奈良の柳生街道 (1)

「奈良の柳生の道を歩きたいのよね。」と旅仲間の友人に話したところ、「いつにしようか?」とトントンと決まる。決まってから、奈良のアンテナショップへ行き、奈良関係のパンフと柳生の地図をゲットして、柳生街道の様子を尋ねる。案内の方は、一日で柳生の里まで奈良からバスで行き、そこから剣豪の里コース、滝坂の道コースを歩いてもどったといわれる。バスの本数が少ないので、バスの時刻表もパソコンで調べ印刷してくれた。

私の足では、円成寺を真ん中として2日に分けることを提案。友人も、ゆっくり見つつ歩くとそのほうが良いと判断して、2日コースとする。円成寺の前が忍辱山(にんにくせん)バス停で、バス停と柳生街道が合流しているのはここだけと言ってよい。どの程度のアップダウンの道かは行ってみなければ分からない。案内の方の様子だと、ほどほどの高低さと思われる。一つだけ注意されたのは、滝坂の道で途中脇道があり地獄谷石窟仏が見れて滝坂の道にもどる道があるが、そこは、アップダウンがあるので雨の時は避けた方が良いとのアドバイスであった。

一日目と二日目の行程をどう取るかである。私が、柳生の里にある、茶店で赤米のお粥を食べさせるところがあるらしいので、そこで昼食にしたいと希望を出す。彼女は検討してくれて、1日目は、奈良からバスで忍辱山(にんにくせん)バス停まで行き、円成寺には寄らず柳生の里を目指し柳生街道を歩き、「柳生茶屋」で昼食をして、柳生の里の見るべきものをみて、バスで奈良にもどる。2日目は、忍辱山バス停まで行き、円成寺を見て滝坂の道を奈良に向かう。後は、見学の時間を調整しつつ、バスの時間に合わせての行動である。

どうなることかと思った台風も過ぎ、一日目の行動開始。近鉄奈良から忍辱山バス停まで30分位である。そこでバスを降り、バス道路から柳生街道の道に入る。地図は柳生の里から忍辱山バス停までへの書き方なので、私たちは逆コースであるから、地図で上りなら実際は下りと反対に考えなければならないのである。友人がしっかり地図を見て進んでくれるので心強い。川の水音がし、木々に囲まれ嬉しくなる。梵字を彫った石碑なども道端に立っている。柳生の地で最も格式高い<夜支布山口神社(やぎゅうやまぐち)>。ここの神の分霊は、大柳生の二十人衆が一年ごと交代で預かる習慣があるらしい。こういうのを「回り明神」というらしい。この本殿の北側には、<立磐神社(たていわ)>もあり、巨岩が御神体である。この辺りは巨石信仰が多い地である。

 

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そこから大柳生の集落に出るための道に入っていくのであるが、途中で道を間違え聞くにも畑には人もいない。戻って道標をもう一度確かめ、木々に覆われた道を進む。台風の後で、道に水たまりがある。しかし、山栗も落ちていて 「いいね。忍者がでてきそう。」 人里に出る。柿の木は、たわわにびっしり実をつけている。誰かいないであろうかと人を探し、一個だけ柿を所望する。するとその方、その柿は渋柿だからと、車に積んだ取ってきたばかりの柿をくださる。ほのかに甘い柿を食べつつ民家の間の道を歩いていたら、大きなバス道路が見える。これはおかしいと引き返す。柿に夢中で道標を見ずに進んでいた。帰りのバスがこの辺りのバス停で、通学の子供達がこちらのバスから違う方向のバスに乗り換えていた。通学の子供用に、学校の開校日のみ運行するバスがあり、路線バスがスクールバスを兼ねているのである。

大柳生を過ぎると、坂原の庄で、その先に<南明寺>があり、本堂は鎌倉時代のものであるが、中は予約制のため見れない。<南明寺>の裏の石垣の下には、<お藤の井戸>がある。柳生但馬守宗矩(むねのり)と側室お藤の方が出会った場所である。洗濯をしていた娘に「桶の中の波の数は」と尋ねたところ「波(七×三)は二十一」と答え、「ここまでお出でになった殿様の馬の足跡の数は?」と問い返した機知が気に入ったようである。ここで、20人ほどの団体の方達と出会う。私たちは道に迷ったりしたが、この団体のかた達の世話役のかたは、事前に歩いて下調べしていた。ここから先は上ったり下りたりして阪原峠(かえりばさとうげ)を越えると巨岩に彫られた<疱瘡地蔵(ほうそうじぞう)>が迎えてくれる。疫病神から守ってくれるのが疱瘡地蔵である。

 

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そこから、<天乃石立神社(あまのいわたち)><一刀石>へのうっそうとした森に入っていくのであるが、<天之石立神社>と<一刀石>を見てきた二人の女性が、「良かったですよ。十兵衛杉は枯れていました。円成寺までどれくらいかかりましたか。」など情報交換である。「円成寺からここまで4時間ちょっとかかっています。途中道に迷いましたので。」このお二人は円成寺のバス停で4時のバスにのられたので、円成寺を見学されたとすると、私たちのように、柿など食さず道に迷うことなくたどり着かれたようである。

 

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<天乃石立神社>は平安前期に記録のある古い神社で、三つの巨岩が御神体である。<一刀石>は、幅八メートルほどの巨岩の真ん中が一太刀入れたように割れているのである。ある夜、柳生宗厳(むねよし・石舟斎)が天狗を切り、次の朝見ると巨岩が裂けていたというのである。見事な裂け方である。ここから剣豪柳生一族の住んでいた場所の見学へと続くのである。

 

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2014年11月2日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

鎌倉『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』公開

鎌倉市の秋の施設公開で、『旧華頂宮邸』『大佛次郎茶亭(野尻亭)』『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』が、10月4、5日に公開された。『大佛次郎茶亭(野尻亭)』『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』は鎌倉駅から近いので、いつでもと思いつつやっと実現である。今回はこの二つを中心に据えての訪れとした。『大佛次郎茶亭(野尻亭)』のほうが時間的に先に訪ねたが、映画のこともあるので、『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』からにする。

ヨーロッパ映画の輸入に貢献された川喜多長政、かしこさんご夫妻の邸宅跡に鎌倉市川喜多映画記念館 が建て変えられ、その同じ敷地に別邸として『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』が残されている。旧和辻邸とあるように、東京の練馬にあった哲学者・和辻哲郎さんの住まわれていた江戸時代後期の民家を鎌倉に移築したものである。この別邸には、多くの海外の映画監督やきらびやかな映画スターが訪れている。

アラン・ドロン、フランソワ・トリュフォー監督、サタジット・レイ監督など、記念館にその写真パネルなども多く展示されている。映画『聖者たちの食卓』でのトークイベントで神谷武夫さんが、司会者にインド映画について尋ねられたとき「岩波ホールで上映されたサタジット・レイ監督の三部作(『大地のうた』『大河のうた』『大樹のうた』)もよいが『チャルラータ』がよかった。」と言われていた。残念ながら『チャルラータ』はDVDにはなっていない。私が驚いたその後のインド映画は『ボンベイ』である。美しい別天地のような歌あり踊りあり。テーマは宗教の違う男女の愛を、実際にあったヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いを背景に描いていたのには呆気にとられた。そして、宗教の違いの難しさも知らされた。

『旧川喜多別邸』は、入れるのは土間の部分であるが、開け放たれた縁側からも、テーブルと椅子の置かれた居間と和辻さんが書斎として使っていた部屋を見ることができる。

 

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縁側には、先日亡くなられた、山口淑子さんと川喜多長政さん、川喜多夫妻、フランソワ・トリュフォー監督とマリー・ラフォレさんと田中絹代さんが一緒の写真パネルが置かれている。この家で写されたものである。『東京画』でインタビューを受けられた笠智衆さんと、ヴイム・べエンダース監督 の写真もある。様々な映画人を包み込んだ家屋である。

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「記念館」の特別展は<映画女優 吉永小百合>で吉永さんが出演した映画ポスターが展示されている。吉永さんのデビューは1960年の『電光石化の男』であるが、同年に『不敵に笑う男』『霧笛が俺を呼んでいる』『疾風小僧』にも出演され、全てに(新人)とされていて、日活が力を入れていたことがわかる。展示されたポスターのところどころに吉永さんのコメントがある。吉永さんも印象的なこととし『キューポラのある町』の永六輔さんのメッセージが紹介されていた。<この映画でもう映画に出ないで欲しい>というものであった。それほど、主人公のジュンが生き生きとしていて、ジュンが吉永さんか、吉永さんがジュンか区別できないほどの演技力だったからであろう。吉永さんのコメントを読んでいると、吉永さんが放送関係から子役としてこの世界に参加し、映画の撮影現場とその作品からご自分の感性と生活感覚、社会感覚を育てられていったことがわかる。

『幕末』で、中村錦之助さんと仲代達矢さんの個性に挟まれてのお良、『華の乱』の与謝野晶子、『北の零年』の志乃など、自分の意思を前面に出す役のほうが、輝いて見えるのだが、受け身のほうの小百合さんを好きなサユリストが多いかもしれない。

モントリオール世界映画祭で二冠を受賞した『ふしぎな岬の物語』の受賞現場の映像も放映されている。これから12月25日まで吉永さんの映画や共演者の浜田光夫さんのトークイベントなどが目白押しである。

観ることはできないが、書棚には、見たいと思うVHSがずらーっと並んでいる。そして映画関係の本も。本のほうは時間さえあれば見放題である。ここは、小町通りから少し入っただけなのに静かで、4回ほど立ち寄っている。そして、いつも指を加え、棚を見上げ映画のタイトル名を眺めるのである。

2014年の<郡上おどり>

2年連続の郡上八幡での<郡上おどり>となった。郡上八幡を訪れるのは、三年連続である。昨年も無計画の思い立ったが吉日の旅であったが、今年もである。友人が今年は踊りに行くというので、<郡上おどり>のDVDを貸す。そしてはたと考える。ここは2日空いている。ここで、そうだ郡上おどりに行こう。

初めて郡上八幡を訪れた時、郡上八幡博覧館で<郡上おどり>に出会い、DVDを購入。かつて日本舞踊一筋だった友人にDVDを送り付け、彼女ににわか仕込みで習い<郡上おどり>に初参加。今年は出かける3日前に、彼女を誘ったところ「行く!」の即決。誘って良かった。一応、教えを受けたお返しの一部となった。付き合いが長いから突然の誘いにも驚かないし、3回目であるからこちらも旅の先導は出来る。

岐阜から郡上八幡へのバスに乘る人たちの中の一団の女性達は、キャリーバックを引きどうやら浴衣を持参でのおどりの参加の方々のようである。こちらは今回も思い立って突発の旅なので、下駄だけはと思ったが、誘った以上は帰るまでが旅なので、靴での参加とする。

<郡上おどり>は有名なので、観光化していない<まち>と<人々>と<おどり>に友人は驚いて 「こんな所が日本に残っていたの!」 と喜んだり、感嘆したりと忙しい。踊ったあとの感想も。「こんなに無心になって踊れるおどりも珍しい。」 「見ている人がほんの少数ね。」 見物するおどりではない。自分が踊るおどりである。そして、いつしか無心になって踊っているのである。「誰が世話役さんなのか、地元の人なのか、よその人なのかわからないわね。」「基本の形を守って美しい踊り方をしている人が沢山いて凄い。」 よそ者でも踊りに参加させえてくれる場を提供してくれることに感謝しつつ、静かに溶け込んでいく。この美しいというのは、優雅というのとは違う。農耕民族の形と私などは思っている。

この日は、宗祇水神祭(そうぎすいじんさい)の日であった。<郡上おどり>は縁日おどりでもあり、神社仏閣の多い郡上八幡では、自然に夏に多い縁日に欠かせないものとなったようである。7月半ばから9月初めにかけて30夜踊られるのも、町内の縁日に合わせている。 <宗祇水>は、藤原定家を祖とする東常縁(とうのつねより)から和歌を学ぶため宗祇がこの泉のそばに草庵を結んだことに由来してつけられた名である。8月20日には、宗祇忌に合わせ宗祇水神祭が行われ、地元本町の自治会が朝から町内を掃除し、宗祇水も丁寧にみがかれる。町内のかたが、御供え物をあげておられ準備されていた。夕刻には神事が執り行われたようである。常縁と宗祇に因み連句奉納もあるらしい。本町に出る石畳の道には両脇に、句の書かれた行灯が下がり、夜にはほのかな灯りで石畳を照らす。

そして、夜には宗祇水のそばの小駄良川(おだらがわ)で水中花火があり、清水橋から水中花火を楽しむのである。水中花火は初めてである。花火筒に点火して川に投げ込むと、一つの火玉が幾つかに分れ、流れの急なところで、その分散した光の玉が水中を潜っていき水の下から見えるのである。可愛らしい涼やかな光の玉である。 花火の終わった頃、本町では<郡上おどり>が始まる。昨年は岸剱神社(きしつるぎじんじゃ)川祭だったので、郡上城の下の城山公園でのおどりであった。今回は町中でのおどりである。何処の場所でも屋形を軸にその地形に沿った輪が出来ておどりが始まる。最初の歌から参加する。「かわさき」から始まった。やはり足がもたつく。

友人と熱中症になったら困るから水分とろうと言っていたのに、二時間近く隣でおどりながら口を利くこともなく自分の世界に入っていた。今年も<郡上おどり>を現地で踊れた! 別の友人達はこれから現地初おどりである。

東常縁が、郡上を発つ宗祇に送った歌

もみぢ葉の ながるる竜田 白雲の 花のみよし野 おもひわするな

宗祇の返歌

三年ごし 心をつくす 思ひ川 春たつさわに わきいづるかな

 

昨年の郡上おどり

郡上八幡での<郡上おどり> (1) 郡上八幡での<郡上おどり> (2)   郡上八幡での<郡上おどり> (3)

 

大坂天王寺七坂 <織田作さんの坂道> (3)

生國魂神社の木について織田作さんは次のように表す。

「それは、生国魂(いくたま)神社の境内の、巳さんが棲んでいるといわれて怖くて近寄れなかった樟(くすのき)の老木であったり、北向八幡の境内の蓮池に落(はま)った時に濡れた着物を干した銀杏の木であったり、」

そして、主人公は生国魂の夏祭りには、一人で行くのである。

「七月九日は生国魂の夏祭りであった。」「私は十年振りにお詣りする相棒に新坊を選ぼうと思った。ひそかに楽しみながら、わざと夜を選ぼうとおもった。そして祭りの夜店で何か買ってやることを、ひそかに楽しみながら、わざと夜をえらんで名曲堂へ行くと、新坊はつい最近名古屋の工場へ徴用されて今はそこの寄宿舎にいるとのことであった。私は名曲堂へ来る途中の薬屋で見つけたメタボリンを、新坊に送ってやってくれと渡して、レコードを聞くのは忘れて、ひとり祭見物に行った。」

主人公は、高津宮跡にある中学校(現高津高校)に通い、高等学校は京都の三高(現京大)へ行く。「中学校を卒業して京都の高等学校へはいると、もう私の青春はこの町から吉田へ移ってしまった。」 そして十年振りに訪れる機会が出来るのである。そして、名曲堂の父子に会い、新坊に会うのである。しかし、その父子も流れて行き、彼もまた流れて行く。彼は父子には何も言わない。しかし、私には、織田作さんが、騙されるなよと心の中でつぶやいているような気がしてならないのである。 「風は木の梢にはげしく突っ掛っていた。」

織田作さんは『木の都』として、木と風とそこに住む人々をサラサラと活写している。私は、わわしくまた書き加える。

高津宮は生玉真言坂を下りた千日前通りを渡った向いの少し高台ということになる。仁徳天皇が難波高津宮から竈の炊煙が見えないのを憂いたともいわれ、仁徳天皇を祀られている。そしてここのだんじり囃子が、あの『夏祭浪花鑑』のお囃子で、ここがその舞台ということになる。絵馬堂には、現藤十郎さんが襲名された時、団七九郎兵衛の絵馬を奉納されている。その西側には、北と南から上がってくる階段があり合相坂といって、真ん中で逢うと相性がよいのだそうで、その手すり部分に石が支える形になっていて、様々の方の名前の中に仁左衛門さんの名前も発見。落語の『高津の富』の舞台でもあり、五代目桂文枝之碑もあった。

『木の都』は、<高津宮の跡をもつ町><大阪町人の自由な下町の匂う町>である。

生国魂神社の前には、桜田門外の変に関連し、上方でも挙兵しようとした水戸藩浪士・川崎孫四郎の自刃碑と水戸浪士・高橋父子を匿った笠間藩士・島男也旧居跡の碑もある。大坂と水戸の坂の町の幕末の風。 坂のある町 『常陸太田』 (1) 坂のある町 『常陸太田』 (2)

そして、織田作さんの『蛍』は、伏見の寺田屋の女将お登勢の話となる。文句ひとつ言わず働き通しで諦めだけのお登勢が、薩摩の士の同士討ちの騒ぎのとき、有馬という士が乱暴者を壁に押さえつけながら 「この男さえ殺せば騒ぎは鎮まると、おいごと刺せ、自分の背中から二人を刺せ」 の最後の叫びを耳にしてから、お登勢は自分の中に蛍火を灯すのである。その蛍火は坂本とお良をも照らすこととなる。

蛇足ながら、幕末も加えてしまったが、『夏祭浪花鑑』の女だてに通じるかなとふと思ったのである。織田作さんに色数が多いと嘆息されそうである。

 

 

大坂天王寺七坂 <織田作さんの坂道> (2)

<愛染坂>の辺りが夕陽丘町となっている。この坂上の谷町筋には地下鉄谷町線の駅があり、四天王寺前夕陽丘駅である。<愛染坂>から<口縄坂>までは、下寺町筋にそって歩く。<愛染坂>を下るとすぐに、「植村文楽軒墓所」の石碑がある。遊行寺(円成院)で、人形浄瑠璃を文楽と命名することになった、初代植村文楽軒のお墓と、三代目を讃えた「文楽翁之碑」がある。

 

 

口縄坂>について、織田作さんは次のように記している。「口縄(くちなわ)とは大坂で蛇のことである。といえば、はや察せられるように、口縄坂はまことに蛇の如くくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である。蛇坂といってしまえば打(ぶ)ちこわしになるところを、くちなわ坂とよんだところに情調もおかし味もうかがわれ、」「しかし年少の頃の私は口縄坂という名称のもつ趣きには注意が向かず」「その界隈の町が夕陽丘であることの方に、淡い青春の想いが傾いた。」 そして、近くにある『新古今和歌集』の編者藤原家隆の草庵跡とされる場所でよんだ歌に触れている。< ちぎりあれば難波の里にやどり来て波の入日ををがみつるかな >

かつては、この上町台地は半島のように難波の海に突き出して、四天王寺の西側は波がぶつかる崖だったようで、その海に沈む太陽を見て極楽浄土を思う霊地であったようだ。織田作さんは、ここで、青春の落日に想いを馳せるのである。

現実の<口縄坂>はくねくねとはしていない。見通しのよい石畳の坂で途中から石階段である。お寺の白壁塀が良い感じである。坂を上りきったあたりに、織田作さんの文学碑があり『木の都』の最後の部分が刻まれている。夕陽というのは季節によって時間が異なり、お天気でなければならないし、この場所で見るというのはなかなか難問である。スタンプを押せるお寺は三寺あるが珊瑚寺でスタンプを押す。織田作さんがペンを持っていて<織田作之助木の都の坂>とある。

<口縄坂>から<源聖寺坂>に行く途中にも、萬福寺というお寺の前には「新撰組大阪旅宿跡」の石碑が立つ。今度は幕末である。境内には入れなかった。源聖寺の手前が<源聖寺坂>で両脇がお寺と土塀が続き、ゆるやかに石畳と石段が延びている。ここは四寺でスタンプを押せるが、一番近い源聖寺とする。このお寺の救世観音菩薩は花の観音様と呼ばれ親しまれておられる。ここのスタンプがまた面白い。台紙のほうに、「昭和末期まで源九郎稲荷がありました。今は生國魂さんに移っています。」 とあり、本当に生國魂さんで会いました。スタンプの絵は、こんにゃくをくわえたたぬきの背中に <こんにゃく好き 八兵衛はたぬきやけど> とある。これ大阪的というのか。<口縄坂>でちょっぴり哀愁を味わって居たら、狐にあぶらげ、狸にこんにゃく? よくわかりませんが面白い。今、生國魂さんには、源氏九郎稲荷と、松竹中座に祀られていた八兵衛たぬきが仲良く合祀されている。

 

 

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生國魂神社は、多くの神々が祀られている。主軸は、生國魂大神らしい。<生玉真言坂>から上がって行くと北門があり織田作さんの像が見える。織田作さんの好きな井原西鶴さんが織田作さんの視線を受けるような位置に座っている。西側には、文楽の物故者を祀る浄瑠璃神社、土木建築関係の人が崇敬する家造祖(やづくりみやお)神社、金物業界の人が崇敬する鍛冶の神様の鞴(ふいご)神社、女性の守護神と崇められる鴫野神社などなど。もちろん源氏九郎稲荷神社もある。本殿の方には、上方落語の祖・米澤彦八の碑もある。

本殿は豊臣秀頼が修造した社殿、桃山式建築で屋根が凄く複雑で、千鳥破風、唐破風、千鳥破風と重なっている。これは「生國魂造り」といわれ日本で一つしかないらしい。大坂大空襲で焼け、台風で倒壊、現在のは昭和31年に復興されたものである。ここで七つ目のスタンプを押して、完歩証を受け取る。スタンプは、「淀姫ゆかりの女性の守り神がまつっている」とある。

このスタンプなかなか楽しませてくれる。<逢坂>の一心寺では 「一心寺内酒封じの墓」とあり、本多忠朝が鎧兜で、酒封じと書いたしゃもじを持っている。酒封じの効き目があるのであろうか。<天神坂>の安居神社は、道真公の絵で 「安居の井戸はカン静め」 とある。主宰は、てんのうじ観光ボランティアガイド協議会さんでした。

織田作さんの『放浪』のなかで、主人公・順平は、叔母の養子となる。叔母の亭主であり順平の養父は、「叔父は生れ故郷の四日市から大阪へ流れて来た時の所持金が僅か十六銭、下寺町の坂で立ちん坊をして荷車の後押しをしたのを振出しに、」とある。この坂は<逢坂>と思われる。スタンプラリーの台紙に<昔は急な坂で荷車が坂を登りきれないので押屋(荷車を押す人夫)がいたそうな。>とある。

大坂天王寺七坂 <織田作さんの坂道> (1)

大坂の四天王寺から生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)までの間にある七坂とお寺を巡る道であるが、一心寺から生國魂神社をさらに北に進み、高津宮までを<織田作さんの坂道>とする。

一心寺から東に四天王寺があり、西に今宮戎神社がある。そこはすでに周っているので、一心寺から始める。七坂とは、<逢坂><天神坂><清水坂><愛染坂><口縄坂><源聖寺坂><生玉真言坂>である。

<口縄坂>には、織田作さんの文学碑があり、<生玉真言坂>を登り生國魂神社に入ったところに織田作さんの像があり、どちらも『木の都』の一文が彫られている。

寺町でもあり、一心寺の前の国道25号線の一部が<逢坂>となる。一心寺は、「お骨佛の寺」とあり、門が美術館かと思わせるようなデザインである。あうんの像は彫刻家・神戸峰男さんで、扇の四人の天女は秋野不矩さんの絵である。ここに収められたお骨は十年ごとにそのお骨で仏様を一体つくるのだそうである。大坂夏の陣では徳川家康の本陣となっている。このお寺で天王寺七坂のスタンプラリーがあると知る。定価100円である。簡単な絵地図ものっているので、スタンプラリーをしていくことにする。地図で見ると、谷町筋(東側で坂上)と下町寺筋(西側で坂下)の道が平行していて、そこに坂が梯子段のようにあるわけである。ただ私の所持した地図には、下町寺筋ではなく、松屋町筋とあるが、地元のかたの書かれた下町寺筋とする。

逢坂を下って下寺町筋に出て北に向かうと安居神社がある。ここは、大坂冬の陣で活躍した真田幸村が戦死した場所なのだそうで、このあたりは、大阪城の戦いの足音を聴いていた場所でもある。この神社は菅原道真公も祀っていて北側の坂が<天神坂>である。社務所の近くにかんの虫の治まる水がかつて湧き出ていて、道真公もここで水を飲まれたらしい。ここで2個目のスタンプを押す。樹木の茂るこじんまりとした神社である。

この辺りは伶人町と呼ばれ、「伶人」とは舞楽を奏する人のことで、四天王寺に仕える楽人が多く住んでいたらしい。

<天神坂>を降り切らないで北に向かうと清水寺があるのだが工事中で道がよくわからなかったので、お墓の上のほうから、境内に入る。ここには、天然の玉出の滝があり今でもこの滝に打たれる修行者があるらしい。坂だけのつもりが、歩いてみるとなかなか歴史的に面白い神社仏閣が多い。清水寺の横にあるのが<清水坂>で、坂上左手にある高校の校庭辺りに昔料亭浮瀬 があり、芭蕉や蕪村も訪れたとあるがそこまでは上がっていない。芭蕉と料亭はなぜか結びつかないが、東北の旅で、バスガイドさんが、芭蕉さんはお金持ちのところでは比較的長く滞在しているんですよと言われたのを思い出す。馬と一緒の家では何日も滞在することはできなかったであろう。清水寺のスタンプが芭蕉さんが大杯からお酒を口に流し込んでいるユーモアな絵である。<清水坂>は近年整備されたらしい巾の広い石段の坂である。ここから振り返ると通天閣が見えるそうだが、降りてくるときも次の<愛染坂>へと気持ちがいっているので見ていない。

清水坂

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<清水坂>から北に向かうと<愛染坂>があり、少し急な坂を上って行くと大江神社があり愛染明王が本尊の愛染堂があり「愛染さん」と呼ばれている。ここの夏祭りは有名らしく、織田作さんも、「7月1日は夕陽丘の愛染堂のお祭りで、この日は大阪の娘さん達がその年になってはじめて浴衣を着て愛染様に見せに行く日だと、名曲堂の娘さんに聴いていたが、私は行けなかった。」とある。なるほど、文楽の人形に『夏祭浪花鑑』で初めて帷子を着せたというのもわかる。愛染堂で、縁結は愛染さんのスタンプを押す。四つ目である。大江神社は、<愛染坂>を下る時に寄る。聖徳太子が四天王寺の鎮守として創建した神社と言われている。

 

愛染坂

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東北の旅・世界文化遺産 平泉(8)

一ノ関駅から<平泉世界遺産めぐり>のツアーバスに乘る。毛越寺 → 観自在王院跡 → 金鶏山(車中から眺める) →中尊寺 → 無量光院跡 と周る。世界遺産に登録されたのは、この五つと、これらが構成していた、仏国土(浄土)を表す建築・庭園および考古学的遺産群なのである。藤原清衡は中尊寺を、二代目基衡は毛越寺を、基衡夫人が亡き夫のために観自在王院を、三代目秀衡は無量光院を建立する。

京都が人口20万人のころ、平泉は10万人の都市である。毛越寺(もうつうじ)は、遺構と庭だけが残っている。大泉が池の対面には、「円隆寺」と称する金堂があったらしいが、今は想像するだけである。庭を時計廻りに進んでいくと、あやめ祭りで明治神宮から分けてもらったというあやめが満開であった。個人的には、あまり賑々しくして欲しくない。池に水を引く遣水もある。ここで歌を詠み酒をかわす曲水の宴が開かれる。若い頃来た時は、どこから歩いたのかかなり長い距離歩いた記憶があり、やっとたどり着いて、緑に囲まれた池が、わあーっと見えて、ここにこんな庭園がと感動したが、その後2回目であるが、その感動に勝ることはない。

初めての時は中尊寺から歩いて来たような気もする。もしそうなら、<奥大道>の一部を歩いた事になる。<奥大道>とは、博多から京都、白河の関、平泉を通り陸奥の外ヶ浜につながる道で、白河の関から外ヶ浜までが<奥大道>である。博多は、中国へ、外ヶ浜は北海道からロシアへ、交易のつなぐ経路だったのである。

毛越寺のすぐ東に観自在王院跡(かんじざいおういんあと)がある。ここには、基衡の妻が亡き夫の為に建立した、二つの阿弥陀堂があった。今は史跡公園となっているが、今回はその入口までである。

 

 

観自在王院跡の説明版から

 

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その周辺にある今現在の一般住民の新しい住宅は、景観を損ねない様なシックな色や造りになっている。この辺一帯の建物は、世界文化遺産の遺跡の上にあるわけで、家を新しくするときは、発掘して重要な遺跡がないかどうか調べてから、差支えなければ建てられるが、何か重要な発掘があれば、他に移転しなければならないそうである。敷地内の家屋の横を掘っているのをみて、バスガイドさんが、<物置か何かを建てるのでしょう。建てる前に発掘をして調べるのです。>という。北上川の近くの一帯に、<柳之御所>の跡が発掘され、ここに住んで居た方達は移転したそうである。世界遺産も、そこに住む方にとっては、遺産を守る心構えが必要で、世界遺産になったから人々が観光で訪れ経済的効果があるというだけの問題ではなさそうである。そこにどんな文化があったのか、理解してもらわなければ、移転の意味が薄れてしまう。

バスは、金鶏山を左手に見つつその麓を走り、中尊寺に向かう。金鶏山は信仰の山である。最後に行く無量光院跡(むりょうこういんあと)を先にふれる。無 量光院はこの金鶏山を背景に宇治平等院の鳳凰堂をしのぐ大きさの本堂があり、一年のある時期には、この本堂の阿弥陀堂から真っ直ぐ後ろの金鶏山の頂に日が沈み、阿弥陀様の光の道のように映ったらしい。代々引き継がれ現世の浄土思想が形造られていくわけである。

 

 

無量光院跡でのかつての無量光院の予想図

 

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平泉といえば、中尊寺。中尊寺といえば金色堂である。旅に出る数日前に記録映画『よみがえる金色堂』のDVDが見つかる。1962年(昭和37年)から7年かけて金色堂が修理されたが、その記録映画で、脚本・監督が中村麟子さんである。中村監督はこの記録映画で初めての出会いである。金色堂を覆っている覆堂を大きくして、金色堂をゆったりと拝観できるようにする。そして、金色堂の飾りの螺鈿(らでん)の修理、巻柱の菩薩の修理が丁寧に描かれている。そこに働く様々の方の細かい配慮と研鑽がやはり賞賛すべき価値である。落成式の時、今東光さんの姿が。今東光さんが、貫主の時であったのか。瀬戸内寂聴さんが出家されたのも、中尊寺の本堂である。話がそれたが、芭蕉さんが訪れた時は、覆堂があり、金色堂の全景はみていないのである。記録映画のお蔭で、一つ一つの螺鈿に人の手が見えてくる。

京に仏像の作成を頼むが足止めされてしまう。そのため、平泉は砂金、馬、アザラシの皮、絹物、山海の珍味など送り続けてやっと運び込まれたという話もある。とにかく想像以上の財力と雅文化である。義経が、京に入り貴族に歓迎されたのは、この平泉で身につけた平泉文化が奥州に憧れていた貴族たちを満足させたのかもしれない。そのあたりは木曽義仲と違うところである。

そして、奥州には名馬が揃っている。馬の扱いが上手かったのも、この奥州の平泉にいたからこそと思えてくる。そのことは、頼朝が平泉の財力と文化を恐れていたことでも想像がつく。義経が奥州の山中に逃げ込み、それを追いかけてまで、なぜ殺さなければならなかったのかと、頼朝の非情さを思ったが、これは頼朝にとってはいつかは、倒さねばならぬ勢力であったのだ。

バスツアーのため覚悟していた金色堂までの長い登り坂も、駐車場のお蔭で短くて済んだ。ところが、階段は登りも下りもなんとかなるのであるが、階段のない下りの坂が骨折の足の小指にひびくのである。最後にして、バランスの悪い歩き方となる。中尊寺のガイドさんも、まだまだ見るところはありますからと言われる。

西行の歌碑があり、西行も来ていたのである。 <きゝもせず 束稲やまのさくら花 よし野のほかに かゝるべしとは>。

芭蕉歌碑、毛越寺で <夏草や 兵どもが 夢の跡>、中尊寺金色堂で <五月雨の 降残してや 光堂>。芭蕉は毛越寺には寄らなかったようである。木曽義仲のことを少しふれたが、大津の義仲寺で、芭蕉の遺言で木曽義仲の墓の隣に芭蕉の墓があり驚いた事がある。木曽義仲は平家物語でも、粗雑に扱われているようで気になっていたのだが、機会があれば、もう少し尋ねたい人である。そして、奥州藤原三代、泰衡も入れて四代についても、もう少し知りたい。

 

 

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東銀座の歌舞伎座の前に、岩手県のアンテナショップがあるので、そこでパンフレットをもらってきたところ、サイクル自転車や定期観光バス、中尊寺境内と宝物館内の音声ガイドもあることがわかる。砂金は岩手県沿岸南部の気仙地方から平泉に運ばれていたのである。さらに、有料の詳しい資料もあった。そうか。アンテナショップへ行けばいいのだ。

このバスツアーのバスガイドさんは声がよく、『北上川夜曲』が美しい響きで車中を包んでくれた。

一応東北の今回の旅は、幕である。その断片はどこかで、顔を出すのであろう。

国立劇場にて  『東北の芸能 Ⅴ』 9月27日(土)14時開演  相馬野馬追太鼓、なまはげ太鼓、花笠踊り、寺崎のはねこ踊り、青森ねぶた囃子、鹿踊大群舞

 

       

      

東北の旅・青森~盛岡 (三内丸山遺跡)(7)

この旅の途中で、秋田県立美術館の情報の他に、他の仲間の高野山の旅行中のメールも入った。山歩きをする人なので、南海高野線の九度山(くどやま)駅から高野山の大門そして奥ノ院までの道を勧めたのである。大門までが19キロで、自分は歩きたくても無理である。メールには<6時間かかって登り、充実した気持ちで、これから夜行バスを待って帰ります。>とある。

達成感がこちらにも伝わる。 帰ってから、高野山の旅とこちらの東北の旅との情報交換で、資料などもあちらに行きこちらに行きで混乱している。嬉しいことに、高野山町石道<慈尊院から大門を経て奥ノ院>も、途中電車を使えそうで、私向きのコースを教えてもらえた。

東北の旅を早くまとめなければならない。

三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は、県立美術館から歩いて10分以内である。ここは、一時間おきくらいにボランティアガイドがあるので、それを利用させてもらう。集合時間までの空いた時間に展示室のほうを見学する。板状の土偶は初めてである。装飾用のヒスイや玉なども大きいものがある。外での見学は暑い日で、日蔭がなく頭の中は集中力が散漫であった。

この三内丸山遺跡は、江戸時代から知られているらしい。1992年から本格的な発掘調査が始まり、縄文時代の前期から中期の大規模な集落跡がみつかったのである。縄文文化は、約一万年間にわたって継続している。100年が100回である。であるからして、そこの土地の地層を深く深く掘って行くと、そこに埋められたものが解かり、その実際の断面図をみることができるようになっている。その他、床を掘り込んだ竪穴式住居、集会所、共同作業所、冬の間共同で住んで居たであろう、大型竪穴住居、地面に穴を掘り柱を立てた高床式住居などが、その遺跡あとに建てられていて、中に入り広さなどを体験できる。

写真でよく見る6本の柱の建造物は、あそこに直径、深さともに2メートルの穴が6つあり、穴の中に直径1メートルのクリの柱が残っていたのである。大きなクリの木の下で、ではなく、大きなクリの柱の下である。祭神用の建物だったのではないかといわれている。発掘していくと、住居があり、お墓があり、ごみ捨て場がありと一つのムラの形が解ったのである。ここで、先人達は、縄の模様の土器なども使いながら、長い間暮らしていたわけである。空を見上げると、夜は星が綺麗なような気がする。北海道、北東北を中心にした、縄文遺跡群を世界遺産へつなげようと、地元の方達は頑張っておられる。

 

 

 

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18の遺跡があって、三内丸山遺跡はその一つということになる。もし世界遺産になったら、18の遺跡を制覇しなければ、全部を把握したことにはならないということである。世界遺産受講講座などが必要となるかもしれない。

今も黙々と遺跡の発掘は行われている。発掘現場を見て、三内丸山遺跡を後にする。そして夕方には、盛岡である。次は、最後の一ノ関から平泉の旅である。

 

2014年7月13日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

東北の旅・五所川原~青森~盛岡 (青森県立美術館)(6)

五所川原から青森で一つ残念だったことがある。岩木山の頂上にいつも雲がかかっていたことである。岩木山の全貌を楽しみにしていたのだが、ついに見ることができなかったのが、心残りである。

新青森駅の観光案内で、<青森県立美術館><三内丸山遺跡>の行き方と時間配分を検討してもらいう。以前、<棟方志功記念館>へ行ったとき、バスの本数が少なかったことが頭にあったので、青森の場合、多くの観光は無理ときめていた。<青森県立美術館>と<三内丸山遺跡>は隣接している。係りのかたが、青森駅に行き新青森駅にもどることなど、幾つか調べてくれた。新青森駅から歩いて30分位なのであるが、今回は歩きはパスし、結果的にタクシーで新青森駅にもどることとなった。

<青森県立美術館>は思い描いていた通り、広い自然空間の中に、白い幾何学的な建物が居座っている。入ってすぐに高倉健さんの映画上映会のお知らせのチラシを見つける。モノクロの渋いチラシである。展示物を観終ったあとで、ここで、横尾忠則さんのポスターがあって、高倉健さんの任侠映画が見られたらシュールでこの白い建物との対抗が面白かったのにと思ったりした。上映のなかに任侠映画は、入っていなかった。

最初の展示室が<マルク・シャガールによるバレエ「アレコ」の背景画>で、バレエ舞台の大きな背景画の綿布が三点展示されている。シャガールがアメリカに亡命していた時に手がけたものである。伝説的なロシアのバレエ団バレエ・リュスには、ピカソやマティスなども係っていたが、シャガールも、その流れをくむバレエの舞台美術や衣装に携わっていたのだ。今、国立新美術館で『魅惑のコスチューム:バレエ・リュス展』(6/18~9/1)を開催している。

<第一幕 月光のアレコとゼンフィラ>→青 <第二幕 カーニヴァル>→赤と黒 <第四幕 サンクトぺテルブルクの幻想>→左手の黄色のロシアの町  →の後は自分のメモで、色使いが印象に残ったのであろう。

次が、奈良美智さん。韓国で展示された「ニュー・ソウルハウス」という、作られた小さな開放された部屋の中の展示を見て移動するのが楽しかった。壁に囲まれた外には巨大な白い犬の作品がある。頭は青い空の光を受けている。「あおもり犬」。実物では感じなかったが、絵葉書の「あおもり犬」は随分悲しい表情である。光と影のコントラスであろうか。写真の枠に入った悲しさかもしれないと勝手に解釈する。

 

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奈良さんの作品はよくわからないのである。ただ今日、或る人にカチンときて、そうだ、この気分で、奈良さんのにらむ少女とにらみ合いたいと思った。そんな鑑賞の仕方もありかな。

次は、棟方志功展示室。志功さんも、故郷の青森ねぶたが大好きな方である。自らも、作品も、制作過程も、あの躍動感はお祭りのようであり、祈りがある。棟方志功記念館でのほうが、見る側の状況との連鎖反応からか、物凄い生命力が押し寄せてきた。今回は冷静に線や色などを楽しんだ。

最後は 「寺山修司×宇野亜喜良 ひとりぽっちのあなたに」の部屋。その時は<ひとりぽっちのあなた>の気分ではなかったので、このポスターは観た事がある、こんなポスターもあったのかと、宇野さんの細い線、ファンタジーでありながらそれを裏切る無機質な感じを楽しんだ。ポスター「毛皮のマリー フランクフルト公演版」の、映画『大いなる幻影』の捕虜収容所所長役のエリッヒ・フォン・ストロハイムが描かれているのが好きである。このポスターを初めて見た時、<あの収容所の所長だ。>とそのことだけ判ったので好きなのである。前衛とされるものの中に自分の知っているものがあると安心するものである。ただそれだけのことであるが。「毛皮のマリー」の脚本を読んだとき、毛皮のマリーの入浴しているそばに、<その傍らに、なつかしいエリッヒ・フォン・ストロハイム氏を思い出させるような下男がタオルを持って、ほぼ直立不動の姿勢で立っている。>とあったので、そのポスターの無機質性に立体感が加わったのである。ポスターハリス・カンパニー所蔵の物も沢山展示されていた。苦労して収集された物が生かされ、その仕事の意味が伝わる。パソコンを閉じて旅に出よう

インパクトの強い方々の作品が、なぜか、青森という土地の空気に飲み込まれて、大人しすぎた。晴れ渡った暑い日であった。それでいながら、冬になると別世界の自然に立ち向かうことが想像出来てしまう。冬の季節のなかで、この美術館を訪れたい。想像とは違う何かが見えるのかもしれない。

 

2014年7月11日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

東北の旅・青森五所川原の町(5)

五所川原に泊ったのは、次の日の青森までの到達時間が適当であったことと、ホテルに温泉があったからである。温泉でなくとも、大浴場があると、やはり疲れがとれる。今回の旅は、骨折を予期していたようなゆっくりタイプである。いつもは、ホテルで、次の日の予定を決めるのに時間を取られるのであるが、今回はその必要もない。そんな気力もないほど疲れてしまい早々と寝入ってしまった。身体は不思議なものでどこかが悪いと、かばうのであろう。旅のあと、それが腰にきてしまった。

さて、太宰治に関してもう少し付け加える。金木と五所川原を、太宰さんは小説『津軽』で次のように表現している。<大袈裟なたとえでわれながら閉口して申し上げるのであるが、かりに東京を例にとるならば、金木は小石川であり、五所川原は浅草、といったようなところであろうか。ここには、私の叔母がいる。幼少の頃、私は生みの母よりも、この叔母を慕っていたので、実にしばしばこの五所川原の叔母の家へ遊びに来た。>

太宰は、母が病弱だったため生まれるとすぐ、乳母に育てられる。三歳のころ、子守りのたけが太宰に付き添う。叔母とたけについては、小説『思い出』でも語られている。五所川原へは、たけも一緒にいっている。そして、小学校に入るとたけは突然いなくなる。お嫁にいったのだが、太宰が後を追うのではないかとの懸念からか黙っていってしまう。お盆には訪ねてくるが、よそよそしかったと書いている。そして小説『津軽』は、最初から『津軽』を書くために郷里を旅し、たけを探す旅となっている。

太宰の実家の<斜陽館>は、五所川原から津軽鉄道に乗り換え、6つ目の駅である。以前金木は訪ねているので今回は予定に入れていない。それなのに太宰さんと会えるとは、旅の面白さである。こちらのNPOの団体が太宰の訪れた叔母さんの蔵を、現在復元再興を前提に解体し保存していて、記念館にしたいとしている。<立佞武多>を復活させた町なので、成し遂げるような気がする。

青森と弘前のねぶたは知っていたが、五所川原は知らなかった。正式には、青森は<ねぶた>で、弘前は<ねぷた>らしい。五所川原は<立佞武多(たちいねぷた)>である。<立佞武多の館>に行くと、高さ23mのねぷたを見ることが出来る。4階の高さで、ねぷたの顔が目の前にある。こんにちわである。このねぷたは、明治時代に隆盛を極め、電気の普及により、電線が邪魔をし、低いねぷたになったのであるが、1996年に市民有志が22mの大ねぷたを復活させる。そのねぷたは燃やしてしまうが、その炎は市民の心に灯され、1998年に<五所川原立佞武多>として、90年ぶりに復活させる。実物を見て、写真を見ていくと、1996年の市民の気持ちが伝わってくる。

時期によっては、制作作業を見学できるらしい。巨大スクリーンと係りの人の解説付きで映像が見れるので立佞武多がより身近なものとなる。三体のうち毎年一体は新しくされ、今年は<国姓爺合戦>の和藤内の虎退治のようである。歴史的な題材で、義経、陰陽師など歌舞伎にも通じるものが多い。ねぷたの背面絵も興味深い。葛の葉があったりする。お祭りの時は、この館のガラス面が開き、立佞武多が出陣する様は圧巻間違いなしである。形は逆三角形で、一番下の台座に<雲漢>の文字がある。これは<天の川>の意味で、青森ねぶた、弘前ねぷたにもあるらしい。「ねぷた祭り」は、七夕の日の「眠り流し」(燈籠流し)が起源という説があるのだそうだ。今夜の天の川は、遥かかなたのようである。

 

ねぷた

 

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友人に<立佞武多>の絵葉書を送る。<感動したのに納得>とひと言付け加える。友人も去年同じところを骨折したらしい。そちらの同じ道は通りたくないのであるが、仲間意識が強すぎる。

五所川原には、青森県一の富豪がいて、その人の住まいは<布嘉>と呼ばれ、<斜陽館>と同じ弘前の棟梁が建てている。そのレンガの塀が少し残っていた。その屋敷のミニチュアが、<布嘉屋>という資料館にあるそうだが開館時間が過ぎていた。兎にも角にも、五所川原宿泊も上手く行ったことになる。

内田康夫さんの『津軽殺人事件』には、<斜陽館>や<五所川原>の事も出てくる。<斜陽館>は、旅館だった時代で、印象があまりよくなかったらしい。浅見光彦さんには、『旅と歴史』だけの仕事で、もう一度訪ねてもらいたい。今回の旅に『砂迷宮』(内田康夫)を持参したが、開かずに持ち帰った。この本に手がいったのは、泉鏡花の『草迷宮』と、寺山修司さんが泉鏡花のこの作品をもとに映画化しているということを知ったからである。今、読み始めている。

五所川原の<立佞武多>を太宰治さんに見せたかった。もし見ていたら、彼の中で何かが変わっていたような気がする。

 

東北の旅・五所川原~青森~盛岡 (青森県立美術館)(6) | 悠草庵の手習 (suocean.com)