「ヒッチコック」と「舟を編む」

久々の新作映画鑑賞である。と言っても「ヒッチコック」は映画「サイコ」に関連していているので、「サイコ」をまた鑑賞するような雰囲気であるが、様々な舞台裏が出て来て面白かった。まず、アンソニー・ホプキンスのヒッチコックがぴったりである。太り具合はもちろんであるが口の動かし具合からしてしっかり捉えている。「サイコ」を撮ろうとの動機からの奥さんとの会話が何ともお互い機知に富んでおり楽しい。儲からない仕事はどこもそっぽを向くもので、それを内心の動揺をかくしつつも奥さんに吐露しそれを軽くいなす奥さん役のヘレン・ミレンも適役。

色んな問題が山済みでさらには奥さんと男友達との関係も目が離せない。それでいて美人女優でなければ撮りたくない。「サイコ」のモデルである異常殺人者の実物の犯人ともヒッチコックの中で語り合わせ、誰の中にでもある異常心理の狂気としてヒッチコックを追い込んで、それがあのシャワーシーンの成功へと結び付けていくあたりは上手い展開である。ジャネット・リーが雨の中追いかけられるように車を走らせる場面の撮り方など裏が見れてわくわくする。

アンソニー・パーキンスの出は短いが、雰囲気はわかり、彼はやはり「サイコ」の実際の彼を見るのが一番でそれを邪魔しない出し方である。検閲官の厳しい制約が、反って映画の撮り方に工夫する結果となり、そのやり取りから撮影方法が浮かび上がるのもさすがである。宣伝の仕方、公開されてシャワーのシーンにロビーでその音楽に合わせて身体を揺り動かし満足する稚気さら、映画を見ている観客をもどんどん巻き込んでゆく。この音楽を入れることを提案したのは奥さんである。

そして、奥さんをやり込めるつもりが、反対にやり込められ、その時のヘレン・ミレンはさすが「クイーン」女優と思わせる。やり込められて唖然とし、それでいて安心しているアンソニー・ホプキンスの繊細さを判らせない余裕の演技も見事である。最後お決まりのヒッチコックの登場で次のサスペンスへのお誘いで肩にカラスが。でも当然「サイコ」を見直したくなる。

「舟を編む」。2012年の本屋大賞第一位のベストセラーを映画化したものである。本の題名がそこらに転がっていそうもない発想である。内容も、辞書を作る編集部に集う人々の話で、心躍る事件も起こりそうに無いが、そのとおり起こらないで辞書の役目のような役目をする、そこに有ってくれれば、そこに居てくれればいいなあ思わせる人々の話である。

原作を読んでいたので、これを壊されるといやだと思いつつ観たが、なかなか味のある映画になった。松田龍平さんが主人公の馬締光也をだんだん男前にしていってくれた。それもそれに気がつくか気がつかない加減で進んでいく。それを助ける軽薄なオダギリジョーの西岡の役目も上手くはまった。小説もそうであるが、人間関係の暖かさと同時に辞書ともっと仲良くしなくては勿体無い事であると思ってしまう。映像での辞書の言葉たちが本よりも強く印象づけた。沢山の言葉に触れたい人は小説の方がいいと思う。作業などは映画のほうが動きがあって流れが飲み込める。人間関係の下手な馬締くん(まじめの当て漢字が何とも冴えている)を無理に変えようとせず、そのままで上手く周るようにした脚本も芯がある。観ているほうもやはり馬締くんはこう来るのかとこちらも楽しい笑いと先輩達に対する気持ちにほろリとする。舟を辞書「大渡海」のカバーデザインだけで、海の映像に出さなかったのも懸命である。「大渡海」の辞書編集部は嫌々行っても夢中にさせるゆれ具合の舟である。

 

意外なところで楽しい発見

友人から借りた本を早く読むように催促され慌てて開いたら楽しいことが。(「舞台の神に愛される男たち」関容子著)

役者の柄本明さんが銀座生まれ。それも聖路加病院で誕生している。5、6歳頃銀座から引越しされてしまった。新橋演舞場そばのかつての築地川でボートに乗ったし三原橋の映画館にも覚えがあると。お父さんが殿山泰司さんと泰明小学校の同級生。お母さんは歌舞伎が好きで、両親の映画の話を聞きつつ育ったようである。新橋演舞場での「浅草パラダイス」のときなど銀座生まれのアドリブもなく、筋書きも買わなかったのでこの本に出会うまで全く知らなかった。柄本明さんと和泉雅子さんは同じくらいの年齢である。幼少の頃の和泉さんの探検場所はお聞きしたので柄本さんの探検場所をお聞きしたいものである。お二人がそれぞれの世界観で銀座をちょこちょこ走り回っている姿を想像しただけで楽しくなってしまう。どこかでお二人はニアミスしていたであろう。

殿山泰司さんの人生を新藤兼人監督が映画「三文役者」で表したが殿山さん役は竹中直人さんだった。映画好きの柄本さんのお父上も殿山さんの映画は沢山観られたことだろう。

加藤武さん。この方は歌舞伎通で有名である。生まれが築地で泰明小学校。歌舞伎座の前を通って通学していたのであろう。戦時中、小学生は集団登下校させられ同じ班の下級生に澤村田之助さんがいて、ツー・カーで歌舞伎の名セリフをやりとりしている様子が、子供ながらも得意げで夢中である。歌舞伎座が空襲で燃えてるのも目にしていて、焼けたのは第三期歌舞伎座でその後に建ったのが第四期、そして今のが第五期歌舞伎座である。

この本に登場される役者さんは個性的な方が多い。関さんは高校の歌舞伎研究会に入られ、その他沢山の舞台を観ておられるので実現可能となったのであり、嬉しいことに意外な楽しい話を沢山引き出してくれている。役者さんの幼少時代から入り役者や演出家、脚本家、映画監督などへの経過を聴かれていくが、出会った人などの個性や影響力も感じ取れるような引き出し方で、その影響を与えた人についてももっと知りたくなる。

その一人は、関さんが別本にも書かれている勘三郎さんで想像以上に勘三郎さんは他の方たちの舞台を観られていたことがわかる。

坂東三津五郎さんは良き友、良きライバルであったので勘三郎さんが登場するのは当たり前であるが、三津五郎さんが勘三郎さんを見る視点が三津五郎さんならではで、勘三郎さんの芸に対する冷静さも捉えている。お城の好きな三津五郎さんが勘三郎さんに請われて案内したのが福井県にある丸岡城というのも、小さいがきりっとした古城で微笑ましい。例えば赤穂城をお二人に示したら、三津五郎さんは学術的興味から入られるであろうし、勘三郎さんは内蔵助を演じる前にされた、江戸と赤穂を駕籠で何日で行けるかという発想になるのだろうなあと考える。

その他、三木のり平さん、寺山修司さん、三島由紀夫さん等語る人たちが並みの方たちではないのでいつもの照明ではない光りを当ててくれてきらきら光ったり違う光りかたもあったとも取れる。何かを目指す人間が良き仲間を得たりまた反対にどうしても相容れなかったりという確執も垣間見れ、語り口は優しいが痛みも隠さない意外な怖さもはらんでいる本である。だからこそ<意外なところで楽しい発見>が濃密となるのである。

《柄本明・笹野高史・すまけい・平幹二朗・山崎努・加藤武・笈田ヨシ・加藤健一・坂東三津五郎・白井晃・奥田瑛二・山田太一・横内謙介》

無名塾 秘演 『授業』 

仲代達矢役者生活60年記念。

昨年の暮れに80歳になられたそうだから19歳で俳優座養成所に入所した時出発地点とされている。そして80歳にして不条理劇『授業』に挑戦される。カーテンコールで、「今まで辻褄の合う劇をやてきましたが今回は辻褄の合わない劇です」と。

1時間10分程の公演だが膨大な台詞の量である。後半は生徒と関係の無い授業へと突入するので一人芝居になってゆく。場所は仲代劇堂での公演で50席程であるから老教授・仲代達矢の授業を観客も女生徒と一緒に受けることになる。

謎めいたメイドが、いやいや時々謎めいた事を老教授に告げにやってくる。女生徒は楽しげに授業を受ける始める。足し算はできる。ここまでの授業は楽しい。女生徒も目を輝かせたりし老教授も上手に褒めたりする。引き算に入るとこれがつまずくのである。観終わってから思うに、女生徒が引き算を理解しない事が女生徒にとって辻褄のあっていることなのである。例えとして「君の耳は二つある。その一つを私が食べたら残りは幾つ」女生徒は「二つ」と答える。「どうして」。女生徒は両方の耳を手で触り「だって二つあるでしょ」と答える。女生徒にとっては、数の論理より自分の肉体の欠ける事など受け入れられない。学問というものを拒否しつつある。

老教授にとって彼女に対する授業はあくまで学問でなければならない。老教授は道具を使い説明し始める。それでも埒があかないので言語学へ進む。メイドが言語学は止めたほうがよいと伝えに来る。老教授は大丈夫だと主張し、メイドは警告しましたからねと伝え部屋を出る。

時には老教授の授業に満足げだった女生徒は授業に付いて行けず「歯が痛い」と訴える。身体的痛みでしか老教授に訴えることが出来なくなっている。老教授はその訴えを退けその女生徒の存在すら認めなくなっていく。この辺りの難しい言語にまつわる台詞の多さ、だんだんと自分の中にいる出来のよい女生徒と授業をしているようである。そして手に持った見えない道具・ナイフが道具としての役割を果たしてしまう。

メイドは老教授を子どものように扱い、老教授もメイドに全てを任せる。メイドは老教授をコントロールしているようにも見える。このるつぼから老教授を救おうともしない。その方がメイドと老教授の関係は上手く保たれていくわけである。

と、観て今回はそう辻褄を合わせたような合わないような。そう思って再度観るとすれば見事に裏切られるか違う見方も出来るのか。何かによって引き裂かれるものと、保つものがある。その組み合わせは実のところ不条理劇よりも現実の方がもっと意外性に満ちているのでは。そう、不条理劇を観ていると安心している観客のほうがもっと不条理かも。貴方にはどの役が当たるかわかりませんよ。

仲代さんの60年間の演技のしぐさ・間・台詞の抑揚・体の動きを堪能出来る。不条理ゆえにこう運ばなくてはいけないという制約もないことになる。観るほうも不条理劇だから解からないだろうから役者さんの台詞の音と流れとを楽しみましょうでもいいわけでその豊富な技術を身に付けた役者さんであるからその場を楽しむ劇として成り立たない不条理も楽しむことが出来る。

さらに「仲代達矢が語る 日本映画黄金時代」(春日太一著)を帰りに購入し仲代さんを通しての映画人たちの姿を楽しむことも出来てしまうというおまけも頂いた。

一番最初に読んだ項目。<大河ドラマ『新・平家物語』>。出るきっかけは、近所の人にお母さんが、<お宅の息子さん最近出てこないわね。もう落ちぶれたんだね。>といわれ、テレビに出て欲しいと頼まれ、親孝行のつもりがきっかけだそうだ。そんな感じで、あれっと思う間に大物監督さん、大物俳優さんの話がどんどん進む。60年をこうもさらり語れる格好良さ。今までもこれからも敵はやはり台詞なんでしょうか。それを何とかなだめたり組み伏せたりの戦いはまだもうしばらく続けて下さり観客を楽しませてくれる事でしょう。

 

国立劇場 『西行が猫・頼豪が鼠  夢市男伊達競』 (1)

『夢市男伊達競(ゆめのいちおとこだてくらべ)』

芝居の事は後にまわします。なぜなら、岩佐又兵衛さんと会ってしまったのです。どこで。本の1ページ目で。どんな本。「日下開山 明石志賀之助物語」(中村弘著)。

この芝居にも出てくる、初代横綱・明石志賀之助の事を書いた本が国立劇場の売店にあった。相撲は興味が薄いのだが本を手にした。二冊あり厚いのから薄いのへ、その薄いほうの1ページから岩佐又兵衛勝似の名前が飛び込んできた。厚いほうの本篇に対する別冊のようである。明石と又兵衛とが直接関係しているわけでは無いが、その出だしは興味深いものであった。

結論から云うと、明石は陸奥の出羽上山の藩主ご覧相撲に招かれていて、その事を日記に書き綴っていた人がいる。藩主の側近くにいた中村文左衛門尚春でその記録は「上山三家見聞日記」として残っている。

この尚春が又兵衛の三番目の姉とつながりがあるのである。「明石志賀之助物語」によると、又兵衛の父・荒木村重は明智光秀の家臣で織田信長と対立する。城は落城するが村重と次男村基、三女荒木局、又兵衛が難を逃れる。荒木局は50年後老中松平伊豆守や春日局の推挙で大奥にあがり、春日局の下で要職を与えられる。春日局が亡くなると松山局が力を持ち不正事件を起こし松山局は惨罪となり荒木局も巻き込まれ江戸から出羽上山に配流となる。このとき幕府に仕官していた甥の荒木村常(兄村次の子・荒木局が養母)が推挙した村常の友人の遺児・中村文左衛門尚春がお供をし、「上山三家見聞日記」をかくのである。

又兵衛はこの姉の力で福井から将軍家筋の用命をうけ江戸に出て来たのであろう。将軍家光の娘千代姫の婚礼調度品を製作したり、川越東照宮の再建拝殿に三十六歌仙の扁額を奉納する仕事をしている。本によっては伯母の力ともあるが、荒木局が村常の養母からそうなったのかもしれない。又兵衛の姉・村重の三女が荒木局で、春日局とともに大奥で活躍していたとあれば、面白い現象である。

又兵衛は「西行図」も描いている。目も口も優しく笑みを浮かべている。その他平家物語関係では「文覚の乱行図」。ここでは文覚が神護寺修復の勧進で白河法皇の前で暴れる様子を。「俊寛図」では砂浜に取り残された俊寛を小さく描いている。「虎図」は竹に体を巻きつけるようにして牙をむき出し吼えているようであるがなぜか可笑しいのである。

「夢市男伊達競」の筋書きの表紙が鼠の影とそれ見詰めている猫の前身の絵で裏表紙にその原型の絵が載っている円山応挙の「猫」である。芝居に合わせなかなか凝っている。四国金比羅宮・表書院・虎ノ間の虎たちを思い出す。数日前に二回目の対面をしてきたのである。

菊之助さんが美しく作り上げた明石志賀之助やそのほかの芝居のはなしはこの次である。

 

 

創造の情念の色・岩佐又兵衛

【傾城反魂香】(けいせいはんごんこう)の又平のモデルは、江戸初期の絵師・岩佐又兵衛とも言われている。かなり数奇な人生を歩まれた人である。昨年、熱海のMOA美術館で展覧会があったが、私が行った時には終わっていた。

岩佐又兵衛さんとは縁が有るような無いような関係で、彼の絵巻物の作品に、裸に近い女性が胸から血を出している絵がある。彼の絵の中でも異質でどうしてこのような絵を描いたのか。気にはなったが深く知りたいとは思わなかったのでそのままにして置いた。熱海で出会っていれば違っていたかもしれない。今回少し近づいて見る事にした。古本屋で<岩佐又兵衛>の名を目にしたので天井近くにあったのを取り出してもらったが、彼の三十六歌仙の絵の特集であった。後日図書館で画集を借りた。その絵は「山中常盤物語絵巻」であった。

絵巻のあらすじは <牛若丸が鞍馬から奥州平泉へ行き着き母・常盤に手紙を書く。常盤は牛若丸会いたさに侍従を一人伴い京から平泉に旅立つ。途中美濃の国・山中宿で旅の疲れもあり病気になってしまう。常盤の豪華な着物に目を付けた盗賊の一団が常盤と侍従の着ているものを身包み剥いでしまう。常盤は「こんな恥ずかしいことはない、肌を隠すものを返さないなら命を奪えと」叫び、盗賊はその言葉どうり常盤を刺し殺すのである。牛若丸は母が夢枕に現れるので気になり京に向かい偶然中山宿で泊まり、事の次第が解かり母の仇を討つのである。>

牛若丸と常盤御前の母と子の物語であった。この絵巻は、近世の古浄瑠璃の詞書(テキスト)とともに描かれていて、当時人気のあった古浄瑠璃の出し物である。(古浄瑠璃→慶長から元和・寛永のころにかけて上演された操浄瑠璃) 絵巻は十二巻ある。絵巻はこの頃は貴族から庶民の中にも入ってきたわけである。その事が解かりやすいリアルな絵になったのかもしれないが、もう一つ想像できる理由がある。それは、岩佐又兵衛のおいたちである。

岩佐又兵衛は織田信長に信任の厚い城摂津伊丹城主・荒木村重の末子として生まれる。父は突然信長に反旗を翻し、城が落ちる前に脱出、怒った信長は荒木一族600人あまりを処刑。当時二歳の又兵衛は乳母の手で京都の本願寺教団にかくまわれて育ったと云われている。成人してから信長の子信雄に仕え、名を母方の岩佐に改名したが武人としてではなく村重の遺児として詩歌や書画の才能を生かす渡世を選ぶのである。その後、越前北之庄・福井の城主・松平忠直(菊池寛著「忠直卿行状記」のモデルでもある)の下で暮らす。晩年の十数年間は江戸で暮らし江戸で亡くなっている。

父の村重は逃げ延び、剃髪して道薫と号する茶人として秀吉に仕え摂津にわずかな所領をもらい堺で没している。又兵衛が父と会ったかどうかは不明である。「山中常盤物語絵巻」の常盤の最後の場面は、又兵衛の母の最期と重なっているように思う。こうした血なまぐさい情景を凝視しつつ、母と子の物語を描いた又兵衛の中には、自分が仇をとったような高揚感があったかもしれないし、それを見る庶民も常盤の悲惨さが盗賊退治により一層喝采したのであろうか。そう思って見ると、又兵衛もここで母に対する想いが突き抜けたようにも感じる。

<浮世又兵衛><憂世又兵衛>とも云われた絵師を、近松門左衛門は<浮世又平>のモデルとして選び作品として仕上げた想像力と創造力の合体に何かしら細い糸が共鳴しあっているように思われてくる。近松も武士を捨てている。<又兵衛>と<又平>と<近松>。この情念の色はきっと同じ色である。

 

 

 

本の出会いの力

本との出会いが疑問点を解明してくれた。

小村雪岱さんの「日本橋檜物町」の本に出会い、花柳章太郎さんが舞台「日本橋」の為に現日本橋西河岸地蔵寺教会にお詣りした事を知り、ぶらりぶらり『日本橋』 (1月5日)にその事を書いた。

<深とした静かな雪の夜。小さい御堂に揺らぐ燈明の灯りのかすかな光り、鼻をかすめてゆく線香のにほひ、色あせた紅白の布を振るとガンガンと音を立てる鰐口をならしてお千世の成功を祈った。>と花柳さんは書かれていた。

日本橋西河岸地蔵寺の案内文には<板絵着色 お千世の図額 大正4年(1915)3月本郷座で初演 当時21歳無名であった花柳章太郎はお千世の役を熱望し、劇と縁の深い河岸地蔵堂に祈願した。この劇でお千世役に起用されて好演。これが出世作となる。2度目のお千世役 昭和13年の明治座のさい奉納。>とあり、花柳さんの文章とは少しことなる。役をもらう前か後か。どちらもとしておくことにする。

[どちらもとしておくことにする。]の、案内板の元となる花柳さんの文章を見つけた。見つけたというより出合ったのである。その本は「わたしのたんす」(花柳章太郎著)。

「日本橋お千世の衣裳」の中に次の一文がある。

<私は「日本橋」が上演されると聞き、何とかしてお千世の役が自分につくように、西河岸の延命地蔵へ願をかけました。二月の末の大雪の降る日、ちょうど満願で、夜の十時ごろでしたか、ほのかに燈明の灯る堂の前にぬかずいて、一心に祈っていた二十歳のそのときのことを忘れません。><お千世「花柳」と呼ばれた時は、天にものぼる嬉しさでした。> 花柳さんは役をもらう前も後もお詣りしたのである。案内板はこの文も参考にしたのであろうか。

この本は舞台衣裳の事が書かれている。お千世の衣裳については次のようにある。

<そのころの大部屋の役者に、衣裳の新調など決して許しませんでした。その前例を破って新しく作ってくれましたのも師匠(喜多村緑郎)のおかげでした。しかし半襟、前掛、帯揚までは新しくしてもらえませんので、鹿の子の半襟、帯揚げを買いましたら自分の一芝居の給金を全部はたいてしまいました。>あとはゆっくり楽しんで読むこととする。

古本屋で江戸初期の画家岩佐又兵衛の 名が背表紙にあり、その本を天井下から取ってもらったが思い描いていたものと違い返して、つらつら見ていたら「わたしのたんす」に出合ったのである。もし、岩佐又兵衛の本が意に叶っていたら「わたしのたんす」には出会わなかったであろう。<岩佐又兵衛>の方は錯綜している。【傾城反魂香】の浮世又平のモデルとも云われている人である。

 

 

推理小説映画の中の橋

評論家川本三郎さんの文章に次のようなのがある。[ 東野圭吾原作、西谷弘監督の「容疑者Xの献身」では天才的数学者を演じた堤真一が萬年橋の袂のアパートに住んでいるという設定。朝、勤め先の高校に行くために彼は部屋を出て萬年橋を渡り、さらに清洲橋を渡って浜町方面へと出る。東京の美しい橋を二つ渡っていくのだから幸せだ。]

映画は見たのであるが、堤真一さんが萬年橋と清洲橋を渡っている記憶がない。隅田川らしき川縁を歩いていたのと勤めの途中のお弁当屋でお弁当を買い、お弁当屋の女性に好意をもっていたのは覚えている。その女性は彼の隣に住み、その女性に献身的に尽くすかたちとなるのである。原作を読んでいないのでこの二つの橋を渡るのが原作にもあるのか、映画だけの設定なのかは不確かである。

しかし、8月23日の<本所深川の灯り(3)>で<万年橋>を渡り見た<清洲橋>の美しさを、12月23日の<日本橋から品川宿(1)>では船から反対方向からの<清洲橋>もみているので、映像になっているのは嬉しい。やはり一度は渡らねば。

もう一つは、同じく東野圭吾さんの原作の「麒麟の翼」である。<日本橋>である。これは刺された男性が<日本橋>の麒麟の像の前で息絶え、そのことに重要なメッセージがあったという推理小説である。先ごろテレビでその映画を放映したので見たが小説を面白く読んでいながらかなり内容を忘れていた。映画は原作を損なわず良く出来ていた。日本橋三越劇場「お嬢さん乾杯」の舞台を観る前に、<日本橋>から男性が刺された現場、<江戸橋>の地下道へ行って見た。地下道といっても橋から降りてまた上にあがるという短いものである。橋の欄干も犯人が走りでて人とぶつかっているので、この橋でここで刺されたのだと妙に感心する。感心したのはそれだけでは無い。よくこの場所を見つけたということである。映画には出てこないが刺された男性は<日本橋>まで歩く。その道は右手は某証券会社の厳つい建物で左手もビルで人通りがすくないのである。夜ともなれば誰とも会わない事も可能である。

そして<日本橋>を渡る手前に交番がありその前を通る。その日は交番前に2人の警察官が何か話しをしていたが、映画では一人の警察官が交番を離れて警護していて刺された男性を酔っ払いかなと不審に思う。でこの交番で救いを求めなかったのはなぜなのか。それが刑事(阿部寛)の鋭い疑問の一つである。そして翼がありながら<飛べない麒麟>。社会問題や教育問題をも含ませつつの展開。 <日本橋>から<江戸橋>をぐるりとめぐり、ほとほと翼のある麒麟に目を向けた東野さんに感心した。

その前にこの二つの橋の下を船めぐっているので、東野圭吾さんは、それはされていないであろうとつまらぬことに胸を張るが、麒麟の像のあの胸の張り方には太刀打ち出来ない。

映画「容疑者Xの献身」のの二つの橋が気になり、福山雅治さんのファンである友人にDVDを再び借りる。橋が出てくる。ドラマを追うのに忙しくて沢山の<萬年橋>と<清洲橋>を見逃していた。でも、実際に見た<清洲橋>が一番美しかった。「犯人が日本橋の交番に自首してきたそうです」の台詞があり可笑しかった。東野さんあの場所お気に入りなのかも。<四色の隣り合う色が同じ色に成っては美しくない>。泣かせる言葉である。友人の報告によると、福山さんは東野さんの原作「真夏の方程式」の映画に出演し夏頃公開。そして秋には是枝監督の映画にも出演らしい。DVDで友人にまたお世話になるかもしれない。

季節外れの日本橋の七福神も廻りたいものである。

 

 

 

小さな旅

「東京の中の江戸名所図会」(杉本苑子著)の日本橋の図会は日本橋を渡る人の混雑と日本橋川を行き来する船の多さに驚く。<この橋からは海上を昇る日も富士山も、江戸城の甍や森までよく見えた。>面白いのは幕府の買出し係り御納屋(おなや)役人が朝市、夕市の戦場をすばやく動き回り、一番よい魚貝に目をつけ<「御用ッ」とさけび、手に持つ手拘(てかぎ)を品物に引っかける。これをやられると、もはやおしまいだ。>5両、10両のものも3文か5文で買いとられる。しかし、明治以降、築地に移ってからの税負担より楽だったという話もある。

映画「麒麟の翼」はどのように日本橋を映すのかと興味があったので最初の部分だけ少し見たが、夜の高速道路と日本橋を上手く撮っていた。

佃島と家康との関係もどこかで読んでいるなと思ったが杉本さんのこの本で読んでいたのである。

「戦国時代の天正年間、まだ徳川家康が浜松の城主だったころ、上洛のついでに摂津の住吉神社に詣でたさい、神崎川の渡船をうけ持ったのが、近くに住む佃村の漁民たちであった。その縁から、伏見に在城する家康に魚貝を献上したり、大阪夏冬の陣にも軍事の密使役などつとめて功を立てたため、江戸開府後、三十四人の漁夫が召されて江戸へ下向し、鉄砲州の東の干拓地百間四方を下賜されて住みつくことになった。これが、佃島のはじまりだという。佃の名は、つまり故郷の村名からつけたのである。」

土地の名前は大事にして欲しいものである。変える役目に当たった人は一度歴史を紐解き、かつて此処にはこういうものがあったとだけでも残せないか考えて欲しい。そこからでも小さな旅は続き始まるのであるから。

 

<日本橋> →  2013年1月24日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

ぶらりぶらり『日本橋』

地下鉄駅を出ると凄い人だかり。何があるのか。箱根駅伝の通る時間だった。それにしても歩道に何層もの人垣である。日本橋の麒麟も心なしか大人しく見える。走者が通ったようだが人の頭が歓声とともに左から右に動いただけ。今度はチラッと見えた。速い。待ちもしないでその時間に居合わせるとは縁起の良い年と成るかも。応援しつつ地下鉄の通路を潜り三越側へ渡る。遠くなるが走者の全身が見える。無駄な脂肪の無い身体なので驚く程細い。誰彼関係なく拍手して応援してしまう。消耗していそうな走者には声をかけたくなる。沿道に人も少ないなと思ったら<一石橋>だった。

栄螺(さざえ)や蛤(はまぐり)を放してやる風情は何処にもない。日本橋の方を見るともう一本橋がある。そこまで戻ると<西河岸橋>とある。日本橋から一石橋までの八重洲側を西河岸、三越側を裏河岸と呼ばれていた。この辺りの日本橋川の両岸は蔵が並んでいたのであろう。

一石橋八重洲側のビルの間に日本橋西河岸地蔵寺教会がある。中には入れないが外からガラス越しに左手に《お千世》の額がぼんやり見える。花柳さんの文によると<深とした静かな雪の夜。小さい御堂に揺らぐ燈明の灯りのかすかな光り、鼻をかすめてゆく線香のにほひ、色あせた紅白の布を振るとガンガンと音を立てる鰐口をならしてお千世の成功を祈った>とあるが、この<ガンガンと音を立てる鰐口>これはその通りで御堂の小ぶりに対して音の大きさに驚いた。このお寺の絵馬が雪岱さんの描かれた<お千世>の顔であった。

 

 

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案内の文には<板絵着色 お千世の図額 大正4年(1915)3月本郷座で初演 当時21歳無名であった花柳章太郎はお千世の役を熱望し、劇と縁の深い河岸地蔵堂に祈願した。この劇でお千世役に起用されて好演。これが出世作となる。2度目のお千世役 昭和13年の明治座のさい奉納。>とあり、花柳さんの文章とは少しことなる。役をもらう前か後か。どちらもとしておくことにする。

雪岱さんは此のことに対し鏡花先生と結びつけ次のように書いている。<実際日本橋檜物町数奇屋町西河岸あたりは先生に実にお馴染みの深い土地でありました。><先生御信心の西河岸の地蔵様には先年花柳章太郎氏の奉納されました「初蝶の舞ひ舞ひ拝す御堂かな」の句を御書きになりました額が掲げられてをりまして、>とあり、その額の絵を自分が描いたとは一言も書かれてないのである。前面に自分が出ると云う事がなく、それは舞台装置などの仕事に対する姿勢とつながっている。しかししっかり物事の内を知っている。龍泉寺町や入谷に対し<木遣りをやりながら、棟梁の家へ帰るのを見ますと、極めて勢のよいものでありながら、何となく寂しいものでありました。>木遣りを寂しく思わせる空気。雪岱さんは、「日本橋」が書かれた時代に日本橋檜物町に住んでいる。歌吉心中のあった家である。周りの人は気味悪がるが彼は、気にかけない。そういうことも起こりうる町と感じているのであろう。そのあたりが、受け入れて浄化する鏡花世界とぴったり合ったのかもしれない。

ただ現実の町にはその姿は全くない。ゴジラに踏み潰してもっらって、ドラえもんのポッケトからかつての町を取り出し再現してもらいたいがそうもいかないので、ただ雪を降らせたり、駒げたの音を作ったりしてぶらぶらするだけである。そこからも一本八重洲側の通りには竹久夢二が開いた<港屋>の碑がある。

 

 

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一石橋にまたもどり、<一石橋迷子しらせ石碑>の前を通り常盤橋、新常盤橋と歩き神田駅から電車に乗った。日本橋川、神田川を船でめぐり、その後、川をなぞって歩くのもありかなと考える。仲間に提案して考えてもらおう。

「小村雪岱」( 星川清司著)の本もあるらしい。はっきりした舞台装置と映画の美術が知りたいものである。

 

<日本橋> →  2013年1月7日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

続・続 『日本橋』

「やがてお千世が着るやうに成ったのを、後にお孝が気が狂つてから、ふと下に着て舞扇を弄んだ、稲葉家の二階の欄干(てすり)に青柳の絲とともに乱れた、縺(もつ)るゝ玉の緒の可哀(あわれ)を曳く、燃え立つ緋と、冷い浅黄と、段染の麻の葉鹿の子は、此の時見立てたのである事を、一寸比處で云って置きたい。」の小説「日本橋」から、市川崑監督の映画『日本橋』の一場面を思い出した。

清葉(山本富士子)が、お孝(淡島千景)の病を知り見舞いのため稲葉家への路地を歩いていく。この家かしらと二階を見上げると二階の窓から舞扇が空に飛び上がるのを見る。二階では寝ているお孝が<燃え立つ緋と、冷い浅黄と、段染の麻の葉鹿の子>の襦袢を着て何回となく舞扇を空に飛ばしては堕ちてくるのを受け取っている。それがふわっと窓から飛んで清葉の腕の中に落ちる。清葉はそれを抱きかかえる。お孝は二階の欄干から姿を現し清葉を見下ろすが清葉の事はわからず視線をそらす。

この舞扇を天井に向かって投げ上げ受け取るシーンは実際に淡島さんがされてたそうで、舞扇が上がると舞扇だけをカメラが捉えるのだから他の人が飛ばしてそこを撮れなくもないが一生懸命自分で投げては受け取っていたとインタビューで語られている。この時代の役者さんは皆努力の塊である。

花柳さんに描いて贈った小村雪岱三さんの《お千世》はこの<燃え立つ緋と、冷い浅黄と、段染の麻の葉鹿の子>の襦袢を愛しげに抱きかかえている。この絵は今、日本橋西河岸地蔵寺教会にある。

お千世の役をもっらた花柳さんは稽古が終わった雪の日<重い高下駄を引ずって、西河岸の延命地蔵や一石橋や、歌吉心中のあった路次口を探し、すつかり鏡花作中の人物気取りで歩きまはつたものです。><再び、延命地蔵尊に詣つた私は「何とかして此のお千世の役の成功を希ひ、早く一人前の役者になれます様に・・・」願をかけたのです。>(大正4年本郷座初演)

昭和13年明治座での『日本橋』の再演。花柳さんは再びお千世役。<祈願の叶う嬉しさ>に花柳さんは約束していた雪岱さんの絵を奉納する事を思い立つ。雪岱さんは快く引き受けられ《お千世》の額は無事納められた。その後泉鏡花さんが此の額に 《初蝶のまひまひ拝す御堂かな》 の句を添えられ、花柳さんも 《桃割に結ひて貰ひし春日かな》 一句添えられた。

やはりたとえ様変わりしていてもふらふらその辺りを歩きたくなるものである。

 

<日本橋> →  2013年1月5日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)