手児奈霊堂~真間山弘法寺~里見公園~小岩・八幡神社~野菊の墓~矢切の渡し~葛飾柴又(3)

伊藤佐千夫さんの小説『野菊の墓』は映画や舞台にもなっている純愛悲恋物語である。今回読み返してみた。政夫という主人公が、十数年前のことを思い出しているという形になっていて、それは小学を卒業した十五才の時のことである。思い出している政夫は35歳以上ということになる。

「僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切の渡しを東に渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所。矢切の斎藤と云えば、この界隈での旧家で、里見の崩れがニ、三人ここへ落ちて百姓になった内の一人が斎藤というのだと祖父から聞いている。」とあり、里見家ゆかりの家ということになる。

母は、戦国時代の遺物的古家を自慢に想っている人で、病弱のため、市川の親戚の子で、政夫とは従妹にあたる民子を手伝いのために呼ぶのである。政夫と民子は赤ん坊のころから、政夫の母が分け隔てなく姉弟のようにして可愛がられたのであった。

政夫は小学校を卒業し千葉の中学校にいくことになっていった。そんなおり二人は生活を共にすることになり、幼い頃からとても気が合っていて、二人で一緒にいて話しをするのが幸せであった。そして、恋心へと変化していくのである。民子は政夫より歳が二つ上で、二人が仲よくしていると周囲の者たちは結婚のことを想像し、二つ上の娘などを嫁にするのかと噂し合う。兄嫁も快く思わず、母もついに政夫の学業のためにも民子と離す決心をする。そして民子は他家に嫁ぎ、流産の産後が思わしくなく亡くなってしまうのである。

電車のないころであるから、江戸川の矢切の渡しがよく使われている。松戸へ母の薬を貰いにいくのも舟で、政夫の家は下矢切で松戸の中心の上矢切にも舟が行っていたようである。さらに矢切の渡し場から市川の渡し場(市川と小岩)までも舟がいっており、小岩か市川から汽車に乗ったのであろう。

政夫と民子が最後の別れとなったのも矢切の渡しであった。雨の中民子は、お手伝いのお増とともに政夫を見送るのである。政夫は千葉の中学校へ行くため、舟で市川にでて汽車に乗ることにした。

民子が市川の実家にもどり、政夫は千葉の中学校へ行く時、市川まで歩いて民子の家の近くを通るが民子が困るだろうと会わずに通り過ぎている。そして、民子のお墓参りの時、「未だほの闇いのに家を出る。夢のように二里の路を走って、太陽がようやく地平線に現れた時分に戸村の家の門前まで来た。」とあり、民子の家まで8キロほどであったことがわかる。

二人は畑にナスを採りに行き、そこから見える風景とその中にいる二人を描写している。利根川はむろん中川もかすかに見え、秩父から足柄箱根の山々、そして富士山も見え、東京の上野の森というのもそれらしく見えている。「水のように澄みきった秋の空、日は一間半ばかりの辺に傾いて、僕等二人が立って居る茄子畑を正面に照り返して居る。あたり一体にシンとしてまた如何にもハッキリとした景色、吾等二人は真に画中の人である。」

離れた山畑に綿を採りにいったとき野菊を見つける。民子は言う。「私ほんとうに野菊が好き。」「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好もしいの。どうしてこんなかと、自分で思う位。」政夫は、民子を野菊のような人だといい、民子は竜胆(りんどう)を見つけて、政夫さんは竜胆のような人だと言うのである。そして政夫は、野菊が好きだといい、民子は竜胆が好きだと言う。

採り残した綿なので一面が綿という風景ではないようであるが、「点々として畑中白くなっているその棉に朝日がさしていると目ぶしい様に綺麗だ。」と美しい情景である。

この綿採りで帰りがおそくなり、二人が離されてしまうきっかけとなってしまう。

小説『野菊の墓』には、木の葉、木の実、草花などが政夫と民子の歩く道に登場する。紫苑、銀杏の葉、タウコギ、水蕎麦蓼、都草、野菊、あけび、野葡萄、もくさ、竜胆、春蘭、桐の葉、尾花、蕎麦の花。

政夫は、庭から小田巻草、千日草、天竺牡丹などめいめいに手にとる戸村の女達とともに民子の墓参りに行く。民子のお墓に行った政夫は、野菊が繁っていることに気が付く。「民さんは野菊の中へ葬られたのだ。僕はようやく少し落ち着いて人々と共に墓場を辞した。」

読み返して、木下恵介監督の映画『野菊の墓』を観返した。情感のこもったモノクロの映像である。政夫の笠智衆さんが老齢になって、舟を特別に頼み、矢切りの民子の墓を尋ねる場面からはじまる。

小説からすると、色彩もほしくなった。後日、その後リメイクされた映画もみることにする。

伊藤佐千夫さんは、政治家を志すほど正義感の強い青年であったが、眼病を患い学業を断念、26歳で牛乳搾取業をはじめ、毎日18時間労働し、30歳にして生活にゆとりができ、茶の湯や和歌の手ほどきをうけるようになる。そして短歌と出会い、37歳で正岡子規さんの弟子になる。『野菊の墓』は、43歳のとき発表し、夏目漱石さんらの賞賛を受け小説家としても名を残すこととなるのである。

伊藤佐千夫さんが牧場を開いたのは総武線錦糸町駅前で、今では想像できないほどである。錦糸町駅前には牧場跡と旧居跡の石碑と史跡説明版があるらしい。

手児奈霊堂~真間山弘法寺~里見公園~小岩・八幡神社~野菊の墓~矢切の渡し~葛飾柴又(2)

北原白秋さんは、真間から小岩(当時・葛飾郡小岩村)に引っ越す。『白秋望景』(川本三郎著)を参考にさせてもらうと、真間は白秋から見ると仏に仕える人がお金の話しばかりで「俗」と感じてしまったらしい。そして「東京に近いせいか、映画の撮影隊がやってきて騒々しい。」白秋さんがもとめる田園ではなかった。

再び江戸川を渡って東京へもどることになる。家財道具の荷の上に鉄砲百合の鉢を乗せ、白秋は荷車の後ろを歩いた。「白秋は、ポケットに小鳥の巣を入れ、両手には、青銅に燭台とガラスの傘を持ち、市川の橋を渡ってゆく。」

こちらは、京成線国府台駅から出発して、市川橋を歩き江戸川を渡り小岩へ向かう。現在の江戸川区北小岩八丁目ということで、引っ越した先が、ここという確かな位置がわからないので、白秋さんの歌碑があるという「八幡神社」をめざすことにした。

「国府台」というのは、古代にはここに下総国府がおかれ一帯の政治、文化の中心だった。国府台の呼び名もそうした歴史からきている。

江戸川べりは、夏目漱石さんも散策している。「夏目漱石の『彼岸過迄』では、主人公の田川敬太郎が友人の須永市蔵と春の日曜日、このあたりに郊外散歩に出かけている。」二人は、両国から汽車で鴻の台の下まで行って降り、そこから江戸川の土手を歩いて晴れ晴れとした気分で柴又の帝釈天まで進み、「川甚」でウナギを食べているのである。

かつては「鴻の台」とも呼ばれていたらしくそのいわれは調べていない。「川甚」は、映画『男はつらいよ』でさくらと博が結婚式を挙げた料亭である。谷崎潤一郎さん、吉井勇さん、長田秀雄さんの三人が「紫烟草舎」を訪ね、白秋さんを誘って「川甚」へ行っている。文学者の間では柴又まで散策すれば「川甚」として知られていたようである。

「借り家は、江戸川べりの草を刈り集めて軍馬の飼い葉などを作る乾草商の離れであった。」 二間だが、真間にはなかった台所があって、二度目の妻・章子さんは喜んだようである。それはもっともなことである。

白秋さんは、土手に上がれば江戸川がゆうゆうと流れ、その川を船がすべり、青田には百姓が働き、広い野っ原には人家の煙が立ち上っていて、この地が大変気に入るのである。

「で、(大正)六年の一月から六月までは、『雀の卵』の中の歌の推敲や新作と、一緒に葛飾の歌を作ることに夢中にされた。冬枯のさびしさに雀の羽音ばかり聴いて、食ふものも着るものも殆ど無い貧しい中に、私は座り通しであった。私の机の周囲は歌の反古で山をなした。何度も何度も浄書し清書し換えた。(『雀の卵』大序)」(『白秋望景』より。)

「里見公園」の「紫烟草舎」の前に、三番目の妻・菊子さんとの長男・隆太郎さんの解説板がある。

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「< 華やかに さびしき秋や 千町田の ほなみがすゑを群 雀たつ  白秋 > 広大無辺な田園には、黄金色の稲の穂がたわわに実りさわさわと風にそよいで一斉に波うっている。その稲波にそってはるか彼方に何千羽とも数知れない雀の群れがパーッと飛び立つこの豪華絢爛たる秋景のうちには底無き閑寂さがある。(中略)大正5年晩秋、「紫烟草舎」畔「夕照」のもとに現成した妙景である。(中略)父、白秋はこの観照をさらに深め、短歌での最も的確な表現を期し赤貧に耐え、以後数年間の精進ののち、詩文「雀の生活」その他での思索と観察を経て、ようやくその制作を大正十年八月刊行の歌集「雀の卵」で実現した。」ここに書かれている歌の文字は白秋さんの自筆ということである。

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江戸川とその周辺の風景を眺めつつ市川橋を渡る。本来なら江戸川の土手を歩くのがよいのであるが、直線距離を目指し、途中で江戸川にぶつかり土手に上がってみる。川原が広くかなり下に川は流れていた。「里見公園」下の江戸川はすぐそばで怖いくらいの勢いであった。かつては川面がもっと近かったであろう。対岸に柳原水門が見える。この後ろあたりにかつての水門でレンガ造りの柳原水閘(すいこう)が残っているらしい。

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江戸川の土手から住宅街に入り「八幡神社」を目指すが、住宅街で学校が二つありその周囲をぐるっと回り、さらに途中でたずねた人が反対方向を教えてくれて、いつものことながら時間を要してしまった。白秋さんが北小岩八丁目に住んでいたということで「八幡神社」に歌碑を建てたられたようであるが、行った感触として今の人達には忘れ去られているようであった。< いつしかに 夏のあわれと なりにけり 乾草小屋の 桃色の月  > 

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住んでいた「紫烟草舎」は江戸川を渡ってしまっているし無理もない事である。白秋さんは大正6年の6月には京橋区築地本願寺近くに引っ越し、気に入っていた小岩も一年であった。8月には本郷動坂に移っている。そして、大正7年の2月に小田原へ行くのである。

赤貧と思索の真間と小岩から小田原につながったので一安心である。あとは歌で真間と小岩時代を鑑賞するのみである。さてこのまま北に向かえば葛飾柴又にいけるのであるが、「八幡神社」から近い北総線新柴又駅で電車で江戸川を渡り矢切駅へ行く。次は『野菊の墓』コースである。 

手児奈霊堂~真間山弘法寺~里見公園~小岩・八幡神社~野菊の墓~矢切の渡し~葛飾柴又(1)

市川市真間にある『手児奈霊堂』は、万葉集にも歌われていて、手児奈という美しい娘が複数の男性から言い寄られ、身を恥て真間の入り江に入水したという伝説があり、その手児奈を祀っているのである。

都人はこの伝説を聞き及んで、歌に詠んだわけである。高橋虫麻呂さんは「勝鹿(かつしか)の真間の井見れば立ち平(なら)し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」(葛飾の真間の井を見ると立ちならして水を汲んだと言う手児奈が偲ばれる)。この手児奈の井戸は『手児奈霊堂』の向かいにある『亀井院』にあり、ここは北原白秋さんが一時住んでいたことがある。

手児奈霊堂』の先には『真間山弘法寺(ままさんぐぼうじ)』があり、ここにいたる大門通りは<万葉の道>として万葉の歌のパネルがあるらしい。20首ほどあるらしいが、かつての資料では、32首あって、真間ゆかりの歌は8首あった。この道は歩いていないのである。

もう一つ<文学の道>があり、桜の季節でもあったので、京成市川真間駅からこの道のほうを歩いた。市川に縁があったり、この地を作品に描いた文学者は大勢いて、その一部のゆかりのかたが木製の案内板で紹介されていた。

江戸時代の真間の文学は、万葉集のゆかりの土地としてだけではなく、紅葉の名所でもあったらしい。小林一茶さんもたびたび弘法寺を訪れ、上田秋成さんの『浅茅が宿」は手児奈伝説を踏まえているとし、滝沢馬琴さんは『南総里見八犬伝』は国府台の里見合戦に基づく伝奇小説で、弘法寺の伏姫桜はこの作品のヒロインに因んで名づけられたとある。

『浅茅が宿』と『真間山弘法寺』に関しては、 浅草散策と映画(2) で思いがけず出会っている。

伏姫桜>と名づけられた枝垂れ桜は実際に満開であった。『南総里見八犬伝』に関しては、ある研究家のかたの話しから、里見家の系図と広い分野の歴史を踏まえた下地があることと、江戸幕府を批判してもいるということを、学ばせてもらった。それから時間がたってしまい、歴史がまずややこしくて未整理の状態である。単なる伝奇小説ではくくれないという入口に立っている状態である。

もちろん、北原白秋さん、幸田露伴さん、幸田文さん、永井荷風さん、水木洋子さん、宗左近さん、井上ひさしさんらも紹介されている。途中に小さいが明治からの浮島弁財天があり技芸の神様として多くの信仰を集めていたそうで、この弁財天があるかどうかでこの<文学の道>も造られた道から伎芸天に呼ばれて出来た道の趣きとなった。

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真間川にぶつかり、「手児奈橋」を渡って『手児奈霊堂』へ。大門通りからは、「入江橋」を渡ることになり、その先に「継橋」があるようだ。「継橋」というのは入江の海岸の砂州と砂州を繋ぐ板橋で、真間には沢山あったようである。『手児奈霊堂』にもその入江の名残りといわれる池がある。『手児奈霊堂』の桜も場所柄をわきまえた咲き方で愛らしかった。

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亀井院』の説明板には、北原白秋さんがここで生活したのは大正5年5月中旬からひと月半とあり短かったのである。彼の生涯で最も生活の困窮した時代として、白秋さんの歌「米櫃(こめびつ)に米の幽(かす)かに音するは 白玉のごと果敢(はかな)かりけり」を紹介している。

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ここから『真間山弘法寺』の二王門めざして階段を登る。『弘法寺』は、奈良時代、行基菩薩が真間の手児奈の霊を供養するために建立した「求法寺」がはじまりで、平安時代、弘法大師空海が七堂を構え『真間山弘法寺』としたとある。あの水戸光国さんもこられたそうな。

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境内では伏姫桜を描いているグループのかたたちがいた。皆さんかなりの腕前である。伏姫桜は、枝垂れる姿にどことなく儚さがただよう。境内の見晴らしの良い所から下の市街地をながめる。かつては入江だったわけである。

さて本堂の裏をまわって『里見公園』を目指すのであるが、裏のほうに元気な大きな桜が満開で裏技に出会ったようであった。

里見公園』まで足を伸ばしたのは、白秋さんが小岩で住んでいた「紫烟草舎」が、桜祭りで公開しているという情報からである。この家は江戸川の改修工事のためとりこわされ、解体されたままになっていたのを、建物の所有者の提供により、この地に復元するにいたったと説明板にはある。

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六畳と八畳の二間であるが、かぎ型に縁側があって、障子が開けはなされ明るくて周囲の外の様子がよくみえる。「紫烟草舎」については、小岩の八幡神社でつけ加えることにする。

里見公園』は、里見家と後北条氏との二回の合戦の場であるが、歴史的なことは省かせてもらう。ようするにわからないので。史跡としては「夜泣き石」があった。北条軍に負け戦死した里見弘次の末娘が父を弔うため安房からこの地にきて、戦場の悲惨さに石にもたれ泣き続け息絶えてしまった。それから毎夜この石から泣き声が聞こえるというのである。

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お墓のような碑が三つあった。<里見広次公廟><里見諸将霊墓><里見諸士群亡塚>で、里見軍は5千名が戦死したと伝わっている。この合戦の265年後に碑は建てられ、それから今は190年ほど経っている。

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江戸名所図会にも描かれた<羅漢の井>が今も水がどこからか流れてきていた。この井戸のそばの道を曲がると江戸川である。里見公園は高台にあって東京スカイツリーと東京タワーが見えるのである。案内板の写真によると、富士山も頭を出していた。

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ここから、小説『野菊の墓』の舞台にも行けるのであるが、『里見公園』で一旦散策は終了である。次回は、白秋さんが江戸川を渡って引っ越した「紫烟草舎」があったであろう近くの小岩の八幡神社へ行き散策を開始することにした。

浅草映画『抱かれた花嫁』『喜劇 駅前女将』『キネマの天地』(2)

映画『キネマの天地』は、松竹が蒲田撮影所から大船撮影所に移る前の1934年(昭和9年)頃の松竹蒲田撮影所の様子、新しい映画スターが誕生していく過程、世の中の様子などをみることができる。時代的には贈賄事件や東北の大凶作、大火、自然災害などがあり、庶民は暗い時代に押し込められていく時代でもある。そんな時代、まだ幼く若い労働者は手にお金を握りしめ活動写真小屋へいく。握りしめていたお金は湿っていた。

浅草の長屋に住み、浅草六区の活動写真館・帝国館で休憩時間にパンや飲み物などを客席で売る娘・田中小春(有森也実)が、小倉金之助監督(すまけい)の目に留まり撮影所に来るように声を掛けられる。撮影所に行ったところ、病室で危篤の父と娘が再会する場面で、監督がどうして看護婦がいないのだというので、急遽、小春は看護婦にさせられる。立ち位置も分からず、女優(美保純)のじゃまとなり、どうして泣かないのだといわれ大泣きして怒られ、女優はこりごりだと小春は思う。

そんな小春の住む長屋に、助監督の島田(中井貴一)が謝りにきて小春は再び映画女優を目指し、大部屋からのスタートであった。スタジオ外の守衛さん(桜井センリ)から用務員のおじさん(笠智衆)に始まって映画つくりに係わっている熱い映画人が映される。

役の上で実際の監督や映画俳優のモデルとする人物も現れ、わかる人もいる。小津安二郎監督がモデルの緒方監督(岸部一徳)はすぐわかる。あと逃避行した岡田嘉子さん(松坂慶子)と杉本良吉さん(津嘉山正種)も判りやすい。実名ではなくあくまでモデルとして名前は変えてある。田中小春は田中絹代さんがモデルというが、こちらはそうなのかと思う程度で田中絹代さんを意識しなかった。とにかく大勢の俳優さんが出演している。

小春の父・喜八(渥美清)は旅回りの役者だった人で、演技に関してはちょっとうるさいのである。小春がうなぎ屋の女中の役で台詞を一言いうことになる。喜八は、まずどんなうなぎ屋かで女中の演じ方もちがうと解説する。うなぎ屋の格によって女中もそれなりの立ち居振る舞いが違ってきて、庶民的なところであればこうなると例の寅さんの語りが始まるのである。

それを小春と一緒に喜八の話しを聴く隣の奥さん。隣の一家(倍賞千恵子、前田吟、吉岡秀隆)は寅さんのさくらの家族である。『男はつらいよ』のメンバー(下条正巳、三崎千恵子、佐藤蛾次郎、関敬六)があちらこちらに登場する。津嘉山正種さんは、『男はつらいよ』のオープニングシーンの常連らしい。どんな俳優さんが受け持っているのかな、見た事があるようなと思っていたので今度注目して観ることにする。脚本は井上ひさしさん、山田太一さん、朝間義隆さん、山田洋次さんである。

面白いのは幸四郎さん時代の白鷗さんの起田所長である。城戸四郎さんがモデルであるが、実際の城戸四郎さんと似ているのかどうかはわからないが所長として監督たちを指導するところが面白い。一筋縄ではいかない映画監督たちである。時代的に傾向映画をつくる監督もいるし、政府からの引き締めもきつくなってきている。映画会社としては客に入ってもらわなくてはやっていけないしで、監督たちを刺激させないように上手く話をもっていくのである。その懐柔作戦のテンポがなんともいいのである。

次の映画『浮草』の主役予定の女優が逃避行をしてしまいその代役が決まらない。小倉監督は小春を押す。緒方監督もいけるかもしれないと口添えする。起田所長は小雪を主役に抜擢するかどうか迷う。所長は用務員に小春はどうかねと尋ねる。用務員は好い女優になると思いますと答えるのである。こういうところも、何がきっかけでスターになっていくかわからない映画界がみえてくる。シンデレラムービーの一つでもある。脇からの攻めも計算されている。

助監督の島田も映画について色々悩むが、労働運動をしている大学時代の先輩(平田満)からの言葉と留置所での経験から、映画に賭けてみようと思うのである。撮影所では仲間たちや小春が喜んで迎えてくれる。そして、『浮草』の脚本のクレジットに島田の名が映される。そして、田中小春の名も。

喜八の家に活動好きの屑屋(笹野高史)が入り込んで、蒲田の女優を次々と上げていく。喜八は娘の名前が聞きたくてお酒をすすめるといった場面もある。そんな小春の出世を願う喜八は、幸せなことに小春の主演映画を観ながら亡くなるのである。その時小春は「蒲田まつり」で、高らかに「蒲田行進曲」を歌っていた。

出番が少なくても多くの俳優さんが力量の見せ所となっている。浅草六区の映画館前を通る藤山寛美さんなども、映像に現れるとどうされるのかと観る者を惹きつける。取り上げればきりがないので省くが、個性的な役柄をしっかり役に合わせて印象づけている俳優さんが多い映画であり、映画が好きな映画人集合の映画である。

撮影現場を見せる映画では『ザ・マジックアワー』(三谷幸喜監督)も奇想天外な発想で笑わせてくれる。撮影していないのに撮影していると信じ込ませて俳優に演技させるのである。俳優は信じているので自分なりの工夫で成りきって怖い場所で演じきるのである。

この映画、俳優さんや役者さんが、ちらっと現れて消える場面がある。猿之助さんが亀治郎時代にこの映画にちらっとでている。撮影所の食堂で落ち目の俳優の佐藤浩市さんとマネジャーの小日向文世さんが「亀じゃないか、おーい亀」と呼ぶのであるが、亀さん、会いたくない人に会ったとばかりに映像の左側に少し映り、さーっと消えるのである。DVDだったので何度も戻して観ては笑ってしまった。嫌そうな表情をしていて、歩き方もおもしろかった。それも一瞬というのがいい。

今のはもしかして、というの愉しみもあり油断できないのである。

フランソワ・トリュフォー監督の『アメリカの夜』も撮影現場の人間関係なども描いていて、これまた愉快な映画である。最初から撮影現場とは知らずに見入っていて突然、撮影中なのかと知らされたり、美しい映画の場面が、突然セットが現れてあっけにとられたりするのである。

横道にそれたついでに、山田洋次監督作品に歌舞伎役者さんが登場する映画や舞台を紹介しておきます。全て観ることができた。

『男はつらいよ・私の寅さん』(五代目河原崎國太郎)。『男はつらいよ・寅次郎あじさいの恋』(十四代目片岡仁左衛門)。『キネマの天地』(二代目松本白鴎)。『ダウンタウン・ヒーローズ』(七代目中村芝翫、八代目中村芝翫)。『学校Ⅱ』(中村富十郎)。『十五才 学校Ⅳ』(中村梅雀)。『たそがれ清兵衛』(中村梅雀、嵐圭史、中村錦之助)、『武士の一分』(坂東三津五郎)。『母べえ』(坂東三津五郎、中村梅之助)。シネマ歌舞伎『人情噺文七元結』。シネマ歌舞伎『連獅子』。舞台『さらば八月の大地』(中村勘九郎)。『小さいおうち』(片岡孝太郎、市川福太郎)。『家族はつらいよ』(中村鷹之資)。

浅草映画『抱かれた花嫁』『喜劇 駅前女将』『キネマの天地』(1)

浅草関連映画も、浅草に興味を持つ前に観た映画を再び見返しているが、気がつかなかったことが結構発見されるものである。喜劇はさらにその傾向が強いかもしれない。笑いのそのタイミングやちょっとした仕草や無理して笑わせようとしていない自然な不自然さにほーう、へえー、やりますね、などと感嘆したりしている。

映画『抱かれた花嫁』(1957年)は、<山田洋次監督が選んだ日本映画名作100本>の喜劇篇50本に入っていた一本である。監督は番匠義彰さんで、番匠義彰監督の映画はこの映画が初めてと思う。

ここからは『昭和浅草映画図』(中村実男著)から情報をいただくが、映画『抱かれた花嫁』(1957年)がヒットして「花嫁シリーズ」となる。そして松竹最初のシネマスコープ作品である。浅草物として番匠監督は7本撮られている。『抱かれた花嫁』『空かける花嫁』『三羽烏三代記』『ふりむいた花嫁』『クレジーの花嫁と七人の仲間』『泣いて笑った花嫁』『明日の夢があふれてる』。残念ながら残り6本は今のところ観れる見通しなしである。

映画『抱かれた花嫁』の中に浅草国際劇場での松竹歌劇団(SKD)の映像が映し出されるが、これが今までみたSKDの映像のなかで一番インパクトが強いのである。シネマスコープのせいもあるのか、奥行きと巾があって団員のラインダンスには圧倒されてしまう。「さくら」のピンクの傘をもってのフィナーレも団員が小さく見えてこの劇場の大きさが伝わってくる。

知人はお母さんと叔母さんに連れられてSKDをよく観に来たのだそうである。その時愉しみだったのがキューピーちゃんの着ぐるみだったそうで、調べて見たら写真がありました。最初の登場が1951年で評判がよく以後定番になったようである。

抱かれた花嫁』は、浅草の寿司屋の看板娘・和子(有馬稲子)を中心にその家族や恋人などが織りなす家族劇ともいえる。母親・ふさ(望月優子)は未亡人で子供たちのために店を守ってきた。長男・保(大木実)はストリップ劇場の脚本家で、次男・次夫(田浦正巳)は外交官志望でまだ学生である。となれば、看板娘の和子に養子をとるしかないのである。しかし和子には上野動物園で獣医をしている福田(高橋貞二)という恋人がいる。二人の間に、養子候補(永井達郎)と福田の気を引こうとする女性・千賀子(高千穂ひづる)という人物が入って来る。

次夫には恋人がいて、国際劇場に出ている踊子・光江(朝丘雪路)である。それが母のふさにばれてしまう。ふさは「あんな裸踊りの子なんて。」と嘆くが、実は、ふさは若い頃、踊子だったようである。オペレッタの人気者であった恋人と泣く泣く別れた事情があったようで、保のつとめるストリップ劇場へ、かつての恋人である往年のオペレッタスター・古島(日守新一)が出演するというのでふさは聴きに行く。古島は『恋はやさし』を歌う。

浅草の場面がたっぷり観れて、さらに日光の風景も加わり、テンポよく話は進んで行く。最後は、家出して水郷の友人のところにいる和子を福田が迎えにいくのであるが、水郷を舟で進む福田の姿が途中で消えてしまう。和子が上からのぞくと、舟に穴が開いていたのか舟から水を捨てる福田の姿があった。題名は『抱かれた花嫁』と色っぽいが、抱かれることなく笑いで明るく終わってしまうのである。

寿司屋の職人として桂小金治さんが活躍し、歌手の小坂一也さんがレストランの歌手として、あの独特の声を披露してくれる。

松竹初のシネマスコープ作品として、野村芳太郎監督の予定だったが、野村監督は松本清張さん原作の『張込み』に賭けていてこれを断り、番匠義彰監督となったそうである。(『昭和浅草映画図』)二つのタイプの違う映画が誕生したわけでそれぞれに楽しみ方が違い、映画ファンとしては幸いなりと言ったところである。

浅草物映画『ひまわり娘』(1953年)は、有馬稲子さんと三船敏郎さんがコンビであるが、三船敏郎さんが、松屋屋上のスカイクルーザーに田舎から出てきた母親と乗る場面があって、たっぷりスカイクルーザーを見せてくれる。

映画『喜劇 駅前女将』(1964年)は、浅草が舞台ではなく、両国と柳橋が舞台である。両国の酒屋・「吉良屋」の主人が森繁久彌さん、奥さんが森光子さん。柳橋の寿司屋・「孫寿司」の主人は森光子さんのお兄さんである伴淳三郎さんで奥さんは京塚昌子さん。伴淳三郎さんの弟で腕の悪い寿司職人がフランキー堺さんで恋人が芸者の池内淳子さん。両国のクリーニング屋には三木のり平さんで奥さんが乙羽信子さん。

この組み合わせにさらに加わるのが、森繁久彌さんのもと恋人で、夫に死別し両国に帰ってきた淡島千景さん。淡島千景さんは池内淳子さんのお姉さんでかつては芸者であった。森繁さんがお気に入りのバーのマダムが淡路恵子さん。伴淳三郎さんも淡路恵子さんが気に入ってしまう。

その他、淡島千景さんと池内淳子さんの姉貴分の芸者に沢村貞子さん。淡島千景さんはお店を開く予定で、当然、森繁さんが手を貸す。そして、淡路恵子さんのバーと淡島千景さんの開店したお店が隣同士で、二階からお隣の私的な場所が丸見えである。

さらに、中華料理屋の主人に山茶花究さん。池内淳子さんのクラスメートに大空真弓さん。森繁さんの叔父さんが銚子に住む加東大介さん。その息子に峰健二(峰岸徹)さん。そこのお手伝いさんが中尾ミエさんで、これまた歌を披露してくれる。

凄い配役で、それぞれの喜劇性が生かされている。観ていればこれだけ複雑な人間関係が無理なく受け入れられ、さらに、場面場面で関係ないような笑いを入れてくれている。フランキー堺さんの下駄タップ。フランキーさんが食べているラーメンのチャーシューを洗濯物の配達にきた三木のり平さんが間合いよく食べてしまったりなど、その動きがつなぎ目を見せず上手いのである。

佐伯幸三監督が、このシリーズでの初登場で、その後続けて監督を務めていて納得してしまう。軽快で俳優さん達の演技力をも堪能できる優れた喜劇映画である。浅草関連は映像は少なく、駒形橋や松屋の映像である。

両国なので、相撲取りの佐田乃山さん、栃光さん、栃ノ海さん、出羽錦さんも登場し、森繁さんは、鮨をご馳走することになるが弟子たちも付いてきていてその食べる量を想像しただけで歌うどころではなく退散である。もちろん森繁さんの得意芸のみせ場もありサービス満点の映画でもある。

<駅前女将>ということで、女性俳優も実力を発揮し、男性俳優と互角に演技をしていてそれがかえってバランスの良い喜劇となって成功している。

脚本は長瀬喜伴さんで駅前シリーズの常連であったということを知る。

映画『キネマの天地』(1986年)は、松竹大船撮影所50周年記念作品である。浅草の帝国館の売り子が映画スターになるという内容で、浅草六区や松竹蒲田撮影所のセットや映画撮影風景も見どころである。(山田洋次監督)


京マチ子映画祭・『赤線地帯』『流転の王妃』

赤線地帯』(1956年)は溝口健二監督で、『流転の王妃』(1960年)は田中絹代さんが監督として撮られた作品である。溝口健二さんと田中絹代さんと並べるとお二人の関係がいろいろ取沙汰されるであろうが、その辺は触れる気はない。溝口健二さんに関しては、新藤兼人監督のドキュメンタリー映画『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』があり、田中絹代さんに関しては、新藤兼人監督が書いた『小説 田中絹代』をもとに市川崑監督が映画『映画女優』を撮っておられる。

映画『赤線地帯』は、溝口健二監督の遺作でもあり、浅草の吉原を舞台としていて浅草映画物の一つでもある。京マチ子さんは、神戸から吉原の<夢の里>へやってくる。派手な衣装で誰をも恐れないガッツなマイペースさである。女優陣が京マチ子さん、若尾文子さん、木暮実千代さん、三益愛子さん、沢村貞子さんなどとそろっていて、それぞれの女性像を際立たせている。それぞれに事情があり、それを乗り越えられた女性もいれば、乗り越えられない女性もいる。

時代は、売春防止法が成立するかどうかの時期である。成立したのが1956年であるから、リアルタイムで描かれて公開されたわけである。<夢の里>の女将。しっかりとお金を貯め込んでいる女性。失業中で病気の夫と子供を養う女性。息子の成長だけを楽しみにしていたのに親子の縁をきられ発狂してしまう女性。結婚するため<夢の里>を出るが、妻というより単なる労働力として働かされ、もどってくる女性。

そんな女性達の中で、経済的に恵まれた実家がありながらそこを飛び出したのが京マチ子さんのミッキーである。ミッキーの発する言葉に情がないように思えるが、現実をみている。そして男に貢がせるのではなく、好きなことをやりたいときは自分の借金にするのである。<夢の里>では新米なのに一番借金が多いという状態である。ミッキーがいることによってどこか悲惨な気分が発散されるという役割をしている。ミッキーの嫌味のないところが京マチ子さんの演技力である。

この時代の映画で『渡り鳥いつ帰る』(1955年・久松靜児監督)『愛のお荷物』(1955年・川島雄三監督)『洲崎パラダイス赤信号』(1956年・川島雄三監督)などが浮かぶ。『愛のお荷物』では国会議員が、赤線地帯に視察に行く場面が思い出される。映画『赤線地帯』では、幽霊がでてくるような特徴ある音楽が挿入されていて、その旋律が何とも言えない効果をだす。(原作・芝木好子「洲崎の女」の一部より/音楽・黛敏郎)

映画『流転の王妃』(原作・愛新覚羅浩『流転の王妃』/脚本・和田夏十)は、満州国皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ・中国清朝のラストエンペラー)の弟・溥傑(ふけつ)と結婚した女性の激しく動く歴史の中で生きた姿を描いた作品である。その女性は嵯峨浩さんである。侯爵嵯峨家の長女で、軍の意向で溥傑さんとの結婚が決まる。だれもが軍の意向には逆らえず、権力を握る者がなんでも利用する様子がうかがえる。

しかし、溥傑さんと浩さんはお互いに魅かれ合い、その後の翻弄される時間を共有しつつ離れ離れになっても最後までその信頼関係を維持するのである。悲しいことにお二人の長女・慧生さんは心中されてしまう。若い身に想像できないほどの重圧があったのであろう。

映画では名前を変えてある。浩(ひろ)さんは、竜子(京マチ子)。溥傑さんは溥哲(船越英二)となっている。京マチ子さんは、楊貴妃も演じられたこともあり、とにかく様々な役をこなされている。そして多くの監督の作品に出られていて固定化できないところが京マチ子さんの魅力でもある。この映画でも悲惨な状況をも乗り越えていく一人の女性として熱演されている。

歴史的流れが整理できていないのであらすじについては省略するが、お二人は1937年(昭和12年)に結婚されている。新婚時代には、千葉の稲毛で半年間すごされている。その家が今も残っている。映画の中でも稲毛時代を幸せの時間として思い出す場面がある。

稲毛の浅間神社のあたりは今は埋め立てられて海岸線が移動しているが、明治時代から、別荘地として、海水浴場としての行楽の地であった。「稲毛海気療養所」ができその後、旅館「海気館」となり多くの小説家がおとずれている。海岸時代の黒松が多く残っていて驚いた。

お二人の住まいは「千葉市ゆかりの家・いなげ」として公開されている。軍部の干渉を受けないわずかな幸せな住まいであったのであろう。日本家屋で、想像していたよりも狭く、それだけにささやかな親密な空間だったのかもしれない。映画のなかでの中国の家は荒野のなかであった。稲毛のこの近くには、浅草の神谷バーの神谷伝兵衛さんの別荘も残っていて「千葉市民ギャラリー・いなげ」として利用され公開されている。こちらは洋館で立派である。

浩さんは、結婚後最後まで中国人として生きられ少しでも日中の友好をと願われたようである。田中絹代さんが、渡米後帰国した際、投げキスをしてひんしゅくをかっている。田中絹代さんが女優として、その時代その時代を見て来て今度は監督として一人の女性の生き方を描かれた作品なのであろう。

京マチ子さんは実に変化に飛んだ役柄を演じられた女優さんである。映画『いとはん物語』では、器量は悪いが心根の優しさが垣間見えるいとはんを演じられた。

映画『悲しみは女だけに』(1958年)は新藤兼人監督・脚本の作品であるが、新藤兼人監督の子供の頃の自伝映画でもある『落葉樹』で借金のために結婚してアメリカへ移民した姉が帰ってきたような設定になっている。お姉さんは帰ってくることはなかったのであるが。お姉さんが帰って来てみると家屋敷はなく、その弟の家族の心はばらばらであった。生活苦に追われている長女(京マチ子)は、叔母(田中絹代)が必死で異国で働いたお金を差し出されそれを受け取るのである。叔母の生き方をも受け取ったような場面であった。

映画祭にはなかった映画『濡れ髪牡丹』での下駄での立ち回りも見事であるし、『穴』などの自分と似た替え玉にさらに入れ替わりなりきるのもお手の物である。喜劇、悲劇、時代劇、歴史劇、文芸物、恋愛、家族、ミステリー、怪奇、群像劇、とジャンルを問わず楽しませてもらっている。

深川江戸資料館 ごっつあんです

江東区『深川江戸資料館』へ新内を聴きに行った。常設展示室の火の見やぐらの下まで流してきて、簡単な解説を入れて新内を聴かせてくれ、また流していく。少し休憩があって、また流してきてとこれが一時間の間に三回ある。

資料館での「新内流し」は初めての体験である。演者は新内多賀太夫さんと新内勝志壽さんである。演目は『狐と弥次郎兵衛』で、新内と言えば心中物とされるが、『狐と弥次郎兵衛』のように滑稽な内容の物もありチャリ物と言われると説明がった。

内容は、弥次郎兵衛が喜多八とはぐれてしまい、赤坂の松並木で自分に化けた小狐に会い一緒に踊ってしまい、狐は逃げ出してしまう。その話を簡単に置き、クドキなどの三つにわけ、三回分のそれぞれの聴きどころを押さえて語られたのである。吉原かぶりのこと、縞の着物は新内が流行らせたこと、三味線は細いヒモで支えられていること、上調子の三味線のバチがとても小さいことなどを説明してくれ、新内に少し近づいた気分にさせてくれ、高音で聴かせどころを語ってくれた。

知らなかった新しい知識ももらい楽しかった。帰ってからCDで『蘭蝶』を聴いてしまった。こちらは端物という。

企画展『杉浦日向子の視点 ~江戸をようこそ~』(11月10日まで)とゴールデンウイーク特別展『深川モダン ~文化で見る近代のKOTO~』(5月6日まで)も開催されていて、いやいや、ごっつあんです、である。

杉浦日向子さんとはアニメ映画『百日紅』以来であろうか。 『肉筆浮世絵 美の競艶』展

杉浦日向子さんの原作でもう一本映画があるのを知る。映画『合葬』である。彰義隊の若者たちの青春群像を描いている。漫画の実写化で原作は読んでいないが何となく杉浦日向子さんの社会性から少しずらした若者の心情が出ていて漫画の一コマはこんな絵かなと想像してしまう。

三人の若者が彰義隊に参加する。徳川慶喜が江戸を去る時に見送った秋津極は、その姿をみて慶喜の敵討を決意する。福原悌二郎は妹・砂世が極と婚約しているのでそれを反故にするのかと極にせまる。そこに居合わせた吉森柾之助は養子先の父が仲間内の争いで殺されその仇を義母から言い渡され、都合の良い養家からの追放であった。三人は幼い頃から知っており、写真を撮り三人の若者が彰義隊に参加する。

徳川慶喜が江戸を去る時に見送った極は自分から彰義隊に入るが、柾之助は行くところがないので何となく引っ張られて入隊。長崎で蘭学を学んだ悌二郎は彰義隊など意味がないとして解散を説得するためについてゆく。彰義隊の指導的立場の森篤之進は、新しい生き方を望む者は去らせ、それでも志を曲げない者たちの死に場所を作ってやりたいと思うが、上のほうは何の方針もなく、ただ若者たちを鉄砲玉の替りとしか考えていない。

腰抜けだと森は若い彰義隊に殺されてしまう。森の想いを知っていた悌二郎は、彰義隊を離れるが妹のお嫁に行く前に極に一度会いたいという想いを遂げさせるため再び彰義隊にもどる。そして開戦に居合わせ、二人だけ死なせるわけにいかないと残るのである。

柾之助が好きになった娘が極を好きであったりと淡い恋い心も挿入されている。そして三人のその後は・・・

(監督・小林達夫/出演・柳楽優弥、瀬戸康史、岡山天音、門脇麦、オダギリジョー)

杉浦日向子の視点』の展示内容も杉浦日向子さんの江戸ワールドが展開されている。江戸で人気があった三男が火消、力士、与力とある。これは、『一日江戸人』にも書かれていることであるが、与力とあるのが面白い。与力は上下色の違う裃(継裃)であったが、幕末には羽織となる。しゃべり方が「来てみねえ」「そればっかり」「そんななァ嫌(きれ)ぇだよ」と庶民に親しみを与え、金銭的にも余力があり、こせこせせず遊びにも精通していたようである。杉浦日向子さんの好みと研究の深さがわかる展示である。

もう一つ『深川のモダン』の展示は、深川の出てくる書物を探し出しその書物を展示し、さらにそれを書いた著者も紹介している。その数が多いのである。よく探し出されたと思って係りの人の尋ねたところ、この資料館の館員さんたちが探し出したのだそうである。

小津安二郎監督、谷崎潤一郎さん、永井荷風さん、泉鏡花さんなども別枠となっていて、泉鏡花さんはタウン誌『深川』で特集「鏡花と歩く深川」となっており、これでまた鏡花さんの歩いた深川めぐりを楽しむ機会が増えた。


歌舞伎座4月『実盛物語』『黒塚』『二人夕霧』

実盛物語』。『源平布引滝』は、「義賢最期」「御座船」「実盛物語」と続いている。「御座船」は上演されることがまれで、この三作をつないでいるのが小万という女性である。死してまで切られた自分の腕を自分の息子の太郎吉に託し、葵御前の窮地を実盛を通じて救うのである。実盛は、後になってこの腕について物語り、そこからまた意外な展開となる。

「義賢最期」は、源義賢の壮絶な最期が描かれており、妻の葵御前は九郎助に託され、白幡は九郎助の娘・小万に託される。小万は「御座船」で、深手を追いつつも白旗を口にくわえて琵琶湖に飛び込み泳いで逃れようとする。途中、御座船にたどり着こうとするが、その船は平宗盛の船であった。同行していた斎藤実盛は、その白旗を握りしめた女から白旗を取ろうとするが女は白旗を放さない。実盛は女の腕を斬り落とすが女も腕も湖の底に沈んでしまう。

その腕を、九郎助と孫の太郎吉が拾いあげ家に持ち帰る。ここで、小万の腕は着くべきところにたどり着いたといえる。太郎吉が白旗を握る指をときほぐし白旗は葵御前に渡される。そしてこの腕はさらに義賢と葵御前の間に生まれ赤子の命まで救うのである。その赤子が、後の木曽義仲である。

実盛(仁左衛門)は、瀬尾十郎(歌六)と共に、九郎助(松之助)がかくまっている葵御前(米吉)が男の子を生んだなら殺す役目でやってくる。九郎助の女房・小よし( 齊入)は赤子が生まれたと抱きかかえてくる。それは、女の腕であった。瀬尾はあきれるが、実盛は、唐国でも后が鉄の柱を抱いて鉄の玉を生んだという話を披露し、瀬尾を丸め込む。ここで、実盛が平家につきながら源氏の味方らしいということがわかる。

瀬尾は去り、実盛は「御座船」での女の腕を斬ったことを物語る。仁左衛門さんの実盛は、そうかそうであったかと自分でも得心しつつ物語られる。小万(孝太郎)の死体が運び込まれる。孝太郎さんが死体のままということはないわけで蘇生する。そして、息子の太郎吉(寺嶋眞秀)に一言語ろうとしてふたたび息絶える。

蘇生させたのは実盛で、小万の念力を感じたからであろう。芝居はこのあとさらなる展開をみせ見せ場となる。時代物では子供が親の主従関係から犠牲となることが多いが、『実盛物語』では太郎吉が首を討つという結果となり、さらに実盛は太郎吉に自分が白髪になった時、合戦の場で会おうと愉快そうに馬上の人となる。

小万は、実盛に遭遇したことによって、自分の役目を全うさせることができたわけで、実盛によって木曽義仲誕生の物語も出来上がるわけである。仁左衛門さんは、実盛の懐の大きさと太郎吉への情愛をまじえつつ手の内のしどころを展開され、颯爽とその場を後にするのである。実盛を取り巻く役者さんたちも手堅く上手くはまってくれていた。

黒塚』。これは、以前に書いた時と同じ気持ちなのでその感想を参照にされたい。歌舞伎1月 『黒塚』

さらにつけ加えるなら、猿之助さんが、中腰で膝を曲げての姿勢を維持しつつ軽やかな足取りで踊られるのには改めて感心してしまった。怪我のこともあってか、鬼女になってからの動きがバージョンアップされたように思う。今できることは全て出しきるといった感じであった。今回は、阿闍梨が錦之助さんで、強力が猿弥さん。山伏大和坊が種之助さんと山伏讃岐坊が鷹之資さんの若手である。

錦之助さんを先頭に数珠の音もかなり強く響き、猿弥さんのあの身体がどうしてあのように動けるのか不思議であるが、そうしたことが重なっての靜と動の変化のある『黒塚』となった。

二人夕霧』<傾城買指南所>とある。伊左衛門(鴈治郎)が遊女夕霧(魁春)に先立たれ、今は二代目の夕霧(孝太郎)と夫婦となり、傾城買いの指南所を開いていると言うのであるからこれは喜劇かなと思ったところが、死んだ夕霧があらわれ伊左衛門としっとりと踊るのである。夢の中かと思ったら夕霧は生きていたのである。そこで二人の夕霧の対面となり、すったもんだの末、最後はめでたしめでたしなのであるが、喜劇性が上手く収まってくれなかった。

その場その場を面白く盛り上げようとするのであるが、和事の流れるようなちょっと肩透かしのような面白味が上手く出ず、ドタバタとした流れになってしまったのが残念である。和事でさらに喜劇性となると想像以上に難しいのだということを感じさせられた。

若手の萬太郎さんと千之助さんが頑張られたが、舞台を盛り立てる役というのはなかなか大変なものである。もっと経験が必要であろう。これを機に舞台の一つ一つ大切されて、さらに和事を意識されて励んでほしいとおもった。芝居全体にもう少し工夫が必要のようである。(彌十郎、團蔵、東蔵)

歌舞伎座4月『平成代名残絵巻』『新版歌祭文』『寿栄藤末廣』『御存 鈴ケ森』

平成代名残絵巻(おさまるみよなごりのえまき)』。平家と源氏の時代に設定し「平成」の時代を讃え新し時代「令和」を寿ぐ演目である。平家の全盛で平徳子が中宮に上がると言うので平家の人々は喜びに満ちている。一方源氏は、遮那王(義経)が東国の藤原氏の下に行くことを母の常盤御前に報告し、いずれ白旗を上げることを誓う。知盛と義経が赤旗と白旗をかざし、のちの世に戦さのない新し時代をということであろう。

常盤御前の福助さんの一言一言の発声に舞台を押さえる力がある。平家側の面々(笑也、笑三郎、男女蔵、吉之丞など)もその優雅さがあり、知盛の巳之助さんの声も安定してきて、徳子の壱太郎さんとの出に花がある。児太郎さんの遮那王も背筋にきりっとした線がきまって源氏を代表している。平宗清(彌十郎)、藤原基房(権十郎)なども登場し、源平の世界を上手く繰り広げた一幕である。

新版歌祭文』。<座摩社>の場面を加え、久松が野崎村の久作の家に帰された原因がわかるようになっている。お染が雀右衛門さんで、お光が時蔵さんで、もう少し早くこのコンビでやってもらいたかった。襲名などが続いて、ベテラン同士の新たなる組み合わせが遅れた感がある。ただもう少しテンポが欲しいかった。

町のお店のお嬢さまと田舎娘のお光の違い、お店の若旦那・山家屋佐四郎(門之助)と武家の遺児でもある丁稚の久松(錦之助)の柔らかさの違いなど芸としての違いが観れる芝居でもあり、そのあたりはそれぞれの役者さんによって表現されていた。

<座摩社>では、手代小助の又五郎さんが小細工をして久松を窮地に陥れ、そのだますところが喜劇性ということに持って行きたかったのであろうが、又五郎さん、侍や奴の喜劇性は上手いが手代のほうは硬すぎるように思える。悪のほうにも傾き加減が弱く、喜劇にいくか、悪にいくかの方向性をもう少し決めてほしかった。

<野崎村>では、祭文語りが登場し、お光はお夏清十郎の唄本を買う。お光のその後の悲劇性が暗示されている。久作の歌六さんは手の内で、後家お常の秀太郎さんは座してからの台詞に実と押さえがある。両花道での舟のお染と駕籠の久松と残るお光との別れとなる。舟の赤い毛氈の色がお染とお光の立場の違いを際立たせ、悲劇性に色を添える。

観ているほうが体力切れで、役者さんが揃っていながら、せっかくの<座摩社>と<野崎村>が少しだれてしまったのが残念である。

寿栄藤末廣(さかえことほぐふじのすえひろ)鶴亀』。坂田藤十郎さんの米寿を祝う一幕である。女帝の藤十郎さんの周りを、藤十郎さんの子息世代から孫世代までの若い役者さん達で固め華やかで明るい一幕となった。鶴(鴈治郎)と亀(猿之助)の頭上の飾りで臣下が長寿を現わし、従者たち(歌昇、壱太郎、種之助、米吉、児太郎、亀鶴)が足拍子も加え軽快さもあり、ほど良い変化に飛んだ寿ぐ舞踊となった。

箏の音も効いて、舞台も梅から藤に変わり、形式さだけではなく、観客をなごませてくれた。

御存 鈴ヶ森』。またかと思ったのであるが、今まで見た『鈴ヶ森』で一番かもしれない。白井権八の菊五郎さんがどこにも力が入っていず、雲助をかたずけて行く。江戸時代の若者の虚無感をも感じさせる。それを見ていた幡随院長兵衛の吉右衛門さんが駕籠から呼び留める。台詞の妙味で聴かせ、長兵衛の大きさで権八との違いがわかり、厚みのある一幕であった。(左團次、又五郎、楽善)

劇団民藝『新 正午浅草』

 正午浅草 荷風小伝』(作・演出・吉永仁郎/演出補・中島裕一郎)。永井荷風生誕140年、没後60年。こちらは新宿紀伊國屋サザンシアターからの発信である。 

フライヤーによると、千葉県市川市八幡の荷風(77歳)の住まいに、かつての愛妾お歌が訪ねて来て、思い出話から『濹東綺譚』に出てくる娼婦お雪の話しへとつながるようである。荷風さんは多くの女性と関係があったが、劇中で登場するのは、お歌とお雪である。

劇から少し離れて新藤兼人監督の著書「『断腸亭日乗』を読む」に触れる。新藤兼人監督は、映画『濹東綺譚』を撮った後で、「岩波市民セミナー」で講義をされ、それが本となった。その中に「荷風の女たち」として関根うたさんのことが書かれてある。日記の中では時間的に十三人目の女性ということになるらしい。これは女性関係だけをピックアップしてのことである。それだけの日記でないことは自明のことではあるが。

この日記の中ではうたさんのことが一番多く書かれていて、新藤兼人監督も、うたさんのことを多く語られている。そして、荷風が一番心を通わした女は、おうただろうとしている。荷風と別れたおうたは20年後石川県の和倉温泉で働いていて年賀状を出す(昭和31年)。そして市川まで荷風に会いに来る(昭和31年)。最後に会ったのが昭和32年3月6日である。<晴れ。関根お歌来話。午後浅草食事。>この頃には「正午浅草」「正午大黒屋」とか書くだけの気力しかなかったようで、劇の題名『新 正午浅草』も、晩年の老いた荷風さんとの時間を通してその最後を観客は看取るというかたちになる。

「正午浅草。」はまだ、体力的に浅草まで行けたのである。「正午大黒屋。」となると、浅草までは行けなくて八幡の「大黒家」での外食なのである。新藤兼人監督は、浅草の尾張屋の本店に取材にいっている。その時おかみさんがお嫁に来た頃の出来事を話されている。それは、カメラをもった若い人が店の中まで入って来て荷風さんの写真を撮るので、それとなく邪魔をするようにしたと。その時若いおかみさんは、その老人が永井荷風さんだと知ったのである。

「下町芸能大学」で、松倉久幸さんが、尾張屋のおかみさんを含めて浅草で荷風先生を知っておられるのは三人だけなったと言われていたのを思い出す。

人間これだけ老いて来れば誰かに頼ろうとする気持ちが湧いてくると思うのであるが、お掃除などをしてくれる人は雇うが、永井荷風さんは最後まで自分で食事を作るか外食をして一人を通すのである。そこが凄いというか、老人特有の頑固さであろうか。結婚は二度しているし、お歌さんとも一緒にくらしている。しかし、一緒に住めば女のほうに我がでて嫌な思いをすることを知っていて、そのことを極力嫌うのである。それを我慢できない自分をも知っているともいえる。浅草の踊子さんのところへ行くわけであるから、女性が好きである。ところが自分の最後をささえてくれる女性という感覚はないのである。

そんなことを、演劇を観ていても再度感じてしまった。ある面では潔い人でもある。最後まで荷風さんだけの世界観を貫き通したのであるから。老人の孤独の象徴のようにも思われがちであるが、荷風さんの場合はそうとだけは思えないのである。

好きなものを食べて誰の手もかけずに亡くなられる。日記も事実が書かれているとは限らない。小説家の場合、そこには文筆家としての仕掛けもあるかもしれない。ただ、新藤兼人監督が『断腸亭日乗』を読み始めたのが、昭和20年3月9日の空襲で偏奇館が焼ける箇所からで、その書き方が見事なシナリオをみるようで引きつけられている。

シナリオというのは、俳優やスタッフに内容を正確に伝えるためにかくので、余分なことを書いたり、美文の形容を使う必要がない。荷風さんの空襲の様子はまさしく客観描写であり、事実をその目で見た人でないと書けない記述だとしている。そのことが、監督が七巻もある『断腸亭日乗』を読めたきっかけでもあったとしている。

原作の『濹東綺譚』や「『断腸亭日乗』を読む」などを思い浮かべつつ演劇の方を鑑賞する。お歌さんは、芝居の流れから脚色された感があり、お雪さんと比べるとお気の毒のような気もする。お歌さんにお雪さんはどんな人だったのと聞かれ荷風さんは、お雪さんとの想いでの中に入る。

夢を見ると父親が現れ、父親の考え方や、荷風さんを自分の思うようにしようと父親なりの助力したことが明らかになるが、それに荷風さんが逆らい、自分を押し通したこともわかる。

生前意見をよく聞いた神代帚葉(こうじろそうよう)翁らしき人も登場し、荷風さんがきらっていた菊池寛さんも短時間で上手く登場させる。そして、写真を撮り荷風さんを困らせた青年も登場させ、荷風さんに聴きずらいことも尋ねさせている。

戦時、行く先々で四回も羅災し、やっと市川市に落ち着き、今その終の棲家で最期を向かえようとしている荷風さんを、写真でみる荷風さんとよく似た雰囲気で、水谷貞雄さんが登場する。体力的に書くことが少なくなった日記の代わりに、舞台上で登場人物たちとの会話で語り、荷風さんの生き方の筋の通し方を示めされた。老いて最後の死という大仕事をいかに当たり前の事としてむかえるかの心構えをそれとなく見せてくれてもいる。

永井荷風(水谷貞雄)、永井久一郎(伊藤孝雄)、若いカメラマン(みやざこ夏穂)、お歌(白石珠江)、お雪(飯野遠)、松田史朗、佐々木研、梶野稔、大中耀洋、田畑ゆり、高木理加、長木彩

紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA(新宿) 4月28日(日)まで