能 『融(とおる)』

かなり年数が経っているが、能『』を録画してあった。喜多流で前シテ・老人と後シテ・源融は友枝昭世さんで、ワキ・旅の僧は宝生閑さんである。清凉寺は光源氏のモデルの源融の山荘であったとされるが、この清凉寺には、国宝の釈迦如来立像があり、この釈迦如来を模刻したものを清凉寺式釈迦如来としている。

京都に魅せられて通った2002年の月刊「京都」の雑誌に、当時、紅葉と秋期特別拝観とライトアップの組み合わせを考えたらしく数枚の付箋がついていて清凉寺の釈迦如来も、その年の特別公開で見たらしい。京都大好きの職場の友人の影響で、過去の月刊「京都」お勧め月号を持参してもらい、ああじゃらこうじゃら策を練った頃である。その時、源融を知り、能『』も知ったような気がする。

その頃は、「そうなのだ」程度であったが、今回もう一度録画を観直して融の世界が見えてきた。司馬さんの都人の陸奥(みちのく)への憧れの文章の力が大きい。

源融は政界での抗争に敗れ、下々から見れば優雅であり贅沢であり風雅である生活を送る。能に出てくる旅の僧を通じて、追体験をする事とする。

仲秋の名月の夜、源融の別荘河原院跡に東からやってきた僧が休んでいると、潮汲みの老人があらわれ、潮汲みとはおかしいというと、老人は、ここは昔融の邸宅があり、陸奥の塩釜浦を模した庭があり、毎月難波から海水をはこばせ塩を焼いて遠く陸奥を思い描き楽しんでいたことを伝える。そのとき前シテの老人は天秤に下げた前桶の握っていた綱をすっと離す。桶が舞台床すれすれに落ちて揺れる。時間を少しあけて後ろの桶も落とす。動きの少ない能だけにこの動きと桶のゆれるのがはっとさせ、ゆらゆらと気持ちをゆったりさせる。そして、今までその動作が長いこと必要がなく、やっと日の目をみるといったような老人の心の内を感じるようである。老人は、紀貫之がこの場所で詠んだ歌も披露する。

君まさで煙絶えにし塩釜のうらさびしくて見え渡るかな

この庭を継ぐ人もなく跡だけとなったが貫之には見えていたのである。こちらも、紀貫之を通して、この老人を通してかつての融の眺めた陸奥の風景が紗のかかった感じで見えてくる。その老人は、舞台前方の先端まで進み、舞台の下の空間から海水を汲み採り、すうっと橋懸りの奥へと姿を消すのである。旅の僧は、融が潮汲み老人となり、何もかもが無くなっている現世をなげいていたことが分かる。その夜、僧の夢の中に美しい貴公子の融があらわれ、月の光の中で優雅に舞い、かぐや姫のごとく月の世界に消えていくのである。

塩を焼く煙たなびく塩釜浦を模した庭。それを楽しんだ河原大臣。その跡に立つ紀貫之の歌のこころ。その後に登場する、劇中の僧と融の亡霊。一つの空間に異次元同士でつながっている。その重なりを観客は観ている。

陸奥(みちのく)の宣伝マン、源融の詠った歌

陸奥のしのぶもぢずり誰(たれ)ゆゑに乱れんと思ふわれならなくに

司馬さんが引用した「新潮日本古典全集」の訳 ”陸奥のしのぶもじずりの乱れ模様のように、あなたならぬ誰かの求めのままに身も心もゆだねてしまうそんな私ではありません”

この時代の歌の連想ゲームは、現代のゲーム感覚では到底かなわない教養と知性が必要だったようである。

能 『』が、どうやら自分に近づいてくれたので、何か月も借りっぱなしの、能 『求塚(もとめつか)』の録画DVDを頑張ってみる。途中お茶タイムなどを入れ、なんとか観終わる。これで返せると安堵する。『』のように、もう一度みようと思う日がくることを願うが、大作すぎて別枠に奉ってしまった。

旧東海道・川崎宿から神奈川宿

10月1日に 「東海道川崎宿交流館」 が出来たと情報を得たので行ってみた。品川から川崎へは歩いていないので気になっていた。JR川崎駅から10分、京急川崎駅から5分位のところにある。その手前に砂子の里資料館があったが、帰りにと思ったが時間が閉館時間を過ぎ寄れなかった。

品川から川崎の間には<六郷の渡し>があった。ここを流れているのが多摩川である。江戸時代に橋が架けられたが洪水で度々流されてしまうため渡しとなった。今は六郷橋があるらしい。奥多摩からずっとつながっているわけである。川の流れのわかる地図が必要である。歌舞伎に女形が七役つとめる『お染の七役』に、土手のお六がある。悪女で、出の大事な役である。なぜかその悪女を思い出してしまった。京急に六郷土手駅があり近くに黒い色の六郷温泉がある。

交流館で販売していた「広重東海道五拾三次」では、川崎は<六郷渡舟>で多摩川の下流は六郷川と呼ばれたとある。絵の中はお天気もよいから富士山も見え舟上の旅人ものんびりしている。

 

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川崎宿にもどるが、ここの万年屋(茶屋のちに旅籠)の名物に「奈良茶飯」があり、大豆、小豆、甘栗を入れて緑茶の煎じ汁で炊いたもので「東海道中膝栗毛」の弥二さん、喜多さん」も食している。作れないこともない。この万年屋には幕末には、ハリスも泊っており、次の日川崎大師に行っている。

 

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田中本陣跡

 

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飯盛り女供養塔のある宗三寺

 

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川崎には、本陣佐藤家に生まれた詩人の佐藤惣之助さんがいる。「赤城の子守唄」「六甲おろし(阪神タイガースのうた)」等もつくられている。坂本九さんもここの生まれで、京急川崎駅には電車が近づくと「上を向いて歩こう」が流れるそうである。

 

 

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芭蕉は「奥の細道」からもどり、最後の故郷伊賀への旅の途中、川崎のはずれで弟子たちと別れをおしみ歌を詠む。 「麦の穂をたよりにつかむわかれかな」。麦の穂をたよりとするとはなんとも力ない様子である。江戸をたったのが元禄7年(1694年)5月でその年の10月には亡くなっている。

 

映画「不知火検校(しらぬいけんぎょう)」で杉の市が師匠から、川崎までの使いを頼まれる。その時「川崎と申しますと、鈴ケ森の先の川崎でございますね」と確かめる。この聞き方が気に入ってしまった。この時代この道しかないのである。映像も白黒で勝新太郎さんが悪役で当てたのが納得いく。絶えず工夫を考え続けていたことであろう。江戸時代の道が分かると時代劇も思いがけない出会いがあるかもしれない。こちらの道はよくそれる。

神奈川宿に入る手前に生麦事件の場所がある。薩英戦争にまで発展した事件である。それよりも歩いた仲間たちは、京急生麦駅の近くにあるビール工場に寄りビールが飲みたかったと残念がっていた。心残りはそれらしい。

「東海道かわさき宿交流館」のみで川崎、神奈川宿まで歩いたつもりとする。今後もつもりが少ないことを願うが。

 

「東海道かわさき宿交流館」で制作してくれた「広重 東海道五拾三次」は貴重な旅の友となりました。

 

旧東海道・神奈川宿から保土ヶ谷宿(~戸塚宿) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

龍王峡散策

今年の7月1日<鬼怒川温泉と日光杉並木>の小さな旅から、今度こちら方面は、龍王峡を散策しようということになっていた。今回は6人である。行くと連絡があり、全て調べてくれているのでこんな楽なことはない。当日それぞれが電車に乗り込んできて、メンバーが判明する。東武の下今市駅から鬼怒川線となりその最終駅・新藤原駅から野岩鉄道会津鬼怒川線となり、新藤原駅から一つ目の龍王峡駅で降りるのである。

春日部駅から会津田島行きに乗っているのに行先が新藤原になっている。新藤原で切り離しの車両と気が付き会津田島行きの車両に進む。下今市駅で会津若松から日光への直通電車とすれ違う。八重の桜の絵が描かれた列車でなかなか素敵である。列女がいないのでいいでわないかと言いつつ誰も写真をとらない。下今市を過ぎてから3人グループの女性が「これは日光へ行かないのですか」とあわてだした。「前の駅で乗り換えなんです。」「あの八重の電車に乗れば良かったのよ。」「次で降りたほうがいいかもしれませんね。」その前から、この列車のアナウンスの聞こえずらさを話題にしていたのである。スピーカーの性能の悪さか。マイクの使い方の悪さかと。せっかく案内してくれてもこれでは役にたたない。

龍王峡駅から散策開始である。徒歩時間3時間で予定時間は4時間あるのでのんびりである。ところが虹見の滝に見とれと五龍土神社から川の近くまで下り、渡るべき虹見橋を下から見ていながらその橋へ行く道に気が付かず進んでしまった。むささび橋でまたこちら側の道にもどるからといいことにしようと進む。そのむささび橋から見た鬼怒川の渓谷が美しい。紅葉だったら最高である。高千穂と似ている。

鬼怒川の川底は柔らかくどんどん底が削られて水位が下がっている。川辺に小さな砂浜ができている箇所もある。水の下では、人の目からは見えない動きがずっとたゆむことなく続いているのである。22000万年前からと書かれてあった。「22000年じゃないのよ。万がつくのよ。」

今年はキノコが多いらしい。キノコを見つけるのが上手な人がいて、白いキノコや落ち葉と見間違うようなキノコを見つける。キノコと言えば映画『マタンゴ』である。直球で即通じる人がいた。「特撮!」

昼食の後、雨が降り出す。木々に覆われた道を出ると雨も止む。トンネルを3つ通過。最後のトンネルは短くここから出口に紅葉が見えると歓声なのであるが。想像だけは豊かに。龍王峡駅から一つ目の駅・川治温泉駅の近くに到着。「黄金橋があるらしい。どうする!」 と登り坂があると「きらい!」 と文句をいう人が聞く。「どんなおうごんばしか見ることにしよう」 なかなかおうごんばしは現れない。おうごんばしでは無くこがねばしであった。「黄金でもせめて黄色と思ったら青!」

そこから次の川治湯元駅では、目の前を電車が発車。皆疲れていて僅かの坂も急いでのぼる元気なし。予定では1時間後の列車なので予定通りである。駅前に喫茶店があった。

雪の時期、この線で会津まで雪見の旅がよい、などと次の旅を思い描く。そして、東海道も神奈川宿まで進んだのでその次をいつにしようかと。私は、川崎と神奈川宿はパスをしている。次の保土ヶ谷、戸塚も開発された道を歩くようである。季節によっては飛ばして先へ進み、順番を変えようという話もでている。なばなの里のイルミネーションを見て、次の朝は名古屋のモーニングを食べたいとの案もある。

 

 

平将門の上空旋回

吉川英治著「平の将門」を読んでいて驚いたのは、菅原道真の三男・景行が出てきた時である。道真の子がなぜ。小説によると、筑波山のふもとにわずかな菅家の荘園があり、景行は父の遺骨をもって筑波のふもとに祀り、そのまま住みついて地方官吏の余生を送っているとあった。その景行が創建したと言われる大生郷天満宮が常総市にある。

市川市の永井荷風の姿をよく見かけたという白幡天神社は、太田道潅の建立とのいい伝えもあり白幡神社だったのが、明治になって菅原道真を合祀して天の字を加え白幡天神社となり、「白幡神社」の扁額は勝海舟が書いて奉納している。

常総市には、累(かさね)の墓のある法蔵寺もある。歌舞伎では「色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)ーかさね」の舞踊でお馴染みである。これは佑天上人の霊験譚として語り伝えられていて、法蔵寺には、累の木像や佑天上人が用いた怨霊解脱の数珠も保存されているようだ。伝説では、苅り取った豆を累に背負わせて、うしろから与右衛門が鬼怒川に突き落とし窒息させたとして、舞踏で、累が鎌で与右衛門に殺されるのはこのあたりの話からきているらしい。

さらに、千姫の墓もある。千姫は家康の命で大阪城落城の際、救出される。千姫の映画で記憶に残るのが、「千姫と秀頼」の美空ひばりさんである。江戸城にもどった千姫は祖父家康を恨み、気がふれたような行動をとる。それが凄い印象で残っているのだが、You Tube に千姫のひばりさんが祖父家康の前で薙刀を持ち踊る場面があった。その形の良さは驚くばかりである。是非 「千姫と秀頼」は見直したい。秀頼は当時の中村錦之助さんである。

千姫のお墓は東京の小石川傳通院にもあり、千姫はその後、桑名藩の忠刻と結婚するが死に別れ落飾し、その時からこの地にある弘経寺を菩提寺と決めている。この寺に崇拝する了学上人がいたからとされている。

将門の終焉の地は、現在の坂東市岩井にある国王神社である。今年は平将門公生誕1111年で、将門まつりが11月10日(日)に行われるらしい。小説では猿島で敗死とされているが、ここが昔猿島と呼ばれた地かどうかはわからない。石下に行ったとき坂東市のパンフも貰ってきたのであるが、処分してしまった。どうも地元の地図が無いと頭の中に描ききれない。

読んでおられる方はもっと描ききれないことであろう。こういう事は、人に言われたからと言って興味が湧くものでもない。どこかで、出会っていても興味が湧かないものは沢山ある。何かそういった事があったなあと素通りして、あれっ!と思ったときに自分で調べるのがよい。

平将門を討った平貞盛はのちの平清盛へとつながるわけで、貴族社会の番人を武士に据えることになったのは、平将門の登場があったからであり、この人なく平清盛も源頼朝もないのであり、徳川家もないのかもしれない。

電車に乗れば駅でパンフレットを手当たり次第に貰ってくるのだが、その中に面白いのがあった。あの鵺(ぬえ)退治 道後温泉  四国旅(6)の源頼政 の頼政塚が千葉県印西市にあった。京都宇治からなぜ。

似仁王(もちひとおう)を立て、平家打倒で闘い敗れ、宇治の平等院で自害した頼政である。解説によると、頼政は自害する時、二人の家臣に「自分の首を持って馬を引き東国へ向かえ。重くなったら、そこに塚を築いて首を葬れ。」と遺言。二人は遺言通り、首が重くて進めなくなり、その地に首を葬り塚を築いた。同じような伝承が茨城県古河市にもあり、古河市には頼政神社があるという。これは、将門に対する憧れの気持ちではないだろうか。東国が武士の発祥の地という。

 

平将門の伝説と史実

歴史的伝説と史実というのはその境目が難しい。興味を持ったが運のつきで、気にもしていなかったことが気になり始め、底なし沼に足を取られかねない。

友人が茨城に引っ越した。やっと訪問することができた。最寄りの駅が関東鉄道常総線の駅である。この線には、石下駅、下館駅がある。石下は、いしげ結城紬の町で、ここに行って結城紬といしげ結城紬が別ものであることを知る。さらに小説「土」の長塚節誕生の地であることも知りその方が興味深かった。夏目漱石の推挙で朝日新聞に連載されたのである。短歌から小説へと才能を伸ばすが36歳で亡くなる。映画「土」は内田吐夢監督である。

そして、平将門の館跡と思われる将門公苑がある。これは、後になって将門が身近に出没し気がつくのである。関東鉄道常総線の辺りは将門伝説と史実が入り組んでいることだろう。

下館は陶芸家板谷波山さんの生まれた町であり、波山さんが完成させた葆光釉磁(ほこうさいじ)は光沢を押さえつつもその曲線部分に柔かな光の反射を投げかけられる。下館には「板谷波山記念館」がありこの辺りもプラプラと歩いたのである。板谷波山の映画もある。「HAZAN」(監督・五十嵐匠/主演・榎木孝明)。波山没後50年でドキュメンタリー映画「波山をたどる旅」(監督・西川文恵)も出来たらしい。

友人宅のほうは、心地よいおもてなしで将門も波山も飛んでいた。今度機会をみて話すこととする。

将門伝説のほうは、水木洋子邸でサポーターの方から教えられたが、市川市のパンフを見ていたら書かれてあった。市川の大野に将門の出城があったらしく、大野城跡とある。歴史家によると市川には来ていないという説もあるようで、馬を駆使しての行動であるから、ここに城や屋敷は作らなくてもこの地を眺め渡した将門の姿はあったであろう。大野にある駒形大神社の祭神とし将門も併祀(へいし)されている。市川市役所の前に、八幡知不森(やわたしらずのもり)というのがあり、それは、平貞盛が将門の乱のときここに八門ある陣をしき、その死門の一角を残していてこの地に入るものにたたりがあるとされている。八門とは、開門・休門・生門・傷門・杜門・景門・死門・驚門で、開門・休門・生門の三門は吉門の方位を示すようだ。当然、死門は悪い方位であろう。行ってはいないが、森というより藪のようである。

御代の院と呼ばれるものもあり、これは、京都の菅野氏が将門平定のため関東に下り、その妻の美貌を使い将門に近づき内情を知らせさせ、それにより、将門は田原藤太秀郷の強弓に首を射抜かれた。その後、菅野夫妻は仏門に入り将門を弔いこの世を去ったが、その心根に里人が夫妻を祀り、これを御代の院と呼んで今日にいたるのである。

この御代の院の近くに幸田露伴終焉の地があり、露伴さんは「平将門」を書いており、将門伝説の残る地で最後を送ったというのも思えば不思議なことであるが、司馬遼太郎さんは関東・東北は馬文化であると言っており、馬の進むところ武士ありで、坂東武者の祖の将門は今も神出鬼没と言えるかもしれない。

 

郡上八幡での<郡上おどり> (3)

夜、7時から活動再開始。宿泊所は掃除が行き届き、高野山の宿坊を思い出した。規則を守ればご自由にという感じも気に入った。ただ門限10時は、踊りが10時半までなので最後まで踊りたい方には適しないかもしれない。

今回は初めての参加なのでジーンズと靴の参加である。ポシェットを忘れたので、小銭や小物を収納するためポケットの多いジーンズとする。宿泊所に夕食が付いていないため、近くの飲食店に飛び込む。出来あがっているお客さんも居て、気さくなお上さんが話の輪に入れてくれる。ここが、地元の方と触れ合う短いが楽しい時間となった。やはり踊るなら宵越しの期間が良いと言われる。今日は何処が会場?と反対に聞かれてしまう。城山公園ですと答えると、やはり街中で踊るのがいいわよと。初めての経験ですから、先ずは踊って次の機会の楽しみにします。来年もおいでね。もちろんですと答えお店を後にする。(来る要領を伝えれば仲間の何組かは勝手それぞれに計画するであろう)

通りでは何やらお囃子の音がしている。何のお神楽であろうか通りを練り歩ている。岸剱神社関係のお祭りらしい。多種のお祭りや慰霊祭があってその為に踊るらしいのであるが、獅子やそれを刺激する子供もいて、襲ってくる獅子から逃げて太鼓を叩いたり、鼓を打つ子供もいたり、大人と子供が一緒になって練り歩く。地元の人達中心のお祭りである。しばらく後を着いて眺めつつ、道を別れて城山公園に向かう。次第に郡上おどりのお囃子と歌う声が聴こえてくる。そのまますぐ踊りに参加である。お城の天守閣がライトアップされ見下ろしている。

中心に、移動できる屋形がありその上でお囃子と歌い手がおり、その周りを適当に輪になり踊るのであるが、参加型なので丸くはなっているがいびつな丸である。参加した人は輪の中心方向のこの人の真似をしようと思う人を見つけ、真似をし覚えていくので、綺麗な輪にしようなど気を廻すゆとりはない。だから隣の人と手と手がぶつかったりするのであるが、それが踊っていくうちに自分がどうすれば良いかが分かってくる。伸ばす手を真横から少しづらしてぶつからないようにするとか、出入り自由であるからその間隔を踊りつつぶつかりつつ、分かってくるのである。それに気がつくとその気の配り方も踊りの楽しさになる。目をつけた先輩の踊り手が視界から消えると次の師匠を捜す。<春駒>などは踊り易くてどんどん気持ちがエスカレートして行く。でも疲れてくると飛び跳ねるのをやめて息を整える。人に見せるためではないから自分で自由に調節できる。そうすると掛け声もあることに気が付き、その掛け声を出すのが楽しくなる。リードするお囃子さんが、踊る人々の様子を見ていて<やっちく>のような語りものに入り、踊り手は単純な動きをしつつ、その語りに耳を傾け掛け声をかける。踊っているうちに、郡上おどりの楽しみ方が次々見つかっていく。この流れも病みつきになる原因かもしれない。今度は歌を口ずさめるようにしようと、次の目標も決まる。

毎回、上手に踊れた人に保存会から「免許状」が渡されるようで、今回の課題曲は<猫の子>のようである。何回も参加される人にとってはそれも楽しいお土産かもしれない。<かわさき>の足が難しく練習した時も四苦八苦であったが、すでに忘れていて誤魔化し続け終わりころにやっと合い始めた。足は誰も見ていませんであるが、手も誤魔化しである。

<かわさき>は郡上おどりの代表歌で、伊勢古市の里で唄われた川崎音頭が流れてきて郡上に伝承されたといわれている。伊勢音頭など伊勢古市はこうし歌と踊りを生み出したメッカである。伊勢音頭というと歌舞伎の『伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)』を思い浮かべてしまう。

9時半過ぎに輪から離れ帰途につく。体調も持ち、楽しい気分で帰れるのが嬉しい。

次の朝は雨。

郡上のナ 八幡出てゆくときは   雨も降らぬに 袖しぼる

袖を濡らさぬ恵みの雨であった。と思ったら地域によっては集中的に降ったらしい。東海道線も昼の落雷で大幅に電車が遅れたり運転中止だったようだ。途中から東戸塚の友人にメールすると会えるということで途中下車。久しぶりに歓談。雨のため隅田川の花火は中止になったとか。自然の動きが今一番分からない分野である。これを考えると少しでも分かる分野は補修可能と思うのだが。

 

 

郡上八幡での<郡上おどり> (2)

吉田川の川べりに下り、川に落ちる小さな滝の水音を聴きつつ、ほう葉に包まれたほう葉寿司を食する。小さな子供たちが石を拾い、川に投げ込んでいる。重い石を選び体のバランスを失い尻もちをつき水浸しである。新橋からは若者が洋服のまま橋の欄干に登りあがり吉田川に飛び込んでいる。こう遊ぶものという制約がなく長閑である。

かつて勤めていた会社の上司がランチに牛肉のほう葉みそ焼きをご馳走してくれたが、この地方で考えられた料理であったのか。小さなお店の手作りしたおかみさんは、時間を置いたほうがほう葉の香りがお寿司に染み込むと教えてくれるが、川に並ぶ古い家並みも自然の川風も水音もほう葉寿司には最高の味付けである。

寛文年間に作られたという用水路の〔いがわこみち〕の水の流れとその中で悠々と泳いでいる鯉などを眺めつつ慈恩禅寺に向かう。境内も寺院内も静かである。障子が三方開け放たれ全面庭である。後ろは山。京都の円通寺や高山寺を思い出す。借景が木々であり、それが見る者を庭と一緒に包み込んでくれるようで安心して呼吸している。小さな二つ上から流れ落ちる水の音が、その距離の違いから時間の違う共鳴をしている。セミが奏でそれと遊ぶように小鳥がすぐ近くの枝の間をぴょんぴょん止まって遊んでいる。それを誘うようにもう一羽小鳥が遊びに来て、自由に飛び回る。トンボが来て、蝶々が来て、造られた自然の中を楽しんでいる。ただそれをぼーっと眺めている止まっている時間。

止まった時間から動きだし二箇所の床の間の書と花を眺める。庭を邪魔しない清々しい飾りつけである。それだけでもきちんと主張しており、それでいながらゆかしい。アジサイのくすんだ花色も良い。庭に花がないだけに目が行ったとき、目立ち過ぎないように活けられてるのも活けた人の心ばえが伝わる。川や雲の流れに合わせた書の詞である。ここでかなりの時間を取らせてもっらた。本当は一日一か所の寺社巡りが良いのであろうが、どうしても回り過ぎてしまう。そうして気に入ったところを探し当てる時間も必要なのであるが。中庭へ向かう角の手水ばちが水琴窟になっていて幽かな音を地上に伝えていくれる。釈迦如来の御本尊をお参りし中庭を眺めつつ玄関へと進む。御住職が是非11月の紅葉の時期にお越しくださいと声をかけて下さる。きっとあのもみじが色ずくのであろう。山門を出ると、さらに、雪の時期にもきたいものであると欲が出る。世俗にすぐもどっている。

そこから〔やなか水のこみち〕へ行き、郡上八幡旧庁舎記念館で冷たい白玉ぜんざいを食べ、新橋を渡り裏側から郡上八幡城に向かう。これが結構きついのである。昨年来た時は、お城の掃除の日で中に入ることが出来なかった。がっかりして下る途中で、博覧館で決まった時間に郡上おどりの実演があるのを知り、大急ぎで下ったのである。何が縁になるか分らないものである。お城に入ると外は、俄か雨である。天守に登り、雨の郡上を眺める。展示の所に<家康の鷹狩にお供した郡上藩主の青山忠成が貰った赤坂のにれから渋谷まで、もともと原宿といっていた土地が青山と呼ぶようになった>(「お江戸の地名の意外な由来」中江克己著)のだそうである。

東京では6月に郡上八幡藩主青山氏の菩提寺「梅窓院」(南青山)の境内でおこなわれていたが、近年は秩父宮ラグビー場駐車場( 地下鉄銀座線 外苑前駅下車 出口 徒歩1分)で行われている。

今回の郡上での踊りの場所は城山公園でお城から下って行くと山内一豊と千代の銅像のある城山公園を通る。場所が城山公園というのも気に入った。町歩きも終わり、後は踊りの時間までゆったりするだけである。

 

郡上八幡での<郡上おどり> (1)

郡上八幡で<郡上おどり>を踊ることができた。

徹夜で踊り明かすのは8月のお盆の頃で、それまで30数日夜、踊られているのである。その何処かに行けば良いわけであるが、泊る所が問題である。調べているうちにユースホステルが見つかる。ユースホステル。懐かしい。若い頃お世話になった。バスの発着所、〔郡上八幡城下町プラザ〕から4分とある。電話でお聞きすると、個室もあり空いているという。何んという展開か。

郡上八幡へは名古屋からバスか岐阜からバスがあり、岐阜からの方が本数が多い。昨年行っているのでどう行動すれば良いか分かるので動き易い。バスで山に分け入ると懐かしくなる。こんなに早く実現するとは。

〔郡上八幡城下プラザ〕で降り、すぐユ-スホステル郡上洞泉寺へ行き荷物を預かって貰う。4時から入室で10時門限である。初めての踊りであるからそれで充分である。お風呂は近くの銭湯で4時からと言われる。それまた結構。足を伸ばせる銭湯がいい。踊りは8時位からであるから街歩きをして、お風呂に入り休憩がとれる。問題は体調がいまいちなのでその辺をセーブしつつ踊りに臨むことにする。

ぷらぷら歩いて行くと吉田川から別れる小駄良川にぶつかり銭湯もわかる。川に沿って赤い清水橋を渡ると宗祇水に出た。昨年はここに来るのに時間的ロスがあったが今回は位置関係がわかった。先ずは〔城下町プラザ〕を中心にどう回るかを考える。一番行きたいのが慈恩禅寺でそこの庭・荎草園が観たいのである。城下町セット券があったので購入。

先ずは、再度ここまで足を運ばせてくれた郡上八幡博覧館へ。行くとすぐ郡上おどりの説明が始まるところで、解説の女性スタッフが二人とも昨年と同じ人であった。今回は踊りが始まっていることもあり手だけの<かわさき>の動きを皆に指導してくれる。「足は見えないから適当に動かしていればそのうち踊れます。」「輪の中心のお囃子さんが皆さんの疲れ具合を見て動きの少ない踊りを入れつつリードしてくれます。」「そして時には掛け声でお囃子さんを励ましたりしてくださ」「上手に踊ろうとしなくていいです。隣の人と手がぶつかっても構いません。御免なさいの一言でお互い様。」「『猫の子』という曲がありますが、繭を悪戯するネズミの番をしている猫で大人しい猫です。猫の仕種も大人しいです。隣の猫が目立とうとすると、こちらの猫が怒ります。勝手な余計な仕種は加えないで踊りそのものを楽しんでください。」

今回は実践編の解説であった。

 

池田満寿夫と内田康夫を繋ぐ謎

池田満寿夫の青 で信州松代で「池田満寿夫美術館」に遭遇したことを書いたが、そこで熱海に「池田満寿夫記念館」と「創作の家」があるのを知る。

「創作の家」は池田満寿夫さんと佐藤陽子さんが1982年から1997年3月池田さんが亡くなられるまで住まいとして、また、アトリエとして使われていた家で熱海市に寄贈され公開されている。MOA美術館に行く途中にあり坂がきついのでバスを利用したほうがよい。駐車場は無い。

「池田満寿夫記念館」のほうは、伊東線網代(あじろ)駅から熱海駅行きバスで5分「下多賀」バス停下車20分とある。歩ける範囲である。チラシの後ろには車用に、歩くものには役立たないような池田さん自筆の芸術的地図載っている。「下多賀」バス停からの道は一応調べて印刷したが、こちらもあまり役に立たず道ゆく人に聞くこととなる。住んでいる人が楽なように教えてくれたのであるが、教えられる方の力不足で山肌に面した道をかなり遠回りしてしまった。それと網代駅前バス停も少し駅から離れていて人に聞かなければわからない。バスの時間までバス停そばの川などを辿っていたが、そこではなく網代駅周辺をもう少し散策しておけばよかったと思っている。なぜなら内田康夫さんの推理小説「『紫の女』殺人事件」で網代が出てきたのである。網代→池田満寿夫→内田康夫→紫の女(ひと)と繋がってゆく。

この推理小説には内田康夫さんと浅見光彦さんとが登場する。これもなかなか楽しい。内田さんは実際にこの網代のリゾートマンションに仕事部屋を持たれていた時に事件が起こるのである。内田さんのマンションの住所は熱海市下多賀である。池田さんの陶の作品が中心の記念館も熱海市下多賀である。この小説の目次に〔第一章 網代日記〕とあったので1ページを開いたら熱海での殺人である。これは読まなくてはならない。

熱海の紹介もある。古くは『吾妻鑑』に記載されてるそうだ。江戸時代徳川家康が湯治にきており、明治になると新政府の高官の社交場となり、別荘も立ち並ぶ。尾崎紅葉の「金色夜叉」、演歌の「熱海の海岸散歩する、貫一お宮の二人連れ~」も熱海を全国区にするのである。

熱海も今は時代から取り残された温泉場のイメージが強いのかもしれないが、谷崎潤一郎さんの「台所太平記」の場所でもあり、熱海にて でも簡単に紹介したがなかなか面白い街である。小説の方は熱海、網代を舞台に京の宇治まで旅するのである。作者に言わせるとこの作品は「駄作揃いの僕の作品群の中でも突出してケッタイな作品の部類に入りそうでです。」とあるが、私にはお気に入りの作品である。和菓子を見ても思い出す作品である。出てくる和菓子のお店も実在するとか。この作品の文庫は1995年に出ている。まだあることを願い確かめに行きたいものである。時間があれば「池田満寿夫記念館」にも再度足を延ばしたい。

 

テゴマスの「猫中毒」と郡上おどり

突然、テゴマスの「猫中毒」のCDと猫ダンスの講習DVDが手元に。

仲間が話してる手に猫の着ぐるみの写真のCDジャケットが。 「何そ~れ?」「テゴマスの猫中毒です」「???」ジャニーズのユニットグループテゴマスが出した振りありの新曲で仲間の友人の50代のオバサマがはじめて増田君を見て芸能人に興味なかった方が突然アイドルとやらに目覚め貸してくれたのだそうである。「是非観て下さい。彼女も喜ぶと思います。」 そう言われると断る理由も無いのでお借りする。

なるほどこういうことか。賛否両論あるらしい。あそこまでしなくても。徹していて面白い。悪ふざけではなくきちんとやっているので面白いと思う。振付の説明のほうが二人の緩やかな信頼関係が垣間見え楽しかったが。次の時には「テゴマスのうた」のCDも貸してくれた。若い人の歌は歌詞が長くみんな同じに聞こえてしまう。一曲だけ気に入った。歌詞も素晴らしく短い津軽三味線の上妻宏光さん作曲の「四季彩」である。上妻さんの津軽三味線が効いている。仲間に伝えたら、どんな曲か全然通じなかった。

猫からふっと思った。東京での郡上おどりは今年はいつであろうかと。終わっている!!6月29・30日だったらしい。7月と思い込んでいた。折角練習したのに。

去年郡上八幡に行き郡上踊りを見せてくれる所がありこの踊りと出会った。郡上踊りの中には<猫の子>という猫のしぐさのある踊りもあるのである。踊る方も上手で気に入ってしまった。そこで郡上おどりのレッスンDVDを購入。去年の夏初めて東京でも郡上おどりが踊られるのを知り観にゆく。そして来年は参加しようと思い立つ。そこで4月に日本舞踊をやっていた友人のところにDVDを送り、先に見てもらい、その後押しかけて習ったのである。いつもの突然の申し込みに呆れられたが、十曲何とかついていけるであろうというところに漕ぎ付けた。友人も次第に乗ってきて、「歌詞を聴いてると可笑しいのよね。これはここが難しいのよ」とDVDを見つつ動いてくれるので私は彼女の後ろ姿とDVDを見つつ従い「いいでしょう。この踊りは400年の歴史があるのだから。」と後押しする。今年は友人と二人だけの楽しい郡上おどりで終わりとなってしまった。また来年先に友人の所で再度復習をして本番に臨むことにしよう。でもやはり、本場で踊りたいものである。