鬼怒川温泉と日光杉並木

友人が東武鉄道の安い切符がチケットショップにあるが必要なら購入するという。切符があれば出かけるであろうからと数人分お願いする。結果的に行きたいところが別々で皆単独行動となった。それぞれ日光の鳴虫山、龍王峡、奥日光と意見も分かれ日にちも合わない。私は鬼怒川温泉に行ったことがないので、旅行ガイドを見て鬼怒川温泉の五橋めぐりを決める。時間があればロープウェイで丸山山頂駅までと考える。

鬼怒川温泉駅に着く。想像していたよりもホテルが沢山ある。観光情報センターで尋ねると橋めぐりは「七福邪鬼めぐり」となっていて、橋に鬼の可愛らしい像があって、それを全部まわると邪気払いとなるらしい。案内の方が親切で地図に赤いマジックで行き方と番号を記してくれる。鬼怒川温泉駅から鬼怒川公園駅まで一駅歩くことになる。公園駅の近くに日帰り温泉の鬼怒川公園岩風呂がある。ロープウェイは少しもどる形となり今回はパスである。

もう一つ行きたいのは今市にある日光街道の杉並木である。以前友人たちと日光へ行ったとき簡単に却下されてしまった。「杉見てどうするの。」どうするのと言われてもなあ。その時は充実した旅で、二日目には、もう一つの提案場所滝尾神社に行け、友人たちも満足したのでそれはそれでよかったが今回は誰に遠慮もいらない。案内係りの方はすぐ地図を出してくれ、上今市駅のすぐ近くが杉並木公園になっていてそちらが良いという。東武線は下今市駅東武日光線東武鬼怒川線に別れ浅草からだとほとんどがこの下今市駅で車両が離されて日光と鬼怒川方面に別れるのである。上今市駅となると、鬼怒川公園駅から下今市駅まで行き日光線に乗り換え上今市駅にいかなくてはならない。安い切符の時は安さを貫くのが変な楽しみで普通列車で特急など使わないから時間をうまく使わなくてはならない。

七福邪鬼めぐり」の鬼のそばにスタンプ台も置いてありスタンプラリーにもなっている。先ずは駅前の足湯のところに①鬼怒太像が。それから教えてもらった地図どおりにぷらぷらと橋と川を眺めつつ②鬼怒楯岩大吊橋・「楯鬼」③立岩橋・「立鬼」④ふれあい橋・「定印鬼」⑤くろがね橋・「遊心鬼」⑥滝見橋・「思惟鬼」⑦鬼怒岩橋・「半跏鬼」まで1時間半から2時間。汗を流すには丁度よい場所に温泉がある。

温泉でさっぱりして、携帯で電車の時間を検索すると、15分後に浅草行きがある。バックの中のワッフルと自動販売機の牛乳で急場を凌ぎ鬼怒川公園駅から下今市駅へ。3分後には日光線が出る。それに乗り換え上今市駅に到着。杉並公園を過ぎると日光街道杉並木である。長い。こんなに距離があるとは思わなかった。誰だ。「杉見てどうするの。」とのたまったのは。江戸時代の人々がここを歩いたんですよ。

日光東照宮をめざす、江戸からの日光街道、中山道からの例幣使街道、東北地方からの会津西街道が合流する重要な地点が今市である。

次の電車の時間があるので往復40分ほど歩く。江戸の旅人になった気分で、もっと暗かったであろう、あの先から追いはぎが出てきたかもなどと想像する。でもこのあたりは旅人の通行は激しかったであろう。杉の木に名前のプレートがついている。オーナー制度があるようだ。この道は残していって欲しい。北千住まで食事はお預けとなった。

帰りの電車の中で貰った観光案内を見ると昭和村の「からむし織の里」が出ている。以前から行きたかった所である。会津田島からバスが出ている。これは調べてみる必要がある。

池田満寿夫の青

再放送のテレビ番組に画家の池田満寿夫さんがでていた。福島県裏磐梯の五色沼の青色の謎を訪ねる旅であった。かつて五色沼は近くのユースホステルに泊まり、散策したことがあるので沼ごとの青色が違っていた記憶は残っている。

池田さんは五色沼の青色がどうして出来るのか、その色を出そうとしても出し切れないと。スタッフは水中に潜り調査した。水の中に白いもやがある。池田さんはそれは地下から上に向かう何かの力のような気がすると。水源をたどる。五色沼の源とされる沼の水。途中の湿原の水。それらを合わせると化学反応を起こし白いもやができる。白いもやの粒子に太陽の光が当たり青く見える。その粒子の大きさによって様々な青ができるのである。天然の絵の具である。

池田さんは語る。芸術は表面的である。自然はもっと深い。たとえば陶器でその色を出そうとしてもそれは表面で見えるもので、自然は沼の色はいくつもの水の層に光があたって屈折した色で、もっと深い色となる。

池田さんの<色>が美しいと思ったのは長野市松代の「池田満寿夫美術館」であった。それまで池田さんの<色>に対して 強く魅かれることはなかった。展示物と展示方法の良さもあった。心地よい暖かさを感じた。そもそも「池田満寿夫美術館」があるのも知らなかった。長野で一日どこを廻ろうかと観光案内に入ったら、他のご婦人が先に同じように尋ねていて、案内の人が松代はどうか、バスで行けると案内している。この話にのろうと、バスの時間を聞くと急げば間に合うと言われ、松代を散策することとなる。松代に着き早めの昼食を取るべき食堂へ。観光案内地図を広げると、「池田満寿夫美術館」がある。そこを最終目的地とする。

松代には松代城があり、1560年に武田信玄が上杉謙信の攻撃に備え、山本勘助に命じて築城。1622年に真田信之が上田城から初代松代藩主として移って以来、真田氏10代が城主として続く。真田家と関係してたのだ。

食堂の壁に松井須磨子関連の写真が。食堂のご主人に聞くと松井須磨子生誕の地といわれる。古い町で何かありそうとは思ったが戦国時代から明治、現代まであり過ぎるくらいある町であった。大河ドラマ「八重の桜」に出てきた佐久間象山も松代の生まれで、象山神社や記念館、高杉晋作などともひそかに会った建物・高義亭もある。松代に行った時は象山はよくわかっていないので記念館はパスしている。

自転車を借りて廻り最期に「池田満寿夫美術館」で青だけではなく<色>を楽しんだのである。散策の疲れから思考能力も低下しているので、ただ<色>を楽しんだ。その時のことが、テレビ番組と重なり、一人の画家の<色>を楽しめた時間の心地よさを思い出していた。画家は悪戦苦闘して色を捜したのであろう。こちらはその苦闘をあちらに置いて心地よき時間を受け入れる。

 

 

平将門の人気

『平の将門』(吉川英治著)を読む。<将門遺事>に次のようにある。

「江戸の神田明神もまた、将門を祠(まつ)ったものである。芝崎縁起に、由来が詳しい。初めて、将門の冤罪(えんざい)を解いて、その神田祭りをいっそう盛大にさせた人は、烏丸大納言光広であった。寛永二年、江戸城へ使いしたとき、その由来をきいて、「将門を、大謀反人とか、魔神とかいっているのは、おかしい事だ、いわれなき妄説である」と、朝廷にも奏して、勅免を仰いだのである。で、神田祭りの大祭を勅免祭りともいったという。」

今年は四年ぶりの神田祭が5月9日から15日までおこなわれる。神田明神の資料館に行けば将門の事も分かるかなと思い出かける。その前に大手町にあるという首塚へも。地下鉄の大手町駅の5番出口から出ると左手すぐに幟と白壁が見える。

説明板によると「酒井家上屋敷跡 江戸時代の寛文年間この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり歌舞伎の「先代萩」で知られる伊達騒動の終末 伊達安芸・原田甲斐の殺害されたところである」。これは驚きでした。原田甲斐と将門が繋がるとは。将門が戦で命を落としたのは、天慶3年、2月14日、38歳である。将門首塚の碑には次のような説明が。「昔この辺りを芝崎村といって神田山日輪寺や神田明神の社があり傍に将門の首塚と称するものがあった。現在塚の跡にある石塔婆は徳治二年(1307年)に真教上人が将門の霊を供養したもので焼損したので復刻し現在に至っている。」

この後、延慶二年(1309年)神田明神のご祭神として祀り、徳川家康が幕府を開き江戸城を拡張する際現在の江戸城から表鬼門にあたる場所に移動し、首塚の碑は大手町にそのまま残ったわけである。神田明神の正式名称は神田神社でご祭神は、だいこく様、えびす様、まさかど様である。

資料館ではー江戸の華 神田祭をしりたいー【大江戸 神田祭展】の特別展を開催していた。そこで面白い説明があった。江戸時代将門の凧が好まれて空に多く舞ったという。朝敵といわれた将門の凧が空を舞ったのは江戸以外ではあまりみられなかったそうだ。もう一つは将門は妙見様を武神として篤く信仰していて将門が彫ったといわれる妙見尊像が奉られていた。妙見様は本体は北斗星・北極星といわれている。それで思い当たることがあった。吉川英治さんの本の解説に劇作家の清水邦夫さんが、将門生存説があり将門には七人の影武者がいてその影武者が将門の身代わりとなり将門は生きのびたとする説で、茨城県のあちらこちらに七騎塚とか七天王とかの塚が残っていて、名古屋あたりにも七人塚があると書かれている。清水さんは将門を戯曲にしていて将門のことを色々調べたらしい。そこで思ったのである。この七という数字は将門の妙見様信仰の七からきているのではないかと。他の数字でもよいであろうが、将門の事をよく知っている身近なところからこの伝説は生まれたようにおもうのである。

歌舞伎の舞踏劇<将門>は、山東京伝の将門の遺児たちの復讐の物語をもとにした芝居の大詰めの踊りで、将門が余りにも呆気なく敗死してしまったことに対する庶民の思い入れもあるような気がする。江戸時代にはもっと人気があったと想像するのだが。

清水さんは東京の近郊の鳩の巣の神社にも将門を祀っていると書いている。奥多摩の鳩の巣渓谷は歩いた事がある。参考にした雑誌を見たらJR青梅線鳩の巣駅の上に将門神社があり、暑い日だったので行くのを止めた記憶が蘇る。今なら無理してでもも行ったであろうが、その時は将門への興味は薄かったのである。将門っ原とありそこは居館跡とある。その雑誌では将門神社の説明が次のように書かれている。

天慶(てんぎょう)の乱をおこした平将門は権力に圧迫されて苦しんでいた民衆に人気を集め、いつしか民衆の英雄として都内のあちこちに将門伝説をのこした。ここ将門神社もその子良門が亡父の像を彫って祀ったといわれる場所。

これからもあちらこちらで将門神社や将門伝説に会うことであろう。

 

柴又・寅さんの旅

「寅さん記念館」が出来てから一度も訪れていなかったので柴又へ寅さんに会いに行く。京成高砂駅で京成金町行きに乗り換え一駅で京成柴又駅である。駅前で寅さん像に迎えられ帝釈天参堂のお団子屋さんなどお店を眺めて歩くとすぐ帝釈天願経寺に到達する。

今回驚いたのはお寺(帝釈堂)の建物に彫られている彫刻一群がさらなる透明ガラスの建物で蔽われ、雨風に晒されること無くそばで見れるようになっていたのである。彫刻の高さまで階段ができ近くから細かい部分まで鑑賞できるのである。「彫刻ギャラリー」と銘打ち有料であるが面白い試みである。一周見終わると回廊を渡りお庭拝見となる。暖かいので黄色の小さな蝶々が楽しそうに遊んでいる。

お寺を抜け山本亭へ。地元ゆかりの山本工場(カメラ部品製造)の創立者が建てられた書院造と洋風建築の和洋折衷の建物であるがそこを通り過ぎ、江戸川の土手に向かう。途中、さくらさんの住んでいそうな場所を通る。たんぽぽや芝桜がちらちら目に映る。長閑である。遠くに鉄橋が見え電車が気持ち良さそうにすうーっと動いていく。矢切の渡しは一度舟で渡ったことがある。向こう岸から「野菊の墓」の舞台を歩いたのである。1955年木下恵介監督の映画「野菊の如き君なりき」(回想シーンを楕円型にトリミングしてあった)を思い起こす。

「寅さん記念館」は美術・大道具・小道具さんやメイク、衣裳さんの仕事の小さな映像もあり参考になった。くるまやの撮影スタジオでは、お店と皆が食事をする部屋の間に階段があり寅さんの二階の部屋の隣にもう一部屋ある。この階段は映画では解からなかった。台所から寅さんが上がる階段だけだと思っていた。映像など見ていたら結構時間がかかる。寅さんのグッズ売り場で、雑誌を発見。「旅と鉄道」(寅さんの鉄道旅)鉄道好きの山田監督と川本三郎さんの対談あり。ゲット! 「山田洋次ミュージアム」では寅さん以外の山田監督の世界が。

時間切れで山本亭はパス。観光地で写真を撮っている人がいるとちょっと避けてしまう。一番良い位置で撮りたいのはわかるが、占領されてしまうと周囲が興ざめする事もある。せっかくの旅の風景の流れが悪くなるときがある。ツアーの時などは、目の付くカップルやグループは避ける。そうでない時は親切気取りでさっさと写してあげるのである。お寺の庭などではボーっとしていたいのに動きまわられるとガクッとなる。時間差でなるべく避けるのであるが。

 

自転車のしまなみ海道 四国旅(番外篇)

旅好きの仲間と四国の話から、彼女は自転車でしまなみ海道を渡ったという。青春18きっぷ利用者なのだが、自転車のしまなみ海道は季節的に青春18きっぷでは無理と判断。10月、夜行の高速バスで東京から京都に行き、鉄道の日を記念しての格安切符で(初めて聞く切符である。情報感謝。)岡山から四国に渡り今治へ。そこで泊まり次の日の朝8時、自転車で出発。尾道着午後3時だそうである。尾道大橋は渡らず、向島(東京はむこうじまだが、むかうしまと読むようだ)から尾道渡船でフェリーを利用。

<尾道渡船><フェリー><自転車>。映画「さびしんぼう」ではないか。彼女は映画は見ていないからこちらの反応が解からない。大林宣彦監督の尾道三部作「転向生」「時をかける少女」「さびしんぼう」の一作である。映画で<さびしんぼう>が出て来た時、この<さびしんぼう>を上手く違和感なくつなげていけるのであろうか。下手すると手口が解かる手品となって白けさせるかもしれないと思ったが、きっちり役目を果たした。尾道のどこか懐かしい石垣の坂道やフェリーで通学する残された風景の力でもあるが、心が<さびしんぼう>という形となってチクチクと痛みを感じさせる。

しまなみ海道をバスで渡る時ガイドさんが、「自転車で渡れるんですよ」と説明してくれ渡ってみたいと思った。そして即、火野正平さんが怖くてこの橋はパスしたことを思い出す。NHK/BSプレミアムの旅番組「にっぽん縦断・こころの旅」である。そのことを彼女に話しすと、その番組は時々見るがそこは見ていないと。こちらも時々見ていてたまたまその旅の部分を見たのである。その話を聞いていた仲間が、あの番組に高校時代の部活が終わっての帰り道、夕焼けの美しい場所を投稿し、残念ながら採用にならなかったという。色々書きすぎて焦点がボケてしまったと反省していた。山口生まれで、「龍馬伝」にはまり、毛利や清盛の瀬戸内海の話など短時間ではあったが、熱く語り聞かせてもらった。でも会津の人は今でも長州は嫌いという人がいると思うとも。たしかに歴史を見ていくとそれぞれ言い分があり、どこかで風が変わってしまうようである。

旅の話にもどすと自転車の彼女は、尾道の夜、予定通り焼きそばとうどんのお好み焼きを二種類食べれて満足のしまなみ海道自転車旅だったようである。

彼女は青春18きっぷで関西から夜行で東京にもどり、その足で再び下り身延山の枝垂桜を見てきた事もある。その行動は理解できる。宿泊までして早朝身延線で身延山に上り、下って身延線で甲府に出ようと思ったのに、身延線出発時間を間違え大幅な時間のロスから甲府周りを諦めたことがあるから。

青春18きっぷで全部という贅沢な旅も体力的にきつくなり、連絡の悪いところは新幹線などを使うが、車窓としては在来線のほうが勝っている。防音のためのコンクリートの壁に挟まれていると旅というより運ばれているだけで楽しみはお弁当か。在来線は4人がけのシートが少なくなり横並びなのでお弁当を楽しむ雰囲気ではない。そこがさびしいところである。

 

 

しまなみ海道  四国旅(7)

四国には本州へ橋を渡って行くルートが三つある。鳴門から淡路島を通って明石へ。坂出から岡山へ。今治から尾道へ。今回は今治から来島海峡大橋、伯方・大島大橋、大三島橋を渡って大三島までで四国に引き返すコースである。須磨・明石に行った時、明石海峡大橋と淡路島が見えて感動したが瀬戸内海は本当に島が多い。景観から云うとどちらがよいか難しいところであるが、船の経路が道路の経路に変わってしまったのである。とにかくもしまなみ海道を楽しませてもらった。

大三島(おおみしま)で大山祇神社(おやまずみじんじゃ)の国宝館に鎧と刀が展示されているという。鎧と刀、興味が薄いが重盛や義経の奉納した刀があると聞けば見たい。重盛の螺鈿飾太刀(らでんかざりたち)は朝廷の重要な儀式につけた太刀で螺鈿飾りの鞘に収まっている。平家一門が栄えていた頃この太刀も輝いて人々の目に触れていたのだと思うと時間の流れにふっと戦慄を覚える。義経の奉納の刀は鞘から出されていてとても美しいカーブをしていた。今まで刀を見ても感じなかったが正式には刀のそり具合を何というのか、刀にも美しい形というものがあるのだと知った。

鎧にも一つ発見が。詳しく調べてはいないのだが、戦国時代大三島を守る戦いに勝利をもたらした鶴姫という女性がいて、この鶴姫が着用していた日本唯一の女性用鎧があった。女性用なので胸囲が広くウエストが細い鎧である。鶴姫の本があり心動かされたが買うのはやめておいた。

木曽義仲奉納、頼朝奉納、弁慶奉納などの品々もあり、神様も色々困られたこともあったであろう。皆、船でこの大三島に渡ってきたのである。私たちは鉄道や道路で考えるが、あの頃は海路と徒歩あるいは馬である。いや<汽笛一声新橋を>までそうなのである。それが陸路より近かったり、他所の土地の文化が伝わるルートが今と違っていたことを知らないと、どうして其処へ飛ぶのという事も出てくる。しまなみ海道で尾道まで行きたかった。

 

道後温泉  四国旅(6)

道後温泉は内子町内子座に文楽を観に来たとき、夏目漱石と正岡子規を中心に松山・道後温泉と回ったので懐かしい。今回は坊ちゃんの湯には浸らなかった。

宿の売店で小冊子<伊豫むかしむかし>を見つける。昔話である。題名は「鵺(ぬえ)」。平家物語にも出てくるが源頼政の鵺退治の話である。頼政は源氏をうらぎり平家にねがえったと人々にうとんじられる。それを悔しく思う頼政の母は、家臣の猪野早太を伴い伊豫の山奥に隠棲し頼政の武運を祈る。ある日、早太を供に矢竹の群生地でよい竹を見つけ弓矢の名人に頼み<水波(すいは)><兵波(ひょうは)>の二本の矢を作る。その矢に母の祈りを込めたので仕損じることはないから手柄を立てるようにと草太に託す。母はふたつの山の山頂にあるあぞが池の竜神に自分の命と引き換えに頼政の手柄を祈った。

京の都ではうしみつ刻(二時)になると黒い雲が御所を覆い不気味な鳴き声をあげ、それがもとで天子様はご病気になられた。平氏の面々は誰も退治できず、頼政に命が下った。頼政は母からの二本の矢で見事に化け物を退治した。頭は猿、体はたぬき、四本の足は虎、羽があり、しっぽは蛇という奇怪なものであった、鳴き声がぬえ(とらつぐみ)に似ていることから鵺と名がついた。天子様は頼政に名剣・獅子王を下された。その時、ほととぎすが高う鳴いて飛び立った。宇治の左大臣が「ほととぎす名をも雲居にあげるかな(ご所の上にほととぎすが鳴いて頼政の名をいっそうあげましたよ)」。頼政が下の句を「ゆみはり月のいるにまかせて(これも、ひとえに弓矢が良かったおかげです)」天子様は頼政が歌にもすぐれているので、土佐の国も合わせて下された。

伊豫のあぞが池は夜ごと池の中から黒い霧がわき、異形のものを包んで東に飛び、明け方近くもどって、池に消えていたが、ある日池がまっかになっていた。頼政の母は住まいの小屋で骨と皮になり、顔は微笑みをうかべ死んでいた。頼政は母が化け物退治に力添えしてくれたことがわかった。

それからどれくらいたったか、宇治の平等院で諸国行脚の僧が、夢枕に老武将が現れ、昔鵺を退治したが、それはわが母の化身であった。もったいなや母の恩。自分の罪に成仏できません。どうぞ菩提をとむろうて下され、と告げた。僧が目を覚まし土地の人に聞いてみると、鵺の話もここで頼政が腹を切ったのもまことの事だった。

母の子を思う心もあわれ、知らずに恩愛の母を討ち取り、いまだに暗闇をさまよう頼政の苦しみもさらにあわれ。僧は望みどおりねんごろに経を手向けた。

平家物語に関係する事が何かあるであろうと思ったら、民話のむかし話としてめぐり会った。

 

宇和町・大洲町散策  四国旅(5)

愛媛でふるさとの風景として内子町、大洲町、宇和町に力を入れているようである。内子町は内子座に文楽を観に行き、その時町並みを歩きしっかり江戸から明治にかけての町を楽しんだ。もしかするとその時から町歩きが好きになったのかもしれない。今回は内子町は入っていない。しかし、残念ながらツアーの悲しさで時間が限られ、心密かにもう一度来る事を誓う。

宇和町では、最初に入った「宇和民具館」がその並べ方・展示のし方が綺麗に整頓されていて感心した。この地に残る<五ツ鹿踊り>というのがあって一つだけが女鹿でその頭に赤い鳥居が飾られている。この赤い鳥居は、歌舞伎「夢市男伊達競」の七福神の弁財天の頭にもあり驚いたのであるが、何かいわれがあるのであろうか。

昭和48年まで栄座があり町民の娯楽の場であったらしい。栄座の模型もあり、そこに小さな幟もある。長谷川一夫一座、広澤虎造一座、高田浩吉劇団など。木で作られた上演看板には、市川右太衛門一座や片岡千恵蔵一座もある。演目は長谷川一夫さんが「鷺娘」「恋の勘太郎」、高田浩吉さんが「花嫁の発言」「天狗に拾われた男」「プレゼントアルバム」(歌も歌われたのであろう)、市川右太衛門さんが「旗本退屈男」とある。

シーボルトの娘さんの楠本イネさんが西洋医学を身につけるのもこの町である。シーボルトの弟子である二宮敬作がこの町で開業していたので、イネ13歳から18歳まで医業を手伝いつつ学んだのである。二宮敬作は同じシーボルトの門弟である高野長英をかくまったこともあり、この町は「花心」「長英逃亡」「おらんだおイネ」「ふぉん・しいほるとの娘」など歴史小説の舞台にもなっている。

山田屋まんじゅう本店もあった。突然の出現。

大洲町でのもう一つ突然の出現は「おはなはん」。テレビ小説「おはなはん」のロケ地でおはなはん通りがある。大洲で見学したのは「臥龍山荘」のみ。そこ一つで時間を取られてしまった。臥龍院、知止庵、不老庵の三建築からなり桂離宮、修学院離宮などを参考に選り抜きの名工たちによって10年かけて作られている。熱心な説明でまだ話たりなさそうであった。何も聞かずにぼーっとしているか、説明を聞いた後でぼーっとしている時間があるのがベストであるが、それは望めない。

来なければこんな町があるのも気がつかないわけで、もう一度ゆっくり歩きたい町としておく。

 

足摺岬から竜串海岸 四国旅(4)

足摺では海に沈む夕陽と日の出が見れた。元旦に日の出を見ていないので手を合わせて無病息災を。手抜きであろうか。あしずり温泉は弘法大師が金剛福寺を建立したさい疲れを癒したとされる。

足摺岬にはジョン万次郎の像がある。14歳の時、出稼ぎに出た万次郎は足摺沖でシケにあい、漂流、アメリカの捕鯨船に救助され、ホイットフィールド船長の好意で勉学に励み様々な西洋知識を学び日本に持ち帰る。バスガイドさんが龍馬に比べると知名度が低く、龍馬たちもこの人の先がけがあったからこそ次のステップを踏めたのだからもっと知ってもらいたいと熱く語られた。土佐清水出身の方だろうか。ジョン万次郎さんには大変興味があります。時間が無いだけで。足摺岬は寺田寅彦の短編「足摺岬」で有名になったとか。知りませんでした。観光の地名としてインプットされてますので。太平洋が270度見渡せる。

すぐ近く札所38番の金剛福寺がある。そういえば37番の岩本寺から38番までが一番遠いと云っていたような気がする。金剛福寺は弘法大師が千手観音を刻んで開基し、足摺岬は補陀洛(観音様の住む山のことで、観音浄土として崇拝されている理想の世界)に最も近いとされ、嵯峨天皇より「補陀洛の東門」の勅願を賜っている。和泉式部の逆修塔(生前に建てる墓)もあるらしい。

かつて「補陀洛渡海」という宗教儀式があり、小舟にのり補陀洛を目指すのである。有名なのは那智勝浦(和歌山)における補陀落渡海であるが、これは補陀洛に向かうのみで帰ってきてはいけないのである。今の時代から考えると残酷なことである。足摺にもそれがあり足摺の名の由来もそれに関係しているようである。

地平線のその先に補陀洛がありそうな気持ちにさせる美しい海の色と光である。

足摺岬から竜串海岸へ。竜串でグラスボートに乗りサンゴの群生とその周りを泳ぐ熱帯魚を覗き見る。海に潜りたくなる人の気持ちが解かった。もっとはるか下に見えるだろうと想像していたのに船底がサンゴに当らないのか心配するほど近い真下に見えた。難所で弘法大師さえも見残したと言われる場所を遠めに眺め引き返した。自然はそうっと静かにいつまでも残っていて欲しいものである。

 

四万十川 四国旅(3)

四万十川で尾形船に乗る。バスで佐田の沈下橋に行くか船に乗るかの選択だったのだが船にした。バスガイドさんがどちらも捨てがたいと。佐田の沈下橋の周りの自然も見たかったが、映画「君が踊る、夏」で我慢。川の水かさが増えて橋が沈んでも抵抗の少ないように、倒れた木などが流れてきても橋に引っかからないように欄干がない。自然に溶け込んで美しく長年の人の知恵と思うが、車などは注意を要するであろう。映画の主人公の恋人も車が通り川に落ちそうになる。佐田の沈下橋が河口から一番近い沈下橋で四万十川にはかなりの数の沈下橋があるらしい。

船のほうも良かった。船を待っていて投網漁、柴漬漁、青のり採りを見せてくれる。投網漁は綺麗に網が広がる。川が静かなときはよいが荒れているときは小舟の舳先に立って投げるので難しそうだ。柴漬漁は椎の木などの枝を束ねた物(柴)を川に沈め、枝の間に潜んでいたウナギやエビなどを柴の束ごとすくいとるのである。今回は雪が降ったあとでどちらも収穫はなかった。養殖用のシラスウナギも捕るのだそうだが近年なぜか収穫が少ないそうで、このとき捕らえられなかったウナギが天然ウナギになるわけである。

四国遍路道、札所37番岩本寺から38番金剛福寺への道もあり大師堂も見えた。弘法大師空海が四万十川の氾濫に苦しむ人々のためにここに結界を作り祈ったところである。映画「空海」(佐藤純彌監督)は空海の生涯をダイジェスト版で知ることが出来、ロケも雄大である。

「君が踊る、夏」の主人公の部屋からも四万十川が見えていた。四万十川を舞台にした映画「四万十川」(恩地日出夫監督)もある。この映画は録画しておいて見始めたがドラマ性に長けた映画ではないので前半でやめてしまい、今回見直そうと捜したがない。残念である。