りにと話しがありますが、栄治は前田侯爵邸から仁清の色絵雉香炉を盗み、育ての棟梁に急ぎ汚い長屋に床の間の部屋を普請してもらいます。そこに香炉を鎮座させ、棟梁の腕を花清の実の親に見せ、あるべきところにあるという心意気をみせ、栄治は後継ぎの話しを断ります。

修業は積んだが大きな仕事のやっていない松蔵が奮い立つときがきました。兄貴分の寅弥は二百三高地で戦った経験から、「どんな破れかぶれの世の中だって人間は畳の上で死ぬもんだ」という想いがあります。ところが大切に世話をしていた上官の子供の姉弟の弟に赤紙がきたのです。怒る寅弥。寅弥に頼まれ姉弟の面倒を見て来た松蔵は決心します。

「生きた軍神」の東郷平八郎が持つ大勲位菊花章頸飾(だいくんいきっかしょうけいしょく)を盗みだすことでした。東郷平八郎の寝屋に忍び込んだ松蔵は眠りを継続させる栄治兄貴から習った息移しに失敗し、東郷平八郎は目を覚ましてしまいます。そこで松蔵は話します。勲章をお借りしたいと。

「紙切れ一枚でしょっ引いて親、兄弟を泣かせるお上の仕方は女郎屋の女衒と同じ心だと存じます。だが俺たちは表立ってお上に邪魔立てできゃしねえ。戦に駆り出される若いものに、そんな勲章なんて欲しがるなと言って送り出してやりとうござんす。」

東郷平八郎は、承諾する。誰に盗られたのかを本名を言うわけにいかないからと、<天切り松>と二つ名をつけてくれるのです。忠犬ハチ公の除幕式がありその銅像のハチ公の首に勲章が架かっていました。

松蔵の子役の場面が続くなかで、この話しは勘三郎さんの松蔵でやはり見せてくれます。闇がたりの松蔵はかなりの老年になっており、それはそれで勘三郎さんの話術の聴かせどころですが、若い松蔵の動き、感情の導入や押さえなど、期待していた演技力と台詞です。こういうところを突き抜ける勘三郎さんのその後が観たかったです。

留置所の新入りの逆井を諭すように、おまえは女衒とおなじだと姉・さよが吉原に売られそれを捜しあてた時の話しをします。松蔵は吉原の遊郭の息子と友達となり姉が白縫花魁となっているのを知ります。兄貴分の寅弥が日にちをかけて花魁のもとへ通い身請けし、松蔵はむかえに行きます。その時姉は、スペイン風邪にかかり助からない状態でした。

雪の中姉を背中に結わえておぶり姉の言われるままに三ノ輪に向かいます。背中で姉は亡くなり、途中で永井荷風に会い浄閑寺を教えられます。追いかけて来た遊郭の息子と永井荷風と松蔵の三人は、姉のために「カチューシャの歌」を歌います。

役者さんも揃い、テレビドラマとしても『天切り松 闇がたり』を充分味わわせてもらい満足でした。

原作に出てくるような大正時代の建物を映すことが出来ないので映像的に苦労するところですが、その分、勘三郎さんの滑舌がものをいいました。松蔵があこがれる安吉親分の渡辺謙さんと栄治兄貴の椎名桔平さんも大正時代のお洒落なダンディズムがあり、寅弥兄貴の六平直政さんは怖い顔をして情あらわすことで違う風を吹かせます。丹波哲郎さんの達観したような動じない老境さも魅力的でした。

そんな人々に自分は作られてきたのだという松蔵の恍惚感と使命感が闇のなかで妖しい光を放っていました。

こう涼しい夏の夜ともなれば、『天切り松 闇がたり』を開き、勝手気ままな一夜を愉しむのもいいかもしれません。

 

「芸人たちの芸能史」(永六輔著)

黒柳徹子さんのエッセイをもとにした『トットてれび』(NHK)という番組を楽しみにして見ていた。途中から見はじめたのではあるが、『夢であいましょう』の生の収録の様子などはみることができた。

リアルタイムで『夢であいましょう』を見ていたころはタイトルの出だしから、今日はどんな工夫なのであろうかと毎回楽しみであった。今日は渥美清さんの名前があるから中島弘子さん絶対笑わせられるななどと終わりに期待し、坂本スミ子さんが出てくると大人の女性を感じ、黒柳さんの変身に笑い、ジャニーズの踊りを楽しみにし、気に入った今月の歌が終わるのが残念であったり、時には今日は退屈だったと気乗りしないときもあったりの30分であった。

その番組の裏の様子がテンポよく伝えられ、黒柳さんと向田邦子さん、渥美清さん、森繁久弥さん等とのあいだがらも、ほどよい距離感で伝えてくれた。

そのテレビの創成期に欠かせないかたである、永六輔さんが亡くなられた。病気でありながら仕事を続けられラジオをやめられたときは、身体的にかなり負担な状態になられたのであろうかと残念であった。

放送作家であり、作詞家であり、様々な芸能を紹介し、旅で出会った人々の生活の様子を伝えたり、本もたくさん出されていたりと、自分の想いを様々なエッセンスを加味して伝えられたかたである。

本の一冊に『芸人たちの芸能史 河原乞食から人間国宝まで』がある。大宅壮一さん監修の<ドキュメント=近代の顔2>となっている。47年ほど前に書かれたものである。

この本での芸能史は、永さんならではの構成である。芸能史の研究家ではないので独断と偏見にみちているが、芸能を差別することはしないし、区別もしたくないとしている。

「第19回NHK紅白歌合戦」の進行状態を軸に、あらゆる芸の話がでてくる。相撲、野球、プロレスのスポーツからバレエ、落語、漫才、奇術、ボードビリアン、浪曲、活弁、新派、新劇、新国劇、宝塚、前進座、歌舞伎、色物、民謡、歌謡曲ら、出演歌手の流れにそって色々な芸や芸人さんの話に飛んでいく。歌詞の関係からだったり、歌い手の歌い方の根底にある他の芸との関係からの流れなどたしかに独断ではあるが、それだけに面白い。

この紅白の行われたのが東京宝塚劇場である。そこから掛け小屋、日本最初の様式舞台新富座の話になり唐十郎さんの状況劇場のことへと流れていく。

ダンサーが出て踊れば、新舞踏家の石井漠さんが出てき、桂小南さんの電気踊りの話となり、桂文楽さんが前座時代師匠の着物に電球を仕込む手伝いをしたという話となる。

江利チエミさんが八木節をうたう。そこから東京音頭の話となり、ロサンゼルスでチャプリンが先頭で踊っている写真を見たとあり、チャプリンさんの好奇心におどろく。

興行師との関係、戦争時代の芸人等あふれる知を、紅白歌合戦の現場と合体させ、言いたいことはきちんと主張する。

襲名というのは珍奇な行事であるが、芸人が変身してしまうという事実がある限りあらゆる批判を耐え抜いていくであろうとしていている。こちらも襲名の多さにまたかと思ってしまうが、そのあとの変身、化けるという楽しみがあるから許せるのである。そして、若くして大きな名前を襲名すると、その重みに悪戦苦闘する芸人さんの姿も観させてもらうこととなる。それはそれで芸人さんたちにとっては苦しい息切れするような道である。

永さんはさらに、「僕たちは芸の血筋を楽しむと共にそれに挑戦する芸人達を大切にしていきたいものである。」と血筋をもたない芸人を拒否したり差別してはならないとする。

芸能史を通じて、伝統芸能のほかにも素晴らしい芸能はあるわけで、自分が観なければならないもの、受けつがなければいけないものは自分で訪ねていって観て伝えるというポリシーを表明され、その通り実行され続けた。

ご自分自身をも差別したり区別されたりしなかった。病気になられ、動くこともしゃべることも不自由になられたが、それをさらけだし、現場に執着され自分の目で観ることを貫き通されたのである。そして、苦しいときこそ笑いが必要であるとした。これは難しいことである。映像の映し方によっては、そんなに大変な状況ではないじゃないと感じられてしまい誤解されたりもする。じっくり伝えたいということでテレビではなくラジオを大切にされたともいえる。

この本のあとがきに次ぎの文がある。

「僕が観なければいけないもの、受けつがなければいけないものを訪ねて歩きたい。そうすれば、この次にこうした本を書くにも浅い知識の上の独断と偏見に頼らずにすむ。」

これが<浅い知識>なら、それこそ<浅い知識>にたいする独断と偏見である。

 

合掌。

 

「第十九回紅白歌合戦」(1968年)

紅組司会・水前寺清子/白組司会・坂本九/総合司会・宮田輝

(紅組) 都はるみ、佐良直美、ペギー葉山、小川知子、ピンキーとキラーズ、ザ・ピーナツ、三沢あけみ、伊東ゆかり、西田佐知子、九重祐三子、中尾ミエ、島倉千代子、江利チエミ、青江三奈、中村晃子、園まり、岸洋子、梓みちよ、扇ひろ子、越路吹雪、水前寺清子、黛ジュン、美空ひばり

(白組) 三田明、布施明、千昌夫、ロス・プリモス、ブルー・コメッツ、西郷輝彦、フランク・永井、東京ロマンチカ、水原弘、菅原洋一、ダーク・ダックス、三波春夫、北島三郎、アイ・ジョージ、美川憲一、舟木一夫、春日八郎、デューク・エイセス、村田英雄、バーブ・佐竹、坂本九、森進一、橋幸夫

 

水木洋子のドラマと映画 (1)

市川市文学ミュージアムで水木洋子展をやっていることはすでに書いたと思うが、水木洋子展の内容に関しては書いていない。と言いつつ今回も書くつもりはない。映画のポスターや、シナリオの原稿は説明しても想像するのは難しいであろう。と言う事で水木さん脚本のドラマについて。

横浜放送ライブラリーで、水木さん脚本作品の聞けるもの見れるものは全て見たのであるが、水木洋子展の関連でテレビドラマ上映会と映画上映会をやっている。その中で、1970年の「東芝日曜劇場 五月の肌着」だけ再度見ることが出来た。面白い手法を使って姉と弟の言葉に表すと壊れてしまうような情愛を描いている。

先ず画面の大きさでバックに流れる音楽の見る者への影響が大きいことを知る。チェンバレンのような楽器の音楽が流れその音楽と列車の踏切の信号の点滅とが重なる。いい流れである。放送ライブラリーでは気にかけなかったがはっきりと印象づけられる。電車の乗り降りの乗客があり、ホームの若い青年が電車のドアガラスを乗車内に向かって割るのを乗車内から写す。その青年のこぶしの先に一人の着物姿の女性が写し出される。彼女の仕種、表情から回りの乗客三人がそれぞれこの男女の関係を想像するのである。その想像が週刊誌の見出しと同じというように、電車の中の週刊誌の釣り広告が映し出される。

この美しい女性は池内淳子さんで、想像に任せて、想像の役をするのである。青年が高橋長英さんである。人の想像とは面白いものである。どれが本当の彼女なのか。若い男を騙し袖にしてその仕返しなのであろうか。水木さんは、よく役者さんを見ていて上手い配置をする。特に女優さんの選び方は素晴らしい。(一応水木さんが選んだと仮定していての話である)池内さんは五役演じている。48分のドラマに五役であるから何が何だかわからないという事になりそうであるが、そこは、脚本の良さと役者さんの力である。この二人の男女の関係は本当はどういう事なのかと頭のどこかで思わせられつつ、本題に引っ張られていく。

問題を起こし家を出てしまった弟。家族のために婚期を逃してしまった姉が今度こそは結婚しようとして、弟に会いに行くのである。弟には年上の恋人がいて、弟は姉を慕っていることがわかる。今度は自分は結婚すると決めそれを告げ電車に乗ったところで弟が姉に向かって電車のドアのガラスを割るのである。それが弟のどんな気持ちなのかは、見る者に託されている。

私は、弟が俺はもう大丈夫だよとの気持ちでこぶしを奮ったと感じたが、見る人によっては、結婚するなの意思表示ととるかもしれない。池内さんはその弟の行動にびっくりするが、時間が経つと微笑むのでる。単なる微笑みではないので事情の知らない人は、ふてぶてしい笑いととり自分の想像通りと満足するのである。

父親が畳職人で中村翫右衛門さんである。(このかたの芝居を見れなかったのは残念であった。映画『いのちぼうにふろう』の安楽亭の主人などは大好きである。この人以外考えられない。あの仲代さんのような個性的な役者さんの親分となれるのは。)母親代わりとなって婚期を逃した池内さんとの親子関係も息が合っている。長男が林隆三さんで飄々としている。次男の高橋さんのほうが、畳職人としての腕は良かったらしい。そういう細かい人物設定も水木さんならではである。

もう一度見たいなと思わせる作品である。電車の音なども入り丁寧に作られている。

参考  水木洋子 『北限の海女』

 

水木洋子 『北限の海女』

水木洋子さんの市民サポーターの教え通り、横浜の放送ライブラリーで、ラジオドラマ『北限の海女』を聴くことが出来た。力作である。映像ではないので音だけで、こちらの気持ちに添って映像を造りつつ聞くというのも迫力がある。

水木洋子邸に参考資料として、この作品の取材の様子を書いた一文、「磯焚火」がコピーされていて自由に持ってこれた。作品の登場人物について次のようにある。「一人は命綱を握る夫と娘たちと幸福に山の上に住み、貧しい下町に住む一人は、夫を北洋の海で失い、一人息子がまた同じ海へ出ていると言う七十八才の海女である。産気づくまで海で働き、自分一人で生み、産湯を自分の手でわかし、今でも海女として、腕も体力も絶対若い者に負けないというベテランで、上町の海女と下町のこの海女は春のコンクールにトップを競い合っていた。」

この山町の海女が賀原夏子さんで声にこもるようなふくよかさがあり、下町の海女は原泉さんで独特の凄味のあるしゃべり方、旅人の私は荒木道子さんで若々しい都会人の趣きを出しており、二人の海女の方言と標準語のトーンだけ聴いていても、その生活している風土の違いがよく伝わってくる。目で脚本を読んでいたので、サポーターのかたが、さすが出演者の方言がいいですが、分かりずらいかもしれませんとの言葉も危惧に終わった。この声の澄んだ都会の私は自分の標準語で生き方を見つけて行くであろう。水木さんは出演者を選ばれたのであろうか。映画『にっぽんのお婆ちゃん』にしろ、よくその役者さんの特徴と役者さんの役どころを知っていて、上手く重ねてその作品にあてはめたり、新たな挑戦をさせる。

テレビドラマ『なぎ』(漢字で書かれているがさんずいに嵐と書き水木さんの造語である)『こぎとゆかり』の二本も見ることができた。『なぎ』は信州の洪水によるがけ崩れで両親と兄弟を亡くした少年が無くなった村を訪ねると母方の祖父とその仲間の老夫婦が傾いた家に居残っていた。少年はその温もりに安堵するが、祖父と友人の老人は、放送局で二人の持論の天災ではなく人災であるという説を存分に話してくれと連れ出され精神科の病院に収容されてしまう。それでも少年は山に向かって、暴れないで静かにしてくれよ、暴れない山が好きなのだからと語りかけるのである。

『こぎとゆかり』は、おばちゃんの北林谷栄さんと孫の大原麗子さんのコンビである。おばちゃんは、認知症が出てきている。それとゆかりは日々闘っている。おばちゃんのとんちんかんさとそれに翻弄されつつも、自分の位置を見失わずに、自分の青春を失わせないでと望む葛藤を大原さんは勝気さと情の間で揺れる感情を上手くだしている。文通している青年との交流と別れ。それが、お婆ちゃんと同道する明治村で展開される。その場所設定もドラマを面白くしている。テーマも解決されない今を映していて古くないのである。

その他、水木洋子さんのテレビドラマとしては『竜馬がゆく第16回』『出会い』『灯の橋』『女が職場を去る日』『五月の肌着』がみれる。

 

「あまちゃん」の原風景

人気テレビ朝ドラが今日で終了した。その日に、脚本家・水木洋子さんのラジオドラマ「北限の海女」の脚本を読むことが出来た。

市川市八幡に故人・水木洋子さんの家が修復され、決められた日時に公開されている。今回が二回目の訪れなのであるが、市川市文学ミュージアムの永井荷風展で水木さんのラジオドラマ脚本に「あまちゃん」に先駆けて、海女を題材とした作品があるというポスターを目にする。その資料展示も今回見れるということである。

水木さんの家は、鎌倉にある吉屋信子さんの家を参考にされていて様々な工夫をされている。吉屋信子邸にも行ったが細部の記憶がないが、水木邸の書斎の方が明るい印象がする。ただ物書きの方は明る過ぎると落ち着かないと考える方もある。

ラジオドラマの話にもどすと、「あまちゃん」のロケの行われた久慈市の小袖海岸に50数年前、他の取材が上手くいかず、偶然と云うか縁と云うか、北限の海女のことを知るのである。「あまちゃん」の設定では北三陸の架空の場所ということになっている。「北限の海女」にも特定の地名は出てこないが、全くの陸の孤島が昭和31年に6年かけて小袖海岸道路が開通し、小袖海女が北限の海女として注目を集めたのである。そのことは、久慈市の<北限の海女 今昔 編集委員会>のかたが、「北限の海女 今昔 」の雑誌を平成25年3月に出され、水木洋子邸で手に入れることができたから知ることが出来たのである。

ラジオドラマ「北限の海女」は1959年NHKで放送され、その年の芸術祭賞をラジオ部門で受賞している。それから50年後の2009年に久慈市で50年を記念してドラマの資料展を開催している。そして2013年には宮城県出身の宮藤官九郎さん脚本の「あまちゃん」誕生となったのである。

水木さんの「北限の海女」は、夫を亡くした三十歳の私が、夫の母と三歳の子供を抱えて、洋服に名前を刺繍する仕事でやっていけるのかどうか思いあぐね、東京からこの北国へ旅だって来たのである。そこで、同じ海女でも境遇の正反対の二人の女性に会うのである。一人は北山ひで(68才)で高波で両親を亡くした孤児で一人で海女の技術を身に着け、さらに三人の夫を失っている。もう一人は岩田たか(70歳)でひでに比べると生活も安定している。この二人はお互い海女の腕くらべの仲間でもある。その勝敗を着けることになり、私は自分の境遇から考えてひでに勝たせたい、そのことによって自分の生きる方向も決まるような気がしている。結果的には、ひでのほうが勝つのであるが、生活というものは、それで全て良しとは成らない現実を暗示して終わる。私にとっては辛いことであるが、しかしひではそのことは初めから分かっていたように、勝ちに頼ることもなく、今までの生活を続けるのである。それが、ひでの生きてきた現実なのである。

私がそれを、どう見てどう考えるかは水木さんは結論を出していない。これはラジオドラマを実際に聞くと何かが見えてくるのかもしれない。話の中から、かつての北限の海女の厳しさが、岩に砕ける冬の波の音と供に伝わってくる。

今度、このドラマ公開をするようなときは市民サポーターのかたが連絡してくれると言ってくださった。さらに横浜の放送ライブラリーで、このラジオドラマのほか数点、水木さんのテレビドラマも見られるそうで、そちらで先に聴くことになりそうだが。

演出・森理一郎 / 作・脚本・水木洋子 / 出演・北山ひで(原泉) 岩田たか(賀原夏子) 私(荒木道子)

市民サポーターの方々が水木さんの家の管理、資料の整理、説明などしてくださるのだが、水木さんの事だけではなく、永井荷風さんの話もでき、さらに、市川には平 将門伝説もあるそうで、その話も聞くことができ、市川市民でないこちらとしては随分お世話になってしまったのである。

水木さんの取材ノートには、方言として<じぇ じぇ じぇ>も記してあり、サポーターのかたが、資料の中からそれを見つけ、自分が印をつけたと言われていた。何人かのサポーターのかたを独占してしまった。

20代の頃、旅で三陸の浄土が浜が気に入り、仕事先に仮病をつかい休暇を伸ばしたことを思い出した。 宿泊先の夕食が炉辺での海産物の焼き物で、あのほの暗さの煙のもやは忘れられない心地よさであった。

 

『従軍作家達の戦争』

NHKスペシャル『従軍作家達の戦争』。

8月は知らずにいた事が明らかになり、考えさせられる時期でもある。

火野葦平さんが1938年に小説『糞尿譚』で芥川賞を受賞する。その時、火野さんは日中戦争のさなか中国の戦地に兵隊として従軍しており、そこで小林秀雄さんを迎えて授賞式となる。以前から報道記者ではない立場の人に、戦場と兵隊の様子を知らせる必要性を感じていた軍部の報道担当官は、これに目をつけ火野さんを報道部に配属する。火野さんは軍事手帳に小さな字で日々の記録をしたため、太平洋戦争末期まで書き続け、その軍事手帳は20冊にもなる。それをもとに「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」の三部作を書き、銃後の人々と兵隊との連帯感を深めベストセラーとなる。しかし、当然そこには軍部の大きな制約があり、火野さんが手帳に書いた全てを小説に書けたわけではない。戦後、火野さんはその事で苦悩する。

作家の従軍記が戦争高揚のプロパガンダとして非常に有効と考えた軍部は菊池寛さんを通じて、多くの作家を戦地に従軍作家として送り出す。普通の日常とは違う戦地である。庶民の生活を冷静に見つめ小説という作品に作り上げていた作家も、戦地を目の当りにすると感情的になり、戦後批判を受けるような従軍記を発表することとなる。

火野さんはその後、戦中と戦後の価値観の違いや、自問自答の狭間の中で自らの命を絶つこととなる。火野さんの遺品の中に、『麦と兵隊』の原稿があり、そこには書く事の出来なかった、手帳に書かれた事実の記録文章が貼り付けられていた。作家であれば多くの作家が受けたいと思う<芥川賞>。その文学的権威ゆえに翻弄される事になった一人の作家の苦悩と、本当に書きたかった作品の原型が静かに伝わる。

戦争は芸術も庶民の楽しみも、お国のためとして規制し、統制していくのである。

 

 

『美しきものの伝説』(宮本研の伝説)

6月に新派の『新釈 金色夜叉』を観たのであるが、尾崎紅葉の原作で宮本研の脚本である。どう捉えて良いのか考えがまとまらない。そうこうしている内に、かつてNHKの衛星放送で放送していた<昭和演劇大全集>の『美しきものの伝説』の録画があった。この脚本は伝説の部類に入るもので、見たいと思いつつ難解そうでそのままにしていたのであるが見るタイミングのようである。

面白かった。痛快でもある。大正時代を背負って走り抜けた美しきものたちへの賛歌でもあり、批評眼でもあり、交信でもある。この<昭和演劇大全集>は最初に演劇評論家(だけでわない)の渡辺保さんと俳優(だけではない)の高泉淳子さんが、これから放送する演劇について、役者について、本について、演出家についてなど突っ込みを入れつつ話されるのであるが、それに係るとこちらの書くことがなくなるのでこの部分は幕とする。

今回見た舞台映像は平成6年(1994年)俳優座での新劇人の合同の「座、新劇」公演で、作・宮本研/演出・石澤秀二である。

登場人物のニックネームがこれまた見事である。荒畑寒村(暖村)・伊藤野枝(野枝)・大杉栄(クロポトキン)・小山内薫(アルパシカ)・神近市子(サロメ)・久保栄(学生)・堺利彦(四分六)・沢田正二郎(早稲田)・島村抱月(先生)・辻潤(幽然坊)・中山晋平(音楽学校)・平塚らいちょう(モナリザ)・松井須磨子はそのままのようである。松井須磨子にニックネームが無いのは彼女の遺書に自分が観客からただ好奇の目で舐めずり回されていただけであるという言葉があり、ニックネームを持つだけのゆとりのなさを表しているように思える。

政治的にそれぞれの考えと実行があり〔堺・寒村・大杉・辻・野枝・神近・らいちょう〕、文学的にそれぞれの考えと実行があり〔辻・野枝・神近・らいちょう〕、演劇的にそれぞれの考えと実行があり〔抱月・小山内・沢村・久保・須磨子〕その中から歌も生まれる〔中山〕

男女関係では〔辻と野枝〕・〔大杉と神近〕・〔大杉と野枝〕・〔抱月と須磨子〕実際には舞台に登場しないが〔らいちょうと奥村博史(ダヴィンチ)〕。

これらの人間関係を上手に場面、場面に登場させ、論じ合わせ、語らせ、吐露させ、主張させ各自の考え方、生き方を浮き彫りにしていく。政治も演劇もお金とどう折り合いをつけていくのかという問題も浮かんでくる。お金などいらない。主張していくだけである。しかし、その主張を広めるための資金がなくては。大衆を信頼できるか。観客を信頼できるか。できる。信じている。暗い時代の突入を前にして体ごとでぶつかった<美しきものの伝説>である。そして伝説的に名前だけがぶらさっがていた<宮本研の伝説>の幕開けでもあった。

 

 

池田満寿夫の青

再放送のテレビ番組に画家の池田満寿夫さんがでていた。福島県裏磐梯の五色沼の青色の謎を訪ねる旅であった。かつて五色沼は近くのユースホステルに泊まり、散策したことがあるので沼ごとの青色が違っていた記憶は残っている。

池田さんは五色沼の青色がどうして出来るのか、その色を出そうとしても出し切れないと。スタッフは水中に潜り調査した。水の中に白いもやがある。池田さんはそれは地下から上に向かう何かの力のような気がすると。水源をたどる。五色沼の源とされる沼の水。途中の湿原の水。それらを合わせると化学反応を起こし白いもやができる。白いもやの粒子に太陽の光が当たり青く見える。その粒子の大きさによって様々な青ができるのである。天然の絵の具である。

池田さんは語る。芸術は表面的である。自然はもっと深い。たとえば陶器でその色を出そうとしてもそれは表面で見えるもので、自然は沼の色はいくつもの水の層に光があたって屈折した色で、もっと深い色となる。

池田さんの<色>が美しいと思ったのは長野市松代の「池田満寿夫美術館」であった。それまで池田さんの<色>に対して 強く魅かれることはなかった。展示物と展示方法の良さもあった。心地よい暖かさを感じた。そもそも「池田満寿夫美術館」があるのも知らなかった。長野で一日どこを廻ろうかと観光案内に入ったら、他のご婦人が先に同じように尋ねていて、案内の人が松代はどうか、バスで行けると案内している。この話にのろうと、バスの時間を聞くと急げば間に合うと言われ、松代を散策することとなる。松代に着き早めの昼食を取るべき食堂へ。観光案内地図を広げると、「池田満寿夫美術館」がある。そこを最終目的地とする。

松代には松代城があり、1560年に武田信玄が上杉謙信の攻撃に備え、山本勘助に命じて築城。1622年に真田信之が上田城から初代松代藩主として移って以来、真田氏10代が城主として続く。真田家と関係してたのだ。

食堂の壁に松井須磨子関連の写真が。食堂のご主人に聞くと松井須磨子生誕の地といわれる。古い町で何かありそうとは思ったが戦国時代から明治、現代まであり過ぎるくらいある町であった。大河ドラマ「八重の桜」に出てきた佐久間象山も松代の生まれで、象山神社や記念館、高杉晋作などともひそかに会った建物・高義亭もある。松代に行った時は象山はよくわかっていないので記念館はパスしている。

自転車を借りて廻り最期に「池田満寿夫美術館」で青だけではなく<色>を楽しんだのである。散策の疲れから思考能力も低下しているので、ただ<色>を楽しんだ。その時のことが、テレビ番組と重なり、一人の画家の<色>を楽しめた時間の心地よさを思い出していた。画家は悪戦苦闘して色を捜したのであろう。こちらはその苦闘をあちらに置いて心地よき時間を受け入れる。

 

 

予定外のテレビ番組

年末年始にかけてのテレビ番組、気がついたものは録画をセットしたのであるが、30日から予定外のテレビ番組を偶然にも途中から見る事となった。

30日。TBS「たけしが釣瓶に今年中に話しておきたい5~6個のこと~其の四」去年偶然にみて可笑しくて最後にたけしさんがチラッと落語の<野ざらし>をやってくれたのが抜群で、早一年たち忘れていたのが今年も見れた。来年、たけしさんは落語<お見立て>をやると宣言した。志ん朝さんの<お見立て>は聴くべきだとも。釣瓶さんは師匠・松鶴の話に変えた<かんしゃく>をやるそうで、カレンダーに印をしておかなければ。

31日はNHKBSプレミアムで高倉健さん特集。映画があるのは知っていたが、「プロフェショナル男の流儀」の密着取材があるのは知らなかった。健さんは撮らせないと思っていたので慌ててバタバタしつつもしっかり見た。健さんが任侠映画の自分を好きでないのが判ったように思えた。九州の炭鉱で生まれ育っていたのだ。人が命を失うような喧嘩を見ているのだ。それは義理とか人情とかとは別の次元なのであろう。だからこそ虚構の映画の世界ができるのであるが、健さんは簡単に折り合いをつけるタイプではないようである。それと、そういう男の世界からドーランを塗る世界に入ったことに屈折した思いがあるようだ。一番いやなのは自分の言ったこと、行動したことが凄い事として捉えられる事で、面映いようなのだ。スターになるとどうしても伝説は作られる。律儀な方で<高倉健>を演じられてしまうのかもしれない。そしてそういう自分がまたイヤだったりするのかも。などと余計な迷惑千万な事を感じてしまう。1日にテレビ朝日で特別篇の「徹子の部屋」を途中から見ていたら以前でた時の健さんが出られ、大学を卒業し実家に帰り、東京にいる女性のために家を飛び出したと言われてた。健さんが言うと絵になってしまう。それがまたいやなのでしょうが。今現在、これからも映画をやりたいといわれたので、観客は健さんの律儀さとは別のところで役者<高倉健>を楽しませてもらう。

「徹子の部屋」に嵐寛寿郎さんも出られ、7年丁稚奉公したと言われてた。仕事は朝5時から夜12時まで。そこの主人が亡くなったので辞め、お祖父さんが文楽の人形使いだったのでその関係から歌舞伎の世界に入り、同じ頃、長谷川一夫さん、市川右太衛門さんと三人がいつも腰元の<申し上げます>をやっていたと。映画に移ってすぐ「鞍馬天狗」でスターに。

最後は長谷川一夫さんで、どうして着物をゆとりを持たせて着るのか手を袖から抜いて襟元からだし色々な動作を説明してくれ、いかに体がそれを覚えてしまっているかを目の前で繰り広げてくれた。軍隊では、弟子として炊事・洗濯・掃除すべてやっていたので皆の好奇の目が好意にかわったと。三人の上官の名前をどうしても覚えられない人がいて節をつけて覚えるように教えたら、縄を50メートル作れと命令され困った時その人が上手で「これは長谷川のだよ」といって編んでくれてありがたかったと涙ぐまれた。

その前にBS・TBSで小三治さんの「死神」を聴くことができた。

日本橋から品川までのプチお徒歩(かち)の時、<芝浜>の場所が判ったので、志ん朝さん・談志さん・小三治さんの三師匠の<芝浜>を今年の聴き初めにと思ったが、小三治さんの「死神」からはじまった。三が日中には、「お見立て」「芝浜」を聴かなければ。「芝浜」はこのお三方のしか持っていないのである。

それにしても、予定外のテレビ番組に遭遇し時間を取られてしまった。録画だとついつい見るのが後に引きの伸ばしとなるので良かったのかもしれない。