旧東海道・川崎宿から神奈川宿

10月1日に 「東海道川崎宿交流館」 が出来たと情報を得たので行ってみた。品川から川崎へは歩いていないので気になっていた。JR川崎駅から10分、京急川崎駅から5分位のところにある。その手前に砂子の里資料館があったが、帰りにと思ったが時間が閉館時間を過ぎ寄れなかった。

品川から川崎の間には<六郷の渡し>があった。ここを流れているのが多摩川である。江戸時代に橋が架けられたが洪水で度々流されてしまうため渡しとなった。今は六郷橋があるらしい。奥多摩からずっとつながっているわけである。川の流れのわかる地図が必要である。歌舞伎に女形が七役つとめる『お染の七役』に、土手のお六がある。悪女で、出の大事な役である。なぜかその悪女を思い出してしまった。京急に六郷土手駅があり近くに黒い色の六郷温泉がある。

交流館で販売していた「広重東海道五拾三次」では、川崎は<六郷渡舟>で多摩川の下流は六郷川と呼ばれたとある。絵の中はお天気もよいから富士山も見え舟上の旅人ものんびりしている。

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川崎宿にもどるが、ここの万年屋(茶屋のちに旅籠)の名物に「奈川茶飯」があり、大豆、小豆、甘栗を入れて緑茶の煎じ汁で炊いたもので「東海道中膝栗毛」の弥二さん、喜多さん」も食している。作れないこともない。この万年屋には幕末には、ハリスも泊っており、次の日川崎大師に行っている。

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芭蕉は「奥の細道」からもどり、最後の故郷伊賀への旅の途中、川崎のはずれで弟子たちと別れをおしみ歌を詠む。 「麦の穂をたよりにつかむわかれかな」。麦の穂をたよりとするとはなんとも力ない様子である。江戸をたったのが元禄7年(1694年)5月でその年の10月には亡くなっている。

川崎には、本陣佐藤家に生まれた詩人の佐藤惣之助さんがいる。「赤城の子守唄」「六甲おろし(阪神タイガースのうた)」等もつくられている。坂本九さんもここの生まれで、京急川崎駅には電車が近づくと「上を向いて歩こう」が流れるそうである。

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映画「不知火検校(しらぬいけんぎょう)」で杉の市が師匠から、川崎までの使いを頼まれる。その時「川崎と申しますと、鈴ケ森の先の川崎でございますね」と確かめる。この聞き方が気に入ってしまった。この時代この道しかないのである。映像も白黒で勝新太郎さんが悪役で当てたのが納得いく。絶えず工夫を考え続けていたことであろう。江戸時代の道が分かると時代劇も思いがけない出会いがあるかもしれない。こちらの道はよくそれる。

神奈川宿に入る手前に生麦事件の場所がある。薩英戦争にまで発展した事件である。それよりも歩いた仲間たちは、京急生麦駅の近くにあるビール工場に寄りビールが飲みたかったと残念がっていた。心残りはそれらしい。

「東海道かわさき宿交流館」のみで川崎、神奈川宿まで歩いたつもりとする。今後もつもりが少ないことを願うが。

「東海道かわさき宿交流館」で制作してくれた「広重 東海道五拾三次」は貴重な旅の友となりました。

旧東海道・神奈川宿から保土ヶ谷宿(~戸塚宿) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

講演 『荷風をめぐる女性たち』 川本三郎

市川市文学ミュージアムで、川本三郎さんの講演「荷風をめぐる女性たち」を聴く。今までこちらでのイベントは市川在住の人でなければ参加出来なかったが、今年から空きがあれば参加可能ということである。

川本さんは、その著書で永井荷風さんの「断腸亭日乗」を踏まえて、永井さんの東京散歩のブームをつくったかたである。今回は東京散歩が一般化したのでと、荷風さんの周囲にいた女性たちについて講演された。時間たちメモをながめても荷風さんが愛した女性が誰であったのかよく判らないのである。川本さんも話の最初に、荷風さんの時代の恋愛は今の感覚とは違っていることを強調されていた。

荷風さんは新橋の芸者をモデルに「腕くらべ」を書き、銀座のカフェ・タイガーに通い「つゆのあとさき」を書き、私娼の玉ノ井に通い「墨東綺譚」を書かれている。荷風さんの場合、そこに足しげく通ってもそれは取材のためであり、作家であることの野心は忘れないのである。

荷風さんの母親・恆(つね)さんは、一宮出身で漢文学者・鷲津毅堂の娘であり、父親の永井久一郎氏は、尾張藩士の息子で、鷲頭毅堂の弟子であるから師の娘をめとったことになる。のちに米国に留学もしている。荷風の渡米も父の勧めである。荷風さんは二十歳のころは落語家朝寝坊むらくの門人となり、三遊亭夢之助を名乗たっり、福地桜痴の門に入り、歌舞伎座作者見習いとなり、拍子木を入れたりしている。

40代の頃は森鴎外さんを尊敬している荷風さん、鴎外史伝の仕事に影響され祖父・鷲頭毅堂氏の資料など探究したりもしている。全くの想像であるが、川本さんの話しと年譜などから総合判断すると、荷風さんの女性観の一方に母親・恆さんがある。自分の仕事の対極に鴎外さんがあるのと構図が似ているように思う。

荷風さんは39歳の2月より、三世清元梅吉さんに師事している。永井荷風展の資料の中に、昭和30年9月11日の清元梅吉さんから荷風さん宛の手紙に、今月は中村吉右衛門の追善興行で法界坊に出ているとある。(この月の演目と出演者は興味があるので後で調べたい)

荷風さんは歌舞音曲は好きだったようで、浅草へ通ったことからしても、その上下関係は無かったようである。映画「つゆのあとさき」の映画に関しては、「銀座街上及びカフェの空気、映画に現れず全体に面白くなし」と批評している。

永井荷風展では荷風さんが見た映画なども調べられていた。

川本三郎さんには、荷風さんの映画についての話もききたかった。講演後、サイン会があり、川本さんの著書「映画は呼んでいる」にサインしていただいた。「この本はかなりマニアックですよ。大丈夫ですか。」といわれた。「大丈夫です。頑張って読みます。」と答えたが、頑張って読んでいない。サラサラと流した。映画を見てから詳細に読まないと変に植えつけられる部分がでてくるのである。水木洋子さん脚本で山下清さんモデルの「裸の大将」では、花の事がかかれていた。記憶に残っていない。こちらは山下清さん役の小林桂樹さんを見入っていた。口のとんがらせ方とか。先日、松本清張原作・野村芳太郎監督「張り込み」を見た。この列車やバス、車の移動には、事件の犯人の現れるのを待つ観客としては、刑事と一緒に張り込んで追いかけている。さらにこのDVDには「シネマ紀行」の映像もふくまれていた。ほとんどがロケーションで撮られ、現在と比べていた。さらに街に流れている流行歌が時代をあらわしている。もう撮り得ない映像である。

川本さんの本の「張り込み」を読んだらマニアックであった。刑事は犯人が佐賀に住む、かつての恋人のところへ来るであろうと考え、東京から九州の佐賀まで急行さつま号で24時間かけて張り込みのため移動するのである。その途中での乗り換え駅が出ていないと。これは原作が読みたくなる。頭に映像が残っているうちに文字でなぞって置きたいのである。ただ高峰秀子さんのいつもと変わらぬ後ろ姿なのに、日傘が微かに静かに回っていき心の中を表し、何か違うと思わせる。これは文字で表現されているであろうか。この辺の映像と文字の対決も見ものである。

 

「あまちゃん」の原風景

人気テレビ朝ドラが今日で終了した。その日に、脚本家・水木洋子さんのラジオドラマ「北限の海女」の脚本を読むことが出来た。

市川市八幡に故人・水木洋子さんの家が修復され、決められた日時に公開されている。今回が二回目の訪れなのであるが、市川市文学ミュージアムの永井荷風展で水木さんのラジオドラマ脚本に「あまちゃん」に先駆けて、海女を題材とした作品があるというポスターを目にする。その資料展示も今回見れるということである。

水木さんの家は、鎌倉にある吉屋信子さんの家を参考にされていて様々な工夫をされている。吉屋信子邸にも行ったが細部の記憶がないが、水木邸の書斎の方が明るい印象がする。ただ物書きの方は明る過ぎると落ち着かないと考える方もある。

ラジオドラマの話にもどすと、「あまちゃん」のロケの行われた久慈市の小袖海岸に50数年前、他の取材が上手くいかず、偶然と云うか縁と云うか、北限の海女のことを知るのである。「あまちゃん」の設定では北三陸の架空の場所ということになっている。「北限の海女」にも特定の地名は出てこないが、全くの陸の孤島が昭和31年に6年かけて小袖海岸道路が開通し、小袖海女が北限の海女として注目を集めたのである。そのことは、久慈市の<北限の海女 今昔 編集委員会>のかたが、「北限の海女 今昔 」の雑誌を平成25年3月に出され、水木洋子邸で手に入れることができたから知ることが出来たのである。

ラジオドラマ「北限の海女」は1959年NHKで放送され、その年の芸術祭賞をラジオ部門で受賞している。それから50年後の2009年に久慈市で50年を記念してドラマの資料展を開催している。そして2013年には宮城県出身の宮藤官九郎さん脚本の「あまちゃん」誕生となったのである。

水木さんの「北限の海女」は、夫を亡くした三十歳の私が、夫の母と三歳の子供を抱えて、洋服に名前を刺繍する仕事でやっていけるのかどうか思いあぐね、東京からこの北国へ旅だって来たのである。そこで、同じ海女でも境遇の正反対の二人の女性に会うのである。一人は北山ひで(68才)で高波で両親を亡くした孤児で一人で海女の技術を身に着け、さらに三人の夫を失っている。もう一人は岩田たか(70歳)でひでに比べると生活も安定している。この二人はお互い海女の腕くらべの仲間でもある。その勝敗を着けることになり、私は自分の境遇から考えてひでに勝たせたい、そのことによって自分の生きる方向も決まるような気がしている。結果的には、ひでのほうが勝つのであるが、生活というものは、それで全て良しとは成らない現実を暗示して終わる。私にとっては辛いことであるが、しかしひではそのことは初めから分かっていたように、勝ちに頼ることもなく、今までの生活を続けるのである。それが、ひでの生きてきた現実なのである。

私がそれを、どう見てどう考えるかは水木さんは結論を出していない。これはラジオドラマを実際に聞くと何かが見えてくるのかもしれない。話の中から、かつての北限の海女の厳しさが、岩に砕ける冬の波の音と供に伝わってくる。

今度、このドラマ公開をするようなときは市民サポーターのかたが連絡してくれると言ってくださった。さらに横浜の放送ライブラリーで、このラジオドラマのほか数点、水木さんのテレビドラマも見られるそうで、そちらで先に聴くことになりそうだが。

演出・森理一郎 / 作・脚本・水木洋子 / 出演・北山ひで(原泉) 岩田たか(賀原夏子) 私(荒木道子)

市民サポーターの方々が水木さんの家の管理、資料の整理、説明などしてくださるのだが、水木さんの事だけではなく、永井荷風さんの話もでき、さらに、市川には平 将門伝説もあるそうで、その話も聞くことができ、市川市民でないこちらとしては随分お世話になってしまったのである。

水木さんの取材ノートには、方言として<じぇ じぇ じぇ>も記してあり、サポーターのかたが、資料の中からそれを見つけ、自分が印をつけたと言われていた。何人かのサポーターのかたを独占してしまった。

20代の頃、旅で三陸の浄土が浜が気に入り、仕事先に仮病をつかい休暇を伸ばしたことを思い出した。 宿泊先の夕食が炉辺での海産物の焼き物で、あのほの暗さの煙のもやは忘れられない心地よさであった。

 

永井荷風・森鴎外・井上ひさし・林芙美子・火野葦平~

どんどん繋がっていくのであるが、北九州市の文学サークルの活動も歴史がある。

驚いた事が幾つかあった。、北九州市立文学館の第9回特別企画展のチラシに 『いつもそばには本と映画があった』 とあり、ウラに <あなたは「読んでから観る」派?「観てから読む派」?> とある。2011年(平成23)4月23日~6月19日であるから、今年5月から7月にかけて開催した東京芸大美術館『夏目漱石の美術世界展』の <みてからよむ> に先駆けて既に使われている。東京芸大美術館のほうが二番煎じのようで後味が悪い。

2010年(平成22)1月~4月にかけては 『筑前のおかみさんの東路をゆくー田辺聖子「姥ざかり花の旅路」と小田宅子 「東路日記」-』 を開催。この旅は天保12年(1841年)のことで、この小田宅子さんは俳優高倉健さんの祖先にあたるという。歌仲間の桑原久子さんと連れ立って赤間関(現・下関市)から伊勢詣でに出かけ、伊勢・善光寺・日光・江戸をめぐり旅からもどって10年かけて『東路日記』を書きあげたのである。小田宅子さんも日光街道杉並木を歩いたのである。その時同時開催として 『2010年収蔵展 火野葦平の没後50年』 があったがその詳しいことはチラシからは残念ながら分からない。

火野葦平さんの旧住居は北九州市指定文化財になっている。そのしおりによると <史跡、火野葦平旧居「河伯洞(かはくどう)」河童をこよなく愛したことから名付けた。><「河伯洞」は父、玉井金五郎が息子、葦平のためにとその印税によって建てたものです。葦平は、戦地での戦友達の苦労への思いから、後々もこのことを負担に感じていたといいます。>

火野さんは若いころ同人誌「第二期九州文学」を創刊しその時の参加仲間に、小説『富島松五郎伝』で直木賞候補になった岩下俊作さんがいる。この作品が映画「無法松の一生』の原作である。この映画も検閲でカットされたシーンがあり、稲垣浩監督は伊丹万作のシナリオの原型を残すべく再度映画にする。それがベニス映画祭で金獅子賞をとる。

松本清張さんは、森鴎外さんが小倉にいたころ書いた『小倉日記』をもとに小説『ある「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞。そのお祝いの言葉を、火野さんと岩下さんが送っているが、火野さんの言葉は強烈である。

「芥川賞に殺されないようにしていただきたい」(昭和26年・1月)

林芙美子さんは下関市生まれで、幼いころから母と義父とともに、九州を行商して歩いている。『太鼓たたいて笛ふいて』には「行商隊の唄」も歌われる。

どうもどうも ご町内の皆さま こんちわこんちわ 行商隊です

 

『永井荷風展』 (3)

今回の図録には、平成16年の井上ひさしさんの講演の抄録も載っていた。どうやら私の聞いた講演である。9年前になるのだ。私の記憶違いが判明した。

「私の見た荷風先生」(井上ひさし)。私が書いた 【一度だけ永井荷風さんにあっていて、照明係りをしていて椅子に座っていた老人が邪魔でどけてもらいどうもあれが荷風さんだったらしいと】 は実際は次のようになる。

井上さんが一度目に荷風先生を見た時のこと。やくざを追い払う役もしていて、<ある日スーと背中に気配を感じて「またやくざかな」と思って見たら、なんとそれが荷風先生でした。体が震えました。それはすぐわかりますから。ちょうど一本歯が欠けていました。><先生に会ったというので、私はもうれしくて、その晩はそれで終わりました。>

二回目は<荷風先生に憧れていた文学青年としては手厚く、といってもイスをすすめただけですが、もてなしました。> その頃、谷さん、渥美さん、関さんの芝居は鉄砲が出る乱暴な芝居で、その音を出すため、舞台の袖の先で引き弾を引く役もしていて、荷風先生のお気に入りの踊り子さんの時もその役目があった。荷風先生の座った位置がその近くで音がうるさいので、先生のイスを移動させようとするが先生は気が付かないで熱心に舞台を見ている。しかたがないのでひもを引いたら、先生がイスから転げ落ちてしまった。<人間国宝みたいな人をイスから転げ落として申し訳なくて助け起こしました。そうしたら先生、何でもなく、にこっと笑ったときのその歯の汚かったこと(笑)。> 三回目はなかった。でもこの事があったからこそ、井上さんは荷風さんの住んだ市川に、一時住むことになるのである。

【一度だけ永井荷風さんにあっていて、照明係りをしていて椅子に座っていた老人が邪魔でどけてもらいどうもあれが荷風さんだったらしいと】 それにしても随分創作したものである。【荷風さんとは、一度だけ口をきいたことがある。引き弾の役目をしていて、荷風さんをイスから転げ落としたことがある】である。いい加減なものである。図録を買ってきてよかった。

荷風さんの事から井上さんの舞台『太鼓たたいて笛ふいて』、林芙美子さんの評伝劇の話に移りたい。それは、火野葦平さんとも関係することである。

市川市文学ミュージアムの上階は資料室になっており、そこに市川市ゆかりの文学者の資料がまとめられている。さらに、地方の文学活動のチラシや図録もあり、そこで、北九州市立文学館の資料もあった。

『永井荷風展』 (2)

岩波文庫の『摘録 断腸亭日乗 (上)(下)』(磯田光一編)を買い足す。しかし、これも全文から抄出したものなのである。文庫なので扱いやすい。

年譜によると、1916年(大正5)、父の住まい牛込区大久保余丁町の来青閣(この時代の人は自宅に名前をつけるのが好きだったようである。その名ですぐ仲間が共通理解できるからであろうか)の玄関の6畳を断腸亭と命名している。このとき既に荷風さんの父上は他界している。『断腸亭日乗』の書き出しは、1917年(大正6)9月。

森鴎外さんと荷風さんが初めて会ったのは、市村座で小栗風葉さんの紹介である。その後鴎外さんと上田敏さんの推薦で、荷風さんは慶応義塾大学文科の教授になる。(1910年)。1916年3月には、教授職を退く。アメリカ、フランスに行かせてくれた父を一応安心させ、その後は自分の生き方を貫くこととなる。文学者森鴎外さんを敬愛する荷風さんは、鴎外さんによって父の生前中に形を整えられた感謝の気持ちも含まれているのであろう。

1918年(大正7)1月24日には、鴎外先生から文をもらう。「先生宮内省に入り帝室博物館長に任ぜられてより而後(じご)全く文筆に遠ざかるべしとのことなり。何とも知れず悲しき心地して堪えがたし。」

1922年(大正11)7月9日、鴎外先生亡くなる。「早朝より団子坂の邸に往く。森先生は午前七時頃遂に纊(こう)を属(ぞく)せらる。悲しい哉(かな)。

前日、7月8日にも見舞っており、特別に病室に入ることを許される。通夜、葬儀。

鴎外さんに比して、幸田露伴さんとは、近くに住みながら会うこともなく、葬儀は外から見送っている。荷風さんは、全てを焼失してから、鴎外さんと露伴さんの全集だけは揃えている。荷風さんが菅野に来て(昭和21年1月16日)、その後、露伴さんは娘の文さん、孫の玉さんと引っ越してくる(1月28日)。露伴さんは高齢で外に出ることもなく、昭和22年7月30日亡くなられる。

荷風さんは、露伴さんの葬儀には喪服がないからと、外にたたずみお別れをしている。この露伴さんの葬儀の映像が、今回の展示で見る事が出来る。鴎外さんは、私的と公的を区別されていて、私的には親しみやすい方であったが、公的な仕事になると上下関係などをきちんとされたようである。人付き合いの苦手な荷風さんにとって露伴さんは私的に接する人ではなかったのかもしれない。喪服がないからと中に入らなかったのからして、荷風さんにとって露伴さんは鴎外さんとは違う位置に立つかただったのであろう。

さらに、市川市の市民の方が、市川市文学ミュージアムの協力のもと、自分たちで制作した映像『荷風のいた街』(発売)の中で、当時近くに住んでいて人が沢山集まるので露伴さんの葬儀を見に行っており、荷風さんの様子も話されている。さらにその他、荷風さんの日常の様子を知ることが出来る。戦後から亡くなるまで、市川に住まわれていたということは、一人で暮らすには荷風さんの好む街だったのである。

 

『永井荷風展』 (1)

市川市文学ミュージアムで『永井荷風 -「断腸亭日乗」と「遺品」でたどる365日ー』を開催しているのを知る。何んとタイミングの良いことか。<市川文学プラザ>としていた展示フロアーを、<市川文学ミュージアム>としてリニュアールしたらしい。<市川文学プラザ>の時、一度行っている。市川関係の文学者や芸術家の資料を丁寧に保存、収集し、整理されて展示されていた。

今回は「市川市文学ミュージアム開館記念 特別展」で有料であった。荷風さんは昭和21年から亡くなるまで市川市菅野、八幡を終の棲家としている。「断腸亭日乗」の原本も当然あり、清書した時期もあり、その紙の質などからも荷風の心の内、時代の流れなどを分析した解説も面白い。その時々のスケッチや地図もある。亡くなる前日まで書いている。 【昭和三十四年四月廿九日。祭日。陰。】(陰は曇りということである)筆跡も当然変化していき、そこには、荷風さんの生きた証がある。

谷崎潤一郎さんから送られた「断腸亭」の印章が展示されている。その印章は、昭和16年に送られたもので、昭和30年の東京大空襲の時、偏奇館とともに焼失。ところが次の日、従弟の杵屋五叟(きねやごそう)さんが、焼け跡の灰の中から堀リだしたものである。この印は、戦後も、全集の検印や蔵書印として使われている。

私が「断腸亭日乗」を読んだ箇所に、荷風さんが岡山の谷崎さんを訪ねる前、昭和20年7月27日、岡山駅に谷崎さんから送られた荷物を受け取っている。品物は鋏、小刀、朱肉、半紙千余枚、浴衣一枚、角帯一本、その他である。「感涙禁じ難し」と書き加えている。焼け出された文学者に対する谷崎さんの心遣いである。それは、荷風さんが自分の作品を認め評価してくれたことによる作家として誕生できた谷崎さんの思いであろう。

8月15日、宿屋の朝食(鶏卵、玉葱味噌汁、はや小魚付け焼き、茄子香の物)に、八百善の料理を食べている心地であると書いていたが、その八百善の煙草箱が愛用品として展示されていた。これは、八百善で売っていたのであろうか。煙草箱の中には、ピースが10本。箱の外の絵は、江戸時代山谷にあった時の老舗割烹八百善の絵図である。それでいながら、自炊に使用していた釜は、使わない時は洗面器と兼用である。

森鴎外さんを敬愛し、鴎外さんの子息たちとも交流している。森茉莉さんも荷風さんの菅野の家を訪れている。どんな話をされたのであろうか。茉莉さんの作品と晩年を思うと、自分の好みがはっきりしている荷風さんは、茉莉さんの先駆者だったかもしれない。森於菟(もりおと)さんは、森鴎外記念館設立のための協力を願う手紙をだしている。この展示の図録によると荷風さんは、記念館設立のため高額の寄付をしている。すぐには記念館とはならず、文京区図書館の一部に鴎外記念室として残したりしていたが、2012(平成24)年11月1日に「文京区立森鴎外記念館」として開館した。森於菟さんの手紙が1956年(昭和31年)であるから約56年目である。鴎外記念室の時一度訪ねたが想像と違いがっかりしたことがある。

5月に森鴎外記念館を見学し「特別展 鴎外の見た風景~東京方眼図を歩く~」を見た。今度は記念館として充実していた。鴎外が考案した地図「東京方眼図」。鴎外は与えられた仕事を成し遂げる。それが、小説家森鴎外の痛手であった。鴎外は翻訳、評伝など、さらに軍医としても、多くの仕事をしている。だが一番時間を使いたかったのは小説を書くことではなかったのか。その時間が生涯充分にとることが出来なかった。

荷風さんは、世間から一歩引くことによって維持した自分の小説家としての位置と、森鴎外さんのように世間にいながら小説家としての位置を何とか確立しようと闘っていた人としてへの敬愛であったのであろうか。