『日本近代文学館 夏の文学教室』(第55回)から (4)

  • 日比谷図書文化館での『大正モダーンズ』展を最終日に観にいった。そのことはまた別のこととするが、図書館のほうに「ジェーン・スーさんと考える 親のこと、わたしのこれからのこと」という講演会の案内があり、そこに、三冊の本が並べられていた。その一冊に北杜夫・斎藤由香・共著の「パパは楽しい躁うつ病」があった。

 

  • 作家・磯崎憲一郎さんは、北杜夫さんの作品が好きで、芥川賞を受賞したとき北杜夫さんの本のことを書いたところ、娘さんの斎藤由香さんから手紙をもらい北杜夫さんの自宅で会うことになった。北杜夫さん、奥さん、斎藤由香さんとで話すことになったのであるが、北杜夫さんは話しの輪に入らないで始終黙っておられる。磯崎さんは、北さんの小説について話をふってみたら、黙っていた北杜夫さんが乗ってこられた。それが2011年2月で、2011年3月に対談を計画したが、東日本大震災で中止となり、2011年11月に再度決まるが、その前に亡くなられてしまう。斎藤由香さんは、父は忘れ去られた作家ですからと言われたがそんなことはない。全国紙の一面のコラムが北杜夫の死にふれていたのは井上ひさし以来で忘れ去られた作家ではないと。

 

  • 北杜夫さんは、子供のころは野っ原で昆虫と遊んでいるのが好きであった。父の斎藤茂吉が怖くて避けていた。斎藤茂吉は医者になれしか言わなかったのだそうである。動物学を勉強したかったが許されず東北大学の医学部に入り、ペンネーム・北杜夫は茂吉の子供であることを隠すためでもあった。北杜夫の自然描写は風通しがよく『谷間にて』は台湾に蝶を取りに行く話であるが、実際に台湾にいく予定が埴谷雄高に空想で書けと言われて中止している。風景描写を人の内面としては描かない。そこが当時の作品としては異質であったとされる。

 

  • 『楡家の人々』は40代になって書く予定だったが、亡くなる人が多く30代で書くこととなった。磯崎さんが、小説家になって『楡家の人々』を読むと、外向きの視線に驚かされたと。青山の病院がすごい建物となって表されていて表現の過剰さ、大げささをあげる。読み手に感情移入させない、近代文学の中では乾いていて(ドライとは違う)個人の内面から離れていて外に向かっているとされる。文学少年ではなかったことがそうした作風を生んだのであろうか。

 

  • 北杜夫さんの行かなかった時の台湾から時代的にもう少し前の台湾について、評論家・川本三郎さんが話された。佐藤春夫、林芙美子、日影丈吉、邱永漢、丸谷才一の台湾関係の作品名などを資料としてプリントしてくれた。台湾の人々が日本に親日的であるだけに、台湾という国の過去も知っておいたほうがいいのではないかということだと思う。

 

  • 日清戦争の勝利によって日本は台湾の統治国となる。それが第二次世界大戦のポツダム宣言まで50年間続くのである。他国に統治されるということは、その国の人々とっては様々なおもいがある。佐藤春夫さんは、台湾を舞台とした幻想的な作品『女誡扇綺譚(じゅかいせんきたん)』。林芙美子さんは、新聞社の主催で台湾にいき、総督の官邸の招きより、庶民の町を歩くことを好んでいる。日影丈吉さんは、戦時中の台湾にいた日本軍人を主人公にしたミステリ。邱永漢(きゅうえいかん)さんは、自伝の『濁水渓(だくすいけい)』、『2・28事件』。丸谷才一さんは日本在住の台湾人が「台湾共和国」という独立国家を夢見る『裏声で歌へ君が代』。時間のながれによる台湾に関係した作品である

 

  • さらに映画として紹介されたのが『悲情城市』(侯孝賢・ホウ・シャオシュン監督)である。第二次世界大戦が終わり、長男を中心とした一つの家族・林家が、外からの侵入により内から崩壊していくのである。この映画では外の力がよくわからないのである。一日一日を生活している者にとって政治がどう動いていてそれがどうやって襲ってくるのかなどわかりようもない。特に戦争のときには。観終ってからどういう事だったのかと台湾の日本統治をへてから中華民国からの国民党による2・28事件にいたるという歴史を知ると、林家が翻弄された経過がわかってくるのである。独立を望んでそれが違う形で抑えられてしまう外からの力である。4男の文青(トニー・レオン)がろうあ者なのであるが、どの言葉も正確にはわからないという象徴でもあるようで、さらに弱者が主張できないままに闇のなかに閉じ込められる恐怖が伝わる。

 

  • 内田百閒さんは怖がりであった。闇も怖がった。それを笑われると君たちは想像力がないから怖くないのだといった。作家で演出家でもある宮沢章夫さんは、悲劇と喜劇の横滑りのようなこととして内田百閒さんの『豹』を紹介した。檻のなかの豹をみてその豹が自分を狙っているとして恐怖をいだきある家に逃げ込み皆に話すが皆笑っていてとりあわない。そして豹がその中にいたという小説である。話しを聞きつつ、着ぐるみの豹がふっと浮かんで苦笑してしまった。そういう話しではないのであろうが。宮沢章夫さんは、横光利一さんの『機械』を一行づつ読むという企画で11年間連載したのだそうだ。読んでいないので想像できない。

 

  • 『機械』『日輪』の二字の題名にあこがれ、図書館に本を返しにいったら図書館がなかったという小説を思いつきその題名を考えた。こちらの頭にぱっと浮かんだ。『返却』。当たり! 別役実さんが面白いという話し。別役さんは喫茶店に一緒にいても話さない人で、ある時「ああ、今日はめずらしく話した。」といったのだそうである。いつもと変わらないのに。あるインタビューで別役さんのことをほめて終わったら別役さんが「いやぁ!」といって離れたところにいた。どうしてそこにいるの。聞いているほうは、何も起こっていないのに可笑しい。

 

  • チェーホフは『桜の園』を喜劇『桜の園』としていて悲劇とはしていないのだそうである。そして桜の園の敷地は千代田区の広さなのだと。ちょっと待って下さいな。そんな広さなら嘆くまえに何とかなったんじゃないのですか。持っていない者のひがみか。それを一緒に悲嘆している観客は喜劇。

 

『日本近代文学館 夏の文学教室』(第55回)から (3) 

  • 国家総動員法にしろ法律の原案を考えるのは各省庁の役人である。官僚は優秀な人がなるのであろうが、頭の悪い国民など簡単にだませるとおもっているのであろうか。改ざんなどどうやら平気のようである。それが曖昧になって映画『まあだだよ』ではないがチーチーパッパ、チーパッパである。優秀でおそらく大蔵省の官僚になったであろう三島由紀夫さんは大蔵省を辞めて作家となった。

 

  • 作家・島田雅彦さんは、三島由紀夫さんの『春の雪』などから三島さんの「文化防衛論」をはなされた。三島さんの描いた世界というものが、あまりにも一般大衆から遊離した世界で、こちらは三島さんの独自の世界という感覚である。島田雅彦さんは、三島さんはある意味のロマンス主義であるといわれる。『春の雪』は小説4部作『豊饒の海』の第1部で一番読みやすいというので読み始めたことがあるが途中で投げ出した。その後映画を観たが、読んでいないのにこれは、原作の感覚とは違うのではと勝手に思ってしまった。

 

  • 宮様と婚約した女性の愛を奪ってしまうのである。主人公にとっては愛もそこに破滅するような世界がなければならないのである。それも破滅しても、いや破滅させるに値する「みやび」がなければならないのである。三島さんにとって肉体は自分の世界に従属させるものであって、それも弱体ではだめなのである。鍛えた肉体でなければ。今回、『春の雪』読めそうな気がして購入したが、読み始めるのはもっと先になりそうで積んである。ナポレオンは文学青年で1パーセントの可能性にかけたのだそうで、三島の決起にもそれがあると島田さんはいわれた。こちらは、老人の三島さんが見たかった。1パーセントの可能性もないのであるが。

 

  • 映画『春の雪』は行定勲監督の作品であるが、行定勲監督の映画で面白いのは『パレード』である。浅草の花やしきの場面があって浅草の映画として観たのである。面白いというのはわかっているようでわかっていない、わかっているのにわからないことでつながっているのかもしれないという世界である。

 

  • 法律に関しては、作家・中島京子さんが、教えてくれた。憲法第24条の草案を考えたのが当時23歳だったベアテ・シロタ・ゴードンさんという女性であったということである。アメリカからあてがわれた憲法であるから改正しなくてはならないというが、それが現代の国民にとってふさわしいものであれば、誰が考えようといいではないかと思う。中島京子さんは伊藤整さんの『女性に関する十二章』と世界の#MeTooを考えての話しであった。セクハラ問題を #MeToo と表現するのは、アメリカの映画界での告発から知った。中島京子さんは、友人が財務省のセクハラ問題は知っているが#MeTooに関しては知らなかったのに驚いたという。

 

  • 伊藤整さんの『女性に関する十二章』(1954年)は60年以上も前のものなので今読むと古いが、憲法の24条に関しては、伊藤整さんにとっても改革であったらしい。9章で、自分だけ犠牲になればよいという情緒はよくないと書いているのだそうで、伊藤整さんは、演歌が好きであるが、情緒で行動するのは危険であるとしているらしい。家父長制を長く経験していた日本人男性がもし考えたらなら、憲法24条など考えられなかったであろう。結婚していようと、子供があろうとなかろうと、家族があろうとなかろうと幸福になってはいけないのであろうか。今の政府が家族、家族というとなぜか何をたくらんでいるのと勘ぐってしまう。クーラーのない部屋での書き込みで頭が沸騰してきているので、涼をとることにする。

 

  • 映画『まあだだよ』(黒澤明監督)は流される予告の映像でばかばかしくおもえて観ていなかった。内田百閒さんもそのため素通りであった。ミュージシャンで作家の町田康さんが、友人が町田康さんを、「まるで内田百閒みたいやな。」といわれ内田百閒を読んで「あっ!これは自分だ。」とおもったのだそうである。町田さんは、喫茶店で友人と向かい合わせに座り、テーブルのうえの、おしぼりとかコーヒーとか自分の前のもろもろを自分のこだわりできちんと並べるのだそうである。それを、前の友人の分までやってしまい「おまえ!何をしてるんや!まるで内田百閒みたいやな。」となったのである。

 

  • 町田さんは、お財布のなかの札もきちんと表で向きも同じなければいやで、コンビニのレジのお金も、銀行のお金も、強盗のようにピストルをつきつけて綺麗にならべかえて、終わったら解放してやりたいくらいなのだそうである。内田百閒さんのこだわりについて話された。そのこだわりは、よそからみると滑稽でもあるが、本人にとっては重要なことなのである。百閒さん(明治22年)は、岡山の造り酒屋で生まれ、わがままは全て聞いて貰える環境で育ったが家は没落し、その処分したお金で学校へ行き、明治44年に夏目漱石さんの弟子となっている。

 

  • お金はないが育ちのせいか、自分のしたいようにするのである。そのため借金もするが、収入支出が百閒さん独自の使い方であるため合わない。借金で免職になったりもしている。お金のない人は人にお金を借りるため頭を下げたりして修養できるが、お金のある人はそれがないから傲慢であるとし、生きているから借りるのであって死んだらちゃらであるから、死んだとき返しますという理屈が百閒さんのなかでは成りたったりもするのだそうである。死んで返しますではないのでお間違いのないように。

 

  • 映画『まあだだよ』は、百閒さんを慕う生徒が開いた『摩阿陀会(まあだかい)』で、かくれんぼ(亡くなられる)にかけて、生徒が「もういいかい」「まあだだよ」「まあだかい」「まあだだよ」によっている。映画は黒澤監督の百閒像である。百閒さんの作品を読むと黒澤監督よりもっと面白い百閒像を自分でつくることができる。百閒さんは、列車の旅が好きである。行先に目的があるわけではない。もちろん目的地に着かなくてはならないが、列車に乗っているのが旅なのである。

 

  • 目下『特別阿房(あほう)列車』『第二阿房列車』と読み進めているが、こだわりとその通りにすすむかどうかのせめぎ合いが愉しいのである。お金のことも出てくる。考えた収支決算のゆくえはいかに。鉄道唱歌の第一集、第二集の付録もおつなものである。

 

  • 百閒さんは、50歳になったときから汽車は一等に乗ろうと決めた。「どっちつかずの曖昧な二等には乗りたくない。二等に乗っている人の顔附きは嫌いである。」という。大阪へ用事のない汽車の旅を思いつき、行きは、一等で帰りは三等と決める。金銭的には二等の往復である。きちんとそこまで考える。ところが、切符が取れなくて行きは一等、帰りは二等となる。帰りは、帰るという用件があるから我慢する。ところが、お金の脚は長すぎてしまう。

 

  • 陸軍士官学校の教官のとき、仙台に出張となる。自分は京都に行きたいとおもう。仙台は初めてなので仙台も行きたくないわけではない。そこで、出張の途中京都に立ち寄ることにした。仙台、東京、京都では立ち寄るとは普通考えない。東京を通ったのでは駄目なので、仙台から常磐線で平へ出て、磐越東線で郡山に出て磐越西線を通って新潟へ行く。新潟から北陸本線を廻って、富山、金沢、敦賀、米原、京都へ行く。遠回りであるが、一日の内に太平洋の平から、日本海岸の新潟へ出てみたかったのと磐越東線という新路線を通りたかったのである。銭金(ぜにかね)は年度末の出張旅費だから心配することはないとしている。現代であれば、公費の無駄使いと炎上である。もしそうなっても、百閒さんは自分なりの決着をしたであろう。それにしても汽車旅名人である。

 

  • 映画『まあだだよ』の中で、先生は可愛がっていた猫のノラがいなくなって意気消沈する。食べ物ものどを通らない。先生の祈るような気持ちをあらわして戦争のガレキの中からノラが出てくる映像なども映される。小学校の門に立ち、ノラの様子を書いたビラもくばる。小学生が「猫なら沢山いるじゃないか。」というと先生は「君は弟がいるかね。」と聴く。「いるよ。」「その弟でなくどこの弟でもいいかね。」「いやだよ。」「おじさんもそれと同じなんだよ。」「わかった。いたら報せるね。」「頼むよ。」 黒澤監督は、戦争で子供と別れてしまった親の気持ちと子供の不安を、先生と猫の関係から描かれているなと感じた。ノラは帰ってこなかった。

 

『日本近代文学館 夏の文学教室』(第55回)から  (2)

  • 実際に戦争を体験していなければ戦争文学を書けないのかという事に関しては、作家・浅田次郎さんが1951年生まれで体験していないが書きますと。その代りウソを書くわけにはいきませんから調べます。当時の天候状態まで細かくしらべます。その事から、暑さに関して、昭和30年代の8月1ヶ月、31度が数日間であとは30度以下ですと言われる。暑いですが戦争よりいいです。ごもっともです。

 

  • 戦場で芥川賞を授与した作家・火野葦平さんについて話されたが、火野葦平さんは1928年に幹部候補生として入隊しているのである。どうして入隊したのか。大正軍縮というのがあり、こじんまりとした近代的軍隊にしようということで、そこで職をうしなった将校を学校などのへ軍事教練の教師として派遣した。早稲田大学生の火野さんは、そこで将校に勧誘されたのではないかという推理である。一年間だけの入隊で将校などの幹部候補生としての資格を得るわけである。ところが所持していたレーニンの本がみつかり伍長に格下げされて除隊となります。大正軍縮というのがあったというのも驚きですが、レーニンの本を持って入隊するというのも驚きです。

 

  • 火野葦平さんのお父さんは九州若松で石炭沖士玉井組の親方・玉井金五郎で、この父と母のことを書いたのが『花と龍』で映画化されている。火野葦平さんも波瀾万丈の中作品を書きますが、浅田次郎さんは、火野さんの『インパール作戦従軍記』を高く評価される。火野さんが、従軍作家としてビルマのインパール作戦に参加して事細かく手帖に書き記したもので、戦争の中の人物がよく描かれていて、自然主義文学は戦争文学に残っているといわれた。そして、戦争は一人一人の人生を破壊するものであると。

 

  • 『インパール作戦従軍記』の紹介チラシに 「文中に「画伯」として登場する同行の画家・向井潤吉のスケッチも同時掲載。」とある。向井潤吉さんは「民家の画家」ともいわれる、自然の中の民家を描かれている画家である。『向井潤吉アトリエ館』は思いつつ行けないでいる美術館なので意識的に繰り込もう。

 

  • 火野葦平さんの小説は多数映画化されている。『陸軍』(木下恵介監督)は、最後のシーンが戦意高揚に反するとされ、木下監督が一時映画から離れた作品であるというのは有名である。芥川賞受賞の『糞尿譚』(野村芳太郎)も映画化されていた。九州の若松港関係の作品などは任侠物となって映画化されているし、そのほか青春物もある。『ダイナマイトどんどん』(岡本喜八監督)も原案が「新遊侠伝より」となっていた。

 

  • 新橋演舞場で新作歌舞伎『NARUTO-ナルトー』を観てきた。うずまきナルトとうちはサスケという二人の若い修業中の忍者が成長していく話しであるが、ふたりとも自分の知らない過去を背負っている。その過去の事実が次第に明らかになりそのことにより悩み行動し成長していくのである。うちはサスケの一族の過去を死者から語らせ、うちはサスケに事実を教えるため先輩忍者が死者をよみがえらせ語らせる。死者をよみがえらせる術を使うことはその忍者の死を意味している。死をかけて伝えるのである。そんな術はないので、『戦争はなかった』という世界にならないように、ときには、過去をおもいいたる時間を持つしかない。

 

  • 作家・堀江敏幸さんは、岐阜の多治見市出身ということで昨年も講義の中に岐阜が出てこないかと捜されて、今年も目出度く出てきたのである。昨年の岐阜は、梶井基次郎さんの『檸檬』が発表されたのが同人誌「青空」で、お金がないため岐阜刑務所に印刷を頼んだのだが、誤植で「塊」が「魂」になっていたという話しをされた。もう一度その話をされたので、そうであったと思い出したのである。『檸檬』の冒頭。「えたいの知れない不吉な塊りが私の心を始終圧さえつけた。」今年は井伏鱒二さんである。井伏鱒二さんは梶井基次郎さんの『ある崖上の感情』を読んで凄いと思ったのだそうである。

 

  • 井伏鱒二さんも、陸軍徴用員として入隊(1941年・43歳)。国家総動員法(1938年・昭和13年)は、人も物資も、国が集めろ!集まれ!となればそれに従わなければならないのである。井伏鱒二さんは、シンガポールの昭南タイムス社に勤務する。1年で徴用解除となり帰国するがその間小説を書いて送れというので『花の町』を書く。堀江さんによると戦意高揚するような小説ではなく、そこに大工で長くいた古山を軍の上の人が通訳として徴用するのである。どこでも徴用できてしまうのには驚く。その古山が岐阜の多治見出身者だったのである。今年も岐阜とつながりました。

 

  • 徴用中も井伏鱒二さんは、梶井基次郎さんの『交尾』、『ある崖上の感情』に対抗するような胆力のある作品を書いていたということである。井伏さんの小説『駅前旅館』の映画が好評で駅前シリーズができるのであるから、井伏さんにはこの胆力の中心を動かす術もあるようにおもえる。堀江さんが『遥拝隊長』についても言われたので読んだが井伏さんの作家ならではの視線である。

 

  • 堀江敏幸さんも触れていたのであるが『遥拝隊長』の中で主人公は、移動中のゴム林のなかで眼にした白鷺を書いている。爆弾で穴があいたところに驟雨で水がたまり池になっていている。「その濁り池の一つに水牛が二ひき仲よく浸かって首だけ現わしていた。その片方の水牛の角に、白鷺が一羽とまっているのが見えた。水牛も白鷺もじっとして、これらの鳥獣は、工兵部隊の架橋工事をうっとりとして眺めている風であった。」 <うっとりと眺めている風であった> は作家の目である。白鷺はアニメ映画『この世界の片隅に』でも登場する。すずは白鷺に逃げなさいと追い立てる。水兵になった幼なじみが婚家へ訪ねて来てくれて白鷲の白い羽根をくれる。すずはそれを削って羽根ペンにするのである。書くこと、描くことを白鷺がつないでくれているようである。

 

『日本近代文学館 夏の文学教室』(第55回)から (1)

  • 日本近代文学館 夏の文学教室』(第55回)については書き込みする気はなかったのであるが、講師のかたがたの講議から読みづらいと思っていた作品などが読めたり、観ていなかった映画などを観て見ようと触発されたので書き記しておくこととする。講議に関しての報告というより聞いてどうつながったかということである。いつもながらの、どう勝手に飛んだかということでもある。

 

  • 作家・中上紀さんが、父上である作家・中上健次さんとの家族としての生活から作品に流れている原点や書き表したかったことなどを話された。そのことで、和歌山の新宮にある「佐藤春夫記念館」で購入した『熊野誌 第50号記念冊 特集 中上健次・現代小説の方法』が読めたのである。購入したときは全然受け付けなくて中に入ることができなかったのでほったらかしてあったが、もしかしてと思って読み始めたら進んでいけた。読めたからと言って理解したということにはならないのであるが、読めたということが嬉しかった。図書館で中上さんの作品を立ち読みし借りるかどうか検討できる段階には位置する。

 

  • アメリカで家族で暮らし、アメリカから熊野の新鹿(あたしか)で暮らすことになる。中上紀さんはアメリカへは逃避であり、熊野は漂着と表現された。熊野が漂着を受け入れる場所であると。中上紀さんが話す熊野は旅をした風景を思い出させる。ところがそこから一転、熊野で<二木島の事件>が起る。そのこと脚本にしたのが映画『火まつり』(柳町光男監督)である。観ていないが中上健次さんの中での熊野の一端が発せられているようである。作品『熊野集』あたりで探れるようである。

 

  • 中上健次さんは雑誌『文芸首都』に同人として参加し、同時期の同人に林京子さんと津島祐子さんがいる。津島祐子さんは、太宰治さんの娘さんである。講師の詩人・伊藤比呂美さんが太宰治さんについて熱く語られた。昨年は森鴎外さんを熱く語られ、鴎外は夫で、太宰は愛人であると宣言し、今年は愛人について書かれた詩も朗読された。伊藤比呂美さんは津島祐子さんに会われた事があり、その時津島さんが太宰の作品の中に自分の事が書かれていないか探したと語られ、言葉に詰まったようである。出てくるのは二箇所で、一箇所は太宰の奥さんである母に抱かれており、もう一箇所は話されなかったのでわからない。次の日、中上紀さんが父・中上健次さんとの家族生活について話されたので、同じ作家の子であるが津島さんとの違いを感じ、津島さんの求めた父の心細さがふっと哀しくさせる。

 

  • 林京子さんについて話されたのが、作家であり、長崎資料館館長でもある青来有一さんである。林京子さんは1945年(昭和20年)8月9日、長崎で被爆され、そのことを作品にされたが『祭りの場』である。『祭りの場』で芥川賞を受賞された。「経験のないものが、原子爆弾のことを書くうしろめたさ」を青来有一さんが語った時、林京子さんは「自由に書いていいのですよ、小説は自由です。」といわれて大変励みになったそうです。

 

  • 祭りの場』は、被爆されて30年たって書かれたのである。記憶も薄れているということもあってか、事実関係のみで書かれている部分と、自分が逃げるときに感じた感情とを分離して書かれていて、これが読みやすかった。読み手が変な感情移入でおたおたせずに、しっかり現実をとらえることができたのである。何が起こったのかもわからず、自分のことしか考えられずに歩き続けるのである。この時林京子さんは14歳。学徒動員で三菱兵器大橋工場で労働していて、爆心地から1.3キロの場所で奇跡的にたすかるのである。動員学徒、工員合わせて7500名が働いていて、行方不明が6200名となっていて、死亡が確認できない者で殆んど死亡とみてよいと書かれている。

 

  • 青来さんによると、林さんは14歳の時、体重29キログラム。食べる物がないので体力もなく長崎高女324名のうち40名くらいは休んでいたようである。読んでいてさらに悲しいのは、その日出張で工場に行かなかった先生が次の日から生徒たちを探しにいくのであるが、二次放射線による原爆症で一か月後に亡くなっている。それも亡くなる数日前から気が狂われた。林さんは、先ず生存していることを学校に報告しなくてはと学校に向かうのであるが、爆心地の松山町を通っている。林さんは、「放射能のこわさをしっていたらこんな馬鹿はしない。」と書かれている。途中下痢をして、そのことが後になって放射能障害であるということを知る。無傷でよかったと安心していた人々が、こんどはこの放射能被爆により亡くなり、不安とともに生きることになるのである。

 

  • 10月に二学期が始まり、始業式は追悼会から始まった。各学年1クラスずつ減って400名近い生徒が亡くなった。「生き残りの生徒が椅子に座る。生徒の半数が坊主頭である。」「生き残った生徒は爆死した友だちのために、追悼歌をうたった。」「私は時々追悼歌を口ずさむ。学徒らの青春の追悼歌である。」

 

  • 春の花 秋の紅葉年ごとに またも匂うべし。みまかりし人はいずこ 呼べど呼べど再びかえらず。あわれあわれ 我が師よ 我が友 聞けよ今日のみまつり。

 

  • 「アメリカ側が取材編集した原爆記録映画のしめくくりに、美事なセリフがある。 - かくて破壊はおわりました - 」

 

  • 作家・高橋源一郎さんからのお知らせあり。
  • 8月15日 NHKラジオ第一 20時05分~21時55分 高橋源一郎と読む「戦争の向こう側」 作品は野坂昭如(1930年生まれ・終戦15歳)『戦争童話集』、小松左京(1931年生まれ・終戦14歳)『戦争はなかった』、向田邦子(1929年生まれ・終戦16歳)『父の詫び状』、石垣りん(1920年生まれ・終戦25歳)『石垣りん詩集』
  • ミュージシャン・坂本美雨
  • 詩人・絵本作家・アーサー・ビナード
  • 詩人・伊藤比呂美 (えっ!大丈夫かなとおもったら、高橋源一郎さんもどうなるのか心配ですと。どうなるかわからないくらいエネルギーのあるかた。アニメ『この世界の片隅に』の浦野すずは1925年生まれで、終戦は結婚していて北条すずとなり20歳です。)

 

15分片づけの恩恵

  • たくさんのメモ帳が残っていて、15分片づけで一つ手をつけたら、半日没頭していた。その中に、救世観音(法隆寺)とあり、異形→円空もそれをまねる とあり、簡単な線画がある。仏像の衣がギザギザと角張っていて、内から気を発していることを表しているとあり、法隆寺の救世観音の衣もそうなのである。さらに髪がロック歌手のように逆立っているのも、気が発しているのである。これは目もつり上がっていて護法神とされるものである。円空さんの神仏像が飛鳥様式といわれるのがこういう形からである。どこかで円空仏に出会いそこでの解説のメモだったのかもしれない。

 

  • そのメモのあとに、堀の内の妙法寺とある。東京都杉並区堀の内にある日蓮宗の本山。 厄除けのご利益がある寺院として知られている。江戸時代から人気のある寺院であり、古典落語「堀の内」の題材にもなる。身延山久遠寺に別院清兮寺(せいけいじ)。 これは、身延山久遠寺に行ったとき清兮寺の本院が東京であったので検索してメモしたらしい。この妙法寺が春に訪れた柳島法性寺でいただいたコピーの中にでてきた。

 

  • 北斎さんと柳島妙見さまとの関係や北斎さんが日蓮宗の信者であったという伝記もあり、日蓮宗本山である池上本門寺と名刹堀ノ内妙法寺へも時々参詣していたとする文があったのである。妙見菩薩は日蓮宗で重視されている菩薩で、富士山も日蓮宗では重要な山岳なのだそうで、『富嶽三十六景」『富嶽百景』などからもその関係を展開している。近松門左衛門さんが江戸と関係ないのにその石碑がみつかり近松研究家を驚かせたそうで、それは、近松の曾孫が建てたもので、近松さんの菩提寺である尼崎市の広済寺にも同じような碑があり、妙見さまが祀られているからではないかとされている。

 

  • 矢野誠一さんの文章もあって、落語と芝居から中村仲蔵のよく知られている定九郎の工夫の話しがあり、さらにそれが落語になったとき、速記者や落語家によって題名がかわるということが興味をひいた。初代三遊亭金馬口演・石原明倫速記は『蛇の目の傘』、悟道軒圓玉速記は『名人初代中村仲蔵』。矢野さんがきいた古今亭志ん生は『名人仲蔵』、八代目林家正蔵(彦六)は『中村仲蔵』でやっていたとある。『堀ノ内』は上方では『愛宕詣り』となる。このメモも落語にひかれて書きとめたのかもしれない。落ちがあってよかった。これも必要なし、これももう終了とどんどん処分していけるのが気分を楽しくさせる。

 

  • さて一つの事がらでのメモ帳が『日本近代文学館 夏の文学教室』である。昨年のを見直すと、一年経っているのでチンプンカンプンである。その中で記憶にある一つが鹿島茂さんの『パリの島崎藤村』である。これは、角館に行った時、武家屋敷を見て歩こうとした初めの屋敷の前に「新潮社記念文学館」なるものがあったのである。新潮社の創設者・佐藤 義亮さんが角館出身でその顕彰として設けられたらしい。そこから始めてた。苦労して出版業に成功したことも面白かったが、島崎藤村さんのところで、姪のこま子さんとのことがあって、新潮社がお金をだしてパリに行ったとあった。藤村さん逃げたのかとむっときた。ところがそのメモを失くしたのでそのままであったが、鹿島茂さんがそのことに触れてくれた。佐藤 義亮さんが3万円を出したと。記憶違いではなかった。

 

  • 多くの文学者が藤村さんを見送り、田山花袋さんは藤村さんのパリ行に嫉妬したそうである。『新生』を発表したときは田山花袋さんも複雑な気持ちになったかもしれない。パリに行っていたのは1913年4月年から1916年4月までの3年間である。その間、新潮社から作品集や『春』などを刊行しているので新潮社もそれなりの目算はあったのであろう。

 

  • 有島生馬さんの紹介でパリ14区に賄いつきの下宿暮らしとなる。下宿の前は、ポール・ロワイアル女子修道院があったところで、藤村さんの住んだ頃は、産院になっていて、自宅でお産の出来ない人が、そこで産んで赤ちゃんポスト預けるということだったようだ。藤村さんも事情があってのパリですからどこにも出ずに静かに暮らしていた。そこへ小山内薫さんが訪ねて来て、外へ連れ出し、ニジンスキーのバレエを観たり、ドビッシーの演奏を聴いたりしている。藤村さんがニジンスキーのバレエを観たなんて驚きです。小山内薫さんがその時パリにいなかったらなかった事です。

 

  • 明治の人は、賛美歌から英語を学んでいるので音楽感覚はあったということで、これも初耳でした。さらに、その後、藤村さんと賄い婦さんとの間に何かなかったかと現地まで調べいったかたがいたらしく、賄い婦さんはシモンさんといい当時56歳で何もなかったようです。聴いていて苦笑してしまいましたが、文学史的にも大スクープとなったかもしれません。モデルは誰かなどと捜されますが、自然主義文学は私小説でもあり、いろいろ議論のタネが私的な部分になる原因でもある。

 

  • 『戦争と巴里抄』の「リモオジュの客舎にて」では、第一次世界大戦がはじまり、パリを離れリモオジュの田舎に移るが、この宿舎は「ここの年老いた主婦は巴里の宿のシモネエ婆さんの姉にあたる人です。」と書かれてあり、シモンさんは面倒見の良い人の様である。シモン姉妹は婆さんとされており、有島生馬さんも、下宿を紹介するにあたっては考えられたと思う。そんなわけで、知らなかったパリでの藤村さんの様子が少しわかったのである。

 

  • 明日から『日本近代文学館 夏の文学教室』第55回が始まる。今年は暑いので止めようと思ったが、少し涼しかったので頑張る気になった。しかし、暑さの中出かけ、冷房の中で睡魔に襲われるような予感である。そんなわけで、書き込みはしばらくお休みである。これはメモになるが、有島武郎さん小説『生まれ出づる悩み』のモデルである画家の『木田金次郎展』が府中市美術館で開催している。(~9/2)これは忘れないで行きたい。