旧東海道・七里の渡し(宮から桑名)~四日市~石薬師~庄野~亀山~関宿

  • 昨年の10月予定の東海道・熱田の宮の渡しから桑名への渡し場までの学習を兼ねた船旅が台風で中止となり、主催者の「堀川まちネット」さんが、漁船をチャーターして川底を探知機とロープで調べてくれ代替え日を3月にしてくださり無事参加し七里の渡しを船で渡ることができた。旧東海道歩きもこれで花を添えさせてもらい終了。愛知県と三重県の二県にまたがるので届け出も大変で制約もあり開催されてくれたことに感謝の念でいっぱいである。今回も前日であれば難しかったということで、海路は陸上とは違う判断の基準があるようだ。

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  • 2時間の船旅であるが、当時とは海岸線が違うわけで、かつては七里であるが、今の航路は十二里である。七里でも江戸時代は4時間から6時間かかったのだそうで、当然天候に左右されるので宮宿は多くの宿があり賑わっていた。船でない場合は佐屋路を使い、さらに美濃路への分岐点でもあるから日本一の旅籠数だった。

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  • 熱田の観光マップの説明に「熱田湊は古くから物流の要所で、織田信長がこの湊の権益をめぐって今川義元と戦い」とある。力関係に、信長の場合、経済力の利権争いも計算にいれていたのである。船中での解説で、名古屋は観光が少なく、織田信長と熱田の宮大工・岡部又右衛門関連が注目されればと言われる。渡された資料では岡部又右衛門が熱田生まれで、生まれた年は不詳だが「本能寺の変」で亡くなっている。「本能寺の変」の時、信長のそばにいたのであろうか。驚きである。2022年には名古屋城の天守閣が木造で再現されるとのことである。
  • 七里の海路は、今は埋め立てられて物流の名古屋港をから伊勢湾にでて桑名へと進むが、浅瀬があるためかなり遠回りしなければならない。さらに桑名に近づき橋の下を通るが、橋の何番目の橋脚の間を通りその真ん中ではなく右側を通る。これも底の深さがどうなっているかを「堀川まちネット」のかたが調査しているからである。桑名側は木曽三川(木曽、長良、揖斐)が流れ混んでいる。台風や大雨があると当然海底は変わってくるわけである。江戸時代の渡しはそのあたりは経験の勘と漁師からの情報などでで渡っていたのであろう。

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  • 大きなコンテナを運ぶ船やコンテナを船に積むクレーンなどが建っており、船に積まれる車が並んでいたりする。今は一つだけ残っている干潟が、満ち潮のため海面上には見えない。干潟が干満に関係して見えたり見えなかったりするのである。見たかった。なばなの里のあるナガシマスパーランドの観覧車や富士山が上下し回転する展望台が見えてくると桑名である。江戸時代から様変わりしている現代の七里の渡しを無事渡ることができ、ありがとうございましたである。ところが、その後、陸路の新幹線が止まっており大混乱であった。

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  • プラットこだまを購入しておこうかなと思ったが船のことであるから終わった時点で考えることにした。名古屋から豊橋は快速が多いから、豊橋から新幹線のこだまの自由席とする。豊橋についたら切符売り場に人が並んでいる。新幹線乗り場に行き、カードで切符を購入しようと操作していると友人が新幹線がとまっているらしいと。そばにいた駅員に尋ねると再開の見込みは未定。危機一髪購入しなかった。即、在来線で浜松にむかう。途中で動き始めたらしいとの情報。浜松駅で確かめると1時間50分遅れである。とにかく到着した新幹線の自由席に乗車することにする。30分後にこだま到着。無事帰ることができた。行けるだけ行って、駄目ならそこで宿を探すつもりであった。
  • 次の日友人は仕事があるので先ずは一安心。切符があったなら払い戻しや変更で並ぶことになり、時間的ロスがあったであろうが、後ろ髪ひかれることなく前に進み何んとかつながってくれて、座ることもできた。もう一つ感じたのは、友人が足が少し痛いということで乗り換えなどはエスカレーターやエレベーターを利用。表示を探してある程度スムーズに、利用できた。今まで探して利用するということはなかったので良い経験であった。ただこういう運休、遅延となると状況がわからず慌てさせられる。体の不自由なかたにとっては大変なことである。
  • よく添乗員のかたが「家に着かれるまでが旅ですので、、、」と言われるが本当にそうである。前日は、JR身延線富士宮駅から徒歩10分の「富士山本宮浅間神社」とJR飯田線豊川駅から徒歩8分の「豊川稲荷」に寄る。両方とも駅から近く階段がなかったのが幸いであった。
  • 富士山本宮浅間神社」には、富士山からの雪解け水が湧きでている「湧玉池(わくたまいけ)」があり、さすがに透明度が高い綺麗な水である。富士山に登る人はこの池で身を清め、六根清浄を唱えながら登っていた。「豊川稲荷」は本尊が「吒枳尼真天」(だきにしんてん)である。狐塚には沢山の狐が並んでいる。千本幟が白地に赤文字で「吒枳尼真天」とあり、その左右に名前と願い事が書かれ並んでいて、その数が見事である。御朱印の受付時間がわからなかったので一応3時半に着くようにした。勘が働いたのか受付は4時までであった。

富士山本宮浅間神社   湧玉池

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浅間大社

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豊川稲荷総門

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豊川稲荷大本殿

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豊川稲荷  霊狐塚

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  • 二日目は、清洲城だけは行っておきたかったので清洲へ。JR東海道本線清洲駅から徒歩15分。信長が那古野城から清洲城へ入城、この城から桶狭間へ出陣して勝利して天下統一を目指したので信長の出世城と言われ信長亡きあとも賑わっていたが、徳川家康による「清洲越」がおこなわれる。清洲城は廃城となり名古屋城が築城されるのである。清洲城を壊し、その資材を名古屋城で使うという家康らしい合理性である。安土城は焼け、清洲城は壊され、信長の存在が次第に薄れていくようである。

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  • 清洲城から桶狭間へ向かう前に信長は、熱田神宮で戦勝祈願をしている。「堀川まちネット」では、この地域で行われていた天王祭りの継承を目指して「堀川まつり」を開催し、まきわら船や山車の大山の復活をしている。天王祭は熱田神宮の宮大工である岡部又右衛門もかかわり、大山から安土城の中心部の構造を考えだしたのではないかとも言われている。信長は桶狭間で勝利して熱田神宮に築地塀を奉納し信長塀として一部残っている。熱田神宮に行った時時間がなく探さなかった。その再築地塀が清洲城にあった。

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  • 赤い大手橋を渡ると天守閣だけの現在の清洲城である。天守閣前には石庭がありこれがなごませてくれる。展示も楽しめ、紙芝居の時間があり、火縄銃の扱いから撃つまでの映像や、短時間の他の映像も参考になった。信長の長槍は6メートルである。安土ではその槍を持ち上げることができ、その重さに、冗談ではないこんな重い物を担いで走らされるなんてと思った。農民は戦が始まると徴用される半農だった。信長は、うつけの頃遊び仲間が次男、三男で一家の中で軽くみられた若い人たちであり、その者を訓練し、寄せ集めではなく、専属の兵にしたとの表示がありなるほどである。
  • 鉄砲を一番に戦に用いたのが武田信玄であるが時間がかかり過ぎると止めてしまう。発想の転換から三列隊にしたのが織田信長。鉄砲の無い朝鮮に行き、援軍の明が鉄砲をもっていて散々な目に遭ったのが豊臣秀吉徳川家康はその鉄砲の製造を禁止し、道を整備し関所を設け、武士道が出来、鎖国である。信長は個人的予想であるが海外と貿易を展開し経済力を手中に収めたのではないだろうか。国盗りが終れば経済力である。ただその前にきりきりするような合理主義は、恨みに思う敵も多かった。
  • 信長秀吉家康のお三方の前で、友人と好き勝手な人物談義をさせてもらった。友人が「こやつたちは言いたい放題言いおって。」と怒ってるねと。徳川家が整備した東海道の旅を存分に楽しませてもらった。これからは時間も地域も人物も広がる旅としたいがこの三人は、まだまだ顔をだす確率が高いであろう。
  • 新幹線の遅延(二時間以上)の場合について。降車駅で切符が出て来て切符に遅払証と赤い印字があれば、特急券分が払い戻しされます。後日、近くのJRの駅へいきました。みどりの窓口がある駅だったためかそちらでと言われ、現金での払い戻しがありました。いろいろの場合がありますので一例です。申し出ないと教えてはくれません。払い戻しより予定通り行動できることを願いますが、気候の変動が激しかったりするので陸路も確実性がおびやかされています。ちなみに今回は停電でした。

追記: 桑名宿~四日市宿

吉之丸コミュニティパークにある「蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)」の案内板

水門統合管理所がかつて桑名城の蟠龍櫓のあったところでそれを復元した。蟠龍櫓は龍が天に飛び立つ前のうずくまった状態をいい、その姿の瓦がのっている櫓で当時の人々のシンボルでした。(残念ながら復元蟠龍櫓の写真なし)

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船津屋(大塚本陣跡)

「歌行燈句碑」 ( かはをそに 火をぬすまれて あけやすき )

桑名の七里公園の西にコンドル設計の六華苑がある。その建物を見なかったのが心残り

後に新聞で知りさらにテレビドラマ「黒井戸殺し」の撮影に使われていたのを知る

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そこを南に進むと薩摩義士の墓所がある海蔵寺

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芭蕉が滞在して句を残した本統寺 (冬牡丹 千鳥よ雪の ほととぎす)

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旧東海道にもどって春日神社

「歴史を語る公園」 桑名宿は熱田宮宿に次いで東海道中第二位の宿数を誇る伊勢路への玄関であった

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桑名城城壁址

十念寺 ・ 森陳明の墓

東京上野で新政府軍と戦い函館に渡る。その後桑名藩の戦争責任者として桑名藩邸で切腹(東京深川の桑名藩菩提寺霊源氏厳寺にもお墓がある)

矢田立場跡

立場というのは宿場と宿場のあいだにあって旅人が休憩する茶店などが集まっている所

町屋橋跡

伊勢両宮常夜灯

朝明川土手上の常夜灯

富田一里塚碑

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追記 2 : 船津屋(大塚本陣跡)と「歌行燈歌碑」について

歌行燈歌碑」は久保田万太郎さんの歌碑であるがなぜ<歌行燈>なのか。当然、泉鏡花さんの小説『歌行燈』と関係し、映画『歌行燈』とも関係してくるのです。

歌行燈歌碑」の説明が読みずらいので要約します。

<明治42年(1909)大泉原村の高等小学校で講演のため泉鏡花は桑名の舟津屋に宿泊。その時の印象を基にして小説『歌行燈』を書く。昭和14年東宝映画からの依頼をうけ『歌行燈』の戯曲を書くため久保田万太郎は船津屋に泊まり三か月ほどで戯曲を書き上げる。昭和15年、新生新派で上演される。昭和18年、成瀬巳喜男監督の映画化にあたり再び船津屋を訪れる。その時船津屋の主人に頼まれカワウソのいたずらの伝説を詠みあげた。

自筆のこの句碑は揖斐川上流の自然石を杉本健吉がデザインしたものである。>

泉鏡花の『歌行燈』は、『東海道中膝栗毛』の第5編上巻の冒頭から始まります。そしてこの作品の主人公ともいえる能役者の名前が喜多八です。

喜多八は旅公演の途中、伊勢で名人といわれている謡の師匠の芸を辱め自死に追いやってしまいます。そのため喜多八は父でもある師匠から勘当され門付けとなります。芸者となった死んだ男の娘お三重と出会い舞を教えます。お三重は湊屋(船津屋)で喜多八の父と叔父に舞を披露します。二人はその舞を教えたのが喜多八であるということに気づきます。湊屋の近くにいた喜多八は鼓の音に誘われ謡い親子の謡でお三重は舞うのでした。

小説の中にはカワウソのいたずらの事も出てきます。娘の名前が三重で桑名城は扇城とも呼ばれていましたので何か計算されての構想かと思ってしまいます。

成瀬巳喜男監督の『歌行燈』はお三重はお袖と名前をかえ山田五十鈴さんが演じ、喜多八は花柳章太郎さんです。脇を新派の役者さんがかためています。能舞台の場面、舞を教える松林の場面、湊屋での舞の場面などは圧巻で芸道物となっています。戦時下にこうした映画が作られたというのもすごいことです。

東海道がこのように膨らむのもカワウソのいたずらということでしょうか。このいたずらカワウソは宿の灯りを消したり、鉢叩きをしたり、豆腐買いのお手伝いもしたようです。

<能>を題材とした映画 『獅子の座』『歌行燈』 (2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

追記2-2  桑名は折り紙でも有名らしい。江戸時代に桑名のひとで義道というお坊さんが新しい折り方を探求し、一枚の紙で折り鶴をつなげていったのはこの義道さんらしい。(五木寛之「桑名に義道の折形あり」)

追記2ー3 : 食通の池波正太郎さんの『食卓の情景』のなかにも〔船津屋〕が出てきます。〔船津屋〕で食した料理や桑名の様子が書かれています。(「勢州・桑名」)

四日市に入ってからと思いますが所々に東海道の行燈が置かれていました。それぞれの地域の旧東海道への取り組みです。

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追記3:四日市宿

三ツ谷一里塚跡   

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道標   正面「すぐ江戸道」 片面「すぐ京いせ道」

広重の四日市

作家・丹羽文雄生誕之地碑

つんつく踊りの紹介板   天白川の堤防を作る際に地を固めるために踊ったようである

追分道標   東海道最古の道しるべ。日永神社の中にある。正面「大神宮 いせおいわけ」 南側面「京」 左側面「山田」 裏側「明暦二丙申三月吉日 南無阿弥陀仏 専心」

日永一里塚址

日永の追分   

右手が旧東海道。左手が伊勢参宮道。京に進む旅人はここから伊勢神宮を遥拝した。このあたりは四日市宿と石薬師宿の「間の宿」とされ、間の宿は本宿よりも宿泊料が割安であった。

杖衝坂(つえつきざか)にある芭蕉句碑   歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな

芭蕉の句ではめずらしく季語がない。

杖衝坂は、急な坂で日本武尊(やまとたけるのみこと)が剣を杖がわりにして越えたという故事がある。芭蕉は急な坂で落馬したと詠んでいる。

血塚社   日本武尊が杖衝坂でけがをして足から血を流しその血を封じた場所

采女一里塚跡

追記4  石薬師宿~庄野宿

小沢本陣跡

宿帳には赤穂の浅野内匠頭や伊勢山田の奉行でもあった大岡越前守の名前が残っています。

左左木信綱記念館

佐々木弘綱翁記念碑の前に曾祖父を歌った佐々木幸綱歌碑

しゃくなげを愛し短歌を すずか嶺を愛し薬師寺を 愛したる人

幸綱さんの祖父は信綱さんで父は治綱さん。歌人の系譜です。いたるところに信綱さんの歌がありましたが、信綱さんの歌は記念館で堪能。

石薬師寺

岩佐又兵衛歌碑

無病にと頼みすゑける石薬師 かたき祈願を忘れ給うな

境内には、松尾芭蕉、一休禅師、西行法師の歌碑もあります。

広重の石薬師に描かれた石薬師寺

石薬師一里塚跡

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石薬師宿と庄野宿の分岐点

東海道は国道と関西本線で寸断されているため東海道へ出るための案内図

これは助かりました。

中富田一里塚塚跡

庄野はこの写真しかありません。石薬師が結構見どころがありそちらに予想以上の時間をとられました。

さらに庄野宿では油問屋だった旧小林家が庄野宿資料館になっていてそちらにも寄らせてもらっていました。広重の庄野宿の白雨の絵ハガキがありました。

白雨はにわか雨のことだそうです。広重の東海道の絵には三つの雨の様子があります。「大磯の虎ケ雨」「庄野の白雨」「土山の春之雨」

追記 5: 亀山宿~関宿

亀山宿関宿は関西本線の亀山駅と関駅から一度訪ねています。今回は庄野宿から亀山宿関宿の西の追分までの歩きとなります。

日本武尊の石像 (関西本線井田川駅前) 三重は日本武尊の関連場所がおおくあります。

和田一里塚 

露心庵跡 (日本武尊が主祭神の能褒野神社第二鳥居そば)

西町問屋場跡  亀山は東町と西町にわかれていて宿役人の東町の樋口家と西町の若林家が10日から20日交替で問屋場業務をしていた。

東海道亀山宿碑

亀山宿は先の旅で手にした案内図が参考になりました。

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亀山は城下町でもあり案内図にオランダ商館員で医師のケッペルが亀山宿の様子を書いています。

「亀山は大きな豊かな町で、二つの平らな丘の上にあり、真ん中に小さな谷が通っていた。門が一つと土塁と石垣があったが、曲がった肘のようになった道には、郭外の町々の家を除き、約2000戸の家があり、右側には堀や土塁や石垣をめぐらした城がある。」

野村一里塚跡   後ろは樹齢400年のムクの巨木

関宿

関の小萬のもたれ松の案内板

父のかたき討ちをした小萬は江戸時代は有名だったようで鈴鹿馬子唄になっており長唄にもなっています。

東の追分  伊勢別街道との分岐点。伊勢神宮の一の鳥居。

一里塚跡

関宿の街並み

町屋を開放した「関まちなみ資料館

旅籠「玉屋」歴史資料館

関の小萬碑  福蔵寺の境内にあり織田信孝の菩提寺。

京側から鈴鹿越えをしてたどり着いた関宿の西の追分の公園まで到着しつながりました。

つながりは ↓ 下記で

旧東海道の逆鈴鹿峠越え(田村神社~坂下宿)

旧東海道の逆鈴鹿峠越え(坂下宿~関宿)

一回目の亀山宿と関宿の様子は ↓ 下記で

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(1)

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(2)

旧東海道・亀山宿~関宿から奈良(3)

旧東海道 藤川宿~岡崎宿(~宮の渡し)

二川宿から吉田宿までは途中JR飯田線の小坂井駅までとし、そこから宮宿を通り<七里の渡し>までは名鉄名古屋本線、桑名側の<七里の渡し>から四日市宿までは、近鉄名古屋線の駅とぶつかるところで宿泊場所を探します。無い時はもどったり進んだりして宿泊場所を決め、それからどこまで歩けるかを検討し、何泊にするかを決め、さらに友人の仕事のシフトと合わせ、予定日1週間前に天候を確認して最後の検討。

今思い出しますと、進め進めの前進あるのみで、予定通り進むと達成感で脳は高満足度で、身体の高疲労度は飛んでおりました。この疲労度が結構たまりあとに残りましたが。

さてその中で、歌舞伎『伊賀越道中双六』に登場しました<藤川>と<岡崎>について書いておくことにしました。『伊賀越道中双六』に出てくるのが<三州藤川 新関の場><三州藤川 新関裏手竹藪の場><三州岡崎 山田幸兵衛住家の場>として出てくるのです。重ね合わせるのは無理な風景となってしまっています。

名鉄名古屋線の本宿駅を赤坂宿側に少しもどったところに、<法蔵寺>があります。家康さんの先祖の松平一族の墓のあるお寺で、家康さんも手習いに通いその手習いした紙をかけたといわれる松があります。驚いたことに近藤勇さんの首塚がありました。江戸板橋で処刑され京都にさらされた首を、同志が盗み、めぐりめぐってここに葬られたが、その後また盗まれ今は墓碑と胸像がありました。

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御朱印をもらう時お寺のかたが、かつては新撰組ファンが催しをしていたが、今は年齢的にそれもなくなったと言われていました。

本宿は<赤坂宿>と<藤川宿>の中間にあり、茶店など休憩としてにぎわったところです。一里塚の標柱があり名鉄名古屋線の線路にそって旧東海道は続きます。左手に急な石段があり上には<山中八幡>があります。三河一揆のとき家康さんが洞窟に隠れ見つかりそうになった時、ハトが飛び立ち助かったと伝わっています。

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東棒鼻(ひがしぼうばな)>の標識があり、<棒鼻>は宿場の出入り口のことで、解説案内には、1601年(慶長6年)に整備された<藤川宿>は小さく幕府の要求にこたえるために困窮したようです。補強するため他の村を移住させ加宿させたのですが、それでも小さな宿の部類に入ります。小さいながらも本陣、脇本陣、問屋場、高札場、鼻棒などの施設をつくりに頑張りました。

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脇本陣跡にたつのが無人の<藤川宿資料館>です。その近くに<むらさき麦>栽培地とあって、本当に美しい紫色の麦でした。芭蕉さんがこれを詠んでいます。「ここも三河むらさき麦のかきつばた」1994年(平成6年)に県の農業試験場が栽培に成功させ、その年は芭蕉さんの300年忌の年だったのです。「むらさき麦のかきつばた」。優しい美しさでした。はからずも5月の旅ゆえにまぼろしの<むらさき麦>を見ることができました。

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この資料館には、かつては<からむし細工>も藤川のおみやげ品で、今は福島県の昭和村しか生産されていませんが、からむし製品も展示されていてここでお目にかかるとはおもいませんでした。

西鼻棒><一里塚><吉良道標>を右に進みますと、<藤川の松並木>が続きます。1キロメートルに90本のクロマツが並び、夜には足下を照らす灯りが設置され、夜になるとほのぼのとした明るさが出現するようです。松並木の灯りとは風情があります。<藤川宿>から、<岡崎宿>は6.6キロと近いです。

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進むと<岡崎源氏蛍発生地碑>がありました。ここは、大岡越前守の領地でもあり、<西大平藩陣屋>の解説板があり、大岡忠相は旗本でしたが、吉宗の口添えもあり1万石の譜代大名になり西大平に陣屋がおかれます。

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しかし藩主だったのは3年だけで亡くなってしまいます。大岡家は江戸に常駐する定府大名で参勤交代がありませんでした。そのため、ここの詰めている家臣は多い時で12、3人です。

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さらに<大岡稲荷神社>がありました。大岡越前さん、豊川稲荷の本尊「吒枳尼眞天(だきにしんてん)」を信仰していて、江戸赤坂の藩邸内に豊川稲荷の分霊社として赤坂稲荷を祀り、西大平陣屋内のも大岡稲荷を建立していたのだそうで、2002年(平成14年)に再築されたものです。検索しましたら赤坂稲荷は豊川稲荷東京別院でその由来を引き継いでおられるようです。

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大きなエノキの<大平一里塚>があります。岡崎は、家康さん生誕の地で、浜松城に移るまえに本拠地としていていました。ここには外敵からの防衛のために東海道を<二十七曲り>させたのですが、これは家康さんではなく、岡崎城主の田中吉政さんが造りあげたのです。

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冠木門と<二十七曲りの碑>がありまして、金のわらじの案内柱があります。しかし、地図がほしいです。複合公共施設が目にとまりそこで地図を手に入れました。「岡崎開運の旅シリーズ まち歩きマップ」これが(二十)までありまして<二十七曲り>マップは(四)でした。金のわらじは㋑㋺㋩で続き㋹で愛知環状鉄道の中岡崎駅と名鉄名古屋本線の岡崎公園駅のそばとなります。一応そこで岡崎宿の終わりとします。二十七曲りはまだ続くのですが、なくなっていたりもしますので、そのあとは数えませんでした。

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ここまでで十七の曲りを曲がったことになります。慌ただしかったです。曲りを確認しつつ、三つの本陣跡を確認、<お茶壺道中>の茶壺の石碑があり、宇治茶を将軍家に献上するために始まった道中で、将軍の権威を示すため、100人の人足をだす定めがあり、お茶壺奉行をはじめ100人以上の行列をもてなすときもありこれまた負担が大きかったとのこと。

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大正時代の建物の<岡崎信用金庫史料館>、<田中吉政像>、籠田公園を通って連尺通り、どんどん曲って岡崎城を遠く半周する感じで㋹に到着です。

旧東海道を歩いていると、時間的にお城には行けないのです。お城巡りをするためには、別の計画を立てねばなりません。

岡崎はその他、家康さんの正室、築山御前の首塚がある<八柱神社>、信長の命により自刃した家康さんの嫡男信康さんが祀られている<若宮八幡宮>などもあり、幾つもの厳しい曲り角を歩まれた家康さんの人生が詰まった地でもあったのです。

岡崎城から八丁離れていた八帖町。

江戸時代、東海道で一番長かった木橋。ここを渡って知立(ちりゅう)へ。

追記: 知立宿鳴海宮宿までの写真を載せておきます。「有松鳴海絞会館」見学に時間をかけました。

尾崎一里塚跡の石碑

永安寺の雲流の松

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来迎寺一里塚(左右一対)

池鯉鮒宿の石碑

伊勢物語のマンホール (からころも きつつなれにしつましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ)

知立古城址

弘法大師御自作知立不動尊

阿野一里塚 (国の史蹟指定)

市雪歌碑 (春風や 坂をのぼりに 馬の鈴)

有松一里塚石碑

笠寺一里塚

熊野三社

熱田神宮と旧東海道

裁断橋址

都都逸発祥の地記念碑

姥堂と裁断橋の解説案内

加藤図書助館跡 (家康が竹千代時代に預かる)

伝馬町(かつての熱田神宮の門前町)

宮の宿赤本陣跡

熱田魚市場跡

熱田荘解説案内

宮の渡し公園七里の渡し場跡

旧東海道の逆鈴鹿峠越え(坂下宿~関宿)

家康や家光も休息したという<金蔵院(こんぞういん)跡>は石垣だけが残り、<法安寺の庫裏(くり)玄関>は、坂下宿本陣の一つであった松屋の遺構を門の一部に再利用したものと書かれていましたが見ていません。

宿のおもかげはほとんどなく、<小竹屋脇本陣跡><梅屋本陣跡><大竹屋本陣跡><松屋本陣跡>と軒並み石碑のみで、本陣が三つもあり大きな宿場であったのがわかりますが、そのおもかげはほとんどなくてつーっと通過してしまいました。

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鈴鹿馬子唄会館>で坂下宿の概略を知ったのです。<坂下宿>は江戸から48番目の宿場で、鈴鹿峠の下にあることからこの名前がつき、旅籠の数は48あり、亀山が21、関が42ですから、それよりも多く、旅籠の割合は箱根に次ぐ高いものだったのです。大竹屋本陣の平面図面がありましたが一目で大きいとわかります。しかし今はかつての旅籠宿は夢の跡という静けさです。

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ここを歩いた人々の数は数えきれないほどだったでしょう。様々な人々の中にオランダ商館医師のシーボルトさんもいました。彼は江戸へ向かう途中でこの坂下で「オオサンショウウオ」を捕獲してオランダへ持ち帰り、今もオランダのライデン博物館に標本として残されているのだそうです。ここに「オオサンショウウオ」が生息していると知っていたのか、たまたま見つけたのでしょうかね。「オオサンショウウオ」も、見慣れない人だなあと姿を現したのか。

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井伏鱒二さんの『山椒魚』を思い出してしまいました。「君は何やってんだい。おいらなんかオランダまできてしまったよ!」「さらし魚になったのか~~」「・・・・」

シーボルトさんに関しては朝井まかてさんの小説『先生のお庭番』がシーボルト事件まで触れていて参考になりました。

東海道で芭蕉さんの次に歌を紹介されているのが西行さんですが、ここでの西行さんの歌です。「鈴鹿山 憂世をよそにふりすてて いかになり行く わが身なるらん」

では芭蕉さんも。「ほっしんの 初の越ゆる 鈴鹿山」。この時の自分の気持ちは芭蕉さんに近いです。反対方向からくると、西行さんの気持ちに近いかもしれません。憂世をすてるまではいきませんが、さあこれから上手く峠を越えられるであろうかと。

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町家が残っている沓掛の少ない家並みを通ります。<筆捨山>は絵師があまりの素晴らし山の景観に筆を捨てたといわれる山ですが、どれがその山なのか見える木々の山がそうであろうとしておきました。亀山市民文化部で出している案内図には、筆を捨てた絵師として狩野元信さんの名前がありました。鈴鹿峠を越え、坂下宿も過ぎ、思っていたよりも早く<関宿>の西追分の公園に到着です。

江戸側からこの公園に着いた時、ご夫婦が丁度鈴鹿方面から到着しまして、どうでしたかとご婦人に尋ねたんです。「そんなに大変じゃありません。」水口から土山までタクシーを使い、そこから歩かれたらしいのです。

ご主人のほうは、休憩所の東屋で座っていたのが、お疲れか横になってしまいました。ご主人のほうは、旧東海道歩きの途中から参加され、奥さんのほうは、中山道も歩いたということですから、歩きに関しては、奥さんのほうが上のようです。これから亀山宿まで行くとのことでした。

私たちの足は、ご主人と奥さんの間くらいの力と解釈しました。健脚の友人は、関宿から水口まで歩いています。私たちには無理。ここは途中の交通機関がないので自分たちの体力から、多少調子が悪くても一日かけてこれくらいとゆとりをもたせました。ただここはタクシーは呼べるでしょう。箱根は交通の便はいいですが、一部は車の入れない場所を歩きますから、鈴鹿峠との違いはその辺でしょうか。

私たちは、旧東海道の道を歩くというのが基本でしたが、ほかの友人は、開発されて面白くなさそうな道は電車にして、美味しい飲食店に出くわすと、次の出発には、そのお店を再度訪るという計画にしたりして変化させており、それぞれの楽しみ方をしています。

テレビでも「鉄道でたどる 東海道五十三次」という番組ををやっていまして、そこで、ひつまぶしを食べていて、それを見て友人は食べたくなったわけです。わたしは、<どまんなか袋井>の「たまごふわふわ」が食べたかったです。土鍋にだし汁を入れ、餅を入れて、メレンゲにした卵をふんわりとかけ火にかけるのです。作れますが、旅の途中で出くわすというのが楽しいです。特に寒いときには。江戸時代にこの「たまごふわふわ」があったというのですからおどろきです。

テレビ番組では、宿泊と食事が豪華で、次の日の私たちならゴマノハイにあった状態でしょう。番組とは反対に、三条大橋から八坂神社に向かったのですが、かき氷が食べたくて表示をみると高いのです。庶民の食べ物がなんでこんなに高いの。1000円以上のかき氷なんて食べないよ。八坂神社のそばにありました。抹茶かき氷。白玉とあずきも添えられて。みうらじゅんさんといとうせいこうさんの東京と京都のかき氷談義がふっと頭をかすめましたが、口と喉の触覚優先でした。夏になあ~ると思い出す~

悟りの薄い者は、憂世に即もどります。基本形から解放され番外編の旅のつづきとなりました。

旧東海道の逆鈴鹿峠越え(田村神社~坂下宿)

旧東海道歩きの<鈴鹿峠越え>ができて、一応旧東海道を歩いたことになります。

関宿から土山宿までの間に鈴鹿峠があります。すでに土山宿手前の田村神社前から土山宿、水口宿へと歩いているので、関宿から坂下宿、そこから鈴鹿峠を越え田村神社までとなるのですが、色々検討し、田村神社から関宿に向かう逆コースにしました。これが良かったのかどうかは反省点も残ります。旧東海道は日本橋(東京)から三条大橋(京都)に向かう方向性で表示してあり、その通りに歩くと何の問題もない道が反対方向からくると表示がなくて混乱するのです。戸塚の権太坂もそうでした。

鈴鹿まで行くなら友人を伊賀上野まで連れて行きたいのと、名古屋でひつまぶしが食べれなかったのが残念とのことでしたので、先に名古屋に寄りました。

鈴鹿峠越えは草津線の貴生川駅からバスで田村神社で下車そこから一日かけて三重の関宿に向かう計画としたのです。全てクリアできましたので、結果的には良しということになりました。

田村神社>前の国道一号線に近い鳥居を潜ると旧東海道があります。そこから出発です。歩き終わった友人からも判りやすい道で、ただ長いと言われていたのでそのつもりで歩きはじめます。

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広重さんの絵「土山 春の雨」の田村川に掛る橋を渡り大きな工場の間を通ります。このあたりは、<蟹坂古戦場跡>で伊勢の北畠具教が甲賀に侵入しようとしますが、山中城主・山中丹後守秀国がこれを阻止したとのことです。私のわかる歴史範ちゅうにはないことがらです。

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蟹が坂>があり、かつてここに罪を犯す大きな蟹が住んでいて祈り伏せられたという話しがあります。その蟹の甲羅を模した飴が田村神社前の<土山の道の駅>でも売っていました。

猪鼻村>の標識があり「土山宿」と「坂下宿」の間の立場(休憩所)があった場所で、赤穂浪士の大高源吾が旅の途中で詠んだ「いの花や早稲のもまるゝやまおろし」の句碑もありました。東海道はやはり赤穂浪士が時々痕跡を残し登場します。

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そしてここにと思ったのが<檪野観音道(大原道)>の表示板です。旧東海道から檪野寺への参詣道があったのです。さらに関宿に着いた後に、もう一度檪野寺への道を知ることになるのです。<鈴鹿馬子唄之碑><山中一里塚

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十楽寺>は今回の楽しむのひとつでした。このお寺の阿弥陀如来坐像が、甲賀三大佛の一つなのです。大池寺の釈迦如来坐像、檪野寺の薬師如来坐像、十楽寺の阿弥陀如来坐像。檪野寺の薬師如来坐像は、昨年の11月に東京国立博物館で拝観しています。三大佛の一つが現地で拝観でき、友人も簡単には行けないお寺で御朱印が頂けるとよろこんでいたのですが、その日は宗教上の集まりがあり留守との張り紙でした。残念。

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しかし、この時間差で助けてもらえたのです。大きな灯籠の<万人講大石灯籠>に着き屋根のある休憩場でほっとしたとたん雨となり、驚いたことにそれが雹(ひょう)になったのです。やはり<鈴鹿峠>、何が起こるかわからないと思いました。少し様子をみて時間がとられるようなら雨具で歩くしかないかなと覚悟しました。風で雹が吹き込み休憩の椅子もどんどん濡れていきます。

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準備していますと、次第に小ぶりになっていくようです。大事にならず大丈夫でした。十楽寺で時間をとっていたら途中で濡れることになったでしょう。十楽寺の阿弥陀如来様がお会いできなかったかわりに濡らせませんでしたよと言われたようでした。

さらにこの先で、雪がちらつき、前方の山のほうは吹雪いているように白くかすんでいましたが、それはこちらまではきませんでした。鈴鹿馬子唄の「坂は照る照る鈴鹿は曇るあいの土山雨が降る」の鈴鹿峠の急な天候の変化を身をもって体験しました。

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さてこれから鈴鹿峠越えとなるのですがこちらからは下りとなるので気分てきには楽です。ところが、降りたところで前の一号線を渡ったところに旧東海道があるはずなのですが覗いても道がないのです。おかしい。もしかして途中で違う道があったのかともどることにしました。<鏡岩>を天候不順なのでそこへの道は通り過ぎたのですが、ここまでもどったのならとそこへも寄ることにしました。<田村神社旧跡>とあり田村神社はかつてはこの峠にあったのです。

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<鏡岩>というのは、断層が生じる際に強力な摩擦力によって研磨され、平らな岩面が鏡のようになるのだそうで、山賊がこの岩を磨いてそこに映った旅人をおそったという伝説の岩です。そういう伝説がのこるほど山賊がいたということでしょう。

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脇道もないのでまた<馬の水飲み場><芭蕉の句碑>を通り降りました。すると柵のようなものが眼につきました。下る階段があります。ここでもぐって国道1号線を渡るのです。

浅はかなおばちゃんもいるのですから、ちょっと表示しておいてくださいな。不思議なくらいそれが眼に入らず国道をふらふらしてしまいました。その下り階段を通り抜けた入口には東海道と表示があり、反対側から来れば難なく道なりに進めるようになっていました。

そしてもう一回やってしまったのが、無事<片山神社>に着き喜んで上まで上がりお詣りしてここでまた道を間違えまして国道へでてしまいもどることとなりました。そこも反対側からくればわかるように表示されていました。表示に頼って来ていた甘さでしょうか。

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そこからは、順調でした。<岩屋観音>と葛飾北斎さんの「諸国滝めぐり」にも描かれたという清滝は工事中なのかロープが張られていて行けそうもありません。そして坂下宿へと入ったのです。

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参考とした案内図

旧東海道の逆鈴鹿峠越え(坂下宿~関宿) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

旧東海道五十三次・どまん中<袋井宿>から<見付宿><浜松宿>

東海道五十三次の真ん中の宿場が27番目の<袋井宿>である。やっとどまん中の宿場へたどり着き、<浜松宿>を通過することができた。

<袋井宿>は、袋井市が東海道宿駅制度開設400年(2001年)に東海道周辺を整備し、今年は、<袋井宿>開設400年ということである。

<袋井宿>近くに来た途端に松並木が目に優しい。土塁も残っていて旧東海道を満喫できる。案内板には、北斎や広重の浮世絵が配置され、唐獅子牡丹を描いた丸凧をあげている様子などが楽しい。風景の遠近、人々の感情。いつもながらの風景画であり、風俗画であり、広告画であり、多様な顔をみせてくれる。

 

 

 

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本陣や脇本陣などの建物は残っていないが、新屋秋葉燈籠が石燈籠でなく瓦ぶきの手の込んだ彫刻をした屋形燈籠である。街道には道標として常夜灯があるが、その石灯には「秋葉」と名前の書かれたものもあり、火事から守るという意味もあるようで、袋井には火伏せの神様をまつる「可睡斎」がある。一里塚も原寸大で復元し立派な榎がのびやかに空に向かっている。

 

 

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2001年にきちんと史実を調べて、堂々と<どまん中>と声をあげた感がなんともしっかりとしていて気持ちがいい。色々な現時点での宿場をみてきたが、袋井の現宿場は観光だけではない気持ちがこもっていると友人と賛同しあう。

宿場には「東海道どまん中茶屋」があり、年中無休で湯茶の接待をしてくれる。風の強い日で、炭火の炉の温かさが心地よい。こうした基礎をきずかれた人々が高齢化していくのが気がかりである。とにかく、どこもかしこも袋井は胸をはってどまん中を主張している。

 

 

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次が<見付宿>。ここは、歌舞伎と関係するものが多かった。「見付天神」(矢奈比売神社・やなひめ)は、東海随一の学問の神様である。となれば当然菅原道真公である。そして、鳥居のそばにはりりしき犬の悉平太郎(しっぺいたろう)の像があり見付天神の後方には、「霊犬神社」があり霊犬悉平太郎が祀られている。

 

 

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私はしっぺい太郎の話しは知らなかったのであるが、友人がしっかり日本昔話をかたってくれた。妖怪が「信濃のしっぺい太郎はいないな」というところがおもしろかった。信濃と遠州をつないでしまうのである。

そして、境内には「十二代目市川團十郎丈 お手植えの梅」の紅梅があって小さいが見事に咲き誇っていた。どうしてここで植えられたのかはわからない。

見性寺には白波五人男の頭目、日本左衛門のお墓もあった。見付に入るところに遠州鈴ヶ森があり、無縁墓碑があった。見性寺の説明板によると左衛門は京都町奉行所に出頭し、江戸の牢獄に移され、さらに遠州見付宿にうつされ町中引きまわしのうえ見付宿三本松の刑場にて処刑されるとある。

 

 

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あらゆることに優れていたようだが、少年時代より身持ち不埒で勘当され無宿人となったようである。

身体は見性寺に首は金谷宿宅円庵に葬ると伝えるとある。尾張国上宿に生まれ父の仕事の関係で金谷宿に移っている。享年29歳。

宿場から離れるが天竜川のそばが、『熊野』の熊野御前の郷里だそうである。渡船場跡の近くの「行興寺(ぎょうこうじ)」には、お墓もあるらしいが、渡船場跡までは行ったが時間配分もあるので、すぐ引き返し新天竜川大橋を渡った。

 

 

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関東は大井川、遠州は天竜川。西に入ったという感じがする。

2泊3日。向かい風ではあったが晴れてくれたので予定より一歩進むことが出来た。行き帰りとも富士山はくっきり姿を見せてくれた。

 

 

天竜川を渡って浜松宿までの旧東海道は往時の面影はない。標柱の写真だけは載せておく。

旧東海道の『丸子宿』『宇津ノ谷峠』での話題

JR静岡駅北口から200メートル先に旧東海道がある。そこから丸子宿を目指し、さらに宇津ノ谷峠を越し岡部宿となる。

府中宿は『東海道中膝栗毛』を書いた十返舎一九さんの生まれたところらしく、生家伝承地碑があるが、旧東海道からはそれているので確かめてはいない。駿府城跡地の駿府公園手前に札の辻跡がある。四つ辻にあった高札場である。

 

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七間町  家康が駿府96ケ町の町割りをした時のひとつ。道幅が七間。

 

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一里塚跡

 

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由井正雪公之墓址碑  

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丸子宿に入る前に大きな安倍川がある。安倍川を渡る前には安倍川餅である。柔らかくて美味であった。安倍川餅といえば、黄な粉であるが、黄な粉、あんこ、わさび醤油と三種類に舌づつみである。

 

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 安倍川義夫の碑   ある人夫が旅人の財布を拾った。旅人はお礼をしようとしたが受け取らない。奉行所が代わりに褒美を渡した。

 

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安倍川架橋の碑

 

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一里塚跡

 

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丸子宿の丸子川を渡る手前に<十返舎一九膝栗毛の碑>がある。その手前に<本陣跡><お七里役所跡>がある。西国の大名は江戸と自分の領国の間の通信網として七里飛脚を使っていた。五人一組の飛脚を<お七里所>に配置していた。この丸子の<お七里役所跡>は、紀州徳川家の<お七里役所跡>である。

普通便は8日で、特急便は4日で到着したそうで、毎月三回、江戸からは5の日、和歌山からは10の日に出発した。この日には飛脚が着くという日がわかっていたわけである。それ以外の日につけば、緊急であろうから受けたほうは緊張したことであろう。

 

本陣跡

 

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お七里役所跡

 

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そして丸子宿といえば、とろろ汁である。弥二さん喜多さんはこのとろろ汁が食べられなかったこともあってか<十返舎一九膝栗毛の碑>は、とろろ汁のお店の前にある。この日はそのとろろ汁のお店が休みで、弥二さん喜多さんと同じ運命かと思いきや、他のお店が開いていて無事食べることが出来た。満足。

池波正太郎さんは、岡本かの子さんの小説『東海道五十三次』の中で丸子宿でとろろ飯をたべている場面からどうしても食べたくなり丸子宿を訪れている。とろろ汁もであるが、岡本かの子さんの短編『東海道五十三次』も読めてこれまた満足である。

 

岡本かの子の碑

 

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京方見付跡

 

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丸子宿宇津ノ谷峠は、河竹黙阿弥の歌舞伎『蔦紅葉宇都谷峠』の舞台にもなっていて、是非ここは通りたいと思っていたのである。

 

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お羽織屋   秀吉から陣羽織を与えられた。

 

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歌舞伎の『蔦紅葉宇都谷峠』の紹介記事展示

 

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宇津ノ谷峠は、明治のトンネル、大正のトンネル、昭和のトンネル、平成のトンネルと時代ごとのトンネルがある。明治、大正は散策コースにもなっていて、さらに蔦の細道と幾つかの散策道があるが、こちらは、ひたすら旧東海道である。宇津ノ谷峠への登りがきつく大丈夫かなと思ったが登りが適当なところで終わってくれ、下りが長かったので助かった。

旧東海道を歩いていると距離の単位が<里>になっていて、言葉に何里とかでてくると、その遠さなどがすぐ体感できたりする。一里はなくても、高さがあると時間がかかるということも考慮に入れる。峠は薄暗く、やはり、川と峠は旅人の脅威である。そして、雨も。次の日雨となり、途中で早めに行程をあきらめて、駿府城見学に変えた。その夜、風が猛威を振るい箱根では木が倒れ、箱根鉄道は運休となったようである。

行くとき今回は富士山が全身を現してくれたのであるが、土色で何かぼやけてみえる。風のための土煙の影響であったようだ。

さて、今回、ツッコミを提供してくれたのは、テレビの『陰陽師』と映画『図書館戦争』である。『陰陽師』は、晴明と博雅の関係にブーイング。夢枕獏さんの『陰陽師』ではないとの結論。といっても、こちらは歌舞伎の染五郎さんと勘九郎さんのコンビを最高とおもっているので、原作と比較できない。脚色されるのは仕方のないことではあるが、原作を一冊読んだ。原作よりも、歌舞伎の晴明と博雅の微妙な関係のほうが味がある。やはり原作は読むべきである。『今昔物語』にも出てくる話しが書かれてあった。そして蝉丸さんが出て来た。あの世とこの世の境とされる<逢坂山>に庵を結んだと言われる琵琶の名手である。蝉丸さんが出てきてくれたことだけをとっても原作を読んでよかった。生きた人と人が作り出す芝居や映像は、原作とは違ってしまうのが宿命であろう。

かつては、原作派で、原作の良いものは、映像とか芝居は観る気がしなかったが、近頃は映像などで短時間でその概要を捕らえることが多くなった。原作を読む時間がないということ、集中力が低下して、本を読むのに時間がかかるのである。

映画『図書館戦争』は、原作を読んだ友人から、<図書館の自由に関する宣言>があるのを知っているかときかれ、知らないというと、こういうのがあるのだと教えてくてた。作家の有川浩さんも、<図書館の自由に関する宣言>を知ってそのことから作品の発想が生まれたようである。さっそく、レンタルする。不適当な本として取り締まる側とそれに抵抗し本と読み手の自由を守る人間とが戦争にまで発展してしまうのである。アニメ映画にもなっているらしい。原作は5巻くらいありさらに別冊が2巻あるらしく読むなら貸すといわれたが断る。今、その本を入れるゆとりがない。

映画ではやはり短すぎるが、こういう展開なのかということはわかる。

<図書館の自由に関する宣言>があるということを知っただけでもよかった。今、民間に図書運営を任せ問題点があることが住民から指摘されたりしている。資料として古くなったりしたものや、定説が新しい事が発掘され変更になったものなど、専門家の図書司書の方がきちんと調べてそろえたり、保存していくのが図書館の役目でもあるようである。そういえばこちらが調べたいことを察して、その関係ならこういう本もありますよと言ってくれた図書館の人もいたが、今はそんなこともない。ただし、個人情報として立ち入ることを避ける必要があるのかもしれない。

ただ、捜してる本の場所を見つけるのが、かつての係りの人はもっと早かったと思わされることは多い。

今夜、テレビで『図書館戦争』放送されるらしい。男女の背の高さが、かなり重要なポイントでもある。

TBSテレビ 21時~

旧東海道の言葉遊びとアニメ

井上ひさしさんが文を書き、さしえ絵は山藤章二さんの『新東海道五十三次』という本がある。言葉の好きな井上さんならではの言葉のことがたくさん出てくる。こちらとしては、井上さんと山藤さんの弥次喜多道中と思って購入したが、開いてみたら東京圏内での東海道体験では、つんのめるばかりで先に読み進めない。では府中まで進んだのだからと思って開くと少し楽しめた。

たとえば、江戸の寺子屋では、『都路』というのが教材として用いられていたそうである。どんなのかというと次のような文である。

都路は五十(いそじ)余りに三(み)つの宿、時を得て咲くや江戸の花、波静かなる品川や、やがて越えくる川崎の、軒波(のこは)並ぶる神奈川は、はや程ヶ谷のほどもなく、暮れて戸塚に宿るらむ、紫匂ふ藤沢の、野面に続く平塚も、ものの哀れは大磯か、蛙(かわづ)鳴くなる小田原は、箱根を越えて伊豆の海、三島の里の神垣や、宿は沼津の真菰草(まこもぐさ)さらでも原の露払ふ、富士の根近き吉原と、ともに語らん蒲原や、休らふ由井の宿なるを、思ひ興津の焼塩の、後(のち)は江尻のあさぼらけ、けふは駿河の府中行く

 

この調子で京まで続くのである。そして、この変形のひとつが明治期の「鉄道唱歌」ということである。この『都路』を覚えて次の東海道歩きのときには、紹介したいものであるが、暗記は苦手。コピーを渡すことになりそうである。

「道中新内節」というのもあって、

日本橋から二人連れ、七つ発(だ)ちにてやつやまをはなし品川いそいそと、磯辺伝いの鈴ケ森、古川薬師横に見て、わたしを越して川崎へ、ひとり行くとは胴欲な、晩に必ず神奈川(かんなかわ)

 

と続くのである。

枕詞東海道などというのもある。それが、戦争中カナダ人修道士が日本の収容所にいれられ、監督官が軍部から軍人勅諭を暗記させろと命令されたがあんなもの覚えても仕方がないから、むかし寺子屋で枕ことばを暗記するのに使ったものを教え、それを習ったカナダ人の修道士から井上さんが教わったのである。

おおふねの 沼津。あおやぎの 原。よしきがわ 吉原。あおやぎの 蒲原。さつひとの 由井。みさごいる 興(沖)津 ・・・

そこから、井上さんは枕詞に凝る。

岸恵子さん「いわそそぐ岸の恵子さま」。若尾文子さん「わかくさ若尾のむさしあぶみの文子さま」。五木寛之兄「みずとりのかもめのジョナサンしずたまき数にぞ売れしかきかぞう五木さん」。佐藤愛子さん「しろたえの月の光も照り負くる男まさりの愛子姉さま」などなど。

井上さんと山藤さんに比べようもないのが、こちらの東海道のお遊びはアニメの突っ込みであった。アニメ『バケモノの子』が面白そうというと、細田守監督のアニメ幾つかDVDになっているというので、ネタとして『時をかける少女』『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』を観る。アニメは実写の映画より突っ込みどころが沢山あり、道中には楽しいなぐさみとなる。時として突っ込みに夢中になり道を間違え暑い中をもどる羽目となってしまったりもした。

『時をかける少女』は、大林宣彦監督のとどう関係するのか尋ねたら、大林監督の続きがアニメ映画で、博物館で修復の仕事をしていた女性が原田知世さんで、アニメの方の時をかける少女はその姪にあたるのである。なるほど。

『サマーウォーズ』の旧家の素敵なお婆ちゃんの声は富司純子さん。『おおかみこどもの雨と雪』の頑固なお爺ちゃんは菅原文太さんの声である。『葛の葉』などは、狐が子供を産むのであるが、『おおかみこどもの雨と雪』は、人間が狐の子供を産み、その子は人間の世界で暮らしてもいいし、狼の世界で暮らしてもよく、子供が成長の段階で選ぶのである。子供が夢中になると、耳が出て狼のように走ったり発想が面白いと思ったが、かなり突っ込まれる。

ネタも必需品だが、テーピングも必需品である。箱根から三島への「下長坂」は「こわめし坂」とも呼ばれる急な長い坂である。あまりにも長く急な坂で、背負っていたお米が、汗と熱でこわ飯になったといわれる坂である。ここで足を痛めてしまった。なんとかテーピングで、次の日も歩くことが出来たのでホッとした。どういうわけかその日はテーピング持参していたのである。カンが働いたのか。ところがハサミがなくて、友人が爪切りを持っていてそれで引きちぎった。旅はなにがあるかわからない。くわばらくわばら旅まくら。

旧東海道と『興津坐漁荘(おきつざぎょそう)』(興津宿・江尻宿・府中宿)

 

17番目の宿・興津宿。

 

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興津宿東本陣址

 

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興津宿西本陣址

 

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江戸の面影のない現在の興津宿

 

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東海道ぞいにあった、『興津坐漁荘』について書く。

興津坐漁荘』は西園寺公望(さいおんじきんもち)さんの別荘である。本来の『坐漁荘』は、愛知の犬山にある明治村に移築された。その後で、興津に復元され、『興津坐漁荘』として公開されているのである。本来の『坐漁荘』に忠実に復元されているらしい。材料が吟味されていながら、これ見よがしの所が無いシンプルな日本家屋である。時間が早かったため、家屋の雨戸などを開けている途中であったのが係りの方が、快くよく見学させてくれ、もう少しすると詳しく説明できる者が来るのですがと言ってくれたが、先を急ぐ旅人ゆえ、簡単な説明で充分に堪能できた。

 

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『坐漁荘』は、劇団民芸の『坐漁荘の人びと』(2007年)という芝居を観て、頭の中に残っていた。西園寺公望さんという方は、最後の“元老”と言われた人で、政界を退いても影響力のある人であったようだ。しかし国の行方は彼の思うようには行かず憂いを残して亡くなられたようである。

『坐漁荘の人びと』は、昭和10年(1935年)の夏から、昭和11年(1937年)の二・二六事件を通過した、3月までの『坐漁荘』の中での使用人や警備の人々に囲まれた西園寺さんの登場である。視点はあくまで、一般の人々の目線である。

以前奉公していた新橋の芸者・片品つるが坐漁荘を訪れる。そこで、もう一度女中頭として勤めて欲しいと執事に懇願され、引き受けることとなる。新しい女中頭のつるが、奈良岡朋子さんで、西園寺が大滝秀治さんであった。

西園寺さんは、軍部に対しても物申す人で、身辺の危険が心配され、坐漁荘の中は女中と西園寺さんだけの世界である。そのため、内なる女達のまとめ役が必要であったわけである。女中頭のつるは、今までの経験を駆使して、ご主人の気の休まるような環境をと、七人の女中をまとめていくのである。

『興津坐漁荘』を見て廻ると、女性達の動線が自分の動きと重なる。兎に角、開け放たれた部屋はどこも明るい光が入り、台所も明るく、暗い場所がない。庭からの景色は風光明媚である。かつては。今は埋め立てられグランドになっていて、野球部の学生が練習に励んでいる。それもまた、主の居ない風景としては理に適っているかもしれない。戦争の足音の聞こえる時代の風景が今は、若者が好きな野球に打ち込んでいる。一部の人々のための風光明媚よりも現代に相応しい明るさと美しさである。

『坐漁荘の人びと』を観ていなければ、政治家の別荘の一つとしてしか見なかったであろう。竹が好きなようで、窓の格子も竹であるが、侵入を防ぐため竹の中には鉄棒が入っていた。そういうところも、きちんと復元したようで、中の網代や外の桧皮壁も質実剛健に見えるのが好ましい。

“元老”は西園寺公望さんが最後でよい。

作・小幡欣治/演出・丹野郁弓/出演・奈良岡朋子、樫山文枝、水原英子、鈴木智、千葉茂則、伊藤孝雄、河野しずか、大滝秀治

 

旧東海道にもどると右手に『清見寺』。徳川家康が人質として今川家にいた竹千代時代時々ここで勉学に励んだと言われている。五百羅漢など見どころが多いお寺である。

 

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延命地蔵尊と常夜灯

 

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旅の途中で倒れた人々の埋葬碑

 

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巴川にかかる稚児橋の河童の像の一つ。稚児橋は家康の命によってかけられた。渡り初めに地元の老夫婦が選ばれ渡ろうとしたらおかっぱ頭の稚児があらわれ橋を渡って府中方面に消えたという伝説がある。

 

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久能山に向かう追分の道標

 

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清水次郎長が森の石松のかたきを討った場所で討たれた都鳥を哀れに思った里人が建てた都鳥の供養塔

 

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東海道の解説版

 

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草薙一里塚  (江戸から43番目の一里塚) 一里塚のそばに大きなタヌキの像があった。笠を首にかけ徳利を持っている。それらには意味があるようなのである。狸八相縁起

 

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旧東海道記念碑。昭和37年国鉄操車場の建設により旧東海道が分断され旧東海道が一部消えたことから記念碑を残す。

 

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西郷・山岡会見跡の碑。江戸城無血開城についての会談。由比の間の宿「望嶽亭藤屋」で山岡鉄舟が助けられなければこの会談も無かったわけである。

 

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東海道も弥二さん喜多さんや、浮世絵の世界だけでなく、時代時代の動きを垣間見せてくれる。時には、出会った人から、市町村合併の理不尽を聞かされることもある。その話しを聴いた後で歩くと、その人の怒りがもっともに思える町並みの風景に出会うこともある。集めるだけ集めて回って来ない置き去りにされる地域が生じることもあることを知る。

旧東海道・蒲原・油井

旧東海道もしばらくはJR東海道本線に添ってなので歩く計画も立てやすい。

一里塚跡

元禄12年(1699)の大津波で蒲原宿は移転しそれにともない一里塚もここに移された。

駿河湾がありますからね。後ろに小さな祠。

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東木戸・常夜灯

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常夜灯  文政13年(1831)のものだそうです。写真がないので蒲原の商工会が出したパンフレットから使わせてもらいます。

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諏訪神社  しっかりと石垣が組まれている。

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なまこ壁 (パンフレットより)

吉田家・塗壁造りなまこ壁(低く迫りだした瓦屋根と、塗壁が特徴)

佐藤家・塗家造りなまこ壁(家のまわりを黒漆喰で塗り固めた塗り家造りでモダンな白と黒のコントラストが印象的)

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広重の『蒲原夜之雪』の案内板

歌川(安藤)広重は天保元年(1829)幕府の内名を受けて「八朔御馬献上(はっさくおうまけんじょう)」の式典のようすを描くために、初めて東海道五十三次の旅を体験した。実際に旅したのは、天保三年(1832)のこととされている。「八朔御馬献上」は、江戸の幕府から京都の朝廷へ御料馬二頭を献上する年中行事の一つであった。

その時のスケッチや印象をもとにして、広重が五十五図のうち特に「蒲原夜之雪」「庄野の白雨」「亀山の雪晴」とともに役物(やくもの)と称され中でも最高傑作といわれている。錦絵に使用する奉書紙の地色を巧みに生かした夜の雪、二人の駕籠屋と一人の按摩を配した里の情景など抒情豊かに構成された名作との評価が高い。

東海道は家康が江戸から京都までとし五十三次でした。大阪には淀君と秀頼がいたからだといいます。豊臣家が滅びると二代将軍秀忠は大阪までのばし、三代将軍家光は庄野宿を加え五十七宿としたそうです。

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夜の雪記念碑

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さらにパンフレットに「蒲原夜の雪」について面白いことがのっていました。<真夏のミステリー> 「蒲原夜の雪」は、静かな雪景色の町として描かれているが広重は真夏に京都に向かっている。天才広重のイメージ風景という説や風景に起伏をもたせるためのアイデアという説など諸説あると。

人物が駕籠屋と按摩というのも確かに仕事を終わった駕籠屋と夜仕事の按摩で夜を印象づけるなあと感心しました。風景だけではなく人物の配置にも怠らない広重さんです。

本陣跡・佐藤家  これは西本陣のあとで100m先に東本陣があったようだ。

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向かいの和泉屋の二階から見た本陣

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旅籠「和泉屋」(鈴木家)

江戸時代の上旅籠屋で天保年間(1830~44)の建物で安政の大地震でも倒壊しなかった。

一部はお休み処として中を見学させてもらえる。

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高札場跡

正徳元年(1711)に出された五高札が有名。 ① 伝馬に関する定 ② 忠孝を奨励する定 ③ 毒薬や贋金銀買売の禁止の定 ④ 切支丹宗門禁制の定 ⑤ 火付(放火)重罪の定

また貨客運搬の駅馬や人足の賃金も改定のたびに掲げられる。 

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御殿道跡(ごてんみちあと)

かつてこのあたりに「蒲原御殿」があった。はじめは武田氏を攻めて帰る織田信長を慰労するため徳川家康が建てた小規模なものだった。二代将軍秀忠、三代将軍家光が東海道を往来するたびに拡張、整備され大きくなった。

正確な位置はわからない。背後の山を「御殿山」、ここを下る道を「御殿道」と呼んでいる。寛永11年(1634)の家光上洛以降使用されなくなった。

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旧五十嵐歯科医院  

大正時代に建てられました。中は町屋の特徴を残した和風で外観は洋風です。見学することができ講演会や催し物を行われている。

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由比宿を抜け薩埵峠に向かう

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写真のピントが合っていませんが39番目の一里塚址

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由比宿東桝形跡案内   

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御七里役所之跡碑

江戸時代、西国大名が江戸屋敷と領国との間に七里飛脚という特別の通信機関をもつものがあった。

ここは紀州徳川家の七里飛脚の役所跡。江戸・和歌山間584キロの間に28キロ(約7里)ごとの宿場に中継ぎ役所を置き、5人1組の飛脚を配置した。主役をお七里役、飛脚をお七里衆といった。これには剣道弁舌すぐれたお中間が選ばれた。

昇り竜と下り竜の模様の伊達半天を着て「七里飛脚」の看板を持ち腰に刀と十手を差し御三家の威光を示しながら往来した。普通便は毎月3回、江戸は5の日和歌山は10の日に出発。道中8日を要した。特急便は4日足らずで到着した。

幕末の古文書に中村久太夫役所、中村八太夫役所などとあるのは由比駅おける紀州家のお七里役所のことである。この裏に大正末年までお七里衆の長屋があった。

とても詳しい説明でした。飛脚の走っている姿が浮かびます。さすが紀州徳川家の感も。

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由比本陣案内板

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本陣跡   今は本陣公園となっていて東海道由比宿交流館、静岡市東海道広重美術館、記念館「御幸亭」(みゆきてい)などがあります。 御幸亭は明治天皇がご小休された離れの館を復元。付属の庭は松榧園(しょうひえん)といい山岡鉄舟が命名したもの。 

本陣井戸

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御幸亭と庭  右側の四角い建物が広重美術館。時間の関係で残念ながら見学していない。

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正雪紺屋

この紺屋(染物屋)は、江戸時代初期より400年近く続くといわれ屋内には土間に埋められて藍瓶(あいかめ)等の染物用具や天井に吊られた用心籠は火事等の時貴重品を運び出すもので昔の紺屋の様子を偲ぶことができる。慶安事件で有名な由比正雪は、この紺屋の生まれといわれているところから、正雪紺屋の屋号がつけられている。

400年とは驚きである。

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由比正雪生家の写真は地元のパンフから使わせてもらいました。

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慶安事件について正雪紺屋で出されているパンフから補います。

慶安4年(1651)4月、三代将軍家光が死去すると、その7月、由比正雪らにより幕府転覆が企てられた。7月29日を期して、江戸、駿府、京都、大阪で一斉に事を起こし、全国の浪人を蜂起、糾合。正雪は、久能山において東西の指揮にあたるという計画。しかし直前に訴人す者があり失敗。7月26日、由比正雪は駿府城下の梅屋で同志と共に自刃。

大名の取りつぶしにより浪人がふえその窮状と政治を改めさせるための訴えでした。

正雪紺屋の奥には正雪遺品を埋めた祠がある。

間の宿本陣跡 

ここ川島家は江戸時代慶長から天保年間凡そ230年間間の貫目改所の中心をなし大名など休憩したので村では本陣と呼んだ。

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間の宿の脇本陣柏屋  

ここは江戸時代から柏屋と称し茶店を営んできた。明治元年及び11年明治天皇ご東幸のみぎりご小休所にあてられた。また静岡県令・大迫貞清が療養のため逗留。郷里の九州の気候風土とが似ているため田中びわの種子をとりよせ栽培をすすめ当地の田中びわが普及した。

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間の宿・藤屋・望嶽亭

薩埵峠の東登り口の位置していることから坂口屋ともいわれ茶店を営んでいた。ここより富士山の眺望がよいので「望嶽亭」とも称し文人墨客が好んで休憩した。

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望嶽亭山岡鉄舟ゆかりの家

素通りしてしまったのですが山岡鉄舟をかくまった家でした。駿府にいる西郷隆盛に江戸総攻撃中止の談判に向かう途中で官軍に見つかってしまい「望嶽亭」の扉をたたきかくまってもらい漁師に変装し舟で逃がすのです。送り先は清水の次郎長のところでした。ここで逃がしてもらわなければ江戸城無血開城はなく江戸は血と火の海だったかもしれません。

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パンフからの写真ですと建物は一階ですが実は二階で、一階の床の間に隠し階段があり蔵の一階に下りられるようになっているそうです。扉を開けると前は浜辺。いやはや映画のような場面が浮かぶ。

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街道には様々の歴史が隠されていて驚き。

間の宿西倉沢の一里塚跡

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薩埵峠  お馴染みの風景を見ることができました。富士山は残念。残念が続いているような。東名高速、国道一号線、JR東海道線が交差している。

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「薩埵峠」 薩埵峠の開通は明暦元年(1655)とおそかった。峠道は上道、中道、下道の三道があり、上道が江戸後期の東海道本道である。

「風光明媚な絶景の地」 現在の富士市から興津川河口一帯を田子の浦と呼んでいる。万葉の歌人・山部赤人の有名な歌はこの付近から詠まれた歌ではないかと伝えられている。

田子の浦ゆ うち出てみれば 真白にそ 不二の高嶺に 雪は降りける

さらに享和元年(1801)狂歌師・蜀山人(太田南畝)が峠の茶店で休息した時、小さな祠が目に止まり亭主に訊ねると、山の神だと返事したのが面白く即興で作った狂歌が薩埵峠の名を有名のした。

山の神 さった峠の風景は 三下り半に かきもつくさじ

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薩埵峠から下ってから途中の道が旧東海道なのかどうかよくわからなかった。友人とまあいいことにしようと歩きすすんだ。

瑞泉寺と常夜灯

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興津川の渡し場跡

旅人は両岸にあった川合所で「越し札」を買い連台または人足の肩車で川を越した。水の深さで値が変わり連台は札4枚を要した。深さが四尺五寸を越すと「川止め」。

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興津川を渡れば興津宿に入ります。

髭題目の碑と常夜灯   この右手の道が身延山道となっていて身延山久遠寺への信仰の道です。

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一里塚址  JR東海道本線の興津駅までもう少し。

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旧東海道・吉原宿

JR東海道本線の吉原駅から始める。このすぐそばから岳南電車の吉原駅が始まる。

JR吉原駅手前に元あった吉原宿でかつて津波の被害があり中吉原宿へ。さらに新吉原宿へと移転している。新吉原宿は岳南電車の吉原本町駅あたりである。

先ずはそこまで目指すこととする。吉原は工場地帯で先に歩いた仲間は左富士は見えなかったと言っていた。

酒屋の看板に < ちょっと一息 左富士 > とある。

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左富士神社のあたりが中吉原宿であった。

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名勝・左富士の案内板

東から西に進とき今まで右手に見えていた富士が左手にみえることから名勝となった。安藤広重の道中日記 < 原、吉原は富士山容を観る第一の所なり。左富士京師(京)より下れば右に見え、江戸よりすれば反対の方に見ゆ。一丁ばかりの間の松の並木を透かして見るまことに絶妙の風景なり。ここの写生あり。>今は工場や住宅で当時の風情はないが一本だけ老松が残っていて貴重であると。

えっ! 広重の道中日記があるんですか。読んでみたい。

残念ながら左富士も富士山そのものも見えなかった。

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名勝・左富士の碑

左脇の広重の絵の説明が詳しい。

右方に見える黒い山は愛鷹山である。左に富士山を眺めながら馬に乗った旅人が行く。前方の馬は背の両脇に荷物を入れたつづらを付け(37.5kgずつ)その上にふとんを敷いて旅人を載せる。この方法はのりじりといい賃料がかかった。手前は馬の鞍の左右にこたつのやぐらのようなきくみを取り付けそれに三人の旅人が乗っている。これを「三宝荒神」といっていた。

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平家越えの碑

この場所であったのかと驚き。

治承四年(1180)十月二十日。富士川を挟んで、源氏の軍勢と平家の軍勢が対峙した。その夜半、源氏の軍勢が動くと近くの沼で眠っていた水鳥が一斉に飛び立った。その羽音に驚いた平家軍は源氏の夜襲と思い込み、戦い交えずして西へ逃げ去りました。源平の雌雄を決めるこの富士川の合戦が行われたのはこの辺りといわれ「平家越」と呼ばれている。

この頃、八幡神社で頼朝と義経が石に座し対面しているのである。

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平家越えの橋

この下を流れているのは和田川

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平家越の石碑

これはかなり古いですね。横に東海道の道標

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東木戸跡

いよいよ新吉原宿である。

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身代わり地蔵さん

昔、寺町(今の東本通り付近)に悪性の眼病がはやった時、町の人々がこのお地蔵さんに願をかけると、たちまち潮が引くように治った。その時お地蔵さんにはいっぱい目やにがついていたので「身代わり地蔵」というようになった。その後もはしか、おでき等身体の弱い子に霊験あらたかと信仰を集めていた。

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商店街を歩くが本陣など吉原宿の印は何も見つけられなかった。

清水次郎長と山岡鉄舟が泊まったという宿「鯛屋」がありました。今も営業されているようです。

間宿・本市場案内板

本市場の名物は、白酒、葱雑炊、肥後ずいきなど。

広重の絵には旅人が「名物 山川志ろ酒」の茶店で休んでいる。浮世絵には「吉原」と。広重は旧東海道の浮世絵を20種類くらい出している。右の本市場の地図には旅館が並んでいるが芝居小屋もある。川止めのときはかなりにぎわったのであろうか。

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鶴芝の石碑

かつてこの辺りに「鶴の茶屋」があった。ここから見える冬の富士山は中腹に鶴が一羽舞っているようにみえたという。

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一里塚石碑

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猿田彦大神石碑

きちんとお水と果物が供えられている。

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札の辻跡案内

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道標と常夜灯

JR身延線の柚子の木駅近くの線路を渡った先。JR東海道本線富士駅から山梨県甲府に行きつく身延線が出ている。

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水神の森と富士川渡船場の説明版

富士川は船で渡った。家康の交通政策によるものである。渡船は岩淵村と岩本村との間でおこなわれた。東側の渡船場は上船居、中船居、下船居の三か所あり、下船居のあった水神ノ森辺りを「船場」と呼んでいた。水神ノ森には安全を祈願し水神社を祀った。

用いた船には定船に定渡船、高瀬舟、助役船があった。定渡船には人を三十人、牛馬四疋を乗せ船頭が五人ついた。

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松岡水神社

境内に富士山道の道標富士川渡船場跡碑がある。

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富士川

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富士川を渡ると間宿・岩淵渡船場跡

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秋葉山常夜灯

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岩淵一里塚

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【 寄り道 】

広重殺人事件』(高橋克彦著)という推理小説を読みました。軽い気持ちで読み始めたがハマってしまった。特に甲府の「酒折の宮」が出てきて驚きました。

甲斐の善光寺に行ったとき、近くに何か観る所はないかと調べたら「酒折の宮」が歩いて行けることを知り訪ねたのです。ご祭神が日本武尊ということで興味をひいたのは連歌発祥の地ということでそうなのか程度でした。

身延線の善光寺駅から甲斐善光寺へ。そこから酒折の宮へ行き、帰りは中央線の酒折駅から。

甲斐善光寺

長野の善光寺以外にあるのを知りました。それでは行かなくてはと。

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酒折の宮」の万葉仮名で彫られた連歌の碑

日本武尊と御火焼の翁(おひたきのおきな)の歌

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連歌発祥の由来

ここ酒折の宮は古代、日本武尊が東国の蝦夷を征伐しての帰途立ち寄った伝承の地として有名。

尊が、酒折の宮に着いた時「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」(筑波から甲斐の国に来るまでいく晩寝たであろうか)と歌で問われた。その時、そばにいた御火焼の翁が受け「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」。尊はこれをたいそうお誉めになり東の国造(あずまのくにつくり)の位をさずけたということです。

この話は「古事記」や「日本書紀」に書かれていて後に連歌の発祥の地として全国に知られるようになった。

 

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酒折宮古天神の説明

江戸時代から多くの学者、文人の参詣が絶えなかったと。

本居宣長と山縣大弐の名があります。

山縣大弐という人物が全然わかりません。ところが『広重殺人事件』では重要な人物で「明和事件」と関係していました。この事件も小説で初めて知りました。というわけで俄然、酒折の宮が身近となりました。行っておいてよかったと。

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本居宣長の「酒折宮壽詞」

隣に山縣大弐の「酒折祠碑」があったのですが本居宣長の碑も難しいので写真を撮らずです。

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酒折の宮の御祭神は日本武尊で御神体に火打嚢(ひうちぶくろ)があります。あの伊勢神宮で叔母の倭姫命より賜った草薙の剣と火打嚢のそれです。

不老圓塚古墳

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酒折の宮の写真はありません。甲斐善光寺のあとなので由緒のわりには地味だなあとの感想でした。観光気分が強く。でも勤皇思想の人々にとっては重要な宮だったようです。

それと旧東海道の富士川の岩淵の渡しは甲州までの舟運がありました。家康が年貢米などの物流のため京都の豪商・角倉了以(かどくらりょうい)に命じ開削工事をさせていました。横だけではなく縦にも船は通っていました。

その後、東海道線、中央線、身延線の開通で物流も鉄道でとなり舟運は終わりました。

広重も浮世絵もどんどんつながって広がってさらに近くなっていく。