九度山と映画『娘道成寺 蛇炎の恋』『真田十勇士』(2)

映画『娘道成寺 蛇炎の恋』は、歌舞伎女形の村上富太郎に唯一女弟子として認められた詩織が師匠に恋をしてしまう。富太郎は生身の男を殺して芸の世界に没頭していて『京鹿子娘道成寺』は女を殺してしか踊れないと詩織にいいます。しかし彼女は女を殺すことはできないと舞踏家としてのは舞台発表の前に花子の衣装で自殺してしまいます。

詩織と双子である姉の遥香は期待されている洋舞のダンサーですが、妹の死に疑問が残り富太郎の『京鹿子娘道成寺』を見て『京鹿子娘道成寺』を教えて欲しいと頼み許されます。ところが妹と同じように富太郎に恋心を持ってしまいますが、富太郎の引退を決めての高野山での奉納舞の『京鹿子娘道成寺』を見、師匠亡き後、師匠の生き方がわかり自分の踊りを目指そうと決めるのです。

師匠の幼年時代から、この人は自分に流れる血に忠実に生きることを自分に戒めていてそれが崩れることがありません。その芯を福助さんは踊りの映像と共に伝えます。

『京鹿子娘道成寺』の映像部分がたっぷりで、その切り込みかたも面白く、さらに、高野山での踊りの映像は圧巻です。朱色の根本大塔の前で白の衣装で踊り、踊りで白を赤に染めたいとの思いが、赤の衣装にかわり、その赤がバックの朱色から浮き彫りになるのも、富太郎の踊りの心を表し同時に福助さんの踊りをうつしだします。

富太郎は何色に染めてもいい。自分の色で染めなさいといいます。心の中では自分の教えた清姫が教えた相手の身体に残っていることを確信していてそれだけでいいと思っています。詩織には受け入れられなかった富太郎の意志は、遥香にはわかってもらえたのです。

男女のどろどろした部分はカットしましたのであしからず。富太郎中心です。福助さんの踊りと、素の富太郎になった時の福助さんの演技を観ていると浮き出てくるものがこういうことなんです。

DVDのほうは、特別版で、安珍、清姫の<道成寺>の釣鐘は二代目でこの釣鐘も戦乱のため京都妙満寺に安置されていたのがお里帰りをして2004年に福助さんが『京鹿子道成寺』を奉納された映像つきです。これが、当日は雨で、雨の中での『京鹿子道成寺』となりましたが、それがまた美しいのです。雨がレンズと福助さんの間で透明感を増しているような感じで、踊りづらさなど感じさせない心を込められて奉納舞でした。

監督・高山由紀子/脚本・高山由紀子、たかやまなおき/企画・綜合プロデューサー・岡本みね子/出演・村上富太郎(福助)、詩織・遥香(牧瀬里穂)、富太郎の子供時代(児太郎)、富太郎の弟子秀次(須賀貴匡)、大衆演劇の女形・花丸(風間トオル)、遥香の友人(真矢みき)

真田十勇士』は、猿飛佐助が勘九郎さんです。この映画アニメから始まって途中で、「この映画はアニメではありません。数分後には本編が始まります」と字幕があらわれ笑わせられます。アニメと実写とが違和感のない登場人物たちが次々とあらわれます。勘九郎さんの猿飛佐助のしぐさが一番アニメチックで楽しいです。間合いが何とも言えない愛嬌者です。才蔵さんはマントのひるがえりが恰好いい。

ここに出てくる真田幸村は、実は腰抜けで何の戦略も知略もない人物として設定されていて、大阪城での軍議にも佐助と霧隠才蔵が色々考えだして幸村に伝えるという形をとり、出城の「真田丸」もちょっとした手違いから発案となるのです。

幸村を本物の武将にしたてあげようとの佐助の計略が進みます。冬の陣では大活躍となりますが和議により外堀は埋められ、夏の陣では裸同然の城を後にして家康の首を狙い家康の本陣を目指す赤い鎧の真田軍団。幸村は本物になれるでしょうか。

家康役の松平健さんが何もこれといった演技をしているわけでは無いのに可笑しいんです。なんと言ったらいいのでしょうか兎に角なんか笑えてしまうのです。この映画の功労者かと思えます。

根津甚八は幸村の影武者となったとの話しもありますが、この映画では豊臣秀頼の影武者になれと言われたりします。秀頼を守れとの幸村の遺言に佐助たちのとった行動は。淀君の裏切りなど引き込まれて観ていたらどんでん返しがありました。さてそれは見てのお楽しみ。

抜け忍の佐助と才蔵を狙う忍び者や才蔵を慕う幼馴染の火垂などが入り乱れての時代劇アクションでもありますので、乗せられて見ていればよい映画です。

伝説の真田十勇士は、九度山に蟄居中の幸村のために集まった勇士なのです。伝説のほうの穴山小助が映画では抜けて、幸村の息子の大介が加わっていました。若い俳優さんたちで名前が初めての方が多く間違わず入力できるか心配です。

映画の真田十勇士/猿飛佐助(中村勘九郎)、霧隠才蔵(松坂桃季)、根津甚八(永山絢斗)、筧十蔵(高橋光臣)、三好青海(駿河太郎)、海野六郎(村井良大)、三好伊三(荒井敦史)、真田大助(望月歩)、望月六郎(青木健)、由利鎌之助(加藤和樹)

真田幸村(加藤雅也)、淀君(大竹しのぶ)、火垂(大島優子)、徳川家康(松平健)

監督・堤幸彦/脚本・マキノノゾミ、鈴木哲也/衣装デザイン・黒澤和子

 

和歌山かつらぎ町<丹生都比売神社> | 悠草庵の手習 (suocean.com)

九度山と映画『娘道成寺 蛇炎の恋』『真田十勇士』(1)

高野山へは南海高野線で終点の極楽橋駅でケーブルカーに乗り換えバスなどで上を目指すのが一般的ですが、南海高野線九度山駅で降りて慈尊院を通り、<高野山町石道>歩き上を目指すという方法もあります。その他、上古沢駅からと紀伊細川駅から歩くというコースもあります。

<高野山町石道>は九度山の<慈尊院>から<根本大塔>までが基本です。赤い<根本大塔>の前で奉納の『娘道成寺』を踊るのが映画『娘道成寺 蛇炎の恋』(2004年)の主人公の福助さんです。こうきますかと思いました。

極楽橋駅からは高野山を一度訪ねています。九度山駅で降りて<慈尊院>を訪れたいとずーっと思っていました。高野山は女人禁制ですから、空海の母は後に<慈尊院>となる庵で息子の空海と逢うのです。空海は母に逢うため月に九度訪れたことから九度山の地名となったともいわれています。<慈尊院>から奥の院へいたる23キロが高野山の表参道でもあるのです。

<慈尊院>は、有吉佐和子さんの『紀ノ川』の冒頭部分に出て来て、映画『紀ノ川』(1966年)の冒頭は、夜紀ノ川を婚礼の舟がゆくとの記憶なのですが、機会を見つけ確かめます。

そしてこの九度山というのは真田幸村が蟄居していた場所でもあります。映画『真田十勇士』(2016年)では、大阪城へ入ってからの戦さが中心ですから、映画では少しだけ一応九度山に居たということで出てきました。

昌幸・幸村父子は最初高野山に蟄居し暮らした場所が<蓮華定院>で、このお寺さんは今宿坊として宿泊することができます。父子はそのあと妻子と一緒に住むことが許されますが高野山は女人禁制ですから、九度山での生活となったわけです。<高野山町石道>を降りてきたのでしょう。<高野山町石道>は、1町ごとに五輪塔形の石塔が180町石立っているのです。

九度山の暮らした屋敷跡が真田庵(善名称院)です。境内には真田宝物資料館があります。その他にも真田ゆかりの場所や真田ミュージアムがありますが、小さな町中の途中真田紐を織っている家がありました。真田紐研究会の工房でまだ新しいのだそうで織っているところを見学できます。紐ですが色取りの組み合わせ美しく日常品として、刀の下げ紐、鎧などの武具に使われ、幸村はこれを家来に全国へ売りに行かせ、生計の糧として、さらに諸国の情報を探ったといわれています。大河ドラマ『真田丸』の出演者の写真もありましたが、すいません大河ドラマ真剣に見ていません。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1501-コピー-1024x341.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1503-576x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1504-576x1024.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1502-576x1024.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1508-1024x576.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1505-1024x576.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: KIMG0771-1024x671.jpg

 

 

信州上田の真田紬から考案したもので、真田宝物資料館にあったのは地味な巾太なもので、織機も展示されています。

宝物資料館によりますと昌幸はここで11年目で亡くなり、幸村は14年くらしました。映画『真田十勇士』で、その後の即効の流れを把握しました。

九度山には、大石順教尼さんが寄宿した旧萱野(かやの)家が<大石順教尼の記念館>となっています。大石順教尼さんは、1905年(明治38年)大阪の名妓でしたが、舞踊の師でもある養父の狂刀による6人斬りの巻き添えにより両腕を切断されてしまいます。カナリヤがくちばし一つで雛を育てているさまから、口に筆をくわえることに開眼し、国学、和歌、日本画を学び、高野山で得度し、法名順教に改名します。その後6人斬りの犠牲者並びに養父の供養のため京都に<佛光院>を建立しています。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1496-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1497-1024x576.jpg

 

 

記念館にはボランティアの説明してくれるかたもおられ、ビデオや和歌、絵画、着物に描かれたものなどが展示されています。団体さんと町中で出会いましたが、歴史に興味あるかたが多く訪れるようです。

九度山町自体にも見学するところがあり、さて<高野山町石道>はどこまでいけるであろうかと地元のかたに尋ねました。踏破した友人から地図をもらっていたのですが踏破は健脚コースで、<丹生都比売神社(にうかんしょうぶじんじゃ)>まで<慈尊院>から7キロですが行けたとしてももどって来なければなりません。

お聴きしたかたが、丹生都比売神社近くの生まれで、子供の頃、九度山にお嫁に来たお姉さんのところへ、土曜日に泊りにきて日曜日に帰ったというかたで、今からでは無理と思いますとのことです。神社から高野線の「上古沢駅」に下りる道があるのですが、この道は短いですがかなり急で薦められないとのことでした。

展望台ならどうでしょうとお聴きすると、あそこは景色がいいですから是非といわれ、実行してみて正解でした。まず<慈尊院><丹生官省符(にうかんしょうぶ)神社><勝利寺>に寄りました。

<慈尊院>は、高野山の事務を統括する政所(まんでころ)で紀ノ川の水運によって必要なものが集められ山へ運ばれました。空海の母・玉依御前(たまよりごぜん)が世を去り空海は弥勒堂を建て、<慈尊院>と称され子授け、安産、子育ての女性の信仰をあつめます。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1529-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1511-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1512-1024x576.jpg

 

 

昭和の終わりに慈尊院の一匹の白い犬・ゴンが現れ、参拝者を高野山の大門まで約19キロの町石道(ちょういしみち)を案内して往復することで知られるようになり愛されます。そのゴンが2002年(平成14年)に6月5日、玉依御前の月命日に亡くなったそうです。境内の弘法大師象の隣に石像が建っています。

空海が修業の道場を探していたとき高野山上へ導いてくれたのも狩人の連れていた2頭の犬でした。

<慈尊院>の南高台に建つのが<丹生官省符神社>で、この<慈尊院>と<丹生官省符神社>を結ぶ石段の途中に180番目の町石が立っています。<丹生官省符神社>では、空海を導いた犬を神の使いとして絵馬に描かれています。社宝の獅子頭の写真もありました。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1513-576x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1514-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1515-576x1024.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1516-1024x576.jpg

 

 

その西側にあるのが<勝利寺>で、空海が高野山を創開する以前からあり、境内には高野紙を漉ける体験資料館の<紙遊苑>がありますが催し事があり入ることができませんでした。そこからの眺めがいいと書かれてあり、高野紙も見たかったので残念でした。

そこから<高野山町石道>に入りましたが地図的には1キロ先くらいが展望台だと思うのですが、思っていたより遠く登りで、途中で下って来た女性に「展望台」からの景色は良かったですかと尋ねると「良かったですよ」しばらく沈黙があり、「もうひと頑張りした先です。」「ウム」言われたことは正しかったです。さすが高野山です。「展望台」からの景色は紀ノ川が蛇行していて最高でした。

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1518-1024x576.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1519-1024x576.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1525-1024x576.jpg

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1521-1024x576.jpg

 

 

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1522-1024x576.jpg

 

 

その先の<丹生都比売神社>はバスでの計画を立て直しもう少し先のことにします。

 

2017年7月19日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

成瀬己喜男監督・川島雄三監督『夜の流れ』

成瀬己喜男監督と川島雄三監督の共同監督作品が『夜の流れ』(1960年)で、花柳界に生きる母娘の生き方を描いています。神保町シアターでの企画<「母」という名の女たち>の中の一本でした。母は山田五十鈴さんで娘が司葉子さんです。

司葉子さんは池袋の新文芸坐で特集をしていました。『紀ノ川』は原作も読んでおり映画も見ており、和歌山の九度山町から、高野山町石道の展望台まで歩いて上からの紀ノ川をみていますので、大きな画面でもう一度みたいとおもいました。しかし、司葉子さんのトークショーがついていて、当然混雑が予想されましたので、またの機会としました。映画館がいろいろな企画で見たかった映画の上映をしてくれていて嬉しい悲鳴となります。

夜の流れ』は、シナリオ完成の時点で、封切りまでの日数があまりに短かったため、製作も兼ねる成瀬監督の発案で川島監督に共同監督を依頼しました。脚本は、井手俊郎さんと松山善三さんです。

さらに成瀬監督は語っています。「古い世代の人物の出てくる場面と料亭の部分を全部僕がやり、若い世代の部分と芸者屋の場面を全部川島君がやりました。」

映画の出だしがホテルのプールでの若者たちの場面で、これは言われなくても成瀬監督ではないと判りました。衣裳などでも川島監督だなとおもわせます。

さらにそれぞれの監督が別々に撮影を続けて最後に一本のフイルムにしていて「みた時には、大変楽しかった」と成瀬監督は言われています。川島監督がどうだったのかは今、探せないので課題としますが、暗さは暗く、暗さは明るく描く監督二人の共作がこうした面白い形できちんと見せる映画になっているのが流石がです。川島監督を選んだという成瀬監督は凄いです。明るくても<夜の流れ>の淀み部分はきちんと描いていて川島監督、成瀬監督に乗せられたなと思うところもありますが、俺はこっちの方向性を選ぶよという違いを娘の描き方で主張しています。

母・綾は、パトロン(志村喬)つきの料亭の女将で、その娘・美也子は大学生で、興味本位でお座敷で踊りをみせたりします。その時芸者さんが素人さんには叶わないという嫌味をいいますが、芸者さんの踊りと娘の踊りでは、目が違っていました。お化粧の関係もあるのでしょうがこんなに違うのかと思いましたね。成瀬監督が撮ったなら、素人さんにはかなわないというのは成瀬監督流のプロの気持ちを言わせているなとおもえます。

娘は板前・五十嵐(三橋達也)に好意をもちますが、既に母と板前五十嵐には大人の関係がありました。ここは、溝口健二監督の『噂の女』(1954年)を思い出します。母が田中絹代さんで娘が久我美子さん、好意をもたれるのが医師で大谷友右衛門時代の四代目雀右衛門さんです。

母と娘にはさまり板前五十嵐は料亭をやめます。母綾は五十嵐のためにパトロン・園田との色恋も断っていました。しかし、五十嵐とのことが噂となり園田にも知られてしまい、料亭から追い出されるかたちとなります。母綾は、結果はどうであれ五十嵐のところへ行くことを決心し、娘美也子は、芸者になりこの町に残ることに決めるのです。

こちらが成瀬監督なら川島監督の芸者屋は、女将が三益愛子さんで芸者衆は、草笛光子さん、水谷良重(二代目八重子)さん、星由里子さん、横山道代さん、市原悦子さんなどの芸達者なかたがたでたくましく悲哀を笑いに変えていきます。ところが、芸者をやめて好きな人と小さな呉服屋を開いた幸せな二人(草笛光子、宝田明)に思いがけない悲劇も待っています。こういう多人数の動かしかたは川島監督流です。

母綾が料亭をやめさせられての後がまが越路吹雪さんで、料亭も新しい女将でがらっと変わるなというところを越路さんが短時間の出演でわからせてしまうのも面白いですし、かつては芸者仲間だった、山田五十鈴さんと三益愛子さんの違いもこの二人の役者さんとしての見どころでもあります。

母のパトロンでもある志村喬さんの娘が白川由美さんで娘美也子と友人関係で、美也子が薦められて断った男性と結婚し、その結婚式に出席していて自分は芸者になると晴れ晴れとした顔の司葉子さんの顔がなんともまぶしいです。

あらすじがわかったとしても、成瀬監督と川島監督の映画の撮り方、登場人物の役者さんたちの個性を楽しむだけでも忙しいですから、充分愉しめる映画です。

急ぎ働きでこういう映画が残ったことは映画ファンにとっては幸せな結果となりました。

溝口監督の『噂の女』(脚本・依田義賢、成澤昌茂)は場所が京都島原の置屋兼お茶屋であり、医師は打算的な正体を現し、母の田中絹代さんは振られて寝込み、母の商売を嫌っていた娘の久我美子さんは母に代わって置屋を継ぐ決心をします。成瀬監督と川島監督に加え、溝口監督との違いを感じとる作品として、並べて見るのも面白いかと思います。

成瀬監督だけならば『流れる』(1956年)も好いですね。(原作・幸田文/脚本・田中澄江、井手俊郎)柳橋の置屋が舞台で、母が山田五十鈴さん、娘が高峰秀子さん、そこへ住み込み女中となるのが田中絹代さん。田中絹代さんがあこがれて映画界に入るきっかけとなった栗島すみ子さんがこの映画で18年ぶりの映画復帰でもあります。その他、杉村春子さん、岡田茉莉子さん、中北千枝子さん、賀原夏子さんらずらーっと顔を出しています。

川島監督の母娘の花柳界ものは今のところ思いつきません。

 

映画『アメイジング・スパイダーマン』『大いなる陰謀』『ソーシャル・ネットワーク』

映画『ハクソー・リッジ』の主人公・デスモンド・T・ドスを演じたアンドリュー・ガーフィールドさんは、気弱そうでいながら意志を貫く強さをじわじわと納得させていくところが好演でした。

アメイジング・スパイダーマン』(2012年)では、主人公ピーター・パーカー役で、その恋人・グウェン・ステイジーが『ラ・ラ・ランド』のエマ・ストーンさんです。『スパイダーマン』より面白かったです。同じスパイダーマンを主人公にして、作り方によってこんなにも変わってしまうのかと興味深いです

ピータ―・パーカーは、子供の頃叔父さん夫婦に預けられ両親は行方不明となってしまいます。高校生となり父の残した古い鞄から父が研究していたことを知りたくなり父の勤めていたオズコープ社へ様子を見に行き、そこで研究していたクモに刺されて、身体の組織構造が変わりスパイダーマンとなるのです。

手が触れた物に接着力が出現し、スケボーに乗りながらその力を高め、自分の身体から発するクモの糸の粘着力と強靭さから空を飛び悪と闘っていくわけですが、一部の人には素顔をみせ、ピーターがスパイダーマンであることをしらせます。

スパイダーマンになる経過も面白く、クモの糸一本でビルの間を飛び回るスパイダーマンの身体が美しいのです。一瞬止まったり次の動作にいくときなどの身体の反り具合などの表現が見事です。父の同僚であったコナーズ博士との闘いとなりますが、そこに恋人グウェンとの関係がほどよく加味され引っ張っていきます。

グウェンの父親が警部で、パーカーがスパイダーマン擁護の意見をいうと「私がゴジラの街、東京の知事に見えるかね。」「君は戻って東京の人々の心配をしてろ。」との台詞が飛び出し楽しかったです。その父親が娘が巻き込まれることを心配して娘に近ずくなと言いのこして亡くなってしまいます。

その言葉がパーカーの心に残りグウェンから離れるのですが、教室の前の席のグウェンにパーカーが後ろの席から「守れない時もある」というと、グウェンの表情が静かに笑顔に変わる印象的な終わり方でした。

アメイジング・スパイダーマン2』は残念ながら、この二人の恋物語の部分の割合が強くなりそれでいながらグウェンは死んでしまい、前作の謎が解かれていきますが新鮮さに欠け中途半端な感じがありました。『アメイジング・スパイダーマン3』はどうするのかと思いましたら『アメイジング・スパイダーマン2』の人気が伸びず、中止になってしまったそうです。2を3でどう盛り返すのかなと思いましたので、そうなってしまったのかの感があります。

アンドリュー・ガーフィールドさんは、遠藤周作さん原作でマーティン・スコセッシ監督の『沈黙ーサイレンス』にも出演していますが、この映画は原作を読んでいるので重すぎて見れませんでした。篠田正浩監督も映画にしていますがこれも見ていません。外国の方が日本の小説から深く考えてくれることは素晴らしいことです。遠藤周作さんには狐狸庵先生としてユーモアな随筆作品があり、シリアスな作品とユーモア作品とを交互に読みました。

遠藤周作さんの夜中の電話の犠牲になった作家のかたもおられたようで、いたずらなところもあった方でした。

アンドリュー・ガーフィールドさんの映画デビュー作品が『大いなる陰謀』(2007年・ロバート・レッドフォード監督)で、共和党上院議員のトム・クルーズさんとジャーナリストのメリル・ストリープさんとの対峙する会話に対し、政治学の教授であるロバート・レッドフォードと生徒であるアンドリュー・ガーフィールドさんの対峙する会話の重要部分に4人の一人としてアンドリュー・ガーフィールドさんが参加しているのですから凄いデビューとなったわけです。

この2対2は直接関係するわけではありません。アフガニスタンの軍事上の新作戦を押し進める共和党上院議員が、そのことを好意的に発表して欲しいとジャーナリストに依頼し、情報操作を目論むわけです。教授は優秀なのに講義に出て来ない生徒に、止めるのも効かず志願兵となった生徒二人のことを話し、君はそれでいいのかと考えるきっかけを作ろうとします。

この志願兵は、アフガニスタンの高地作戦に参加していて簡単に制圧できるとした作戦の真っただ中で二人取り残されるかたちとなり戦死してしまいます。映画としては、この三組の状況と語る言葉から見る人がどう受け止めますかという投げかけをしている映画で、それぞれにゆだねられています。

ソーシャル・ネットワーク』(2010年)では、<Facebook>の創設者であるマック・ザッカ―バーグ(ジェシー・アイゼンバーグ)の共同経営者であるエドゥアルド・サベリン役がアンドリューさんで、ハーバード大学在学中に<Facebook>は作り出され、そこからエドゥアルド・サベリンが法的にマック・ザッカ―バーグを訴え、共同経営者として返り咲くまでの話しです。

<Facebook>に興味のあるかたはその裏話として見るのも楽しいかもしれません。莫大なお金を生み出す新しい事業の誕生ですから色々ないほうが不思議でしょう。

映画『ハクソー・リッジ』のアンドリュー・ガーフィールドさんによって、こんなところにまで運ばれてきました。

容姿から繊細な感じが出せて、それが反対に強さとなるという変化が彼の強みでもあります。その他やる気のなさ、いい加減さも出せるので、作品によってまだまだ変化するでしょう。

 

映画『ハクソー・リッジ』そして「蘇る戦没学生の音楽作品」

映画『ハクソー・リッジ』(メル・ギブソン監督)は、人を殺す武器は持てないという宗教と自分の体験のに基づく信念のもとに、軍法会議にかけられながらも除隊を拒否しやっと衛生兵として戦場へ行き、傷ついた仲間を安全な場所へ運び命を助けた兵士の実話の映画化です。それが沖縄戦でのことだということを知り急遽見てきました。

意志を貫く青年も凄いですが、やはり沖縄戦がいかに棲ざまじい戦いであったのかということがあらためてわかりました。その前の大戦で戦争に行って心を病んだ父親の姿にも戦争の爪痕は残っており、アメリカ側から見た戦争ですが、何のために人間は殺し合わなければならないのであろうかと敵も味方もなくなって見ておりました。

その後、沖縄の戦争を描いた映画、『激動の昭和史 沖縄決戦』(岡本喜八監督)も見直しましたが、再度、映画としてよく残してくれたと感嘆しました。そして、全然違うきっかけから北野武監督の『ソナチネ』を見て、これは、ヤクザの世界のことであるが、北野監督は沖縄での戦争をも視野に入れて違う形で撮った映画なのではないかと思えました。死ぬことがわかっていながら沖縄に行くことになってしまう主人公。沖縄の美しい自然の中で悪ふざけをして愉しむ姿が可笑しくもあり悲しくもあるという死の匂い。何の表情も見せずに撃ち込むピストルの弾。エンドクレジットの後に映る、時間が過ぎ去り忘れられてしまった当時の釣り道具や舟の残骸の映像。

ハクソー・リッジ』を見たなら、日本側からの沖縄の映画『沖縄決戦』でも『ひめゆりの塔』でもいいですから見て欲しいですね。沖縄に住む人々や兵士がどう闘い亡くなっていったのかを。岡本監督が一番こだわったのは場面は戦闘場面ではなく、夜間の雨も中での群衆の撤退場面だそうです。この場面がなければこの映画を撮る意味がないとまで言われたそうです。そして是非見て欲しいのが『ソナチネ』です。ヤクザ映画と同じにするなというかたもあるでしょうが、設定は違いますが人間の虚しさが共有できます。 映画『沖縄 うりずんの雨』『激動の昭和史 沖縄決戦』

深作欣二監督が、『仁義なき戦い』シリーズで1作目の最初に広島のキノコ雲を2作目から5作目の最後に必ず広島の原爆ドームを映したのは、深作監督の中に燃えたぎる上に立つものへの怒りです。

沖縄の地に立った時、沖縄戦の映画をみているかどうかで感じ方が違うでしょうし、その後で沖縄の自然を満喫していただきたいです。<ハクソー・リッジ>は浦添市の<前田高地>だそうで『沖縄決戦』では、<嘉数高地>とか<棚原高地>などはとらえられましたが、<前田高地>は気がつきませんでしたので再度時間的経過などを確かめつつ見ようと思います。

かつて学徒出陣で戦争に行きやむなく命を絶った村野弘二さんのことを書きましたが、村野さんの作品が7月30日、東京芸術大学で開催されるコンサートで聴くことができます。   白狐の「こるは」

東京藝術大学130周年記念「戦没学生のメッセージ(スペシャル・プログラム)~戦時下の東京音楽学校・東京美術学校」

童謡「夕焼け小焼」(中村羽紅作詞)を作曲した草川信さんの長男である草川宏さんも東京音楽学校に在学し戦没され、今回『ピアノソナタ』が演奏され、その他の在学した戦没者の作品も披露されます。志なかばで亡くなられた若い人々の、生きておられればやりたかったことの作品が紹介されるわけです。入場券はチケットぴあでも購入できます。

村野弘二さんは作曲家の團伊玖磨さんと同期で、團さんは生きてもどられ、團さんの書かれた随筆『陸軍軍楽隊始末記』を映画化されたのが松山善三監督・脚本による『戦場にながれる歌』で4月にラピュタ阿佐ヶ谷で見ることができました。

戦争末期で音楽経験のない人がほとんどで、猛特訓の末戦場へて旅立ちます。教官とのやりとり、珍演奏に笑いも起こりますが、次第に過酷さだけが映しだされ、映画としての引っ張る力が単調化してしまうのが残念です。森繁久彌さんが中国人で娘の結婚のために踊るため京劇の衣裳での出演で印象を際立てますが唐突な感もあります。後半、松山善三監督のヒューマニズムが多くの出演者を活かしきれなかったところが見受けられました。(児玉清、久保明、加山雄三、加東大介、藤木悠、名古屋章、青島幸男、大村崑、桂小金治、千葉信夫、佐藤充、小林桂樹、森繁久彌)

映画としては、岡本喜八監督の『血と砂』のほうがエンターテイメント性が強いのに心に沁みる度合いが濃いです。音楽性からいっても。松山善三監督のほうは、真面目に多くのものを取り入れ拡散したように思います。岡本喜八監督は、ハチャメチャに撮っているようでいながら一人一人の人物像が生きていて、伝わってくるものがあるのです。  映画 『血と砂』

若人たちが戦争で出来なかったことの遺作が整理され発表され、今の人々とつながることによって鎮魂となれば、こちらも少し救われます。

映画『ハクソー・リッジ』から、戦争での若人の命が投影され、再び光輝くきっかけとなりました。映画館は若い人、中年、老年まで巾ひろいかたが鑑賞していたのが嬉しいです。捉え方はそれぞれでいいとおもいます。色々思い起こさてくれた映画でした。

 

音楽劇『マリウス』と前進座『裏長屋騒動記』

3月日生劇場での音楽劇『マリウス』は、映画監督山田洋次さんが脚本・演出で、5月国立劇場での前進座『裏長屋騒動記』は、脚本が山田洋次監督で演出が小野文隆さんでした。

『マリウス』(「マリウス」「ファニー」より)は原作がフランスのマルセル・パニョルで、日本映画としては日本を舞台として山本嘉次郎監督の『春の戯れ』、山田洋次監督の『愛の讃歌』があります。

あらすじとしては、フランスの港町のマルセーユで恋仲のマリウス(今井翼)とファーニー(瀧本美織)が将来を約束しますが、マリウスは船乗りになる夢が捨てがたく、マリウスの気持ちを尊重してファニーは彼を後押しして海に出してしまうのです。ファーニーはマリウスの子どもを身ごもっていて、マリウスが数年してもどったときにその事実を知りますが、ファニーは、お金持ちの商人・パニス(林家正蔵)と結婚していました。

マリウスは自分の子どもであると主張しますが、その時マリウスの父・セザール(柄本明)がマリウスにいう言葉が心に沁みます。「あの赤ん坊は生まれたときは4キロだった。今、9キロもある。その5キロがなんだかお前にわかるか。情愛ってやつだ。その5きろのうち情愛を一番たくさんやってるのがパニスだ。」

ここにきて、セザールの柄本明さんが、この台詞で全部持って行かれた感じでした。それに負けじと最後は今井翼さんが、『男はつらいよ』のテーマソングから始まるフラメンコを披露してくれました。新橋演舞場での『GOEMON 石川五右衛門』のときよりもフラメンコの腕が上がっていました。

フラメンコは盛り上がりましたが、音楽劇のためか、港町の様子の人物設定などはよく作られたと思いますが、セザールが経営しているカフェでの人々の動きに物足りなさを感じさせられ、そのあたりが残念でした。

映画『春の戯れ』(1949年)は、高峰秀子さんと宇野重吉さんの共演とあって数年前に観たので記憶が薄れていますが、場所は明治の始めの品川で、初めのほうの、宇野重吉さんのマドロスには違和感があり、後半は高峰さんがしっかりした奥さんになっており、二人が再会しての高峰さんと宇野さんの台詞のやり取りにはさすが聞かせてくれますという場面でした。その程度の記憶でしたので、『マリウス』と『春の戯れ』が同じ原作と知り、あの違和感は日本の設定にしたということのように思えました。

映画『愛の讃歌』(1967年)のほうは、舞台と違いカメラが動いてくれますから、設定場所も自在に動いてくれます。場所は瀬戸内海の港町で伴淳三郎さんの食堂を手伝いながら小さい妹を育てるのが親のいない倍償千恵子さんで、恋人役が中山仁さんです。この食堂に集まるのが、個性派の千秋実さん、太宰久雄さん、渡辺篤さん、左卜全さんと医者の有島一郎さんたちです。

海からもどってきた息子は事実を知って父の伴淳さんと対立して飛び出し、その後父親は亡くなってしまいます。倍償さん親子と妹を預かっていた有島さんは、倍賞さんに居場所のわかった中山さんのところへ行くように勧め、見守っていた食堂の仲間たちは、港から倍償さんと子供を見送ります。亡き伴淳さんの親心に対し有島さんがこれでいいだろうというところが、この映画の心でもあります。

港の人々の生活感や心情などからしますと、映画『愛の讃歌』が一番若い二人を支える心情がしっくりくる作品となりました。

前進座と山田洋次監督のコラボ『裏長屋騒動記』は、落語の「らくだ」と「井戸の茶碗」を合わせての喜劇そのものとなりました。裏長屋に嫌われ者の<らくだの馬>と「井戸の茶碗」の<浪人朴斎とお文の父娘>を隣同士に住まわせるという設定がよかったですね。突然らくだが朴斎の家にフグを料理するために庖丁を借りに来たのには驚きと笑いでした。別の噺の登場人物がお隣さん同士なのです。考えてみればありえますよね。

この噺とお隣さん同士をつなぐのが、くず屋の久六です。自然に行き来できる人物で大活躍です。

それを取り巻く長屋の住人。井戸端と共同便所。これで、裏長屋で二つの噺が展開できます。落語では、らくだは嫌われものであったということですが、芝居では嫌われ者のらくだの馬が登場して、亡くなっても長屋の人々はホッとするのがよくわかります。

馬の兄貴分の緋鯉の半次がこれまた強面のごり押しの人物ですから長屋の人もさっさと帰ってしまい、そこからは半次とくず屋と大家と死人の馬とのやり取りですが、これはよく知られているのではぶきます。

朴斎は元武士ですから考えが硬いのです。くず屋は朴斎から買った仏像を高木作左衛門に売りますが、その仏像から50両でてきます。作左衛門はお金は受け取れないとし、朴斎も受け取れないとくず屋は行ったり来たりあたふたです。生真面目な売り手買い手と、とんでもないキャラの作左衛門の藩主赤井剛正が登場したりしますが、お文は作左衛門とめでたく結ばれ、長屋から木遣りのなか嫁入りとなります。

笑い満載の『裏長屋騒動記』でした。お芝居の基本がしっかりしていて、それを膨らます役者さんの芸もそろい、気持ちのよい笑いを楽しむことができました。前進座の大喜劇作品が一つ加わりました。

くず屋久六(嵐芳三郎)、緋鯉の半次(藤川矢之助)、らくだの馬(清雁寺繁盛)、朴斎(武井茂)、お文(今井鞠子)、高木作左衛門(忠村臣弥)、赤井綱正(河原崎國太郎)

先代の國太郎さんが出演している『男はつらいよ』12作「私の寅さん」は、旅に明け暮れる寅さんが、おいちゃん夫婦と博・さくら一家が九州に旅行に行ったため留守番をするという逆パターンの作品で、寅さんは自分が心配しているのに電話をしてこないと怒ります。そこから自分がいつも心配されていることには一向に気がつかないという寅さんらしさが可笑しいのです。

マドンナの岸恵子さんが売れない絵描きで、その恩師が國太郎さんで、出は少ないですが、岸さんが想いを寄せていた人が他の人と結婚することをさりげなく告げるという重要な役どころです。岸さんのコートの裏があざやかな緋色なのも印象的な作品です。

前進座が創立80周年記念作品として上演された『秋葉権現廻船噺』は観ていないのですが、日本駄右衛門が主人公で七世市川團十郎も演じています。7月歌舞伎座は海老蔵さんが通し狂言『駄衛門花御所異聞』で演じられます。楽しみですが、海老蔵さん飛ばし過ぎのときがありますから、しっかりとした作品に仕上げられることを期待しております。

 

『平家物語』と映画『天国と地獄』の腰越(3)

満福寺>から海に向かって歩いていきますと小動の信号がありましてそこを渡って見渡しますと、七里ケ浜、稲村ケ崎、由比ケ浜、材木座海岸などがカーブして目にはいります。この信号から海に突き出ているのが小動岬で、その一番高い所に<小動神社>があり、展望台があります。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1559-1-1024x576.jpg

 

小動神社>の説明板によりますと、<小動(こゆるぎ)>の地名は、風もないのにゆれる美しい松「小動の松」がこの岬にあったということに由来し、弘法大師がこの松の命名したともあります。文治年中(1185年)源頼朝に仕えた佐々木盛綱の創建と伝えられて八王子宮を勧進したが明治に入って<小動神社>と改名しています。新田義貞が鎌倉攻めの時には、ここで戦勝祈願したともあります。

7月第一日曜日から第二日曜日にかけておこなわれる天王祭は、江の島の八坂神社と共同で、この時は、御神輿やお囃子と江ノ電が路面で仲良くすれ違うようです。

展望台のところには、「幕末相模湾の忘備を固めた腰越八王子山遠見番所」とあり、おもに異国船渡来の通報拠点としての役割を担っていました。歴史的重要人物の名が飛び交う<腰越>でした。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1563.jpg

 

国道134号線を挟んで<小動神社>の向かいにある<浄泉寺>は、空海開山といわれ、寺子屋が開かれていて、明治に入ってから一時は腰越小学校としての役目も果たしていました。134号線を江の島方面に向かいますと<腰越漁港>がありました。整備されていて、静かな小さな漁港です。

手前の漁業組合の販売所に、「朝とれフライあり」というのが目につきまして入ってみました。そこで食べる人、お持ち帰りの人ありで、アジとサバのフライが一枚から受け付けていて、名前と枚数を書いて「食べていきます」とアジ一枚を注文しました。新鮮な出来立てのアジフライ、中の身は柔らかく外はカリカリで美味しかったです。映画の撮影場所で美味しいものまで食べれて満足でした。

そこから海岸沿いを歩いて鵠沼(くげぬま)海岸まで行きたかったのですが、暑いので江の島の弁天橋を渡り、小田急江ノ島線の片瀬江の島駅から電車に乗りました。小田急江ノ島線は初乗りです。JR、江ノ電に比べると小田急の走る音が一番静かなような気がしました。江ノ電は細かくカーブするので音がでるようで、それがまた魅力なのでしょう。

そんな江ノ電も映画『天国と地獄』公開のころは、江ノ電廃止の検討もされていました。マイカーブームに押されてしまったのです。東京オリンピックの時は江の島が競技会場となり、選手輸送の貸し切りバスでバス部門は追い風でした。しかし残すことを選び、交通渋滞やオイルショックから乗客がもどり今に至っているわけです。

まだ乗っていない<大船>からの湘南モノレールというのが江の島まで走っていますので、こちらも次の機会には乗ってみたいですね。

一応<鵠沼海岸駅>で降りて海岸方向に向かったのですが、行って戻ってくるのもしんどい気分でこれまた次に伸ばしました。<鵠沼海岸>は、小津安二郎監督の映画にでてくるのです。

映画『天国と地獄』の題名ですが、犯人の竹内銀次郎が横浜の自分の住んでいるところは地獄で、権藤金吾が住んでいる高台の冷暖房完備の大きな家を天国だと言ったのです。その天国から権藤は引きずり降ろされたわけです。

しかし、権藤は誘拐されたのが自分の子供ではなかったのに身代金を払い、子供の命を守った行為に対しては世間から称賛を得ました。そして彼には、見習工からたたき上げた靴職人の技があり、良い靴を作りたいという信念がありました。ほぼ戻って来た身代金で権藤は自分の小さな靴製造会社を始めていました。竹内は医者という立派な人命を助ける技を磨く機会がありながら彼はそれを間違った使いかたで天国を目指し、さらなる地獄へと落ちていくことになってしまいました。

結果的には、権藤は竹内によって天国でもない地獄でもない本来の進むべき道へと修正してもらったことになるのかもしれません。

その天国と地獄の実態を知っているのが、戸倉警部たちです。かれらは足を使って地図上の天国と地獄を立体化して見せてくれたのです。

<腰越>という旅の場所が風光明媚なだけではなく、海と山に挟まった地域の生活があり、そして歴史と共存しているところで、日帰りで滞在時間も短かったのですが厚みのある旅になりました。

何かまだあったようなと帰ってから気になり調べましたら、腰越駅の次の鎌倉高校前駅は、ホームから前面が海、海、海の湘南の海で、映画『男はつらいよ』の第47作<拝啓 車寅次郎様>で寅さんが甥の満男に失恋の哲学を語るシーンがこの駅のホームだったのです。江ノ電さん、親しみやすくて、なかなか深いです。

 

『平家物語』と映画『天国と地獄』の腰越(2)

映画『天国と地獄』では、無事もどった進一少年の思い出して描いた絵から、監禁されていた場所が藤沢から鎌倉の間と限定し、犯人の電話の中に電車の走る音を発見します。走る電車は国鉄、小田急線、江の島電鉄です。鉄道関係者により録音された電車の走行音が江ノ電であることがわかります。

誘拐した時に使った車が発見され、その車に魚を洗ったような水たまりを走ったようなものが付着しているというのです。漁港があるのは<腰越>だけということになり捜査の手は<腰越>まで進みます。

漁港から江の島が見えます。しかし、進一少年の絵には島ではなく陸続きになっています。漁港の人が、後ろの小動岬(こゆるぎみさき)と江の島が、もう少し後方の高い所から見ると重なって陸とつながってみえるというのです。

刑事たちが車で進んで行くと、権藤家の車が見つかります。運転手は息子を乗せて息子の記憶から監禁場所を探していたのです。危険なことはするなと刑事は注意しますが、進一少年は監禁された場所を探しあてます。しかし共犯者は殺されていました。そこから見ると、江の島と小動岬が重なり江の島は陸続きになっていました。

姿を出さなかった犯人である竹内銀次郎の山﨑努さんも登場し、逮捕し身代金を取り戻すべき捜査陣の包囲網が次第にせばまってきます。

さて江ノ電は藤沢、石上、柳小路、鵠沼、湘南海岸公園、江の島、腰越となり、<江の島>と<腰越>間は道路中央を走る路面電車となるところでもあります。腰越駅はホームが短く一両目はドアが開かないとの放送があり、途中の駅でホームを降りて二両目に乗り替えました。混んでいて車内の移動は無理です。土曜日に行ったのが間違いでした。外の景色も乗客で見えません。

江ノ電には何回か乗っていますが、今回は特に外の景色に注目でしたが、またの機会にします。

無事、腰越駅に降りられました。<生シラスあります>の表示に、やはり生シラス丼でしょうと食事をしてから、<満福寺>へ。このお寺のすぐそばを江ノ電が走っていまして、お寺に上がる石段から江ノ電の通る姿を見ることができます。今までの旅の中でお寺と走る電車の近いのはここが一番と思います。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1551-1024x576.jpg

 

東海道本線の興津にある清見寺は、敷地内を線路が通っていて階段の途中に踏切があるというお寺でしたが、線路から本堂までは距離がありました。

平家物語』で義経は壇の浦で捕えた平宗盛父子を連れて鎌倉にやってくるのですが、頼朝は会ってくれず<腰越>にとどめられる鎌倉には入れてもらえません。そこで、義経は自分の胸の内を書状にしたため大江広元へ送ります。これが「腰越状」といわれるものです。

しかし、兄頼朝の勘気は解けず逢う事叶わず、平宗盛父子を連れて再び京を目指すのです。

満福寺>の案内によりますと、このお寺は、天平16年(744年)に聖武天皇の勅命で行基が建立したと伝えられ、義経がここを宿とし、「腰越状」は義経の心を汲んで弁慶が下書きされたとしています。この「腰越状」は、『吾妻鑑』『義経記』『平家物語』など文字に表される前から語られていたようです。

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1554-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1556-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1557-1024x576.jpg

 

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: DSC_1558-1024x576.jpg

 

判官びいきは、この「腰越状」の文も大きな役割を担っているのかも知れません。

お寺には弁慶ゆかりのものもあり、鎌倉彫の襖絵もあります。江ノ電の紹介記事がおいてあり、それによりますと<腰越駅>は4両編成の電車だと鎌倉方面の一両がホームからはみ出してしまい、こういう駅を電車愛好家は「はみ電」の駅と呼ぶそうです。駅名板が鎌倉彫だそうですが見落としました。

そしてなんと、太宰治さんが1930年(昭和5年)に心中を図り、彼だけ命を取り留めた場所が小動岬と書いてあり驚いてしまいました。漠然と鎌倉の海岸でと思っていて詳しく探索もしませんでしたが、ここだったのです。思いがけないことをしりました。

満福寺>には「義経庵」という茶房があってしらす料理が食べられるようです。残念食べたあとでした。お寺脇のトンネルを抜け、そこからお墓のある高台へあがっていくと、テラスのようになったところがあり、そこから見ると、江の島とすぐ近くの小動岬が重なるのがわかります。しかし、江の島は島に見えますから、もっと鎌倉寄りの高台だと進一少年の観た風景になるのでしょう。

映画『天国と地獄』の脚本は黒澤明さん、菊島隆三さん、久板栄二郎さん、小国英雄さんの四人の名前があり、凄いことを組み合わされて書かれたものだとおもいます。

こちらは『平家物語』から太宰治さんまでも繋がってしまいました。さてつぎは、小動岬です。岬といっても樹木に覆われた小さな岬です。

 

『平家物語』と映画『天国と地獄』の腰越(3) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

『平家物語』と映画『天国と地獄』の腰越(1)

腰越>は、『平家物語』にも出てきまして、歌舞伎にも『義経腰越状』という作品があり気になっている場所ではあったのですが、<腰越>一箇所ではと思い組み合わせ場所を探さなければと考えていたのです。ただ歌舞伎の場合、現在上演されている部分は<腰越状>とはあまり関係ないのです。

ところが、黒澤明監督の映画『天国と地獄』を見直していましたら、<腰越>が出てきました。それではと、観光も兼ねて江ノ電腰越駅へと出かけることにしました。

映画『天国と地獄』は、誘拐犯と警察の攻防で、誘拐された子供が会社重役の子供ではなくそこの家のお抱え運転手の子供で、身代金を要求された重役は、苦悩のすえ身代金を払うのです。重役は、靴職人の見習工からのし上がった靴製造メーカーの常務である権藤金吾で、お金をかき集め自分が会社のトップになれるという時に身代金3000万円を要求されるのです。

犯人の要求通り、身代金の入っている鞄を特急の「第二こだま」から酒匂川(さかわがわ)の土手へ投げ落とし無事、子供は取り返すことができました。この場面までが、権藤の人生が大きく変わる起点でもあり、ここからが警察の捜査陣と犯人との闘いとなるのです。

身代金を投げ落とす場所が酒匂川に架かる鉄橋からで、この場面に関して新聞の映画記事になったこともあり興味深い場所でもありました。旧東海道を歩いた時に国道1号線の酒匂橋を渡り歩きました。鉄橋の位置からする東海道は駿河湾に近い位置にあり、権藤が警察の車で誘拐された進一のもとに訪れる時後方に映っているのが酒匂橋です。今は酒匂橋と東海道本線との間に小田原大橋ができています。そして、東海道本線の横には東海道新幹線が走っているのです。

映画『天国と地獄』は、1963年公開で、初の電車特急「こだま」が運行したのが1958年、東海道新幹線が開業したのが1964年ですから、特急こだまの前面部分と内部を見れる貴重な映画ともいえます。

黒澤監督の助手であった野上照代さんの話しによると、本物の「こだま」を編成ごと借り切っての撮影で、犯人からの電話が「こだま」の電話室にかかります。電車は国府津駅を通過したところで、次の鴨宮駅が左にカーブした土手に進一がいるから顔を確かめて鉄橋を渡ったらお金の入った鞄を洗面所の窓から投げろとの指示なのです。

同乗して車内を警戒していた警察もその時点で初めて知るわけで、それぞれが、映写のため車内を走り位置につきます。犯人があと2、3分で鉄橋にさしかかると言っていまして、その間に行動するわけです。映画ですから、台詞をいいつつきちんと演じなければなりません。車内場面だけでも、3カ月リハーサルをしたそうです。

進一の顔を確かめて鞄を投げる権藤の姿は、戸倉警部が権藤という人物を全面的に信頼する場面でもあるとおもいます。そして犯人に憎悪を燃やします。権藤はお金がなくなり、これで、会社から追い出される人間になったのです。権藤金吾が三船敏郎さんで戸倉警部が仲代達矢さんです。三船さんの鞄を投げたあとの緊張感のゆるみが、演じ切ったというところでしょうが、そのまま権藤が進一の姿を確認でき犯人の言う通りに出来たという安堵感と重なって観ているほうの臨場感もたかまります。

警察役が映写していると同時にその姿を映画スタッフも撮影しているわけですから、その時の動く外の風景そのままなのです。橋を渡る時間は1分位です。

先ず東海道線の在来線で酒匂川の確認です。鴨宮駅から小田原駅まで車中のドアから見ましたが、ガラス部分の丁度顔あたりに広告が貼ってあり、変な格好で酒匂川をみることとなり、小田原から鴨宮にもどるときは、対向電車とすれ違いよくわからず、再度、鴨宮から小田原へ向かいもどり二往復しましたが、風景が変わっていてよくわかりませんでした。ただ、在来線の電車でも短い時間ですから、「こだま」の速さにすると、本当に緊張するとおもいます。今の在来線で鴨宮から小田原まで3分です。前の1分が川を渡る時間と考えていいでしょう。

土手に進一と共犯者が立っている場面は、実際にはその前に二階建ての家があり二人の姿が「こだま」から見えないため二階部分を壊してもらい、その日の内に大工さんを連れて行き元にもどしたそうです。映画で、屋根の部分の木材が格子のように見える家がありますが、それのような気がします。

権藤と警察は横浜から「こだま2号」に乗ったでしょうが、横浜15時41分に出発して小田原を通過して熱海到着が16時37分です。熱海まで警察は動けません。「はと」ですと横浜を13時22分に出て、小田原に14時01分に着き、熱海に停まらず沼津までいきます。小田原で停まられては逃走する時間ががないので都合が悪いのです。なぜ「こだま」に乗るように指示したかがわかります。20分位は時間稼ぎができます。

いかに頭の働く犯人かということがわかります。ここから警察と犯人の攻防戦となるわけです。

さてこちらの旅は、藤沢駅にて江ノ電に乗り換え腰越駅へと向かったのです。

 

『平家物語』と映画『天国と地獄』の腰越(2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

映画『海辺のリア』からシェイクスピアへ

四苦八苦しております。

やはりシェイクスピアですか。苦手なんですよ。あの台詞。道化なども出て来て、その台詞がもっとわからない。もう少しストレートにはっきり言ってくださいよといいたいところです。いつかはサラッとでもなぞってみなくてはと、DVDは少しづつ集めていたのですが、今がやりどきなのかと多少覚悟した次第です。

フレッド・アスティアからオードリー・ヘプバーンとつながって映画『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』のレンタルで『ローマの休日』へと好い繋がりとなり順調だったのですが、シェイクスピアという岩盤が顔を出しました。

映画『海辺のリア』は、小林政広監督が仲代達矢さんをとにかくスクリーンの真ん中にドーンと撮りたいという映画です。そこにシェイクスピアの作品の台詞もいれて、<リア>とありますから『リア王』なわけでしょう。人物設定も状況も『リア王』を意識していて、その中心が認知症のかつての大スターというわけです。

『リア王』を御存知なら、それとの比較をして楽しむのもいいでしょう。知らなければ知らないで疑問に思ったり、はぐらかされたり、現実の認知症老人と家族の話としてはリアルさに欠けると思ったりしても良いでしょう。

とにかく舞台のような台詞劇映画とも言えます。主人公の桑畑兆吉は、かつては大スターだったらしく、そのために周囲は彼に振り回され、引退後は周囲が彼を振り回し、さらに彼も認知症ということで周囲を振り回し、さらにさらに観客のこちらも振り回されます。登場人物の主人公との関係を映画の進行に従って観る方は組み立てていかなくてはなりません。そうしつつ役者さんたちの演技力にもチェックをいれなければなりません。

振り回せなければこの映画の味もないことになりますから大いに振り回されましたが、認知症の桑畑兆吉は、認知症の世界の中で決めるんです。壁の中にいるのはいやだ。認知症の役者・桑畑兆吉を自分の納得した場所で、彼の中の観客に向かって演じることを。

バレーダンサーで振付師のニジンスキーが、精神障害となり病院生活を余儀なくされます。そこでの最後のインタビューで、一切言葉での反応がなかったのですが、最後に素晴らしいジャンプをして見せるという映像をみたことがあり、それを思い出してしまいました。桑畑兆吉の見事な台詞のジャンプでした。

観てからが大変です。オーソン・ウルズの映画『リア王』(監督・アンドリュ―・マカラ)をみて、雑誌『月刊 シナリオ』(7月号)に『海辺のリア』の脚本が載っているのでそれを読みました。映画はこのシナリオから変更になっている部分もあります。『ヴェニスの商人』の台詞も出てきたのを知って、アル・パチーノの『ヴェニスの商人』(監督・マイケル・ラドフォード)を観ましたら、シャイロックの亡き妻の名前がリアとあり偶然の一致なのか暗示なのかとちょっと気に係りましたがそこまでとします。

アル・パチーノさんもシェイクスピアはお好きなようで初監督作品に『リチャードを探して』というがあります。この映画は、『リチャード3世』を演じる俳優たちとの討論する場面もいれるというドキュメンタリー要素もあり面白い設定でした。

黒澤明監督の『乱』も見直しました。『リア王』の三人の娘を三人の息子に置き換えた日本版といえる有名な作品ですが、自然の雄大さ、戦闘場面、人物描写など観た回数だけ発見があります。『海辺のリア』の原田美枝子さんの長女、次女の黒木華さんが私はコーディリアではないと言い切り、長女の夫の阿部寛さん、そしてこの人はどんな関係なのかとそれこそ「あなたどなたさま」と思わされた小林薫さん。映画を観ていた時よりも人物像がはっきりしてきました。

圧倒的に仲代達矢さんが主人公の映画ですが、後になって台詞の少ない人物も気にかかって場面場面を思い出してしまいます。そして、84歳の仲代達矢さんに、観客が刀を使わない<果し合い>を挑んでいるようで嬉しいです。

小林政広監督と仲代達矢さんの映画はこれで三本になりました。『春との旅』『日本の悲劇』『海辺のリア』。『春との旅』は、孫の春に最後には生き方を教えるという好作品でした。『日本の悲劇』も今回見ましたが、こちらのほうは、日本の大きな社会性を一点に集中させました。リストラ、離婚、母の介護、東日本大震災、父の最後の選択。不幸なことが重なることは誰にでも起こりえることなのです。部屋に閉じこもった父の仲代さんのアップの表情の一つ一つが息子への気遣いであることがよくわかります。特に電話の音に耳をそばだてるのが、観る側の気持ちと一致します。

小林政広監督の『愛の予感』は、監督自身が出演していて台詞が全くない映像が続きますがじーっと見続けてしまうという映画です。

さてこんな映画鑑賞状況から、シェイクスピアさんの映画を今回は忍耐をもって一本一本見て行こうと思ったのも、桑畑兆吉さんの念力でしょうか。

追記 : 今夜(11日)7時からBSフジで「役者 仲代達矢 走り続ける84歳」があります。

日本映画があらゆる輝きを放っていた時代の中を歩かれてこられた役者さんですから、お話しが面白かったです。『果し合い』で佐之助が次第に忘れていた剣術を身体に思い出させていく場面など、現場での仲代さんの緊張感も見どころでした。

シェイクスピア映画の『ロミオとジュリエット』(1936年ジョージ・キューカー監督)に、ロミオ(レスリー・ハワード)の友人・マキューシオ役がジョン・バリモアさんでした。おしゃべりで陽気で、こんな役も演じていたのかと仲代さんの『バリモア』のしぐさを思い出していました。そして、桑畑兆吉さんはスター時代、喜劇も演じていたような気がします。

無名塾『バリモア』(再演)