2月文楽 『近頃河原の達引』(ちかごろかわらのたてひき)

この演目は歌舞伎座で観ているのだが、その時上手く気持ちと合わなかった。猿使いが出てくるのでその猿と芝居がどう繋がるのか興味があったのだが、意外とさっぱりとして猿の効果が解らなかった。今回は文楽ということであるが、どう捉えられるか楽しみであった。さらに住大夫さんの浄瑠璃も聴けるのである。

目の不自由な母を、猿廻しをして養っている与次郎のもとに祇園の遊女となって出ていた妹おしゅんが実家に帰されている。おしゅんと恋仲の井筒屋伝兵衛が刀傷ざたを起こし、思い詰めておしゅんにも危害を加えるのではないかと恐れての事である。母も兄もおしゅんの身を案じ、とにかくおしゅんを伝兵衛には合わさずに手を切らせ、伝兵衛に諦めさせたいと思う。そのためおしゅんに退(の)き状(縁切り状)を書かせ、それを与次郎が渡すことにする。ところが手違いから、尋ねてきた伝兵衛が家に入り、おしゅんが外の戸口に立つこととなる。そのままで与次郎は伝兵衛に退き状を渡す。退き状と思ったものが、母と兄宛の書き置きであった。おしゅんは伝兵衛と心中するつもりであった。おしゅんの本心を知った兄は、猿をお初徳兵衛に見立て祝言の盃をかわさせる。それは同時に、おしゅん伝兵衛と自分たちとの別れの盃でもあった。

観ていて納得した。まず目の不自由な母は琴三味線を教えていてるが、今日教える三味線のその曲が「鳥辺山」で心中ものである。娘おしゅんの先行きを暗示してもいる。<恋といふ字に身を捨て 小船どこへ取り付く島とてもなし 鳥辺の山はそなたぞと 死にゝ往く身の後ろ髪> 母と習う子の違いを、住大夫さんは語りわける。稽古が終わり、猿廻しを生業とする与次郎が帰ってくる。貧しいが与次郎は母思いで、目が不自由なのをこれ幸いとちゃんとゆとりをもって生活しているさまを説明する。このあたりから、与次郎のあまり頭の働きはよくはないが母を思い妹を思う善良な人間であることがわかる。こういう家族の中で育ったおしゅんであるから、二人に心配をかけまいと、退き状を書くことを承諾し安心させて、二人に書き置きを書くのである。その健気で一途さが母と兄を得心させるに十分な語りである。

暗闇とはいえ、伝兵衛とおしゅんの居場所を変えてしまうくらい、与次郎は小心ものである。典型的な庶民なのである。伝兵衛を極悪非道の殺人者と思い、それからおしゅんを必死で守ろうとしながら逆をしてしまう。今度は、おしゅんを中に入れないで、伝兵衛に退き状を渡しなんとかあきらめさせようとする。ところが、伝兵衛がそれを読み始めると「母者人。どうやら風が変はつて来たようなぞや」となる。おしゅんを生かしたいが、おしゅんの本心を知ると自分を押さえ、二人の進むべき道を祝福してやるのである。その方法に自分の生業の猿廻しで猿に祝言の真似事をさせるのである。この場面が文楽ではたっぷりである。機嫌を損ねて寝ころぶお初猿を婿さん猿に起こしてやりなさいと声をかけたり、盃を持たせたり猿も与次郎も大奮闘である。それをじーっと見ている、おしゅんと伝兵衛。二人にとってこんな夫婦としての残された時間はないのである。猿廻しのような時間があってほしいと願う与次郎の思いでもある。<まさるめでたう、いつまでも、命全うしてたも>と母と兄に見送られて聖護院森を目指すのである。

愛される家族がいながら心中の道を選ばざる得ない二人。涙ながらに二人を送る家族。武士の世界とは違う庶民の情愛を描いたものである。そこに猿の可笑しさも加え笑い泣きとする幕切れの話で得心できた。心中と情愛の二本柱であった。

<四条河原の段>の舞台美術の枝垂れ柳のカーブが現代的で素敵であった。京都の六角堂の枝垂れ柳を思い出してしまう。文楽の舞台は冬の川風吹きすさぶ四条河原で、効果的な冬の枝垂れ柳で、出だしの舞台美術の印象も大事なものである。

 

2月文楽 『七福神宝の入舩』 

『七福神宝の入舩』の平成15年5月の床本があった。この演目は第一部で上演されているが観ていないので第二部の『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』を観たのであろう。今回は三部立てで一部の『七福神宝の入船』を観るので床本を読んでおいた。

<浮かれ出でたる神々の七つの福を銘々に積むや宝の船遊び、呑めや謡へや酌に立つ、その色こそはなよ竹の生ふる嶋にぞ住み給ふ>

七福神が浮かれている。呑めや謡えと酒盛りである。楽しそうである。<サアサアこれから銘々に嗜(たしな)みの芸尽くし> 隠し芸大会である。舞台は七福神。大夫さん七人、三味線七人。琴も置いてあるのでなにが始まることか。

寿老人、<子供に戻りし老人が、この三味線で玉琴に似せるも時のヲホ、、、、お笑い草>寿老人は三味線を取り上げかき鳴らす。そこに琴が加わり華やかになる。

次は布袋の謡に合わす腹鼓。見事なお腹で音も良し。

さてお次は色の黒いのが自慢の大黒天。驚くなかれ胡弓である。いやいや三味線ばかりか、胡弓も素晴らしい。

逃げようとした弁財天に似合うのはやはり琵琶。太棹で弁財天の琵琶の音を。

さてお次は道化役。長い頭の天辺に何であろうか獅子頭が乗っている。頭が伸びたり縮んだりの角兵衛獅子。<越後の国の角兵衛獅子、国を出る時や、親子連れ、獅子を被ってくるりと回って首をふりまする>

黄金の釣竿持つ恵比寿さん。黄金の釣竿で太鼓に見立てて船端を軽快に刻み打ち。ついには釣竿海原に投げ鯛釣りと、失敗何のその。ビール、ジョッキで飲み干していざ再挑戦。恵比寿ビールの後押しで鯛も見事に釣りあげました。

物々しい異形の毘沙門天。船の眠りを覚まさんと、取り上げたる三味の船歌。太棹七棹豪快に福を讃える 芸尽くし。<実に福神の音曲の数を並べて積み上げし浪乗船の音のよき調べを代々に伝へける>

人形の動きもさることながら、どんな音曲がつくのか楽しみであった。期待以上の楽しさであった。観たし、聴いたし、おめでたいし、愉快だし、七福神は浮かれているし、音曲は確かだし、国立小劇場で七福神巡りはできたし、しの七並べで上出来上出来。

 

三浦半島と浦賀 (3)

燈明堂というのは和式の灯台である。1648年(慶安元年)、幕府の命で作り1872年(明治5年)まで役目を果たしていた。現在のものは平成元年に復元されたもので、土台の石垣は当時のものである。燈明堂の中には、灯台守が寝泊りできるスペースもあるようで、中の仕組みを見れないのが残念である。この燈明堂の運営にも干鰯問屋がお金を出している。この燈明崎の背後が平根山台場で外国船に備えていた。天保8年(1837年)日本人漂流民を送り届け来航した米商船モスリン号を最初に砲撃している。この燈明崎は浦賀奉行所の処刑場でもあり首切塚もあった。海はあくまでも美しく凧揚げをしたり、磯遊びする家族、魚つりの人などのんびりと時間を過ごしている。

為朝神社を見つけるため気を付けて歩く。為朝は『保元物語』で語られ、『椿説弓張月』(滝沢馬琴著)の主人公であり、歌舞伎では三島由紀夫の『椿説弓張月』がある。歌舞伎は観ているがほとんど覚えていないのである。歴史物のデフォルメした歌舞伎には中々慣れる事ができなかったからでもあろう。為朝神社は源為朝を祀っている。この為朝神社に関しては、旧浦賀文化センター(新しい名前より古い名前が好きなのであえて旧として使わせてもらっている)に置いてあった<浦賀文化34号>に載っている郷土史家・山本詔一さんの「為朝神社」を参考にさせてもらうと、木像が1800年に浦賀に上がり、その木像に病気、怪我の人が祈ると効き目があった。その木像が為朝像であることがわかり、人々は為朝について調べ始め、『伝由記』としてまとめ、社殿を建築することとなる。三浦群の人々は裕福な人も、貧しい人も賛同し出来上がったのが為朝神社である。

この為朝神社で面白い事を知る。神社に奉納される「虎踊」である。近松門左衛門作の歌舞伎や文楽の『国姓爺合戦』(こくせんやかっせん)をも取り入れている。和藤内(わとうない)の登場に始まり太唐人が引き連れた唐子の踊り、そして虎の出現と虎の舞い。最後に和藤内が虎を神符で成敗しみえをきるとある。虎は親子二体。親虎には青年、子虎には少年二人づつ入る。和藤内は男の子。唐子は女の子。太唐人は成人男子。「浦賀と野比の虎踊」とあり、野比にもあるようである。どういう経緯でこの民芸が出来上がったのであろうか。興味深いところである。神社を出るとやはり町歩きの男性であろう。為朝神社はここですかと聞かれる。調べてきていないと分からないかもしれない。

次の愛宕山公園は登りである。中島三郎助招魂碑、咸臨丸出港の碑、与謝野夫妻文学碑などがある。晶子のほうは、「春寒し造船所こそかなしけれ 浦賀の町に黒き鞘懸く」で、寛のほうは読めなかった。寛はこのあと亡くなりこの地での歌が最後とあった。ここから浦賀周辺の眺めと別れ、渡し場にもどる。城ケ島で教えてもらったように、対岸の船を呼ぶボタンがある。今回は家族が一組同船である。乗船時間は5分弱である。この船は1725年(享保10年)から市民の足として続いている。三崎港と城ケ島の渡船は城ケ島大橋が出来て一度途絶え復活している。

最後の目的地、東叶神社である。由緒は西叶神社(三浦半島の浦賀 (2))と同じである。同じ神社が東西にあるのが面白い。それを渡船で繋いでいる。こちらは、勝海舟が咸臨丸で出港する前に水ごりをしたという井戸が残っている。奥の院では座禅をし断食をして航海の無事を祈ったようであるが、途中まで登ったがきついので引き返した。予定を終了し近くのバス停からバスに乗る予定であったが、10分くらい待ち時間があり駅まで2停留場なので歩いた。長川の河口をせき止めた形(地下を流れているらしい)で、来た時と反対側の浦賀ドックを左手に駅に向かう形となる。駅前に逆三角形で浦賀ドックはある形となる。

想像していたよりも、江戸をさかのぼって鎌倉、平安末期までタイムスリップさせてくれるものが残っている町であった。そして宿題も沢山おみやげに頂いたような気がする。

 

長唄舞踊『小鍛冶』 と 能『小鍛冶』

『十八世 中村勘三郎   一周忌メモリアルイベント』が行なわれ七緒八くんが歌舞伎舞踊に参加されたのをテレビの芸能ニュースでチラリと見たが、足が滑ったのに何事もなかったように踊り続け恐れ入ってしまった。目がいい。身体を動かした方向に遅ればせながら目が動く。能に多少こちらも目がいき、能の『小鍛冶』の録画を見て、勘三郎さんの勘九郎時代の『小鍛冶』も見直したばかりであった。勘三郎さんの『小鍛冶』での三条小鍛冶宗近の形と目が好きである。面白い事があると本当に楽しそうに笑うその顔付ではない。目もきりっとしていて怖いくらいである。あの目でみつめられると、勘九郎さんも七之助さんも、何を言われるかと小さくなったであろうと思われる目である。七緒八くんにもあの目がありそうで嬉しくなった。その世界に入り込んだら入りきる目である。

私が見た歌舞伎の『小鍛冶』は、勘太郎時代の現勘九郎さんも出ていて、17才のときであるから、1999年頃のNHKの「芸能花舞台」の録画である。「芸能花舞台」のほうで『小鍛冶』に関連して、『釣狐』と喜多流の『小鍛冶』を断片的に紹介してくれた。能の『小鍛冶』は後シテに出てくる狐の頭の毛の色によっても演出が違うらしく、赤頭、白頭、黒頭がある。狐の足を表現する狐足なども変わってくるようだ。

能『小鍛冶』は、一条帝の宣旨により、橘道成が勅使で三条小鍛冶宗近(宝生閑)に剣を打つよう伝える。宗近は相槌(あいづち)にふさわしい人が見当たらず途方に暮れ稲荷明神に祈願する。すると一人の童子(観世清和)が現れ、日本武尊の草薙剣(くさなぎのつるぎ)についてなど語り、宗近の討つ剣は草薙剣にも劣らぬと告げ姿を消す。宗近が剣を打つ準備を整えたところへ、稲荷明神の使者の狐(観世清和)が槌を持って現れ、宗近と共に剣を打ち剣はできあがる。表に小鍛冶宗近、裏に小狐と銘を打ち、狐は稲荷山へ帰って行く。

長唄の『小鍛冶』は、小鍛冶(勘三郎)と使者の橘道成(翫雀)が並んで舞台中央からせりあがる。そして能の後半部分の稲荷明神の神霊。(勘太郎)が花道すっぽんから現れ、宗近と共に刀を打つ。歌舞伎の場合、この刀打ちの槌の音をリズミカルに出させ躍動的である。神霊の動きも足を狐足にしたり、跳躍したりと、勘太郎さんは緊張しつつも一心に努めている。勘太郎さんの若いころからの性格をみるようである。

澤瀉屋には、義太夫と長唄とを取り入れた『小鍛冶』があるようである。

この三条小鍛冶宗近の三条は、京の三条に刀打ちの小鍛冶が多く住まいしていたところで、粟田神社、鍛冶神社、三条通りを挟んで相槌稲荷神社あたりにその痕跡があるらしい。粟田神社は行きたいと思っていた場所でいつも青蓮院どまりなので、是非行く機会を作りたい。さらに友人が狂言の和泉流『釣狐』と宝生流『小鍛冶』の録画をダビングしてくれ、そのタイミングの良さに嬉々として臨んだが、映らないのである。機種の相違か未設定であろうが、残念でならないない。クシュン!

 

追記: その後、粟田神社、鍛冶神社、相槌稲荷神社へ行けました。携帯からの写真で写りが不鮮明。

          粟田神社。この境内に鍛冶神社があります。  

          相槌稲荷神社

解説版には次のように書かれていました。

「ここは刀匠三条小鍛冶宗近が常に信仰していた稲荷の祠堂といわれ、その邸宅は三条通りの南側粟田口にあったと伝える。宗近は信濃守粟田藤四郎と号し粟田口三条坊に住んだので三条小鍛冶の名がある。稲荷明神の神助で名剣小狐丸をうった伝説は有名で謡曲「小鍛冶」もこれをもとにして作られているが、その時相槌をつとめた明神を祀ったのがここだともいう。なお宗近は平安中期の人で刀剣の鋳も稲荷山の土を使ったといわれてれる。 謡曲史跡保存会」

追記2:  時間を経て 2021年に和泉流『釣狐』と宝生流『小鍛冶』の録画を観ることができました。

能 『融(とおる)』

かなり年数が経っているが、能『』を録画してあった。喜多流で前シテ・老人と後シテ・源融は友枝昭世さんで、ワキ・旅の僧は宝生閑さんである。清凉寺は光源氏のモデルの源融の山荘であったとされるが、この清凉寺には、国宝の釈迦如来立像があり、この釈迦如来を模刻したものを清凉寺式釈迦如来としている。

京都に魅せられて通った2002年の月刊「京都」の雑誌に、当時、紅葉と秋期特別拝観とライトアップの組み合わせを考えたらしく数枚の付箋がついていて清凉寺の釈迦如来も、その年の特別公開で見たらしい。京都大好きの職場の友人の影響で、過去の月刊「京都」お勧め月号を持参してもらい、ああじゃらこうじゃら策を練った頃である。その時、源融を知り、能『』も知ったような気がする。

その頃は、「そうなのだ」程度であったが、今回もう一度録画を観直して融の世界が見えてきた。司馬さんの都人の陸奥(みちのく)への憧れの文章の力が大きい。

源融は政界での抗争に敗れ、下々から見れば優雅であり贅沢であり風雅である生活を送る。能に出てくる旅の僧を通じて、追体験をする事とする。

仲秋の名月の夜、源融の別荘河原院跡に東からやってきた僧が休んでいると、潮汲みの老人があらわれ、潮汲みとはおかしいというと、老人は、ここは昔融の邸宅があり、陸奥の塩釜浦を模した庭があり、毎月難波から海水をはこばせ塩を焼いて遠く陸奥を思い描き楽しんでいたことを伝える。そのとき前シテの老人は天秤に下げた前桶の握っていた綱をすっと離す。桶が舞台床すれすれに落ちて揺れる。時間を少しあけて後ろの桶も落とす。動きの少ない能だけにこの動きと桶のゆれるのがはっとさせ、ゆらゆらと気持ちをゆったりさせる。そして、今までその動作が長いこと必要がなく、やっと日の目をみるといったような老人の心の内を感じるようである。老人は、紀貫之がこの場所で詠んだ歌も披露する。

君まさで煙絶えにし塩釜のうらさびしくて見え渡るかな

この庭を継ぐ人もなく跡だけとなったが貫之には見えていたのである。こちらも、紀貫之を通して、この老人を通してかつての融の眺めた陸奥の風景が紗のかかった感じで見えてくる。その老人は、舞台前方の先端まで進み、舞台の下の空間から海水を汲み採り、すうっと橋懸りの奥へと姿を消すのである。旅の僧は、融が潮汲み老人となり、何もかもが無くなっている現世をなげいていたことが分かる。その夜、僧の夢の中に美しい貴公子の融があらわれ、月の光の中で優雅に舞い、かぐや姫のごとく月の世界に消えていくのである。

塩を焼く煙たなびく塩釜浦を模した庭。それを楽しんだ河原大臣。その跡に立つ紀貫之の歌のこころ。その後に登場する、劇中の僧と融の亡霊。一つの空間に異次元同士でつながっている。その重なりを観客は観ている。

陸奥(みちのく)の宣伝マン、源融の詠った歌

陸奥のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに乱れんと思ふわれならなくに

司馬さんが引用した「新潮日本古典全集」の訳 ”陸奥のしのぶもじずりの乱れ模様のように、あなたならぬ誰かの求めのままに身も心もゆだねてしまうそんな私ではありません”

この時代の歌の連想ゲームは、現代のゲーム感覚では到底かなわない教養と知性が必要だったようである。

能 『』が、どうやら自分に近づいてくれたので、何か月も借りっぱなしの、能 『求塚(もとめつか)』の録画DVDを頑張ってみる。途中お茶タイムなどを入れ、なんとか観終わる。これで返せると安堵する。『』のように、もう一度みようと思う日がくることを願うが、大作すぎて別枠に奉ってしまった。

河鍋暁斎とジョサイア・コンドル (1)

三井記念美術館で『川鍋暁斎の能・狂言画』開催中である。

<河鍋暁斎>と眼にすると個性に強い怪気的イメージを受けるのであるが、今回のテーマは「能・狂言画」である。ユーモアがあったり、躍動的だったり、幽玄に充ちていたり暁斎の幅の広さと奥の深さを知らされた。そして、能・狂言に詳しい人も、よく知らない人も、実際に観てみたいと思わす企画展示であった。ここの美術館は作品の数的にも丁度よい数で、いつも音声ガイドを借りるのであるが、この解説も気に入っている。これも難しいもので、あまり専門的に詳しくても疲れるし、軽すぎると別に借りることもなかった、となってしまう。

暁斎という絵師は狩野派に所属していて18歳で独立している。幕末から明治にかけて活躍している。能は自分でも習い、その費用は貞光院という方が援助してくれその方の墓前で三番叟を舞う画も描いている。「猩々」などは自分でも好きなのか何枚か描いている。

「能・狂言画聚」は沢山の演目の印象的一場面と詞をいれ、後のち参考になる資料ともなっている。それも躍動的で狂言師の笑顔は観客の笑顔でもあると思わせる。自分の実際の体験から下絵ではあるが「道成寺」で白拍子が鐘に入ってから鐘の中で後シテがロウソクの明かりの中で鬼に支度する様子が描かれている。鐘の中などの画は初めて見た。

能の場合は鐘の下に行き堕ちてくる鐘の中に入るのであるが、鐘が降りて来たとき中で飛び上がり鐘が堕ちきらないうちに足を見せなくして鐘を地に着かせるのである。そのタイミングが難しく、飛びすぎて頭を鐘の天井にぶつけたりすることもあるそうである。能の「道成寺」を観た時そんな解説を聞いた。

時代的に14代将軍家茂が3代将軍家光以来240年ぶりに上洛し、それを記念して能が庶民にも披露されそれを見たあとの様子が「東海道名所之内 御能拝見朝番」に描かれている。これは背景が二代歌川広重、二階から覗く女中達を歌川芳虎、浮かれる町人達を暁斎が合作で一枚のえ画にしている。浮かれる町人たちの姿が生き生きとしていて、暁斎の才能の広さがわかる。

面白いことに、鹿鳴館、ニコライ堂、旧岩崎邸、旧古川庭園など設計して携わったジョサイア・コンドルが暁斎の弟子で<暁英>の画号をもらっている。さらにコンドルは暁斎の生い立ちや暁斎の晩年の仕事の細部までを記録し本にしており、暁斎の名を海外に知らしめている。(「河鍋暁斎」ジョサイア・コンドル著社/山口靜一訳)

<文楽>の言葉から空間へ

文楽>を観ながら<文楽>と名称が落ち着くまでの歴史を知らなかった。

文楽のもとは琵琶法師が平家物語を語る<平曲>までさかのぼり、楽曲が三味線となり表現が増し、人気演目だった浄瑠璃姫物語にちなんで語り物は<浄瑠璃>といわれるようになった。さらに人形が加わり<人形浄瑠璃>となり、江戸時代になって大阪で竹本義太夫が義太夫節を起こしこれが<浄瑠璃>イコール<義太夫>と呼ばれる事もある。近松門左衛門の作品と供に人形浄瑠璃は流行し、一時衰退するが、19世紀初め興行師・植村文楽軒が復興し、いつしか<文楽>が<人形浄瑠璃>の代名詞となる。

浄瑠璃を語る方を文楽では<大夫>と書き歌舞伎では<太夫>と点を入れます。歌舞伎では竹本義太夫の流れをくむという事なのでしょうか。詳しくは解かりません。そういう訳で厳密に正しく文楽を観て感想を書くとなると何も書けなくなりますのでそこの辺りは目を瞑って頂きますよう。

人形と云う事で、北野武監督の映画「Dolls」(2002年)。人形から入ったのではなく桜の美しい映画として何かに出ていたので、DVDを捜したら文楽の人形が出ている。これは次の空間に行くなと直感。「冥途の飛脚」の梅川(桐竹勘十郎)と忠兵衛(吉田玉女)の文楽の人形をここまで美しく撮った映像があるであろうか。ひとめ惚れである。自分の目で見た人形を一番と思っているが、悔しいがちょっと負けているかな。たけしさんのお祖母さんが女浄瑠璃語りで、それが少年時代はイヤであったと言われているが、その音楽性が良い意味でたけしさんの体の中に染み付いている様に思う。

2012年11月6日<浅草紹介のお助け>https://www.suocean.com/wordpress/2012/11/06で少し書いたが、たけしさんは浅草時代タップとの出会いがあり夢中で練習されている。それは、この浄瑠璃からの逃避にも思えるのであるが、反対にこの浄瑠璃の持つ掴まえがたい音楽性が、映像の流れを左右しているのではないかと仮説をたてているのであるが、証明は難しい。

映画「Dolls」は、三つの愛の形から構成されているが中心になっているのは次の話である。松本(西島秀俊)が結婚を約束していた佐和子(菅野美穂)を袖にし、勤務先の社長の娘と結婚式を挙げる。式の直前、佐和子が気が振れたことを知り佐和子のもとに行き、佐和子と供に赤い紐で結ばれた<つながれ乞食>として美しい映像のなかの日本の四季をさ迷うのである。桜は埼玉の幸手の土手の桜らしい。桜も紅葉も雪も佐和子のお気に入りの玩具も小道具の三個の天使の置物も花びらもそれぞれが自分の色で主張していてこれがたけしさんの色彩感覚なのかと曳き付けられる。衣裳が山本耀司さんで、これはその場面場面に溶け込んでいてうるさくない。菅野美穂さんの夢の中にいる様な表情と時々ぴょこたぴょこたんとした歩き方がなんとも言えない白痴的味を出している。最後の二人の死の姿は全く想像していなかったシチュエーションで、こう来るわけかと感服した。二人の道行きの流れの緩慢のリズムと長さが飽きさせないのである。こういう映画の場合どうしても何処かで飽きが来るのであるがそれがない。そこがたけしさんの中にある浄瑠璃なのではないかと思うのである。二人の心中の映像は人形に負けじと美しく描かれている。

もう一つ愛は、アイドル歌手を追っかけている若者の愛。アイドル歌手が事故で顔に傷を負う。彼女が今の自分を人に見られたくないであろうと、若者は考え、自ら失明の世界を選ぶ。しかしこの究極の愛も若者の交通事故死で閉じられる。「春琴抄」が脳裏を掠める。

もう一つの愛は、若い頃お弁当を作ってくれた恋人と別れる際彼女が、いつまでもこの場所でお弁当と一緒に待っているという言葉を確かめに公園のベンチに行ってみると彼女がお弁当を抱えて待っている。彼女は彼が昔の恋人とは気がつかない。そして、もう待つのは止める、あなたがいるからという。この元の恋人でもある彼は今はヤクザの親分になっていて殺されてしまう。この熟年の恋人は松原智恵子さんと三橋達也さん。このお二人の若い頃の映画は沢山見ているので、その若い頃の映画を思い出し、たけしさんはそれも狙ってるなと思ってしまう。

愛は美しくも残酷に閉じられてしまう。

国立劇場 12月文楽公演 (2)

『刈萱桑門筑紫いえづと(かるかやどうしんつくしのいえづと)』                     【高野山の段】

石童丸は一人で高野山に登り一人の修行者に会い父の名を伝え尋ねる。その修行者こそ名を改めた父・刈萱道心でしたが刈萱は <『待てしばし、仏前にて誓ひを立てたる恩愛妹背、ここぞ』と思ひ>名乗らず、母親のためにと薬を与え <来た道筋は難所にてくたびれ足では叶うまじ。こちらへ往けば花坂とて平地も同じ事、馬もあり駕籠もありいざいざ立つて往かれよ>と泣く泣く引き返す石童丸の跡をそうっと追うのである。

石童丸の幼さ、刈萱道心の修行者の姿になっても迷う父の子に対する気持ちは、高野山という情景の中で静かに淡々とすすんで行く。

私たちは、大阪難波から南海高野山線で極楽橋駅へ、高野山ケーブルで高野山駅へ、そこからバスで高野山へ登っていったのであるが、石童丸は <いたはしや石童丸、かかる難所をたどたどと心も空に浮き草の根ざしの父は顔知らず、名のみしるべに尋ね往く。>

大夫の語りと太棹の糸に乗って物語の高野山へと導かれていくのである。

『傾城恋飛脚(けいせいこいびきゃく)』                                                【新口村(にのくちむら)の段】

『傾城恋飛脚』は今回が初めてなのかもしれない。『冥途の飛脚』は【淡路町の段】【封印切の段】【道行相合かご】まで見ている。【新口村の段】は『傾城恋飛脚』で見る事になった。        実話を人形浄瑠璃作品にしたのは近松門左衛門で、その改作に紀海音(きのかいおん)の『傾城三度笠』があり、これらの作品を基にしたのが『傾城恋飛脚』である。(今回学んだ)

歌舞伎では『恋飛脚大和往来(こいのたよりやまとおうらい)』 【封印切】【新口村】となり、こちらは何回も見ている。

『傾城恋飛脚』の【新口村の段】は、公金を横領するかたちとなってしまった大阪の飛脚屋・亀屋の養子・忠兵衛が遊女・梅川と落ち延び忠兵衛の父・孫右衛門との対面と別れの場面である。忠兵衛と梅川は追われる身なので孫右衛門の家に往く事は出来ず、孫右衛門の下働きをしている人の家を尋ね、その家の内で孫右衛門と会う。歌舞伎では外での対面だったので違うなとおもいつつ見ていた。

孫右衛門は氷に足を滑らせて転び鼻緒を切ってしまう。それを梅川が家の内に招き入れすげ替えてくれる。孫右衛門は言葉の様子から息子の恋人・梅川と知る。孫右衛門は養子先の親への義理から息子に会えば訴人しなければならないので息子には会えない。梅川は機転を利かせ、孫右衛門に目隠しをして親子の対面させ、そっと目隠しを外す。再会を果たしてもすぐに別れなくてはならない親子。孫右衛門は二人に裏の道を教え涙ながらに見送るのである。

『冥途の飛脚』では親子は直接会わず、忠兵衛と梅川が捕えられて孫右衛門は対面するかたちと成り、忠兵衛は父に自分の姿を見せたくないので、<面を包んでくだされ>と頼み、忠兵衛が目隠しをして幕となる。

今回の親子の対面は、語りが竹本文字久大夫さん、三味線が野澤錦糸さん。文字久大夫(もじひさだゆう)さんの師匠は、人間国宝の竹本住大夫さんでその相方の錦糸(きんし)さんの三味線だったので、時として住大夫(すみだゆう)さんを思わせるかたりの部分があり思わず床の方を見てしまった。テレビのドキュメントで文字久大夫さんが住大夫さんから何回も駄目だしをだされながら教えを受け、住大夫さんが公演で語るときは床下に位置し学ばれていたのが印象にある。その住大夫さんが、引退された越路大夫さんのところに教えを請いに往かれ、そばには錦糸さんが常にいて伝統芸能を受け継ぐ厳しさを伝えていた。

 

 

 

国立劇場 12月文楽公演 (1)

『刈萱桑門筑紫いえづと(かるかやどうしんつくしのいえづと)』                                              【守宮酒(いもりざけ)の段】

<守宮酒>というのは、つがいのイモリを浸した酒で、これを飲むと心寄せる人間が自分のほうへ心が傾くという媚薬である。

筑紫国の城主・加藤繁氏(刈萱道心)は世を儚んで出家してしまい、幼い石童丸が跡継ぎとなる。そこへ、豊前国の領主・大内之助義弘が加藤家の家宝<夜明珠(やめいしゅ)>をさし出せと命じる。加藤家は、この珠(たま)は二十歳を過ぎた穢れのなき娘がもたなければ光を失うと伝え、義弘の家臣の娘ゆうしが使者として受け取りに来る。

人形ゆうしの衣装、紅白梅の飾りを付けた被りもの、出で立ちが美しい。ゆうしは伊勢神宮に仕える娘で、操を守るため髪に白羽の矢を挿している。人形の衣装の着付けは、その人形を遣う人が整える。そのため少しゆったりと着付けたり、引きつめて着付けたりする事によって人形の雰囲気も変わるのであるがそこまで見極めるのは至難の業であろう。

ゆうしは自分の任務を果たすべく気を引き締めて来たのであるが、この<守宮酒>を飲まされ、加藤家の執権・監物(けんもつ)の美男の弟・女之助と結ばれてしまう。その事を盾に取り、偽物の<夜明珠>を見せ、ゆうしの不浄により珠が光を失ってしまったと説明する。  ゆうしは自分を恥じて髪に挿していた白羽の矢で喉をつく。うまい道具立てである。

ここでゆうしの乱れ姿が一層悲しみをおびた色香となり、半身の白い衣装の袖がゆらゆらゆれる。人形だけに透明感のある美しさである。人形は時として生身の人間では表現できない艶かしさを見せてくれる。ゆうしは自分の父に向かい契ったからには女之助は夫であると主張し息絶える。

ゆうしの父は図られた事を悟るが娘の死を無にせぬため、珠を切り〈この珠こそ娘の敵である。あとでその珠偽物などというなよ。本物があるなら石童丸と御台に持たせて立ち去れ〉と言い残す。その夜、石童丸御台は加藤繁氏のいる高野山に向かうのである。

物凄い展開である。お家騒動があり、そこには常に宝物がでてくる。そして誰かが死に追いやられ親子の情、家臣の情、男女の情などがかたられる。この展開は作者の腕の見せ所であり、その見せ所を語りと三味線と人形が見物客に伝えられるかどうかの闘いなのである。

その闘いの中に見物客の心地よい居場所があるかどうかそこに懸かっている。

展開がよく解かったので客としては、もう一度見て噛み締めたいところである。

 

 

文楽の若手

国立劇場のあぜくら会の企画で「あぜくらの夕べ~吉田一輔を迎えて~」があり、抽選に当たり参加できた。聞き手が葛西聖司さんで、NHKの「芸能花舞台」でこちらはお馴染みなので楽しみであった。

文楽の場合、主になる人形は三人で遣うのである。今回始めにその三人遣いの説明があり知ってはいたが、足と左の遣いかたの感覚が増幅された。

解説は女の人形であったが、右に対する左手の追従のしかた、足の動かしかたによるふっと立ち止まるか、駆け出すか、それらが一人で遣っている様に自然に動くのであるからいかに修行するか明白である。足遣いは主遣いの腰に寄り添っていて腰の動きから主遣いの動きを察知し、左は人形の頭(かしら)の動き、肩の動きから主の動きを察知して動くのである。

たとえば写真などを見ても人形の形がすばらしい。武者など左は人形の肩のあたりを常に意識されているから、人形の右手が右斜め上に伸びて左手は左下に一直線に綺麗な斜め線が描け大きさを現したりできるのである。これがバランスが崩れていればやはり間延びして、ぴしっときまらない。足も左右どちらかをバランスよく曲げる事によって安定したよい形となる。

一輔さんは文楽に入って30年であるが、まだ師匠(吉田簑助)の遣いかたが全然わからないそうで、師匠の人形の頭の中の指はその場に応じて伸びているのではないかといわれていた。E・Tのように伸びるのかもしれない。それほど顔の表情や頭の動きが無限大なのであろう。遣われているかたが、涼しい顔で遣われているのでいつしか技術面などは忘れて見るものは泣いたり笑ったりしている。

主人公となるような人形の左・足遣い手は相当のかたが遣われているのであるから名前がでても良いのではと思う。黒子なのでどなたなのかわからない。今回の左は期待できるなどと思いつつ見るのも楽しさが倍増するかも。今日の足は駄目だったなどとの声も聞こえたりして。

葛西さんは古典芸能の造詣が深いので、話を引き出されるのが上手く、若手の現状を柔らかくよく表に出されていく。評判になった三谷幸喜さん作・演出の『三谷文楽(みたにぶんらく) 其礼成心中(それいなりしんじゅう)』と一輔さんたちとの創造過程の話から、文楽では若手でも世間的にいえば中堅で、青春時代を文楽にかけた重みを伝えてくれた。演劇界のスターに対しても文楽の世界では互角に対する気概はやはり先輩たちの苦節を背負ってたつ意気込みである。

この演目は来年1月1日 WOWOで放送される。NHKさんも放送してください。

『三谷文楽 其礼成心中』

作・演出/三谷幸喜  作曲/鶴澤清介

出演/竹本千歳大夫・豊竹呂勢大夫・鶴澤清介・吉田一輔 ほか