歌舞伎座 『鳳凰祭3月大歌舞伎』 (勧進帳)

『勧進帳』ではあるが、柿葺落四月大歌舞伎 (六) で筋は書いたので、ここでは印象に残ったことを書く。キーワードは金剛杖である。

弁慶が吉右衛門さん。それを迎える富樫が菊五郎さん。義経が藤十郎さん。正三角形の迫力である。観ているほうも力が入った。弁慶が主人である義経を打擲し、その心を察し疑いは晴れたと富樫が告げる。弁慶がふーっと息を抜き右手に持った金剛杖がその気持ちを現し、静かに手を滑り、トンと地を着いた途端、こちらもホッと一瞬力が抜けたのである。その時この金剛杖を使う弁慶に見入っていたのに気が付いた。

この金剛杖は、義経が花道の出から所持していて、花道での義経のとる形と共に義経を引き立てる道具である。番卒があの強力(ごうりき)が義経に似ていると富樫に進言してから、この金剛杖は今度は、弁慶と共に活躍する。弁慶は何も書かれていない勧進帳を読み上げ、山伏として上手く切り抜けられると思った途端の富樫の呼び止めである。弁慶は、咄嗟に判断する。強力が義経に似ていると云うだけで、こちらは迷惑をかけられ、なんという迷惑千万な強力かと、義経から金剛杖をとりあげ、それで義経を打擲するのである。四天王(歌六、又五郎、扇雀、東蔵)は、これまでかと打って出ようとするのを、弁慶は、金剛杖で強く床板を突き激しい音でそれを押さえる。さらに金剛杖は四天王を押さえこみ、弁慶を先頭に、富樫達との押しつ引きつとなる。

弁慶は自分の義経に対する非礼に涙すると、義経は弁慶に手を差し伸べる。今回藤十郎さんの手は、袖口の中であった。一度、芝翫さんが義経をされた時、手を見せない形をとると言われたような気がする。記憶違いでなければ、その形なのかも知れない。この時金剛杖は無い。義経が、弁慶の心は私の中にあって、あの杖はもう必要無いのだよと言っているようである。

内容が前後するが、この主従の関係を、富樫は自分の中の何かが反応する。そこを突くように、弁慶は、まだ疑いが晴れないならこの強力を打ち殺そうかと金剛杖を持ち上げて迫る。富樫はその必要は無い、疑い晴れたと告げる。その温情の気持ちに対し、弁慶は花道で姿なき富樫に頭を下げるのである。その正三角形が美しく見えたのである。そして、花道の出の後で、金剛杖を持ち身体を傾ける義経の形の美しさには意味があるのだと感じた。

緊張の続く場面の中で、豪快にお酒を飲み、ゆとりを見せ機嫌よく舞う弁慶。油断させつつ主従を先に行かせる。その時、義経は金剛杖は持たず足早に花道を立ち去る。観客拍手。この後の富樫に対する観客の拍手。待つような終わるのが勿体ないような弁慶への拍手。飛六法。この芝居は終わるとき、観客は参加していたと感じている。

吉右衛門さんの台詞がいつもより高音のトーンが落ちていたように受けたが、それと、菊五郎さんの落ち着きのある富樫と合い、ふくよかな品のあると藤十郎さんと対峙し、より一層大きな弁慶となった。

今回は思い出す場面の、金剛杖の参加でもあり、混線気味である。

 

歌舞伎座 『鳳凰祭3月大歌舞伎』 (加賀鳶)

<夜の部>を先に観たのでそちらからにするが、ベテラン大幹部の濃い舞台であった。

「加賀鳶」は、道玄の幸四郎さんの動きが面白く、身体と足の動きで、小悪党でありながら変化に飛んだふてぶてしさや、引っ込みかたなど、堪能させてもらった。糸に乗り、赤門(東大赤門)前の暗闇での捕り手との動きも飽きさせなかった。

湯島天神で、加賀藩(現東大が加賀藩の上屋敷)お抱えの加賀鳶と旗本配下の定火消し(この辺は武家屋敷があったので町火消しではなくとのことのようですが?)の間で喧嘩が起こり、加賀鳶が本郷の木戸に押しだしている。町の人は木戸を閉めてその間からことの成り行きを覗いている。これも江戸の風物の一つであろう。河竹黙阿弥作で明治19年が初演であるが、江戸を描いている。ところが地名は現代も残っているという嬉しい芝居である。加賀鳶の頭梅吉(幸四郎)と松蔵(梅玉)が血気盛んな鳶達の間に入り引き揚げさせるのである。この場面は役者さん皆さん気分が良いと思う。観ているほうもスカッとする。

次の場は一転薄暗い御茶ノ水の土手である。按摩の道玄が旅の途中で具合の悪くなった旅人から按摩治療を施しながら殺害し懐のお金を奪うのである。道玄の親切そうなところから悪に変わり、殺して花道までの盲目ではないリズミカルな動きが不気味でもある。そこで道玄は煙草入れを落としそれを、松蔵に拾われる。加賀鳶の時の梅吉の堂々とした様と道玄の違いが二役の幸四郎さんの見せ場である。勢揃い後の最後に花道を引っ込む梅玉さんの歩き方も何んとも粋である。

道玄の住む長屋が、菊坂である。菊坂と言えば樋口一葉やその後の文学者達と縁の深い坂である。(この芝居を観てたら歩きたくなり散策したので、それは別枠で。平成、昭和、大正、明治、江戸とタイムスリップしていく。)

道玄は、目の不自由な女房を邪魔者扱いし、情婦で按摩のお兼(秀太郎)と質屋の伊勢屋へゆすりにゆく。姪のお朝が奉公しているお店で、そこの主人がお朝にお金を渡したのはわけあっての事と、お朝がそのことが原因で自殺するという贋の書き置きを持参するのである。ところが、松蔵に、御茶ノ水で落とした煙草入れを突き付けられ、これは不味いと道玄は退散するのである。ここまでの、弱い者へはいじめぬき、強いものには首を引っ込める悪党道玄が、お兼を加え緩急自在につくられる。

ゆすりたかりで生きていこうとする人間と、間に入りその悪から上手く手を引かせる仲介役のいた江戸の粋な姿でもある。

最後にはお縄となるが、その捕り物も暗闇の中でみせる人の動きの可笑しさを芝居としている砕け方もご愛嬌である。

それにしても、<スカイツリー>は好いが、<業平橋駅>を<スカイツリー駅>にしてしまう前にこの芝居を観て欲しかったものである。

 

 

スーパー歌舞伎Ⅱ(セカンド)『空ヲ刻ム者』

新橋演舞場にてスーパー歌舞伎の新作である。猿之助さんはそれに <Ⅱ>(セカンド) と付け加えた。三代目猿之助(現猿翁)さんと違うスーパー歌舞伎を目指しての事であろう。四代目猿之助としてのスーパー歌舞伎への挑戦である。成功である。 『空ヲ刻ム者』ー若き仏師の物語ー

内容としてはシンプルで、この物語の何処かに自分を置くとすれば、観るものが自分の位置を探せるような構成である。若い人に、自分は今どこにいて、何処に行こうとしているのかを見つめて欲しい時代なので、登場人物と共に少しだけ悩んでほしいと思わされた。面白かった。格好良かった。つまらない。まあ何でもいいのである。どうして面白いのか、つまらないのかを少しだけ探ってくれれば良いのである。少し探っても負担にならないように仕組まれた作品である。あれ!そいうことかな、で忘れてしまっても良いのである。ただ時々は仕組まれていないかな?と思い返す時間をこの舞台とともに作って欲しいものである。

あらすじは書かない。新作の場合、くるものを受け止めて楽しんだ方が良いと思う。

作・演出の前川知大さんは知らない。歌舞伎初出演の福士誠治さん、浅野和之さんも知らない。知らないづくしも楽しいものである。佐々木蔵之介さんは知っている。そして気になったのが美術。だれじゃ?堀尾幸男さん。志の輔さんの落語の美術もされていて、もしかしてパルコ劇場で志の輔さんのサインボールを舞台から客席にバァーとゴロゴロころがしてくれたのは、堀尾さんであろうか?あれは誰が考えたのかなあといまだに思うのである。

舞台美術も話さないほうが良いであろう。最初はこんなものと思わせられるが次第に変化していくので物語と同様に楽しんだほうが良いと思う。分かりやすいのである。台詞も苦労せずに分る。

音楽もここぞとばかりではなくシンプルであり、尺八は誰かなと思ったら道山さんである。音楽のまとめ役は田中傳左衛門さんのようで納得である。

一番緊張されていたのは佐々木蔵之介さんで、大丈夫ですよ、もっと肩の力を抜いてそのまま演じつづければ、大丈夫、大丈夫と言ってあげたかったので、ここで言ってあげることにする。邦楽で動くこと自体からして調子がちがうでしょうからね。

福士誠治さんは、『上州土産百両首』で猿之助さんと共演され、弟分の牙次郎をされたそうなので、役どころの息が合っている。浅野和之さんは最初から、私はわたしのペースでいくわよのキャラでうまく溶け込んでおられた。

あとは、澤瀉屋のチームワークと、役の適切さでスムーズに流れてくれた。

こんなに早く猿之助さんがスーパー歌舞伎を手掛けるとは思わなかったので、その研鑽と努力と度胸のよさにエールの拍手を送りたい。パチパチパチパチ・・・・

 

源氏物語 『末摘花』 (2)

歌舞伎の『末摘花』は北條秀司さんが、十七代目中村勘三郎さんのために書かれた戯曲である。北條さんは『末摘花』『浮舟』『藤壺』を書かれていて<北條源氏>と言われている。『源氏物語』を訳されたり芝居などにする場合、それに携わったかたの考えかた、想いが色濃く反映され<〇〇源氏>と言われるゆえんであり、それだけ様々の解釈を受け入れるだけの大きさのある作品ということであろう。どう解釈されようとビクともしない作品であると同時に柳のように風に逆らうことなくユラユラと揺れ、余りに酷いときは、亡霊をそっと柳の後ろから出現させるかもしれない。

私の録画は平成13年(2001年)12月歌舞伎座であるが、40年ぶりの再演だそうで、40年前となると、昭和36年(1961年)頃である。<末摘花>は勘三郎(十七代目)さんで、<光の君>は歌右衛門(六代目)さんである。『隅田川』のベストコンビである。

勘三郎(十八代目)さんと玉三郎さんもベストコンビであった。歌舞伎の<末摘花>は、最終的には自分の生き方を自分で決める、賢い姫である。

光の君が須磨から京に戻られたのに末摘花のところへは音沙汰がない。そんな時、東国の受領である雅国(團十郎)が宮家の姫であるのに自分のような者にも隔てなく琴など聞かせてくれ、その心根に惚れ求婚するのである。雅国は眼が不自由でその治療のため都へ来たのだが治らないと宣告され、明日東国に帰るため一緒に来て共に余生を送りたいと願うのである。この雅国の團十郎さんがこれまた素敵なのである。末摘花の本当の人柄を見抜いていることが、よく伝わる誠実さである。末摘花は光の君を待つ覚悟でありその話を断るのである。

雅国が帰った後、光の君から文が届く。今日姫を訪ねて、さらに二条院へ引き取るというのである。末摘花も姫に仕える人々も驚き喜び大慌てである。ところがこの手紙は花散里へ渡すべきものを、光の君の従者(弥十郎)が間違えて末摘花に届けてしまったのである。それを知った侍従(福助)は姫君に本当のことを伝えることが出来ず下がってしまう。いくら待っても来ない光の君。一人で待つところへ、手紙を間違えた従者が現れ本当のことを話してしまう。末摘花は黙って間違えた文を従者に渡すのである。

傷心の末摘花に侍従は光の君がお出でになったと告げる。いよいよ光の君が惟光(勘九郎)を伴って花道より現れる。優雅に周りの景色を眺めつつ、こんなに末摘花の住まいは朽ちてしまったのかと感慨深げでもある。

光の君を前にすると末摘花は何も話せない。侍従が一生懸命姫と光の君との間を取り持つ。光の君は姫は変らないねぇと姫の子供っぽさを笑いつつそのままでいいのだよと安心させる。姫は侍従に勧められ琴を披露する。光の君は逢った時の心持に返るのだが、笛の音に誘われ月までもが都では艶めかしいと言って庭に出る。光の君は全ての美しいものにすーっと心惹かれるのである。その場その場で。庭の祠の前に石が積んでありこれは何かと尋ねる。侍従がそれは姫様が、光の君様が須磨に行かれてからその祠に光の君の無事を祈り、その度に石を積み上げていたと伝える。光の君はないがしろにしたことを謝りその夜は末摘花のもとで過ごすのである。

次の朝、光の君と惟光が帰リがけ、侍従が花散里のもとへ行き少しの時間でいいからと光の君に願い出て、足を運んでもらったことが解る。惟光は、その場の状況で人の心に触れると合わせてしまう光の君をなじる。紫の上様は何ですか。あれは私の夢だ。花散里様は。あれは別だ。明石の君様がこちらに来たら。その時はその時で考えよう。その時その時が真実であるという光の君の人間性をよく理解したのが末摘花で、雅国のもとへ行こうと決心するのである。

友人の言う 「光源氏の玉三郎さんも、はまり役だね。末摘花の女性としての可愛らしさと切なさが、なんとも言えないものがあるねぇ(笑)」 がここなのである。好きになった人が、美しいものに魅かれるとあちらに行き、こちらに行く。それを停めるとその人でなくなるのである。しかし自分はそれには耐えられないであろう。自分は東国で、光の君様のこれからの繁栄を石を積んでお祈りしようと自分に言い聞かせるのである。

この芝居を観たとき、観た人達で盛り上がったものである。末摘花は賢い。雅国と結ばれるほうが幸せになれる。團十郎さんの雅国は素敵だもの。それにしても、憎めないのが玉三郎さんの光の君。あれは演じ方によっては、単なる浮気者よ。そうならないところが、さすが。勘三郎さんの末摘花はきちんと最後は泣かせて決めたわね。同情ならいらないわ。

友人は自分の体験から次のように附け加えている。

「 実は、私は、末摘花で? 10年位、皮膚科に通院しているんです(笑)。鼻の頭が赤くなり、吹き出物もできやすく大変でした。現在は、ほとんど完治状態ですが、まだ薬は、飲んで通院しています。鼻の頭の血管が開いてしまい、そこにアレルギーが加わり赤くなってしまったのです。薬で治らない場合は、血管を焼く事もあるようですよ(笑) 私は薬でなんとか済みそうです。末摘花も現代なら~紅花なんて言われなかったでしょうに・・・・。可愛そうに!他人事ではないわ(笑) 」

源氏物語 『末摘花』 (1)

ブログを読んでくれている友人が、どこで紹介したのか忘れたが、円地文子さんと白洲正子さんの対談集 『古典夜話 ーけり子とかも子の対談集ー 』が面白かったと言ってきた。ちなみに勝海舟の『氷川清話』は半分で閉じたそうである。

『古典夜話』を読むとやはり<源氏>を読まなくてはと思わされ、どこから入ろうかと思案し、『末摘花』から入る事とする。なぜか。歌舞伎の『末摘花』がパッと浮かんだからである。勘三郎(十八代目)さんの末摘花と玉三郎さんの光源氏である。友人は歌舞伎を観た事がなく、かなり鄙びたところに住まいしているため簡単には観劇できないので、『末摘花』は録画してあり、それをダビングして送ることとした。

そんなこんなで、本のほうは、読みやすい村山リウさんの 『源氏物語 ときがたり 』とする。村山源氏 と古本屋で出会って1年と3ヶ月がたち、やっとひも解くこととなる。<末摘花>というのは<紅花>のことである。<紅花>といえば高畑勲監督のアニメ『おもひでぽろぽろ』である。紅花は棘があり茎の先についている花を上手く摘まなくてはならないので<末摘花>とも呼ばれるのだそうで、『おもひでぽろぽろ』の主人公はその紅花を摘みたくて自分探しの旅にでるのである。

『源氏物語』の末摘花は旅にでることはない。彼女の鼻は紅花のように赤いのである。彼女はじっーと光源氏を待つのである。

夕顔を忘れられないでいるのに珍しい話を聞くと心動かす源氏である。亡き常陸宮(ひたちのみや)の姫君が荒れた大きな屋敷に一人寂しく暮らしていると聞き、その屋敷に出入りしている女官の命婦に手引きさせ姫のお琴を聞く。上手とはいえないが、手筋は良いと源氏は思い想像をたくましくさせ、次に歌を送る。ところが返事が来ず、頭少将も求愛者と知り、源氏は積極的な行動に出て、次に訪ねたときは、ふすまをあけてなかに入ってしまわれた。その後、返歌も面白味がなく、再度の訪れまで時間がたち、気になって朝の雪見をしましょうと姫を誘いだされた。その時、姫の姿と赤い鼻を見てしまう。源氏はこの時、自分しかこの姫の面倒をみる者はないと自分に言い聞かせるのである。それでいながら源氏は自分の鼻を赤くぬり、若紫に色が取れなくなると心配させ、たわむれるのである。紅梅の色に常陸宮の姫君を思い出し、< なつかしき色ともなしに何にこのすえつむ花をそでに触れけむ >としてこの姫を<末摘花>と呼ぶのである。

末摘花はこの後、『蓬生(よもぎう)』で再登場する。『紅葉賀』『花宴』『葵』『賢木』『花散里』『須磨』『明石』『澪標』の後である。源氏は住みづらくなった自分の周辺の様子を察し自ら須磨へ身を引く決心をする。青春真っ只中の源氏はここで身を引くことにより、青春と別れ大人になって行く時期でもあった。人の結びつきのはかなさも分かり、再び京にもどった源氏は末摘花の事を思い出し、もう居ないであろうと訪ねてみると、朽ちた屋敷で末摘花はじーっと待っていたのである。源氏はそれから2年後二条東の院へ末摘花の君を引き取るのである。この<末摘花>は出てはこないが『末摘花』から『蓬生』までを<末摘花>の完結として考えた方が良いとの意見がある。私も読んでいて、源氏の人としての成長が<末摘花>を扱う考え方に変化を与えたと思うし、紫式部も<須磨>の前に意識的に<末摘花>を持ってきたように感じる。

さてさて、歌舞伎の『末摘花』は原作とは違う、これまた素敵な<末摘花>なのである。

友人からのメールを本人の了解を得て紹介しておきます。

「昨夜、『末摘花』見終わりました。旧勘九郎さんの末摘花は、私が勝手に想像していた姫の姿とぴったりで、楽しく見ました。光源氏の玉三郎さんも、はまり役だね。末摘花の女性としての可愛らしさと切なさが、なんとも言えないものがあるねぇ(笑)。」

 

 

 

『隅田川』 推理小説から歌舞伎まで (2)

私がDVDで観た歌舞伎『隅田川』(清元)は、斑女の前(はんにょのまえ)が六代目中村歌右衛門さんで、舟人が十七代目中村勘三郎さんである。そして清元が清元志寿太夫さんである。驚いた。歌右衛門さんの動きと志寿太夫さんの清元が見事に合っている。歌右衛門さんが描く世界と志寿太夫さんが語る詞がぴったり重なっている。さらに舟人の勘三郎さんが、全く無駄のない動きで歌右衛門さんに寄り添っている。歌右衛門さんが我が子を探し、その死を知った時の悲嘆と狂気を演じられているそばで、どうする事も出来ずに支えたり、落涙する姿の勘三郎さんは演じているのではなく、演じられている歌右衛門さんの芸の流れに乗っているだけにみえる。それほど演じているとは思えない芸なのである。

斑女の前が花道から、白い小さな花の枝を手にし、打掛の片外しで塗り笠を背負い、尋常では無い姿で登場する。静々と何かに導かれるような出である。京の都の白河から人商人(ひとあきびと)にさらわれた我が子を探し訪ねて隅田川にたどり着いたのである。花道で塗り笠を鏡に見立てて髪を直すあたりなども、如何に苦労してたどり着いたかがわかる。来合わせた舟人との問答になり、飛び交う鳥に対し、業平の <名にし負はば いざこと問わん 都鳥 わが思ふ人は ありやなしや> の歌にかけて母親は問う。舟人は、去年旅の疲れから倒れた子供を人買いが置き去ったと話す。その子の国は都の白河、父の名は吉田、年は十二歳、その名前は梅若丸とわかる。お二人の聴く親と語る舟人の動きが美しい。悲しい話がもっと切々と伝わる。

舟人はその子の埋められた対岸まで斑女の前を舟に乗せ連れて行く。梅若丸の墓は < 今はこの世になき跡に 一本(ひともと)柳枝たれて 千草百草しげるのみ > 母は、ここを掘って亡骸でいいから一目会いたいと嘆く。 舟人はそれを止め、念仏を唱えてやりなさいという。舟人は道端の花を摘み母親に渡す。その土墓に母は自分の打掛を掛けてやり母は自分の髪の乱れを手で撫でつけ気持ちも新たに念仏を唱えるがその念仏の声の中に梅若丸の声があったとして気がふれて梅若を探しまわる。花道で我が子を何度となく抱こうとする母。どうする事も出来ず涙する舟人。勘三郎さんの情が歌右衛門さんの芸を際立たせる。

< 幻の 見えつ隠れつするほどに 空ほのぼのと明けにけり > 土墓に掛けた打掛を撫ぜ、悲しみゆえに身をよじり握りしめる斑女の前に上る朝日の光が紫炎となって射すのである。

隅田川七福神の多聞寺と白髭神社の間の木母寺は梅若伝説のお寺で、境内には梅若塚とガラス張りの梅若堂がある。また、そばの梅若公園には晩年を向島で過ごした榎本武揚像がある。

そして隅田川の対岸には、梅若の母が梅若の死を知り尼となり妙亀尼と称し庵を結んだとされ、その伝説の塚として妙亀塚がある。二つの塚を結ぶ橋としては白髭橋が近いであろう。

 

『隅田川』 推理小説から歌舞伎まで (1)

葛飾北斎の「深川万年橋下」は、深川の小名木川から流れ込む隅田川を前方に描いている。その隅田川は人気者で様々のところで活躍している。

小旅行とかちょっとの電車の行き来ように文庫本を持つ。本の厚さ、字の大きさ、適度に文と文の間に空間、読み返さなくて良いほどの流れのものと、パラパラと開いて検討して持参するのである。そうして選ばれた本がまたしても、内田康夫さんの本『隅田川殺人事件』となってしまった。ああ、隅田川ねの軽い反応を反省させる広がりであった。

先ず、浅見光彦の住んでいる位置と母親の雪江夫人の浅草近辺を戦前、戦中、戦後の見てきた風景が判るのである。浅見光彦の住まいと言うより母と兄のもとに同居させてもらっている住まいは、東京北区西ヶ原で、飛鳥山に隣接している。飛鳥山は八代将軍吉宗がサクラなどを植え、江戸庶民の遊行地としたところである。音無川(石神井川)に掛かる音無橋の下は公園になっていて、飛鳥山からこの橋したあたりが光彦少年の遊びの縄張りだったようである。さらに先へ行くと、王子の地名の由来の王子神社があり、さらに進むと落語の「王子の狐」でお馴染み王子稲荷神社がある。源頼朝が太刀を寄進したともいわれ、関東稲荷総社の格式がある。

雪江夫人は「花」の歌から青春時代に行った隅田川を連想する。 ~春のうららの隅田川 上り下りの舟人が かいの雫も花と散る~  「花」は武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲である。明治33年で内田さんは明治33、34年の学校唱歌として、「荒城の月」「鉄道唱歌」「箱根八里」「おつきさま」「お正月」「うさぎとかめ」「はなさかじじい」などをあげている。参考までに附け加えるなら、滝廉太郎も演奏した上野にある旧東京音楽学校奏楽堂は残念ながら建物が古いため現在は公開されていない。その建物前にある滝廉太郎像は朝倉文夫作である。建物が修復され公開されると良いのだが。

雪江夫人は戦中は空襲のため火を逃れて隅田川に飛び込んだ人々が亡くなった様子を聞き、その無惨さに隅田川に近づくことを頑なに拒否しつづけている。ところが、隅田川での殺人事件に雪江夫人の知人が関係し、光彦と隅田川や浅草を訪れることとなるのである。この殺人事件、吾妻橋から出ている水上バスで行く浜離宮とも関係があり、読みつつ行った所を思い出していた。浜離宮は『元禄忠臣蔵 御浜御殿綱豊卿』の御浜御殿である。浜離宮の横を流れている築地川は昭和20年代には新橋演舞場の後ろを流れていたのである。この一冊だけで、再び新旧の東京見物の一部が出来てしまうのである。

~見ずやあけぼの 露あびて われにもの言う桜木を~  隅田川で手を合わせてから、桜の時期の水上バスもいいであろう。飛鳥山公園の桜もいい。もう一つ出てくるのが、能の『隅田川』である。<愛するわが子・梅若丸を人買いに連れ去られて、物狂いになった母親が、都からはるばる東国にやってきて、隅田川のほとりで梅若丸の幽霊に出会う> そう来れば、こちらとしては、中村歌右衛門さんの『隅田川』のDVDを見ないわけにはいかなくなるのである。

 

太田記念美術館 『葛飾応為』

<父は北斎 知られざる異才の女絵師>

葛飾応為(かつしかおおい)は北斎の三女でお栄(阿栄)とされている。太田記念美術館で2月1日から26日まで、応為の「吉原格子先之図」が公開されていてぎりぎり間に合った。吉原和泉屋の張見世の夜の場面、張見世の格子中の様子とそれを眺める外のお客の様子が灯りの<光と影の美>として捉えられている。

格子中も明るいところと影になる部分があり、外は外で、提灯の灯りと照らす部分と影となる部分の立体感が絶妙である。この浮世絵(肉筆)が応為の作品と判明するのは、三つの提灯に<応><為><英>と書かれているので応為の作品であると分るのだそうで、これまた味なことをされる方である。

北斎は数えるのが大変なくらい引っ越しをしていて暮らしも大変だったらしい。北斎と応為の姿が描かれている「北斎仮宅図」を見ても、北斎は布団をかぶり、どう見てもお二人とも絵師としての才と生活の才が均等ではないように見受けられる。

応為の「夜桜美人図」は江戸博物館の『浮世絵展』に展示されていたようであうが、あの広さの作品の多さに対峙する元気がなかったので行かなかった。それと、この作品はメナード美術館が所持しているので、そちらでお会いしたい。ただ、ボストン美術館所蔵の「三曲合奏図」は『ボストン美術館浮世絵名品展 北斎』で9月に巡回で東京にくるらしいのでそれは見ようと思う。市川猿之助さんが音声ガイドナビゲーターであるからして、楽しみが増えた。

今回の太田記念美術館での浮世絵は夜の作品に主眼があって、こういう限定された展示はそこに視点が集中して、浮世絵師の夜の作品への取り込み方の違いや、こういうふうに夜を表現するのかと大変楽しく見ることが出来た。そして、引き返して応為の<異才>を改めて味わった。

北斎の「深川万年橋下」のカーブした万年橋の間から見える富士もよかった。ちょっとここで歌舞伎につながるが、二月歌舞伎座の『心謎解色糸』の米吉さんと廣松さんの芸者の雰囲気の違いが面白かった。米吉さんの小せんは菊之助さんの芸者小糸の動きや台詞によく反応するが、廣松さんのお琴はでんと構えている。そしてお琴の台詞の時思ったのである。廣松さんは辰巳芸者を意識しているのかと。筋書で米吉さんは小糸の妹分として世話を焼く立場と考え、廣松さんは(粋と侠気で知られる)辰巳芸者を工夫する考えを述べられている。なるほどである。

辰巳芸者と言えば、『梅ごよみ』の芸者仇吉の玉三郎さんと芸者米八の勘三郎さんである。あの意地の張り合いがもう観られないのかと思うと、目が潤んでくる。でも若い人たちが一つ一つ学んでいってくれれば花開く日は来るであろう。

応為にも辰巳芸者のような、女絵師としての張る意地を感じてしまう絵師である。

 

歌舞伎座2月『花形歌舞伎』 への雑感 (2)

『青砥稿花紅彩画~白浪五人男~』の<白浪>とは盗賊のことである。そのいわれは諸説あるので省略して、<白波五人男>の見せ所、「稲瀬川勢揃い」の場についてである。「雪ノ下浜松屋の場」で風体の良くない男(狼の悪次郎・菊十郎)が、小袖を頼んだらしくその期日の催促にくる。店の中を眺めまわし、何かこの男は企んでいるなと思わせる。この小袖が「稲瀬川勢揃い」で<白波五人男>の着る小袖だったのである。「雪ノ下浜松屋の蔵前の場」の最後、この悪次郎が出てきて日本駄右衛門に罪科がばれ危ない状況を伝える。それを聞いた浜松屋の主人が自分からの餞別として、着物を渡すのである。筋書を読んで、初めて分ったのであるが、日本駄右衛門が、悪次郎を通じて小袖を頼んでいて、その着物は結果的には、<白波五人男>の死に装束でもあったのである。

「稲瀬川勢揃い」の派手な衣装は<白波五人男>を恰好よく目立たせるために考えたものとだけ思って居て、芝居の中にその衣装のことが組み込まれていたとは、今回まで知らずにいた。実際には、衣装は衣装部さんなり役者さんなりが考えだしたのであろうが、芝居の中では、日本駄右衛門がデザインし注文していたことになる。そうなると、「稲瀬川勢揃い」も違う輝きが増してくる。台詞も、黙阿弥さんが考えたものなのだが、この衣装に負けない台詞をいう五人でなければならない。自分たちで設定しているのであるから。黙阿弥さんは格好いい。自分が消える事の恐れなどないのである。むしろ自分が消えて役者の登場人物の光る事を望んでいる。作者に負ける役者は駄目だともいっているように思える。

日本駄右衛門(市川染五郎)・弁天小僧菊之助(尾上菊之助)・忠信利平(坂東亀三郎)・赤星十三郎(中村七之助)・南郷力丸(尾上松緑)は負けてはいなかった。

テープで、日本駄右衛門(七代目松本幸四郎)・弁天小僧菊之助(十五代目市村羽左衛門)・忠信利平(六代目尾上梅幸)・赤星十三郎(市村家橘)・南郷力丸(十三代目守田勘弥)を聞いたが、先輩たちのほうが朗々としているが、花形のほうは声の質の違いが面白かった。それぞれに声に特徴がありそれを楽しんでいた。もう一つは、雪ノ下といえば、鎌倉に残る町名であり、稲瀬川は静岡である。所がこの芝居は江戸の話なのである。役者さんは江戸前で演じる。

<白波五人男>の名乗りの台詞(つらね)には、鎌倉から浜松、そした奈良の吉野、福島の白河まで出てくるのである。江戸の人々は歌舞伎の芝居小屋の中で日本全国あるいは唐天竺までを旅するのを楽しんでいたのである。

駄右衛門では、生まれは遠州浜松、人に情けを掛川、金谷をかけてと雑談から旅での地名が出てきて大喜びである。弁天小僧菊之助は、江の島の岩本院の稚児上がり、髷も島田の由比ヶ浜、悪い浮名も竜の口、八幡様の氏子、鎌倉無宿と解かりやすい。忠信利平は、義経に関係してくる。月の武蔵野江戸育ち、廻って首尾も吉野山、足を留めたる奈良の京、けぬけの塔の二重三重(義経、弁慶、忠信等が頼朝の追手から隠れた場所)。赤星十三郎は、鈍き刃の腰越、砥上ヶ原に身の錆を、月影ヶ谷神輿ヶ嶽、など鎌倉近辺である。最後の南郷力丸は、大磯である。磯馴れの松の曲がり形(大磯東海道の様子)、その身に重き虎が石、覚悟はかねて鴫立沢。

大磯を少し付け加えると、東海道の宿場町で、東海道の松並木がのこっている。澤田美喜記念館。藤村が晩年の過ごした旧島崎藤村邸、地福寺には藤村の墓がある。鴫立庵は西行の歌ゆかりの、日本三大俳諧道場の一つ。新島襄終焉の地であり、宿泊跡地に碑がある。海側には政治家の別荘がある。大磯城山公園には、国宝「如庵」を模した茶室「城山庵」がある。数奇な茶室「如庵」 そんなわけで、現代人も芝居を見つつ旅をしているのである。

江戸と設定するよりも、辻褄が合わなくても、観客がもっと遠くまで想像を巡らし遊び楽しむ世界観を後押ししてくれている。盗賊が主人公という事もそれに一役かっている。

 

歌舞伎座2月『花形歌舞伎』 への雑感 (1)

今月の歌舞伎座 『花形歌舞伎』は、昼が四世鶴屋南北の作品で夜が河竹黙阿弥の作品である。南北は『心謎解色糸(こころのなぞとけたいろいと)』で、昭和48年に国立劇場で上演され、今回は再演である。染五郎さん、菊之助さん、松緑さん、七之助さん、等の若手にとっては新作と言ってよい作品である。それに対し黙阿弥の『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』は通しとして、「浜松屋」と「勢揃い」の単独や二つセットを数えると何回上演されているか分らないほどである。

この二作品を花形の役者さんで観て思ったことは、歌舞伎は型の芝居であるということである。他の演劇と歌舞伎を分けているのは型である。そしてその型があるゆえに生き残ってきたのである。『心謎解色糸』は、型が決まっていない、模索状態である。型が決まっていないだけに台詞まわし、声のトーン、息継ぎなども定まらない。人物の寸法も、善と悪の演じ分けもすっきりしないところもある。芝居がメチャクチャだということではない。複雑な人間関係を解り易くし役者さんもそれなりの登場人物たちをこなしており早変わりもある。しかし、観ている側に何かもっとと求める声がする。それがなんであるか。『青砥稿花紅彩画』を観て明らかになった。古典で型があり、がんじがらめに縛られているはずなのに、こちらのほうがのびのびと演じられているように見える。観ているほうもストン、ストンと気持ちよくこちらの感性に入ってくるものを受け止めている。

おそらく花形役者さんたちも、先輩や師匠(親)から口うるさく言われてきたことが沢山あったであろう。あちらからも、こちらからもそう沢山のことを注意しないで欲しいと反発もしたことであろう。それが、身体の中に少しずつ積み重なって、身体が味方してくれているのである。花道から去る時の不敵で怪しい目つきと視線。そこに色気があり、その顔の表情を受けて立つ身体に型があるのである。この身体があるからこそである。

これがあるからこそ、歌舞伎は幼い頃から舞台に立たせられ身体に染み込まされるのである。そうしなければ、何代も続いて工夫してきたことを、覚え込む時間が足りないのである。身体に覚え込んで覚え込んで自分の芸を探し当てていくのである。さらに、観客の目も意識しないわけにはいかない。こんなに一生懸命なのに受け入れられないのか。この程度で喜んでもらえるのか。どちらにも落とし穴があるかもしれないし正解があるのかもしれない。それをどう捉えどう平衡感覚を保つかも役者さんの仕事である。

新作は、かつての役者さんたちがやってきたように、再演の度に工夫して積み重ね、自分の代で駄目なら次のいやもっと先の次の次の世代での花を夢見て伝えていく足掛かりとなるものである。若手の役者さんがそれを苦労し模索しているのもまた違う意味での観る楽しさではある。

今月の筋書きに新歌舞伎座の軒丸瓦の写真が載っている。歌舞伎座の座紋の鳳凰が丸瓦に型採られれている。歌舞伎座タワーの5階に上がると庭園もあるが、歌舞伎座のいぶし銀の屋根瓦を間近で見ることができる。その軒丸瓦を大写しにした写真である。筋書き買おうかどうか迷ったのであるが、この写真がボーンと出てきてそれだけで満足した。(古い瓦はどうしたのか気になるが。)表紙は後藤純男さんの奈良の當麻寺の『雪景』である。當麻寺といえば中将姫。中将姫と言えば国立劇場での新作歌舞伎『蓮絲恋慕曼荼羅(はちすのいとこいのまんだら)』であり、玉三郎さんの初瀬である。。この新作も是非再演し伝えていって欲しい作品である。中将姫伝説の人形アニメーション映画『死者の書』も人形を使うことによって伝説の幻想性を浮きだたせていた。