市川雷蔵・小説『金閣寺』・映画『炎上』(2)

文芸評論家・中村光夫さんが「ときどきの世間の注目を曳いた事件から取材するのは、この作者にめずらしいことではなく」とし『親切な機械』『青の時代』『宴(うたげ)のあと』をあげています。さらに「評判の事件を小説か戯曲の仕組む伝統は、我国においてはジャーナリズムの発生とともに古く、近松や西鶴に多くの名作がかぞえられます。」としています。

さて今回は、描かれいる場所のほうに視点をかえます。

主人公が住んでいた日本海側から金閣に住むようになってからで舞鶴周辺と京都ということになります。時には三島由紀夫さんは実際に取材して歩いたであろうと思われる詳しい表現の場所もあります。そういう場面になると読み手も気を抜かせてもらい一息つくのです。

ただその場所の歴史的解説もあり、その場所を選んだ三島さんの計算もあるのだろうとおもうのですが、そこまではついていけませんのでただわかる程度に楽しませてもらいました。

溝口の生まれたのが、舞鶴市の成生岬です。そこから中学校がないため叔父の志楽村の家から中学校に通います。そこで有為子に出会います。有為子は舞鶴海軍病院の看護婦で、海軍の脱走兵と恋に落ち安岡の金剛院に隠します。憲兵に詰問され、隠れ場所を教え、金剛院にて脱走兵の銃弾に倒れます。

水色丸が成生岬で黄色丸が金剛院の位置です。

溝口は京都の金閣寺の徒弟となります。

心を許す同じ徒弟の鶴川と南禅寺にいきます。三門の勾欄(こうらん)から天授庵(てんじゅあん)が眼下に見え広い座敷が見えます。そこで戦地に向かう陸軍士官と長振袖の美しい女性との別れを目撃します。

 

溝口は大谷大学へ進学させてもらいます。

大学で出会った柏木が女性二人を連れて来て嵐山へ遊びに行きます。今まで知らずに見過ごした小督局(こごうのつぼね)の墓にも詣でます。

渡月橋そばの水色丸が小督塚です。今の小督塚は女優の浪花千栄子さんがあまりにも荒れていたので化野から石塔を運び設置したのだそうです。この近くに浪花さんが経営していた旅館があったようです。今はありません。美空ひばり館もすでにありません。

四人はもう一つの水色の丸で印した亀山公園に行きます。この公園の門からふりかえると保津川と嵐山が見え対岸には小滝が見えるとあります。

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溝口が金閣から逃れて旅に出る時寄ったのが船岡公園にある建勲神社(たけいさおじんじゃ)です。ここでおみくじを引くと「旅行ー凶。殊に西北がわるし」とあり、西北に向かいます。

京都駅から敦賀行に乗り、西舞鶴駅で降ります。そこから宮津線と直角に交わってから由良川にでて、その西岸を北上して河口にむかいます。そして海に向かいここで「金閣を焼かなければならない」という想念に達するのです。

途中、溝口は和江という部落で由緒の怪しい山椒太夫の邸跡のあるのを思い出します。立ち寄る気がないので通り過ぎてしまいます。

山椒大夫で、出ました!とおもいました。溝口健二監督の映画『西鶴一代女』『雨月物語』と観て『近松物語』を観ました。『近松物語』はその特報と予告で、三つの作品が三年連続ベニス映画祭で賞をとり、その勢いで期待される新作と凄い力の入れようです。受賞した三作品とは『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』で、『山椒大夫』ももう一度観なくてはと思っていたところだったのです。

近松物語』は長谷川一夫さんに色気と貫禄があり過ぎて長谷川一夫さんは溝口作品向きではないとおもいました。

桃色丸が西舞鶴駅で、白丸が山椒太夫の邸跡です。

こんな感じで少し地図上の旅を楽しみました。舞鶴方面と京都の小督塚と亀山公園には行っていません。

現在の雪の金閣寺です。

金閣寺垣。

銀閣寺も。

追記: 水上勉原作の映画『五番町夕霧楼』(1963年・田坂具隆監督)を鑑賞。金閣寺炎上と関連していたのを知りました。水上勉さんならではの視点でした。

 

井原西鶴作品と映画『好色一代男』(4)

映画『好色一代男』(1961年・増村保造監督)の世之介(市川雷蔵)は女性を弱い者で可哀想であるという気持ちが根底にあります。父親(二代目中村鴈治郎)がしまつ屋で商人は贅沢をすることなくお金をコツコツと貯めることが一番と考えているのです。そのため母親はただ辛抱して世之介にいわせると陰干しした沢庵にされてしまい何んという事か。気の毒に。自分は女性に喜びを与え幸せにしてやるのだと、観音様、弁天様と崇めつつ放蕩三昧です。

父親はこれでは困ると丁稚から始めろと江戸の支店に使用人をつけて旅立たせます。江戸に行けると喜ぶ世之介。途中でお金を管理している使用人を薬で眠らせお金を手にします。そのお金で吉原へ。そこで高尾太夫と恋仲の男に会い、世之介は一肌脱いで高尾を身請けし添わせてやります。自分の色事のためだけにお金を使うわけではないのです。

身請けのお金は支店から出させたので、それを知った父親は江戸まで出て来て勘当を言い渡します。世之介は放浪の旅となります。

途中で世之介は強欲な網元のお妾になっているおまち(中村玉緒)を連れ出し逃げます。おまちは捕まってしまい首をつって死んでしまいます。墓を掘り起こす男たちがいて死んだ女性の髪を女郎衆に売るのだといいます。真のあかしが偽物だったことを世之介は知ります。

その墓の死人は偶然にもおまちでした。嘆く世之介。自分は後を追いたいがあの世で会えるとは限らないので止めるといいます。その時死んだおまちが笑うのです。

西鶴の作品はかなり現実を写実的に表現し紹介していると思っていたのでこういう場面は原作にないであろうと思ったのですがあったのでちょっと驚きました。なんでもありでその後に他の人が書く際のアイデアとして引きつながれていると思います。

世之介は父親が病に倒れているのを知り実家に帰ります。

死に際の父親は勘当を解きます。そして三つのことを守るようにと遺言を残します。一、お金の番人になれ。二、葬式はしなくていい。三、お侍には逆らうな。

母親も夫が亡くなりショックでその場で死んでしまいます。もちろん世之介は父親の遺言には従いません。色里でお金をまき散らし、侍が金を貸せと言いますが蔵にはお金がありませんので貸せませんといいます。お店はお取りつぶし。

世之介は夕霧太夫(若尾文子)と新しい国へ行こうと逃げ出します。ところが隠れていた夕霧は役人の探り槍に刺され世之介の目の前で亡くなってしまいます。女を悲しませるこんな日本にいるかと好色丸で仲間と女護島を目指すのでした。

映画の世之介は自分なりの考えで行動し、世のなかの仕組みを俯瞰的にながめているところがあります。

世之介の父は、映画『大阪物語』(1957年)の父親の生き方と通じています。『大阪物語』は西鶴の『日本永代蔵』『当世胸算用』などから溝口健二が原作を依田義賢が脚色し、溝口健二監督が亡くなったため吉村公三郎監督作品となりました。

その父の生き方にも逆らい、商人を利用して権威を振るう侍に従うのもいやで、ひたすら女性賛美の世之介がいるのです。

改めて市川雷蔵さんは役どころの広い役者さんであったことに気づかされます。『大阪物語』では、夜逃げから商人として成功した近江屋の番頭・忠三郎です。主人の仁兵衛(二代目・中村鴈治郎)のしまつ屋の小言と命令にひたすら仕えています。女房のお筆(浪花千栄子)は娘・おなつ(香川京子)の幸せのみを願って死んでいきます。恋仲のお夏と忠三郎はついに仁兵衛からの自立をめざし店を出ていきます。仁兵衛はお金に対する執着心から気がふれてお金の番人としてお金とともに閉じこもってしまうのでした。

一代で成功した商人のしまつ屋は肯定的な例として『日本永代蔵』にも書かれていますが映画『好色一代男』と『大阪物語』はその両極端のお金の使い方となっています。その両方の映画で明と暗の役どころで主演を果たされているのが市川雷蔵さんなのです。その比較を観れるのも面白いです。

井原西鶴作品と映画『西鶴一代女』(2)

映画『西鶴一代女』では、田中絹代さんが、お化粧もはげ落ちた老醜をさらす夜鷹の演技で評判になったようです。井原西鶴の『好色一代女』では最初の恋から65歳までということになっています。

映画では最初の恋が悲惨なことになり主人公お春ではどうすることもできないその後の人生が続くのです。夜鷹にまでなってしまったお春はお寺の羅漢堂に入っていきます。その中に一人の男に似ている仏像を見つけます。そこからお春のこれまでに至る人生が描かれていきます。

御所勤めをしていたお春は公家の家来の若侍に恋焦がれら拒んでいたお春(田中絹代)も心を許します。その場を町役人にとがめられ身分違いの密通とされてしまうのです。お春と両親は所払いとなり、相手の勝之助(三船敏郎)は斬首という刑罰です。勝之助の最後の言葉が、好きな人と幸せになってくださいでした。恋愛というものが社会の仕組みからはじかれていた時代です。ところが女性の肉体が売り買いされ、子供を産むという道具にされていた時代でもあります。

お春はある殿様の世継ぎのために側室となります。世継ぎも産み安泰化と思いきや、殿様がお春を寵愛し体調を崩され里へ返されるのです。世継ぎの母にふさわしいお手当もありません。

父はその間に商売を考え借金をしていました。そのためお春は遊郭の太夫となります。お大尽がお春を身請けしたいといいますが、持っていたお金は贋金。御用となってしまいます。

お春は次に商家の笹屋に奉公にでますがそこの女房に嫉妬されまたまた里帰りです。

実家に出入りしていた真面目で働き者の扇屋の弥吉(宇野重吉)にこわれ嫁ぎます。今度こそ幸せになれるはずでした。ところが弥吉は物取りに殺されてしまいます。これでもかという追い打ちでお春ではどうすることもできない流れなのです。

お寺に入りますが誤解が生じお寺から去ることになります。そこへ笹屋の使用人が店のお金を持ち出し一緒に逃げてくれと言われ、行くところのないお春は共に逃げますがつかまってしまいます。

お春は三味線を弾いての物乞いとなっていました。夜鷹の女性たちが弱ったお春をみかねて自分たちの住処に連れていってくれ、どうせなら働いてみたらといわれ、夜鷹にでます。そして羅漢堂で、勝之助に似た仏像に出会うのです。そこでお春は倒れてしまいます。

母がお春を探していて訪ね当て告げます。お春の生んだ若様が父の死によって当主となり、その生みの母親をないがしろにしておくわけにいかなくなり迎えがくるというのです。子供のそばで暮らせるというこの上ない喜び。ところがお春の今の姿から若殿に一目会わせるがそのあとは別の場所で謹慎させるというのです。どちらが理不尽で勝手なのか。お春は自分の前を進む息子の姿をみつめます。抑えきれずに追いかけますがさえぎられます。そしてお春は逃げます。

お春は一人巡礼の旅に出ていました。彼女の意思に関係なく彼女の人生は翻弄されてしまいました。

西鶴一代女』とされていますが、西鶴の『好色一代女』のほうが自分の気に食わないことには肘鉄をくらわしています。そのことがさらに生き方を難しくさせるのですがそこらへんが違います。

田中絹代さんは、日本での女性映画監督の二番目ということで、最初の女性映画監督は坂根田鶴子さんです。この方も溝口健二監督のもとで仕事をされていた方です。田中絹代監督の『月は上りぬ』(1955年)をみたのですが、小津安二郎監督の映画なのと思わせられて驚いたのですが、小津安二郎監督が後押ししていたのです。『乳房よ永遠なれ』(1955年・脚本・田中澄江))は、乳がんを患い、生活との闘いの中で短歌を作り、女性の性に対してもぶつかっていき亡くなられた中城ふみ子さんの生き方を映画化したものです。田中絹代さんは女優として仕事をしていて、女性を描く映画を自分の手で作りたいとおもわれていたのです。田中絹代さんもやはり時代の中で闘われていた方なのです。

DVD『西鶴一代女』のパッケージの写真です。髪型と衣装なども興味深いです。

追記: 西鶴さんは『好色五人女』『好色一代女』(1686年)を出版し、『好色五人女』の三巻目「おさん茂兵衛」を浄瑠璃『大経師昔暦』(1715年)にしたのが近松門左衛門さんです。そして四世鶴屋南北さんは『桜姫東文章』(1871年)で因果応報、輪廻転生の世界を加えて桜姫をつくりあげました。桜姫は愛欲をきっちり清算して再生するのです。そのためには時間が必要で新たな物語の誕生でもありました。そして近代的解釈が加わっていきます。

追記2: 歌舞伎座4月歌舞伎『桜姫東文章 上の巻』と大阪国立文楽劇場の第三部『傾城阿波の鳴門』『小鍛冶』の有料動画配信を観ました。観れなかった作品が観れるのと、何回か見直せるのはいいのですが、パソコンの映像の鑑賞はなじむのに時間がかかりそうです。見方をかえてまた鑑賞します。

追記3: 少し長くなりますが、山内静夫さんの著書『松竹大船撮影所覚え書 小津安二郎監督との日々』で映画『月は上りぬ』について書かれてありましたので記しておきます。

 昭和29年、日活が映画製作を再開。五社(松竹、東宝、大映、東映、新東宝)は、非協力、日活ボイコットの姿勢を打ち出す。同じ頃、女優田中絹代の日活での監督ばなしが進んでいて、その題材として、小津先生が、戦後第一作の『長屋紳士録』の後に書いたシナリオ『月は上りぬ』を取り上げることになった。日本映画監督協会(理事長・溝口健二)は、五社の日活ボイコットに反撥していた。

田中絹代の監督作品を支援するべく、監督協会が製作者となり、小津先生はそのことで先頭に立って奔走した。立場を鮮明にさせるために、松竹との契約をその年度は行わず、フリーになった。松竹の高橋貞二を使おうとしたが、高橋貞二と松竹との契約内容を見て断念した。高橋は泣いて口惜しがったが、先生は筋目を通して、高橋を説得した。

月は上りぬ』は、その年の十二月に完成した。監督二作目の田中絹代にとって、どれ程心強いバックアップであったか、想像に難くない。

小津監督の一面を知る貴重な資料となりました。山内静夫さんは映画プロデューサーで里見弴さんの四男です。( 里見弴原作の小津監督作品 『彼岸花』『秋日和』) 

井原西鶴作品と映画『西鶴一代女』(1)

映画『西鶴一代女』(1952年)は言わずと知れた溝口健二監督と田中絹代さんの記念すべき作品です。お二人とも色々あってスランプを乗り越えられた作品なんですね。

今回この映画の元になった井原西鶴の『好色一代女』を読んで、読んだ感じと映画が違うので井原西鶴読んでよかったとおもいました。ただ、現代語訳ですが、訳されたのが富岡多恵子さんだったのがよかったのかもしれません。大阪出身で詩人でもありますから、文章のリズムや言葉に関しても富岡さんならではの俳諧師西鶴に対する想いも強く、その辺を信頼してスラスラと読ませてもらいました。

女一人生きていくのはいつの世も大変ですが、江戸時代に恋をしてしまった若き娘がそのことでつまずくと崖っぷちに立たされ、死ぬも生きるもどちらの選択もしんどい事なのです。『好色一代女』の主人公は、自分の過去を語りますが客観的にさばさばとした語り口です。それは西鶴がそう筆を進めているわけです。

最初の恋が身分違いゆえ、相手の男は命をとられてしまうのです。

主人公はとにかく色々な仕事につきますがどうしてもそこには肉体関係がからんできてしまうのです。そのことも隠し立てなく語り、そこに金銭関係もきちんと書かれているのです。そうすると読む方もそういう仕組みになっていて、そういうふうに搾取されてしまうのかと身一つで生きていく主人公の大変さが垣間見られ、さらに時には手練手管もご披露してくれますから、苦笑してしまったりします。

美形で稼ぐ太夫のところでは次のようにあります。「情目(なさけめ)づかいといいまして、知りあいでもないひとが辻に立って太夫の道中を見物しておりますと、そのひとを振り返って好きな男のようにおもわせます。また揚屋で、夕方店先に腰かけております時、知ったひとがやってきますと、遠くからそのひとに目をやってうっとりとながめます。」

前の方は歌舞伎の『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべ さとのえいざめ)』の八ツ橋が浮かびます。江戸みやげにと吉原見物で花魁の八ツ橋が自分に微笑んでくれたと思い込んでしまう佐野次郎左衛門なのです。たしかにそうなんですがね。

その他幇間(ほうかん)にもきちんと手をつくしておくとお金持ちの客との間を上手くとりなしてくれたりします。そして「頭の悪い遊女はこの程度のこともおもいつきません。」とかいております。ところが、主人公は太夫から位がおちて天神になってしまいます。それは自分の出自を鼻にかけたゆえです。

文化・風俗研究家のように立場立場によって女性の着物や持ち物なども事細かに書かれていて、そちらにも感心してしまいます。何となくおぼろげで、ぱっぱっと脳裏に浮かんでこないのが残念です。髪型しかりです。島田とか兵庫などはわかりますが主人公の好みなどもあり微妙に変えたりするのです。髪飾りなども違いそういうカラーの映像がその場その場であるといいのですが。さらにお客の身なりの様子などもきちんと書かれています。

小説『阿蘭陀西鶴』でも西鶴が読みながら作品を書いているのを聞いているおえいが、父は随分着物のことをよくしっていると感心しています。

時代劇映画なども監督さんや俳優さんの好みなどでちがいますから、時代考証にはなりません。

富岡多恵子さんの『西鶴のかたり』では、『俳諧大句数』の一部分からその句のつながり方を解説してくれています。さらに独断で短くします。

「蘆間(あしま)を分けて立ちさわぐ波」の波は、「白波五人男」のように泥棒や盗賊をあらわします。そこでさわぐ波をうけて次の句は「盗人と思ひながらもそら寝入り」(泥棒だとわかるが怖いので寝たふりをしている)。盗人から恋の盗人にして夜這(よば)いが親子のあいだに足をさしこむことになります。「親子の中へあしをさしこみ」。足をさしこむのが置炬燵(おきこたつ)と受けて「胸の火やすこし心を置ごたつ」。

ただやみくもに詠んでいるのではなくつながっているのです。富岡多恵子さんは夜這いなどと「芭蕉ならおそらくこういう下世話なのはきらいでしょうね。」としています。しかり。

好色一代女』の主人公は宇治の出らしいのです。そして京を始め大阪、さらに江戸にも行っており、ある時、松島へも行っておりその時の感想を語っています。

「当初はなるほどと感心して「こんなところをこそ、歌人や詩人にみせたい」と思っておりましたが、朝に晩に眺めておりますと、美しく散らばった島々も磯臭く思えてきますし、末の松山の波も耳にうるさく、塩釜の桜もみにゆかずに過ごしてしまいました。金華山の雪の朝にも寝坊して、雄島の月の夕べも別になんとも思わず、入江に散らばる白黒の小石を拾っては、子供相手の五目並べに夢中になってしまうていたらくです。」

その前に結論が書かれています。「美人でも美景でも、いつもいつもみておりますとかならず飽きるのは、経験しますとよくわかりますね。」

西鶴さん、松島を美人にたとえた芭蕉さんに対抗して書いているのではありません。『奥の細道』はあとに書かれているのです。

西鶴さんと芭蕉さんは目指す新しさが違いますから読者にとっては大変ありがたいことです。

富岡多恵子の好色五人女わたしの古典16

富岡多恵子さんの本は『好色五人女』と『好色一代女』に二作品の現代語訳が載っているのです。これから『好色五人女』のほうに入りますが、井原西鶴の本や、『好色一代男』の訳本などが積んでありまして、さらに有料配信などが数多くでておりまして時間のやりくりに大変な日々なのです。

追記: <「不易流行」部屋子の部屋 総集編> 無頓着さと生真面目さの落差に爆笑しました。後見の後見って弥次さん喜多さんのアルバイトと同じではありませんか。

【GW特別企画】「部屋子の部屋」総集編 配信決定 | 部屋子の部屋|市川弘太郎主催「不易流行」オンライントークイベント (fueki-ryuko.org)

追記2: 1682年に仙台の大淀三千風が松島を詠んだ千五百句を『松島眺望集』にまとめました。そこに西鶴さんと芭蕉さんが並んで載っているのだそうです。

松しまや大淀の浪に連枝の月  西鶴

武蔵野の月の若ばへや松島種  芭蕉

西鶴さんは選者の大淀の名前を詠みこみ、芭蕉さんは武蔵野の月も松島の月が種としていてそれぞれの作風が出ていて面白いと思いました。(大谷晃一著『井原西鶴』より)

えんぴつで書く『奥の細道』から映画『月山』と刀剣月山派

森敦さんの小説『月山』が映画になっていたのを知りました。ダメもとでと検索しましたらレンタルに入っていました。そして現代の刀剣月山派の紹介映像も借りれたのです。

小説『月山』では月山と出羽三山について次のように表現しています。

「じじつ、月山はこの眺めからまたの名を臥牛山(がぎゅうざん)と呼び、臥した牛の北に向けて垂れた首を羽黒山、その背にあたる頂を特に月山、尻に至って太ももと腹の間の陰所(かくしどころ)とみられるあたりを湯殿山といい、これを出羽三山と称するのです。出羽三山と聞けば、そうした三つの山があると思っている向きもあるようだが、もっとも秘奥な奥の院とされる湯殿山のごときは、遠く望むと山があるかに見えながら、頂に近い大渓谷で山ではない。月山を死者の行くあの世の山として、それらをそれぞれ弥陀三尊の座になぞらえたので、三山といっても月山ただ一つの山の謂いなのである。」

主人公がひと冬思索の場所として過ごす注連寺は湯殿山の裾にあるお寺である。かつて人々は鶴岡から十王峠を越え七五三掛(しめかけ)の村を通り大網を抜け湯殿山詣でをし、帰りには大網の大日坊か七五三掛の注連寺に泊まり、酒を飲み博打をして帰って行ったのである。

バスが通るようになって十王峠を越えるこの道を通る人々もいなくなり、雪が降り大網まで来ていたバスも通らなくなれば村の人々は十王峠を越えて鶴岡へ行く方が近いのでその道を使う。七五三掛の村は雪にすっぽりと閉ざされ雪に抱かれるようにして吹きを避けて暮らす。

主人公を迎えてくれた注連寺もいまでは傾いて、足の不自由なじさまが一人守っている。バスを降り寺に向かう時、何んとなく村人からうさん臭く思われるのはよそ者が入って来たからでもあるが、村では闇酒を造っていてかつて密告者がいてもめたことがあり税務署の人間とおもわれたようである。

主人公は二階の自分の寝屋があまりにも寒いので祈祷簿の和紙で蚊帳を作りそこで寝ることにする。村の女たちはその話を話題にし、カイコがやがて白い羽が生えるのは繭の中で天の夢を見るからだと言う。若い女はその中で寝て見たいという。主人公が二階に上がると女は和紙の蚊帳の中で眠っていた。

主人公は村の人々の過去と現在を知らされながら、ただ現実の事であるようなちがうような感覚で受け入れ、流されるにまかせ漂うように眺めている。そんな主人公を脅かすような力は加わらなかった。大網にバスが来て、春が訪れた。主人公の友人が自分を忘れずに訪ねてくれて、じさまは友人と一緒にこの村を去ることを勧めてくれる。

じさまが途中まで送ってくれ、もう来ることもないであろうからとよくみてくれという。ふり返るとそこには月山が臥した牛のような巨大な姿を見せていた。

月山が見えて、周囲から隔絶されて、ささやかな宗教的行事がある狭い村社会で実在の場所。その設定が現実であるようなないような雰囲気をかもしだしている。表現不可能な閉ざされた世界の情念やあきらめや欲望などが雪の舞う吹きの中でうごめいている。

映画ではこのあたりを人間関係を変えたりしてサラリとした感じで整理され、じさまがこの主人公を大きな人だとして一緒に一冬過ごせてよかったと涙する。よく心惑わされずに過ごせたということでもあるのだろうか。人間の煩悩をも淡々と表現している。主人公のこれまでの人生との重ね合わせもそれとなくあらわし、村人に対する主人公の感想や意見もなく、聞かされる村の話なども本当か噂かなども明らかにしない。主人公は自分がそれにかかわる資格がないようにもみえ、そのこと自体も置き去りにしている。

即身仏(ミイラ)についても主人公は何か考えさせられるところがあるようであるが何もない即身仏の厨子の中に、波で削り取られて丸くなった石を置く。ここで自分はとげとげしい感情を洗い落とされたということであろうか。この石は、注連寺に来る前に何を想ったのか主人公が手にしたものである。その時の想いを置いていけるようになった自分がいたということであろう。

村が雪に包まれていく映像は七五三掛の村や注連寺でロケをしているのでそのあたりを映像で観れたのでその地域に親近感が増した。よく撮られていた。とらえ方が様々にできる小説なので、映像では無駄をはぶいてじっとみつめて黙する主人公にしたようにおもえる。友人も出さずに、じさまの同級生の源助が十王峠まで送り、主人公が月山と村を眺めおろして終わるのである。

映画『月山』(1979年)監督・ 村野鐵太郎/脚本・高山由紀子/出演・河原崎次郎、滝田裕介、友里千賀子、稲葉義男、小林尚臣、井川比佐志、片桐夕子、菅井きん、河原崎長一郎、北林谷栄

刀剣の月山派は芭蕉の『奥の細道』の鍛冶小屋から知ったのですが、森敦さんは、月山派の二代目月山貞一さんと息子さんに会っていました。そのことは『われもまたおくのほそ道』で書かれています。

「月山家はもともと修験者で、月山麓北町八幡宮に、その顕彰碑があります。いまは大和三輪山の麓狭井を挟んで、山の辺の道あたりに、月山日本刀鍛錬道場を開いていられます。歴代天皇家の刀を打たれ、ご当主月山貞一さんは人間国宝です。」

DVD『現代月山伝 日本刀鍛錬の記録 百錬精鐵 刀匠 月山貞利 ~綾杉の系譜~ 普及版』の月山貞利さんは二代目月山貞一さんの息子さんです。

鎌倉時代に鬼王丸という刀鍛冶が月山の東のふもとで刀をきたえはじめ、月山派の祖といわれています。月山物の特徴は、刀全体にあらわれる鍛え肌で、大波がつらなったような模様、波の間に渦巻きのような模様があり、これを綾杉と呼ぶようになったのです。

月山一派は何度か一門の存続の危機にさらされます。出羽三山が武力を持たなくなると勢いを失います。再び注目を集めたのは幕末の時で、月山貞吉が大阪月山派の祖となりその系譜をつなぐのが現在の月山貞利さんと息子さんの貞伸さんです。

戦後のひところは鎌や包丁をつくっていた話を森敦さんは貞一さんから聞いたと記しています。

槌を打つことだけでできる模様の不思議さ。ひたすら打ち鍛えるのです。

刀工月山の歴史はこちらで → 月山日本刀鍛錬道場|刀工月山の歴史 (gassan.info)

出羽三山に関しては色々さがしましたがこのサイトが七五三掛や注連寺のある地図もあり位置関係がわかるとおもいます → 日本遺産 出羽三山 生まれかわりの旅 公式WEBサイト (nihonisan-dewasanzan.jp)

森敦さんは1983年(昭和58年)に放送されたNHK『おくのほそ道行』の撮影のため芭蕉の歩いた道を訪ねられています。71歳のときです。その後『われもまたおくのほそ道』を書かれたわけですが、月山へは八合目から二度とも登ることができませんでした。湯殿山の撮影のあと、注連寺に連れていかれました。寺の裏を上がるともう尾根になり月山になっていったのだそうです。森さんは何回も注連寺に来ていて知らなかったそうです。

「とにかく、ここをちょっと歩いてくれれば、月山に登ったように撮れると言われて、ちょっとだけならと歩きました。しかも、放映されたところを見ると、わたしがちゃんと月山らしいところを歩いているから不思議です。」と映像のマジックを明かしています。湯殿山では撮影秘話も記されています。

森敦さんは、『奥の細道』を<起・承・転・結>に分けられ、最初の部分を<序>としています。小説家ならではの発想ということでしょうか。ちょっとわたくしには手がおえませんので、森敦さんのご登場はここでお終いにさせていただき、こっそり考えることにします。

森敦さんが師とした小説家・横光利一さんの碑が芭蕉の生まれた伊賀の上野城にありました。突然の出現に驚きましたが。お母さんが伊賀市の出身で三重県立第三中学校(現三重県立上野高等学校)で学んでいたのです。しめは芭蕉の生誕地にもどりました。

内田けんじ監督作品

映画『鍵泥棒のメソッド』(2012年)が気に入りました。人と人が入れ替わるのだが人格がいれかわるのではない。偶然に遭遇した出来事で一人の人間が記憶をなくした人に成りすますことで入れ替わるのである。

入れ替わってもその人の性格や生活に対する考え方は変わらないわけで、そこが俳優さんの腕のみせどころであり、観るほうのたのしみでもある。桜井武史(堺雅人)は銭湯に行く。そこで一人の客がせっけんで足をすべらせて思いっきり転倒して気を失ってしまう。そのどさくさに紛れて桜井はその客のロッカーのカギを自分のとすりかえてしまう。

病院に運ばれた客は、持ち物から桜井武史となる。彼は記憶喪失となってしまうのです。記憶喪失の男は山崎信一郎といい裏の生き方があり、コンドウと呼ばれるプロの殺し屋(香川照之)であった。

山崎は自分が桜井ということらしいので、桜井としての自分について記憶をよみがえらせられるように材料をさがしていく。山崎は非常に几帳面なところがあり一つ一つメモしていく。桜井はどうやら役者をめざしていたらしい。

山崎になりすました桜井は、いい加減な性格で、山崎が記憶がないのをいいことに山崎の様子を見にいったりして二人は一応顔見知りとなる。

もう一人自分の計画通りに生きる女性・長嶋香苗(広末涼子)が先に登場している。結婚相手もいないのに、この日が結婚式ときめる。そんな女性が絡むのであるから、可笑しいことにならないわけがない。

3人が上手く難局を乗りきる展開がテンポよく違和感なく運んでくれる。

映画『アフタースクール』(2008年)こちらはかなりややこしいのであらすじは省略する。ラストそうだったのかと種明かしとなる。ただこの作品はかなり先に観ていたのであるが内容が思い出せず観なおしたが、かなり進むまで思い出せなかった。堺雅人さん、大泉洋さん、佐々木蔵之介さん、常盤貴子さんなどがでるので俳優さんで決めた映画であった。裏をかかれる意外性が気に入ったがそこで止まっていた。

映画『鍵泥棒のメソッド』で、これは内田けんじ監督のほかの作品を観なくてはの流れとなった。

映画『運命じゃない人』(2005年)。レストランで一人の女性が座っていて、突然後ろ向きで前に座っていた男性が振り向いて一緒に食事しませんかと声をかける。そういうことありなのかなと思っていたら女性は了解する。えっー!ありえるの。そこから素人的な変な映画とおもったがこれがそれぞれの登場人物にとって必然的な結びつきとなっていた。

一つの流れがあり、その流れに幾人かの人々が乗っていた過程を順番にみせてくれる。この人はこういう状況からこの流れに乗ったのかということがわかるようになっている。そこが予想外の展開になっていく。全然関係なかった者同士が思惑に関係なくつながっていくプロセスが笑える。これはまずいことになっていくなと思わせられて打っちゃりをかけられる。笑いで見事に投げられます。

これと似た方法に、三谷幸喜さんの脚本であるテレビドラマ『オリエンタル急行殺人事件』(2015年)がある。この殺人事件は複数、それもかなり多くの人々が心を合わせ復讐を成功させる作品である。それを二部仕立てにして、二部目は、復讐殺人に参加する人々がどうやって心を合わせておう計画して成功させたのかを、ドラマ仕立てにしたのである。名探偵勝呂の謎解きだけではなく、そこまでの一人一人のプロセスを映像化したのである。これもなかなかのアイデアであった。ややこしさをすっきりさせてもらえた。蛇足とは思わせなかったのである。

一方映画『運命じゃない人』は友人関係はあるが心あわせていないのである。別々の生き方である。それも相手はこちらが考えているような人でなかったり、見抜いていたのにもっと上手であったりしていて、そのずれがまた見どころでさらに観る側の想像を裏切ってくれるのである。これが内田流の手なのである。その手が面白いのです。発想が新鮮。

内田けんじ監督の初の自主映画『WEEKEND BLUES ウィークエンド・ブルース 』(2001年)は荒削りであるが、これが内田ワールドの原点なのだと射止めた感じである。

男性が友人のアパートを友人の恋人と出て自動販売機で水を購入しているときから記憶を失ってしまう。気がつくと男性は路上で目を醒ます。どうしてここいるのかわからない。自分の住んでいる場所よりもかなり遠くに来てしまっている。

彼も自分の記憶を探し始める。この映画には内田けんじ監督も出演しています。

特典映像で内田けんじ監督がインタビューに答えておられる。この話を思いついたきっかけは、18歳の時バイト先の先輩がヤクザからもらった薬を飲んで気が付いたら2日たっていたという話から怖いとおもったのがきっかけだと。そのほか、友人たちとの撮影の様子も話されている。

これらの4作品は、脚本も内田けんじ監督です。楽しい時間でした。

追記: 『鍵泥棒のメソッド』をリメイクしたのが韓国映画『『LUCK-KEY/ラッキー』(2017年・イ・ゲビョク監督)。記憶喪失の男性が映画の撮影現場にいき、次第にアクションの演技がみとめられる。撮影になれないところは、映画『エキストロ』(2020年・村橋直樹監督)を思い出し笑えます。撮影現場とアクションを生かしたコメディとなっていて、それに対し『鍵泥棒のメソッド』のほうは寄せ木細工の感じでしょうか。

追記2: 『運命じゃない人』も韓国映画でリメイクされていました。『カップルズ  恋のから騒ぎ』(2011年・チョン・ヨンギ監督)。『運命じゃない人』を先に観ているとその手法が新鮮味に欠けてしまう。カップルを増やすことによってつながりがもっと多かったというサービス精神とテンポの良さにはリメイクへの挑戦は感じられます。

追記3: テレビアニメ『名探偵コナン 江戸川コナン失踪事件 ~史上最悪の2日間~』(2014年12月・監督・山本泰一郎)の脚本が内田けんじさんということでみました。映画『鍵泥棒のメソッド』の登場人物や同じ場面もでてきて、これは映画を観てからのほうが楽しめるとおもいます。名探偵コナンとの出会いには絶好の機会だったかもしれません。アイちゃんの活躍が見逃せません。そういえば海老蔵さんが参加するとかしたとかいう情報もかつてありました。その時はコナン君に興味ありませんでしたのでスルーでした。

追記4: 『名探偵コナン 江戸川コナン失踪事件』(2016年1月)の1年後にスペシャルとして放送されたのが『名探偵コナン コナンと海老蔵 歌舞伎十ハ番ミステリー』です。新橋演舞場での初春歌舞伎公演の演目・『七つ面』にちなんだミステリーになっています。公演で使われる高価な面が盗まれ殺人が起こります。コナン君は歌舞伎座に近い場所の地下に閉じ込められますが海老蔵さんも大活躍し無事事件は解決します。

七つ面』に関しては次のサイトが参考になると思います。

https://hikaku-lifestyle.com/geijutsu/nanatumen/

映画『わが母の記』から『更級日記』(3)

映画『わが母の記』から井上靖さんの『姥捨』にたどり着いたがそこからどこへ行ったのか。

姥捨』の<私>は場所的に姥捨駅もその附近も知らなかった。母の言葉がきっかけで信州を旅する時は車窓から姥捨の風景をとらえるようになった。

「丘陵の中腹にある姥捨という小駅を通過する度に、そこから一望のもとに見降ろせる善光寺平(ぜんこうじだいら)や、その平原を蛇の腹のような冷たい光を見せながらその名の如く曲がりくねって流れている千曲川(ちくまがわ)を、他の場所の風景のように無心には眺めることができなかった。」

実際にはここに書かれている通りの風景であるが当時棚田が今のような姿であったかどうかはわからない。<私>が無心になれないのは、その場所には老いた母が座っていて、ある時には「自分が母を背負い、その附近をさまよい歩いている情景を眼に浮かべた。」ここは観月の場所でもあるが、<私>はそのことには殆ど関心をもたなかった。

<私>はその心持ちのまま、その後、志賀高原に行った帰りに戸倉温泉に泊まり、車で姥捨駅にむかいそこで降りて運転手に案内されて長楽寺にむかうのである。眼にする山々は紅葉していた。

道は自然に巨大な岩石の上に出た。捨てられた老婆が石になったとされる姥石の頂上である。そこで善光寺平の美しい秋の眺望を見下ろしている。そこから降りて長楽寺の庫裡(くり)の前にで声をかけるが返事がないので、観月堂で休む。運転手の「月より紅葉の方がよさそうですね」との言葉に、<私>は同意するのである。

道筋をいえばこんな感じなのである。私は暑い時期に姨捨駅(篠ノ井線)から長楽寺に歩いていったのであるが、そんな感じであったと思い出させてもらった。

姥捨駅の名前にひきつけられ、車窓から見たその風景の棚田を歩いてみたいと実行したのである。暑くて棚田を散策するのは風流とは言えなかった。その旅の時に手に入れた本があったのを思い出した。『地名遺産 さらしな ~都人のあこがれ、そして今』(大谷善邦著)である。長楽寺の後に行った「おばすて観光会館」で購入したのであろう。

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きちんと読んでいなかったのである。大変わかりやすくまとめられている本で奈良、平安のころから<さらしな>の地名が知られていてそのさらしの里(更級郡)の一部が<姨捨>なのだそうである。地元では冠着山(かむきりやま)と呼んでいる山が都人には姨捨山として知られていたらしいのです。

井上靖さんも棄老伝説は各地にあったがそれが一つに集約され、古代は小長谷山、中世は冠着山が姨捨山となったとしている。映画『わが母の記』の八重さんが月の名称なら捨てられてもいいといったように、美しい月の光に包まれた場所というのが棄老伝説の重要な要素であったのかもしれない。さらに雪に包まれて静かに眠る場所であることも。

地名遺産 さらしな ~都人のあこがれ、そして今』では<さらしな>についていろいろな角度から書かれていて『更級日記(さらしなにっき)』にも触れられていた。

「最初の約5分の1は、父親の任が解けて都に戻るまでの、今の東海道をたどる旅でのエピソードなどが紹介されています。」

東海道の旅。平安時代の東海道の旅を垣間見れるのである。即反応しました。手もとにある『更級日記』の現代語訳の本を開いたらその訳者が井上靖さんでした。ここまでひっぱてくれたのは井上靖さんのあやつりの糸だったのでしょうか。素敵なあやつり糸でした。

追記: 千曲市が昨年日本遺産になっていました。

「月の都 千曲」が令和2年度文化庁日本遺産に認定されました | 千曲市 (chikuma.lg.jp)

 追記2:

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映画『あすなろ物語』『わが母の記』(2)

映画『わが母の記』は、映画『あすなろ物語』の主人公が小説家になっているというつなぎで鑑賞しなおした。それぞれが独立した映画ではあるが。そこに井上靖さんの小説なども加えてみた。

映画『わが母の記』(2012年・原田眞人監督)も原作は井上靖さんである。小説家の伊上洪作(役所広司)が母・八重(樹木希林)に幼い頃捨てられたという想いの強さから逃れられないでいた。そのことを確かめたいがはっきりさせることができないでいた。そのうち母が認知症となり母にきちんと通じているかどうかわからないが、それとなく聞き出そうとする。おもいがけず母がそばにいない息子と心の中で交流していたことを知るのである。

映画『あすなろ物語』で鮎太が蔵で一緒に暮らすお婆さんが、映画『わが母の記』では、<土蔵のばあちゃん>とよばれていて、彼女が洪作の曾祖父のお妾さんであったことがあかされる。母・八重の戸籍を独立させ分家とし、八重の母とされたのである。戸籍上<土蔵のばあちゃん>は洪作の祖母となるわけである。<土蔵のばあちゃん>の立場は守られたのである。さらにその彼女のものとに八重の子供が預けられたのであるから彼女にとって洪作はかけがえのない存在であったと思われる。

母の八重は、洪作を迎えに行くがその時は洪作は<土蔵のばあちゃん>のおぬいばあさんとの生活に慣れ親しんでいたのであろう。八重は息子をおぬいに盗られたと思っている。洪作は迎えに来なかったとしている。八重と洪作のづれがそこにある。

洪作少年はおぬいさんのわけありの立場が子供心に何んとなくわかっていたであろう。本家には裏から入りその板の間で挨拶しそこから先へは絶対入らなかったそうである。洪作少年がおぬいさんと一緒に暮らすことで彼女の立場は実質的にも守られていたのである。

グウドル氏の手袋』(井上靖著)によると、作家が湯ヶ島の郷里で6歳から11歳まで一緒に暮らしていた女性はかいといい、60歳の声をきいていたとされる。彼女が曾祖父・潔と出会ったのは18、9歳の時東京で芸者に出ていた時である。潔が40歳で郷里に引っ込んで開業することになり曾祖父の第二夫人として姿をあらわした。その時彼女は26歳であった。それから30数年後、母屋は人に貸し小さな土蔵の二回で少年とおばあさんは住んだのである。

世間のかのさんに対する受けの悪さに反して少年はかのさんに毎晩抱かれて眠る生活に何も不満はなかった。ただ一つ自分の成績が悪いと小学校の教員室へ文句をつけに行くことをのぞけば。

映画『わが母の記』のなかで、八重が口ずさむ。「姥捨山(おばすてやま)は月の名称だってね。そんなところなら捨てられた老人も案外喜んでもいたかもしれない。」今そのおふれがあったら自分も喜んで行くという。洪作の妹たちは嫌味であると憤慨する。

洪作は姥捨山の絵本を伊豆に行く時母に貰ったのを思い出す。母を捨てるなんてと涙を流したのである。この姥捨山もこの映画の流れの中では大事な押さえどころでもある。この絵本は母と洪作の誰も探したことのない行くべき海峡をみつける道筋となる。

ここでは『姥捨』(井上靖著)に触れる。作者が母を捨てるという話を聴いて涙したのは五つか六つのときであった。その後、姥捨山説話の絵本「おばすて山」を叔母からもらったのが10か11歳の時である。

昔信濃の国に老人嫌いの国主がいて70歳になったら山に捨てるようにとおふれをだす。ある息子はどしても母を捨てることが出来ず床下に隠すのである。隣国から国主に使いが来る。次の三つの問題が解けなければ国を攻め亡ぼすと。この難問を解いたのが床下の老母であった。老母の知恵の大切さを知った国主は老人を尊ぶようになるのである。

後年大学生となり郷里の土蔵でその絵本をみつける。そこに描かれている月に照らされた母を背負う息子の姿は子供心にも強烈な印象を与えたことがわかるのである。母が70歳になったとき、映画の八重と同じようなこという。それから作者は信濃への旅の途中で姥捨駅を通過するときこの絵本の母子を母と自分に置き換えて想像の世界に入っていく。

その後作者は実際に戸倉温泉から車で姥捨駅にむかい姥捨の地に立つのである。

映画『あすなろ物語』は、会社からにらまれるほど撮影場所を吟味し時間をかけただけあって特に鮎太の小学生時代の自然がいい。映画『わが母の記』も伊豆の家の周辺が郷愁をさそう風景で八重が東京を嫌うので軽井沢の別荘に連れて行くという設定も丁寧である。

人間の心情と自然が上手く相乗効果を与えあって観る者をひきつけ良質の流れにのせてくれる作品である。

映画『あすなろ物語』(1)

映画『告訴せず』の特典映像で堀川弘通監督が語られているのを観ていて、映画『あすなろ物語』(1955年)が是非観たくなった。1940年に大学を卒業され、東宝入社。衣笠貞之助監督『続蛇姫様』(1940年)、中川信夫監督『エノケンの誉れの土俵入』(1940年)、島津保次郎監督『二人の世界』につき、山本嘉次郎監督の『』(1941年)で黒澤明さんと出会う。黒澤さんはチーフ助監督で堀川さんはサード助監督である。

撮影の後よく二人で飲んだが、黒澤さんは次は監督をするつもりで時間を見つけては本を書いていた。黒澤明監督の最初の監督映画は『姿三四郎』(1943年)である。堀川さんが助監督として参加した黒澤明監督作品には、『一番美しい』(1944年)、『続 姿三四郎』(1945年)があり、『わが青春に悔いなし』(1946年)、『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)はチーフ助監督として参加している。

七人の侍』が最後の助監督で最初の監督作品には黒澤監督が脚本を書いてくれるということで、会社は青春物なら何でもよいという。二人で色々捜したがいい原作がなく、オリジナルで書いてみたが納得がいかない。そんな時、井上靖さんの『あすなろ物語』に出会いこれを映画化することにした。

というわけで映画『あすなろ物語』が観たくなったのである。『あすなろ物語』は井上靖さんの自伝的作品でもあり、井上靖さん原作の映画『『わが母の記』も観ていたのでその子供時代というのも魅かれる要素であった。さらにその後青春映画で活躍する山内賢さんの子役時代(久保賢)の映画である。お兄さんの久保明さんが高校時代を演じ、山内賢さんは小学生時代を演じるのである。

「黒澤明映画 DVDコレクション43」にこの映画が入っていた。

映画『あすなろ物語』は主人公・鮎太の小学生時代、中学生時代、高校生時代と三話に分かれている。その時代時代に鮎太は自分の行き方を模索する強い美しい女性たちに出会うのである。何かと闘っているこうした女性達に出会うというのもそうある事ではない。

小学生の鮎太(久保賢)はお婆さんと二人で蔵の中で暮らしている。何かわけがありそうだが鮎太は元気である。そこへ町では不良と言われているお婆さんの妹の娘・冴子(岡田茉莉子)が一緒に暮らすことになる。鮎太は冴子から大学生(木村功)に手紙を渡すように命令される。この大学生に「あすなろ」の樹の名前の由来を教えてもらうのである。檜に似た樹で檜に明日なろう明日なろうとがんばっているから「あすなろ」という名前なのだと。

鮎太は大学生が好きになり彼を想う冴子のこともさらに魅かれるのである。そして鮎太はしっかりと二人の姿を瞳に焼き付けようとする。鮎太少年の真剣にみつめる目が何とも言えない。こんな子供の眼差しをみたら、大人は見られていることを意識し、あいまいな生き方が出来なくなる。

その三年後、お婆さんが亡くなり中学生の鮎太(鹿島信哉)は、お寺に下宿することになる。そのお寺の娘さん・雪枝(根岸明美)は自分の考えることに忠実に外に対しても対処する。中学生になった鮎太は雪枝の励ましで「あすなろ」の心構えで外に向かって闘う経験をつむことができる。鮎太は実戦からどう闘うかを見つけ出していく。

その三年後、実践した鮎太であるがそれも役に立たせることが出来ない状況の中に投げ込まれる。高校生になった鮎太(久保明)は、ある家に下宿する。他に下宿人が4人いて、かつては裕福な家であったらしいが今は下宿人を置かなければならない状況であるらしい。その家の娘・玲子(久我美子)は、下宿人たちのマドンナで勝手気ままに見える言動で下宿人たちを翻弄している。鮎太もその一人として加わってしまう。

そしてその玲子とも別れるときがくる。鮎太は玲子に「あすなろ」の話をする。それは鮎太が玲子にできる精一杯のことであった。

鮎太がそのときできる自分の力を集中して冴子、雪枝、玲子に対峙する潔さがいい。思っていたより爽やかな青春映画であった。

一話、二話は原作に基づいているが三話はオリジナルで、堀川監督は、井上さんはおとなしいから何もいわなかったが渋い顔をしていたそうである。

黒澤監督は、ワンカットのフレームに100%盛り込むという精神で、カメラの位置、サイズ、アングル、照明、小道具らすべて自分できめ、その影響はあったと。

「黒澤明映画 DVDコレクション43」のマガジンによると、この映画の後、堀川監督が助監督に降格されている。黒澤方式だったため黒澤監督さえ会社ににらまれていたのに監督一作目で大目玉で、成瀬己喜男監督の助監督となる。成瀬己喜男監督は、製作予算と期間をきっちり守ることで知られていたのである。そうなんだとこれまた面白い情報である。

成瀬組についた堀川監督は、、自分と黒澤監督の資質の違いを改めて感じられたようである。ご自分の手法を見つけるきっかけともなったわけである。

さらに、堀川監督は、映画界に入ってから二回も肺結核で休職していたのである。堀川監督の「あすなろ物語」があったわけである。但し大きく違うのは、あすなろは檜になれないが、堀川弘通さんは明日なろう、明日なろうとして檜の映画監督になられたのである。

映画『女殺し油地獄』・シネマ歌舞伎『女殺油地獄』

図夢歌舞伎 弥次喜多』との出会いで(アマゾンプライムビデオ)で、堀川弘通監督の映画『女殺し油地獄』(1957年)を観ることができた。弥二さん喜多さんありがとうである。

脚本が橋本忍さんで、映画『黒い画集 あるサラリーマンの証言』同様、スキのない筋立てであり、歌舞伎の『女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)』の流れと同じである。映画のトップは罪人が馬に乗る市中引き回しの男を写す。字幕 「河内屋与兵衛 罪科に依り市中引廻しの上 千日前処刑場で磔刑さる 享保六年七月二十三日」 

与兵衛がどんなことをしでかしたのかそのことが描かれ、ラストの場面がトップの画面となる。与兵衛は油屋の息子であるが、同業者の豊島屋の女房・お吉を殺してしまうのである。なぜそういうことが起きてしまったのか。映画では、与兵衛が自首する時ふた親と妹に自分の事をかえりみて語るのである。近代的解釈によって構成されている。

歌舞伎『女殺油地獄』は近松門左衛門が書き下ろしたものをもとにしている。近松さんは人形浄瑠璃の作者である。享保七年に竹本座で上演されている。ところがこの作品江戸時代の人々には人気が無かったらしい。明治なって坪内逍遥さんが『女殺油地獄』を取り上げた文章を書く。その影響もあってか歌舞伎では明治四十二年大阪で初演されるのである。それから歌舞伎でも人気演目となり、映画でも作品化されるわけである。

歌舞伎をまだ観た事のないかたは、アマゾンプライムビデオで映画『女殺し油地獄』とシネマ歌舞伎『女殺油地獄』を観ることができるので時間があれば観て歌舞伎に触れていただきい。与兵衛は幸四郎さんで、お吉は猿之助さんである。

映画『女殺し油地獄』と歌舞伎の『女殺油地獄』では解釈も違い、演技も大きく違うということがわかるとおもいます。歌舞伎の与兵衛は近代人ではないのである。明治時代に上演した人たちは、近代人であったが、おそらく苦労してどうやろうかと考えて考えて身体表現にかえっていったのであろう。そして型となり、されにその型の中でそれを継続することによって役者さんによって違う空気を観客に送ることになるわけである。女方というものもしっかり観てもらいたい。

映画の方は、歌舞伎の『女殺油地獄』をよくわかってられる二代目中村扇雀(与兵衛)さんと二代目中村鴈治郎(継父・徳兵衛)さんが演じられていて、映画の構成にきっちりはまっておられる。映画俳優としての素材として臨まれている。そこがまた映画の見どころでもある。お吉は新珠三千代さんである。継父という設定も重要なカギである。

歌舞伎での与兵衛は、お吉を殺した後花道を去るというかたちで終わるのである。それゆえに与兵衛の人物像は、それまでの登場場面で思い至ることになる。もしくは役者の演技に満足して終わるということになったりもする。そこが近代演劇とは違うところかもしれない。ただ現代ではアイドルという分野もあり同じ現象は起きている。

江戸の人気者弥二さん喜多さんは現代においてもお二人さんの人気度を継続され面白い旅をさせてくれました。めちゃくちゃ忙がしい思いをさせられていますが。

もし観てつまらなかったときはクレームは弥二さん喜多さんにお願いいたします。こちらは舞台も劇場でのシネマ歌舞伎も観ていますがこれってお得とおもいます。

もう一度歌舞伎の『女殺油地獄』の本を読み返そうとおもいます。

女殺し油地獄
シネマ歌舞伎「女殺油地獄」

追記: 銀座ナイルレストラン監修のカレーにスーパーで出会う。全然期待していなかったのにタイミングよすぎ。もちろん購入。お家で歌舞伎、そろいすぎ。

追加2: 1月31日 NHKEテレ 午後9時から 『古典芸能への招待』で『女殺油地獄』があります。与兵衛が仁左衛門さん、お吉が孝太郎さん。同じ作品でも役者さんによって違うということがわかると思います。これまたタイミングの良さの継続です。

追記3: 浅草関連の映画『人生劇場 新飛車角』をついに見つけられた。浅草のやくざ吉井角太郎(鶴田浩二)が戦友を殺した相手との死闘に油まみれの場面が出現。沢島正(忠)監督は歌舞伎からヒントを得たのではないだろうか。

追記4: 2月7日 NHKBSプレミアム 午後11時20分から「プレミアムステージ」で、『四天王御江戸鏑(してんのうおえどのかぶらや)』があります。初春に国立劇場で公演されたものです。娯楽性にとんだものとおもいます。歌舞伎の多様性をおたのしみください。