織田信長関連テレビドラマ(3)

  • 織田信長となれば、明智光秀を外せない。ただ光秀がなぜ信長を討ったかというのは諸説ある。疑問の残る「本能寺の変」である。テレビドラマ『敵は本能寺にあり』(2007年)は、光秀の家来・三宅弥平次が主人公で、光秀の娘を妻とし後に明智左馬助を名乗る。原作は加藤廣さんの『明智左馬助の恋』である。明智左馬助は染五郎(十代目幸四郎)さん。

 

  • このドラマでは安土城がかなり重要な役をしている。そして、明智光秀が築城した琵琶湖に突き出た坂本城も出てくる。CGであろうが、湖面に建つ坂本城が美しい。琵琶湖に面したこの二つの城。その美意識が対抗しているようだ。当然安土城が坂本城を見下ろしている。あの時代、今の関東の富士山的象徴が琵琶湖だったようにおもえる。左馬助は馬の名手で、時には馬で琵琶湖を渡りますと信長に告げる。これもキーポイントである。

 

  • 左馬助の妻になった光秀の娘・綸(りん)は、左馬助と夫婦約束の仲であったが、信長により荒木村重の嫡男・村次に嫁ぐ。荒木村重の謀反により綸は離縁され光秀のもとに帰され、左馬助の妻となる。ドラマと離れるが、信長が送った使者・黒田官兵衛を監禁したのが荒木村重である。その後荒木村重は逃走し、そのため荒木一族は処刑され、この時乳母に助けられたのが村重の子・岩佐又兵衛である。後に絵師となり、歌舞伎・文楽『傾城反魂香』の浮世又平のモデルともなり、『山中常盤物語絵巻』を描いたその人である。光秀の娘が荒木家に嫁いでいたとは。この綸も戦国の中での数奇な人生である。

 

  • 左馬助は信長(玉木宏)に家来になるように言われるが、光秀(中村梅雀)にあての無い自分を救ってもらった恩義があると断る。信長は肉親や情など信じられない。信じられるのは力だと主張。左馬助のお館様の想いが詰まった城の中を見せて欲しいという言葉に信長は、見せない。見たくば奪ってみろと。左馬助は光秀の信長に対する複雑な気持ちを計りつつ光秀の心が晴れるよう御所の馬ぞろい、家康饗宴などを手伝い進言もする。しかし、左馬助の力ではどうすることもできない方向に事は進んでいき「本能寺の変」へとむかう。

 

  • 本能寺の焼け跡から信長の死骸はみつからなかった。抜け穴があり、その抜け穴は何者かに崩されていた。左馬助は極秘に阿弥陀寺の住職に呼ばれ、信長の遺体と対面し深く葬ることを頼む。静かに安土城の天主閣へ登って行く左馬助。光秀に加担した公家の近衛前久は天主閣を見て降りる時、見なければよかったと恐れた場所である。天主閣には狩野永徳が待っていた。陽の登る前にお呼びしたのはこれをお見せしたかったのですと東側の戸を少し開け陽の光を入れる。するとその一条の光が襖絵の皇帝を顔を照らしだした。帝をないがしろにしようという気持ちは無かったという意味であろう。

 

  • 左馬助は、信長にいつか琵琶湖を馬で渡るのをお見せすると告げていた。綸を残した坂本城へもどる道はふさがれている。お館様、ご覧くださいと左馬助は馬で琵琶湖を渡るのである。そして坂本城の炎の中で綸とともに最期をとげる。『時は本能寺にあり』とあるように、「本能寺の変」までが刻々と描かれている。左馬助はとらえきれない信長の魅力と、光秀の苦悩も推し測り、その間でみつめていた乱世。最後は清々しい気持ちで琵琶湖渡りをする左馬助である。

 

  • 個人的には、安土城の内部を知った時、仏の世界の上に人間世界の天主閣をもってきてそこに座すということは、信長は人として自分が支配者となると決めていた人であると思えた。そこを最後に違う光を与えた変化球にこのドラマの面白さがあり優しさが。信長さん金平糖食べていました。信長と家康が能の「敦盛」を見物し、その謡の中で、饗宴係りを降ろされた光秀が自分の進む道を準備しているなど、しっかりとそれぞれの思惑を見せてくれた。

 

  • 大河ドラマ『国盗り物語』(1973年/原作・司馬遼太郎)の総集編(前篇・後編)がレンタルできた。このドラマ、斎藤道三(平幹二朗)から始まり織田信長(高橋英樹)に続くという設定になっていて、斎藤道三という人物が知りたかったので好都合である。明智光秀(近藤正臣)が道三に仕えていて光秀のたどって来た道もわかる。ただ、総集編であるから展開が速い。

 

  • 坂口安吾さんの『信長』によると斎藤道三は <坊主の出身で、坊主の中でも抜群の知恵者で、若年からアッパレ未来の名僧と評判された腹の底の知れないような怪物だった。寺をすてて油売りの行商人となり、美濃の守護職土岐氏の家老長井の家来となり、長井を殺して代わって土岐氏の家老となり、さらに土岐氏を追い出し愛人をうばい美濃一国を手中に収めた> とあるが、そういう流れである。前篇で簡潔に見れた。

 

  • 信長』は、坂口安吾さんも数多く資料を集められたのであろう。登場人物が多数あって入り組んでいる。映画、テレビドラマを少し観ていたので、違いや、この映画のこの部分か。時間差をずらせて映画やドラマは面白く引っ張ているものだと場面や登場人物を思い浮かべる。複雑に裏切りや駆け引きがあるので、小説では、軽さを出そうとカタカナがでてきて、信長は頻繁にバカと称されている。テレビドラマ『織田信長  天下を取ったバカ』の題名も納得がいく。信長が濃姫と話すときも、オレ、オマエで現代の若者のような会話であったりして坂口安吾さんの工夫が感じられるし、信長周辺が大変参考になった。

 

  • 安吾さんは『信長』に対する作者の言葉として「信長とは骨の髄からの合理主義者で単に理攻めに功をなした人であるが、時代にとっては彼ぐらい不合理に見える存在はなかったのだ。」としているが『信長』を読むとそれがよくわかる。信長と道三を結びつけたのは平手政秀である。四面楚歌の信長を守ってくれたのが道三である。信長が織田家のトップにたつと、その弟は信長の家臣からも軽くみられる。だれも信長を認めないのであるから、弟たちの家臣たちは面白くない。家臣は弟をたきつけ、あわよくばその主人を操って自分が支配しようとする。信長の周囲はそんな城が幾つかある。それをおさめていくが、そのとき道三の後ろ盾が味方である。

 

  • ことが起れば、うつけのときに行動していたところが合理的に生きてくる。自分が身体をつかってしたけんかの手法。相手の戦隊を崩させ、自らそこに飛び込む。戦隊を崩させるのも長い槍隊。槍は一回確実につけばよい。そのあとは刀にかえろ。槍を抜いてまた使うなど時間の無駄。鉄砲隊は三列。時間差なく撃ち込む。これは相手の前列の兵にとっては脅威である。驚いているところへ大将が飛び込んでいくのであるからまたまた驚かされる。驚かせるのが好きである。

 

  • 道三との面談の衣裳で皆を驚かせた信長は、衣裳が驚かすことを発見したとおもう。その後の新しい物への興味とそれを披露したときの周囲の驚きを楽しんでいたところがある。驚いているうちに次を成す。ただそこまでの用意も面白い。茶もやるが、「茶の湯は貧富をとわず余人をまじえず膝つき合わせて交じりを結べる」。諸人と交わっても怪しまれず、間者たちとの情報も誰にも悟られず得られる。四面楚歌であるから誰も信用できない。子供の頃から見聞きするのは好きだから情報を得る方法がわかっていてさらに、誰にもさとられないように情報を得て、自分で考えるのである。突然動きだす。説明はないから皆驚く。

 

  • 信長』によると、尾張の守護・斯波義銀(しばよしかね)を国守とあがめ清洲城に招き信長は北矢蔵へ隠居。今川義元に使者をだし三河の吉良家を三河の国守とさせ、斯波家と吉良家を三河で参会させる。吉良家は力は劣っているが、足利将軍家に子がなければ三河の吉良家の子が継ぎ、吉良家に子がなければ今川家の子が将軍家を継ぐ定めがある。斯波家に権威を与えるためであり、信長が出陣の時、清洲城を斯波義銀の権威に守らせるためでもある。世間の権威を使う理も心得ている。

 

  • 道三は、土岐氏の愛人を奪うがそのお腹には土岐氏の子が宿っていて道三は息子として育てる。その息子・義龍は自分の出生を知り自分が正しい血筋とし、道三を討つのである。その時信長は道三を助けることができなかった。その後も信長の身内や家臣の謀反は続く。そして上洛する今川義元との桶狭間の戦い。大雨で信長軍の動向はさとられず、一気に義元の後方の陣地を襲い勝利するのである。運と信長の理とそれまでの経験が合体したのである。

 

  • 信長は、道三の築いた稲葉山城を奪い、新たに岐阜城とする。ここからは、最後の室町幕府将軍の足利義昭と信長の駆け引きが加わり、そこに明智光秀も関係し、さらなる信長の天下取りへの戦がはじまる。司馬遼太郎さんの原作『国盗り物語』を読むのがよいのであろうがもう少しあとにする。信長は、異国からの知識も理にかなっていると思えば受け入れ、地球が丸いのを地球儀で納得している。宗教なども、信じると他国にまで丸腰で布教にくる宣教師と武力を持つ我が国の寺社と比較したことであろうし、権威だけの貴族も信用していない。それにしても自分の死骸を残さなかったというのも信長の最後の理のようなきがする。驚いたか、どうだ謎を解いて見ろ。

 

  • 金平糖が気になり調べると、京都の老舗店が、銀座に昨年の12月に支店を出していた。制服で話題になった泰明小学校のそばである。歌舞伎座の下にある木挽町広場には大阪が本店の金平糖の出店があり試食させてくれた。粒の小さな塩金平糖は真ん中に赤穂の塩が入っているとのことで色も綺麗である。透明の小瓶に金平糖を入れ色と☆を愉しみながら、ときに口にほうりこむのがいいな。左向きの左馬は右に出る者がないとの意味があるらしい。福島の相馬焼の紹介で知った。名前に左馬助とか左馬之介などとあるのはそういう思いを込めてつけられたのであろう。相馬焼も不屈の精神で震災から立ち上がられて頑張っておられる。

 

メモ帳 3

  • 国立劇場で伝統歌舞伎保存会第21回研修発表会があり、本公演も観劇。『今様三番叟』は箱根権現が舞台。源氏の白旗を使いさらし振りがあり女方がみせる変化にとんだ三番叟で楽しさも。『隅田春妓女容性』<長吉殺し>は、同じところに用立てるお金を巡って梅の由兵衛(吉右衛門)と義弟の長吉(菊之助)の義理立ての姿が悲しい。観劇二回目なので、もう少し芝居に濃い味があってもと思う。今度、亀戸天神と柳島妙見堂へ行こう。

 

  • 研修発表会のまえに時間は短いが『お楽しみ座談会』(吉右衛門、東蔵、歌六、雀右衛門、又五郎、錦之助、菊之助) 『本朝廿四孝』で先輩に習ったときのことなどを披露。映像での勉強が多い今の時代に苦言も。<十種香><狐火>が研修発表舞台。皆さん内心は別なのであろうが堂々と演じられる。米吉さんの八重垣姫が<狐火>引き抜きのあと、着物の左袂から下の赤い袂が出てしまう。振りが横向きの時に左腕が後ろになって戻した時直っていた。その後も問題なし。狐の化身になっているので赤の出過ぎは禁物。立女方としての心意気で最期を締めた。

 

  • 研修発表舞台に刺激されてその後、歌舞伎座『楊貴妃』の一幕見へ。立ち見ですと言われたが、2、3席空いていた。時間が短いので自分の観たい場所での立ち見の人が多い。詞を反復して行ったので、よくわかった。つま先の優雅な動き。揺れる衣裳。二枚扇の使い方。扇の左右の位置関係も綺麗に見えた。今回は集中でき音楽も声も耳に心地よく、それと玉三郎さんの舞いが一体化。中車さんの動きも良い。玉三郎さんが、玉すだれから現れる時、拍手が邪魔。納得いく『楊貴妃』で、今年の観劇も終了。

 

  • 全身の動きの線を見せる踊りのバレエ。購入してしまえばとおもうほどレンタルするのが、バレエドキュメンタリー映画『ロパートキナ 孤高の白鳥』。ロシアバレエ団マリインスキー・バレエのプリンシパルのウリヤーナ・ロパートキナ。残念なことに今年引退を表明。古典からプティやバランシンの作品にも挑戦され自分のバレエにされる。自分に合う作品を選び最高の表現者となる。大好きなバレエ表現であり映像である。観終るとなぜか歩いて返しに行く。

 

  • フラメンコの映画『イベリア 魂のフラメンコ』。スペインの偉大な作曲家、イサーク・アルベニスのピアノ組曲「イベリア」にフラメンコを中心としたダンスで構成した映像である。カルロス・サウラが脚本・美術・監督を担当していて、その構成はフラメンコダンスも背景も照明も音楽も飽きさせない。鏡などを使い、顔や衣裳にあたる照明も美しい。切れ味がよく変化に富みフラメンコに魅せられた。

 

  • カルロス・サウラ監督が気に入り映画『サロメ』『ドン・ジョヴァンニ 天才劇作家とモーツァルトの出会い』を見る。『サロメ』は舞台稽古をしている設定からで出演者にフラメンコとの出会いや経歴なども聴く。そして「サロメ」を通しで演じるダンサーたち。「サロメ」をどう作りあげたいかがよくわかり、舞踏「サロメ」も圧巻。さすがカルロス・サウラ監督作品。『ドン・ジョヴァンニ 天才劇作家とモーツァルトの出会い』は題名通り、天才劇作家、ロレンツォ・ダン・ポンテとモーツァルトが出会って、歌劇「ドン・ジョヴァンニ」が出来上がるという筋。新説らしいが旧説も知らないのでただ流れのままに。

 

  • 渋谷のル・シネマでカルロス・サウラ監督の映画『J:ビヨンド・フラメンコ』が上映中。スペインのアラゴン地方が発祥とされる「ホタ」といわれるフラメンコのルーツのひとつ。いままでの映画のフラメンコのタップの音が耳についているので、こちらはタップがほんのわずかでさみしいが、カスタネットが軽快に鳴り響きつま先がよく動く。民族舞踏なだけに地方にそれぞれルーツが残っているのであろう。歌と音楽も素晴らしい。

 

  • 映画『花筐/ HANAGATAMI』おそらく2017年締めの映画館での鑑賞。大林宣彦監督がデビュー作『HOUSE/ハウス』よりも前に書かれた脚本「花かたみ」。原作は檀一雄さんの初短篇集『花筐』で映画化の許可をもらっていた。檀一雄さんの本の解説も語られる。映画を観始めて乱歩と思ったら、エドガー・アラン・ポー『黒猫』の英語の授業の場面が。大林監督の映像の多様性。戦争を前にした個々の青春からほとばしるぎりぎりのポエム。文学者、映画監督などの様々な群像も重なり合う。芥川龍之介の不安さえもそこにはある。唐津の風景と唐津くんち。何のために流すのか。真っ赤な血。有楽町・スバル座で上映中。

 

  • 檀一雄さんの『花筐』。この作品載っているかなと本をだしたら〇印。これは読んだ印。まったく覚えていない。いつ檀一雄さんの作品を読もうと思ったのか。どんなきっかけで。記憶にない。映画チラシに『花筐』を読んで三島由紀夫さんは小説家を志したとある。この落差。『花筐』を読み返すより掃除でもしたほうが良さそうだ。頭の中も。大林宣彦監督の観ていない作品も来年ゆっくり。小説『花筐』も。も、も、も、づくし。

 

  • 昨夜、大林宣彦監督の映画『この空の花 長岡花火物語』を観てしまったら午前2時半を回ってしまう。『ゴッホ展 巡りゆく日本の夢』で式場隆三郎さんの資料と会い、甲府での『影絵の森美術館』では山下清さんの作品に会い、映画『この空の花 長岡花火物語』は、山下清さんの「 世界中の爆弾を花火に変えて打ち上げたら、世界 から戦争が無くなるのにな」の言葉に出会う。何かつながってしまった。長岡の花火にイベントを超えた人々の想いが込められていたのを初めて知る。平成29年もあと10分。平和に暮れるであろう。このしあわせがいつまでも。よき新しい年を。

 

昇仙峡

 

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影絵の森美術館』  藤城清治展

 

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能登半島から加賀温泉郷への旅(番外篇)(5)

化生の海』を書かれた内田康夫さんと浅見光彦にありがとうです。そして、この本を置いてくださっていた<北前船主屋敷蔵六園>にもです。

化生の海』は今回の旅をさらに膨らませてくれました。内田康夫さんは歴史的な裏付けをされるので、それを読むだけでもそうなのだと新たな知識を頂きます。浅見光彦は雑誌『旅と歴史』のルポライターということもあり、内田康夫さんに劣らずよく調べてくれ、さらにソアラに乗って動いてくれます。今回も北海道の余市に住む男性が加賀の橋立で死体で発見されるのですから、加賀に話しが移動するであろうし、こちらの旅と重なるのかどうか楽しみでした。

殺された三井所剛史(みいしょたけし)は、家族に松前に行ってくるといって出かけ、発見されたのは加賀の橋立漁港の近くの海中です。娘の園子は余市のニッカウヰスキーの工場見学案内係りをしていて、受付の女性が浅見光彦の友人の妹で、5年たっても進展のない事件を浅見光彦が調べることになるのです。

松前城の資料館で、三井所剛史が持っていた箱に入った土人形と同じ人形を発見します。函館では、三井所剛史が中学2年の時作文コンクールで最優秀になった作文をみつけます。浅見光彦は北海道へは取材旅行としてきていますから、「北前船の盛衰」でもテーマにして雑誌社に一文を送ろうと思っています。そのことから橋立が北前船と関係ある土地だと知るのです。江戸時代から昭和27年まで、「江沼郡橋立村」は、大阪と松前を結ぶ不定期回船北前船の根拠地の一つであると。

函館の「北方歴史資料館」も訪ねていて、高田屋嘉兵衛の記念館でもあるらしく、彼は函館の廻船問屋で財をなした函館の中興の祖なのですが、ニシンを獲るだけ獲ってそれを肥料にして儲けたのです。生の魚(塩づけとか乾燥にもしますが)と違い肥料は日にちがもちます。二代目の時ロシアとの密貿易の嫌疑をかけられ闕所(けっしょ)に処され、所領財産を没収され、所払いとなっていますが、四代目の時闕所が解かれていますので、いいがかりだったとの説もあるようです。こちらは、函館を旅した時、名前だけでしたので、今回その様子を知ることが出来ました。

いよいよ加賀の橋立に向かいます。読みつつわくわくします。そして山中温泉につながっていきます。山中節の歌詞に「 山が赤うなる木の葉が落ちる、やがて船頭衆がござるやら 」というのがあり北前船の帰りを待っているわけです。

土人形は、裏に「卯」の字があり浅見光彦は<北前船の里資料館>で全体の感じが似ている土人形を見つけます。その人形の裏にも「卯」の字がありました。そして光彦の母から、自分が若い頃旅で見た「卯」の字がついた人形は「津屋崎人形」だと教えてもらいます。九州福岡市から少し北の小さな港町で、もちろん、浅見光彦は行きます。ところがその間にまた一人行方不明となり、その車と死体が発見されるのが、九谷焼窯跡の先の県民の森のさらに先なのです。地図をみつつここあたりなのだと確認しました。

いよいよ事件は佳境に入って来て、北海道の余市から、三井所園子と母もやってきます。その後は書きませんので興味があればお読みください。

函館の五島軒のカレー、港の倉庫群、行ってはいませんが山中温泉のこおろぎ橋、無限庵などもチラッとでてきます。九谷美術館、山中塗と輪島塗の違いなどもあり、登場人物の父と兄が船の事故で能登の義経の舟隠しあたりで見つかったなどという話しも出て来て地理的にもわかり、文字が身近な事として生きてきました。そういう意味でも楽しい内田康夫ミステリーワールドを充分味わわせてもらいました。

能登演劇堂は能登の中島町の町民の方達のボランティアが大きな力となっていますが、映画『キツツキと雨』(2011年)は、映画ロケに協力するロケ地の木こり職人と新人映画監督との交流、村人や映画スッタフの撮影現場の様子を描いている佳品です。

真面目一筋の木こり職人・岸克彦(役所広司)は、妻を二年前になくし、息子(高良健吾)と二人暮らしですが、この息子が無職で一人立ちできないのです。そんなことに構わず木を切る仕事をしているとチェンソーの音がうるさいから少し仕事を止めてくれと言われます。何かと思って様子をみますと映画のロケらしいのです。

人の好い克彦は、撮影場所に案内したりするうちに、このロケに次第に協力体制に入ってしまいます。ワッオー、映画のロケだ!などのノリは無く、いつのまにかそうなっていくのが、とぼけているわけではないのになぜか可笑しいのです。よく判らないのだが、助けなくてはならないのかなあの感じです。

新人監督の田辺幸一(小栗旬)は自分の脚本にも自信がなく、ベテラン助監督に引きずられるような感じで、これで映画が完成するのであろうかの様そうです。ところが、克彦が加わってから、すこしづつ空気がかわっていきます。言われたことをするだけなので、自分を主張するわけではないのですが、村の人を巻き込むとなると俄然力を表すのです。

そして、監督の幸一でさえ面白いと思えない脚本を読んで面白いと真面目にいうのです。田辺監督も次第に撮影に自分の意見を言い始め、克彦も監督用の木の椅子を提供したり、ゾンビとなって村人と映画に出演したりして盛り上がっていきます。

ザーザー降りの雨に克彦は木こりの勘で晴れるといいます。さてどうなりますか。

ほのぼのとしていて、克彦に衒いのない真面目さと、監督の幸一の自信の無い影の薄さのコントラストがコミカルさを発散しています。村人がゾンビになって撮影する場面も笑ってしまいます。

どうやら克彦と息子の気持ちにも同じ風が吹き始めたようで、どうなるかと思った撮影も大物俳優(山崎努)から田辺監督は認められたようです。

この映画、役所広司さんが『無名塾』出身だからというわけではありませんが、紹介したくなりましたので書いておきます。

監督・沖田修一/脚本・沖田修一、守屋文雄/出演・役所広司、小栗旬、高良健吾、臼田あさ美、古舘寛治、黒田大輔、森下能幸、高橋務、嶋田久作、神戸浩、平田満、伊武雅刀、リリィ、山崎努

 

 

歌舞伎座八月『野田版 桜の森の満開の下』

野田版 桜の森の満開の下』は、観劇するのが楽しみであると同時に解るであろうかの疑念がありました。

<野田版>とあるように、下敷きの坂口安吾さんの『桜の森の満開の下』と『夜長姫と耳男』です。その二作品は読み、篠田正浩監督の映画『桜の森の満開の下』も見ておきました。

坂口安吾さんの『桜の森の満開の下』は、山の中に住む男が、桜が満開の森の中に入ると気が変になってしまうことを知り怖れていますが、美しい女を手に入れ、その女の欲望のままに動き、女の望み通り山から京に出ます。美しい女のために生首を集めてきますが、男にとっては何の意味もありません。次第にあの桜の下の魔力が思い出され男は山へ帰ると言います。思いがけず、女はそれじゃ私も一緒にいくといい、男は喜んで女を背負って満開の桜の下に入っていきます。女がいれば桜の下も怖くないと。しかし、背中の女が自分の首を絞め、鬼になっていました。思わず男は女を絞め殺します。そこには美しい女の顔がありました。

篠田監督の映画『桜の森の満開の下』は原作に少し京での男の行動を膨らませていますが、基本的に原作を映像化しています。

野田版では、女がもてあそぶ生首の場面などは無く、そこに『夜長姫と耳男』を挿入しています。

『夜長姫と耳男』は、<耳男><小釜><青笠>の三人が夜長の長者に仏像を彫るように命ぜられます。夜長の長者には美しい娘の夜長姫がおります。耳男と夜長姫が会ってからは、この二人の物語となります。夜長姫はとてつもない理解しがたい美意識と感性の持ち主で、耳男は名前の通り大きな耳を持っていますが、その耳を女奴隷のエナコに斬り落とさせるのです。

足かけ三年、耳男は姫の笑顔に魅かれる自分に対抗するようにモノノケの像を彫ることにします。自分の意識を覚醒させ、蛇の生き血を飲み、残りはバケモノの像にしたたらせ姫の笑顔と闘います。この像が姫に大層気に入られます。姫はバケモノの像の力を試し、その力が無くなると姫は耳男に命じ蛇を捕まえさせ、自分がその生き血を飲み、人々がきりきり舞いをして全て死すことを祈り眺めていたのです。

耳男は姫の無邪気な笑顔とミロクとを重ねて彫っていましたが、そんなものが何の意味も無い様に思え、姫を殺す以外に人間世界は維持できないことを知り、耳男は姫をキリで刺し殺してしまうのです。

刺された姫の最後に残した言葉は・・・・。

さて、『野田版 桜の森の満開の下』では、どうなるのでしょうか。『桜の森の満開の下』に挿入された『夜長姫と耳男』は、登場人物が多くさらに鬼が加わります。仏像を彫る男三人は、耳男(勘九郎)、マナコ(猿弥)、オオアマ(染五郎)の三人で、耳男はわかります。オオアマも鬼を使って国盗りをするという人物です。

マナコがわからなかったですね。カニになったりもするのです。野田芝居特有の言葉あそび、パロディが散りばめられていますから、わからないなりに笑わせてもらいます。その笑いの多いマナコがよくわからなかったわけです。カニ軍団のカニ、カニ、カニの動きも意味もわからず可笑しいのです。

鬼も人間になりたいと人間になったりもします。人間に利用されているだけなのか、鬼そのものの力があるのかあたりもわかりません。鬼の中心はエンマ(彌十郎)そして赤名人(片岡亀蔵)、青名人(吉之丞)、ハンニャ(巳之助)。

これまたよくわからない人で作る遊園地はお見事でジェットコースターなど動きも抜群です。ところどころにこうした流動的躍動感が舞台一面に広がるのですから細部はまあいいかと楽しませられます。

夜長姫(七之助)だけではなく、早寝姫(梅枝)もでてくるのです。たしかに夜長姫があれば、早寝姫があってもいいわけで、この名前を見ているだけでも可笑しいです。二人の娘に翻弄される親のヒダの王(扇雀)。早寝姫は、歌舞伎ならではの国盗りに手を貸し、ここは歌舞伎を意識しての挿入でしょうか。それだけではない地図の広さを感じます。

その上には空があり、空が下がってきてしまうという恐怖感もあります。おそらく野田さんは世界を意識されているのでしょう。

夜長姫は人々がきりきり舞いをするところで、「いやまいった。まいったなあ。」といい、その軽さにもっていくのが印象的だったのですが、最後の耳男のせりふが、「いやまいった。まいったなあ。」でしたので、やはりここにくるのかとおもったのですが、今の世界を表しているのでは。自然界も人間界もその根の深さがむくむく首をもたげ異常な噴出を始めているようです。

『桜の森の満開の下』だけのことならいいのですが。その上の青い空がおりてきたら・・・・。

いやまいった。まいったなあ。

まいっている暇のない、野田ワールドの沢山の笑いと役者さんの動きも愉しまれてください。

 

神保町シアターで、三代目猿之助さんが襲名のときの映画『残菊物語』を上映しています。溝口健二監督の花柳章太郎主演の映画はDVDにもなっており見ることができますが、大庭秀雄監督の三代目猿之助さんの映画はつかまえられず、やっと見ることができました。舞台場面も多く若い猿之助さんと岡田茉莉子さんが一見です。(23日19時15分~、24日16時40分~、25日12時~)

 

 

テレビドラマ『天切り松 闇がたり』

「近代文学館 夏の文学教室」での浅田次郎(作家)さん(三日目 三講時)の講演は『「天切り松 闇がたり」の大正』でした。

小説『天切り松 闇がたり』関係の参考本に『天切り松読本』(浅田次郎監修)がありまして、作品に出てくる、浅草、上野、本郷、銀座、丸の内等の地図や写真が掲載されてい風景が具体化されて面白いです。<天切り市電マップ>というのもありまして『天切り松 闇がたり』はもちろんですが、ほかの作品でも市電がでてくれば参考になるとおもいます。〔洲崎〕とあれば映画『洲崎パラダイス』が浮かびます。

さらに『天切り松 闇がたり』上演一覧というのがありまして、すまけいさんと鷲尾真知子さんとの朗読劇が載っていました。このお二人の朗読劇でこの小説を知ったのです。沁みる朗読劇でした。テレビドラマにもなっていまして、そのことは、『天切り松 闇がたり』第三巻(集英社文庫)の解説を十八代目勘三郎さんが書かれていてテレビドラマとなることに言及していますが、このテレビドラマがDVDになっていたのです。

2004年7月30日放映(フジテレビ) 監督・本木克英/脚本・金子成人/出演・松蔵(中村勘九郎・18代目勘三郎)、安吉(渡辺謙)、栄治(椎名桔平)、寅弥(六平直政)、志乃(篠原涼子)、きよ(井川遥)、永井荷風(岸部一徳)、東郷平八郎(丹波哲郎)、逆井重美(中村獅童)他とあります。

嬉しいことにとんとん拍子に動いてくれて、DVD、レンタルできたのです。

テレビドラマ『天切り松 闇がたり』は、「黄不動見参」「百万石の甍」「昭和俠盗伝」「衣紋坂から」が編集・脚本されて、松蔵が語ります。

警察の留置所に出入り自由の村田松蔵は、今夜も雑居房で六寸四方にしか聞こえない夜盗の声音、闇がたりで自分の歩んできた道を語っています。

松蔵は、盗賊の安吉一家に九歳のとき預けられますが、親分から黄不動の栄治に修業をまかされ天切りを教えこまれます。天切りとは江戸時代から続く屋根を切って忍び込む夜盗の技なのです。黄不動の栄治は、手広くやっている建設会社花清の妾腹の子で、母子は体よく追い払われ、口は悪いが腕のいい棟梁に育てられ一通りの大工仕事はしこまれています。

花清は実子を亡くし、前田侯爵を通じて安吉親分に栄治を花清の跡取りにと話しがありますが、栄治は前田侯爵邸から仁清の色絵雉香炉を盗み、育ての棟梁に急ぎ汚い長屋に床の間の部屋を普請してもらいます。そこに香炉を鎮座させ、棟梁の腕を花清の実の親に見せ、あるべきところにあるという心意気をみせ、栄治は後継ぎの話しを断ります。

修業は積んだが大きな仕事のやっていない松蔵が奮い立つときがきました。兄貴分の寅弥は二百三高地で戦った経験から、「どんな破れかぶれの世の中だって人間は畳の上で死ぬもんだ」という想いがあります。ところが大切に世話をしていた上官の子供の姉弟の弟に赤紙がきたのです。怒る寅弥。寅弥に頼まれ姉弟の面倒を見て来た松蔵は決心します。

「生きた軍神」の東郷平八郎が持つ大勲位菊花章頸飾(だいくんいきっかしょうけいしょく)を盗みだすことでした。東郷平八郎の寝屋に忍び込んだ松蔵は眠りを継続させる栄治兄貴から習った息移しに失敗し、東郷平八郎は目を覚ましてしまいます。そこで松蔵は話します。勲章をお借りしたいと。

「紙切れ一枚でしょっ引いて親、兄弟を泣かせるお上の仕方は女郎屋の女衒と同じ心だと存じます。だが俺たちは表立ってお上に邪魔立てできゃしねえ。戦に駆り出される若いものに、そんな勲章なんて欲しがるなと言って送り出してやりとうござんす。」

東郷平八郎は、承諾する。誰に盗られたのかを本名を言うわけにいかないからと、<天切り松>と二つ名をつけてくれるのです。忠犬ハチ公の除幕式がありその銅像のハチ公の首に勲章が架かっていました。

松蔵の子役の場面が続くなかで、この話しは勘三郎さんの松蔵でやはり見せてくれます。闇がたりの松蔵はかなりの老年になっており、それはそれで勘三郎さんの話術の聴かせどころですが、若い松蔵の動き、感情の導入や押さえなど、期待していた演技力と台詞です。こういうところを突き抜ける勘三郎さんのその後が観たかったです。

留置所の新入りの逆井を諭すように、おまえは女衒とおなじだと姉・さよが吉原に売られそれを捜しあてた時の話しをします。松蔵は吉原の遊郭の息子と友達となり姉が白縫花魁となっているのを知ります。兄貴分の寅弥が日にちをかけて花魁のもとへ通い身請けし、松蔵はむかえに行きます。その時姉は、スペイン風邪にかかり助からない状態でした。

雪の中姉を背中に結わえておぶり姉の言われるままに三ノ輪に向かいます。背中で姉は亡くなり、途中で永井荷風に会い浄閑寺を教えられます。追いかけて来た遊郭の息子と永井荷風と松蔵の三人は、姉のために「カチューシャの歌」を歌います。

役者さんも揃い、テレビドラマとしても『天切り松 闇がたり』を充分味わわせてもらい満足でした。

原作に出てくるような大正時代の建物を映すことが出来ないので映像的に苦労するところですが、その分、勘三郎さんの滑舌がものをいいました。松蔵があこがれる安吉親分の渡辺謙さんと栄治兄貴の椎名桔平さんも大正時代のお洒落なダンディズムがあり、寅弥兄貴の六平直政さんは怖い顔をして情あらわすことで違う風を吹かせます。丹波哲郎さんの達観したような動じない老境さも魅力的でした。

そんな人々に自分は作られてきたのだという松蔵の恍惚感と使命感が闇のなかで妖しい光を放っていました。

こう涼しい夏の夜ともなれば、『天切り松 闇がたり』を開き、勝手気ままな一夜を愉しむのもいいかもしれません。

 

『築地にひびく銅鑼』と映画『さくら隊散る』

憲法記念日です。教育勅語を暗記するなら、日本国憲法の前文を朗読したほうが、崇高な気持ちになれるとおもいます。憲法について話し合うことは良いことだと思います。しかしどうも、今の政府は都合の悪いことは隠し、言葉巧みに解釈し、棄民しそうで不信感をつのらせます。国民を守るといいつつ、法規制ばかり強化して、いいように解釈されそうで素直な気持ちにはなれません。かなり疑っています。

広島で被爆され亡くなった俳優の丸山定夫さんの伝記小説『築地にひびく銅鑼 - 小説 丸山定夫』(藤本恵子著)を手にして、さらに新藤兼人監督の『さくら隊散る』を見ることができました。

丸山定夫さんは、新劇のかたたちの間では伝説化されているかたでもあり、同じ劇団で被爆され亡くなられた園井恵子さんは宝塚出身で、坂東妻三郎さんの映画『無法松の一生』の吉岡夫人として知られています。この映画『無法松の一生』は見ていましたので知っていましたが、園井さんが宝塚で男役であったのは知りませんでした。

映画での楚々とした吉岡夫人から宝塚の女役と思っていました。稲垣浩監督から「園井さん女になってください」と言われたそうで、どうしたらよいかわからず、まず母親になろうと吉岡少年役の沢村アキヲ(後の長門裕之)さんと撮影の合い間に一緒にいて話しなどをしたということです。

それに比して丸山定夫さんの情報が少なく、藤本恵子さんの本で、こういう経過をたどられたかただったんだという事がわかりました。藤本さんは、評伝ということではなく、伝記小説として書きたいとして書かれているので読みやすく、登場人物もいきいきと描かれています。

丸山さんは、広島での歌劇団から出発していて、浅草では榎本健一さんとも仕事をしています。そして、下火となった浅草オペラの状況から、榎本さんに<新劇>にむいているかもしれないよと言われます。「築地小劇場」の設立に参加するかたちとなり研究生となり、築地小劇場の開幕招待日の小山内薫さんの挨拶のあと、銅鑼を鳴らす役を丸山さんは任され、そのことから『築地にひびく銅鑼』が本の題名となったのでしょう。

この劇場に住み込み、新劇への道にはいるのですが、小山内薫さんの死後劇団内部の対立が表面化して、土方与志さん側の丸山さんは他の5人(山本安英・薄田研二・伊藤晃一・高橋豊子・細川ちか子)とともに「新築地劇団」を結成します。

1930年になると国の検閲がきびしくなり、再び榎本健一さんの「エノケン一座」に加わっています。このとき榎本さんは何も言わず百円という大金をさしだしていて、かつて一緒に巡業した時丸山さんがお金を作ってくれた時のお返しでした。

丸山さんは、榎本さんに「帰るのか?えっ、あのしちめんどくさい、エラソーなお芝居に」と悪態をいわれつつも解かってくれている榎本さんの一座を後にし、「新築地劇団」に復帰、東宝の前身であるPCLの専属俳優となります。

戦局は激しくなり、「新築地劇団」は満州巡演にでます。もどって二か月後、国情に適さないとして劇団は解散させられます。活動は11年でした。

1942年、徳川夢声さんの声かけによって、丸山定夫さん、徳川夢声さん、薄田研二さん、藤原釜足さんの四人で「苦楽座」を結成します。薄田研二さんは、私たちが見られる時代劇映画では品ある家老から人のよいじい、さらに悪役などもこなすお馴染みの役者さんですが、この時、俳優の芸名が廃止され本名の高山徳右衛門に改名しています。また藤原釜足さんは、大化の改新での功臣の名前を使うとはけしからんとして鶏太に改名した時期でもあります。

「苦楽座」の<苦楽>は、丸山定夫さんが、1924年に創刊された『苦楽』に小山内薫さんの名前があり、小山内さんの名前に魅かれて買った雑誌が頭にあったようです。

私が雑誌『苦楽』を知ったのは、鎌倉の<鏑木清方記念館美術館>と横浜の<大佛次郎記念館>でです。 雑誌『苦楽』の大佛次郎と鏑木清方

新たなる仲間を募り、日本移動演劇連盟に加入し<苦楽座移動隊>として各地で公演し、1945年6月22日<苦楽座移動隊>は<桜移動隊>と名をかえ東京を出発します。そして広島での8月6日を迎えるのです。

その後のことについては、新藤兼人監督作品『さくら隊散る』が詳しいです。桜隊に参加されていた方々については多くの関係者がインタビューで語られています。

<桜移動隊>で被爆されたかたは9人で、丸山定夫さん、園井恵子さん、高山象三さん、仲みどりさん、森下彰子さん、羽原京子さん、島木つや子さん、笠絧子さん、小室喜代さんで、皆さん即死されたり、8月に亡くなっておられます。

高山象三さんは、薄田研二さんの息子さんで、演出のほうを勉強されていました。時代劇映画では悪役の上手い薄田研二さんが出てくると、今回は主人公の味方なのと思ったりして楽しませてもらっていた役者さんに、こんな悲しい事実があったとは知りませんでした。

仲みどりさんは、やっとのおもいで広島から東京にもどり、東大病院で診てもらいます。白血球の数が異常に少なく、検査間違いではないかと疑われます。放射線医学の権威である都築正男教授がいたため、仲みどりさんは、人類はじめての原爆症患者に認定されますが8月24日に亡くなられてしまいます。仲さんの臓器の一部は標本として保存され、その後すぐ、都築正男教授は広島入りをして原爆症にたずさわるのです。そんなこともはじめて知りました。

目黒区にある五百羅漢寺には「桜隊原爆殉難碑」が建っていまして徳川夢声さんが中心なって建立されたようで、かなり以前、五百羅漢寺で見ていましたが深くは知りませんでした。

丸山定夫さんの名前は知っていても、演技は見た事がありません。映画館ラピュタ阿佐ヶ谷で丸山さん出演の『兄いもうと』(木村荘十二監督)を上映していますので昨日観に行ったのですが、到着が遅くて満席とのことで観ることができませんでした。定員48名という小さな映画館ですが、みたい人がいたということで良しとします。東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵作品ですのでまた出会えるでしょう。

追記1: 神保町シアターで上映している『旅役者』は、昭和15年という戦時色強い中での成瀬己喜男監督の喜劇で驚きました。主人公が藤原釜足さんで、クレジットには藤原鶏太とあり、成瀬監督の新劇人のスピリットに対する応援と思いやりと映画人としての逆説的心意気のようにも感じました。見ている方も気持ちよく笑わせられました。成瀬己喜男監督の変化球味わいました。

追記2: 日米共同研究機関「放射線影響研究所」(放影研)が設立70周年の記念式典(2017年6月19日)で現理事長さんが、放影研の前身である「米原爆傷害調査委員会」(ABCC)が、治療はしないで調査だけをしていたことに言及し謝意を表明されました。悲しい事実ですが、きちんと知らしめ、犠牲者の苦しみを再度思い起こすことは大切なことと思います。

 

 

11月23日 法真寺 『一葉忌』(2)

図書館で『樋口一葉と歩く明治・東京』(監修/野口碩)を借りました。一葉さん関連の散策にはもってこいの本で、わかりやすいです。

その中に、「一葉忌」をされている法真寺の住職さんのことも紹介されていて、今の住職さんは海外で約11年勉強されていて奥さまがアメリカのかたなのだそうです。納得しました。本堂で腰ころも観音はどこかなと思って尋ねた若いお坊さんがどうも外国のかたのようで、修業にこられたかたかな、でも日本語が綺麗だったのでちょっと不思議だったのですが住職さんの息子さんだったのでしょう。そして、ステンドグラスと椅子。「仏教とキリスト教の死生観の違いを英語できちんと説明できる」住職さんと書かれていました。

『たけくらべ』にでてくる真如は、子供の頃、法真寺の境内で遊んだ小坊主さんがモデルではないかといわれています。

瀬戸内寂聴さんが講師でこられたとき、こういう法要の会を催すのは大変なことなのにきちんとされていてと感心されていたと郷土史家のかたが話されていました。

『こんにちわ一葉さん』(森まゆみ著)を読んでいて、小説を書き始めたころからの日記は小説を書くための絵であるならスケッチだったのではないかと思い始めています。日記は実際にあったことを記録するのですが、一葉さんは生活に追われ時間がありません。単発の時間を有効に使い、日記という短い時間で書けるものを使って、そこに情景や心理描写に創作をいれたり、写実的な観察の表現を練習していたのではないかなと思うのです。

日記の公開で、自分の書かれている部分にショックを受けた人もいたようです。今の上野にあった東京図書館に通って勉強したようですが、一葉さんの世界は狭いです。その狭さが一葉さんならではの作品となったのですが、日記という独自の勉強法で本郷丸山福山町で『大つごもり』『たけくらべ』『ゆく雲』『十三夜』などを一気に開花させたのではという推測です。

『ゆく雲』も、腰ころも観音さまがでてきて、どこにでもあるような当時の話に観音さまが見ていたという大きな慈愛をもたせています。そしてこの慈愛の眼が貧しき人々をえがく一葉さんの慈愛の眼となって作品となります。

ただ作品は作家のフィルターを通すわけで、一葉さんは決して観音さまではありません。一葉さんのフィルターは人生の辛苦をなめた一葉さん自身の嫌な部分が沢山あってのことです。

日記の公開は妹のくにさんが一葉さんの死後刊行を希望したのですが、『こんにちわ一葉さん』に興味深い記述がありました。

「 日記の中には出会った人びとへの辛辣な評価も含まれていたので、鴎外は公刊はしない方がよいだろうといい、露伴は公刊すべきだろうと文豪二人の意見が割れ、これが二人の疎遠の一つのもとを作ったともいわれています。 」

鴎外さんは、自分がドイツ留学中のドイツ女性との恋愛のことを小説にしていて、それは事実と違えて書いてもいて、一葉さんの日記というものに、日記ではない性格をも読み取っていたのではとも思えるのですが。この日記公開で、一番実生活を乱されたのは半井桃水さんでしょう。このことに関しては森まゆみさんが言及していますので、興味あるかたはお読みください。

平塚らいてうさんのことを調べていて、『断髪のモダンガール』(森まゆみ著)で、本郷菊富士ホテルの経営者夫人が森まゆみさんの親戚であったことをしりました。そして、『本郷菊富士ホテル』の著者・近藤冨枝さんが森まゆみさんの伯母さんだったのです。驚きでした。近藤冨枝さんは、文士たちの集まっていた、田端、馬込の『田端文士村』『馬込文学地図』も書かれていますが、今年の7月に亡くなられていました。(合掌) 一葉忌でも二回講演されています。

そして、一葉さんの作品を芸で伝えることのできた新派の二代目英太郎さんも11月11日に亡くなられました。(合掌) 明治、大正、昭和の初めの人物像を女形で表現できる方でしたので、市川春猿さんが歌舞伎から新派に代わられ、英さんに新派の女形を教えてもらえるであろうと心強く思っていたのですが、なんとも残念です。

9月の新橋演舞場での芝居『深川年増』が最後の舞台で、口上で、中嶋ゆか里さんが幹部になられ<英ゆかり>と改名されたと紹介されたので、<英>の名前が二人になるのだと思ったのですが急なことでした。最後の元気な舞台姿を観れたのが幸いでした。

今、時代を表現できる役者さんが少なくなって、現代の人と変わらない表現力の無さで、古い映画をみて味わうか、あとは、小説の世界に籠るしかなくなるのでしょう。

さて次の一葉散歩は、本郷丸山福山町から一葉さんが通われた東京図書館までとしましょうか。東京図書館は、今の上野の国際子ども図書館と東京芸大の間あたりのようです。一葉さんは西片と本郷に掛る空橋(からはし・現清水橋)を通り、東大を突き切って通われたようです。

『加賀鳶』から始まった伊勢屋質店は、跡見学園女子大が所有し、土・日と一葉忌に公開してくれています。一葉さんの頃の建物は明治20年に移築した土蔵部分だけで、あとは一葉さんの死後に建てられた建物です。この質屋さんに質草を入れたり出したりしたわけです。

一葉さん一家は、蝉表(せみおもて)という雪駄(せった)の藤で編んだものの内職もしていて、一葉さんは下手で、妹のくにさんは上手く、洗い張りや縫い物よりも駄賃は少し高かったようですが、生活するには到底足りなかったでしょう。

『加賀鳶』の書かれた明治19年にはここに伊勢屋質店はあったわけですが、その時代の建物は残っていません。そして<加賀鳶>に関しては、次の記述がありました。

将軍家の姫君を迎える特別な朱塗りの御門「 この御守殿門は万一焼失すると、将軍家に対する忠誠心を疑われるばかりか、縁組みそのものまで帳消しにされかねなかった。そこで前田家は加賀鳶とよばれた大名火消しを組織して、防火に努めた。 」(『樋口一葉と歩く 明治・東京』)

てやんで! 赤門の向かいにはお夏ちゃんこと樋口一葉というりっぱな文学者がいたんだよ! 赤門がなんだい! ちょっくら通してもらうよ~ん・・・ってんだ。

 

11月23日 法真寺 『一葉忌』(1)

本郷の樋口一葉さんが利用されたという質屋伊勢屋さんを検索していたら、11月23日文京区本郷の法真寺で<一葉忌>があるというので散策がてら行ってみることにしました。

本郷通りをはさんで東大赤門の向かいの路地奥に法真寺があり、<一葉忌>と書かれた幕が入り口にありました。赤門前は「加賀鳶」で、道玄と捕り手との立ち廻りの場でもありますが、本郷通りに面していて立ち廻りのできるような空間がありません。

ところが、かつてはこの赤門は15メートルほど奥にあったのだそうです。これは地元の郷土史家のかたから受けた説明です。黙阿弥さんは空間のある赤門前をみていたわけです。

お昼過ぎに法真寺に着き、法要や幸田弘子さんによる朗読は午前中に終わられたようです。地元のかたからおしるこをご馳走になりました。一葉さんも、恋心をいだいたとされる半井桃水(なからいとうすい)さん手作りのおしるこをご馳走になっています。

行く前に知ったのですが、法真寺の隣に一葉さんは4歳から9歳まで住んで居て、一番心穏やかに過ごせた時期で、法真寺の腰ころも観音のことが小説『ゆく雲』に書かれているということなので作品を読んでみました。

出だしに「酒折(さかおり)の宮、山梨の岡、塩山、・・・・」と書かれてあって、<酒折の宮>は、甲府善光寺御開帳のとき、JR中央線の酒折駅で降りて、この神社に寄ってから甲府善光寺に行きましたので親近感がわきました。

小説の内容は、一葉さんの両親の出身地と同じ「甲府から五里の大藤村の中萩原」出身の青年・桂次がそこの造り酒屋に養子となります。養子先の娘と許嫁の中なのですが、東京に出てきていて、養子先の親戚に下宿しています。そこの娘のぬいは、実母が亡くなって継母という境遇で、父にも継母にも遠慮して波風の立たないように暮らしており、ぬいに恋心を持つのですが、養子先から早く結婚して跡を継いでくれとの催促で、帰ればもう隣のお寺の観音さまも見納めと思うと名残惜しいきもちとなるのです。

その観音様の様子が「上杉の隣家は何宗かのお寺さまにて寺内広々と桃桜いろいろ植わたしたれば、こちらの二階より見おろすには雲はたなびく天上界に似て、腰ごろも観音さま濡れ仏にておわします。御肩のあたり、膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて・・・」と書かれています。

この観音さまを一葉さんも二階から眺めていたのです。一葉さんは、この住んでいた家を<桜木の宿>と呼びました。

小説のほうですが、桂次は婚約者がいやで、ぬいに自分の気持ちを打ち明けますがぬいはどうなるものでもないと感情をあらわしません。桂次はしぶしぶ田舎に帰りぬいに手紙をかきますが、そのうち時間がたつと年始と暑中見舞いの挨拶のみとなります。

「隣の寺の観音樣御手を膝に柔和の御相これも笑めるが如く、若いさかりの熱といふ物にあはれみ給へば」と観音さまはみているとして、ぬいは相変わらず父と母と自分の関係にこれ以上ほこびがはいらないようにと努力しているのでした。

残念ながら、桂次にはぬいを幸せにできる力がなかったのです。本堂の左手に観音さまは今も穏やかなお顔をして座っておられます。

一葉さんを忍ぶために、献花してお線香をあげる場所がありましたのでそこで先ず手をあわせました。

本堂の阿弥陀さまの前に一葉さんの写真が飾られ、和太鼓の演奏がありました。本堂の右側はステンドグラス風で光が入るようになっており、椅子が教会のような木の長椅子でした。<桜木の宿>の倉庫のなかで一葉さんは英雄豪傑伝や任侠義人の本をよんでいたそうですので、若い和太鼓奏者の打つ勇ましい太鼓の響きに喜ばれたのではないでしょうか。

そのあと文京一葉会の郷土史家のかたの説明つき一葉さんゆかりの散策に参加です。法真寺から始まって、菊坂住居跡から白山通りの一葉終焉の地まででしたが、途中公開していた旧伊勢屋質店で失礼させてもらいました。何回か来ていますが、写真や地図などを使っての詳しいお話でかつての街の様子も想像できて楽しかったです。

帰りに古本屋さんがあってチラッとのぞいたところ、『こんにちわ一葉さん』(森まゆに著)に遭遇。本当に「こんにちわ」と声をかけたくなるように一葉さんの日記と作品から一葉像を浮かび上がらせてくれ、『加賀鳶』から一葉忌につながるとは赤門の力はやはり凄いということでしょうか。

本郷菊坂散策 (1)

本郷菊坂散策 (2)

映画『日本橋』と本郷菊坂散策 (3)

上記の散策が今回は一葉さん中心で一本の道となりました。東大赤門近くの本郷には勉学と世に出ることを求めて、あるいは世に出た人を頼って人々が集まってきていたわけです。

4歳から9歳の時に本郷6丁目東大赤門前法真寺隣の桜木の宿 → (この間7回ほど引っ越しています) → 18歳の時に菊坂に → (吉原の裏の下谷竜泉寺町に) → 22歳の時に本郷円山福山町に(ここで亡くなります)

 

上記地図の赤枠が「東大赤門」、ピンク枠が「桜木の宿」、青枠が「法真寺」。

東大赤門

腰ころも観音

南木曽・妻籠~馬籠・中津川(2)

藤村さんんの『嵐』の中に、馬籠の長男・楠雄さんの新しい家を訪れた時のことが書かれています。

中央線の落合川駅まで出迎えた太郎は、村の人たちと一緒に、この私たちを待ってい木曽路に残った冬も三留野(みどの)((たりまでで、それから西はすでに花のさかりであった。水力電気の工事でせき留められた木曾川の水が大きな渓(たに)の間に見えるようなところで、私はカルサン姿の太郎と一緒になることができた

藤村さんたちは、甲府を通り下諏訪で一泊し、落合川駅かから木曽路に入っています。私は、中津川駅からバスで木曽路口へ行き、そこから歩きたかった落合の石畳を登って馬籠へ。雨の後で石がぬれておりすべり登りでよかったです。水力電気の工事での木曽川の様子も藤村さんは見ていたわけです。

途中で私はさんという人の出迎えに来てくれるのにあった。森さんは太郎より七八歳ほども年長な友だちで、太郎が四年の農事見習いから新築の家の工事まで、ほとんどいっさいの世話をしてくれたのもこの人だ。

藤村さんはこの森さん(原さん)には、お金は登記をしてから渡したほうがよいなど細かく手紙で書かれていて、原さんも若いながらしっかり楠雄さんの自立に手をかされています。

私のほうの旅には、藤村さんだけではなく、もう一人同道者がいました。それは、ノボさんこと正岡子規さんで、子規さんは念願だった木曽路を歩いた紀行文『かけはしの記』を書いています。念願とはいえ、健康を害し帰郷する途中で歩いているのです。このあたりが子規さんの無茶なところであり、この性格が皆に愛されると同時に血を吐いても鳴きつづける<ホトトギス>の一生となりました。

子規さんは、上野、軽井沢、善光寺、川中島、松本、三留野、妻籠、馬籠、余戸村、御嵩を越えて、舟にて犬山城の下を過ぎ舟を降り、木曽停留場に至っています。

この旅ついに膝栗毛の極意を以て終れり

信濃なる木曽の旅路を人問はばただ白雲のたつとこたへよ

妻籠と馬籠にかんしては

妻籠通り過ぐれば三日の間寸時も離れず馴れむつびし岐蘇川(きそかわ)に別れ行く。

馬籠峠のふもとで馬を頼もうとするがいなくてわらじを履きなおし、下りてくるひとに里数をききながらのぼりつめている。私は馬籠側から子規さんとは反対方向から登り妻籠へ向かったわけで、子規さんと同じようにあと何キロかと標識を眺めつつ馬籠峠目指して登ったのです。

子規さんは馬籠宿で一泊していますが、次の日雨なのに宿の娘に合羽を買って来るように頼み馬籠を下っています。病の身でありながらと紀行文を読みつつ気にかかりました。

馬籠下れば山間の田野稍々開きて麦の穂已に黄なり。岐岨の峡中は寸地の隙あればこゝに桑を植ゑ一軒の家あれば必ず蚕を飼ふを常とせしかば今こゝに至りては世界を別にするの感あり。

桑の実の木曾路出づれば穂麦かな
上の句の碑が、藤村さんの書いた「是より北木曽路の碑」のそばにある正岡子規さんの句碑です。芭蕉さんの「送られて送りつはては木曽の秋」の句碑もあり、この芭蕉句碑を建てた頃のことが『夜明け前』に出てきます。島崎正樹(藤村の父)翁記念碑もありました。そしてここは美濃と信濃の国境なのです。
私の歩いた時は、山々の緑と麦穂の黄色に百日紅の濃い桃色の花が調和した木曽路の風景でした。<百日紅なにをかたらん麦穂かな>
こういうつまらぬことを書けるのは、今回の旅の友の本『笑う子規』のせいであります。
俳句とはおかしみの文芸として、子規記念博物館の館長もされた天野祐吉さんが、子規さんの俳句から笑える句を選び、それぞれの句に天野さんが短文を書き、南伸坊さんが絵を添えられているのです。子規庵で見つけたのですが、楽しい本で笑えます。
桃太郎は桃金太郎はなにからぞ (金太郎は飴から生まれたに決まっとるじゃろ)
えらい人になったそうなと夕涼み (「秋山さんとこのご兄弟は、えらいご出世じゃそうな」「それにくらべて、正岡のノボさんは相変わらずサエんなあ」)
夕立ちや蛙の面に三粒程  (一粒じゃ寂しい。五粒じゃうるさい。三粒程がよろしいようで。)
そういえば、どこかの風邪くすりも三回と三錠でした。俳諧の心のあるひとがコマーシャルつくったのでしょうか。三を二回も使っているのでそれはないか。そこで自分の句?に短文を。(百日紅の高さと下をむく麦穂が話をするのはかなり困難であろう。ないしょばなしはむりである。)つまらぬと思った人は、『笑う子規』を購入して口直しをされたがよかろう。



 

映画『元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯』

羽田澄子監督の2001年の作品です。

1998年に「平塚らいてうの記録映画を創る会」から高野悦子さん(元岩波ホール総支配人)を通じて話しがあり、軍国時代に青春を送った羽田監督が、平塚らいてうさんの『青鞜』の新しい女から平和運動に行き着いた生き方を通じて、反戦への想いがつながりそうである。

平塚らいてうさんらの創刊した『青鞜』は、文学作品としてこれだという優れたものがなく、運動の主軸もよく判らず、らいてうさんと森田草平さんとの心中未遂事件、それを題材にして森田さんが『煤煙』を書き、伊藤野枝さんが『青鞜』の編集を引き受け、その野枝さんは大杉栄さんとともに官憲に虐殺され、『青鞜』も廃刊といったことがばらばらと浮かぶ。きちんと、らうてうさんの生涯を知らないのである。総体を知るうえでは良い機会でした。

まず驚いたのは、らいてうさんは己とはなにかと自問し、禅に出会い修業し、自分を捨てることができたと感じていることです。塩原事件については、森田草平さんはらいてうさんに<あなたを殺したい。私は死ぬわけにはいかない。その後の全てを書かなくてはいけないから。>というようなことを言われ面白いことを言う人だとつき合いはじめ、<死のう>といわれ承知します。らいてうさんは母の守り刀を持ち森田さんに着いていきます。雪の中を歩き途中で森田さんに懐刀を投げ捨てられ、どちらかというと森田さんに嫌気がさし、森田さんを先導するようにあるき出し、捜索のひとに見つけられるわけです。

森田草平さんとは肉体関係はなく、らいてうさんは実際に己を捨てきれるかを試したようにも思えました。森田さんが本当のことを書くのかとおもったら期待はずれで、どうも、らいてうさんのほうが腹が座っていたようです。

本名は明(はる)で、心中事件のあと信州で感じた、雷鳥になって太陽を三回まわった幻想から<らいてう>をペンネームとします。スキャンダルをものともせず『青鞜』を創刊します。お金に関しては、母親が出してくれたようで、この母の娘に対する援助は普通では考えられない関係とおもえます。その後も何かのおりには、援助の手を差し伸べていたように思えます。

マスコミから批判的に<新しい女>と言われると、そうよ私は<新しい女よ>と逆手にとり、<新しい女>とは何かを探しつつ進んで行き、六歳年下の定収入のない絵かきの奥村博史さんと共同生活をはじめ、奥村さんとは最後まで添い遂げるのですから、らいてうさんにとっての新しい女とは、実戦の続きがそうなっただけよということなのでしょうが、そこが面白いです。実行ありきなのです。

『青鞜』は伊藤野枝さんにまかせますが野枝さんが虐殺され、創刊1911年(明治44年)9月から1916年(大正5年)2月で廃刊となります。当時の古い体制に対抗する様々の女性達が『青鞜』を訪れ、その中で考え、女性の問題を外からの異論に対し答えて行きつつ時代を照らし出して闘っていきます。

イデオロギーのなかったことが『青鞜』の弱さでもありますが、自分の頭で考えて行動していくということが、かえって束縛されない柔軟性でもあり、それが、らいてうさんの生き方ともいえますし、継続の無さと批判されるところでもあります。

子どもは産まないとしたらいてうさんは、妊娠すると産むほうを選択し、夫婦別性でしたが、子供が戦争への出征のさい、私生児だと不利益をこうむるとして婚姻届けを出しています。

子どもを産むことによって「母性保護」を考え、市川房江さんと名古屋の紡績工場を見てまわり、綿ぼこりの中で働く十代の女子の労働条件の酷さから「婦人と子供の権利」を考え、しばらく子育てに専念してから、相互扶助の消費組合運動、医療組合運動を支持し、敗戦後の新憲法に明記された婦人参政権に、よその国から与えられたとしてもそれまでの地道な女性たちの運動が実ったことを素晴らしいことであるとし、平和憲法があぶないと思い、1970年にはデモの先頭にたちます。亡くなる1年まえで、85歳で命の火を消します。太陽をまわり周られてて飛び立たれたのでしょう。

婦人参政権が認められて70年しかたっていないのです。今考えると、古い女の時代が70年前なのです。すぐそこであったのです。石を投げられ、罵倒されつつ、それをここまで運んでくれた女性達がいたわけです。主義主張の違いを論じつつここまで運んでくれたことの真摯さにあらためて驚かされます。

<新しい女>として奇異な扱いを受けながららいてうさんは、運動体からしりぞくこともありましたが、自分を捨てれると感じた時、再び表にでて主張することを始めるといった人のように思えました。

らいてうさんの一生を知らない者にとっては、基本線の自伝ドキュメンタリーでした。ここからもっとらいてうさんを知ろうと突き進めれば、その矛盾点も見えてきて次に続く人々への指針となります。

森まゆみさんの『断髪のモダンガール』を読み返しました。「42人の大正快女伝」で、人数が多くてそれぞれの生き方に圧倒されますが、<第三章「青鞜」と妻の座>に平塚らいてうさんについても書かれていて、森さんは岩波ホールで公開されたこの映画を見ていて、この映画に触れつつ書いておきたいとしています。森さんは、調べられているので、この映画にたいしては違和感をおぼえられ、らいてうさん自身にたいしても手厳しい。

世の中を知らなかったお嬢様が、それを見て、この理不尽さを何んとかしなくてはと思って行動している甘さとしても、そういう人が掻きまわさなければ水面下に隠されているものは隠されたままなのかもしれないので、それはそれで意味があるようにおもいます。そういう意味で、映画も基本線として受け入れられました。

それとは別に森さの『断髪のモダンガール』からは、『青鞜』に関係していた人はもちろんのこと、こういう繋がりであったのかと図式的にわかったこともあり、先に読んだときには素通りしたことをかなり埋めさせてもらいました。

羽田監督は新作にたいし「戦争の時代に育った人間ですからとにかく戦争反対の映画を作りたいと思って、同じ世代のインタビューを中心にやっています。」(NFCニューズレター第128号)と語られています。貴重な記録が一つまた残されそれを見て、考える人がでてくるという連鎖の波紋は静かに広がりつづけるでしょう。

監督・羽田澄子/制作・青木生子/撮影・宗田喜久松/美術・星埜恵子/デザイン・朝倉摂/録音・滝澤修/ナレーション・喜多道枝、高橋美紀子

星埜恵子さんの美術にも出会えました。円窓の下に文机のらいてうさんの部屋などがそうなのでしょう。らいてうさんの最初の評論集『円窓より』は発売禁止となり『扃(とざし)ある窓にて』とかえ再刊されています。

茅ヶ崎散策に行った時、らいてうさんの記念碑があり、どうして茅ヶ崎なのか不思議でしたが、今回納得できました。これで発見の多かった茅ヶ崎散策を書きすすめられます。

 

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追記: 2017年7月8日11時30分/7月16日3時 東京国立近代フィルムセンター小ホール(京橋)にて上映します。(アンコール特集)

 

茅ヶ崎散策(1) | 悠草庵の手習 (suocean.com)