新橋演舞場 『プリティウーマンの勝手にボディガード』

<熱海五郎一座 新橋演舞場 進出 第二弾><爆笑ミステリー>となっている。

ハリウッドスターのニコラス・ケイジ(パンフ買ってないのでどんな字か不明)をガードする、警備会社の面々とその社長の元奥さん。キャバレーの関係者。刑事二名。殺人未遂事件を中心に新橋演舞場のムーランルージュはグルグルまわる。

警備会社社長の元妻で、伝説の元SPで、ニコラス・ケイジに命を助けてもらった元16才の乙女である大地真央さんの参加である。成りきっていて、メンバーの突っ込みにも動じない。フリフリのドレスでアイドルとして歌ってしまう。他のメンバーが崩れても、微動だにしないさすが元宝塚トップスターである。

爆笑ミステリーであるから、観客も演者も、ミステリーに期待はしていない。解決しそうもないコンビの刑事。筋はあるが、その筋よりも、間に展開されるコント(と言っていいのでは)などの見せ場が楽しい。

三宅裕司さん(警備会社社長)と小倉久寛さん(キャバレーレビューの演出家)の<流される>の間は、ギター伴奏と歌を含めて絶妙である。渡辺正行さん(刑事)の上落語を受けての春風亭昇太さん(ニコラス・ケイジ)の下落語。三宅裕司さんのパソコンの指タッチに合わせた大地真央さんのタップ。渡辺正行さんの演技説明をする役目の東貴博さん(刑事)。たとえば「たそがれているんです」。ラサール石井さんの中途宙乗り。小倉久寛さんのダンスと側転もありました。

犯人は意外なところに。しかし、捜す気を起こさせないのが、爆笑ミステリーと知りました。

豪華幕の内弁当。いやいや、豪華コメディアン弁当で、どこから食べてもそれぞれの味わいがあるというところである。

恒例になっているので、二回目のカーテンコールも楽しみなデザートである。楽屋裏や、それぞれの観察眼などの話が口当たり微妙。録画カメラが入っていたが、かなり噛んでいて、大丈夫だったのであろうか。よく噛む人をネタにしていたのも適材適所である。

大地真央さんの音楽性は別格として、三宅裕司さんと小倉久寛さんには、思いがけずその点を楽しませてもらった。

レンタルで『たまの映画』というのが目についた。名前は耳にしていたバンドグループだが実態は知らない。三宅裕司さんのテレビ番組「いかすバンド天国」でブレイクしたらしい。三宅さんの名前につられて借りた。このグループは解散していて、その後の各自の今の音楽活動を追っている。それぞれが自分のよしとする音楽を突き進んでいて、自分の歌を歌っている。こだわりは相当あるのであろうが、そのあたりを軽くかわしているところが、絡めとられることの煩わしさを知っての進み方なのであろう。三宅裕司さんの名前から、おそまきながら<たま>というグループのほんの僅かな部分に触れられたのは幸いである。好感が持てた。映画に三宅さんは出てこないので悪しからず。

音楽好きの三宅さんはビッグバンドを組んでいるようでチラシもあった。

さてさて熱海五郎一座は、熟し加減の素材を生かしつつ、これからも、笑いの世界を料理していくのであろう。器が立派で中身が少ない懐石料理にだけはしてほしくない。

 

『ART アート』(サンシャイン劇場)

1999年初演であるから、16年ぶりの再演ということになる。笑いもあるが、コメディでありながら、かなりシリアスな人間関係のなかの<笑い>であり、人が他人の本性をのぞき見してしまった時の<笑い>でもある。

市村正親さん、平田満さん、益岡徹さんの三人の共演ということで、初演を観ているが、最終的には難解であった。お客さんの拍手が静なのは、考えられているのであろう。頭の中に、整理のつかない余韻が残っているのだと思う。こちらがそうなので、皆さんもそうであろうと勝手に解釈しているのであるが、ただ今回は、再演ということもありなんとか蓋を閉めて再度開けられた。

初演の時はマークの市村さんが、お得意のキザな演技で笑わせてくれ、セルジュの益岡さんがマークの優位に立てぬ焦りを強調し、イワンの平田さんは二人に利用されつつ自分を埋もれさせていた印象であった。

今回は、マークは冷静と不安を表し、セルジュは仕掛けた側のゆとりもあり、イワンは、しっかり自己主張している。三人の中に潜む感情の渦が、時間をかけて育てられた演技力と経験から、より深いところから湧き上がってその激しさを静かに現してゆく。

舞台は真っ白な一室である。下手側のサイドテーブルの透明のガラス瓶の中には、赤、青、黄色の液体が入っている。交替で登場するマーク、セルジュ、イワンの衣装は黒である。始まりから印象強い舞台設定である。そこへ問題を引き起こす、白に白の線が描かれている絵が登場する。セルジュが500万で買った絵である。この絵にその値打ちがあるのか。絵の金額の高さが絵の価値とする基準から、マークとセルジュの物事の価値観に対する感性の対決が始まる。

次第に、今まではマークの価値観にセルジュが賛同し賛美し支配されていたことが判ってくる。イワンにとって、そんなことは、どうでもいいことで、二人の和の中に挟まって、現実から逃避できる空間が大好きだったのである。

このバランスが次第にくずれてくる。この過程を役者さんの台詞と動きと表情で読み取っていくわけである。その駆け引きの狭間で笑いを起こす。

この三人だけの長い関係にも、後ろには、パートナーが加わり、新たな家族が加わる。その背景も、三人の関係を微妙なものにしていく。すでに、現実の厄介さをしっかり体現している イワンは、現実とは違う三人の関係を壊す方向に行く二人に混乱し、狼狽えてしまう。二人が笑うであろう自分の現状をぶつける。

或る面では、三人を一人と考えるなら、マークとセルジュがアートの表現に携わる部分とすると、イワンは生活を意味するともとれる。

三人は、相手に対するお互いの本心を少しづつ出し始める。そのことによって、当然傷つくし、傷つけあう形となる。こうした関係はどこにでも存在する人間関係である。

ではこの三人の関係の修復はあるのか。マークとセルジュは、自分の心にもう一度蓋をして、二人のお試し期間を設けるのである。だが、最後の二人の台詞から、寸法の合わない蓋をしたことがわかる。マークは、セルジュの買った白い絵に青色のペンで絵を描く。その絵に三人のその後が暗示されているように思う。イワンもきちんと自分の居場所を探す。

そして、アートという物は、この三者のせめぎ合いの中で生まれるのかもしれないと思ったりもした。初演の時のほうが、三人はもう少し単純な部分があったが、今回はその空白部分に一筋縄ではいかない人格が作られた。それを味わいつつ、自分の中では、この芝居に一つの結論が出すことができた。結論が出るかでないか。出たとしてもそれぞれの違いはあるであろう。そして、静かに拍手である。

作:ヤスミナ・レザ/演出:パトリス・ケルブラ/美術:エドゥアール・ローグ/出演:市村正親、平田満、益岡徹

一つ要望したいのは、16年前は、料金が、A席、B席、C席であったが、今回は、A席とB席の二つである。こういうセリフ劇の場合は、16年前の踏襲でお願いしたい。

加藤健一事務所『バカのカベ~フランス風~』

再演である。今回はラストでピエール(風間杜夫)が、フランソワ(加藤健一)に「バカ、バカ、バカバカ、バカ」と連発するのであるが、その<バカ>に含まれている幅が、初演の時よりも大きく揺れ動いた。

<バカのカベ>を一度突き破ったところの、<バカ、バカ、バカバカ、バカ>なのである。

ピエールは、フランソワを自分の趣味の世界しか見ない変わり者としての笑いの対象とした。ところが、フランソワはそれだけではなかった。人が困っていると、その人のために何かしてあげたいという性格で、<バカ>の<カベ>の向こうにもう一人の親切なフランソワがいる。しかし、その行動がことごとく裏目に出てしまうというフランソワがいたのである。そしてフランソワにかかると、全ての事実が表にでてくるという、厄介な親切でもある。

それは、他人のことだけではない。自分の置かれた事実も表に出し、きちんと把握し自分で受け止める。自分が笑われるためだけに呼ばれるたパーティーのこと。それを仕掛けたのがピエールであること。それでいながら、フランソワはピエールの危機を救おうと親切心を起こし行動する。頼もしきフランソワ。感動的な幕切れと思いきや、フランソワのパターンは変わらなかった。次の行動が裏目を出してしまうのである。

だが、ピエールの最期にフランソワにぶつける<バカ>は、フランソワをパーティーに呼んだときとは明らかに違う。

波乱に満ちた一定時間を一緒に過ごした後の、あらゆる感情が含まれている<バカ>という言葉なのである。

「ばかだな泣いたりして。」という、女性に対する男性の常套句のような言葉があるが、この時の<バカ>には、可愛さも含まれている。一つの言葉でも含まれているニュアンスが違う。ピエールの言葉もそれで、「何て事してくれたんだ。ああやはり油断すべきでなかった。どうしてくれるんだい。あんなに喜ばしておいて。」

初演の時は、笑いだけだったが、この二人の人間関係が、良いにしろ悪いにしろ、濃密になったことが判った。その濃密さが、人間の可笑しさの幅を広げて伝わってきたのである。芝居ではあるが、芝居をしている時間空間に登場人物の生臭さが注入されていった感じである。

初演の時は、<バカ>の前に<カベ>が立ちはだかっていて、その壁にぶつかったピエールの自身のばかさ加減がフランソワによって跳ね返されたと感じたが、今回は<カベ>の向こうにいつの間にか連れ去られ、再び戻った時には、今までとは違う人間関係になっていたのでる。ただの笑いだけの芝居ではなかった。人間のあらゆる感情をも網羅していたのである。

登場人物たちの関係も、近かったり離れたり。客観的だったり、感情的だったり。冷静であったり困惑したりという面白さが見えた。再演による、より役に成りきっているため、こちらも、その人物を自然に受け入れ易くなって楽しめるゆとりをもてたからであろう。笑いとは、その人物が真面目であればあるほど笑いになるものらしい。

初演の時の感想である。 『バカのカベ~フランス風~』(加藤健一事務所)

作・フランシス・ヴェベール/訳・演出・鵜山仁/出演・風間杜夫、加藤健一、新井康弘、西川浩幸、日下由美、加藤忍/声の出演・平田満

下北沢・本多劇場 4月24日~5月3日

 

加藤健一事務所 『ペリクリーズ』

カトケン・シェイクスピア劇場『ペリクリーズ』とある。

加藤健一事務所『ブロードウェイから45秒』 でのお店に貼られていたポスターが、今回公演の『ペリクリーズ』である。前回公演の時に訳本が売られていたので購入。観劇前日に読む。シェイクスピアと聞いただけで身構え、覚悟して読み始めたが、言葉に惑わされずに読めた。

最初は、ある国の王の近親相姦の話が出てきて、悩み多き王子が現れると思いきや、この若き領主は邪淫の父娘をあっさり捨て、争いを避け、賢き臣下の意見に耳を傾け、自国から放浪の旅へと船出するのである。このツロの若き領主が<ペリクリーズ>である。

冒険譚であり、家族愛の話でもある。筋が解り、修飾語や例えの長い台詞は少ないので、ハムレットのように悩む必要もないであろう。この話がどう展開し、どう役者さんたちは演じるのか、興味はそこに尽きる。

船で旅立ったペリクリーズは、ある国で姫を娶り、ツルへと向かうが、船は嵐に合い妻は娘を産んですぐに亡くなってしまう。乳飲み子を連れて船出するわけにもいかず、ある国の領主に娘を預ける。この娘が美しく清い心の持ち主として成長するが、それが災いし運命に翻弄される。しかし、娘は回りの人間を清めつつ自分の人生をつき進み、目出度く父と再会するのである。

ところどころで周りの状況を説明する語り部の話によると、幾つかの国がでてくるが、人の道に背いた領主は、最終的には、領民によって見放されて滅びていったようである。それは、ペリクリーズが訪ねた国である。舞台でペリクリーズは幾つかの国を訪れるわけである。それも船に乗って。

舞台措置で活躍したのが、大きな三角の布である。それが、▽ となり △ となり、役者さんたちが上手く作動して場の変化をつけていくのである。

一役なのは、ペリクリーズの加藤健一さんだけで、後の役者さんは何役かの掛け持ちである。女性人たちに限って言えば、お化粧のためもあり、女郎屋のおかみさんが那須佐代子さんとは最後まで気がつかなかった。パンフレットを見て気がついた。女性は3人しか出ていないのに見抜けないでいた。付き人役とはあまりにも違う役である。加藤忍さんは、ペリクリーズとの出会いを愛らしく演じ、その娘役は静かに嘆きつつも相手を諭しつつ突き進んでゆく。矢代朝子さんは、悪と女神の両極端を、どちらも、不可思議な信念を醸し出していた。

男性陣は、幾つかの国の、太守や、臣下や、漁師や、騎士やなどとなり、ペリクリーズがその国へたどり着いたことを表し、ペリクリーズの旅を想像させ、航海の大変さへの想像をも助ける。

紙に印刷されていたものが、このように肉付けされ、舞台化されるのかと、その立体化された舞台空間を楽しんだ。主なる役の本筋をとらえ、違う場面では、それとは違う空気の流れを起こす。そして、ペリクリーズの波乱に満ち人生とその家族愛の成就を完結するために作り上げていくのである。その中心として、加藤さんのペリクリーズは力強く進み絶望へと至り、娘に救い出される。

シェイクスピアは苦手なのである。シェイクスピアとはなんぞやというところへは行けそううにもない。めでたしめでたしである。

訳・小田島雄志/演出・鵜山仁/出演・加藤健一、山崎清介、畑中洋、福井喜一、加藤義宗、土屋良太、坂本岳大、田代隆秀、加藤忍、那須佐代子、矢代朝子

 

ドラマ・リーディング『死の舞踏』

朗読劇である。台本を持っての台詞のバトルである。スウェーデン出身の脚本家・ストリンドベリの作で、まさしくバトルであった。バトルを繰り広げたのは、仲代達矢さん、白石加代子さん、益岡徹さんの三人である。

老夫婦の夫と妻は、お互いに反目しあっている。観客が思うにこの夫婦は相当長い時間お互いの相容れない部分の突っつき合いをしているらしく、時には、その修練の見事さで笑わせられる。 仲代さんの夫は、のたりのたりとソフトな感じで語りかけ、妻はそんな手に乗るものかと、ポンポン返してゆく。妻は自分の言葉が夫の言葉に吸い取られて雲散霧消にされないようにと警戒しつつもじわじわと攻撃を起こす。

そんな二人の間へ、友人のクルト・益岡さんが加わる。二人はクルトを自分の理解者として引きずり込むための会話へと変化させていく。何が噓で何が事実なのか。クルトは二人に翻弄される。観客も翻弄されるが、この毒気の可笑しさはどこから来るのであろうか。白石さんの気鬼迫る言葉の激しさが次第に快感になってきたりする。にこやかに噓を隠している人よりも、自分の悪をさらけ出す人のほうが愛すべき人なのかもしれない。表面を繕うことの虚しさまで感じさせるのである。

そんな妻に、夫はクルトの人生さえも掌握したように見せかけ、実はそれが噓であったという筋書きまで作るような人である。したたかに見えないでいて軽くかわす夫。それでいて、男としての威厳も主張する。

夫婦二人は、クルトを味方にしようとしていたのか、単なる二人の餌食として食い殺すことに喜びを感じていたのか。夫がなくなってからの妻の独白。夫婦の<憎>は実は<愛>だったのか。

バトルの後のワルツが最高である。

人間は美辞麗句に飾り讃えられるより本質を暴かれた方が素晴らしいワルツを踊れるのかもしれない。

『百物語』を続けられた白石さんだけに、言葉の抑揚に狂いはない。台本は手放してはいけないし、覚えていながらも台本を見続けなければならないという状況に挑戦された仲代さんは、演技が少し加わり動けるところでは、水を得た魚に見え笑わせてくれる。益岡さんは、二人の夫婦と名優に翻弄されながらも、何んとか自分を保ち、二人を客観的に見据え、自分精神と身体を静かに二人から引き離すことに成功したようである。

【 45分 <休憩> 60分 】のドラマ・リーディングは劇的で、2ラウンドが一段と白熱であった。

ラストのお三人が優雅で素敵であった。愛憎劇もかく美しく完結しえるのである。

原作・ストリンドベリ/上演台本・笹部博司/演出・小林政広

東京公演 博品館劇場 2015年2月17日~22日

新潟公演 りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館  2015年2月24日、25日

 

森鴎外と『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』

森鴎外の小説『青年』は、田舎から出て来た文学青年が主人公である。

小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行きの電車に乗った。

 

この<東京方眼図>は、鴎外が考案したものである。 『永井荷風展』 (1) 『青年』には、夏目漱石や森鴎外自身をモデルとした作家も出てくる。文学青年たちは、拊石(漱石)と鴎村(鴎外)を比較して、拊石が教員をやめただけでも、鴎村のように役人をしているのに比べると、よほど芸術家らしいかもしれないなどと論じている。

純一は拊石の物などは、多少興味を持ってよんだことがあるが、鴎村の物では、アンデルセンの翻訳だけ見て、こんなつまらない作を、よくも暇つぶしに訳したものだと思ったきり、この人に対してなんの興味も持っていない・・・

 

この青年たちは、拊石のイプセンの講演を聞きに来ているのである。拊石はイプセンについて話し、最後は、イプセンは「求める人であり、現代人であり、新しい人である」と締めくくる。純一は、この<新しい人>について考え仲間と論じ合う。当時の青年たちが、イプセンに強く惹きつけられていたということだけにして、これ以上深入りするのは止める。その後、純一は有楽座に『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』を、観に行くのである。

十一月二十七日に有楽座でイプセンのジョン・ガブリエル・ボルクマンが興行せられた。これは時代思潮の上からみれば、重大なる出来事であると、純一は信じているので、自由劇場の発表があるのを待ちかねていたように、さっそく会員になって置いた。

 

ここからは、純一が観劇した様子の描写となるが、この芝居の対する感想なり批評はない。観劇にきた女性達の様子と、青年の眼に映る舞台の様子が書かれているだけである。ただ、イプセンとシェイクスピアやゲーテと比較している部分がある。

しかしシェエクスピイアやギョオテは、たといどんなにうまく演ぜられたところで、結構には相違ないが、今の青年に痛切な感じを与えることはむずかしかろう。

 

このあたりに、『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』の翻訳者としての森鴎外さんの気負いが感じられる。

芝居としては、『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』より、『ソルネス』のほうが面白かった。

 

無名塾『ソルネス』

録画1995年上演の無名塾舞台『ソルネス』のテレビ録画があった。無名塾20周年記念公演でイプセン原作である。どうも気が乗らずかなりの放置である。仲代さんのドキュメント映画を観て、『ソルネス』を観たくなった。面白い。

ソルネス(仲代達矢)は、建築家として社会的地位を築き名声もて得ている。建築家といっても独学のため、棟梁と呼ばれるに相応しい。成功までには、人を踏みつけ踏み倒してもきている。自分の進むべき人生に疑いは持っていないが、若い才能ある人には脅威も感じている。そんな時、十年前にソルネスに会ったという女性が現れる。その女性ヒルデ(若村真由美)は自分が少女時代に見たソルネスは凄く恰好良かったという。

ヒルデ(若村麻由美)は、天使なのか。小悪魔なのか。観客にはどちらとも取れる。しかし、ソルネスの最後の花道へと導く彼女は天使である。ソルネスは十年前の彼女の憧れたソルネスに返り、彼女はソルネス本来の姿に戻したのである。

観終って、ヒルデは隆巴(宮崎恭子)さんだと思った。1995年の『ソルネス』は、隆巴さんの最期の演出作品である。仲代恭子さんは亡くなられてからも、天使として現れておられるように思われる。時には、宮崎恭子さんとして、あるいは、隆巴さんとして、仲代逹也さんの役者道を照らされている。<無名塾>という場所は、役者は死ぬまで修業が続くのだから、そのためにはプロとなった卒業生も、時には塾に帰ってきて芝居の勉強をし直おせる場所としての意味もある<無名>塾である。

『ソルネス』は、仲代さんが俳優座を退団されて<無名塾>で初めて飛ばれた演目でもある。ソルネスは、飛び立つ原点にもどるのである。そこからまた出発するのである。それは、亡くなられた隆巴さんが演出する、<役者・仲代達矢>でもある。隆巴さんの、力はそれほど大きなものである。時々、天使となって現れ、飛ぶ位置までもどされる。舞台『授業』もその一つだったように思われる。80歳になられて、なぜ苦しい<道楽>に挑まれるのか。それは、お二人が演じたいと思ったときの羽ばたきの実現である。そう思わせる『ソルネス』であった。

イプセンは、仲代さんにとって縁のある戯曲作家で、イプセンの『幽霊』オスワル役で俳優座の新人は注目される。『幽霊』は『人形の家』のノラが家に残ったらどうなっていたかということでイプセンが書いたらしい。仲代さんは、その婦人の息子役で、破滅的人生を送る。その青年の屈折感が話題となったようである。

2010年には『ジョン・ガブリエルと呼ばれた男』でガブリエルを演じ、米倉斉加年さん、大空真弓さん、十朱幸代さんと共演されている。ガブリエルは、周囲を不幸に落としつつ自分も勝負に負けても夢を追い続ける男である。

イプセンは通じ合えない人間関係を描く作家なのであろうか。物事を上手く収めようとはしない。どちらかが欲がでればそれはそうなることである。それが、それぞれの夢となればなおさらである。そしてそこで犠牲となった人物との確執が生ずるのである。それに対して、ヒルデは、自分の建てたい塔を建て、そこに花輪をかけてというのである。10年前格好良かったように。花輪をかけれるかどうかはその人の力である。ヒルデは、そこに行くまでの荒涼とした気持ちに、燃え滾る炎を灯すのである。

『ソルネス』(大西多摩恵、内田勝康、赤羽秀之、中山研、秋野悠美)

友人と神楽坂から早稲田まで散歩を付き合わせ、『人形の家』のノラを演じた新劇女優松井須磨子さんのお墓を、多聞院で見つけることができた。本堂前には須磨子さんを悼んで建てられた「芸術比翼塚」もあった。

『ジョン・ガブリエルと呼ばれた男』は、森鴎外さん訳で『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』として、小山内薫さんと二代目市川左團次さん等が押し進めた革新的演劇運動の自由劇場の第1回目の公演で、ガブリエルは左團次さんが演じられている。

録画のまま、奥に潜んでいる新劇の映像を少しづつ観なくては。と言いつつ、仲代さんの映画のDVDを4本観てしまった。

 

 

 

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映画 『仲代達矢「役者」 を生きる』

役者・仲代達矢さんのドキュメントである。このチラシを見た時、また本を出されたのかなと思い、裏に返して見た。「役者 仲代達矢が渾身の舞台「授業」を演じきるまでを、完全ドキュメント」とある。あの舞台『授業』に臨む仲代さんの姿が見れるのである。嬉しいことに、初日は、仲代達矢さんとこの映画の監督・稲塚秀孝さんとのトークショーありである。

仲代さんのイヨネスコの不条理劇『授業』の舞台は、2013年2月、3月の2か月間、仲代劇堂(東京公演)で公演されたものである。  無名塾 秘演 『授業』

仲代さんは30歳の時、映画「切腹」でカンヌ映画祭に参加された。帰りに仲代夫人である宮崎恭子さんとパリの小さな劇場で『授業』を観られ、何時かは演じたいと思われての50年後の実現である。

台詞は全部手書きで台本から紙に書き写し張りだす。そのほうが、身体に入っていくような気がするのだという。稽古に3か月。稲塚監督は誇張されることなく仲代さんの言葉と記録映像で静に穏やかに映し出し、観る側にその感じ方を任せる。先ず覚える台詞の多さに、役者になりたいと自分が思わなくて良かったと思う。しかし、80歳であれだけの挑戦をされるのであるから、観ているほうも刺激は充分に頂戴する。可笑しいのは、『授業』の舞台に出る前に仲代さんが作られた<授業のうた>を、山本雅子さん、西山知佐さん、仲代さんの三人で歌うのである。セリフを間違えても許してとイヨネスコさんにお願いしたりする。楽しくもあり切実でもある。

<無名塾>の次世代への橋渡しとして、舞台『ロミオとジュリエット』では脇に回られた。次世代への受け渡しかたは、まだ模索の段階であるようだ。トークショーで稲塚監督が、『授業』から『ロミオとジュリエット』の神父役で、次に一人芝居の『バリモア』ということは、まだまだ挑戦は続くようでと言われた。仲代さんも、やりたいことは30くらいあると。

『授業』は、お客様に解ってもらえなくてもよい、自分が演りたいから道楽と思ってやったが、楽ではなかったと言われた。仲代さんの話しは、難しそうな事を話されそうに見受けられるが、簡潔である。映画『椿三十郎』の時の三船敏郎さんとの対決の場面も相手がどう出るか教えられず、まっすぐ刀を上に抜く居合いの練習をさせられ本番で初めて三船さんの動きが解かり、血が噴出して後ろに倒れそうになり、ここで倒れてなるものかと思って踏みとどまってオッケーがでた。踏みとどまることまで黒澤さんは読んでいたんですから凄いですと。思うに、その一瞬で踏みとどまると判断するというのが、仲代さんの役者としての天性であろう。仲代さんは役者は技だという。

<無名塾>の若い役者さんは、仲代さんと話す時緊張するが、舞台では役になりきるので一緒の舞台に立って居る時は楽しいと言われていた。2012年の『Hobsonts・Choice~ホブソンの婿選び~』では、頑固親父の仲代さんが、娘たちの反乱に会い力関係が逆転し、娘たちに従う形となる。三人の娘さん役の役者さんは師匠を舞台で大いにやり込め、仲代さんもやり込められるのを楽しんでいるようであった。それは、やり込めるだけ役者として成長してくれたということでもある。

再演はあまりしないが、『バリモア』は再演されるそうである。そして、2月には、白石加代子さんと益岡徹さんと初めてのリーディング『死の舞踏』、来年3月には無名塾公演『おれたちは天使じゃない』と続いている。

映画の中では、長いセリフを言い続けることにより持病の喘息のため、吸うを息を調整しないとヒューという音がお客さんに聞こえてしまうと言われていた。芝居を解かりやすくしようとして芝居を駄目にしているという演劇事情の危惧もあり、仲代さんならではの試みの『授業』であったようだが、それを<道楽>というところが仲代流ともいえる。

編集も全て稲塚監督に任されたそうである。外部のかたが仲代さんについて語るということは入れず、仲代さんの今を記録された映画で、舞台に向き合う一人の役者と<無名塾>という家族の今を伝えるドキュメントに徹していて『仲代達矢「役者」を生きる』そのものである。

 

『炎の人』から『赤い風車』

舞台『炎の人』で、画家のロートレックが出て来たので、映画『赤い風車』を見直した。ロートレックの伝記映画であるが、画家たちが出てくる場面はワンシーンくらいで、誰なのかも解らない。ムーラン・ルージュの人々と、そこでの二度の彼の恋が話しの中心である。

ロートレックは、名門に生まれながら幼い頃両足を骨折し、それがもとで下半身の成長が止まってしまう。そうしたことが要因となり、彼は屋敷を離れパリのモンマルトルに住み、ムーラン・ルージュでフレンチ・カンカンを踊る踊り子や、それを楽しむ客などをスケッチしつづける。様々の画家がひしめき合い競い合い議論するなかでロートレックは彼独自の世界を描き続けるのである。しかし、他の画家との係りは出てこない。唯一彼の口から出てくる画家の名は<ゴッホ>である。

ロートレックは、街娼のマリイを警官から助け同棲するが、マリイは出て行ってしまう。落胆するロートレックの様子を見に来た母親が、屋敷でも絵は描けるのだから戻りなさいと諭す。その時、ロートッレクが云うのである。

「画家の知り合いがいます。ゴッホという奴でー 太陽に輝く麦畑を描いています。その輝きを見る者は圧倒されます。私には描けないし、彼にも私の真似はできない。私は裏路地や貧民街の画家です。」

『炎の人』でゴッホは画家たちの前で技法について語り、大切なのはその以前の問題だと語る。

「マネは光それ自体を描く、セザンヌは自然を分光器にかけて描く、ゴーガンは色を追いつめ還元して描く、スーラは分析して点で描く。どれにも真理はある。しかしだよ、考えて見ると、しようと思えば、そのどれで描くことも出来るじゃないか?そうだろ?だから、逆に言うと、どれで描いてもよいのだ。技法はどれを使ってもいいと言える。」「そうだ、画家が絵筆を取る前に、その画家の中に準備され、火をつけられて存在しているものだ。その事なんだ。つまり、その画家の生命そのものだ。」

画家たちが帰り興奮し<タンギイ像>に取り掛かるゴッホにタンギイは言う。

「あまり根をつめて描き過ぎるんじゃありませんかねえ。・・・すこし旅行でもなすったら?…アルルかニースあたりにいったらって、ロートッレクさんも、こないだ言ってらしたじゃありませんか?」

ゴッホは言う。

「ロートッレク・・・あれは良い男だ。」

『炎の人』と『赤い風車』の作家は別である。しかし、別の人が書きながらも、ロートレックとゴッホが感じているお互いの関係の認識は同じに感じてしまう。

もう一つ面白かったのが、韓国の人気俳優のイ・ビョンホンが二重人格を演じている『ひまわり』である。レンタルショップの払下げのDVDが安かったので、見たらイ・ビョンホンのファンである友人にあげようと思い購入したのであるがゴッホのひまわりの絵が出てくる。主人公の男性は、凶暴な時と優しい正常な時の二面性があり、正常な時、凶暴な自分に変るのを恐れ苦しむのであるが、凶暴になったときはどうする事も出来ないのである。これを見た後で『炎の人』を見たのであるが、この脚本家はゴッホから二重人格の主人公の設定を考えたのであろう。『ひまわり』の題名の意味が解ったのである。

『ひまわり』については、韓国映画は少し観たが、ドラマは見ないので全くの偶然の出会いであった。

小林秀雄の『ゴッホ』を段ボールから出して開いて見たら途中まで赤線が引いてある。かつて読もうと思って挫折したらしい。意外と今なら読めそうである。『炎の人』のお蔭である。ゴッホの全体像が見えてきたので、それがクッションとなり細部にも入っていけるということである。

今年は、もう少し本を読む時間を取ろうと思う。

年明けそうそう、『RDGーレッドデータガール』の続き5巻がきて四苦八苦したが、面白かった。ファンタジー小説でこんなに頭を使わされるとは思わなかった。

 

無名塾 『炎の人』(2)

ゴッホは宗教にも深く惹きつけられ、キリスト教の説教師として炭坑に赴く。しかし抗夫達の厳しい労働の現実を前に宗教にも疑問を抱き、画家としての道を歩むのである。

ゴッホは、貧しさに負けることなく弟・テオの援助のもとで絵を描き続けるが、貧しさからくる不幸な人々への想いも抱え込む形となる。農民画家ミレーへの傾倒。オランダの田舎での独学に等しいゴッホは、パリに出て、ゴーガン、ロートレック、エミール・ベルナール、ベルト・モリソウ、シニャック等と出会う。ゴッホにとっては見る絵、見る絵が驚きでありその一つ一つに自分を飛び込ませていく。そして自論を主張していく。真似や影響というよりも、自分の絵を描く力をそれぞれの手法にぶつけて挑むといった感じである。有名な絵<タンギイ親父>のタンギイの絵具屋の店でのそれぞれの画家たちの登場は当時の画家たちの様子を彷彿とさせる。

ここでの仲代ゴッホは、あらゆる矛盾を、絵を描くことによって解決されると信じているような攻撃性で画家たちにぶつかっていく。新しさを受け入れつつも、デッサンの大事さ、服の下の肉体の動きの重要性など。それでいて、パレットの中の色は、以前とは全部違ってしまうという波動の中にいる。ゴッホはゴーガンにはどういうわけか複雑な位置に立っている。

ゴッホはパリからアルルに移る。ここではゴーガンに対するゴッホの精神的葛藤と神経症のことが大きな山場となる。小林秀雄さんの「ゴッホの病気」によると、ゴッホの神経症は突然意識を無くしてしまう発作から始まるようである。絵を描きに郊外にいたゴッホが倒れているのを、これまた有名な<郵便配達夫ルーラン>の絵のルーランが助けてくれる。そして開かれた扉の向こうの森に向かって歩き始めるのである。その森を抜け出したところに明るい光があるのであろうか。それとも、静かに憩わせてくれる森の息吹があるのであろうか。 残念ながら、ゴッホには生きている限り憩える場所はなかった。

三好十郎さんはそんなゴッホに対し、エピローグでゴッホをで認めなかった人々に怒りをぶつけ、日本に来たかったゴッホに対し日本の舞台で賛辞を贈る方法を試みたのである。

仲代さんは、ゴッホの弱さ、強さ、謙虚さ、攻撃性、病的な部分など細かに分析され演じられていた。それを取り巻く無名塾の役者さんたちも、苛立ち、優しさ、怒り、絶望、諦め、皮肉など人間の感情を濃く表現しゴッホを照らし出した。 ゴッホが画家として歩みはじめたのが27歳のときで、自らの命を絶ったのが37歳の時である。小林秀雄さんが、約650通のテオ宛の手紙から読み解いたところ、ゴッホは自分の病気さえもしっかり見つめていたそうである。

ゴッホは書いている。「愚痴を言わず、苦しむ事を学び、病苦を厭わず、これを直視する事を学ぶのは、眼もくらむばかりの危険を冒すのと全く同じである。」

ゴッホは正気に戻ると絵を描き、狂気の時はそれを受け入れ、そこから回復する正気までの妄想の時間をジット絶えたようである。しかし、その気力にも限界がきてしまったのである。何事も見て見て見抜き通したゴッホであった。

無名塾は3月には『おれたちは天使じゃない』を公演する。この映画は好きな映画なので楽しみである。