ありがとう 勘三郎さん

感謝の言葉しか思い浮かばない。ありがとう。

歌舞伎を見続けられた一翼に勘三郎さんの羽ばたきは欠かせないものであった。楽しそうに演じられる勘三郎さんも素敵であったが、どこかでスイッチがきゅと入り、きりっと良い形にきまる勘三郎さんはもっと素敵であった。あっ!スイッチが入ったなと感じられる時の瞬間は、勝手にこちらが感知したと思い込んでいるわけであるが、至福のときである。そう感じられる演技をしてくれるのである。

『春興鏡獅子』の御小姓(腰元の少女)弥生の出から引っ込み、再び登場し戸惑いながらも挨拶して踊りだすまでの恥じらいと困惑の様は追随を許さないところがあった。歌舞伎観劇の手ほどきをしてくれた先輩からもらった20代の頃の『春興鏡獅子』の映像は何回見直したであろうか。勘三郎さんが鏡獅子を踊るたびに比較し楽しんだ。そして歌舞伎舞踊の楽しみ方を教えてもらった。

大河ドラマ『新平家物語』を先ごろ見たら、敦盛が勘三郎さんであった。もちろん勘九郎さん時代であるが、気が強そうで負けず嫌いの敦盛で、勘三郎さんらしい敦盛であった。

ありがとう 勘三郎さん。萎える気を負けん気にして見続けます。あなたの愛した歌舞伎を。

 

 

歌舞伎 『将軍江戸を去る』

友人がNHK「にっぽんの芸能」「歌舞伎・将軍江戸を去る」での市川海老蔵さんの声の出し方が変わったのではないかと思うが、との感想があり急いで録画を見る。この演目は澤瀉屋襲名の演目の一つである。

海老蔵さんが渋い。お腹のあたりが膨らんだりへこんだり。複式呼吸である。台詞の声の幅が豊富で安定している。声を荒げるわけではない。あれだけの呼吸の上下運動があれば声にその息の動きが響くのではと思うがいたって穏やかである。ただ慶喜に対しての場面であるから役柄として当然力の入るところであるが、力みは押さえ、慶喜を刺激し過ぎず、慶喜に<時には裸身に成りたい時も或る>と言わせるあたりの引っ張り方も、ついに慶喜が<鉄太郎を呼べ>と言わせるまでもって行く手順の運びもこの声でやるのである。こういう脇も固められるのだと歓心した。

『将軍江戸を去る』は、江戸城を渡す日、徳川慶喜が水戸に隠棲するため静かに江戸を去るまでの前日と当日のはなしである。

大政奉還も終わり、江戸城無血開城も決まり、慶喜(市川團十郎)は上野大慈院の一室に謹慎している。ところが明日水戸に退隠する予定が慶喜病気のため延期になったと聴き伊勢守(市川海老蔵)がその真意を確かめにくる。謀反を勧めるものもあり慶喜が退隠の意志を翻すのではとの心配からもう一度真意を確かめたいとするのである。同じ様に思った山岡鉄太郎(市川中車)と門前で行き会い鉄太郎を拒む彰義隊を静め同道する。

伊勢守は槍の指南役で慶喜の薩長に対する怒りを一身に引き受ける。慶喜の気持ちが解かりすぎるくらいわかるのである。そう思わせる海老蔵さんの伊勢守であった。そこに別室に控えていた鉄太郎の声が響く。水戸は幽霊勤皇だと叫んでいる。(このあたり意味不明であった)慶喜はついに我慢できなくなり鉄太郎をそばに呼ぶ。ここから鉄太郎=中車さんの見せ所である。

鉄太郎は時には慶喜を刺激し熱弁である。意味不明であった<尊王>と<勤皇>の違いもなんとなく理解できた。<頼朝以来の武士の政権を壊す><国土と民を皇室に返し徳川家は一代官となる>そこまでやらなくては徳川家の権力をまだ夢見ている人々と薩長との争いで江戸は火の海となり、罪無き江戸の民が巻き込まれてしまう。(そのように理解した)鉄太郎は二回ほど言ったと思う。自分も時の流れの中でそのことが解かったのだと。

このあたりは鉄太郎=中車さんの何とか慶喜の怒りがあらぬ方向へ行かせず決めた真意を貫かそうとする姿と襲名した一役者の一生懸命さが重なる。

印象的なのが後ろに控えている伊勢守である。鉄太郎の考えをじっと聴きつつ、そっと目線が慶喜の方に動く。その目が何とも言えない。慶喜に対する不安と慈愛と祈りが混ざりあっているように見える。そこで初めて解かる。伊勢守は自分では慶喜の気持ちが解かり過ぎ慶喜の情に負けてしまうと考え、鉄太郎なら慶喜の進むべき道を間違わせずに解き明かすであろうと考えたのだと。

鉄太郎もそのところは解かり、慶喜も二人の思いが解かったと思う。

次の朝、千住大橋で江戸の人々に見送られる。鉄太郎が<その一歩が江戸の端です>と。焼け野原の江戸ではなく、昨日と同じ江戸を残して慶喜は江戸の人々と別れをつげるのである。

山岡鉄太郎は山岡鉄舟である。あの『塩原太助一代記』を書いた圓朝と一時期住まいが近く交流もあった人である。またまたここでお会いできるとは、まだ他でもお会いしてるのです。映画「勢揃い東海道」で片岡千恵蔵さんの清水次郎長に市川右太衛門さんの山岡鉄舟。実際に繋がりがあったようで、山岡鉄舟という方はかなり広範囲の方と交流のあった方らしくその辺を考慮するなら中車さんはもっと味のある山岡鉄太郎も作りあげられるのではなどとも考えたのだが。

作・真山青果の維新三部作の三部目である。『江戸城総攻』『慶喜命乞』『将軍江戸を去る』

 

 

歌舞伎・書物混合の建礼門院周辺

歌舞伎の『建礼門院』での建礼門院徳子と右京大夫の語らいをもう一度おさらいした。右京大夫は自分が資盛の後をどうして追わなかったのか、母の病を理由にして逃れようとしたのではないか、と自分をさげすむ。それに対し建礼門院は資盛の最後の様子を語る。<資盛は美しく死んでくれました。最後と決まると都の空を眺め、右京と呼んでいるのを私に聞かれ頬を赤らめておりました。><もう一度会いたかったのであろう。>

小説を読んでいる前と後では、台詞の厚みが全然違う。

歌舞伎ではこの場に後白河法皇が御幸されるのであるが、『平家物語』の「大原御幸」には右京は登場しないし、小説「建礼門院右京大夫」では右京は大原を訪ねるが、後白河法皇が大原御幸したという記述はない。北條秀司さんの脚本は、建礼門院と右京、建礼門院と後白河法皇との対話で一層平家一門の悲哀と人間のどうすることも出来ない無常を劇的に強め救済へと導いている。

ここでもう一人<大原>で共通する登場人物がいる。大納言左局(だいなごんすけのつぼね)である。清盛の五男・重衡(しげひら)の正室で安徳帝の乳母であり、壇ノ浦で入水するが彼女も源氏の手で助けられてしまう。夫の重衡は<以仁王(もちひとおう)の乱>の時大将として鎮圧にあたり、その乱に加担した園城寺を攻め炎上させ、さらに園城寺に加担する奈良の東大寺・興福寺を攻め、奈良も炎上させ東大寺の大仏殿の二階に非難していた千余名の人を犠牲にする。

その重衡が一の谷の合戦で生け捕りにされる。彼はそこから京都、鎌倉へと送られ奈良の衆徒の要求で奈良に送られ斬首される。彼は鎌倉へ下る前、彼の希望で法然から戒律を授けられている(『平家物語』)が、実際には法然は重衡とあえるところにはいなっかたようである。(永井路子著「平家物語」)「建礼門院右京大夫」では、隆信が法然に帰依しての出家としており、どちらにせよこの時代に法然がでてきたのかと時代背景が記憶された。

『平家物語』では左局は壇ノ浦で助けられてから姉の所に同居し奈良に送られる重衡に会っている。そして打たれた首と体とを一つにして丁寧に葬っている。それを終え、建礼門院のそばで平家一門の菩提を弔うのである。そして阿波内侍と二人で建礼門院を見取られ仏事は忘れずにいとなみ、最後には二人とも、往生の素懐をとげたということである。

(歌舞伎・平成7年での大納言左局は中村歌女之丞さんが演じられていた。)

 

新橋演舞場11月 『吉例顔見世大歌舞伎』 (夜の部)

熊谷陣屋』。これは今迷走なのである。観る前に、永井路子さんが平家物語を旅した著「平家物語」を読み始めたら序から<『平家物語』は史実を必ずしもそのまま伝えていない>とあり、例として<熊谷直実が一の谷の合戦で平家の公達、敦盛をわが手にかけたことから世の無常を感じ、これが出家の契機となった、というのだが、事実はまったく違う。>とある。

『平家物語』は琵琶法師に語られていくうちに多少変わっていったであろう。『平家物語』で清盛が白河院の皇子であるらしという事も清盛が死んでから、巻の六「祇園女御」で出てくる。「大原御幸」も清盛と後白河法皇の双方の権力争いから考えると有り得ないのではと思ってしまう。《物語》であるからそれはそれとして楽しめばよいとするが、かなり動揺。歌舞伎の『熊谷陣屋』自体が『平家物語』から自立している話で、熊谷は敦盛を助け、自分の子小次郎を犠牲にし、小次郎の菩提を弔うために出家するのであるから、それを組み立てた作者も凄いものである。それだけに観ている内にまたまた混乱。

弥陀六という石屋がいる。実は平家の武将宗清で台詞を聞いていると重盛(清盛の長男)に使えていたようで、重盛に平家一門の菩提を弔う使命を受けさらに重盛の娘小雪をたくされている。あれ、 宗清は頼盛(清盛の弟)に仕えていたのでは。宗清は頼朝を捕らえるが頼盛の母池禅尼の嘆願で頼朝は命を助けられるのである。池禅尼は清盛の継母である。

歌舞伎では、義経はこの宗清の育てている娘小雪への土産として敦盛が潜んでいる鎧櫃を宗清に託すのである。

そもそも歌舞伎では義経は後白河院の落胤敦盛を小次郎を身代わりにして助けるべしとの暗号を出す。それが<一枝を切らば一指を切れ>の制札。熊谷はその暗号を正しく読んだかどうか義経に小次郎の首を差し出し確かめる。小次郎の首を義経は敦盛の首に相違ないと答え熊谷は主君の意を正しく理解した事に安堵する。一方熊谷の妻相模は敦盛が討ち死にしていると思い敦盛の母藤の方を慰めていたが、敦盛と思っていたのが自分の子小次郎と知り動揺する。ここで周囲に小次郎の首と疑われてはならないので熊谷は、相模と藤の方の動揺をしずめる。相模はそれを察しつつ母としての悲嘆を押し殺しつつ熊谷と藤の方と観客に伝える。

それを受けつつ熊谷は出家を決意している。平家の宗清に敦盛を託する事を確認し役目も終わったと旅だつのである。

歌舞伎と書いたがもとは浄瑠璃の義太夫狂言である。色々錯綜したがこうするならこういう人物関係でと話の筋は上手く整えている。それだけに役者の力量が問われるのである。熊谷の松緑さん、よく頑張られた。台詞がよく聞き取れた。まずはそれだけでもあっぱれである。色々な思いで気もせくであろうがよく押さえられ一つ一つなぞられていた。周りもご自分の演技で受けられ魁春さんの相模は出の大きさから次第に悲しみに移行し良かった。

『平家物語』とのコラボだったが、書き終わってみるとしっかり義太夫狂言の中にいる。次の『汐汲』も須磨で、須磨寺と須磨の浜辺を思い出している。

熊谷直実(尾上松緑)・弥陀六(市川左團次)・相模(中村魁春)・藤の方(片岡秀太郎)・義経(中村梅玉)

新橋演舞場11月 『吉例顔見世大歌舞伎』 (昼の部)

片岡仁左衛門さんが体調不良のため休演である。一番ご本人が気にかけておられると思うが体を労わり大事にされて欲しい。

双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』。今回は「井筒屋」が東京では戦後初めての上演との事。「難波裏」も見ていないのでこの二場面をみてからの「引窓」の台詞がよく理解できる。南与兵衛(なんよへえ)の女房お早(もと遊女都)が姑のお幸から、<ここは廓ではないのだから>とその振る舞いを注意される。そこでお早は遊女だったのだとわかる。与兵衛の家に関取の濡髪長五郎(ぬれがみのちょうごろう)が訪ねてくる。この時お早と長五郎が廓で知っている仲だということがわかる。長五郎は恩のある息子のために人を殺め母親に暇乞いにきたのである。そこでお早はお幸が与兵衛の父の後妻となり、与兵衛は義理の子で長五郎は実の子である事もわかる。

また、長五郎が<同じ人を殺めても運の良いのとそうでないのとがある>と呟くが、これは与兵衛も人を殺めているのであるが、都(お早)の機転から救われるのである。その辺りの事が「井筒屋」と「難波裏」を見ていると納得できるのである。「引窓」だけでもお幸・お早・長五郎・与兵衛の四人の情愛の絡みは解かるがところどころの台詞がやはり鮮明になる。

運の良さから武士に取り立てられながらそれを捨てる人、それを喜びながら苦悩する人、そうさせては義理が立たぬと考える人、間に入って気遣う人それらを引き窓を開けたり閉めたりする事によって明暗を表現する。ベテランならではの舞台であった。

お幸(坂東竹三郎)お早(中村時蔵)長五郎(市川左團次)与兵衛(中村梅玉)

人情噺文七元結(にんじょうばなしぶんしちもっとい)』。円朝さんの噺。本所の長屋に住む、娘が親のために吉原へ身を売ろうとして貸してもらえた金50両を50両取られて身投げしようとした男に、借りた50両を渡してしまう左官屋長兵衛さんの噺。

娘のお久役が清元延寿太夫さんの息子さんで役者になった尾上右近さん。好演である。右近さんが本名岡本研祐さんで舞台に立った舞踊『舞鶴雪月花(ぶがくせつげっか)』は忘れられない舞台である。右近さんが可愛らしく評判になった。三つの踊りからなり、「さくら」が坂東玉三郎さん・「松虫」の親が勘九郎(現勘三郎)さん、子供が七之助さんと研祐さん・「雪達磨」が富十郎さんでそれぞれ味わいのある舞台だった。もう一度見たいので配役を考えた。「さくら」(七之助)・「松虫」(勘九郎・鷹之資・七緒八)・「雪達磨」(勘三郎)。

『文七元結』にもどって、長兵衛と藤助のやりとりが楽しい。長兵衛の性格を知りつつ上手くあしらう客商売の技が藤助から読み取れる。大川端での長兵衛と文七はそれぞれの性格が現れている。その場になると人の意見は消えて自分の感情を優先させる長兵衛。しっかり者ゆえに自分の落ち度に気がつかず突き進む文七。こうなればこうなってこうなるとその場が上手くいけばよいのとこうなれば周囲がどうなるかを考える違い。それゆえ文七は新たな商売方法を考え出す。その辺の違いがよく出ていた。菊之助さんすっきりといい形である。

左官屋長兵衛(尾上菊五郎)・文七(尾上菊之助)・藤助(市川團蔵)

明治座11月花形歌舞伎 

四代目市川猿之助さんの襲名舞台を見ていないので、亀治郎さんから猿之助さんに代わってから初めての観劇である。襲名興行ではないし、<花形歌舞伎>と銘打っているためか、気持ちの上で変わらない。あたりまえに 新猿之助さん を受け入れている。想像していた通り澤瀉屋一門をまとめていて、それでいながら浅草での亀さんであった時の楽しさも残している。

今年の新春浅草歌舞伎の男女蔵さん・亀鶴さんもいるし、あの中村米吉さんが驚くべき成長で、市川右近さんに言い寄る若き娘役の発しとした演技にあれよあれよと楽しませてもらった。今、新春浅草歌舞伎はいい流れを作っている。今回、澤瀉屋は半分近く欠けていると思うが、それで興行出来るのであるから三代目猿之助さんが病に倒れてからの一門の精進が土台と成ったのであろう。他の役者さんたちの力を借りながら様々の難関を通ってきた年月の幅は細いがしっかりとした年輪である。これからその年輪の一つ一つの幅を少しずつ大きくして欲しいものである。

[昼の部] 『傾城反魂香(けいせいはんごんこう)』は、今回、<近江国高嶋館の場>があり、いつも<吃又>で出てくる虎がどのようにして描かれたものか気になっていたので流れが解かりすっきりした。自分の肩の肉を引きちぎっての血を吹きかけて描く虎の絵は赤い切り絵のようであり、その美術的効果になるほどと関心した。人が二人入っての着ぐるみの虎の仕草は身体は大きいが猫で、この時代人々はまだ虎を実際に見ていなく、様々の虎の絵を見ても、かなり情けない顔の虎の絵もあり、そんなこんなを思い出しつつ愛嬌さに笑ってしまった。序幕は門之助さん、猿弥さんが手堅く押さえてくれたが<吃又>は物語に入り込むまでにはいたらなった。夫婦の情も薄く右近さんと笑也さん硬く感じられた。

蜘蛛絲梓弦(くものいと あずさのゆみはり)』は六変化の舞踊だが、最初の切り禿 の踊りが良かった。紐を使っての駒に乗る仕草や手綱さばきの表現の手先、足裁きが印象的であった。座頭もお手のものだが今回の振りは杖を足で飛ばす意外性を置いといて、面白みにかけていた。全体としては流れの面白さはあるが一つ一つをみると、ここだ、というところが少なかった。もちろん身体はよく使われていた。そろそろ大曲の舞踏が見たい。

[夜の部] 『通し狂言 天竺徳兵衛新 噺(てんじくとくべいいまようはなし)』。解かりやすくよくまとまっている。『天竺徳兵衛韓噺(てんじくとくべいいこくはなし)』と怪談『彩入御伽草(いろいりおとぎぞうし)』とを入り組ませたもので、宙乗り、早代わり、幽霊、など仕掛けの多い芝居である。それを楽しみつつ筋も観客に残さなくては役どころの意味がないが猿之助さんは涼しい顔でこなしていた。どちらかと言えばさっぱり系で、日にちが立つと色合いがかわるのかもしれない。

<泳ぎ六方>を楽しみにしていたが猿之助さんのは優雅で美しい動きで気に入った。

市村萬次郎さんが近頃はよく舞台を締めてくれる。右近さんは役柄のためか、声高の頭から抜けるような口跡が少なくなりしっとりさが加わってきて、これから役の幅が増えるのでは。門之助さんは澤瀉屋の義経役者の品の良さがどんどん加わっている。笑也さんは古典はもう少し力が必要かな。猿弥さんは体重増えたのか上手いがいつもの独特の切れが薄かったような。

劇評家の先生たちがお目見えだったのも影響していたのか、全体的に役者さん皆様、行儀の良い演技だったようにお見受けしました。

歌舞伎映像 【平家物語 建礼門院】

もぐらさんたちの増える勢いが速くて追いかけていられないので、もぐらさんたちは勝手にさせておいて気の向くままに。

歌舞伎名作撰 DVD 『平家物語 建礼門院』。これは平成7年11月歌舞伎座にて収録したものである。

建礼門院・中村歌右衛門/後白河法皇・島田正吾/右京太夫・中村魁春/          阿波内侍・中村 時蔵/

京の都大原の寂光院に、壇ノ浦で入水したが助けられてしっまた安徳帝の母君徳子が髪を下ろし尼(建礼門院)となって亡くなった人々の菩提を弔いなが暮らしていた。そこへかつて建礼門院に仕えていた女房・右京太夫が尋ねてきて最後までお供できなかった事など胸の内を語り、平家一門の最後の様子や源氏の兄弟不和の事など世の中の無常をしみじみと思いめぐらす。そこへ、後白河法皇が訪ねて来られる。建礼門院は、この悲しみのを創られた法皇には会いたくなっかた。やっとどうにか御仏の力で自分の気持ちを押さえているのに、また乱されるのは耐えられなっかた。法皇のたっての願いから後白河法皇と建礼門院の対面となる。

建礼門院は押さえがたく自分の法皇に対する恨み辛みを全てを法皇にぶつける。法皇はその刃を受けるためにきたのだと伝える。自分は武士と武士を争わせ、兄と弟を争わせその勢力を弱らせ、かつての貴族による摂関政治を夢見たのだと告げ、おのれの罪深さを恥じ入る。

その時建礼門院は阿弥陀の声を聴く。許しなさいと。建礼門院はその事を法皇に告げ、浄土で御会いしましょうと微笑むが、法皇は、私はあなたと同じ所にはいけない、地獄にて皆の責め苦を受けましょうと語り別れをつげるのである。建礼門院は穏やかなお顔でいつまでも法皇の去り行くお姿に静かに手を振られるのである。

歌右衛門さんと島田さんの『建礼門院』は実際に観ている。歌右衛門さんは魁春さんたちに手を借りての立ち居振る舞いであったが建礼門院の気持ちは、その手先から顔の動かしかたから、島田さんの法皇の台詞に対する間合いからじわじわと伝わってきた。人とそこに積み上げてきた演技の技術というものが溶け合うとこうなるのであろうかと思った。それを<芸>とも呼ぶのであろうが。新歌舞伎という事もあってか島田さんは島田さんの演技で受けられてお二人の台詞劇は見事であった。後白河法皇と建礼門院だけの空間ではなくもっと広い空間に思えた。

ところが「平家物語」を読み、映像をみたら、許せるだろうかと疑問に思ってしまった。「平家物語」の平家一門の最後は、悲惨である。実際に受けた身にしてみればそう簡単にはと考えてしまった。北條秀司さんが10年を費やして書かれたそうで、どの辺を苦慮されたか解からないが、この許せるかどうかではないだろうか。

ただ「平家物語」を読んでいたので、出てくる人物の名前がどういう人かはすぐ想像できた。舞台では、建礼門院と右京太夫の会話が無意味に流れていたのであるが、法皇の訪れる前の重要な台詞だと解かった。阿波内侍が信西の娘である事も。「平家物語」では阿波内侍が法皇をお迎えし法皇が変わり果てた内侍に気がつかず名乗るのである。右京と資盛の事は書かれてあったかどうか記憶にない。このあたりも小説になっているようである。

もう少し時間をおいて映像は観てみたいと思う。今度はどう感じるか。

国立劇場『通し狂言 塩原多助一代記』

『塩原多助一代記』は歌舞伎では52年ぶりの上演で、通しでは83年ぶりだそうである。どこかで「塩原多助」の噺と芝居があるという事は目にし、苦労して財を成した人までは解かっていたがそこまでであった。

8月に<本所深川の灯り(2)>で下記のように記した。

>三遊亭円朝旧居跡(この地で塩原太助一代記を書く)・山岡鉄舟旧居跡などなど歴史の足跡が沢山ある。

それが、国立劇場で購入した「三遊亭圓朝の明治」(矢野誠一著)で圓朝と鉄舟との交流関係を書かれていた。さらに「塩原多助」は初め塩原家の怪談話から取材していたが出世一代記となった事も書かれている。江戸から明治を生きた芸人の半生記が簡潔に書かれていて引き込まれる本である。

その辺の事は別にして歌舞伎としての「塩原多助一代記」に入る事にする。

解かりやすい芝居である。芝居を見ていけば多助の人間性も解かるし、多助の商売に対する姿勢も解かる。多助は子供の頃、親の出世の為に塩原家の養子なる。養父が亡くなり後妻の母に虐められ命も危うくなり江戸へ逃げ、炭屋に奉公し独立して嫁も貰い目出度し目出度しとなるのである。

役者さんたちの台詞が聴きやすくある面では、歌舞伎として演技的に物足りないとも言えるが善と悪に際立って分けると言うのではなく、多助の質実な生き方を中心に据、恨みを薄めて前に進む多助像を生かしたといえる。

多助(坂東三津五郎)の父、塩原角右衛門(市川團蔵)は沼田で偶然同姓同名の百姓と出会い50両で息子を養子にするが、その時父はあくまでも預かっていた息子を実の親に返し、今まで育てた礼として50両を手にすると自分に言い聞かせる。その為、多助が江戸で仕官した親と逢った時、父はなぜ実家を見捨てたのかとなじり多助とは逢おうとはしない。このあたりは母親(中村東蔵)の想いとは違う父親像で、多助は恨みつつも沼田の実家の再興を心に決めるのである。

多助は養父(坂東秀調)の後妻のお亀(上村吉弥)の連れ子のお栄(片岡孝太郎)を嫁にしているが、お亀親子は侍の原丹治(中村錦之助)丹三郎(坂東巳之助)親子と不義をし邪魔な多助を離縁して追い出したいのだが多助は分家の太左衛門(河原崎権十郎)の助けもあり養父に背くことになると承知しない。そこでお亀・原親子は多助殺害を企てる。

ここで多助と愛馬青との別れの場面となる。仕事の帰り青はなぜか前に進まない。何かを察知している。そこへ友人の百姓円次郎(中村橋之助)が多助の代わりに青を引いてくれる。円次郎が気の良い性格で多助の身代わりとなった時、なかなか多助が円次郎を残して逃げれない気持ちがわかる。それを押しての青との別れが胸に響く。多助の情、青の鼻息、尻尾の振り方、袖の引っ張り合いなどいい場面である。この場面が後に、落ちぶれた姿で幼子を連れたお亀と逢って青の消息を聞くとき観客はこの場の青を思い出し、青の活躍に溜飲を下げ青の無念さを思うのである。そして多助が幼子とお亀を引き取るのも、青の人間よりも一途な思いにかられてと納得できるのである。この間にお亀と原丹治がだまされる場面と悪党道連れ小平次(坂東三津五郎)のゆすりの場があるが芝居としては薄味である。それゆえに、多助の生き方に目がいくのであるが。

そんな多助に縁談があるが相手が大店の娘お花(片岡考太郎)であるため身分違いと断る。多助の仕事仲間の久八(中村萬次郎)の養女となったお花は、長い振袖を鉈で断ち切り、共稼ぎの炭の粉で暮らす覚悟をみせ目出度し目出度しとなる。嫁については、前のお栄の事もあり貧乏に負けない相手を多助は望んでいたのであろう。

ただ多助は倹約だけに務めてる訳ではない。入って来たお金にもっと働いて来いとだしてやり、もう十分働いて動けなくなったら収めるのだという。また、お金のない人達には炭の計り売りをしお客の便宜を考えた商売をする。多助の堅実さが商売にも生かされるのである。

「三遊亭圓朝の明治」(矢野誠一著)の本には、圓朝の<不肖の倅>の事が書かれている。もしかすると圓朝が『塩原多助一代記』を一番語って聞かせたかったのはその<不肖の倅>になのかもしれない。

 

『秀山祭』の「寺子屋」

「菅原伝授手習鏡ー寺子屋」は、忠義の為に関係のない子を殺し、忠義の為に自分の子を殺させると言う話である。現代の解釈では理解出来ない事である。故に、芸が必要となるのである。訓練された肉体の全てを使い、理解できない世界へ導き入れ観た人の何処かの琴線に触れて納得させたり感動させたりしなくてはいけないのである。

<いけないのである>と言う言い方も可笑しいが、木戸銭を頂いてやっている訳ですからやはりそうなると思います。人気があって顔さえ見ていれば良いのであればそれでも良いが、恐らく演じている役者さんの方が嫌になるであろう。

松王丸(中村吉右衛門)・千代(中村福助)・武部源蔵(中村梅玉)・戸浪(中村芝雀)・春藤玄蕃(中村又五郎)・園生の前(片岡孝太郎)

千代が小太郎を連れて源蔵の寺子屋へ入門させる。千代は用事があるからと戸口を出る時小太郎が母の袖を引く。この時すでに松王丸・千代・小太郎の三人は約束事をしている。ここで<三角形>の図式が見えた。事或るごとにこの<三角形>の関係が違う<三角形>を作っていくのである。先ずこの三人の約束事とは、主君の子・菅秀才の身代わりとなって小太郎が命を捧げると云う事である。だから小太郎は母の袖を引いたのであるが、<まだ幼くて>と千代は戸浪に言い訳する。戸浪に悟られないように親子の別れである。福助さんは凛として溢れる悲しさをそっと現す。

源蔵はかくまっている菅秀才の首を差し出すよう言明され花道から思案しつつ帰ってくる。誰かを身代わりにと考えているが皆田舎育ちの子で身代わりと解かってしまう。そこへ今日きた小太郎を見てこの子だと決心する。ここでは源蔵・戸浪・菅秀才の三角が源蔵・戸浪。小太郎の三角になる。

玄蕃が首を受け取りに来る。そこへ菅秀才の顔を知っている病み上がりの松王丸が登場しする。ここから松王丸の腹芸が始まる。今まで菅秀才の父、菅丞相に敵対していたが味方となることを決め親子三人の約束事もそこに一点があるのである。しかし玄蕃にも源蔵にも解からせず小太郎の首を菅秀才の首として受け取らなくてはならない。ここで源蔵夫婦・松王丸・玄蕃の三角形となる。この三角を崩さないようにして目的を遂げるための松王丸の芸が必要なのである。吉右衛門さんの松王丸は松王丸の言動一つ一つが首実験まで上手く運ばせる為のものであると云う事が納得できた。偽首の可能性もあるから用心するように玄蕃に強く指示して反対に玄蕃をけし立てつつ味方である事を印象付け、反対に源蔵夫婦には緊張感を増幅させ失敗の無いように引き締めさせているのが解かる。

そうしつつ、我が子の命落とす瞬間を知り、首実検では我が子の首と知りつつ菅秀才の首であると明言する。このあたりは、役者さんと観客の交信である。お互いが上手く交信出来たか出来ないかで物語は膨らんだり萎んだりするのであり、面白いか詰まらないかになるのである。

源蔵夫婦の梅玉さん・芝雀さんそして玄蕃の又五郎さんはしっかり、松王丸のドラマツルギィーの中に入ってくれ構築してくれた。これが芸である。

守備よく玄蕃が首を持ち帰り、菅秀才の首は小太郎であった事が解かってくると観客は今度は役者と一緒に涙するのである。舞台上は園生の前・菅秀才親子と源蔵・戸浪夫婦と松王丸・千代夫婦の三角形である。しかしそれぞれの台詞から松王丸・千代・観客の三角、松王丸・小太郎・観客、千代・小太郎・観客ら様々の三角形が交信し合って様々な感情が沸き立ちどこかでそれが一つになり拍手となるのである。

今回はこんな事が頭の中で整理されていった。やはりそれは、力のある役者さんのなせる技と思う。

もう一つ重要な三角形がある。松王丸が小太郎の死を褒めてやったあと「それにつけても不憫なんのは桜丸」と、松王丸が三つ子の兄弟である桜丸を思いやる言葉を吐く。寺子屋だけを見た人は解かりづらいであろう。

そもそも三兄弟の悲劇は使える主人が別々であった事である。梅王は道真、松王は道真に敵対する時平、桜丸は天皇の弟に使えている。その桜丸の行動が原因で道真は九州に左遷させられる事になるのである。その事に責任を感じ桜丸は自害する。その事を松王は嘆くのである。小太郎のような頑是無い子が成し遂げた事に比べて、桜丸の死が犬死だったのではないかと。

この松王の台詞で、観客は改めて、梅王丸、松王丸、桜丸、三兄弟の繋がりを思い出すのである。

(新橋演舞場 「秀山祭九月大歌舞伎」昼の部)

 

 

亀治郎から猿之助へ

テレビでの「新猿之助誕生」を見た。 亀治郎から四代目猿之助襲名までのドキュメントである。澤瀉屋を背負って行くのは亀治郎さんだと思っていたので、猿之助さんの下を離れて舞台に立つように成った時は修行に出たのだなと当たり前に感じていた。

叔父の猿之助さんに反発してとは思わなかった。澤瀉屋を背負っていくなら古典をもっと勉強すべきだし必要不可欠と受け取っていた。

その後の亀治郎さんは猿之助一門では出来ないような演目や役をどんどんこなし楽しませてくれた。電車の中で、歌舞伎の役者さんの話をしている若い女性達がいて、誰のことかなあと聞き耳を立てていたら亀治郎さんの事であった。亀治郎さんのファンが増えてきた風を感じた。期待に答えるだけの頑張りを見せていたので嬉しい事であった。

猿之助さんが病で倒れた時、その前からあれでは猿之助さん倒れるのでは、と見ている側では心配していた。その時亀治郎さんは猿之助さんの下へ戻らなかったそうであるが、それは的確な判断だったようにも思う。その後、玉三郎さんが猿之助一門を率いて公演をされたりして猿之助一門も新しい経験と勉強をしていた。

良い時期に亀治郎から猿之助に襲名されたと思う。二代目猿翁さんも身体は不自由でも内に秘める闘志は鬼気迫るものがある。

まだ舞台で二代目市川猿翁さん、四代目市川猿之助さん、九代目市川中車さん、五代目市川團子さんを拝見していないので、これからの出会いが楽しみである。また、どんな澤瀉屋一門になって行くのか期待の大きいところである。

追記: 2011年3月には「スピン(回転)」をテーマにブルーマンの音楽とコラボで「獅子」を舞っている。勢力的に前進し続けている。