奈良 山の辺の道 (1)

奈良の『山の辺の道』も長い間のあこがれの道であった。柳生街道を歩いた時、次は山の辺にしようと旅の友と話ていたのだが、思いの外、とんとんと話が決まった。その話を聞いた仲間が一人、歩き通せないときは途中から電車かバスにするのでと参加を希望。旧東海道を一緒に歩いたこともあり、私より大丈夫である。三人での『山の辺の道』となる。JR桜井線と思ったら、JR万葉まほろば線となっている。通じる間は桜井線で押し通す。

桜井線の天理駅から桜井駅まで15.9kmである。アップダウンも無さそうだし、7時頃から歩き始めるというので、桜井駅を3時から3時半として、桜井駅から奈良駅に向かい奈良駅の一つ手前の京終(きょうばて)駅で降りて、ならまちへ向かう。私はならまちは散策済みなので、国立奈良博物館の『正倉院展』が6時までなのでそちらへ行き、二人でゆっくり散策して近鉄奈良駅前で落ち合うという計画であったが、桜井駅についたのが4時半近くであった。最初から最後まで歩くペースは変えずスローペースのほうで、昼食以外に甘味処に入ってしまったのも、時間のかかった原因でもあるが、栗のアイスは大当たりであった。という事で、一日たっぷりの『山の辺の道』であった。

天理駅から石上(いそのかみ)神宮をめざす。先ずはアーケード街の長さに驚く。それから、帰りに電車から天理駅前のイルミネーションが見えた。そうである。帰りの天理はもう陽が落ち真っ暗であった。<石上神宮>は日本最古の神社である。ただここで注目は、その中にある古い建物である。男性がその建物の床下を覗いて回っている。柱の下は、新しいコンクリートが敷かれている。何を見られていたのか。私たちもその後覗くが解らない。この古い建物は、先に出てくる、内山永久寺跡の、内山永久寺にあった、拝殿を移築したもので、国宝<出雲建雄神社拝殿>であった。国宝と知ると、ほうーと感心する三人である。

内山永久寺跡はその前にある本堂池と萱の御所跡の碑(後醍醐天皇が吉野遷幸のおり立ち寄ったとされる)が往時を偲べる自然である。まだ紅葉には早いが、池に色づき始めた木々を映す。ここは桜の名所でもあるらしく、芭蕉が、<うち山や とざましらずの花さかり>、よその人はしらないであろうが、ここは素晴らしい桜だ、とよんでいる。よそ者も知ってしまった。

このあたりから、見つかれば歌碑も目にしていく。先導の友が、パンフレットで意味を読み上げてくれる。残りの二人の解釈に疑問を投げてのことである。<月待ちて 嶺こへけりと聞くままに あわれよふかき 初雁の声>  「月の美しいよる、男女が一夜を共にし、明けがた初雁の声を聴いたのよ。」「そんなこと全然書いてない。月の出を待ってあの嶺をこえてきたんだな、この夜更けに初雁の声がしていると書いてある。」「万葉だとそんな味気ない歌じゃないんだけどなあ。」「山でさえ、恋の争いをするのにね。」それ以降、二人は歌の解釈は御法度である。

夜都伎(やとぎ)神社を過ぎると、<せんぎりや>と看板のある無人の無料休憩所&販売所。有料の飲料水、果物などもある。お茶の用意もあって、なんかお遍路さんになった気分。インスタントコーヒーを頂きつつ、新鮮な野菜や果物に嘆息。柿が大好きな友は、悔しがる。途中で食べれるからと小粒のみかんを買う。軽いからと、カラカラに干した切干大根、カリンのチップ、小豆、などをそれぞれ購入。裏では、年配の女性のかたが、柿を剥いて干し柿を作られている。友はさっそく、ここの干し柿は何月頃ですかと尋ねる。「12月です。」

紅葉はまだだが、柿の葉は赤く美しい。この辺りからが無人販売所があれば、全て覗いていく。もう一人はあまい<万願寺とうがらし>を探していて探しあてることが出来た。真っ赤な唐辛子は、飾って置きたいような赤である。リュックの空がなくて幸いかもしれない。大きければ買い出しスタイルの名演技賞となったであろう。稲刈りあとには、小さな稲ボッチが並び、木には蜜柑と柿。秋の里山満喫である。道は竹之内・萱生(かよう)環濠集落へと続く。環濠(かんごう)集落とは、南北朝の乱世のころ、自分たちの暮らしを守るため村の周囲に濠を張り巡らし自衛した集落である。

萱生集落で、柿だけ売っている家があった。その家のかたが、みかんと柿を作っていたが、今は柿だけで、この柿は特別甘いと言われ試食させてくれた。本当に甘かった。ついに柿好きの友は陥落である。そのご主人が、この山の辺の道について教えて下さった。講演会があってそこで聞いてきたのだそうである。どしてこの辺りに古墳が多いのか。古墳を造るために道が必要である。石材などもそうであるが、大きな古墳には、多くの人々が係っていたわけで、その人たちの食糧を運ぶためにも道は必要だったわけである。その道が『山の辺の道』なのだそうである。そしてこの道が出来たことによって、この辺りに沢山の古墳が作られることになったというわけである。この萱生集落のそばにも西山塚古墳がある。この先には大小様々の古墳があるから、眺めて行きなさいと教えてくださる。古いお家なので、何年位立つのですかとお尋ねすると、自分が生まれた時に建てたから80年ということである。80歳になられても、好奇心をもたれ、美味しい柿を丹精込められて作られているのである。この柿が萱生の刀根早生(とねわせ)である。

「つまらぬことを話しました。」「いえいえ大変参考になりました。有難うございます。ご馳走さまでした。」

労役という税金もあったわけであるからと、<労役>を調べたら、奈良の高取町には土佐の名前が残っていて、四国の土佐から労役で渡って来た人々の町とある。そうか、労役は、都近くの人々だけではなく、遠方の人々も都に 来ていたのである。教科書で習ったときの実感がいかに薄いかがわかる。そして、この辺りから、柿本人麻呂の歌が多くなる。

奈良の柳生街道(3)

2日目。滝坂の道コースである。この道は石仏を見て歩くコースである。どんな現れ方をしてくれるのかワクワクである。先ずは1日目見ることの出来なかった<円成寺>からである。思っていた以上に心地よい迎え方をしてくれる。楼門(ろうもん)と本堂を映す庭の池が、これは紅葉の頃はたまらない美しさであろうと溜息が出る。さぞ混雑するであろうと思うが、お寺の方の話しだと、駐車場がバス2台しか入らないそうである。ここは、バスの便を考えるとどうしても避けてしまい、先に他をと思ってしまう場所である。

 

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円城寺>には、 運慶の最初の作品ではないかと言われる、若き運慶作の国宝大日如来像がある。後白河法皇によって寄進されたという多宝塔(現在は三代目)に安置されていて、保護のためにガラス張りである。光の加減から、ガラスに顔を近づけ両手で光をさえぎって観るとよい。写真でしかはっきりと観れないが、均整のとれた姿で、頬がふっくらとしていて、髪の毛一本一本がわかるような彫り方である。

他の女性お二人は、神奈川の金沢八景から来られていて、金沢文庫にこの仏像がきたとき、間近から拝観されたそうである。うらやましい。このお二人から、急に滝坂の道を私たちもこれから行きたいと言われたのであるが、私たちは初めての道で、昨日も道に迷っているので、申し訳ないがご一緒出来ないとお断りする。本堂の阿弥陀如来坐像、可愛らしくて聡明な聖徳太子立像、四天王立像などを拝観し、1時間ほどここで時間を取り出発である。

さっそく石畳の道となり東海道の箱根を思い出す。迷うことなく順調に進む。広い道路から集落に出て、峠の茶屋があるが、茶屋は閉められていた。これからいよいよ石仏群の道に入るかなと思ったら、左手に無理をしないようにと言われた道の入り口にさしかかる。そこで後ろからこられた夫婦連れのかたに挨拶すると、お二人は左の道を進むという。何回か来ていてその道を歩いているということなので、同道を申し入れる。快諾してくださる。やはりアップダウンの道である。

地獄谷石窟仏>を観ることができた。以前は無かったというが、やはり保護のため柵などがあるが、石仏絵には彩色が残っている。途中ご主人が、以前来た時と道の様子が違うからと先に様子を見にいかれる。やはり初めての同道者がいるので気を使ってくださる。大丈夫のようである。盛り土されたような細い道もあり、山道である。お蔭さまで基本の柳生の道に辿りつき、<首切り地蔵>の前にでる。

 

 

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首切り地蔵>は首に亀裂が入っていて、これは石質が軟弱だからなのであるが、荒木又右衛門の試し切りとも言われている。それにしても、お地蔵様の首を試し切りとは、荒木又右衛門も剣豪ゆえの迷惑な言われ方である。荒木又右衛門も、新陰流である。そういえば、武蔵も荒木又右衛門も、12月の歌舞伎座と国立劇場の演目に関係してくる。12月の国立劇場『伊賀越道中双六』はかなり複雑な話となるようで、あぜくら会の集いで、吉右衛門さんをゲストに解説とトークショーがあった。三大仇討ちの一つ<伊賀上野の仇討ち>を題材にしている。12月は仇討ちの月のようである。

 

 

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今はこの<首切り地蔵>の場所は休憩所があり、ここで持参の昼食をとることにする。春日山の原生林の中であるが、何本か道があり、休憩所もあるため、人の通りが一番多い。食事後、ご夫婦がこのまま進みますがといわれ、再び同道させてもらう。川の流れを交叉しつつ歩き、滝坂道弥勒三尊磨崖仏(たきさかみろくさんぞんまがいぶつ)・朝日観音滝坂道弥勒立像磨崖仏(たきさかみちみろくりゅうぞうまがいぶつ)・夕日観音に逢うことができた。木々の間から朝日を浴びることから<朝日観音>、夕日に映えることから<夕日観音>と呼ばれている。

 

朝日観音

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磨崖仏

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この道を通った修験僧は何を思ってこの石仏を彫ったのであろうか。六道のどの道の煩悩に苦しんでいたのであろうか。そして、剣豪たちは、何を思いつつこの石仏の道を歩き、柳生を目指したのであろうか。石仏のその剥落のみが知っている柳生の道である。

時々振り返りつつ、柳生の石畳みの道との別れを惜しむ。

 

 

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そして、春日大社の若宮神社のそばでご夫婦とお別れする。お二人のお蔭で、2日目はスムーズに滞りなく、柳生街道を愛でることができた。そして、二人では無理と思っていた<地獄谷石窟仏>への道も歩くことができた。途中で、新薬師寺に行くならこちらですよと言われたのであるが、友人にはまたの機会にささやきの小道から志賀直哉旧宅、新薬師寺、百毫寺、ならまち、元興寺のコースを別枠で回ってもらいたと考え、春日大社、東大寺の方を勧める。

そして、二人は、次の道をお互いに想い描いていて、帰ってからすぐ、その計画は迅速に進んでいる。

 

奈良の柳生街道 (2)

柳生の里までたどり着くまで、幾つかの<六地蔵>に出会う。<六地蔵>は、六体のお地蔵様が立っていたり、一つの石に彫られていたりする。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六道を生命は輪廻しつつ生き変わることを現しているらしい。 <天乃立石神社><一刀石>の森から<芳徳寺>へ向かう。

芳徳寺>は、柳生宗巌石舟斎の屋敷跡で、柳生宗矩が父の菩提寺として、沢庵和尚が開基し、宗矩の末子列堂和尚が初代住職である。史料室に、沢庵和尚、列堂和尚、宗矩の像があり、石舟斎による「新陰流兵法目録」も展示されている。

 

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このお寺の裏に柳生一族のお墓があり、そのお墓の入口にも<六地蔵>の石碑がある。墓地で柳生十兵衛のお墓を探すが無い。十兵衛は三巌(みつよし)の名もあり、後になってそれを知り、友人とお互いに<柳生三巌>ならあったような気がするとメールし合う。字の読みづらい碑もあり、読めないと軽く素通りしたら、山岡荘八さんの文学碑であった。大河ドラマ、「春の坂道」の原作を書かれている。なんともいい加減な旅人である。<芳徳寺>への違う道で、この石段から上りたかったと思う風情のある石段が見つかるが下から眺めるのみ。下りながら<正木坂道場>へ。今でも使われている。外国の方も修業に来ているらしく、私たち不思議そうな目をしていたのであろうか。「私フランス人。合気道やってます。」と言われて道場に向かわれた。

やっと昼食。要望のお粥定食に。赤米と黒米の古代米のお粥に黒米の小さなお餅が二つ入っていて香ばしい。素朴な味である。旅の時など胃も疲れているので、胃に優しいのがいい。例のフランス人の修行者が入って来られ、いっときの息抜きであろうか。茶屋を出る時、「頑張って下さい。」と声をかけると、「頑張ります。」と言われ出口まで歩いてこられ見送ってくれた。さすがフランス人。それぞれの国の習慣の違いであろう。

史跡公園となっている<旧柳生藩陣屋跡>。柳生藩は将軍の剣道指南役で家康、秀忠、家光三代に信任も厚かったが、江戸定府大名で江戸常駐のため、城はなく城下町としての発展がなかった。それだけに、柳生の里という神秘的な意味合いを含むのである。

 

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石垣の立派な<家老屋敷>は、江戸後期の家老小山田主鈴(おやまだしゅれい)の屋敷である。米相場で柳生藩財政の立て直しに貢献している。この家老屋敷は、昭和39年に作家の山岡荘八さんが購入し、ここで『春の坂道』の構想を練ったそうで、大河ドラマの写真も展示してあった。その後、奈良市に寄贈され史料館として公開している。

 

 

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柳生の里も散策し終わり、暗くならない内に予定通り奈良ゆきのバスに乘ることができた。バスの本数が少ないため、混雑時期は、奈良まで立つ場合もあると旅行雑誌にあった。時々出逢う団体さんがバス停にいないので不思議に思っていたら、先にもう一箇所バス停があって、すでに乗られていた。二つ席は空いていたのでほっとする。1日目満足。

帰って来て、映画『宮本武蔵』(原作・吉川英治/監督・内田吐夢/主演・中村錦之助)を見返す。5本のうちの三部にあたる『二刀流開眼』から見始める。武蔵が柳生石舟斎を訪ねるのである。武蔵が柳生の庄を見下ろす場面があるが、私たちが行かなかった<十兵衛杉>のある場所からなら、柳生の里が見渡せる。<十兵衛杉>は十兵衛が諸国修業の旅に出る時に植えたとされ、落雷のため枯れ、今は二代目がその横に育っている。帰りのバス停から見えたが、そこまで上る元気はなかった。武蔵は石舟斎の切った花のしゃくやくの切り口から腕の凄さを知り、是非会いたいと思うが、会う事出来なかった。しかし、その門弟たちと斬り合うかたちとなり、そのとき二刀流に開眼するというものである。そのあと、吉岡清十郎(江原真二郎)との蓮台寺野の決闘がある。

石舟斎は、現芳徳寺の位置に住んでいたことになる。石舟斎は剣人とは誰とも合わず、藩主は江戸におり留守であると門人に伝えさせるが、なるほど宗矩はずーっと留守なわけである。藩陣屋敷へも武蔵は行くが、その時の見上げた石段は、現在残っている石段の雰囲気がある。同じ風景を当てはめたのであろう。石舟斎は薄田研二さんで、この役者さんは悪役も、こういう深見のある役もこなせる不思議な方である。沢庵和尚は三国連太郎さんである。『二刀流開眼』『一乗寺の決斗』『巌流島の決斗』『般若坂の決斗』『宮本武蔵』と気ままな順番で見直したが、面白かった。『一乗寺の決斗』のカラーでありながら決斗場面はモノクロというのが、素晴らしい効果であった。

柳生の里も、なぜか、<柳生と宮本武蔵>の旗がひらめいていた。

 

奈良の柳生街道(3) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

奈良の柳生街道 (1)

「奈良の柳生の道を歩きたいのよね。」と旅仲間の友人に話したところ、「いつにしようか?」とトントンと決まる。決まってから、奈良のアンテナショップへ行き、奈良関係のパンフと柳生の地図をゲットして、柳生街道の様子を尋ねる。案内の方は、一日で柳生の里まで奈良からバスで行き、そこから剣豪の里コース、滝坂の道コースを歩いてもどったといわれる。バスの本数が少ないので、バスの時刻表もパソコンで調べ印刷してくれた。

私の足では、円成寺を真ん中として2日に分けることを提案。友人も、ゆっくり見つつ歩くとそのほうが良いと判断して、2日コースとする。円成寺の前が忍辱山(にんにくせん)バス停で、バス停と柳生街道が合流しているのはここだけと言ってよい。どの程度のアップダウンの道かは行ってみなければ分からない。案内の方の様子だと、ほどほどの高低さと思われる。一つだけ注意されたのは、滝坂の道で途中脇道があり地獄谷石窟仏が見れて滝坂の道にもどる道があるが、そこは、アップダウンがあるので雨の時は避けた方が良いとのアドバイスであった。

一日目と二日目の行程をどう取るかである。私が、柳生の里にある、茶店で赤米のお粥を食べさせるところがあるらしいので、そこで昼食にしたいと希望を出す。彼女は検討してくれて、1日目は、奈良からバスで忍辱山(にんにくせん)バス停まで行き、円成寺には寄らず柳生の里を目指し柳生街道を歩き、「柳生茶屋」で昼食をして、柳生の里の見るべきものをみて、バスで奈良にもどる。2日目は、忍辱山バス停まで行き、円成寺を見て滝坂の道を奈良に向かう。後は、見学の時間を調整しつつ、バスの時間に合わせての行動である。

どうなることかと思った台風も過ぎ、一日目の行動開始。近鉄奈良から忍辱山バス停まで30分位である。そこでバスを降り、バス道路から柳生街道の道に入る。地図は柳生の里から忍辱山バス停までへの書き方なので、私たちは逆コースであるから、地図で上りなら実際は下りと反対に考えなければならないのである。友人がしっかり地図を見て進んでくれるので心強い。川の水音がし、木々に囲まれ嬉しくなる。梵字を彫った石碑なども道端に立っている。柳生の地で最も格式高い<夜支布山口神社(やぎゅうやまぐち)>。ここの神の分霊は、大柳生の二十人衆が一年ごと交代で預かる習慣があるらしい。こういうのを「回り明神」というらしい。この本殿の北側には、<立磐神社(たていわ)>もあり、巨岩が御神体である。この辺りは巨石信仰が多い地である。

 

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そこから大柳生の集落に出るための道に入っていくのであるが、途中で道を間違え聞くにも畑には人もいない。戻って道標をもう一度確かめ、木々に覆われた道を進む。台風の後で、道に水たまりがある。しかし、山栗も落ちていて 「いいね。忍者がでてきそう。」 人里に出る。柿の木は、たわわにびっしり実をつけている。誰かいないであろうかと人を探し、一個だけ柿を所望する。するとその方、その柿は渋柿だからと、車に積んだ取ってきたばかりの柿をくださる。ほのかに甘い柿を食べつつ民家の間の道を歩いていたら、大きなバス道路が見える。これはおかしいと引き返す。柿に夢中で道標を見ずに進んでいた。帰りのバスがこの辺りのバス停で、通学の子供達がこちらのバスから違う方向のバスに乗り換えていた。通学の子供用に、学校の開校日のみ運行するバスがあり、路線バスがスクールバスを兼ねているのである。

大柳生を過ぎると、坂原の庄で、その先に<南明寺>があり、本堂は鎌倉時代のものであるが、中は予約制のため見れない。<南明寺>の裏の石垣の下には、<お藤の井戸>がある。柳生但馬守宗矩(むねのり)と側室お藤の方が出会った場所である。洗濯をしていた娘に「桶の中の波の数は」と尋ねたところ「波(七×三)は二十一」と答え、「ここまでお出でになった殿様の馬の足跡の数は?」と問い返した機知が気に入ったようである。ここで、20人ほどの団体の方達と出会う。私たちは道に迷ったりしたが、この団体のかた達の世話役のかたは、事前に歩いて下調べしていた。ここから先は上ったり下りたりして阪原峠(かえりばさとうげ)を越えると巨岩に彫られた<疱瘡地蔵(ほうそうじぞう)>が迎えてくれる。疫病神から守ってくれるのが疱瘡地蔵である。

 

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そこから、<天乃石立神社(あまのいわたち)><一刀石>へのうっそうとした森に入っていくのであるが、<天之石立神社>と<一刀石>を見てきた二人の女性が、「良かったですよ。十兵衛杉は枯れていました。円成寺までどれくらいかかりましたか。」など情報交換である。「円成寺からここまで4時間ちょっとかかっています。途中道に迷いましたので。」このお二人は円成寺のバス停で4時のバスにのられたので、円成寺を見学されたとすると、私たちのように、柿など食さず道に迷うことなくたどり着かれたようである。

 

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<天乃石立神社>は平安前期に記録のある古い神社で、三つの巨岩が御神体である。<一刀石>は、幅八メートルほどの巨岩の真ん中が一太刀入れたように割れているのである。ある夜、柳生宗厳(むねよし・石舟斎)が天狗を切り、次の朝見ると巨岩が裂けていたというのである。見事な裂け方である。ここから剣豪柳生一族の住んでいた場所の見学へと続くのである。

 

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2014年11月2日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

鎌倉『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』公開

鎌倉市の秋の施設公開で、『旧華頂宮邸』『大佛次郎茶亭(野尻亭)』『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』が、10月4、5日に公開された。『大佛次郎茶亭(野尻亭)』『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』は鎌倉駅から近いので、いつでもと思いつつやっと実現である。今回はこの二つを中心に据えての訪れとした。『大佛次郎茶亭(野尻亭)』のほうが時間的に先に訪ねたが、映画のこともあるので、『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』からにする。

ヨーロッパ映画の輸入に貢献された川喜多長政、かしこさんご夫妻の邸宅跡に鎌倉市川喜多映画記念館 が建て変えられ、その同じ敷地に別邸として『旧川喜多邸別邸(旧和辻邸)』が残されている。旧和辻邸とあるように、東京の練馬にあった哲学者・和辻哲郎さんの住まわれていた江戸時代後期の民家を鎌倉に移築したものである。この別邸には、多くの海外の映画監督やきらびやかな映画スターが訪れている。

アラン・ドロン、フランソワ・トリュフォー監督、サタジット・レイ監督など、記念館にその写真パネルなども多く展示されている。映画『聖者たちの食卓』でのトークイベントで神谷武夫さんが、司会者にインド映画について尋ねられたとき「岩波ホールで上映されたサタジット・レイ監督の三部作(『大地のうた』『大河のうた』『大樹のうた』)もよいが『チャルラータ』がよかった。」と言われていた。残念ながら『チャルラータ』はDVDにはなっていない。私が驚いたその後のインド映画は『ボンベイ』である。美しい別天地のような歌あり踊りあり。テーマは宗教の違う男女の愛を、実際にあったヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いを背景に描いていたのには呆気にとられた。そして、宗教の違いの難しさも知らされた。

『旧川喜多別邸』は、入れるのは土間の部分であるが、開け放たれた縁側からも、テーブルと椅子の置かれた居間と和辻さんが書斎として使っていた部屋を見ることができる。

 

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縁側には、先日亡くなられた、山口淑子さんと川喜多長政さん、川喜多夫妻、フランソワ・トリュフォー監督とマリー・ラフォレさんと田中絹代さんが一緒の写真パネルが置かれている。この家で写されたものである。『東京画』でインタビューを受けられた笠智衆さんと、ヴイム・べエンダース監督 の写真もある。様々な映画人を包み込んだ家屋である。

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「記念館」の特別展は<映画女優 吉永小百合>で吉永さんが出演した映画ポスターが展示されている。吉永さんのデビューは1960年の『電光石化の男』であるが、同年に『不敵に笑う男』『霧笛が俺を呼んでいる』『疾風小僧』にも出演され、全てに(新人)とされていて、日活が力を入れていたことがわかる。展示されたポスターのところどころに吉永さんのコメントがある。吉永さんも印象的なこととし『キューポラのある町』の永六輔さんのメッセージが紹介されていた。<この映画でもう映画に出ないで欲しい>というものであった。それほど、主人公のジュンが生き生きとしていて、ジュンが吉永さんか、吉永さんがジュンか区別できないほどの演技力だったからであろう。吉永さんのコメントを読んでいると、吉永さんが放送関係から子役としてこの世界に参加し、映画の撮影現場とその作品からご自分の感性と生活感覚、社会感覚を育てられていったことがわかる。

『幕末』で、中村錦之助さんと仲代達矢さんの個性に挟まれてのお良、『華の乱』の与謝野晶子、『北の零年』の志乃など、自分の意思を前面に出す役のほうが、輝いて見えるのだが、受け身のほうの小百合さんを好きなサユリストが多いかもしれない。

モントリオール世界映画祭で二冠を受賞した『ふしぎな岬の物語』の受賞現場の映像も放映されている。これから12月25日まで吉永さんの映画や共演者の浜田光夫さんのトークイベントなどが目白押しである。

観ることはできないが、書棚には、見たいと思うVHSがずらーっと並んでいる。そして映画関係の本も。本のほうは時間さえあれば見放題である。ここは、小町通りから少し入っただけなのに静かで、4回ほど立ち寄っている。そして、いつも指を加え、棚を見上げ映画のタイトル名を眺めるのである。

2014年の<郡上おどり>

2年連続の郡上八幡での<郡上おどり>となった。郡上八幡を訪れるのは、三年連続である。昨年も無計画の思い立ったが吉日の旅であったが、今年もである。友人が今年は踊りに行くというので、<郡上おどり>のDVDを貸す。そしてはたと考える。ここは2日空いている。ここで、そうだ郡上おどりに行こう。

初めて郡上八幡を訪れた時、郡上八幡博覧館で<郡上おどり>に出会い、DVDを購入。かつて日本舞踊一筋だった友人にDVDを送り付け、彼女ににわか仕込みで習い<郡上おどり>に初参加。今年は出かける3日前に、彼女を誘ったところ「行く!」の即決。誘って良かった。一応、教えを受けたお返しの一部となった。付き合いが長いから突然の誘いにも驚かないし、3回目であるからこちらも旅の先導は出来る。

岐阜から郡上八幡へのバスに乘る人たちの中の一団の女性達は、キャリーバックを引きどうやら浴衣を持参でのおどりの参加の方々のようである。こちらは今回も思い立って突発の旅なので、下駄だけはと思ったが、誘った以上は帰るまでが旅なので、靴での参加とする。

<郡上おどり>は有名なので、観光化していない<まち>と<人々>と<おどり>に友人は驚いて 「こんな所が日本に残っていたの!」 と喜んだり、感嘆したりと忙しい。踊ったあとの感想も。「こんなに無心になって踊れるおどりも珍しい。」 「見ている人がほんの少数ね。」 見物するおどりではない。自分が踊るおどりである。そして、いつしか無心になって踊っているのである。「誰が世話役さんなのか、地元の人なのか、よその人なのかわからないわね。」「基本の形を守って美しい踊り方をしている人が沢山いて凄い。」 よそ者でも踊りに参加させえてくれる場を提供してくれることに感謝しつつ、静かに溶け込んでいく。この美しいというのは、優雅というのとは違う。農耕民族の形と私などは思っている。

この日は、宗祇水神祭(そうぎすいじんさい)の日であった。<郡上おどり>は縁日おどりでもあり、神社仏閣の多い郡上八幡では、自然に夏に多い縁日に欠かせないものとなったようである。7月半ばから9月初めにかけて30夜踊られるのも、町内の縁日に合わせている。 <宗祇水>は、藤原定家を祖とする東常縁(とうのつねより)から和歌を学ぶため宗祇がこの泉のそばに草庵を結んだことに由来してつけられた名である。8月20日には、宗祇忌に合わせ宗祇水神祭が行われ、地元本町の自治会が朝から町内を掃除し、宗祇水も丁寧にみがかれる。町内のかたが、御供え物をあげておられ準備されていた。夕刻には神事が執り行われたようである。常縁と宗祇に因み連句奉納もあるらしい。本町に出る石畳の道には両脇に、句の書かれた行灯が下がり、夜にはほのかな灯りで石畳を照らす。

そして、夜には宗祇水のそばの小駄良川(おだらがわ)で水中花火があり、清水橋から水中花火を楽しむのである。水中花火は初めてである。花火筒に点火して川に投げ込むと、一つの火玉が幾つかに分れ、流れの急なところで、その分散した光の玉が水中を潜っていき水の下から見えるのである。可愛らしい涼やかな光の玉である。 花火の終わった頃、本町では<郡上おどり>が始まる。昨年は岸剱神社(きしつるぎじんじゃ)川祭だったので、郡上城の下の城山公園でのおどりであった。今回は町中でのおどりである。何処の場所でも屋形を軸にその地形に沿った輪が出来ておどりが始まる。最初の歌から参加する。「かわさき」から始まった。やはり足がもたつく。

友人と熱中症になったら困るから水分とろうと言っていたのに、二時間近く隣でおどりながら口を利くこともなく自分の世界に入っていた。今年も<郡上おどり>を現地で踊れた! 別の友人達はこれから現地初おどりである。

東常縁が、郡上を発つ宗祇に送った歌

もみぢ葉の ながるる竜田 白雲の 花のみよし野 おもひわするな

宗祇の返歌

三年ごし 心をつくす 思ひ川 春たつさわに わきいづるかな

 

昨年の郡上おどり

郡上八幡での<郡上おどり> (1) 郡上八幡での<郡上おどり> (2)   郡上八幡での<郡上おどり> (3)

 

大坂天王寺七坂 <織田作さんの坂道> (3)

生國魂神社の木について織田作さんは次のように表す。

「それは、生国魂(いくたま)神社の境内の、巳さんが棲んでいるといわれて怖くて近寄れなかった樟(くすのき)の老木であったり、北向八幡の境内の蓮池に落(はま)った時に濡れた着物を干した銀杏の木であったり、」

そして、主人公は生国魂の夏祭りには、一人で行くのである。

「七月九日は生国魂の夏祭りであった。」「私は十年振りにお詣りする相棒に新坊を選ぼうと思った。ひそかに楽しみながら、わざと夜を選ぼうとおもった。そして祭りの夜店で何か買ってやることを、ひそかに楽しみながら、わざと夜をえらんで名曲堂へ行くと、新坊はつい最近名古屋の工場へ徴用されて今はそこの寄宿舎にいるとのことであった。私は名曲堂へ来る途中の薬屋で見つけたメタボリンを、新坊に送ってやってくれと渡して、レコードを聞くのは忘れて、ひとり祭見物に行った。」

主人公は、高津宮跡にある中学校(現高津高校)に通い、高等学校は京都の三高(現京大)へ行く。「中学校を卒業して京都の高等学校へはいると、もう私の青春はこの町から吉田へ移ってしまった。」 そして十年振りに訪れる機会が出来るのである。そして、名曲堂の父子に会い、新坊に会うのである。しかし、その父子も流れて行き、彼もまた流れて行く。彼は父子には何も言わない。しかし、私には、織田作さんが、騙されるなよと心の中でつぶやいているような気がしてならないのである。 「風は木の梢にはげしく突っ掛っていた。」

織田作さんは『木の都』として、木と風とそこに住む人々をサラサラと活写している。私は、わわしくまた書き加える。

高津宮は生玉真言坂を下りた千日前通りを渡った向いの少し高台ということになる。仁徳天皇が難波高津宮から竈の炊煙が見えないのを憂いたともいわれ、仁徳天皇を祀られている。そしてここのだんじり囃子が、あの『夏祭浪花鑑』のお囃子で、ここがその舞台ということになる。絵馬堂には、現藤十郎さんが襲名された時、団七九郎兵衛の絵馬を奉納されている。その西側には、北と南から上がってくる階段があり合相坂といって、真ん中で逢うと相性がよいのだそうで、その手すり部分に石が支える形になっていて、様々の方の名前の中に仁左衛門さんの名前も発見。落語の『高津の富』の舞台でもあり、五代目桂文枝之碑もあった。

『木の都』は、<高津宮の跡をもつ町><大阪町人の自由な下町の匂う町>である。

生国魂神社の前には、桜田門外の変に関連し、上方でも挙兵しようとした水戸藩浪士・川崎孫四郎の自刃碑と水戸浪士・高橋父子を匿った笠間藩士・島男也旧居跡の碑もある。大坂と水戸の坂の町の幕末の風。 坂のある町 『常陸太田』 (1) 坂のある町 『常陸太田』 (2)

そして、織田作さんの『蛍』は、伏見の寺田屋の女将お登勢の話となる。文句ひとつ言わず働き通しで諦めだけのお登勢が、薩摩の士の同士討ちの騒ぎのとき、有馬という士が乱暴者を壁に押さえつけながら 「この男さえ殺せば騒ぎは鎮まると、おいごと刺せ、自分の背中から二人を刺せ」 の最後の叫びを耳にしてから、お登勢は自分の中に蛍火を灯すのである。その蛍火は坂本とお良をも照らすこととなる。

蛇足ながら、幕末も加えてしまったが、『夏祭浪花鑑』の女だてに通じるかなとふと思ったのである。織田作さんに色数が多いと嘆息されそうである。

 

 

大坂天王寺七坂 <織田作さんの坂道> (2)

<愛染坂>の辺りが夕陽丘町となっている。この坂上の谷町筋には地下鉄谷町線の駅があり、四天王寺前夕陽丘駅である。<愛染坂>から<口縄坂>までは、下寺町筋にそって歩く。<愛染坂>を下るとすぐに、「植村文楽軒墓所」の石碑がある。遊行寺(円成院)で、人形浄瑠璃を文楽と命名することになった、初代植村文楽軒のお墓と、三代目を讃えた「文楽翁之碑」がある。

 

 

口縄坂>について、織田作さんは次のように記している。「口縄(くちなわ)とは大坂で蛇のことである。といえば、はや察せられるように、口縄坂はまことに蛇の如くくねくねと木々の間を縫うて登る古びた石段の坂である。蛇坂といってしまえば打(ぶ)ちこわしになるところを、くちなわ坂とよんだところに情調もおかし味もうかがわれ、」「しかし年少の頃の私は口縄坂という名称のもつ趣きには注意が向かず」「その界隈の町が夕陽丘であることの方に、淡い青春の想いが傾いた。」 そして、近くにある『新古今和歌集』の編者藤原家隆の草庵跡とされる場所でよんだ歌に触れている。< ちぎりあれば難波の里にやどり来て波の入日ををがみつるかな >

かつては、この上町台地は半島のように難波の海に突き出して、四天王寺の西側は波がぶつかる崖だったようで、その海に沈む太陽を見て極楽浄土を思う霊地であったようだ。織田作さんは、ここで、青春の落日に想いを馳せるのである。

現実の<口縄坂>はくねくねとはしていない。見通しのよい石畳の坂で途中から石階段である。お寺の白壁塀が良い感じである。坂を上りきったあたりに、織田作さんの文学碑があり『木の都』の最後の部分が刻まれている。夕陽というのは季節によって時間が異なり、お天気でなければならないし、この場所で見るというのはなかなか難問である。スタンプを押せるお寺は三寺あるが珊瑚寺でスタンプを押す。織田作さんがペンを持っていて<織田作之助木の都の坂>とある。

<口縄坂>から<源聖寺坂>に行く途中にも、萬福寺というお寺の前には「新撰組大阪旅宿跡」の石碑が立つ。今度は幕末である。境内には入れなかった。源聖寺の手前が<源聖寺坂>で両脇がお寺と土塀が続き、ゆるやかに石畳と石段が延びている。ここは四寺でスタンプを押せるが、一番近い源聖寺とする。このお寺の救世観音菩薩は花の観音様と呼ばれ親しまれておられる。ここのスタンプがまた面白い。台紙のほうに、「昭和末期まで源九郎稲荷がありました。今は生國魂さんに移っています。」 とあり、本当に生國魂さんで会いました。スタンプの絵は、こんにゃくをくわえたたぬきの背中に <こんにゃく好き 八兵衛はたぬきやけど> とある。これ大阪的というのか。<口縄坂>でちょっぴり哀愁を味わって居たら、狐にあぶらげ、狸にこんにゃく? よくわかりませんが面白い。今、生國魂さんには、源氏九郎稲荷と、松竹中座に祀られていた八兵衛たぬきが仲良く合祀されている。

 

 

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生國魂神社は、多くの神々が祀られている。主軸は、生國魂大神らしい。<生玉真言坂>から上がって行くと北門があり織田作さんの像が見える。織田作さんの好きな井原西鶴さんが織田作さんの視線を受けるような位置に座っている。西側には、文楽の物故者を祀る浄瑠璃神社、土木建築関係の人が崇敬する家造祖(やづくりみやお)神社、金物業界の人が崇敬する鍛冶の神様の鞴(ふいご)神社、女性の守護神と崇められる鴫野神社などなど。もちろん源氏九郎稲荷神社もある。本殿の方には、上方落語の祖・米澤彦八の碑もある。

本殿は豊臣秀頼が修造した社殿、桃山式建築で屋根が凄く複雑で、千鳥破風、唐破風、千鳥破風と重なっている。これは「生國魂造り」といわれ日本で一つしかないらしい。大坂大空襲で焼け、台風で倒壊、現在のは昭和31年に復興されたものである。ここで七つ目のスタンプを押して、完歩証を受け取る。スタンプは、「淀姫ゆかりの女性の守り神がまつっている」とある。

このスタンプなかなか楽しませてくれる。<逢坂>の一心寺では 「一心寺内酒封じの墓」とあり、本多忠朝が鎧兜で、酒封じと書いたしゃもじを持っている。酒封じの効き目があるのであろうか。<天神坂>の安居神社は、道真公の絵で 「安居の井戸はカン静め」 とある。主宰は、てんのうじ観光ボランティアガイド協議会さんでした。

織田作さんの『放浪』のなかで、主人公・順平は、叔母の養子となる。叔母の亭主であり順平の養父は、「叔父は生れ故郷の四日市から大阪へ流れて来た時の所持金が僅か十六銭、下寺町の坂で立ちん坊をして荷車の後押しをしたのを振出しに、」とある。この坂は<逢坂>と思われる。スタンプラリーの台紙に<昔は急な坂で荷車が坂を登りきれないので押屋(荷車を押す人夫)がいたそうな。>とある。

大坂天王寺七坂 <織田作さんの坂道> (1)

大坂の四天王寺から生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)までの間にある七坂とお寺を巡る道であるが、一心寺から生國魂神社をさらに北に進み、高津宮までを<織田作さんの坂道>とする。

一心寺から東に四天王寺があり、西に今宮戎神社がある。そこはすでに周っているので、一心寺から始める。七坂とは、<逢坂><天神坂><清水坂><愛染坂><口縄坂><源聖寺坂><生玉真言坂>である。

<口縄坂>には、織田作さんの文学碑があり、<生玉真言坂>を登り生國魂神社に入ったところに織田作さんの像があり、どちらも『木の都』の一文が彫られている。

寺町でもあり、一心寺の前の国道25号線の一部が<逢坂>となる。一心寺は、「お骨佛の寺」とあり、門が美術館かと思わせるようなデザインである。あうんの像は彫刻家・神戸峰男さんで、扇の四人の天女は秋野不矩さんの絵である。ここに収められたお骨は十年ごとにそのお骨で仏様を一体つくるのだそうである。大坂夏の陣では徳川家康の本陣となっている。このお寺で天王寺七坂のスタンプラリーがあると知る。定価100円である。簡単な絵地図ものっているので、スタンプラリーをしていくことにする。地図で見ると、谷町筋(東側で坂上)と下町寺筋(西側で坂下)の道が平行していて、そこに坂が梯子段のようにあるわけである。ただ私の所持した地図には、下町寺筋ではなく、松屋町筋とあるが、地元のかたの書かれた下町寺筋とする。

逢坂を下って下寺町筋に出て北に向かうと安居神社がある。ここは、大坂冬の陣で活躍した真田幸村が戦死した場所なのだそうで、このあたりは、大阪城の戦いの足音を聴いていた場所でもある。この神社は菅原道真公も祀っていて北側の坂が<天神坂>である。社務所の近くにかんの虫の治まる水がかつて湧き出ていて、道真公もここで水を飲まれたらしい。ここで2個目のスタンプを押す。樹木の茂るこじんまりとした神社である。

この辺りは伶人町と呼ばれ、「伶人」とは舞楽を奏する人のことで、四天王寺に仕える楽人が多く住んでいたらしい。

<天神坂>を降り切らないで北に向かうと清水寺があるのだが工事中で道がよくわからなかったので、お墓の上のほうから、境内に入る。ここには、天然の玉出の滝があり今でもこの滝に打たれる修行者があるらしい。坂だけのつもりが、歩いてみるとなかなか歴史的に面白い神社仏閣が多い。清水寺の横にあるのが<清水坂>で、坂上左手にある高校の校庭辺りに昔料亭浮瀬 があり、芭蕉や蕪村も訪れたとあるがそこまでは上がっていない。芭蕉と料亭はなぜか結びつかないが、東北の旅で、バスガイドさんが、芭蕉さんはお金持ちのところでは比較的長く滞在しているんですよと言われたのを思い出す。馬と一緒の家では何日も滞在することはできなかったであろう。清水寺のスタンプが芭蕉さんが大杯からお酒を口に流し込んでいるユーモアな絵である。<清水坂>は近年整備されたらしい巾の広い石段の坂である。ここから振り返ると通天閣が見えるそうだが、降りてくるときも次の<愛染坂>へと気持ちがいっているので見ていない。

清水坂

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<清水坂>から北に向かうと<愛染坂>があり、少し急な坂を上って行くと大江神社があり愛染明王が本尊の愛染堂があり「愛染さん」と呼ばれている。ここの夏祭りは有名らしく、織田作さんも、「7月1日は夕陽丘の愛染堂のお祭りで、この日は大阪の娘さん達がその年になってはじめて浴衣を着て愛染様に見せに行く日だと、名曲堂の娘さんに聴いていたが、私は行けなかった。」とある。なるほど、文楽の人形に『夏祭浪花鑑』で初めて帷子を着せたというのもわかる。愛染堂で、縁結は愛染さんのスタンプを押す。四つ目である。大江神社は、<愛染坂>を下る時に寄る。聖徳太子が四天王寺の鎮守として創建した神社と言われている。

 

愛染坂

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東北の旅・世界文化遺産 平泉(8)

一ノ関駅から<平泉世界遺産めぐり>のツアーバスに乘る。毛越寺 → 観自在王院跡 → 金鶏山(車中から眺める) →中尊寺 → 無量光院跡 と周る。世界遺産に登録されたのは、この五つと、これらが構成していた、仏国土(浄土)を表す建築・庭園および考古学的遺産群なのである。藤原清衡は中尊寺を、二代目基衡は毛越寺を、基衡夫人が亡き夫のために観自在王院を、三代目秀衡は無量光院を建立する。

京都が人口20万人のころ、平泉は10万人の都市である。毛越寺(もうつうじ)は、遺構と庭だけが残っている。大泉が池の対面には、「円隆寺」と称する金堂があったらしいが、今は想像するだけである。庭を時計廻りに進んでいくと、あやめ祭りで明治神宮から分けてもらったというあやめが満開であった。個人的には、あまり賑々しくして欲しくない。池に水を引く遣水もある。ここで歌を詠み酒をかわす曲水の宴が開かれる。若い頃来た時は、どこから歩いたのかかなり長い距離歩いた記憶があり、やっとたどり着いて、緑に囲まれた池が、わあーっと見えて、ここにこんな庭園がと感動したが、その後2回目であるが、その感動に勝ることはない。

初めての時は中尊寺から歩いて来たような気もする。もしそうなら、<奥大道>の一部を歩いた事になる。<奥大道>とは、博多から京都、白河の関、平泉を通り陸奥の外ヶ浜につながる道で、白河の関から外ヶ浜までが<奥大道>である。博多は、中国へ、外ヶ浜は北海道からロシアへ、交易のつなぐ経路だったのである。

毛越寺のすぐ東に観自在王院跡(かんじざいおういんあと)がある。ここには、基衡の妻が亡き夫の為に建立した、二つの阿弥陀堂があった。今は史跡公園となっているが、今回はその入口までである。

 

 

観自在王院跡の説明版から

 

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その周辺にある今現在の一般住民の新しい住宅は、景観を損ねない様なシックな色や造りになっている。この辺一帯の建物は、世界文化遺産の遺跡の上にあるわけで、家を新しくするときは、発掘して重要な遺跡がないかどうか調べてから、差支えなければ建てられるが、何か重要な発掘があれば、他に移転しなければならないそうである。敷地内の家屋の横を掘っているのをみて、バスガイドさんが、<物置か何かを建てるのでしょう。建てる前に発掘をして調べるのです。>という。北上川の近くの一帯に、<柳之御所>の跡が発掘され、ここに住んで居た方達は移転したそうである。世界遺産も、そこに住む方にとっては、遺産を守る心構えが必要で、世界遺産になったから人々が観光で訪れ経済的効果があるというだけの問題ではなさそうである。そこにどんな文化があったのか、理解してもらわなければ、移転の意味が薄れてしまう。

バスは、金鶏山を左手に見つつその麓を走り、中尊寺に向かう。金鶏山は信仰の山である。最後に行く無量光院跡(むりょうこういんあと)を先にふれる。無 量光院はこの金鶏山を背景に宇治平等院の鳳凰堂をしのぐ大きさの本堂があり、一年のある時期には、この本堂の阿弥陀堂から真っ直ぐ後ろの金鶏山の頂に日が沈み、阿弥陀様の光の道のように映ったらしい。代々引き継がれ現世の浄土思想が形造られていくわけである。

 

 

無量光院跡でのかつての無量光院の予想図

 

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平泉といえば、中尊寺。中尊寺といえば金色堂である。旅に出る数日前に記録映画『よみがえる金色堂』のDVDが見つかる。1962年(昭和37年)から7年かけて金色堂が修理されたが、その記録映画で、脚本・監督が中村麟子さんである。中村監督はこの記録映画で初めての出会いである。金色堂を覆っている覆堂を大きくして、金色堂をゆったりと拝観できるようにする。そして、金色堂の飾りの螺鈿(らでん)の修理、巻柱の菩薩の修理が丁寧に描かれている。そこに働く様々の方の細かい配慮と研鑽がやはり賞賛すべき価値である。落成式の時、今東光さんの姿が。今東光さんが、貫主の時であったのか。瀬戸内寂聴さんが出家されたのも、中尊寺の本堂である。話がそれたが、芭蕉さんが訪れた時は、覆堂があり、金色堂の全景はみていないのである。記録映画のお蔭で、一つ一つの螺鈿に人の手が見えてくる。

京に仏像の作成を頼むが足止めされてしまう。そのため、平泉は砂金、馬、アザラシの皮、絹物、山海の珍味など送り続けてやっと運び込まれたという話もある。とにかく想像以上の財力と雅文化である。義経が、京に入り貴族に歓迎されたのは、この平泉で身につけた平泉文化が奥州に憧れていた貴族たちを満足させたのかもしれない。そのあたりは木曽義仲と違うところである。

そして、奥州には名馬が揃っている。馬の扱いが上手かったのも、この奥州の平泉にいたからこそと思えてくる。そのことは、頼朝が平泉の財力と文化を恐れていたことでも想像がつく。義経が奥州の山中に逃げ込み、それを追いかけてまで、なぜ殺さなければならなかったのかと、頼朝の非情さを思ったが、これは頼朝にとってはいつかは、倒さねばならぬ勢力であったのだ。

バスツアーのため覚悟していた金色堂までの長い登り坂も、駐車場のお蔭で短くて済んだ。ところが、階段は登りも下りもなんとかなるのであるが、階段のない下りの坂が骨折の足の小指にひびくのである。最後にして、バランスの悪い歩き方となる。中尊寺のガイドさんも、まだまだ見るところはありますからと言われる。

西行の歌碑があり、西行も来ていたのである。 <きゝもせず 束稲やまのさくら花 よし野のほかに かゝるべしとは>。

芭蕉歌碑、毛越寺で <夏草や 兵どもが 夢の跡>、中尊寺金色堂で <五月雨の 降残してや 光堂>。芭蕉は毛越寺には寄らなかったようである。木曽義仲のことを少しふれたが、大津の義仲寺で、芭蕉の遺言で木曽義仲の墓の隣に芭蕉の墓があり驚いた事がある。木曽義仲は平家物語でも、粗雑に扱われているようで気になっていたのだが、機会があれば、もう少し尋ねたい人である。そして、奥州藤原三代、泰衡も入れて四代についても、もう少し知りたい。

 

 

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東銀座の歌舞伎座の前に、岩手県のアンテナショップがあるので、そこでパンフレットをもらってきたところ、サイクル自転車や定期観光バス、中尊寺境内と宝物館内の音声ガイドもあることがわかる。砂金は岩手県沿岸南部の気仙地方から平泉に運ばれていたのである。さらに、有料の詳しい資料もあった。そうか。アンテナショップへ行けばいいのだ。

このバスツアーのバスガイドさんは声がよく、『北上川夜曲』が美しい響きで車中を包んでくれた。

一応東北の今回の旅は、幕である。その断片はどこかで、顔を出すのであろう。

国立劇場にて  『東北の芸能 Ⅴ』 9月27日(土)14時開演  相馬野馬追太鼓、なまはげ太鼓、花笠踊り、寺崎のはねこ踊り、青森ねぶた囃子、鹿踊大群舞