東北の旅・世界文化遺産 平泉(8)

一ノ関駅から<平泉世界遺産めぐり>のツアーバスに乘る。毛越寺 → 観自在王院跡 → 金鶏山(車中から眺める) →中尊寺 → 無量光院跡 と周る。世界遺産に登録されたのは、この五つと、これらが構成していた、仏国土(浄土)を表す建築・庭園および考古学的遺産群なのである。藤原清衡は中尊寺を、二代目基衡は毛越寺を、基衡夫人が亡き夫のために観自在王院を、三代目秀衡は無量光院を建立する。

京都が人口20万人のころ、平泉は10万人の都市である。毛越寺(もうつうじ)は、遺構と庭だけが残っている。大泉が池の対面には、「円隆寺」と称する金堂があったらしいが、今は想像するだけである。庭を時計廻りに進んでいくと、あやめ祭りで明治神宮から分けてもらったというあやめが満開であった。個人的には、あまり賑々しくして欲しくない。池に水を引く遣水もある。ここで歌を詠み酒をかわす曲水の宴が開かれる。若い頃来た時は、どこから歩いたのかかなり長い距離歩いた記憶があり、やっとたどり着いて、緑に囲まれた池が、わあーっと見えて、ここにこんな庭園がと感動したが、その後2回目であるが、その感動に勝ることはない。

初めての時は中尊寺から歩いて来たような気もする。もしそうなら、<奥大道>の一部を歩いた事になる。<奥大道>とは、博多から京都、白河の関、平泉を通り陸奥の外ヶ浜につながる道で、白河の関から外ヶ浜までが<奥大道>である。博多は、中国へ、外ヶ浜は北海道からロシアへ、交易のつなぐ経路だったのである。

毛越寺のすぐ東に観自在王院跡(かんじざいおういんあと)がある。ここには、基衡の妻が亡き夫の為に建立した、二つの阿弥陀堂があった。今は史跡公園となっているが、今回はその入口までである。

 

 

観自在王院跡の説明版から

 

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その周辺にある今現在の一般住民の新しい住宅は、景観を損ねない様なシックな色や造りになっている。この辺一帯の建物は、世界文化遺産の遺跡の上にあるわけで、家を新しくするときは、発掘して重要な遺跡がないかどうか調べてから、差支えなければ建てられるが、何か重要な発掘があれば、他に移転しなければならないそうである。敷地内の家屋の横を掘っているのをみて、バスガイドさんが、<物置か何かを建てるのでしょう。建てる前に発掘をして調べるのです。>という。北上川の近くの一帯に、<柳之御所>の跡が発掘され、ここに住んで居た方達は移転したそうである。世界遺産も、そこに住む方にとっては、遺産を守る心構えが必要で、世界遺産になったから人々が観光で訪れ経済的効果があるというだけの問題ではなさそうである。そこにどんな文化があったのか、理解してもらわなければ、移転の意味が薄れてしまう。

バスは、金鶏山を左手に見つつその麓を走り、中尊寺に向かう。金鶏山は信仰の山である。最後に行く無量光院跡(むりょうこういんあと)を先にふれる。無 量光院はこの金鶏山を背景に宇治平等院の鳳凰堂をしのぐ大きさの本堂があり、一年のある時期には、この本堂の阿弥陀堂から真っ直ぐ後ろの金鶏山の頂に日が沈み、阿弥陀様の光の道のように映ったらしい。代々引き継がれ現世の浄土思想が形造られていくわけである。

 

 

無量光院跡でのかつての無量光院の予想図

 

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平泉といえば、中尊寺。中尊寺といえば金色堂である。旅に出る数日前に記録映画『よみがえる金色堂』のDVDが見つかる。1962年(昭和37年)から7年かけて金色堂が修理されたが、その記録映画で、脚本・監督が中村麟子さんである。中村監督はこの記録映画で初めての出会いである。金色堂を覆っている覆堂を大きくして、金色堂をゆったりと拝観できるようにする。そして、金色堂の飾りの螺鈿(らでん)の修理、巻柱の菩薩の修理が丁寧に描かれている。そこに働く様々の方の細かい配慮と研鑽がやはり賞賛すべき価値である。落成式の時、今東光さんの姿が。今東光さんが、貫主の時であったのか。瀬戸内寂聴さんが出家されたのも、中尊寺の本堂である。話がそれたが、芭蕉さんが訪れた時は、覆堂があり、金色堂の全景はみていないのである。記録映画のお蔭で、一つ一つの螺鈿に人の手が見えてくる。

京に仏像の作成を頼むが足止めされてしまう。そのため、平泉は砂金、馬、アザラシの皮、絹物、山海の珍味など送り続けてやっと運び込まれたという話もある。とにかく想像以上の財力と雅文化である。義経が、京に入り貴族に歓迎されたのは、この平泉で身につけた平泉文化が奥州に憧れていた貴族たちを満足させたのかもしれない。そのあたりは木曽義仲と違うところである。

そして、奥州には名馬が揃っている。馬の扱いが上手かったのも、この奥州の平泉にいたからこそと思えてくる。そのことは、頼朝が平泉の財力と文化を恐れていたことでも想像がつく。義経が奥州の山中に逃げ込み、それを追いかけてまで、なぜ殺さなければならなかったのかと、頼朝の非情さを思ったが、これは頼朝にとってはいつかは、倒さねばならぬ勢力であったのだ。

バスツアーのため覚悟していた金色堂までの長い登り坂も、駐車場のお蔭で短くて済んだ。ところが、階段は登りも下りもなんとかなるのであるが、階段のない下りの坂が骨折の足の小指にひびくのである。最後にして、バランスの悪い歩き方となる。中尊寺のガイドさんも、まだまだ見るところはありますからと言われる。

西行の歌碑があり、西行も来ていたのである。 <きゝもせず 束稲やまのさくら花 よし野のほかに かゝるべしとは>。

芭蕉歌碑、毛越寺で <夏草や 兵どもが 夢の跡>、中尊寺金色堂で <五月雨の 降残してや 光堂>。芭蕉は毛越寺には寄らなかったようである。木曽義仲のことを少しふれたが、大津の義仲寺で、芭蕉の遺言で木曽義仲の墓の隣に芭蕉の墓があり驚いた事がある。木曽義仲は平家物語でも、粗雑に扱われているようで気になっていたのだが、機会があれば、もう少し尋ねたい人である。そして、奥州藤原三代、泰衡も入れて四代についても、もう少し知りたい。

 

 

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東銀座の歌舞伎座の前に、岩手県のアンテナショップがあるので、そこでパンフレットをもらってきたところ、サイクル自転車や定期観光バス、中尊寺境内と宝物館内の音声ガイドもあることがわかる。砂金は岩手県沿岸南部の気仙地方から平泉に運ばれていたのである。さらに、有料の詳しい資料もあった。そうか。アンテナショップへ行けばいいのだ。

このバスツアーのバスガイドさんは声がよく、『北上川夜曲』が美しい響きで車中を包んでくれた。

一応東北の今回の旅は、幕である。その断片はどこかで、顔を出すのであろう。

国立劇場にて  『東北の芸能 Ⅴ』 9月27日(土)14時開演  相馬野馬追太鼓、なまはげ太鼓、花笠踊り、寺崎のはねこ踊り、青森ねぶた囃子、鹿踊大群舞