小林秀雄と志ん生

小林秀雄さんの講演CD『随想二題 本居宣長をめぐって』を聞いた。小林秀雄さんは文芸評論家の大家であるし、本居宣長は国学者の大家である。文字で読む気はなく、言葉で聞くほうが少しは分かることもあるかも知れない。少し厳粛な気持ちで聞き始めたら、小林秀雄さんのイメージと違う。少し声が高く、調子が東京の下町あたりのおじさんの話し方である。誰かに話し方が似ている。誰だ。志ん生師匠である。(志ん生師匠は落語界の大家・おおやである)

本居宣長については言及しない。手の出しようがないので避ける。このCDの解説に安岡章太郎さんが「口伝への魅力」と題し、文章をかかれている。

「小林さんは非常な努力家で、講演一つたのまれても何箇月も前から話を用意して、練習する。」

一緒に岡山に講演に言った時の様子は次のように書いている。「私たちより一日早く岡山へ行き、ホテルの部屋に一人閉じこもったきり話の練習をしてゐた、と随行の人から聞かされた。そして、いよいよ講演会がはじまると、小林さんは遅れて私たちの控える楽屋に下りてきて、コップ酒を所望され、それを一杯飲みほして、ゆっくりと演壇に上がり、やや前かがみの姿勢で訥々と話はじめる。そのへんの呼吸は、たしかに志ん生をまなんだと思はれるフシもないではない。」

この文章を読み、こちらもコップ酒を飲んだつもりでもう一度小林さんの志ん生節で聞くと、偉い国学の先生が医者の仕事をしつつ、こつこつと自分の学問を自費出版する一人の研究者の姿となって浮かんでくる。

小林さんは言う。「宣長は自分の墓には山桜が一本あればいい。それだけでいいと言ったんです。」「『もののあわれを知る』ということは、心が練れることなんです。」落ちは落語より難しい。

 

 

神田祭と神田の家

神田明神の資料館で江戸時代の【神田祭】の盛大な様子を知る。山、鉾、人形、花などを飾りつけた山車が36番まであり、山車は本で数えるのだそうで、40本前後の数である。それが曳き出されるのであるから、江戸の町が埋め尽くされる感じである。その山車が続く祭礼の絵図が展示されているが、36番までの絵もあるのでそれを順番に眺めその大きさを想像すると、自ずとその行列の長さが思い起こせる。どれも8メートルを越えていたとある。

山車も10番は<鞍馬山>で義経と天狗の人形が。能・芝居・歴史的ヒーロー物が多い。22番<紅葉狩>。27番<小鍛冶宗近>。28番<佐々木高綱>33番<源義経>などである。天下祭と呼ばれた神田祭は江戸城の中にまで入り将軍や奥方たちも上覧していた。田安御門から江戸城内に入り、上覧前を通過、竹橋御門を経て常盤橋御門から江戸城外へと出ている。

歌舞伎の「夏祭浪花鑑」(故・中村勘三郎さんが得意としたと書かれていた)の長町裏の場で団七が舅・義平次のいじめに耐えかねて手を掛ける時、後ろの黒板塀から高津神社の夏祭りの山車の上部が見え通りすぎてゆくが、歌川国芳の浮世絵ではその山車を神田祭りの山車で画いている。昔の本郷座のポスターもそうであった。ご愛嬌で関東にかえたのであろう。

神田明神そばの宮本公園内に[神田の家]がある。屋上回遊庭園から降りたほうがわかりやすいが、その建物は江戸時代から神田鎌倉町(現在の内神田一丁目)で材木商を営んできた遠藤家の関東大震災後に建て替えた店舗併用住宅である。オリンピック開催にともない木造建築は立ち退きとなり府中に移築し、木造建築の伝統的技術を兼ね備えていることから千代田区の有形文化財となり、遠藤家が神田明神の氏子総代を務めていたこともあり今の地で活用されている。8、18、28日は有料で説明付きで内覧できる。(但し時間が決められている)今の職人さんでは直すことの出来ない細かい仕事や、生活しやすい工夫と隠れたおしゃれさもある。この家を残された当主は史跡将門塚保存会でも尽力されている。

この保存会の方々であろうか、信仰されている方であろうか、将門塚にお線香をあげに来られていた。短い時間に二人の方に会った。将門は今も庶民のそばにいるのである。

神田明神にはお馴染みの銭形平次親分の顕彰碑が明神下を見守る場所に建っており、日本画家・水野年方顕彰碑、京都伏見稲荷大社の神職の国学者・荷田春満に江戸で最初に入門したのが神田明神神主家の芝崎好高で、賀茂真淵も芝崎家に一時住んでいたことから国学発祥の地碑なども建っている。

神田明神に行く時はJRお茶の水駅から聖橋の右手欄干沿いに歩いて、橋の上からJR総武線・中央線の電車と地下鉄丸の内線の電車が三本交差するのが見れた。帰りははお茶の水橋に周りそこから聖橋を眺めると聖橋が神田川に逆さまに映り、橋の下のアーチが円を描いている。この丸いアーチの中を地下鉄丸の内線の電車が通って行く。人口的な風景なのにその中をかい潜って見せてくれる健気な風景である。

 

柿葺落四月大歌舞伎 (一)

新しい歌舞伎座で一番拍手を贈りたいのは三階席から花道の七三(すっぽん)が見えることである。ここが見えるのと見えないのでは物によっては芝居が半減するものもある。今回の観劇で感じたのは、役者さんたちが気持ちを引き締めていることである。これだけの数の歌舞伎役者が同じ舞台に立つということは滅多にあることではない。この機に、幹部たちは芸を伝えようとし、次の世代はそれをしっかり受け止めようとの気迫がある。それはやはり、新しい歌舞伎座出演を成し得なかった方々への鎮魂と魂の引継ぎであろう。華やぎの中にも静謐さがある。

【第一部】 一、壽祝歌舞伎華彩(ことぶきいわいかぶきのいろどり) 鶴寿千歳

宮中での祝いの舞と新歌舞伎座の祝いを掛け合わせた舞踊で厳かな中にも艶やかさがある。染五郎さんの春の君と魁春さんの女御の踊りの後、権十郎さんと高麗蔵さん率いる宮中の男性と宮中の女性10人が並ぶと華やかさが増し、そこに長寿の象徴の藤十郎さんの鶴が降り立つと、新歌舞伎座開場を供に寿ぐ気持ちにさせられる。染五郎さんは先月一條大蔵卿を演じられているので一層貴族の優雅さが増したように観える。衣裳の扱いも美しい。おそらく若い役者さんで初めて着る衣裳の方もあるであろうが、一ヶ月その衣裳と付き合えると云う事は体に馴染むわけで貴重である。金の鶴を飾った冠に薄物の白の衣裳でゆったりと鶴の形を見せつつ踊る藤十郎さんのほんのりした柔らかさがほのぼのとさせてくれた。

二、お祭り  十八世中村勘三郎に捧ぐ

勘三郎さんゆかりの役者さんたちが明るく踊ってくれる。幕が開き浅黄幕のとき「十八代目中村屋」のお向こうさんの声がかかる。浅黄幕が下りると三津五郎さんの鳶頭を中心に、橋之助さん、彌十郎さん、獅童さん、亀蔵さん。芸者衆が福助さん、扇雀さん。若い者、手古舞と賑やかである。途中勘九郎さんと七之助さんと、なんと勘九郎さんの息子の七緒八くんが花道から登場である。予想外のサプライズである。舞台真ん中の床几に行儀良く座り動じることなく、開いた扇を持って動かしたりして皆の踊る様子などをみている。驚いたのは勘九郎さんが踊りの最後右袖を左手で少し上げ見得を切ると七緒八くんが同じように座ったままで可愛らしく見得を切ったのである。今回、この一番小さい七緒八くんから始まり、国生くん、宗生くん、宜生くん、虎之介くん、金太郎くん、大河くん、玉太郎くんがきちんと役にはまり子役としての力量を示してくれた月でもあった。

三津五郎さんと巳之助さんがおか目とひょっとこのお面で踊るのを観ていると、三津五郎さんと勘三郎さんの「三社祭」がふっと浮かぶ。勘九郎さんが左足で立ち右足をたっぷり引いて間を置き大きく前にせりだしいい形に決まると、勘九郎さんが膝を痛めたとき勘三郎さんが「俺さらはなくても踊れるよ。代わろうか。」と言われてた映像を思い出す。七之助さんは、厳島での連獅子の時毛振りを注意されていた。もっともっと勘三郎さんに怒って注意して欲しかったと思う若い方は多いであろう。怒られてもこの人ならと思える関係はなかなか得られるものではない。そんな事をつらつら考えつつ「お祭り」を楽しませてもらった。

 

優れものの豆知識

駅や地下鉄通路にある小冊子をひょいひょいと頂いてきて電車の中で楽しませてもらう。

先日手にした小冊子には<「銀ブラ」のホントの語源は?> 答え<銀座でブラジルコーヒーを飲むこと>だそうである。銀座をぶらぶらそぞろ歩きと思っていた。

補足の文が気に入ったので載せる。 [大正時代、銀座に集まる若者の楽しみの一つだった “銀座の『カフェーパウリスタ』にブラジルコーヒーを飲みに行くこと” が「銀ブラ」の本来の語源だとのこと。とはいえ一般的な “銀座をブラブラ散策する” という使われ方も決して間違いでありません。どちらの意味も銀座という街の文化や歴史、楽しみ方をよく表していると思いませんか。]  思います。

神田明神に行ったときに手にした冊子には、神田川に架かる<聖橋>について [関東大震災の復興橋梁の一つである。聖橋という名は公募による命名で、神田川左岸の湯島聖堂と右岸のニコライ堂という、東洋と西洋の二つの聖堂を結ぶ架け橋であるところから名づけられたという]  なるほど。

違う冊子には、神田の緑と聖橋の関係を解説。 [自然の緑を楽しむなら、御茶ノ水橋から聖橋をみると良い。それは聖橋の色彩が、新緑の緑よりもずっと色味を抑えた色彩であるため、より鮮やかな新緑の緑が印象的に見えるからである。]  緑と聖橋の相性を新緑の頃確かめたいものである。

浅草歌舞伎を観ての帰り吾妻橋に寄り、そこから見た駒形橋のブルーがあまりにも綺麗なので渡りたくなり駒形橋を目指す。本当は墨田川沿いの散策路を歩きたかったが薄暗いのであきらめる。駒形橋の歩道は川の方に小さな半円の出っ張りがありそこに立つと川の流れがよく見える。こちらから見る吾妻橋の鈍い赤い光もなかなか風情がある。ブルーの駒形橋をぐるっと一回りして、厩橋から駒形橋はどう見えるか知りたくなり厩橋を目指す。夜でもあるので目指す途中は全然面白みがない。厩橋に到着。この橋は地味である。上の方に小さなステンドグラスがはめられている。それも控えめに。さて駒形橋はどうか。後ろからの光が反射してか綺麗なブルーが見えない。くすんだ濃いグレーである。何回か経験済みだが橋の良さは見る方角で決まる。時間、季節も関係するであろう。またの機会に違う姿を見せてもらうことにする。

 

 

息抜き雑感

歌舞伎「籠釣瓶(かごつるべ)」の観劇感想がいまだ上手くまとまらずもやもやしている。元歌舞伎座であれば一幕見があったので駆けつけてもう一度見ているところである。新しい歌舞伎座に一幕見は出来るのであろうか。昼の部を見て夜の部の一幕を見るため走ったり、昼の部の一幕を見て安心して夜の部を見たりと様々なバージョンを組み合わせられたのも観劇継続の条件に入っていた。願わくば・・・・であるが。

 

長唄にも盛遠(もりとう)と袈裟御前(けさごぜん)の逸話を題材にして作品が出来ていた。「鳥羽の恋塚」で、どんな長唄か聴きたかった。YouTubeで検索したら映像があって聴けた。それも作曲した四世吉住小三郎さんの映像である。何と幸せな事か。作詞は半井桃水(なからいとうすい)。あの樋口一葉の文学上の師であり恋した相手である。詞はよくまとまっておりなかなかである。そして曲が良い。こういう時、パソコンの便利さを思う。京都の丹波橋から桂川よりに盛遠が文覚上人となってから袈裟御前のために建立した恋塚寺があるようだ。

 

お勧め映画。<山田洋次監督が選んだ日本の名作100本 喜劇編>にいよいよ「喜劇 にっぽんのお婆あちゃん」が放映される。12月18日(火) NHKBSプレミアム 21:00~ 監督は社会派の今井正、脚本が水木洋子、主演がミヤコ蝶々と北林谷栄である。主演お二人のやり取りは見所だが、その他色々なおばあちゃんが出て来て、それまで演じてきた役者さんの特徴をよく掴んだ役柄にしていてそれも可笑しくて楽しい。セールスマンの木村功さんのセールスマンぶりは必見かもしれない。水木さんの締めくくりは転んだままでは居ないのである。すくっと起き上がるのが良い。三木のり平、小沢昭一、渥美清、伴淳三郎等うまく使っている。山田監督、山本晋也監督、小野文恵アナウンサーのコメントも興味深い。

 

 

平家伝説と歌

平家伝説が様々のところにあるらしい。そしてそこには歌も残されている。

宮崎県の椎葉村にも平家の落人伝説がある。壇ノ浦で敗れた平家の残党が椎の里に隠れ住んでいた。残党狩りのため探索に来た源氏方の那須大八郎宗久(那須与一の弟)はこの隠れ里を見つける。しかし、慎ましく静かに暮らす落人の生活に感銘し、この地に留まる。やがて大八郎は、平清盛の末裔である鶴富姫(つるとみひめ)と恋仲となるが、鎌倉の命で帰国してしまう。鶴富姫は大八郎の子を産み、その女の子に婿をとりこの地の那須家の始祖としたとのはなしである。

民謡「ひえつき節」は大八郎と鶴富姫の悲恋を歌ったものだそうで歌詞を見ると出てくる。

庭の山椒の木 鳴る鈴かけて ヨーオーホイ (これは聞いたことがある)

おまや平家の公達ながれ~

那須の大八鶴富捨てて~

しっかりと二人のことが歌詞になっている。気にもかけずに聞いていた事になる。

宮崎県の民謡「五木の子守唄」も五木村に平家の落人伝説が語り伝えられ、落人伝説と関係があるともいわれているようである。

 

 

日本近代文学館

第49回 日本近代文学館 夏の文学教室

この教室に参加するのは数十年ぶりかも。7月30日~8月4日までだが、参加できたのは7月30日と8月1日の2日間。当文学館は全くの民間団体なので、文学の資料保存の意味からも大事にしていきたいものである。それぞれの専門家が、長年の研究と実践からの話を1時間。中身が濃く、こちらが調べたら膨大な時間の要する事を解かりやすく簡潔に話されるので楽しくて、色々メモしたが自分との繋がりが多義に渡りまとめ切れない。あまりにも沢山の好奇心を植えつけられ、嬉しい悲鳴である。

7月30日

日高昭二(大学教授) 「北をめざす人」

伊藤比呂美(詩人) 「土着のチカラ」

坂東玉三郎(歌舞伎役者) 「泉鏡花の世界」 聞き手 真山仁(作家)

 

8月1日

木内昇(作家) 「文士日記にみる東京」

川本三郎(評論家) 「鉄道が作り出した風景ー夏目漱石から松本清張まで」

浅田次郎(作家) 「江戸の基礎知識」

 

少しづつ、何処かで使わせてもらうことでしょう。