手児奈霊堂~真間山弘法寺~里見公園~小岩・八幡神社~野菊の墓~矢切の渡し~葛飾柴又(2)

北原白秋さんは、真間から小岩(当時・葛飾郡小岩村)に引っ越す。『白秋望景』(川本三郎著)を参考にさせてもらうと、真間は白秋から見ると仏に仕える人がお金の話しばかりで「俗」と感じてしまったらしい。そして「東京に近いせいか、映画の撮影隊がやってきて騒々しい。」白秋さんがもとめる田園ではなかった。

再び江戸川を渡って東京へもどることになる。家財道具の荷の上に鉄砲百合の鉢を乗せ、白秋は荷車の後ろを歩いた。「白秋は、ポケットに小鳥の巣を入れ、両手には、青銅に燭台とガラスの傘を持ち、市川の橋を渡ってゆく。」

こちらは、京成線国府台駅から出発して、市川橋を歩き江戸川を渡り小岩へ向かう。現在の江戸川区北小岩八丁目ということで、引っ越した先が、ここという確かな位置がわからないので、白秋さんの歌碑があるという「八幡神社」をめざすことにした。

「国府台」というのは、古代にはここに下総国府がおかれ一帯の政治、文化の中心だった。国府台の呼び名もそうした歴史からきている。

江戸川べりは、夏目漱石さんも散策している。「夏目漱石の『彼岸過迄』では、主人公の田川敬太郎が友人の須永市蔵と春の日曜日、このあたりに郊外散歩に出かけている。」二人は、両国から汽車で鴻の台の下まで行って降り、そこから江戸川の土手を歩いて晴れ晴れとした気分で柴又の帝釈天まで進み、「川甚」でウナギを食べているのである。

かつては「鴻の台」とも呼ばれていたらしくそのいわれは調べていない。「川甚」は、映画『男はつらいよ』でさくらと博が結婚式を挙げた料亭である。谷崎潤一郎さん、吉井勇さん、長田秀雄さんの三人が「紫烟草舎」を訪ね、白秋さんを誘って「川甚」へ行っている。文学者の間では柴又まで散策すれば「川甚」として知られていたようである。

「借り家は、江戸川べりの草を刈り集めて軍馬の飼い葉などを作る乾草商の離れであった。」 二間だが、真間にはなかった台所があって、二度目の妻・章子さんは喜んだようである。それはもっともなことである。

白秋さんは、土手に上がれば江戸川がゆうゆうと流れ、その川を船がすべり、青田には百姓が働き、広い野っ原には人家の煙が立ち上っていて、この地が大変気に入るのである。

「で、(大正)六年の一月から六月までは、『雀の卵』の中の歌の推敲や新作と、一緒に葛飾の歌を作ることに夢中にされた。冬枯のさびしさに雀の羽音ばかり聴いて、食ふものも着るものも殆ど無い貧しい中に、私は座り通しであった。私の机の周囲は歌の反古で山をなした。何度も何度も浄書し清書し換えた。(『雀の卵』大序)」(『白秋望景』より。)

「里見公園」の「紫烟草舎」の前に、三番目の妻・菊子さんとの長男・隆太郎さんの解説板がある。

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「< 華やかに さびしき秋や 千町田の ほなみがすゑを群 雀たつ  白秋 > 広大無辺な田園には、黄金色の稲の穂がたわわに実りさわさわと風にそよいで一斉に波うっている。その稲波にそってはるか彼方に何千羽とも数知れない雀の群れがパーッと飛び立つこの豪華絢爛たる秋景のうちには底無き閑寂さがある。(中略)大正5年晩秋、「紫烟草舎」畔「夕照」のもとに現成した妙景である。(中略)父、白秋はこの観照をさらに深め、短歌での最も的確な表現を期し赤貧に耐え、以後数年間の精進ののち、詩文「雀の生活」その他での思索と観察を経て、ようやくその制作を大正十年八月刊行の歌集「雀の卵」で実現した。」ここに書かれている歌の文字は白秋さんの自筆ということである。

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江戸川とその周辺の風景を眺めつつ市川橋を渡る。本来なら江戸川の土手を歩くのがよいのであるが、直線距離を目指し、途中で江戸川にぶつかり土手に上がってみる。川原が広くかなり下に川は流れていた。「里見公園」下の江戸川はすぐそばで怖いくらいの勢いであった。かつては川面がもっと近かったであろう。対岸に柳原水門が見える。この後ろあたりにかつての水門でレンガ造りの柳原水閘(すいこう)が残っているらしい。

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江戸川の土手から住宅街に入り「八幡神社」を目指すが、住宅街で学校が二つありその周囲をぐるっと回り、さらに途中でたずねた人が反対方向を教えてくれて、いつものことながら時間を要してしまった。白秋さんが北小岩八丁目に住んでいたということで「八幡神社」に歌碑を建てたられたようであるが、行った感触として今の人達には忘れ去られているようであった。< いつしかに 夏のあわれと なりにけり 乾草小屋の 桃色の月  > 

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住んでいた「紫烟草舎」は江戸川を渡ってしまっているし無理もない事である。白秋さんは大正6年の6月には京橋区築地本願寺近くに引っ越し、気に入っていた小岩も一年であった。8月には本郷動坂に移っている。そして、大正7年の2月に小田原へ行くのである。

赤貧と思索の真間と小岩から小田原につながったので一安心である。あとは歌で真間と小岩時代を鑑賞するのみである。さてこのまま北に向かえば葛飾柴又にいけるのであるが、「八幡神社」から近い北総線新柴又駅で電車で江戸川を渡り矢切駅へ行く。次は『野菊の墓』コースである。 

手児奈霊堂~真間山弘法寺~里見公園~小岩・八幡神社~野菊の墓~矢切の渡し~葛飾柴又(1)

市川市真間にある『手児奈霊堂』は、万葉集にも歌われていて、手児奈という美しい娘が複数の男性から言い寄られ、身を恥て真間の入り江に入水したという伝説があり、その手児奈を祀っているのである。

都人はこの伝説を聞き及んで、歌に詠んだわけである。高橋虫麻呂さんは「勝鹿(かつしか)の真間の井見れば立ち平(なら)し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」(葛飾の真間の井を見ると立ちならして水を汲んだと言う手児奈が偲ばれる)。この手児奈の井戸は『手児奈霊堂』の向かいにある『亀井院』にあり、ここは北原白秋さんが一時住んでいたことがある。

手児奈霊堂』の先には『真間山弘法寺(ままさんぐぼうじ)』があり、ここにいたる大門通りは<万葉の道>として万葉の歌のパネルがあるらしい。20首ほどあるらしいが、かつての資料では、32首あって、真間ゆかりの歌は8首あった。この道は歩いていないのである。

もう一つ<文学の道>があり、桜の季節でもあったので、京成市川真間駅からこの道のほうを歩いた。市川に縁があったり、この地を作品に描いた文学者は大勢いて、その一部のゆかりのかたが木製の案内板で紹介されていた。

江戸時代の真間の文学は、万葉集のゆかりの土地としてだけではなく、紅葉の名所でもあったらしい。小林一茶さんもたびたび弘法寺を訪れ、上田秋成さんの『浅茅が宿」は手児奈伝説を踏まえているとし、滝沢馬琴さんは『南総里見八犬伝』は国府台の里見合戦に基づく伝奇小説で、弘法寺の伏姫桜はこの作品のヒロインに因んで名づけられたとある。

『浅茅が宿』と『真間山弘法寺』に関しては、 浅草散策と映画(2) で思いがけず出会っている。

伏姫桜>と名づけられた枝垂れ桜は実際に満開であった。『南総里見八犬伝』に関しては、ある研究家のかたの話しから、里見家の系図と広い分野の歴史を踏まえた下地があることと、江戸幕府を批判してもいるということを、学ばせてもらった。それから時間がたってしまい、歴史がまずややこしくて未整理の状態である。単なる伝奇小説ではくくれないという入口に立っている状態である。

もちろん、北原白秋さん、幸田露伴さん、幸田文さん、永井荷風さん、水木洋子さん、宗左近さん、井上ひさしさんらも紹介されている。途中に小さいが明治からの浮島弁財天があり技芸の神様として多くの信仰を集めていたそうで、この弁財天があるかどうかでこの<文学の道>も造られた道から伎芸天に呼ばれて出来た道の趣きとなった。

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真間川にぶつかり、「手児奈橋」を渡って『手児奈霊堂』へ。大門通りからは、「入江橋」を渡ることになり、その先に「継橋」があるようだ。「継橋」というのは入江の海岸の砂州と砂州を繋ぐ板橋で、真間には沢山あったようである。『手児奈霊堂』にもその入江の名残りといわれる池がある。『手児奈霊堂』の桜も場所柄をわきまえた咲き方で愛らしかった。

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亀井院』の説明板には、北原白秋さんがここで生活したのは大正5年5月中旬からひと月半とあり短かったのである。彼の生涯で最も生活の困窮した時代として、白秋さんの歌「米櫃(こめびつ)に米の幽(かす)かに音するは 白玉のごと果敢(はかな)かりけり」を紹介している。

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ここから『真間山弘法寺』の二王門めざして階段を登る。『弘法寺』は、奈良時代、行基菩薩が真間の手児奈の霊を供養するために建立した「求法寺」がはじまりで、平安時代、弘法大師空海が七堂を構え『真間山弘法寺』としたとある。あの水戸光国さんもこられたそうな。

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境内では伏姫桜を描いているグループのかたたちがいた。皆さんかなりの腕前である。伏姫桜は、枝垂れる姿にどことなく儚さがただよう。境内の見晴らしの良い所から下の市街地をながめる。かつては入江だったわけである。

さて本堂の裏をまわって『里見公園』を目指すのであるが、裏のほうに元気な大きな桜が満開で裏技に出会ったようであった。

里見公園』まで足を伸ばしたのは、白秋さんが小岩で住んでいた「紫烟草舎」が、桜祭りで公開しているという情報からである。この家は江戸川の改修工事のためとりこわされ、解体されたままになっていたのを、建物の所有者の提供により、この地に復元するにいたったと説明板にはある。

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六畳と八畳の二間であるが、かぎ型に縁側があって、障子が開けはなされ明るくて周囲の外の様子がよくみえる。「紫烟草舎」については、小岩の八幡神社でつけ加えることにする。

里見公園』は、里見家と後北条氏との二回の合戦の場であるが、歴史的なことは省かせてもらう。ようするにわからないので。史跡としては「夜泣き石」があった。北条軍に負け戦死した里見弘次の末娘が父を弔うため安房からこの地にきて、戦場の悲惨さに石にもたれ泣き続け息絶えてしまった。それから毎夜この石から泣き声が聞こえるというのである。

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お墓のような碑が三つあった。<里見広次公廟><里見諸将霊墓><里見諸士群亡塚>で、里見軍は5千名が戦死したと伝わっている。この合戦の265年後に碑は建てられ、それから今は190年ほど経っている。

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江戸名所図会にも描かれた<羅漢の井>が今も水がどこからか流れてきていた。この井戸のそばの道を曲がると江戸川である。里見公園は高台にあって東京スカイツリーと東京タワーが見えるのである。案内板の写真によると、富士山も頭を出していた。

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ここから、小説『野菊の墓』の舞台にも行けるのであるが、『里見公園』で一旦散策は終了である。次回は、白秋さんが江戸川を渡って引っ越した「紫烟草舎」があったであろう近くの小岩の八幡神社へ行き散策を開始することにした。

第15回下町芸能大学『荷風』

浅草の東洋館に初入場。それも永井荷風さん関連の企画を鑑賞でき、さらなる満足である。永井荷風さんの生誕140周年記念だそうで、「下町芸能大学」は東洋興業株式会社が主宰して続けてきた催しのようです。

会長の松倉久幸さんによるプログラムの案内文によりますと「下町の芸能文化を発掘し直し、みなさまに広くご紹介する機会を設けたいと考え、下町ゆかりの作家の作品を主題とした講演、また新作の新内・講談・幇間芸・舞踏などを公演してまいりました。」とある。

松倉久幸さんも『荷風先生と浅草』ということで、お話された。東洋館の正式名は「浅草フランス座演芸場 東洋館」だそうです。久幸さんのお父さんが、ロック座を建て替える時に荷風先生に何か良い名前はと尋ねられ「フランス座」はどうかとの言葉から命名されたそうで、今も正式には「フランス座」の名前を大切にきちんとつけているのだそうである。久幸さんのお父さんは、差し入れを持ってよく来る方がオペラ館で上演された『葛飾情話』の永井荷風先生と知り、それからはフリーパスとなったようである。

昔も今も、荷風先生、浅草に通わなければ、長期にわたりこんな親しみを込めた接し方はされなかったかもしれない。

岡本宮之助さん、文之助さん等の新内から始まった。宮之助さんは岡本文弥さんにも師事されており、樋口一葉さん、正岡子規さんなどの新作作品も語られておられる。今回良いアドバイスを頂いた。邦楽はよくわからないと言われますが、母音を伸ばしますから、物語を追いかけたい人は子音を追ってください。もう一つの聴き方は、伸ばすところで良い声だなあとか、三味線の上調子などを味わってもらえればと。確かに。

江本有利さんの歌謡ショー『下町艶歌』もありまして、最初に歌われたのが『また来て下さい向島』という歌なのであるが、歌詞の一番に桜橋、二番に言問橋、三番に吾妻橋が入っていた。東洋館に行く前に、こちらは、吾妻橋を渡って向島側の隅田公園を歩き、東武鉄橋言問橋を左手にながめつつ進み、桜橋を渡って浅草側の隅田公園を歩いてきたので、歌詞をみてトットちゃんではありませんが「あらまぁ!」である。

浅草関連映画の事もあっての散策でもあり、桜も終わり花見客も居ず、いままで気に掛けなかったことの幾つかの発見あり。「鬼平情景」として<鬼平犯科帳ゆかりの高札>があり、16ケ所にあるとのこと。その内の①「吾妻橋」と④「みめぐりの土手」の高札に出会う。鬼平犯科帳の作品を味わいつつ高札めぐりの散策コースもあり、その他にも散策コースが数種あるらしい。

そして勝海舟の銅像。水戸徳川邸の跡を使った庭園。

よく映画に登場する東武鉄橋を眺め右手には牛島神社。言問橋を眺めて右手下に三囲神社の鳥居が上半分頭を出している。隅田川方向から鳥居を眺めたことがなかったのでその鳥居が目に入った時には感動。

葛飾北斎さんの「新版浮絵 三囲牛御前両者之図」の案内板もあり、牛島神社が左で鳥居の頭がでている三囲神社が右に描かれている。かつて牛島神社は今の長命寺近くにあったため、牛島神社と三囲神社の位置が今と反対の位置関係になるわけである。

かつての牛島神社にあった常夜灯が残っていてその位置を示してくれるらしい。映画にもこの常夜灯は姿を現しており、そこまで行く予定であったが、時間がせまったいたので次の機会にまわし、桜橋を渡って浅草側にでた。

桜橋を渡りたかったのは、映画『菊次郎の夏』でマサオくんと菊次郎が出会う場面でもあるからである。その周辺をもう一度ながめたかったのである。

桜橋は歩行者専用の橋で向島と浅草側の中央に円錐形のモニュメントがあり、桜橋架橋10周年事業とあり、桜橋が1985年にできているから、1995年頃に設置されたことになる。対面の形で向島側には「瑞鶴の図」が彫られ、浅草側には「双鶴飛天の図」が彫られている。(平山郁夫原画、細井良雄彫刻)

そんなわけで、北野武監督の映画の場面のあとは、ビートたけしさんの修業の場であった東洋館へのコースへとつながった。東洋館のエレベターが狭く、エレベーターボーイなんて邪魔なくらいなのではと思われたが、そこが浅草ということなのでしょうか。江本有利さんが歌われた『業平橋』の一番に「三囲りの 石鳥居」とあり、三番には「そっと 掌を置く 撫で牛の」と三囲神社と牛島神社も出てきてこれまた上手い具合いにつながってしまった。

そして悠玄亭玉八さんの幇間芸である。『四畳半襖の下張り』国際版で、色っぽくて、笑わせてくれて、幇間芸の高度さを味わわせてもらった。三味線を真横に持って爪をはめてひかれていた。とにかく多くの分野に精通しつつお座敷芸にするという手腕が必要のようである。今回は「荷風」さんあわせてであるが、お座敷では目の前のお客様に合わせてそのさじ加減を調整するのであろう。

締めは岡本宮之助さん(浄瑠璃)、新内勝志壽さん(三味線)、岡本文之助さん(上調子)で、新内『濹東綺譚』(詞章・野上周)である。玉ノ井でのお雪さんと主人公の出会いから、お雪さんが病に伏したと聞くところまでを哀感を込めた情愛でかたられた。小説の方は、主人公が作家と言うことを隠していて、書き進んでいる小説のことなども語り、冷静な観察眼も披露されるが、そこは省かれていてる。

永井荷風さんの特集は三回目だそうで、荷風さんの世界を芸能に生かそうとの心意気を感じさせてくれる文学の世界とは一味違う時間であった。

通称「浅草東洋館」は、いろもの(漫才、漫談、コント、マジック、紙切り、曲芸、ものまねなど)専門の寄席で、隣の浅草演芸ホールで落語と一緒にたのしませてもらったことがあるが、いろものだけというのも今度たのしませてもらうことにする。

北原白秋の小田原散策道

新元号の文字「令和」を見て「命令」がぱっと浮かび「命令に和す」と思いました。「れいわ」。響きがいいです。「令」が「よい」という意味があるとは知りませんでした。元号にならなければ一生知らないで終わったかもしれません。「令嬢」、「令息」、「令夫人」は周囲にいないので思い浮かばなかった。漢字は奥が深い。

現皇太子さまは皇太子妃が病と日々闘われていることを深く理解され、そのサポートをしっかりなされておられる。そのお姿は美しい令月のようでもあるからして、美しく優しい時代となるのではないかと期待しているのである。おそらくこのままでいくと私は令和の時代にこの世を去るであろうから良き時代であったと思って去りたいものである。

言葉に様々な解釈があるように旅もまた、その場所に行ってみればそのもっと前の時代の痕跡が残っており、やはり時の流れというものは、その都度その都度過去を思い出させるものなのだと感じてしまった。

小田原は北条氏の城下町で秀吉に攻め滅ぼされてしまう。それでも小田原城は北条氏の城として今も人気を集めている。今回はお城ではなく北原白秋が小田原に住んでいたときに散策したであろう道を歩くことであった。小田原は白秋さんにとって童謡を沢山創作した場所でもあり、生活的にも家庭的にも精神的にも穏やかな場所であった。白秋さんが歩いたと思われる道を整備して散策できるようになっているのを知って数年たちやっと実行できた。

「小田原の白秋散策道」とでも検索すれば散策路の地図を入手できるし、小田原観光協会にもあると思う。JR小田原駅の西口から出発して白秋さんの童謡の書かれた案内板をながめつつ歩くことになる。『からたちの花』が生まれるきっかけとなった水之尾道、野外劇場と称した場所、『木兎(みみづく)の家』の呼ばれる家を建てた伝肇寺(でんじょうじ)境内、最後は白秋が小田原に最初に住んだお花畑から小田原文学館・白秋童謡館にいたるのである。5・5キロ/180分と書かれてあるが、小田原文学館・白秋童謡館は2回行っているので『あわて床屋』の童謡案内板でJR東海道線にぶつかり、そこからJR小田原駅にもどった。このもどりが結構歩いた。

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やはり歩いて見てわかったのであるが、この白秋童謡散策路は白秋さんの道としても面白いが、小田原城の中ともいえるのである。所々に小田原城の堀と土塁の跡が残っており距離的に近いのでそちらを眺めに行ったりした。小田原城は堀と土塁で周囲9㎞にわたる総構を構築し、それ以前には総構の内側に新堀と呼ばれる外郭があり、その新堀と土塁の名残りが残っていてそれがまた美しい曲線となっているのである。小田原城の総構などに興味のある方は、白秋散策路がお薦めである。京都の北野天満宮の御土居を見れなかったので、小田原城の総構が見れて満足である。

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そして秀吉さんである。小田原城攻めである。途中で、秀吉軍が相模湾も含め小田原城を包囲している図もあり白秋さんが「野外劇場」と称した場所は、小田原城を攻める敵方の動向が見える場所でもあったわけで、相模湾まで観える絶景の場所なのです。白秋さんが散策してしていたのは小田原城からの眺めでもあったのです。美しい風景が堪能できる場所で、白秋さんんの観た景色を眺めることができますが、時間をさかのぼれば戦場でもあったわけです。

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今は白秋さんが観たときより開発されているでしょうが、趣のある散策路です。総構の後には桜が満開で、途中の道には桜、桃、実を付けた柑橘類の木、下には菜の花と狭い場所に春の彩を人工的ではなく全く我関せずの自然さで招待してくれました。才能があれば童謡か詩の一つもできそうな道です。トゲのあるからたちの木もありました。アニメ映画の怪しい場所に出てきそうなくらいとげとげしく入り組んだ裸の枝の木でした。

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三の丸新堀土塁から伝肇寺までは下りながら相模湾を眺めるという道で、登っただけの価値はある散策路でした。総構に出会えたのはよかったですが疲れた。秀吉は小田原城を包囲し時間がかかるからと家臣たちに妻などを呼びよせることを許します。そして自分も茶々を呼び寄せるのである。ただし、茶々を呼びたいのでそちから言い伝えて欲しいとねねに手紙を書いている。そういうことは正室から側室に伝えるのが筋だったようで、本妻の承諾を得ているのである。そんなこともあった小田原城攻めである。

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童謡案内板は『赤い鳥小鳥』『待ちぼうけ』『ペチカ』『揺籠のうた』『からたちの花』『この道』『砂山』『あわて床屋』である。唱歌は学校教育として作られた歌であり童謡は子どもたちに歌って欲しいとして創作した歌である。川村三郎さんが映画『二十四の瞳』で『あわて床屋』や『七つの子』などの童謡が歌われるのは高峰秀子演じる大石先生が子供たちを教室の外に連れ出した時や遠足の時など教室外であると指摘されている。(『白秋望景』)桜は、桜の下で子供たちが遊んでいる姿が一番合っているように思う。シネマ歌舞伎『野田版 桜の森の満開の下』も始まります。

今お気に入りの花は、花桃の照手シリーズの白です。近くに咲いていてまだ小さい木なのだが、上に伸びた枝にもこもこっと縦一列に咲いているのである。名札をみて、照手シリーズがあるのだと知った。綿のようにもこもこっと花をつけて小さな固まりをつくっていて、まだ時には冷たい風におしくらまんじゅうをしているようなのである。

さてもう一つ白秋関連の場所へいった。市川市の里見公園である。そこに、白秋さんが小岩時代に住んでいた家「紫烟草舎(しえんそうしゃ)」があり、「桜まつり」のとき公開しているということなので出かけた。ここがまたお城跡なのである。そこにいくまでの道がこれまた白秋さん関連の道でもある。そのことはいつかまたである。

追記: 帰り道、小田原駅の東口のそばに「小田原市民交流センター」というのがあり寄ってみた。そこで、「小田原ガイド協会養成講座 自主研究発表会」展示をやっていた。パネルに研究発表が張られていたがゆっくりながめる気力がなかったのでレジメをいただいてきた。それを読ませて貰ったら興味湧く報告でした。

三件あった。『北条氏綱の軌跡』(早雲の嫡男で北条氏二代目である。北条早雲が初代であるが、北条は後の名前で伊勢氏を名のっていた。二代目が北条氏を名のったのである。二代目の政治的手腕について。) 『今昔 国府津駅と御殿場線』(御殿場線はもとは東海道線であった。丹那トンネルができ今の国府津駅から熱海、三島、沼津の東海道線ができたのである。) 『小田原の領主ゆかりの寺院』(その一つ、枝垂桜で有名な長興山紹太寺は稲葉氏ゆかりの寺院であった。)簡単に書かせてもらいましたがもっと多くのことを教えてもらいました。素晴らしい活動です。7日(日)まで。

関西春の旅『生駒』『大阪』『京都』『湖西・湖北』(4)

近江今津駅から二つ目の駅マキノ駅で下車するグループのかたがいた。今人気のメタセコイア並木へでもいくのであろうか。こちらはさらに進み近江塩津で乗り換えて二ケ所目途中下車の余呉駅。余呉湖がある。ここは湖北にあたる。湖北は戦国時代の戦場の舞台でもある。「姉川の戦い」「賤ヶ岳の戦い」など。賤ヶ岳古戦場へは、余呉湖を半周して閉館している国民宿舎余呉湖荘のそばから登ることもできる。楽にいくなら木ノ本駅からバスとリフトを使うのがよいのであろう。

 

余呉湖をレンタルサイクルで一周もできるのでその予定だったが、のんびりと眺めることにする。余呉湖観光館があるところまでぶらぶらと。中に入ると清掃しているかたが申しわけなさそうに今日は休館なんですと言われる。余呉湖ってどうしてできたのですかと尋ねるとパソコンから印刷して下さった。ありがとうございました。琵琶湖とは賤ヶ岳で隔たれていて遠い遠い昔は琵琶湖の一部だったらしい。安土・桃山時代に湖の氾濫防止のため現在の高田川が排水路として掘られている。パンフレットなどをもらって外の案内板などをながめる。

 

案内板に「賤ヶ岳の戦い」の秀吉と勝家の陣地と進路やぶつかった場所などが描かれていて、これが面白い。これパンフレットにしてくれると嬉しいのだがとおもう。見ていると賤ヶ岳に登りたくなる。賤ヶ岳の上から琵琶湖と余呉湖が見たいものである。余呉湖には、柳に羽衣をかけたという天女伝説もある。天女と村人との間に生まれたの男の子が菅原道真公で、幼い頃預けられたという菅山寺がある。北野天満宮からお話が羽衣に乗って追いかけてきたようである。秀吉さんは北野天満宮から過去にもどっての登場であった。

 

『琵琶湖周航の歌』の資料館で6番までの歌詞と歌碑のある場所を示し、琵琶湖を取り巻く神社・仏閣などを記した絵葉書を売っていた。琵琶湖周辺の名所どころなどが一望して描かれていてすぐれものである。拡大コピーして使おうと思う。鈴鹿山、油日神社、石山寺、比叡山、鯖街道、余呉湖、伊吹山、湖東三山などがぐっるっと取り囲んでいる。湖北は美しい仏像群がおわす地域でもある。三ケ所目の途中下車は、高月駅。めざすは歩いて10分の向源寺(渡岸寺)である。

 

渡岸寺(どうがんじ)の十一面観音立像は三回目の対面である。一回目はツアーで訪れたのである。この辺りは交通の便がよくないのでほかの仏像を拝観するなら車でなければツアーとなる。そして二回目が東京国立博物館。今回は、お寺の案内人さんつきでの独り占めの贅沢な拝観である。ツアーのときは修学旅行のようでわさわさしていたが時間の流れが違う。頭上にある十一面観音が、左右の耳の後ろに二面ある。そして大きな耳飾りをされているのである。アンバラスになりそうなものであるが、その優雅さは損なわれるどころか素晴らしい調和となっている。そしてさらに全体像を美しくしている。

 

ここの仏さまたちは、浅井・朝倉と織田信長との「姉川の戦い」で戦火にみまわれてしまうのである。その時の住職巧円と土地の人々が外に運びだし土に埋めてお守りした。民家のような場所で守られたこともあったが、明治に入って国宝となる仏像もあり近畿一円の人々の浄財により本堂が建立され、さらに十一面観音立像が国宝となり重文の大日如来坐像とともに収納庫に移されたのである。

 

高月駅に井上靖さんが駒澤晃写真集「湖北妙音」に書かれた序文と小説『星と祭』の一部が紹介されていた。渡岸寺観音堂に井上靖さん筆による「慈眼 秋風 湖北の寺」の文学碑があり、高月駅そばの大きな石灯籠にも同じ文が見える。井上靖さんといえば、今は映画『わが母の記』のイメージが強いので小説『星と祭』あたりでも読むことにしよう。

 

今回の旅、締めが渡岸寺の十一面観音立像というのもよかった。駅そばの総合案内所で荷物を預かってくれ、近いのだがわかりやすく渡岸寺観音堂への道を教えてくれた。井上靖さんが書かれている。

 

「この湖北の旅で知った最もすばらしことは、こうした湖北の仏さまたちが、鎮護国家とか仏法守護とか、そういったものとは、さして関係なく、専ら地方庶民の生活の中に入り込んで、素朴で、切実な庶民の信仰の対象になっていることであった。」「それからもう一つすばらしいことは、永年に亘って、その集落の守り本尊である仏さまたちを、代々、村人たちが守って来ているということである。」

 

関西春の旅『生駒』『大阪』『京都』『湖西・湖北』(3)

JR湖西線は山科、西大津と琵琶湖の西に向かうのである。堅田までは行ったことがあるが、今回はさらに近江塩津まで行きそこから米原まで回ってくるのである。電車は敦賀行きで京都から北陸がこんなに近いのだと実感である。そのまま北陸に行きたい気分であった。今度体験してみよう。

時間がかかるので観光は駅から近いところを選ぶ。菅浦とか旧塩津宿など琵琶湖そばまで行きたいが路線バス旅行の計画が必要である。鯖街道の拠点朽木へも行ってみたい。というわけで、次々浮かぶが今回は駅から徒歩で行ける場所を三か所選んだ。

一か所目は近江今津駅から2分の『琵琶湖周航の歌』の資料館と歌碑である。『琵琶湖周航の歌』と『琵琶湖哀歌』が混同されているところがある。私も琵琶湖でボート遭難事故で亡くなったのが三高(京都大学)の学生と思っていた。金沢に行って四高(金沢大学)の学生であったと知ったのである。『琵琶湖周航の歌』は、やはり三高のボート部に所属していた小口太郎さんが琵琶湖周航中その美しさに、今津湖岸の宿で披露したのが『琵琶湖周航の歌』の詩である。これに当時学生たちが歌っていた『ひつじぐさ』の曲にのせたところ上手く合い、その後クルー仲間が歌い始めたのが始まりだそうである。『ひつじぐさ』は吉田千秋さんが作曲されたもので、詩ができたのが1917年(大正6年)である。

作詞、作曲のお二人は若くして亡くなられていた。小口太郎(長野・岡谷市出身)さんは27歳で、吉田千秋(新潟市出身)さんは24歳であった。

このあとに生まれたのが四校のボート部の合宿での遭難事故の鎮魂歌『琵琶湖哀歌』(作詞・奥野椰子夫、作曲・菊池博)である。遭難事故は1941年(昭和16年)である。この歌のほうが先に人々に知られるようになる。曲も似ているのである。ところが、戦時下、士気を損なうとして哀歌は歌うことが禁止されてしまう。戦後になってようやく心おきなく歌われるようになったのである。この遭難事故の日、地元の人は琵琶湖にでるのはやめたほうが良いと言われたそうである。この時期「比良の八荒、荒れ仕舞い」と呼ぶ大しけが発生するのである。

比良山(蓬莱山、武奈ケ岳、打見山などの高峰)と琵琶湖の気温差から山麓一帯に強い北西の季節風が吹き琵琶湖は大しけとなる自然現象があり、この荒れが長い冬の終わりで春の訪れなのだそうである。今年も3月26日に、「比良八講」という水への祈りが行われる案内があった。滋賀・京阪神地域の水瓶をつかさどる琵琶湖への報恩と、その水源である比良山系の保全・水難者回向と湖上安全祈願を捧げる法要である。(近江舞子湖畔にて開催) 悲恋伝説「比良八荒」という説話もある。

琵琶湖周航の歌』にもどると、今津が歌の発祥の地であることは、小口太郎さんが寄宿舎に残っていた学友へのハガキや学友の記憶でも明らかで1917年(大正6年)6月28日である。湖岸に歌碑があるがそこから見る琵琶湖はやはり美しかった。歌詞は六番まであって今津が出てくるのが三番である。

「浪のまにまに漂えば 赤い泊火なつかしみ 行方さだめぬ波枕 今日は今津か長浜か」

資料館では、色々な歌手の方の声やオーケストラ、ギター、大正琴の楽器などの『琵琶湖周航の歌』を聞くことができる。全てさわりだけ聞いたが、映画『有楽町で逢いましょう』の映画を観たばかりだったので、フランク永井さんの声に反応してしまった。係りの方が『琵琶湖哀歌』と『七里ケ浜の哀歌』も曲が似ていますから聴いてみてくださいと教えてくれた。『ひつじぐさ』もあった。美しさと哀しさを味わうこととなった。吉田千秋さんは肺結核で茅ヶ崎南湖院に入院していた時期もあった。そうか吉田千秋さんんもあそこに入院されたのかと感慨深かった。

今津には、ヴォ―リズが設計した建物が残っている。ヴォ―リズ通りに「今津ヴォ―リズ資料館」「日本基督教団今津教会」「旧今津郵便局」と並んでいる。もう一つ離れて個人宅の前川邸があるらしいがそこは見なかった。ヴォ―リズさんの洋館は近江八幡に多くあり有名であるが、湖西では今津が数が多い。それにしてもヴォ―リズさん随分沢山の洋館を残されたものである。やはり伝道という情熱が形となって表されたのであろう。

観光案内のかたが、かつての今津の駅が残っていますからそちらもと教えてくれたのでせっかくだからとそこを見てから駅に向かったが、ヴォ―リズさんの設計した建物と同じようにもう少しきちんとして残して欲しい。何か旧駅舎可哀想であった。江若鉄道 近江今津駅とあった。江若鉄道はJR湖西線が走る前、大津市の浜大津駅から近江今津駅まで走っていた路線である。琵琶湖の西にも色々な歴史があったわけである。

関西春の旅『生駒』『大阪』『京都』『湖西・湖北』(2)

2日目の午前中は北野天満宮方面へ。先ずは『大報恩寺』(千本釈迦堂)。 東京国立博物館『京都大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ』 かなり早い実行である。本堂が鎌倉初期に開創された当時のままで、応仁・文明の乱にも両陣営から保護されて残ったのである。開祖の義空上人は、藤原秀衡の孫にあたるそうである。

 

本堂の建立には棟梁・高次の妻のおかめさんが貢献している。高次は上棟式を目前にして大切な四天柱の一本をあやまって切り落としてしまった。替りの柱を探したがみつかりません。おかめさん、仮堂に安置されているご本尊に自分の命とひきかえに夫を助けてほしいと必死に祈りました。ご本尊の膝元に光り輝く「斗栱(ますぐみ)」が目にうつります。そして、柱を短い柱に切りそろえ、「ますぐみ」で高さを補えば良いと夫に提案したのです。高次はそれを取り入れゆるやかな屋根、安定感のある本堂の骨格を生み出したのです。

 

上棟式に、義空上人署名の棟木棟札があげられその上部に末広を円形に組み「おかめ」の面をおさめます。高次は本堂が妻の「おかめ」の心とともにいつまでも伝承されることを祈りました。集まった人々も生前の「おかめ」さんが帰って来たと手を合わせました。(ということはおかめさんは亡くなったのでしょう。)義空上人はおかめさんの女徳を顕彰し境内に塚を建て、その塚を誰言うともなく「おかめ塚」と呼ぶようになりました。

 

江戸時代には「おかめ多福招来」の信仰が全国に広がる。商人には増幅繁栄の功徳とされたのです。なるほど、熊手におかめさんが飾られるのはそういう信仰のつながりだったのですか。今は境内におかめさんの銅像があり、本堂の中にもたくさんのおかめさんの人形が飾られています。阿亀桜(おかめざくら)と呼ばれている枝垂れ桜もありましたが硬いつぼみでした。

 

みほとけさまたちは、霊宝館に納められています。上野の国立博物館では、照明などで幻想的な雰囲気の中での拝観でしたが、霊宝館ではもっと明るく身近で、お顔の表情もよくわかる。仏師の彫刻刀がいかに繊細な動きをしてこのお姿を創り上げっていったかが想像できる。見守られているというより反対にいとおしく感じられる。十大弟子もリアルさが増し、修業の過酷さと一心さが伝わってくる。

 

その場所、その場所で、どこにおられても新たなお姿を見せてくれるとは、仏師の手を離れて何かが宿られ、それが放出されているのであろう。

 

上七軒通りを歩く。静かな落ち着きのある通りである。上七軒歌舞練場では3月25日から4月7日まで「北野をどり」が始まるらしい。来年はこれに合わせて再来も考慮しようか。歌舞練場には喫茶室もあり普段も中に入れるようである。

 

上七軒通りは北野天満宮につながっているが、天満宮の裏を通って先に『平野神社』へ。昨年の台風21号で拝殿の柱が折れ屋根が崩落していた。拝殿のみ囲われ周囲は綺麗にかたづけられていた。ここには多種類の桜が植えられていて名前が紹介されていた。咲いていたのは「10月桜」(冬桜)。釘隠しなどに使われる金属の装飾があるが、それがハートの模様で「猪目(いのめ)」というのだそうで、「ハートを見つけましょう」との案内があり見つけることができました。

 

「菊花紋、ハート、桜の神紋の三点セットは、京都中、いや、世界中で、ここ平野神社だけです。」とありました。今年も拝殿の再建を願って多種類の桜が咲くことでしょう。

 

北野天満宮』はまだ梅が咲いていて、末社『文子天満宮』というのがありました。道真公が亡くなられ40年を経て、現在の京都下京区千本通り七条あたりに住む巫女の多治比文子に菅公の神霊より、わが魂を現境内地に祭れとのお告げがあり、文子はとりあえず自宅に菅公の御霊をお祭りしたのが北野天満宮の発祥で、その後お告げの場所に移された。文子邸跡には神殿ができ『文子天満宮』と呼ばれ、それが明治に入って現在地に移されたのだそうである。

 

興味を引いたのが「豊臣秀吉公の都市遺構 史跡 御土居(おどい)」。御土居というのは秀吉が戦乱で荒れ果てた京を外敵の来襲や、鴨川の氾濫から市街を守る堤防の土塁のことで、御土居を築くにあたりこの清浄なる境内に水が溜まらないように、この地にだけ御土居を貫通する約二十メートルの暗渠(あんきょ・悪水抜き)を造り、境内の神域を守ったとある。ただ場所がよくわからなかった。

 

梅苑が公開されていたが入らなかった。どうもそこから御土居の散策道がつながっていたようである。知っていれば梅がなくても入ったのであるが。紅葉と青もみじの時期も公開するようである。地図を見たら北野天満宮の北門と平野神社の間の天神川(紙屋川)沿いにも史跡御土居が記されていた。心残りである。御土居を知っただけで良しとしよう。南座観劇前の充実した時間であったのだから。

 

関西春の旅『生駒』『大阪』『京都』『湖西・湖北』(1)

南座『坂東玉三郎特別公演』観劇にセットした関西春の旅であるが、京都は『大報恩寺』を先ず計画に入れた。国立博物館で拝観したあの六観音菩薩像と十大弟子との『大報恩寺』での再会の実行である。そして湖西線で琵琶湖の西をたどること。計画の途中で、生駒山というのが奈良と大阪の県境にあり、近鉄奈良線生駒駅からケーブルでいけるという情報をキャッチ。調べて見ると途中に宝山寺があり、なかなか良さそうである。

 

京都から生駒山や宝山寺への交通など調べていたら、映画『男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎』で寅さんが生駒の宝山寺へ行っていると言う。マドンナは松坂慶子さんでさっそくDVDを観る。瀬戸内海のある小島でふみさん(松坂慶子)と出会う寅さん。そして大阪で再会。通天閣の新世界が出て来て、大阪の役者さんや芸人さんが登場(芦屋雁之助、初音礼子、正司照枝、正司花江、大村崑、笑福亭松鶴)し、寅さんとの間が可笑しくて泣かせる映画であった。ふみさんは大阪で芸者をしていたのである。松坂さんが美しい。

 

寅さんは大阪が嫌いであった。大阪では江戸っ子の寅さんの話術が通用しなくて商売にならないのである。売っているのが愛の水中花。ところがふみさんがいるとなれば嫌いな場所も好きになってしまう。ふみさんとデートしたのが生駒の宝山寺なのである。ケーブルカーも映りました。今は可愛いい犬や猫の顔のケーブルカーが活躍しています。寅さんが泊っている新世界ホテルのロビーに、ロビーといえるのかどうか疑問符であるが、そこに朝日劇場の大衆演劇のポスターが貼ってあった。というわけで生駒山から大阪の新世界へのコースを加え大衆演劇を観ることにする。

 

近頃自分の旅の途中でのミスもでてきた。今回は、現金を補充するのを忘れていた。「すぐ忘れる」ことを「仕事の出来る人はすぐやる」に変えて思い出した時に実行を心がけているが、お金の補充と思った時、あとであちらに入れようと思ったのが間違いのもとである。東京駅の新幹線の改札で思い出した。とにかく交通系ICカードにチャージしょうとチャージ場所を駅員さんに尋ねたら、あそこにありますと教えてくれるが、現金のみのチャージだという。クレジットのチャージはないかしらとたずねると、この後ろにありますと教えてくれたが、その後の一言が疑問。ここは東海改札ですから。

 

意味不明。あなた何を言いたいの。東京から熱海で交通系ICカードで通れなかった事と同じかな。JR東日本とJR東海のややこしい境界線がここにもあるのかしら。まあとにかくチャージできてこれでコンビニの買い物は大丈夫であるが、一度もやったことのないキャッシングを試みる。現金が出て来た時にはホッとした。今の災害多発の時代で現金のない旅なんて不安すぎる。先ずは解決。

 

近鉄の生駒駅からケーブルカーの鳥居前駅までは順調に進んだ。このケーブルカーが鳥居前駅から宝山寺駅まで行って、乗り換えて生駒山上駅まで行くのである。宝山寺駅までは猫と犬のケーブルカーがすれ違うのであるが、猫がニャ~ンと泣くのである。子供たちは喜んでいる。日本最古のケーブルカーなのだそうで、かなり登るが宝山寺駅まで住宅が続いていてケーブルカーでのこんな風景は初めてである。

 

宝山寺駅の構内に八大龍王の鳥居があった。

 

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鳥居だけを見て今度は生駒山上駅行きに乗り換えである。ドレミとスイートの電車がある。スイートの電車に乗車。

 

 

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生駒山上駅までの途中雨が雹に変わってしまった。驚きである。生駒山上には遊園地があり、こちらは山からの景色を眺めたいと思ったのだが無理である。下りて宝山寺へ行こうかと思ったが、相当の階段数のようである。一時的とは思うがどうも天候の急変で気が乗らない。こういう時はやめにする。次に取っておくことにし大阪方面へ。石切駅というのがあった。『石切梶原』を思い出す。帰ってから映画を観なおしたら、寅さんとふみさんが再会していたのが、石切神社の石切参道商店街であった。了解である。

 

新世界で散策していると福永大神の鳥居が。新世界稲荷神社のらしい。狐ではなく猫が拝殿を独占していた。

 

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二回目の朝日劇場である。ここでもお芝居に雪が登場。大量の雪でお芝居の臨場感を出しているが、よくこれだけの雪を劇場が許可すると思う。近頃そんな裏事情も気になったりする。片づけが大変である。大劇場とは違う大衆演劇の限られた中での工夫も観ていて面白い。伴奏に津軽三味線あり、太鼓あり。舞踏ショーの掛け声がみんな一緒にもあってこれは劇団によるのであろうか。関東のほうがそれぞれの感がある。関西のほうが役者さん同士のいじりのテンポが軽くて上手い。楽しめた。

 

映画で芦屋雁之助さんが、大阪と東京の感じ方の違いやなあとぼやく場面を思い出す。ちゃう。ちゃう。寅さんだけの特殊な感じ方である。これでお勘定をとふみさんに渡したお財布の中は・・・。お金が無くてもおたおたしてはいけないのである。

 

木曽義仲の生誕地 埼玉県嵐山町

  • 浅草の新春歌舞伎でも上演されている『義賢最期』の源義賢は木曽義仲のお父さんで、芝居で葵御前は身ごもっていて、お腹の赤ちゃんが義仲なわけである。『実盛物語』で色々あって無事この世に誕生するわけであるが、幼児の頃の名前は、駒王丸(こまおうまる)である。芝居では、義賢の兄・源義朝が平清盛に討たれるが、義賢は平家側についている。清盛は義賢の忠誠を再度確かめるため、義賢に兄・義朝の頭蓋骨を踏めと申し付けるのである。義賢はそんなことはできるかとばかり反旗をひるがえし、壮絶な最期をとげることとなる。
  • 埼玉県の嵐山町には、義賢が構えていたという大蔵館跡がある。義仲が生まれたのはもう少し西の鎌形と言われた地で、源氏の氏神としての鎌形八幡神社がある。義賢は近衛天皇が皇太子の時、その警護役である帯刀(たてわき)の長官をしていたことから帯刀先生(たてわきせんじょう)とよばれていた。『義賢最期』で所持していた白旗は帝から賜ったという設定はそういうこととも関係しているのであろうか。
  • ひとつの説によると駒王丸(義仲)の母は小枝御前で、父・義賢は「大蔵の戦い」で最期をとげる。兄・義朝の長男である悪源太義平がこの地方に勢力を伸ばすため大蔵館を攻めたとある。一族はほとんど討死にし、駒王丸は二才で鎌形で母と共に捕らえられたが、畠山重能(しげよし)と斉藤別当実盛に助けられる。そして木曽の中原兼遠にあずけられることとなる。そして無事元服し、木曽義仲となるのである。『平家物語』と『源平盛衰記』などによったりその後の調査などで史実は錯綜するが、義賢の兄・義朝は頼朝や義経の父であるから結果的には兄・義朝の系列が鎌倉幕府となり、源氏は親族間での争いも絶えなかったことになる。
  • この地を訪れるには電車であれば東武東上線の武蔵嵐山駅である。「武蔵嵐山」の文字をみると京都の嵐山を連想したりするがその名の由来はやはり関係している。昭和の初期、日本初の林学博士の本多静六博士がここを訪れて、その美しい景観が京都の嵐山に似ていることから「武蔵嵐山」といったことが始まりだそうである。読み方は「むさしらんざん」である。都幾川辺りは桜並木が続き、嵐山渓谷は紅葉の名所で、今年からはラベンダーの新名所もできる予定だそうである。
  • 一応ネットでも調べて訪れたのであるが、駅西口にある観光案内所での地図と、分かりやすい道案内の説明のおかげで散策できた。ただその地図には義賢の墓は記載されていなく、こちらも、大蔵神社から鎌形八幡神社に上手く行けるであろうかと心配だったので義賢のお墓のほうが飛んでいて、帰りに戻る形となった。案内の方の話しから帰りには「埼玉県立嵐山史跡の博物館」に寄る予定であったがあきらめた。大蔵館跡→大蔵神社→鎌形八幡神社→班渓寺→大蔵神社→義賢のお墓。最初に義賢のお墓に行くのが良さそうである。
  • 義賢のお墓大蔵館跡大蔵神社鎌形八幡神社班渓寺菅谷館埼玉県立嵐山史跡の博物館 鎌形八幡神社は坂上田村麻呂が勧請したともいわれている。義仲の産湯の清水がある。班渓寺は義仲生誕の地となっており、こちらにも義仲の産湯の清水がある。また義仲の妻の一人である山吹姫のお墓もある。山吹姫が義高の母とも言われ、嵐山町が源義賢、義仲、義高三代関連の地ということになる。大蔵の地が本館で、鎌形の地が下館であろうか。
  • 武蔵嵐山駅からお墓まで歩いて40分くらいであろうか。大蔵にはバス停もあった。そこから鎌形八幡神社へは観光案内で教えて貰った道で嵐山町総合運動場のそばを通って進み30分くらい。戻りは、都幾川辺を歩いて桜の時期を想像して歩き途中で地元の方の親切な案内で無事大蔵神社にもどれた。地図上ではラベンダー園の場所もわかるし、紅葉の頃の道もわかる。道は観観案内で聞くのが一番と思う。義賢のお墓や木曽義仲生誕の地などは他にもあるようで、それだけ人気のある歴史上の一族ともいえる。
  • 「埼玉県立嵐山史跡の博物館」のそばには、菅谷館跡がある。鎌倉時代の畠山重忠の居館とされる。木曽義仲を助けたとされる畠山重能の次男で宇治川の合戦、一の谷の合戦、奥州攻めなどで功績をあげた御家人で、北条氏によって神奈川の二俣川で滅ぼされている。その他、この地にはホタルの里やオオムラサキの森などもあり、歴史と伝説と自然の詰まった地域である。一つ手前のつきのわ駅から歩いて30分のところに『丸木美術館』がある。桜かラベンダーの頃再訪するのもよさそうである。

義賢のお墓

大蔵館跡

大蔵神社

班渓寺

義仲の産湯の清水

班渓寺は、義仲の側室で義高の母である山吹姫が義賢、義仲、義高の源氏三代の菩提を弔うために開基したともいわれている。

猪突猛進の旅(八犬伝・あしかがフラワーパーク)

猪の年だからというわけではないが、猪突猛進の旅となっているかもしれない。昨年の箱根から始まっているともいえるので、猪とは関係ないかも。まだ行っていない気になる場所をかたずけたいと思って行くと新たな情報を得、方向転換して突き進むということになる。少しお酒の入った猪のジグザグ突進。そこどけそこどけ。

先ずは千葉の『南総里見八犬伝』の<伏姫ノ籠窟>に行きたいと思っていたひとつ。近親者の若い人がつき合ってくれるというので正月早々行動する。彼はこの辺りの海岸線は自転車で走っているらしい。本当は冨山まで登るのが良いのだがそこまでの元気はない。<伏姫ノ籠窟>はJR内房線岩井駅から歩いて40分位で富山の裏参道にある。富山を表参道から登り南峰に到着し、つづいて北峰(こちらのほうが見晴しが良いらしい)へ行き、裏参道から降りるのが一般的であるらしい。そう思っていたらなかなか行動できなかったので<伏姫ノ籠窟>だけとした。短い猪突猛進である。

岩井駅から線路を渡り古い案内図に富山小学校とあるが様子が違う。(今は体育館のみ)それを左手にして進み、さらに福聚院を左手にして進み、芝入口を左に入り冨山中学校をめざす。学校が新しい感じ。富山学園とあり小学校もここに移っていた。あとは道なりに行けば門が見え上に<伏姫ノ籠穴>と書かれていて階段が続く。

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八犬士の名前が書かれた八角形の踊り場があり、先の岩場の間の階段を上ると洞穴があり白い球が一つありその奥に八犬士の名前が見える。

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石板に、「伏姫籠穴へ遠路ようこそお越しくださいました。私は里見義実(さとみよしさと)の娘、伏姫でございます。」と犬の八房とともに十六歳のときに籠り、十八歳のときに童子があらわれ受胎したことを知らされ八犬士の誕生の紹介文がある。文字が見えづらいのが残念である。

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門まで戻ると門の右手上に<犬塚>の石碑があった。

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同道者には先に下りてもらいその先の道の様子を見てもらう。道は20分位は穏やかな道でその先から急な階段道がつづいているとのこと。やはり富山までは無理なようであった。偵察ありがとうである。何となく富山の様子がわかった。

水仙が咲いていてこの時期が空気もクリアで展望にも良い時期だそうである。北峰の近くに<里見八犬士終焉の地>がある。駅にもどると、<伏姫と八房の像>があった。見落としていたようである。

次は栃木である。栃木のパンフレットに<あしかがフラワーパーク>の紹介があった。大藤が有名で冬はイルミネーションである。JRあしかがフラワーパーク駅から徒歩3分とある。JRあしかがフラワーパーク駅 ? 昨年の2018年4月に新駅・あしかがフラワーパーク駅が開業していたのである。かつて藤を見にいったことがあるが不便で駐車場からも歩いた記憶があるので、あそこね!ぐらいの印象であった。栃木県内では、35年ぶりのJR新駅の開業だそうである。両毛線に新駅が。富田駅から徒歩13分とそう遠くもなかったのだが最初の印象が強くその後調べもしなかった。

これは行かなければ。あしかがフラワーパーク駅からイルミネーションを目指して。両毛線は小山駅から高崎駅までの路線で途中駅に史跡など結構見どころの町が多い。岩舟駅はアニメ映画『秒速5センチメートル』にも出てきた駅である。今回は寄り道なしにイルミネーションのみ。新駅から西ゲート入口は車を注意すればすぐである。花をテーマにしていて平地での設定なので歩くのは楽である。そのぶん光に満ちた建物を作りそこを階段で登って降りれるように工夫している。

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小さな藁囲いの中の寄せ植えの花も可愛らしい。

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銀河鉄道の列車は動かないが、警笛を鳴らしている。藤のイメージの光の通路。藤の時期にもう一度きてみようかな。ショップには、お花も売っていて、サボテンの小さな寄せ植えもアイデア。飲食できる外のコーナーには石油ストーブで温まりつつ。人が少なかったのでレストランもゆったりと待たずに飲食できる。ここで佐野ラーメンが食べれた。年越しそばのあとはラーメンかな。伸びないうちに行動開始。

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両毛線は不便ではあるが、楽しませてもらった在来線でもあるので新しい駅ができて人々が利用してくれることを願う。今は無人駅でも利用可能であるから、こういう新しい駅の検討をしてみることも必要かも。スイカなどのチャージは充分にとのことです。埼玉の武蔵嵐山へも行った。木曽義仲の誕生した土地である。この旅については後日。