東北の旅・青森五所川原の町(5)

五所川原に泊ったのは、次の日の青森までの到達時間が適当であったことと、ホテルに温泉があったからである。温泉でなくとも、大浴場があると、やはり疲れがとれる。今回の旅は、骨折を予期していたようなゆっくりタイプである。いつもは、ホテルで、次の日の予定を決めるのに時間を取られるのであるが、今回はその必要もない。そんな気力もないほど疲れてしまい早々と寝入ってしまった。身体は不思議なものでどこかが悪いと、かばうのであろう。旅のあと、それが腰にきてしまった。

さて、太宰治に関してもう少し付け加える。金木と五所川原を、太宰さんは小説『津軽』で次のように表現している。<大袈裟なたとえでわれながら閉口して申し上げるのであるが、かりに東京を例にとるならば、金木は小石川であり、五所川原は浅草、といったようなところであろうか。ここには、私の叔母がいる。幼少の頃、私は生みの母よりも、この叔母を慕っていたので、実にしばしばこの五所川原の叔母の家へ遊びに来た。>

太宰は、母が病弱だったため生まれるとすぐ、乳母に育てられる。三歳のころ、子守りのたけが太宰に付き添う。叔母とたけについては、小説『思い出』でも語られている。五所川原へは、たけも一緒にいっている。そして、小学校に入るとたけは突然いなくなる。お嫁にいったのだが、太宰が後を追うのではないかとの懸念からか黙っていってしまう。お盆には訪ねてくるが、よそよそしかったと書いている。そして小説『津軽』は、最初から『津軽』を書くために郷里を旅し、たけを探す旅となっている。

太宰の実家の<斜陽館>は、五所川原から津軽鉄道に乗り換え、6つ目の駅である。以前金木は訪ねているので今回は予定に入れていない。それなのに太宰さんと会えるとは、旅の面白さである。こちらのNPOの団体が太宰の訪れた叔母さんの蔵を、現在復元再興を前提に解体し保存していて、記念館にしたいとしている。<立佞武多>を復活させた町なので、成し遂げるような気がする。

青森と弘前のねぶたは知っていたが、五所川原は知らなかった。正式には、青森は<ねぶた>で、弘前は<ねぷた>らしい。五所川原は<立佞武多(たちいねぷた)>である。<立佞武多の館>に行くと、高さ23mのねぷたを見ることが出来る。4階の高さで、ねぷたの顔が目の前にある。こんにちわである。このねぷたは、明治時代に隆盛を極め、電気の普及により、電線が邪魔をし、低いねぷたになったのであるが、1996年に市民有志が22mの大ねぷたを復活させる。そのねぷたは燃やしてしまうが、その炎は市民の心に灯され、1998年に<五所川原立佞武多>として、90年ぶりに復活させる。実物を見て、写真を見ていくと、1996年の市民の気持ちが伝わってくる。

時期によっては、制作作業を見学できるらしい。巨大スクリーンと係りの人の解説付きで映像が見れるので立佞武多がより身近なものとなる。三体のうち毎年一体は新しくされ、今年は<国姓爺合戦>の和藤内の虎退治のようである。歴史的な題材で、義経、陰陽師など歌舞伎にも通じるものが多い。ねぷたの背面絵も興味深い。葛の葉があったりする。お祭りの時は、この館のガラス面が開き、立佞武多が出陣する様は圧巻間違いなしである。形は逆三角形で、一番下の台座に<雲漢>の文字がある。これは<天の川>の意味で、青森ねぶた、弘前ねぷたにもあるらしい。「ねぷた祭り」は、七夕の日の「眠り流し」(燈籠流し)が起源という説があるのだそうだ。今夜の天の川は、遥かかなたのようである。

 

ねぷた

 

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友人に<立佞武多>の絵葉書を送る。<感動したのに納得>とひと言付け加える。友人も去年同じところを骨折したらしい。そちらの同じ道は通りたくないのであるが、仲間意識が強すぎる。

五所川原には、青森県一の富豪がいて、その人の住まいは<布嘉>と呼ばれ、<斜陽館>と同じ弘前の棟梁が建てている。そのレンガの塀が少し残っていた。その屋敷のミニチュアが、<布嘉屋>という資料館にあるそうだが開館時間が過ぎていた。兎にも角にも、五所川原宿泊も上手く行ったことになる。

内田康夫さんの『津軽殺人事件』には、<斜陽館>や<五所川原>の事も出てくる。<斜陽館>は、旅館だった時代で、印象があまりよくなかったらしい。浅見光彦さんには、『旅と歴史』だけの仕事で、もう一度訪ねてもらいたい。今回の旅に『砂迷宮』(内田康夫)を持参したが、開かずに持ち帰った。この本に手がいったのは、泉鏡花の『草迷宮』と、寺山修司さんが泉鏡花のこの作品をもとに映画化しているということを知ったからである。今、読み始めている。

五所川原の<立佞武多>を太宰治さんに見せたかった。もし見ていたら、彼の中で何かが変わっていたような気がする。

 

東北の旅・五所川原~青森~盛岡 (青森県立美術館)(6) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

パソコンを閉じて旅に出よう

寺山修司さんの、『書を捨てよ、町へ出よう』を捩らせてもらった。加藤健一事務所 『請願 ~核なき世界~』を観に、下北沢の本多劇場に行った帰り、劇場の下にある名前の判らぬ、楽しいお店に寄る。様々な雑貨や本、CDなどが置いてあるお店で、眺めているだけで楽しい場所である。迷路のような雑貨の間に本が、分野別にあり、その分野が無造作でありそうで、結構こだわりで置いてありそうで手が伸びる。そして、『 回想 寺山修司  百年たったら帰っておいで 』(九條今日子著)、『 寺山修司とポスター貼りと。  僕のありえない人生 』(笹目浩之著)をゲットする。

<天井桟敷>の設立の様子や、当時の若者を魅了した演劇という異界が裏から見れるという著書である。お二人とも、私的なことをも含め深く係られていたのであるが、お二人の生き方が、自分の仕事の役割という事を客観的に捉える眼を持たれていて、寺山さんをまやかしの情念の方向に持っていかないところが爽やかである。

今回の四日間の東北の旅は、バスツアーを二日入れており、<青森三沢市寺山修司記念館>には寄れないのである。もう少し寺山さんの作品を読んでからのほうが良いかもしれない。寺山修司没後30年「寺山修司◎映像詩展」のとき、九條今日子さんの話を聞いている。元女優であり、寺山さんの元夫人ということであったが、思いのほか虚勢の無い方であった。この好印象が、『回想 寺山修司』の本に手が伸びた要因の一つでもある。それは当たっていた。きちんと回顧録になっており、この手の一度読めば結構の妙な甘さがないのである。最後に九條さんに寺山さんのことを託された、<修ちゃんのお母さん>は修ちゃんのために最善のことをされたわけで、それに九條さんは嵌められたのか、知っていて嵌ったのかその辺は想像の域である。

この「寺山修司◎映像展」では、笹目浩之さんが経営するポスター・ハリスカンパニー主宰でポスターハリスギャラリー(渋谷・文化村通りドン・キホーテの裏)でポスター展をやっていたのであるが、、そのあたりを探したが場所が判らなかった。時間も無かったのであきらめた。残念な事をした。

今回の旅に「青森県立美術館」を入れていた。白い建物も見たかったのである。何を展示しているのかも調べていなかった。常設展として、<寺山修司×宇野亜喜良 ひとりぽっちのあなたに>があり、寺山修司さんに逢えたのである。しかし、動かない展示物としての寺山ワールドは東京の街中で逢う寺山ワールドと違い、至っておとなしくうつった。青森に飲み込まれてしまったようである。それを考えるとあの、『田園に死す』の映像のインパクトが必然だったのか。『回想 寺山修司』の映画『田園に死す』の箇所で、民族考証として加わった田中忠三郎さんの名前があったのも嬉しい。田中さんを知ったのは、映画 『夢』 である。

寺山さんの作品は映像で、美輪明宏さんの『毛皮のマリー』を見ている。蝶を追いかける少年が誰だったのか覚えていない。少年は蝶を追いかけるのが目的か、捕まえてピンで留めるのが目的か、自分がピンで留められるのが望みか、逃げて自由に飛び回るのが望みか結論がない。飛んでは傷つき毛皮に包まれ、飛んでは傷つき毛皮に包まれ、そんな事を夢観ているのかもしれない。

どこかで蝶に出会うと、君はどんな少年に追いかけられてるのかと問いただしたくなる。

確か、映画『ビートルがやって来る ヤア!ヤア!ヤア!』で、リンゴ・スターが本ばかり読んでいて、マネジャーらしき人に「本を捨てて町に出よう」らしき事を言われるところがあったと思う。この映画も、ドキュメンタリータッチで、歌謡映画的予想をして観に行って戸惑った記憶がある。

戸惑いは、前進か裏切りか、安住でないことは確かである。

 

銀座再発見

スーパー歌舞伎『ヤマトタケル』のパンフレットを探していたら、「東京文学探訪~明治を見る、歩く(下)」(井上謙著)が見つかる。NHKラジオのカルチャーアワーのテキストである。2001年であるから、その頃時間があれば訪ね歩こうと思って購入したらしい。ラジオは聞いていない。これが地図つきで参考になる。銀座の朝日ビル前の石川啄木歌碑の写真がある。

本郷菊坂散策 (2) で啄木さんが上野広小路から切通坂を上って貸間の住まいに帰った、その勤め先が銀座の東京朝日新聞社なのである。年譜によるとその以前に生活困窮から、金田一京助さんに助けられ「蓋平館別荘」 (現太栄館で玄関前に<東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる>の歌碑がある) に移り住み、さらに同郷の当時の東京朝日新聞編集長斎藤真一さんの厚意で校正係りとして入社し、切通坂上の「喜之床」二階に引っ越し家族を呼びよせるのである。

当時、銀座四丁目付近は新聞社がひしめき合っていた。東京朝日新聞は銀座四丁目交差点から並木通りに入りみゆき通りを横切り新橋方面にある。現在は朝日ビルとなり、そのビルを眺めるかたちで、啄木碑がある。例の美男子のレリーフつきである。<京橋の瀧山町の 新聞社 灯ともる頃の いそがしさかな>。銀座は京橋区であったらしい。この位置とするなら、電車本通線で銀座四丁目から京橋→日本橋→宝町三丁目→須田町まで行き、そこで上野線に乗り換え、須田町→万世橋→上野広小路へと移動し、そこから湯島天神を通り切通坂を登って帰路についたのではなかろうか。

この頃、啄木さんは自虐的な生活でローマ字日記を書いている。24歳。肺結核のため27歳(数え年)で亡くなるが、その頃交流していた土岐善麿さんが自分の生家である浅草にある等光寺で葬儀を行っている。土岐さんは、啄木さんの第二歌集の出版契約に奔走し、啄木さんの死後出版された歌集『悲しき玩具』は土岐さんの命名である。(第一歌集『一握の砂』)土岐さんの第一歌集はローマ字である。

第二の発見は、画家の岸田劉生さんが銀座生まれであったということである。世田谷美術館で『岸田吟香・劉生・麗子ー知られざる精神の系譜』を開催していて、そこで知ったのである。岸田吟香というかたが、「吟香が和英辞典をヘボン博士に協力して完成した礼として水薬の目薬の製法を伝授され、日本ではじめての目薬として売り出したのが精錡水だった。」(『父 岸田劉生』岸田麗子著) この目薬を銀座で売っていたのである。薬舗「楽善堂(らくぜんどう)」を銀座に構え、事業家、出版人、思想家、文筆家として活躍した人である。劉生さんは、東京日日新聞に「新古細句銀座通(しんこざいくれんがのみちすじ)」と題して銀座の生家の思い出を書かれている。それによると、<明治二十四年に銀座の二丁目十一番地、服部時計店のところで生れ、鉄道馬車の鈴の音を聞きながら青年時代まで育った>としている。鉄道馬車だったのである。麗子さんが訪れた時は、<銀座の本家は、表通りの立派な本家ではなく、表通りの一つ後ろの通りで、越後屋の裏あたり>としている。劉生さんの作品である<麗子像>や<坂道>などは、神奈川県藤沢の鵠沼(くげぬま)時代のもので、銀座などは思いもよらないことであった。ヘボン博士はローマ字を考案した人で、それを啄木さんや土岐さんが使ったのである。

もう一つは発見と言えるかどうかであるが、銀座の山野楽器で歌舞伎関係のDVDを購入したところ、特典として歌舞伎座のポストカードがついてきた。それが、第一期(1889年開場)、第二期(1911年~1921年)、第三期(1924年~1945年)、第四期(1951年~2010年)、第五期(2013年開場)の五枚の歌舞伎座の写真であった。これは嬉しかった。第一期と第二期は白黒で第三期は少しセピア色、第四期は真っ青な空で光の陰影がはっきりしていて、第五期は夜のライトアップされた姿で後ろのビルを闇にそれとなく隠している。歌舞伎座は三月、四月を鳳凰祭として公演している。今年は松竹が歌舞伎経営を始めた大正三年(1914年)から100年を迎えるので、ポストカードはその記念なのかもしれない。今回全ての席から花道七三を観えるようにしたことは画期的である。関西の劇場で二階席から花道が観えなくて信じられない経験をしたことがある。

森鴎外さんが、二つの歌舞伎座を知っていたのであるが、それが、第一期と第二期であることがわかった。鴎外記念館でそのことを書かれていて何時の歌舞伎座か失念していたので大したことではないが、気になっていた。これですっきりした気分になれた。

映画『日本橋』と本郷菊坂散策 (3)

 

朝倉摂さんからスーパー歌舞伎へ

朝倉摂さんの訃報から、その舞台装置をあらためてみたいと考えたらスーパー歌舞伎『ヤマトタケル』のDVDがあるのに気が付く。さらに、梅原猛さんと市川亀治郎(現猿之助)さんの対談『神仏のまねき』をまだ読んでいないで書棚の中である。DVDを観て、本を読んで、大変面白かったのであるが、疲れも出てしまった。

DVDは1995年(平成7年)4月の新橋演舞場での公演である。私が『ヤマトタケル』の舞台を観たのもこの年が初めてである。この作品の初演は1986年(昭和61年)2・3月の新橋演舞場である。その時の配役は猿之助(現猿翁)さん、延若さん、児太郎(現福助)さん、宗十郎さん、門之助(七代目)さん等が参加されていた。舞台装置は朝倉摂さんで、音楽に文楽の鶴澤清治さんの名もある。『神仏のまねき』には、初演に至るエピソードやスーパー歌舞伎を目指した猿翁さんの思いや、哲学者である梅原猛さんが劇作家となった経過などが猿之助(亀治郎)さんとの対談を通して明らかになる。そして、今から10年前いやもっと前から現猿之助さんが新しいスーパー歌舞伎を目指していたことがうかがえる。

1995年の10年後の2005年には市川右近さんと段治郎(現月乃助)さんがヤマトタケルとタケヒコの交替ダブルキャストで公演されている。この時は右近さんのヤマトタケルで、2008年には月乃助さんのヤマトタケルで観ているが、猿翁さんのヤマトタケルとは違う意味で楽しめた。それは何かと言うと、猿翁さんの時は、当時の猿之助さんとしての猿翁さんの生き方イコールヤマトタケルが密着していて、「 天翔ける心 それが この私だ 」の科白を聞いてるこちらが気恥ずかしくなってしまったのである。わかっている事を面と向かって言われどうしたらよいのやら。今回、DVDを観ててもその感覚は同じであった。しかし、右近さんと段治郎さんのときは、芝居の中のヤマトタケルの科白として素直に容認できた。若い世代に受け継がれる事によって、芝居と演者の間に観客にとって必要な想像の空間が生まれたのである。

『神仏のまねき』のなかで、縄文人と弥生人にふれ「縄文人というのはたいへん精神的に高い人間で素晴らしい文化を持っていた。しかも人間的に非常に立派だった。しかし、弥生人が入ってきて、生産力の違い、それから武器の違いのために滅んでいった」と梅原さんは考えられる。ヤマトタケルは弥生人である。最初に猿之助(猿翁)さんが脚本を読んだとき、これではヤマトタケルが悪い事をしているようだとして、自分にも好い科白をといってできたのが「 天翔ける心」の科白ということである。

2005年のパンフレットには、鶴澤清治さんのお名前がないので、音楽も1995年と変化しているのであろう。そのあたりどのように変ったのか記憶に残っていない。1995年の太棹の音は琵琶にも聞こえ哀切と猛々しさが交差する。

残念ながら、現猿之助さんの『ヤマトタケル』は観ていないのである。『神仏のまねき』を読んでいると残念さが増すが、いずれ出会える事もあろう。

朝倉摂さんの舞台装置も思い出した。あかね雲や富士山は忘れていた。2005年のパンフレットには、1986年スーパー歌舞伎の原点として舞台写真が載っていて、舞台装置もしっかりみることができた。舞台転換などの時に観る者の気持ちを変えてくれ、その後は芝居に集中させるものであると朝倉さんは考えたであろうし、舞台装置が残るようでは役者さんの演技の意味がない。

『神仏のまねき』のなかで猿之助(亀治郎)さんが梅原猛さに尋ねられている。<今の若い世代が孤独に耐えうるために、西洋でいう一神教の神のような、そういうものに代わるのは例えばなんだと思われますか><怨霊が一番いいんだけどな><怨霊を鎮魂するという行為に向かえばいかがでしょう><そう、鎮魂です> あまり簡略化してはいけないのであるが、スーパー歌舞伎Ⅱの『空ヲ刻ム者』の若き仏師・十和の求めていた答えとも受け止められる。

観る対象者がいることからすると仏師も演技者も類似するところがあるかもしれない。

舞台美術から飛躍したが、朝倉摂さんはきちんと歴史を捉える事を大切に思っていた方だから、舞台を通じて通過した時代を眺めることを若い人達にも推奨するであろう。

朝倉摂さんの舞台美術でもう一冊パンフレットがあった。『6週間のダンスレッスン』である。2008-2009とあるので地方公演もされたのであろう。草笛光子さんと今村ねずみさんの二人芝居である。室内の白い籐椅子がクッションの色、草笛さんの衣装の色を引き立てる。パンフレットの表紙があまりにも素敵なお二人で思わず買ってしまった。もちろん舞台のお二人も魅力的でした。

 

 

東慶寺の水月観音菩薩

桜もおしまいなのに、梅の時期の話である。東慶寺から城ケ島へ (1) で、東慶寺の<水月観音菩薩半跏像>正式名は国立歴史博物館のほうが正しいのかもしれないが、遊戯は観音様としては軽すぎるということであろうか。岩にもたれかかり、水面に映る月を眺められているのである。個人的には観音様も全ての慈悲を放出され、ふっと水に映る月に心をうつしほっとされているようで心温まり好きなのである。今回は松岡宝蔵での公開であった。水月観音菩薩の背後に背を合わせて、同じようにくつろがれている<観音菩薩半跏像>があった。この二つの形は、中国では観音は補陀落(ふだらく)に住むといわれ、それと仙人が結びついていると考えられているそうで、<人>の風が吹いているのであろうか。鎌倉周辺にしか見られない形で、京都では菩薩として相応しくないとして受け入れられなかったのではとある。なるほどそいうこともあるかもしれない。仏様のお姿も、同じ仏様であっても、同じ人間が拝見しても、その心持によってその時々で変るものであり、そこがまた違う感覚を呼び覚まされるから拝見しに行くのである。

<聖観音菩薩立像>(木像)の土紋の装飾も記憶からは初めてである。衣の部分に<粘土を型に入れて作った花形をはりつけ、表面に彩色したもので<鎌倉地方独特>とある。鎌倉には鎌倉独特の仏の捉え方があったのであろう。

縁切り寺として、その資料も展示されている。さらに第二十世住持天秀尼は、豊臣秀頼の側室の子で、秀頼には別の側室にもう一人国松という男の子がいた。大阪城落城により二人の子は捕らえられ、国松は殺されてしまうが女の子は秀頼の息女として家康の許しのもと、天秀尼として東慶寺に入寺している。この天秀尼の遺品なども展示されている。今回は『天秀尼』・永井路子著(東慶寺文庫)を購入できた。

夏目漱石の和辻哲郎へ、マツタケをもらったお礼の書簡もあった。東慶寺に<漱石参禅百年記念碑>がある。長い文が刻まれているので、眺めるだけで詳しくは読まなかったのであるが、「資料紹介 漱石と縁切寺東慶寺」(高木侃著)の「続」と二冊(小冊子)あったので買わせてもらった。それによると、漱石さんは明治27年に円覚寺塔頭帰源院にて、釈宗演管長と宗活のもとで参禅し、大正元年に東慶寺を訪れ宗演師と再会されている。

円覚寺での参禅については、小説『門』に書かれている 。「宗助は一封の紹介状を懐にして山門をはいった。」で始まり「 「少しでも手がかりができてからだと、帰ったあとも樂だけれども。惜しいことで」 宗助は老師のこの挨拶に対して、丁寧に礼を述べて、また十日前に潜った山門を出た。甍を圧する杉の色が、冬を封じて黒く彼の後ろに聳えた。」で終わっている。碑のほうは、宗演老師の書簡と漱石さんの二十年振りに老師に会ったときの「初秋の一日」の文章の一部が刻まれていた。

宗演師も漱石さんも知らない事であるが、漱石さんの父親が名主をしていたところ住居していた女性が東慶寺に駆け込んでいたのである。小冊子にはそのことを詳しく書かれてある。

漱石さんは大正5年50歳で亡くなられている。漱石さんの希望で、葬儀の導師は宗演師であった。

少しかたい話になってしまったが、東慶寺のお花は梅とその根元に可愛らしく可憐に咲く黄色の福寿草であった。梅と福寿草。なかなか相性の合う組み合わせであった。

 

 

本郷菊坂散策  (2)

菊坂に行く前に石川啄木さんも歩いた道としての案内板があり、メモを無くしてしまったので何んと書かれていたか探さねばと本をめくっていたら出た来た。(「東京文芸散歩」坂崎重盛著) その前に本に載っている地図から池之端の仲町通りが見つかる。春日通りに平行して不忍池側の不忍通りとにはさまれた位置に仲町通りとある。この通りの角から、お蔦さんは不忍池の弁天様に手を合わせたのであろう。皮肉な結果になってしまうが。

本によると、池之端の料理店「清凌亭」で佐多稲子さんが働いていて、菊池寛さん、芥川龍之介さん、久米正雄さん等作家達の話を耳にしていたとある。

啄木さんは東京朝日新聞の校正係りとして上野広小路から切通坂を上り、本郷通りを横切り下宿先の床屋喜之床の二階に帰ったのである。春日通りの途中に啄木さんの通った道として案内板がある。<二晩おきに、夜の1時頃に切通の坂を上りしも、勤めなればかな> 喜之床は明治村に移されていて、そのあとには理容院アライがあるようであるが、そこまでいかなかった。本郷3丁目交差点手前に老舗の藤村菓子舗がある。もっと手前では、小さいお店だが菓子店があり人が何人か入るので立ち止まってしまったが、壺の形をした最中を売る壺屋総本店であった。

本郷3丁目交差点から菊坂を目指すのであるが、二回ほど来ている。一度は人まかせで、二度目は交番で道を尋ねたので、今回も交番でお世話になる。菊坂はすぐ分かったが、近くに文京ふるさと歴史館があるので、どちらから行ったらよいか尋ねると、そちらから菊坂だと分かりづらくなるでしょうから菊坂の帰りに寄ってはどうですかと言われる。菊坂の入口に案内板があり、宇野千代さんが<西洋料理店・燕楽軒で給仕のアルバイトをしていて、宇野さんを目当てに今東光さんが通った>とあった。なるほどである。

前の二回では寄れなかった「本郷菊富士ホテル」跡を目指す。道標のあり探すのは難しくなかった。とにかく凄い数の文学者や著名人が泊っていたのである。現在の環境からすると想像できないのである。

「大正から昭和にかけてのころとなると、多くの作家や芸術家達が止宿したホテルというより、いわば高等下宿であったが、もともとは、「帝国ホテル」などに次いで「東京で三つ目のホテル」として、外国人を対象にしたハイカラなホテルであったようだ。そのエキゾチックさに、作家たちはひきよせられていったのだろう。」(「東京文芸散歩」) ここは様々な物語のあった場所である。

菊坂にもどり上がっていくと、一葉さんが通った伊勢屋質店があり、そこから徳田秋声旧宅に行きつこうとしたが行きつけなかった。再び菊坂にもどる途中で旅館「大栄館」があり、玄関前に啄木さんの歌碑がある。ここに啄木さんは一時寄宿したらしい。菊坂にもどり一葉さんの旧居跡へ。菊坂から脇の階段をおりるのであるが、適当に目星をつけて下りて路地をのぞくと今も住民の方が使っている井戸の上の手押しポンプが見える。ここである。生活圏なので、その前を静かに通る。また菊坂にもどればよかったのにそのまま先の階段を上がったために迷路に入ったように、方向を見失い白山通りに出てしまった。そのまま白山に向かえば一葉さんの終焉の地に行きついたのであろうが、頭が回らずそこで『本郷菊坂散策』は中止とした。

<文京ふるさと歴史館><宮沢賢治旧居跡><坪内逍遥私塾跡><振袖火事の本妙寺跡>などがあるのだが、次の機会とする。<坪内逍遥私塾跡>は真砂町にあり、『婦系図』の主税の真砂町の先生もこのあたりに住んでいたことになる。司馬さんの「本郷界隈」によると、坪内逍遥は私塾常磐会には3年いてそばの借家に移っている。そのあとに正岡子規さんがこの常磐会の寄宿舎に入っている。この高台の下に一葉さんが住んでいた。

「子規の友人の夏目漱石も一度ならずこの崖の上の寄宿舎に同窓の子規をたずねてきているのだが、崖下に一葉という天才が陋居(ろうきょ)しているなど、知るよしもなかった。」

 

 

『恋歌』 (直木賞受賞作)

いくさんからのコメントをこちらに移し、私の読後感を加えることにしました。他で水戸藩の内紛は壮絶を(明治維新にはそういう部分が他にもありますが)極めていたことを少し目にしていましたので近づきたくないと思っていたのですが、読み始めたら一気に読めましたね。

<いくさんのコメント>

「恋歌」を読みました。歌子が、一葉の師というより~今回の直木賞作品を読んでみたい!だけで、手にした小説です。本を見ると、厚くて(笑)・・・最近の私は、根気が無く長編というだけで、避けていたのですが・・・ところが、「恋歌」は、読むにつれ、グングンと惹きつけられ、アッという間に読み終えてしまいました。     時代は、尊王攘夷が叫ばれ、井伊直弼が水戸藩浪士によって、討たれた頃の事です。私は、水戸藩が、天狗党と諸生党とに分裂し、激しく戦っていた事を詳しく知らずに通り過ごしていました。この内分裂は、大変な悲劇を生み、特に天狗党の妻子(歌子も)は、赤ちゃんから老人まで、過酷な牢生活を強いられ処刑されていったのです。武士の妻として子に最後まで、牢の中で、学問を授け続けた母・歌子の「おはなし」に耳を傾け、餓えと痛みを一瞬忘れた幼子も処刑され・飢え死にしていったのです。これは、日本の話ですか?同じ国・同じ藩内の話ですか?と、文字を疑いたくなる思いでした。こうした苦しみを経て生き抜いた歌子が、死に際に諸生党の首魁・市川三左衛門の娘・登世(逃げ延びた娘)の三男を養子に迎える遺書を残します。歌子も登世も互いに敵同士(後に天狗党が、諸生党に報復する)であることを知った上で、授受するのです。この日までのふたりの心の葛藤もいかばかりか、計りしれないものが、あります。歌子は、それを手土産に愛する夫の処に旅立ったのだろう~と思いました。晩年、貞芳院(斉昭の妻・藩主慶篤・将軍慶喜の母)が歌子に語った言葉「かたき討ちは武士に認められた慣いなれど、多くの者は、本懐を遂げた後に自らも命を捨てた。ほうすることで、復讐の連鎖を断ったのやな。なれど、これが、多勢となると、復讐のための復讐も義戦となる。・・・人が群れるとは、真に恐ろしいものよ」は、まさしく!!でした。このやりきれない思いも~歌子の林以徳を想う歌は、やはり、素晴らしく、血なまぐさい戦いも「恋歌」で、蓋ってしまう。 …君にこそ恋しきふしは習ひつれ さらば忘るることもをしへよ・・・
読んでみて!!

<sakura>

結論から言えば、「君にこそ恋しきふしは習ひつれ さらば忘るることもをしへよ」の「さらば忘るることもをしえよ」は、恋のくるしさから<恋>を忘れることを教えよではなく、似徳の政治指針、天狗党も諸生党もなんとか一つの方向性を見出し外に向かって発進するということに対する、「さらば忘るることもをしへよ」へ、つながりました。<恋>は忘れることはなく、恨みを忘れる方法を見つけ出す事によって歌子は、より一層、似徳と重なり合えたんだと思います。歌を勉強したいと思ったのも似徳につまらぬ返歌をしてしまったという思いですしね。全てが<似徳>ですね。<似徳>=<恋>ですから、これが上手くいけば<歌>は「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあわむとぞ思ふ」だけで良かったのかもしれません。

読み始めから引きつけられました。「萩の舎」、「藪の鶯」、「樋口夏子」・・・。そして「桜田門外の変」の年のお正月に『三人吉三』の初演があった。水戸藩は光圀公の時代から財政難でその一つの原因が大日本史の編纂で、年貢も四公六民で出来高の四割が年貢として納めるのが普通なのに、水戸は六公四民である。偕楽園のみが上から与えられた民の楽しみの場所であった・・・・など、細かい話も出てきて、あらたに大きな問題点へと進んでゆく。政治に興味のない登世が次第に水戸や外の情勢を知るようにこちらも解ってくる。明治維新が藩ごとにより様々に違う苦難があった歴史の一つが中島歌子を通して語られた作者・朝井まかてさんの手腕はすばらしいです。

背中を押してくれたいくさんにも感謝します。本当に日本の話ですか?ですね。でも、状況によっては、いつでもこういう狂気性が帯びてくる可能性はあるんですよね。それにしても、樋口一葉の歌の師から脱却の中島歌子ですね。でも彼女が一番望んだのは、林似徳の妻・林登世だったのですが、正式には届けられていなかった。彼女としては納得できなかったでしょう。そのことは、あの世で似徳に詰め寄ることでしょう。

中島歌子の歌は古いとして時代から取り残されたようですが、小説の中で考えるに、獄中での子供達とのやり取り、新しき時代に羽ばたくことなく閉じられた子供達の命を思うと、新しい歌の風潮にも小説にも乗り換える事はしたくなかったと思います。貞芳院に会うための「萩の舎」の存在とも言えます。ただ斉昭と慶喜のお声がかりから下の者たちが翻弄されたということも言えここは考えがまとまりません。

司馬遼太郎さんの『街道をゆく(本郷界隈)』で面白い事を発見する。稲作初期の土器が発見され、発見された町名から<弥生式土器>と命名され<弥生時代><弥生文化>と使われる。それは、どこかで見知った。ではその<弥生町>の由来は? 江戸時代、このあたりは水戸藩の中屋敷で町名はなかった。

『たまたま旧水戸藩の廃園に、水戸徳川家九代目の斉昭(烈公)の歌碑が建てられており、その歌の詞書に「ことし文政十余り一とせといふ年のやよひ十日さきみだるるさくらがもとに」という文章があったから、弥生をとった。』

 

 

坂のある町 『常陸太田』 (2)

太田城跡があるが、今回の旅の目的ではないのでパスさせてもらう。この辺りを一番長く治めていたのは佐竹氏である。町の西側に細い源氏川が流れている。その名前の由来は判らないが、佐竹氏の祖先が清和源氏ということが関係しているのであろうか。私が尋ねた土地の人は若いかただったからか判らなかった。関ヶ原の戦いのあと、佐竹氏は秋田へ国替えとなり、徳川御三家の一つ水戸徳川の統治となる。水戸徳川家墓所があり、二代藩主徳川光圀(黄門さん)の隠居所「西山荘」、さらに光圀の生母の菩提寺「久昌寺」があり、水戸藩にとっても重要な位置を占めていたようである。

「西山荘」の光圀さんが住んだ西山荘御殿は、没後保存されるが、野火で焼失し、規模を縮小し再建される(1819年)。そして震災で傾き現在、半解体修復にかかっている。

「西山荘」に入る前に、水戸黄門漫遊記でお馴染みの<助さん>の住居跡の標識がある。案内に従って上っていくと、竹に囲まれた場所に案内版がある。

助さんー本名佐々介三郎宗淳(むねきよ)- 延宝2年(1674年)35歳のとき黄門さんに招かれ彰考館の史臣となる。全国各地を訪ね貴重な古文書を収集して「大日本史」編纂に力をつくす。元禄元年(1688年)彰考館総裁に任命され同9年、総裁をやめ小姓頭として西山荘の黄門さんに仕える。同11年59歳で亡くなっている。黄門さんが元禄13年(1700年)71歳位で亡くなっているから、助さんは黄門さんの前に亡くなっているわけである。助さんの住んで居た所に当時使用されていた井戸も残っている。現在は池を巡り上って行き竹の音も爽やかな心地よい場所である。ただ近くに道路があるらしく、車の音が時々静寂を破るのである。

そこを下り整備された公園を進むと<ご前田>があり、光圀が自ら耕された水田の一部である。一領民となった証しとして13俵の年貢を納めたとある。

「西山荘」の受付で入場料を払い門をくぐる。<守護宅>でわずかながら御殿に飾られた調度品が見れる。もともと質素に暮らし「大日本史」の編纂をなしとげるための隠居でもある。その中に、<布袋画賛>と題した布袋様が大きな袋に寄りかかっているユーモアな光圀筆の絵があった。その説明に、布袋和尚は中国の定応大師(じょうおうたいし)という実在の高僧のことで弥勒菩薩の化身とあがめられ、世俗をのがれ大きな布を背負っていたとある。こうありたいと思う黄門さんの願望であろうか。

住まいの方は修復中なので見れないが、透明の覆いで囲まれ所どころ中が見れるように穴が開けられているので、修復の様子は見ることができる。そちらは成る程と思いつつ、庭を散策して失礼する。出来れば、時間をきめ、説明してくれるともっと修復にも関心が向くのではと思ったがそこまで手はかけられないであろう。

旅行案内に<太田落雁>とあり、ここから夕景に雁の下りる姿が美しかったところなのであろう。旅行案内所でそのことを聞くと、水戸八景の二つがこの町にはあってもう一つが<山寺晩鐘>でそちらの方が良いかもとのアドバイス。<西山荘>から駅へ帰る道すがら寄れそうでありそちらを目指す。源氏川を左手に沿って歩いていくと、光圀の生母菩提寺の久昌寺の案内があるが、まだこれから登らなくてはならないので失礼する。太田二高を過ぎると西山研修所、山寺晩鐘の案内があり、その道を上って行く。

人に聴くのが一番と西山研修所で<山寺晩鐘>を尋ねる。すぐ裏手にあった。残念ながら木々に邪魔され下の景色はぼんやりである。鐘の音を聞くのであるからそれもいたしかたない。今は碑のみである。案内板によると、光圀が檀林久昌寺の三昧堂檀林として開き、天保14年(1843年)廃され、それまで160年全国の学僧が集まった。天保4年(1833年)斉昭(慶喜の父)が水戸八景のひとつとして命名。ただの風光明美としてだけではなく、藩士弟たちを八景勝地約80キロを1日一巡させ、鍛錬させることを計ったとされるから、めまいを起こしてしまう。斉昭が周囲の寺々の打ち出す音に歌を詠んでいる。 <つくつくと聞くにつけても山寺の霜夜の鐘の音そ淋しき 斉昭>

ここから下に下る道を何か仕事をしていたかたに尋ねると、碑の上の場所の奥に道があるという。「時々転んで尻もちをつく人がいますよ」「暗いから襲われない様に」になど冗談をいわれる。尻もちのもちはいただけませんから気をつけて下る。源氏川にかかる東橋を渡り大きな通りにぶつかり、その前方の左手に下井戸坂への入り口が見える。あの坂だけ、上り下りをしなかった坂である。そのまま駅へ向かう。

西山研修所には雪村の碑もあったらしい。雪村は佐竹氏一族の出で碑の揮毫は横山大観である。<太田うちわ>あるいは<雪村うちわ>と呼ばれる四角いうちわがある。<西山荘>のそばのお土産やさんで見たが水戸八景も描かれていた。紹介では後継者は年配の女性のかたであった。

<天狗党>に関しては、かなり深い歴史性があるようである。直木賞を受賞した朝井まかてさんの『恋歌』は樋口一葉の師、中島歌子さん が主人公の小説で、中島歌子さんは天狗党に参加した水戸藩士と結婚していた。驚きである。

旅行案内冊子によると、鯨ヶ丘から西山荘に行く途中に<若宮八幡宮>があり、ここの境内にある六本のケヤキが立派で、樹齢650年以上のものもあるらしい。近頃大木に出会うとトントンと肩を叩くように呼びかけたくなる。呼びかけられなかったのが残念である。

 

源氏物語 『末摘花』 (1)

ブログを読んでくれている友人が、どこで紹介したのか忘れたが、円地文子さんと白洲正子さんの対談集 『古典夜話 ーけり子とかも子の対談集ー 』が面白かったと言ってきた。ちなみに勝海舟の『氷川清話』は半分で閉じたそうである。

『古典夜話』を読むとやはり<源氏>を読まなくてはと思わされ、どこから入ろうかと思案し、『末摘花』から入る事とする。なぜか。歌舞伎の『末摘花』がパッと浮かんだからである。勘三郎(十八代目)さんの末摘花と玉三郎さんの光源氏である。友人は歌舞伎を観た事がなく、かなり鄙びたところに住まいしているため簡単には観劇できないので、『末摘花』は録画してあり、それをダビングして送ることとした。

そんなこんなで、本のほうは、読みやすい村山リウさんの 『源氏物語 ときがたり 』とする。村山源氏 と古本屋で出会って1年と3ヶ月がたち、やっとひも解くこととなる。<末摘花>というのは<紅花>のことである。<紅花>といえば高畑勲監督のアニメ『おもひでぽろぽろ』である。紅花は棘があり茎の先についている花を上手く摘まなくてはならないので<末摘花>とも呼ばれるのだそうで、『おもひでぽろぽろ』の主人公はその紅花を摘みたくて自分探しの旅にでるのである。

『源氏物語』の末摘花は旅にでることはない。彼女の鼻は紅花のように赤いのである。彼女はじっーと光源氏を待つのである。

夕顔を忘れられないでいるのに珍しい話を聞くと心動かす源氏である。亡き常陸宮(ひたちのみや)の姫君が荒れた大きな屋敷に一人寂しく暮らしていると聞き、その屋敷に出入りしている女官の命婦に手引きさせ姫のお琴を聞く。上手とはいえないが、手筋は良いと源氏は思い想像をたくましくさせ、次に歌を送る。ところが返事が来ず、頭少将も求愛者と知り、源氏は積極的な行動に出て、次に訪ねたときは、ふすまをあけてなかに入ってしまわれた。その後、返歌も面白味がなく、再度の訪れまで時間がたち、気になって朝の雪見をしましょうと姫を誘いだされた。その時、姫の姿と赤い鼻を見てしまう。源氏はこの時、自分しかこの姫の面倒をみる者はないと自分に言い聞かせるのである。それでいながら源氏は自分の鼻を赤くぬり、若紫に色が取れなくなると心配させ、たわむれるのである。紅梅の色に常陸宮の姫君を思い出し、< なつかしき色ともなしに何にこのすえつむ花をそでに触れけむ >としてこの姫を<末摘花>と呼ぶのである。

末摘花はこの後、『蓬生(よもぎう)』で再登場する。『紅葉賀』『花宴』『葵』『賢木』『花散里』『須磨』『明石』『澪標』の後である。源氏は住みづらくなった自分の周辺の様子を察し自ら須磨へ身を引く決心をする。青春真っ只中の源氏はここで身を引くことにより、青春と別れ大人になって行く時期でもあった。人の結びつきのはかなさも分かり、再び京にもどった源氏は末摘花の事を思い出し、もう居ないであろうと訪ねてみると、朽ちた屋敷で末摘花はじーっと待っていたのである。源氏はそれから2年後二条東の院へ末摘花の君を引き取るのである。この<末摘花>は出てはこないが『末摘花』から『蓬生』までを<末摘花>の完結として考えた方が良いとの意見がある。私も読んでいて、源氏の人としての成長が<末摘花>を扱う考え方に変化を与えたと思うし、紫式部も<須磨>の前に意識的に<末摘花>を持ってきたように感じる。

さてさて、歌舞伎の『末摘花』は原作とは違う、これまた素敵な<末摘花>なのである。

友人からのメールを本人の了解を得て紹介しておきます。

「昨夜、『末摘花』見終わりました。旧勘九郎さんの末摘花は、私が勝手に想像していた姫の姿とぴったりで、楽しく見ました。光源氏の玉三郎さんも、はまり役だね。末摘花の女性としての可愛らしさと切なさが、なんとも言えないものがあるねぇ(笑)。」

 

 

 

『隅田川』 推理小説から歌舞伎まで (1)

葛飾北斎の「深川万年橋下」は、深川の小名木川から流れ込む隅田川を前方に描いている。その隅田川は人気者で様々のところで活躍している。

小旅行とかちょっとの電車の行き来ように文庫本を持つ。本の厚さ、字の大きさ、適度に文と文の間に空間、読み返さなくて良いほどの流れのものと、パラパラと開いて検討して持参するのである。そうして選ばれた本がまたしても、内田康夫さんの本『隅田川殺人事件』となってしまった。ああ、隅田川ねの軽い反応を反省させる広がりであった。

先ず、浅見光彦の住んでいる位置と母親の雪江夫人の浅草近辺を戦前、戦中、戦後の見てきた風景が判るのである。浅見光彦の住まいと言うより母と兄のもとに同居させてもらっている住まいは、東京北区西ヶ原で、飛鳥山に隣接している。飛鳥山は八代将軍吉宗がサクラなどを植え、江戸庶民の遊行地としたところである。音無川(石神井川)に掛かる音無橋の下は公園になっていて、飛鳥山からこの橋したあたりが光彦少年の遊びの縄張りだったようである。さらに先へ行くと、王子の地名の由来の王子神社があり、さらに進むと落語の「王子の狐」でお馴染み王子稲荷神社がある。源頼朝が太刀を寄進したともいわれ、関東稲荷総社の格式がある。

雪江夫人は「花」の歌から青春時代に行った隅田川を連想する。 ~春のうららの隅田川 上り下りの舟人が かいの雫も花と散る~  「花」は武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲である。明治33年で内田さんは明治33、34年の学校唱歌として、「荒城の月」「鉄道唱歌」「箱根八里」「おつきさま」「お正月」「うさぎとかめ」「はなさかじじい」などをあげている。参考までに附け加えるなら、滝廉太郎も演奏した上野にある旧東京音楽学校奏楽堂は残念ながら建物が古いため現在は公開されていない。その建物前にある滝廉太郎像は朝倉文夫作である。建物が修復され公開されると良いのだが。

雪江夫人は戦中は空襲のため火を逃れて隅田川に飛び込んだ人々が亡くなった様子を聞き、その無惨さに隅田川に近づくことを頑なに拒否しつづけている。ところが、隅田川での殺人事件に雪江夫人の知人が関係し、光彦と隅田川や浅草を訪れることとなるのである。この殺人事件、吾妻橋から出ている水上バスで行く浜離宮とも関係があり、読みつつ行った所を思い出していた。浜離宮は『元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿』の御浜御殿である。浜離宮の横を流れている築地川は昭和20年代には新橋演舞場の後ろを流れていたのである。この一冊だけで、再び新旧の東京見物の一部が出来てしまうのである。

~見ずやあけぼの 露あびて われにもの言う桜木を~  隅田川で手を合わせてから、桜の時期の水上バスもいいであろう。飛鳥山公園の桜もいい。もう一つ出てくるのが、能の『隅田川』である。<愛するわが子・梅若丸を人買いに連れ去られて、物狂いになった母親が、都からはるばる東国にやってきて、隅田川のほとりで梅若丸の幽霊に出会う> そう来れば、こちらとしては、中村歌右衛門さんの『隅田川』のDVDを見ないわけにはいかなくなるのである。