第15回下町芸能大学『荷風』

浅草の東洋館に初入場。それも永井荷風さん関連の企画を鑑賞でき、さらなる満足である。永井荷風さんの生誕140周年記念だそうで、「下町芸能大学」は東洋興業株式会社が主宰して続けてきた催しのようです。

会長の松倉久幸さんによるプログラムの案内文によりますと「下町の芸能文化を発掘し直し、みなさまに広くご紹介する機会を設けたいと考え、下町ゆかりの作家の作品を主題とした講演、また新作の新内・講談・幇間芸・舞踏などを公演してまいりました。」とある。

松倉久幸さんも『荷風先生と浅草』ということで、お話された。東洋館の正式名は「浅草フランス座演芸場 東洋館」だそうです。久幸さんのお父さんが、ロック座を建て替える時に荷風先生に何か良い名前はと尋ねられ「フランス座」はどうかとの言葉から命名されたそうで、今も正式には「フランス座」の名前を大切にきちんとつけているのだそうである。久幸さんのお父さんは、差し入れを持ってよく来る方がオペラ館で上演された『葛飾情話』の永井荷風先生と知り、それからはフリーパスとなったようである。

昔も今も、荷風先生、浅草に通わなければ、長期にわたりこんな親しみを込めた接し方はされなかったかもしれない。

岡本宮之助さん、文之助さん等の新内から始まった。宮之助さんは岡本文弥さんにも師事されており、樋口一葉さん、正岡子規さんなどの新作作品も語られておられる。今回良いアドバイスを頂いた。邦楽はよくわからないと言われますが、母音を伸ばしますから、物語を追いかけたい人は子音を追ってください。もう一つの聴き方は、伸ばすところで良い声だなあとか、三味線の上調子などを味わってもらえればと。確かに。

江本有利さんの歌謡ショー『下町艶歌』もありまして、最初に歌われたのが『また来て下さい向島』という歌なのであるが、歌詞の一番に桜橋、二番に言問橋、三番に吾妻橋が入っていた。東洋館に行く前に、こちらは、吾妻橋を渡って向島側の隅田公園を歩き、東武鉄橋言問橋を左手にながめつつ進み、桜橋を渡って浅草側の隅田公園を歩いてきたので、歌詞をみてトットちゃんではありませんが「あらまぁ!」である。

浅草関連映画の事もあっての散策でもあり、桜も終わり花見客も居ず、いままで気に掛けなかったことの幾つかの発見あり。「鬼平情景」として<鬼平犯科帳ゆかりの高札>があり、16ケ所にあるとのこと。その内の①「吾妻橋」と④「みめぐりの土手」の高札に出会う。鬼平犯科帳の作品を味わいつつ高札めぐりの散策コースもあり、その他にも散策コースが数種あるらしい。

そして勝海舟の銅像。水戸徳川邸の跡を使った庭園。

よく映画に登場する東武鉄橋を眺め右手には牛島神社。言問橋を眺めて右手下に三囲神社の鳥居が上半分頭を出している。隅田川方向から鳥居を眺めたことがなかったのでその鳥居が目に入った時には感動。

葛飾北斎さんの「新版浮絵 三囲牛御前両者之図」の案内板もあり、牛島神社が左で鳥居の頭がでている三囲神社が右に描かれている。かつて牛島神社は今の長命寺近くにあったため、牛島神社と三囲神社の位置が今と反対の位置関係になるわけである。

かつての牛島神社にあった常夜灯が残っていてその位置を示してくれるらしい。映画にもこの常夜灯は姿を現しており、そこまで行く予定であったが、時間がせまったいたので次の機会にまわし、桜橋を渡って浅草側にでた。

桜橋を渡りたかったのは、映画『菊次郎の夏』でマサオくんと菊次郎が出会う場面でもあるからである。その周辺をもう一度ながめたかったのである。

桜橋は歩行者専用の橋で向島と浅草側の中央に円錐形のモニュメントがあり、桜橋架橋10周年事業とあり、桜橋が1985年にできているから、1995年頃に設置されたことになる。対面の形で向島側には「瑞鶴の図」が彫られ、浅草側には「双鶴飛天の図」が彫られている。(平山郁夫原画、細井良雄彫刻)

そんなわけで、北野武監督の映画の場面のあとは、ビートたけしさんの修業の場であった東洋館へのコースへとつながった。東洋館のエレベターが狭く、エレベーターボーイなんて邪魔なくらいなのではと思われたが、そこが浅草ということなのでしょうか。江本有利さんが歌われた『業平橋』の一番に「三囲りの 石鳥居」とあり、三番には「そっと 掌を置く 撫で牛の」と三囲神社と牛島神社も出てきてこれまた上手い具合いにつながってしまった。

そして悠玄亭玉八さんの幇間芸である。『四畳半襖の下張り』国際版で、色っぽくて、笑わせてくれて、幇間芸の高度さを味わわせてもらった。三味線を真横に持って爪をはめてひかれていた。とにかく多くの分野に精通しつつお座敷芸にするという手腕が必要のようである。今回は「荷風」さんあわせてであるが、お座敷では目の前のお客様に合わせてそのさじ加減を調整するのであろう。

締めは岡本宮之助さん(浄瑠璃)、新内勝志壽さん(三味線)、岡本文之助さん(上調子)で、新内『濹東綺譚』(詞章・野上周)である。玉ノ井でのお雪さんと主人公の出会いから、お雪さんが病に伏したと聞くところまでを哀感を込めた情愛でかたられた。小説の方は、主人公が作家と言うことを隠していて、書き進んでいる小説のことなども語り、冷静な観察眼も披露されるが、そこは省かれていてる。

永井荷風さんの特集は三回目だそうで、荷風さんの世界を芸能に生かそうとの心意気を感じさせてくれる文学の世界とは一味違う時間であった。

通称「浅草東洋館」は、いろもの(漫才、漫談、コント、マジック、紙切り、曲芸、ものまねなど)専門の寄席で、隣の浅草演芸ホールで落語と一緒にたのしませてもらったことがあるが、いろものだけというのも今度たのしませてもらうことにする。

京マチ子映画祭・浅草映画・『浅草の夜』『踊子』

今、京マチ子さんの映画祭は大阪(シネ・ヌーヴォ)で開催されているようである。OSK出身でもありその身体的表現は古風な日本女性の規格からはみ出していて魅力的である。踊りも和洋どちらも画面からあふれ出る<生>がある。男を翻弄する役もパターンがない。はじけるような<生>から能面のような表情へと変化したり飛んでいて、こんなに愉しませてくれる女優さんとは思わなかった。

黒蜥蜴』などは、フライヤーで「京マチ子のグラマラスな肢体も必見。」とある。ミュージカル調で鞭をもって京マチ子さんが踊る場面がありそれを強調しているのであろうが、もっと見どころがある。明智小五郎の裏をかき、着物姿の婦人から、背広姿の若い男性になってホテルから逃走するのである。そのときの動きが、OSKの男役のしどころで、軽やかでキュートで、映像でこんな素敵な歌劇団風の動きを観た事がない。これを観れただけで内容はともかく京マチ子さんの「黒蜥蜴」は満足であった。

映画『浅草の夜』(1954年)、『踊子』(1957年)ともに、京マチ子さんは、浅草の劇場でのレビューの踊子という場面が出てくるが、人物設定は全く違っている。『浅草の夜』では、若尾文子さんの姉の役で、『踊子』では、淡島千景さんの妹役である。自ずと立場が違うので役柄も違って来る。浅草の多くの風景が楽しめる。

映画『浅草の夜』は、原作・川口松太郎/脚本・監督・島耕二監督で、情の絡んだ娯楽映画になっている。踊子の節子(京マチ子)には、おでん屋で働く妹・波江(若尾文子)がいて、節子は妹の親代わりで頑張って生きてきた。ところが妹の恋人が画家・都築(根上淳)と知って恋人との付き合いを禁じる。節子の恋人・山浦(鶴田浩二)も節子のその態度が腑に落ちない。そのわけは・・・。

山浦は劇場の脚本家で、そこの古参の演出家が首になる。それに加担しているのが劇場のボス(志村喬)でその息子(高松英郎)は波江に惚れている。これだけの材料がそろえば内容的は何となくわかる。画家の大家に滝澤修さん、おでん屋のおかみに浦辺粂子さんと豪華キャストである。それだけに、今観れば内容的には薄いが、外国で日本映画が認められてきた時代、浅草モノの定番娯楽映画として島耕二監督は腐心している。山浦を好きでありながら自分の主張は変えない節子。そんな性格を知って姉妹のために一肌脱ぐ山浦。それぞれの役者の役どころを何んとかおさめようとしているのがわかる映画で、そういうところが面白い。

島耕二監督は、この映画の前『浅草物語』(1963年)を撮っている。観たいがいつ出会えるであろうか。

映画『踊子』は、原作・永井荷風/監督・清水宏/脚本・田中澄江である。京マチ子さん、『浅草の夜』と違って自由奔放である。というか、感情のおもむくままにこちらの方が自分にとって得であり好みであるといった生き方である。が、それにしがみつくことなく、深く考えることがない。高峰秀子さんの『カルメン純情す』は同じ踊子でも踊りは芸術だと思って嘲笑されながらも自分で考えて一生懸命であるが、『踊子』の千代美(京マチ子)は、全くそんな考えなどなく踊子として華があるがそんなことに執着しないのである。面白いキャラクターである。京マチ子さんならではの役ともいえる。

姉の花枝(淡島千景)さんが浅草の踊子で、一座の楽士で恋人の山野(船越英二)と同棲している。経済的に苦しいから狭いアパート住まいであるが、そこへ妹の千代美が転がり込むのである。踊子になった千代美の京マチ子さんは屈託なく画面いっぱいにその踊りを披露し、淡島さんの踊りが上品にみえるのが面白い。観ていてもこれは人気をとると解るが、楽しくてしょうがないと踊っていながらその踊りもさっさと捨てるあたりが、これまた千代美ならではの生き方なのである。

捉えどころがなく、子供までできてしまう。それが誰の子なのか。花枝は、自分はもう子供が産めないとあきらめ、千代美の子供を育てることにする。展開が千代美の行動によって動いて周囲は翻弄されるが、姉の花枝がしっかりしていて、子供がその渦に巻き込まれることはない。そこが、この映画の爽やかなところかもしれない。映画の京マチ子さんの洋の踊りとしてはこれが一番見事かもしれない。

この二つの映画だけでも、その役柄によって対称的な役を愉しませてくれる手腕をみせてくれる。台詞のトーンや間も変化に飛んでいて、聴かせどころも押さえられている。

映画『夜の素顔』などでは、意識的に男を誘い込み日舞の家元の地位を上り詰めていくが、さらに、子供のころから自分を食い物にしてきた母親の浪花千栄子さんとの争うシーンなどは、『有楽町で逢いましょう』のあのお二人がと思わせる場面で、役者さん同士なにが飛び出すかわからない期待感も持たせてくれる。

『美と破戒の女優 京マチ子』(北村匡平著)が手もとにあるが、まだ開かないでいる。もう少し時間がたって京マチ子さんの魅力の強烈さが薄れてから読ませてもらおうと思う。

追記1 : 永井荷風さんの小説『踊子』を読んだ。映画では、山野と花枝は、千代美の産んだ子・雪子を連れて浅草から山野の兄のいる田舎で保育園の手伝いをして静かな生活に入る。雪子は、保育園児と共に山野の弾くオルガンで楽しく踊っている。それを花枝と一緒にそっとみる千代美であった。

原作では、雪子は風邪から脳膜炎を患い亡くなってしまう。雪子の死が、山野と花枝を浅草の地を立ち去らせる動機としている。

小説では、山野は<わたし>として語っている。そして、浅草で十年間一日も休まずに舞台のごみをかぶりながらジャズをひいていられた<平凡な感傷>に触れている。

舞台ざらいの夜明けの浅草を一座の芸人達と話しながらの帰り道。「いつも初めてのように物珍しく感じて、花枝や千代美とわたしの間のみならず、一緒に歩いて行く人達の身の上までを小説的に想像したくなるのです。何んという馬鹿馬鹿しい空想でしょう。何んという卑俗な、平凡な感傷でしょう。

このわたしの<平凡な感傷>は映画では表しえない浅草への感傷でもあろう。

追記2 : 黒澤明監督の『野良犬』を観なおした。拳銃をとられた若き刑事がそれを必死で探すのであるが、<感傷>もテーマとなっていた。犯人と戦後すぐの日本の状況。犯人をかばう浅草の若い踊子と、自分と同じように復員してすぐリュックを盗まれる自分と同じ目に遭った犯人への若き刑事の感傷。それを自戒させるベテラン刑事。やはり説得力のある映像である。

浅草映画・『ひとりぼっちの二人だが』

久しぶりの浅草映画である。近頃、出会えるのに時間がかかる浅草映画となっている。観たり観ないようだったりが『ひとりぼっちの二人だが』である。観ていた。だが、浅草の場面は飛んでいた。観た頃は浅草にそれほど興味が無かったからである。江東区古石場文化センターの「江東区シネマプラザ」で月イチの映画鑑賞会を開催しており、『ふたりぼっちの二人だが』を上映される情報を得た。

 

江東区古石場文化センターには、小津安二郎監督の「小津安二郎紹介展示コーナー」もあり訪れるのは久しぶりである。小津監督の喜八モノと言われる作品には小津監督が子供時代に深川で目にした庶民の姿を作品に挿入されていた。

 

映画『東京画』(1985年)を観たばかりだったので、小津監督作品の解説などもさらに近く感じられた。映画『東京画』は、ドイツの映画監督・ヴィム・ヴェンダースが小津監督の鎌倉のお墓を訪れ、映画『東京物語』(1953年)に出てくる風景を30年後の1985年(昭和60年)に東京と尾道をたずね、東京の風景は様変わりである。笠智衆さんや小津組の名カメラマン・厚田雄春さんにインタビューしているが、厚田雄春さんが、小津監督の死後他の映画に参加したが、どうしても小津監督の撮影法が忘れられず、小津映画に殉死するかたちで映画を辞めることになったと言われたのが強く印象に残った。

 

ひとりぼっちの二人だが』(1962年)は、吉永小百合さん(田島ユキ)が踊りの会で踊る場面から始まる。ユキは芸者置屋の叔母に育てられ水揚げされることが決まったいる。ユキはそれが嫌で逃げるのである。浅草寺でユキはつかまりそうになるが同級生の浜田光夫さん(杉山三郎)と出会い助けられる。そこまでくるとこの映画観ていると気が付いた。とにかく吉永小百合さん浅草を走り回る。1962年(昭和37年)頃の浅草が映される。チンピラの三郎は兄貴分の命令で柳橋一家からユキをかくまうことになる。追われて飛び込んだのがストリップ劇場である。そこで、もう一人の同級生・坂本九さん(浅草九太)に逢うことになる。

 

九太は、コメディアンを目指していた。浅草で育ち小中同級生の三人はそれぞれの道を歩いての再会であった。ところが、三郎の兄貴分がユキをかくまうことが自分の所属する組にとってまずく自分の身も危ぶないこととなる。三郎は兄貴分からユキを連れてくるように言われる。ユキに心を寄せ始めた三郎はそれに逆らいリンチを受けつつもユキを助けることになる。もう一人ユキの兄の高橋英樹さん(田島英二)が登場する。ユキの本当の兄ではないが叔母のところを飛び出し行方不明になっていたが、今はボクシングの新人戦を目指し、ユキの倖せのために助力するのである。三郎が嫌な命令には従うなと仲間たちに訴え、最後はハッピーエンドとなる。

 

先に映画『上を向いて歩こう』(1962年)があり、舛田利雄監督をはじめ出演者も同じである。坂本九さんの主題歌『ひとりぼっちの二人』も作詞・永六輔さん、作曲・中村八大さんである。坂本九さんのキャラが光っていて、九ちゃんの音楽性とコメディぶりが見ものでもある。

 

とにかく浅草たっぷりの映画である。逃げる立場であるから吉永小百合さん中心に走る、走るで、観ている方も浅草の風景を早回しで観ているような感じであるが、花やしきの人口衛星塔のゴンドラが映像の中では主役級であった。この映画の浅草については『昭和浅草映画地図』(中村実男著)で詳しく書かれているので読んでから観ると映画の中の浅草の風景への集中度がちがうであろう。

 

吉永小百合さんの芸者役では『夢千代日記』のどこか儚さの漂う夢千代さんが代表的であるが、映画『長崎ぶらぶら節』の愛八さんもいい。三味線を芸者の刀にしているようなきりっとした名妓ぶりである。大衆演劇で『ぶらぶら節』を踊るのを観たが着流しであった。悪くはなかったが映画の関係上芸者姿でのが観たかった。

 

先頃、松竹映画で吉永さんののデビュー作映画『朝を呼ぶ口笛』(1959年・生駒千里監督)を観た。『ひとりぼっちの二人だが』は高校に行けない若者の屈折した部分も描かれているが、『朝を呼ぶ口笛』は、新聞配達をしつつ高校受験を目指す中学生を周囲の皆が応援するという内容である。吉永さんは、主人公を励ます配達先のお嬢さんの役で、彼女は引っ越すことになるが彼女とさよならしつつも主人公は元気に新聞配達に励むラストとなる。映画『朝を呼ぶ口笛』ではビルの上から浅草方面が見える映像があり、仁丹塔が見えていた。

 

北原白秋の小田原散策道

新元号の文字「令和」を見て「命令」がぱっと浮かび「命令に和す」と思いました。「れいわ」。響きがいいです。「令」が「よい」という意味があるとは知りませんでした。元号にならなければ一生知らないで終わったかもしれません。「令嬢」、「令息」、「令夫人」は周囲にいないので思い浮かばなかった。漢字は奥が深い。

現皇太子さまは皇太子妃が病と日々闘われていることを深く理解され、そのサポートをしっかりなされておられる。そのお姿は美しい令月のようでもあるからして、美しく優しい時代となるのではないかと期待しているのである。おそらくこのままでいくと私は令和の時代にこの世を去るであろうから良き時代であったと思って去りたいものである。

言葉に様々な解釈があるように旅もまた、その場所に行ってみればそのもっと前の時代の痕跡が残っており、やはり時の流れというものは、その都度その都度過去を思い出させるものなのだと感じてしまった。

小田原は北条氏の城下町で秀吉に攻め滅ぼされてしまう。それでも小田原城は北条氏の城として今も人気を集めている。今回はお城ではなく北原白秋が小田原に住んでいたときに散策したであろう道を歩くことであった。小田原は白秋さんにとって童謡を沢山創作した場所でもあり、生活的にも家庭的にも精神的にも穏やかな場所であった。白秋さんが歩いたと思われる道を整備して散策できるようになっているのを知って数年たちやっと実行できた。

「小田原の白秋散策道」とでも検索すれば散策路の地図を入手できるし、小田原観光協会にもあると思う。JR小田原駅の西口から出発して白秋さんの童謡の書かれた案内板をながめつつ歩くことになる。『からたちの花』が生まれるきっかけとなった水之尾道、野外劇場と称した場所、『木兎(みみづく)の家』の呼ばれる家を建てた伝肇寺(でんじょうじ)境内、最後は白秋が小田原に最初に住んだお花畑から小田原文学館・白秋童謡館にいたるのである。5・5キロ/180分と書かれてあるが、小田原文学館・白秋童謡館は2回行っているので『あわて床屋』の童謡案内板でJR東海道線にぶつかり、そこからJR小田原駅にもどった。このもどりが結構歩いた。

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やはり歩いて見てわかったのであるが、この白秋童謡散策路は白秋さんの道としても面白いが、小田原城の中ともいえるのである。所々に小田原城の堀と土塁の跡が残っており距離的に近いのでそちらを眺めに行ったりした。小田原城は堀と土塁で周囲9㎞にわたる総構を構築し、それ以前には総構の内側に新堀と呼ばれる外郭があり、その新堀と土塁の名残りが残っていてそれがまた美しい曲線となっているのである。小田原城の総構などに興味のある方は、白秋散策路がお薦めである。京都の北野天満宮の御土居を見れなかったので、小田原城の総構が見れて満足である。

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そして秀吉さんである。小田原城攻めである。途中で、秀吉軍が相模湾も含め小田原城を包囲している図もあり白秋さんが「野外劇場」と称した場所は、小田原城を攻める敵方の動向が見える場所でもあったわけで、相模湾まで観える絶景の場所なのです。白秋さんが散策してしていたのは小田原城からの眺めでもあったのです。美しい風景が堪能できる場所で、白秋さんんの観た景色を眺めることができますが、時間をさかのぼれば戦場でもあったわけです。

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今は白秋さんが観たときより開発されているでしょうが、趣のある散策路です。総構の後には桜が満開で、途中の道には桜、桃、実を付けた柑橘類の木、下には菜の花と狭い場所に春の彩を人工的ではなく全く我関せずの自然さで招待してくれました。才能があれば童謡か詩の一つもできそうな道です。トゲのあるからたちの木もありました。アニメ映画の怪しい場所に出てきそうなくらいとげとげしく入り組んだ裸の枝の木でした。

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三の丸新堀土塁から伝肇寺までは下りながら相模湾を眺めるという道で、登っただけの価値はある散策路でした。総構に出会えたのはよかったですが疲れた。秀吉は小田原城を包囲し時間がかかるからと家臣たちに妻などを呼びよせることを許します。そして自分も茶々を呼び寄せるのである。ただし、茶々を呼びたいのでそちから言い伝えて欲しいとねねに手紙を書いている。そういうことは正室から側室に伝えるのが筋だったようで、本妻の承諾を得ているのである。そんなこともあった小田原城攻めである。

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童謡案内板は『赤い鳥小鳥』『待ちぼうけ』『ペチカ』『揺籠のうた』『からたちの花』『この道』『砂山』『あわて床屋』である。唱歌は学校教育として作られた歌であり童謡は子どもたちに歌って欲しいとして創作した歌である。川村三郎さんが映画『二十四の瞳』で『あわて床屋』や『七つの子』などの童謡が歌われるのは高峰秀子演じる大石先生が子供たちを教室の外に連れ出した時や遠足の時など教室外であると指摘されている。(『白秋望景』)桜は、桜の下で子供たちが遊んでいる姿が一番合っているように思う。シネマ歌舞伎『野田版 桜の森の満開の下』も始まります。

今お気に入りの花は、花桃の照手シリーズの白です。近くに咲いていてまだ小さい木なのだが、上に伸びた枝にもこもこっと縦一列に咲いているのである。名札をみて、照手シリーズがあるのだと知った。綿のようにもこもこっと花をつけて小さな固まりをつくっていて、まだ時には冷たい風におしくらまんじゅうをしているようなのである。

さてもう一つ白秋関連の場所へいった。市川市の里見公園である。そこに、白秋さんが小岩時代に住んでいた家「紫烟草舎(しえんそうしゃ)」があり、「桜まつり」のとき公開しているということなので出かけた。ここがまたお城跡なのである。そこにいくまでの道がこれまた白秋さん関連の道でもある。そのことはいつかまたである。

追記: 帰り道、小田原駅の東口のそばに「小田原市民交流センター」というのがあり寄ってみた。そこで、「小田原ガイド協会養成講座 自主研究発表会」展示をやっていた。パネルに研究発表が張られていたがゆっくりながめる気力がなかったのでレジメをいただいてきた。それを読ませて貰ったら興味湧く報告でした。

三件あった。『北条氏綱の軌跡』(早雲の嫡男で北条氏二代目である。北条早雲が初代であるが、北条は後の名前で伊勢氏を名のっていた。二代目が北条氏を名のったのである。二代目の政治的手腕について。) 『今昔 国府津駅と御殿場線』(御殿場線はもとは東海道線であった。丹那トンネルができ今の国府津駅から熱海、三島、沼津の東海道線ができたのである。) 『小田原の領主ゆかりの寺院』(その一つ、枝垂桜で有名な長興山紹太寺は稲葉氏ゆかりの寺院であった。)簡単に書かせてもらいましたがもっと多くのことを教えてもらいました。素晴らしい活動です。7日(日)まで。

京マチ子映画祭・『有楽町で逢いましょう』と『七之助特別舞踏公演』

映画『有楽町で逢いましょう』(1958年・島耕二監督)と『七之助特別舞踏公演』とどんな関係があるのかと言えば、七之助さんのトークからつながってしまったのである。千葉市民会館での鑑賞だったのであるが、七之助さん市民会館から千葉駅へむかいぐるっと回って市民会館まで散策したのだそうである。駅が大きくて「そごう」があって凄いですねと話される。千葉市民会館の緞帳には「千葉そごう」の名があったので、こちらはその前から反応していたので、さらに反応してしまった。

 

映画『有楽町で逢いましょう』は、フランク永井さんの歌の『有楽町で逢いましょう』の歌謡映画ともいえるが、歌は「そごうデパート」の宣伝用でもあった。今はもう宣伝ソングとは知らずにフランク永井さんの代表曲として受け入れられている。こちらもそんな話を聞いたことがあるなと思いつつ映画を観るまでどこかに飛んでいた。映画を観て、この歌は、フランク永井さんのあの声と佇まいのダンディな雰囲気が成功し、有楽町のそごうがあこがれの場所となったことが想像できた。その後この歌は自立し、大人の恋の歌となる。

 

有楽町駅前の読売会館に「そごう」が東京進出を果たしたが、閉店して今はビックカメラが入っている。その同じ建物の8階の映画館で『有楽町で逢いましょう』の映画を観ているのであるから不思議な感じであった。映画を観終ってから建物を眺めたが映画の中のおしゃれさはないが、建物はそのまま残っていて、そばにレンガ造りの電車の高架下も残っており今もそのアーチ下を通れるのは嬉しいことである。映画を観ると、二階の喫茶に座りレンガの高架を走る電車も実際に見たかったと思う。この建物は今も電車から見ることができる。

 

有楽町の「そごう」は、都庁が西新宿に移転、それが大きな痛手であったようである。都庁あとが東京フォーラムである。大阪の心斎橋にあったそごうも今は無いようである。有楽町の「そごう」に入ったことは無いように思う。

 

映画『有楽町で逢いましょう』は、クレジットが入る前にフランク永井さんが『有楽町で逢いましょう』を歌う映像がでる。フランク永井さんが出るのはそこだけで映画の流れとの関連性はなく、斬新である。そして大阪城が映り、パリから帰った新進デザイナー・小柳亜矢(京マチ子)が大阪のそごうでファッションショーを開いている。映画は東京と大阪を行ったり来たりもする。亜矢は今は東京に住んでいるが大阪生まれである。早々、東京の有楽町のそごうでもファッションショーを開く。エスカレーターを使ってのショーで、おそらく今のエスカレーターであろう。

 

弟で大学生の武志(川口浩)と亜矢のお客で大学生の篠原加奈(野添ひとみ)が、ひょんなことから恋仲になる。加奈の兄・練太郎(菅原謙二)は建築技師で大阪から東京への列車の中で亜矢とは偶然顔見知りであった。歌の歌詞は若い武志と加奈の恋愛模様に合っている。武志は家出して大阪に住んでいたころのばあや(浪花千栄子)の家に転がり込む。東京の家には祖母(北林谷栄)がいて、若い者をそれとなく後押ししている。大阪と東京の二人の老女の演技もそれぞれに光っている。

 

歌の『有楽町で逢いましょう』のB面が『夢見る乙女』で、道頓堀と思うが武志とばあやの娘がボートに乗っていてそこから『夢見る乙女』を歌っている藤本二三代さんが見える。歌詞が「花の街かど有楽町で 青い月夜の心斎橋で」で始まる。大阪から東京へのそごう店を意識して使われたのかもしれないが、映画の中の武志はこの歌から東京の加奈を思い出す。そして加奈は武志を想っている。この二人のデート場所が有楽町のそごう二階のティ―ルームなのである。その下に女神像が掲げられていたらしい。入ってすぐにティ―ルームへの階段がありおしゃれである。

 

大阪のばあやの家で亜矢と武志そして練太郎も加わり若い二人のことを話し合う。亜矢と練太郎も言いたいことを言い合っていたが好意をもったらしい。二人は大阪の帰り、仕事、仕事、と忙し過ぎるからと箱根に寄ってゆっくりする予定が、やはり仕事優先となる。そして「有楽町で逢いましょう。もっと頻繁に。」ということになるのである。軽いコメディタッチの娯楽映画であり楽しめる映画である。京マチ子さんのデザイナーとしての洋服も着物もしっかり着こなしていて仕事優先の気持ちが伝わる。

 

菅原謙二さんの建築現場から江戸城が見えておりあの近辺の開発も急ピッチですすんでいたのであろう。かつてはその中で高級感と新しさの夢を売っていたのが、今は欲しい物を安く手に入れようという庶民の買い物の場所になっており時代の流れである。他の開発が周囲に影響を与えると言う事は多い。

 

ここからが、七之助さんの驚いた話しにつながるのである。七之助さんは、千葉駅と駅前が高層化していて驚いたのである。そしてなるほどと思って歩き進み橋を渡ったところから、風景が一変したのだそうである。摩訶不思議な気持ちで市民会館にもどられたようでその話をしてくれたわけである。会場、会場で違う話がでてくるのだそうであるが、司会の澤村國久さんが、地元の話しがこんなに出たのは初めてですねと言われていた。

 

少し調べてみたところ、千葉市民会館の場所がかつてのJR千葉駅だったのです。ですからそこから伸びる栄町と言われる町はかつては活気ある千葉の商店街だったのでしょう。ところが戦災に合いその後千葉駅はそこから西に移動して建てられ開発もそちらに移動してしまったわけで、今の千葉駅前があるわけです。そういう事情があって七之助さんが歩かれた場所は開発とはほど遠い地域となってしまったところのようです。七之助さん、その落差に初めて歩いた街で突然遭遇し驚かれたのでしょう。

 

さて舞台のほうですが、舞踊『於染久松色読販より 隅田川千種濡事(すみだがわちぐさのぬれごと)』の四役早替りにの七之助さんには観客は声をだして驚かれていました。歌舞伎座の見慣れたお客さまとは違う新鮮な驚きかたです。帰りの出口のところではポスターを見て、こんなに全部演じていたかしらできるわけがないと主張されているかたもいました。どこで替わったのかしら、どこか解らないけど替わったのよ、などの声もあり、もめないでお帰りくださいと思いました。主張するかたのお気持ちもわかります。とてもスピーディーにスムーズでかつ美しい早替わりでした。

 

トークの時に登場人物やどんな関係かも説明され入りやすかったと思いますが、お光、お染、久松、お六とそれぞれの役が一人一人にうつりました。だからお客さまも同じ人が演じているわけがないと思われたのでしょう。お光の久松を想っての踊りがやはり心に残りました。(猿廻し夫婦・いてう、國久)鶴松さんの舞踊『汐汲』は扱う物も多いのでそのバランスなどに目をとられてしまうところがありました。可憐さがありますが、物語の世界と登場人物と同じ気持ちに入り込めるところまでには至りませんでした。時間がたってみると両演目とも、もう一度観てたしかめたいなあという気分である。

 

時代の移り変わりで街も変われば、役者さんたちの成長も変わって来る。しかし芸は、伝えたいと思う気持ちと踏ん張りどころで、伝えたいことはつながっていくのではないだろうか。それにしても、変化に飛んだお話と舞台でよい刺激をいただき、さらに大阪から有楽町そして千葉へとつながりました。

 

追記: Eテレの『にっぽんの芸能』で「中村七之助 歌舞伎の里に舞う」の放送あり。4月5日(金) 午後11:00~11:55 再放送 4月8日(月) 午後0:00~。

 

関西春の旅『生駒』『大阪』『京都』『湖西・湖北』(4)

近江今津駅から二つ目の駅マキノ駅で下車するグループのかたがいた。今人気のメタセコイア並木へでもいくのであろうか。こちらはさらに進み近江塩津で乗り換えて二ケ所目途中下車の余呉駅。余呉湖がある。ここは湖北にあたる。湖北は戦国時代の戦場の舞台でもある。「姉川の戦い」「賤ヶ岳の戦い」など。賤ヶ岳古戦場へは、余呉湖を半周して閉館している国民宿舎余呉湖荘のそばから登ることもできる。楽にいくなら木ノ本駅からバスとリフトを使うのがよいのであろう。

 

余呉湖をレンタルサイクルで一周もできるのでその予定だったが、のんびりと眺めることにする。余呉湖観光館があるところまでぶらぶらと。中に入ると清掃しているかたが申しわけなさそうに今日は休館なんですと言われる。余呉湖ってどうしてできたのですかと尋ねるとパソコンから印刷して下さった。ありがとうございました。琵琶湖とは賤ヶ岳で隔たれていて遠い遠い昔は琵琶湖の一部だったらしい。安土・桃山時代に湖の氾濫防止のため現在の高田川が排水路として掘られている。パンフレットなどをもらって外の案内板などをながめる。

 

案内板に「賤ヶ岳の戦い」の秀吉と勝家の陣地と進路やぶつかった場所などが描かれていて、これが面白い。これパンフレットにしてくれると嬉しいのだがとおもう。見ていると賤ヶ岳に登りたくなる。賤ヶ岳の上から琵琶湖と余呉湖が見たいものである。余呉湖には、柳に羽衣をかけたという天女伝説もある。天女と村人との間に生まれたの男の子が菅原道真公で、幼い頃預けられたという菅山寺がある。北野天満宮からお話が羽衣に乗って追いかけてきたようである。秀吉さんは北野天満宮から過去にもどっての登場であった。

 

『琵琶湖周航の歌』の資料館で6番までの歌詞と歌碑のある場所を示し、琵琶湖を取り巻く神社・仏閣などを記した絵葉書を売っていた。琵琶湖周辺の名所どころなどが一望して描かれていてすぐれものである。拡大コピーして使おうと思う。鈴鹿山、油日神社、石山寺、比叡山、鯖街道、余呉湖、伊吹山、湖東三山などがぐっるっと取り囲んでいる。湖北は美しい仏像群がおわす地域でもある。三ケ所目の途中下車は、高月駅。めざすは歩いて10分の向源寺(渡岸寺)である。

 

渡岸寺(どうがんじ)の十一面観音立像は三回目の対面である。一回目はツアーで訪れたのである。この辺りは交通の便がよくないのでほかの仏像を拝観するなら車でなければツアーとなる。そして二回目が東京国立博物館。今回は、お寺の案内人さんつきでの独り占めの贅沢な拝観である。ツアーのときは修学旅行のようでわさわさしていたが時間の流れが違う。頭上にある十一面観音が、左右の耳の後ろに二面ある。そして大きな耳飾りをされているのである。アンバラスになりそうなものであるが、その優雅さは損なわれるどころか素晴らしい調和となっている。そしてさらに全体像を美しくしている。

 

ここの仏さまたちは、浅井・朝倉と織田信長との「姉川の戦い」で戦火にみまわれてしまうのである。その時の住職巧円と土地の人々が外に運びだし土に埋めてお守りした。民家のような場所で守られたこともあったが、明治に入って国宝となる仏像もあり近畿一円の人々の浄財により本堂が建立され、さらに十一面観音立像が国宝となり重文の大日如来坐像とともに収納庫に移されたのである。

 

高月駅に井上靖さんが駒澤晃写真集「湖北妙音」に書かれた序文と小説『星と祭』の一部が紹介されていた。渡岸寺観音堂に井上靖さん筆による「慈眼 秋風 湖北の寺」の文学碑があり、高月駅そばの大きな石灯籠にも同じ文が見える。井上靖さんといえば、今は映画『わが母の記』のイメージが強いので小説『星と祭』あたりでも読むことにしよう。

 

今回の旅、締めが渡岸寺の十一面観音立像というのもよかった。駅そばの総合案内所で荷物を預かってくれ、近いのだがわかりやすく渡岸寺観音堂への道を教えてくれた。井上靖さんが書かれている。

 

「この湖北の旅で知った最もすばらしことは、こうした湖北の仏さまたちが、鎮護国家とか仏法守護とか、そういったものとは、さして関係なく、専ら地方庶民の生活の中に入り込んで、素朴で、切実な庶民の信仰の対象になっていることであった。」「それからもう一つすばらしいことは、永年に亘って、その集落の守り本尊である仏さまたちを、代々、村人たちが守って来ているということである。」

 

関西春の旅『生駒』『大阪』『京都』『湖西・湖北』(3)

JR湖西線は山科、西大津と琵琶湖の西に向かうのである。堅田までは行ったことがあるが、今回はさらに近江塩津まで行きそこから米原まで回ってくるのである。電車は敦賀行きで京都から北陸がこんなに近いのだと実感である。そのまま北陸に行きたい気分であった。今度体験してみよう。

時間がかかるので観光は駅から近いところを選ぶ。菅浦とか旧塩津宿など琵琶湖そばまで行きたいが路線バス旅行の計画が必要である。鯖街道の拠点朽木へも行ってみたい。というわけで、次々浮かぶが今回は駅から徒歩で行ける場所を三か所選んだ。

一か所目は近江今津駅から2分の『琵琶湖周航の歌』の資料館と歌碑である。『琵琶湖周航の歌』と『琵琶湖哀歌』が混同されているところがある。私も琵琶湖でボート遭難事故で亡くなったのが三高(京都大学)の学生と思っていた。金沢に行って四高(金沢大学)の学生であったと知ったのである。『琵琶湖周航の歌』は、やはり三高のボート部に所属していた小口太郎さんが琵琶湖周航中その美しさに、今津湖岸の宿で披露したのが『琵琶湖周航の歌』の詩である。これに当時学生たちが歌っていた『ひつじぐさ』の曲にのせたところ上手く合い、その後クルー仲間が歌い始めたのが始まりだそうである。『ひつじぐさ』は吉田千秋さんが作曲されたもので、詩ができたのが1917年(大正6年)である。

作詞、作曲のお二人は若くして亡くなられていた。小口太郎(長野・岡谷市出身)さんは27歳で、吉田千秋(新潟市出身)さんは24歳であった。

このあとに生まれたのが四校のボート部の合宿での遭難事故の鎮魂歌『琵琶湖哀歌』(作詞・奥野椰子夫、作曲・菊池博)である。遭難事故は1941年(昭和16年)である。この歌のほうが先に人々に知られるようになる。曲も似ているのである。ところが、戦時下、士気を損なうとして哀歌は歌うことが禁止されてしまう。戦後になってようやく心おきなく歌われるようになったのである。この遭難事故の日、地元の人は琵琶湖にでるのはやめたほうが良いと言われたそうである。この時期「比良の八荒、荒れ仕舞い」と呼ぶ大しけが発生するのである。

比良山(蓬莱山、武奈ケ岳、打見山などの高峰)と琵琶湖の気温差から山麓一帯に強い北西の季節風が吹き琵琶湖は大しけとなる自然現象があり、この荒れが長い冬の終わりで春の訪れなのだそうである。今年も3月26日に、「比良八講」という水への祈りが行われる案内があった。滋賀・京阪神地域の水瓶をつかさどる琵琶湖への報恩と、その水源である比良山系の保全・水難者回向と湖上安全祈願を捧げる法要である。(近江舞子湖畔にて開催) 悲恋伝説「比良八荒」という説話もある。

琵琶湖周航の歌』にもどると、今津が歌の発祥の地であることは、小口太郎さんが寄宿舎に残っていた学友へのハガキや学友の記憶でも明らかで1917年(大正6年)6月28日である。湖岸に歌碑があるがそこから見る琵琶湖はやはり美しかった。歌詞は六番まであって今津が出てくるのが三番である。

「浪のまにまに漂えば 赤い泊火なつかしみ 行方さだめぬ波枕 今日は今津か長浜か」

資料館では、色々な歌手の方の声やオーケストラ、ギター、大正琴の楽器などの『琵琶湖周航の歌』を聞くことができる。全てさわりだけ聞いたが、映画『有楽町で逢いましょう』の映画を観たばかりだったので、フランク永井さんの声に反応してしまった。係りの方が『琵琶湖哀歌』と『七里ケ浜の哀歌』も曲が似ていますから聴いてみてくださいと教えてくれた。『ひつじぐさ』もあった。美しさと哀しさを味わうこととなった。吉田千秋さんは肺結核で茅ヶ崎南湖院に入院していた時期もあった。そうか吉田千秋さんんもあそこに入院されたのかと感慨深かった。

今津には、ヴォ―リズが設計した建物が残っている。ヴォ―リズ通りに「今津ヴォ―リズ資料館」「日本基督教団今津教会」「旧今津郵便局」と並んでいる。もう一つ離れて個人宅の前川邸があるらしいがそこは見なかった。ヴォ―リズさんの洋館は近江八幡に多くあり有名であるが、湖西では今津が数が多い。それにしてもヴォ―リズさん随分沢山の洋館を残されたものである。やはり伝道という情熱が形となって表されたのであろう。

観光案内のかたが、かつての今津の駅が残っていますからそちらもと教えてくれたのでせっかくだからとそこを見てから駅に向かったが、ヴォ―リズさんの設計した建物と同じようにもう少しきちんとして残して欲しい。何か旧駅舎可哀想であった。江若鉄道 近江今津駅とあった。江若鉄道はJR湖西線が走る前、大津市の浜大津駅から近江今津駅まで走っていた路線である。琵琶湖の西にも色々な歴史があったわけである。

関西春の旅『生駒』『大阪』『京都』『湖西・湖北』(2)

2日目の午前中は北野天満宮方面へ。先ずは『大報恩寺』(千本釈迦堂)。 東京国立博物館『京都大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ』 かなり早い実行である。本堂が鎌倉初期に開創された当時のままで、応仁・文明の乱にも両陣営から保護されて残ったのである。開祖の義空上人は、藤原秀衡の孫にあたるそうである。

 

本堂の建立には棟梁・高次の妻のおかめさんが貢献している。高次は上棟式を目前にして大切な四天柱の一本をあやまって切り落としてしまった。替りの柱を探したがみつかりません。おかめさん、仮堂に安置されているご本尊に自分の命とひきかえに夫を助けてほしいと必死に祈りました。ご本尊の膝元に光り輝く「斗栱(ますぐみ)」が目にうつります。そして、柱を短い柱に切りそろえ、「ますぐみ」で高さを補えば良いと夫に提案したのです。高次はそれを取り入れゆるやかな屋根、安定感のある本堂の骨格を生み出したのです。

 

上棟式に、義空上人署名の棟木棟札があげられその上部に末広を円形に組み「おかめ」の面をおさめます。高次は本堂が妻の「おかめ」の心とともにいつまでも伝承されることを祈りました。集まった人々も生前の「おかめ」さんが帰って来たと手を合わせました。(ということはおかめさんは亡くなったのでしょう。)義空上人はおかめさんの女徳を顕彰し境内に塚を建て、その塚を誰言うともなく「おかめ塚」と呼ぶようになりました。

 

江戸時代には「おかめ多福招来」の信仰が全国に広がる。商人には増幅繁栄の功徳とされたのです。なるほど、熊手におかめさんが飾られるのはそういう信仰のつながりだったのですか。今は境内におかめさんの銅像があり、本堂の中にもたくさんのおかめさんの人形が飾られています。阿亀桜(おかめざくら)と呼ばれている枝垂れ桜もありましたが硬いつぼみでした。

 

みほとけさまたちは、霊宝館に納められています。上野の国立博物館では、照明などで幻想的な雰囲気の中での拝観でしたが、霊宝館ではもっと明るく身近で、お顔の表情もよくわかる。仏師の彫刻刀がいかに繊細な動きをしてこのお姿を創り上げっていったかが想像できる。見守られているというより反対にいとおしく感じられる。十大弟子もリアルさが増し、修業の過酷さと一心さが伝わってくる。

 

その場所、その場所で、どこにおられても新たなお姿を見せてくれるとは、仏師の手を離れて何かが宿られ、それが放出されているのであろう。

 

上七軒通りを歩く。静かな落ち着きのある通りである。上七軒歌舞練場では3月25日から4月7日まで「北野をどり」が始まるらしい。来年はこれに合わせて再来も考慮しようか。歌舞練場には喫茶室もあり普段も中に入れるようである。

 

上七軒通りは北野天満宮につながっているが、天満宮の裏を通って先に『平野神社』へ。昨年の台風21号で拝殿の柱が折れ屋根が崩落していた。拝殿のみ囲われ周囲は綺麗にかたづけられていた。ここには多種類の桜が植えられていて名前が紹介されていた。咲いていたのは「10月桜」(冬桜)。釘隠しなどに使われる金属の装飾があるが、それがハートの模様で「猪目(いのめ)」というのだそうで、「ハートを見つけましょう」との案内があり見つけることができました。

 

「菊花紋、ハート、桜の神紋の三点セットは、京都中、いや、世界中で、ここ平野神社だけです。」とありました。今年も拝殿の再建を願って多種類の桜が咲くことでしょう。

 

北野天満宮』はまだ梅が咲いていて、末社『文子天満宮』というのがありました。道真公が亡くなられ40年を経て、現在の京都下京区千本通り七条あたりに住む巫女の多治比文子に菅公の神霊より、わが魂を現境内地に祭れとのお告げがあり、文子はとりあえず自宅に菅公の御霊をお祭りしたのが北野天満宮の発祥で、その後お告げの場所に移された。文子邸跡には神殿ができ『文子天満宮』と呼ばれ、それが明治に入って現在地に移されたのだそうである。

 

興味を引いたのが「豊臣秀吉公の都市遺構 史跡 御土居(おどい)」。御土居というのは秀吉が戦乱で荒れ果てた京を外敵の来襲や、鴨川の氾濫から市街を守る堤防の土塁のことで、御土居を築くにあたりこの清浄なる境内に水が溜まらないように、この地にだけ御土居を貫通する約二十メートルの暗渠(あんきょ・悪水抜き)を造り、境内の神域を守ったとある。ただ場所がよくわからなかった。

 

梅苑が公開されていたが入らなかった。どうもそこから御土居の散策道がつながっていたようである。知っていれば梅がなくても入ったのであるが。紅葉と青もみじの時期も公開するようである。地図を見たら北野天満宮の北門と平野神社の間の天神川(紙屋川)沿いにも史跡御土居が記されていた。心残りである。御土居を知っただけで良しとしよう。南座観劇前の充実した時間であったのだから。

 

関西春の旅『生駒』『大阪』『京都』『湖西・湖北』(1)

南座『坂東玉三郎特別公演』観劇にセットした関西春の旅であるが、京都は『大報恩寺』を先ず計画に入れた。国立博物館で拝観したあの六観音菩薩像と十大弟子との『大報恩寺』での再会の実行である。そして湖西線で琵琶湖の西をたどること。計画の途中で、生駒山というのが奈良と大阪の県境にあり、近鉄奈良線生駒駅からケーブルでいけるという情報をキャッチ。調べて見ると途中に宝山寺があり、なかなか良さそうである。

 

京都から生駒山や宝山寺への交通など調べていたら、映画『男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎』で寅さんが生駒の宝山寺へ行っていると言う。マドンナは松坂慶子さんでさっそくDVDを観る。瀬戸内海のある小島でふみさん(松坂慶子)と出会う寅さん。そして大阪で再会。通天閣の新世界が出て来て、大阪の役者さんや芸人さんが登場(芦屋雁之助、初音礼子、正司照枝、正司花江、大村崑、笑福亭松鶴)し、寅さんとの間が可笑しくて泣かせる映画であった。ふみさんは大阪で芸者をしていたのである。松坂さんが美しい。

 

寅さんは大阪が嫌いであった。大阪では江戸っ子の寅さんの話術が通用しなくて商売にならないのである。売っているのが愛の水中花。ところがふみさんがいるとなれば嫌いな場所も好きになってしまう。ふみさんとデートしたのが生駒の宝山寺なのである。ケーブルカーも映りました。今は可愛いい犬や猫の顔のケーブルカーが活躍しています。寅さんが泊っている新世界ホテルのロビーに、ロビーといえるのかどうか疑問符であるが、そこに朝日劇場の大衆演劇のポスターが貼ってあった。というわけで生駒山から大阪の新世界へのコースを加え大衆演劇を観ることにする。

 

近頃自分の旅の途中でのミスもでてきた。今回は、現金を補充するのを忘れていた。「すぐ忘れる」ことを「仕事の出来る人はすぐやる」に変えて思い出した時に実行を心がけているが、お金の補充と思った時、あとであちらに入れようと思ったのが間違いのもとである。東京駅の新幹線の改札で思い出した。とにかく交通系ICカードにチャージしょうとチャージ場所を駅員さんに尋ねたら、あそこにありますと教えてくれるが、現金のみのチャージだという。クレジットのチャージはないかしらとたずねると、この後ろにありますと教えてくれたが、その後の一言が疑問。ここは東海改札ですから。

 

意味不明。あなた何を言いたいの。東京から熱海で交通系ICカードで通れなかった事と同じかな。JR東日本とJR東海のややこしい境界線がここにもあるのかしら。まあとにかくチャージできてこれでコンビニの買い物は大丈夫であるが、一度もやったことのないキャッシングを試みる。現金が出て来た時にはホッとした。今の災害多発の時代で現金のない旅なんて不安すぎる。先ずは解決。

 

近鉄の生駒駅からケーブルカーの鳥居前駅までは順調に進んだ。このケーブルカーが鳥居前駅から宝山寺駅まで行って、乗り換えて生駒山上駅まで行くのである。宝山寺駅までは猫と犬のケーブルカーがすれ違うのであるが、猫がニャ~ンと泣くのである。子供たちは喜んでいる。日本最古のケーブルカーなのだそうで、かなり登るが宝山寺駅まで住宅が続いていてケーブルカーでのこんな風景は初めてである。

 

宝山寺駅の構内に八大龍王の鳥居があった。

 

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鳥居だけを見て今度は生駒山上駅行きに乗り換えである。ドレミとスイートの電車がある。スイートの電車に乗車。

 

 

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生駒山上駅までの途中雨が雹に変わってしまった。驚きである。生駒山上には遊園地があり、こちらは山からの景色を眺めたいと思ったのだが無理である。下りて宝山寺へ行こうかと思ったが、相当の階段数のようである。一時的とは思うがどうも天候の急変で気が乗らない。こういう時はやめにする。次に取っておくことにし大阪方面へ。石切駅というのがあった。『石切梶原』を思い出す。帰ってから映画を観なおしたら、寅さんとふみさんが再会していたのが、石切神社の石切参道商店街であった。了解である。

 

新世界で散策していると福永大神の鳥居が。新世界稲荷神社のらしい。狐ではなく猫が拝殿を独占していた。

 

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二回目の朝日劇場である。ここでもお芝居に雪が登場。大量の雪でお芝居の臨場感を出しているが、よくこれだけの雪を劇場が許可すると思う。近頃そんな裏事情も気になったりする。片づけが大変である。大劇場とは違う大衆演劇の限られた中での工夫も観ていて面白い。伴奏に津軽三味線あり、太鼓あり。舞踏ショーの掛け声がみんな一緒にもあってこれは劇団によるのであろうか。関東のほうがそれぞれの感がある。関西のほうが役者さん同士のいじりのテンポが軽くて上手い。楽しめた。

 

映画で芦屋雁之助さんが、大阪と東京の感じ方の違いやなあとぼやく場面を思い出す。ちゃう。ちゃう。寅さんだけの特殊な感じ方である。これでお勘定をとふみさんに渡したお財布の中は・・・。お金が無くてもおたおたしてはいけないのである。

 

南座3月歌舞伎『壇浦兜軍記』『太刀盗人』『傾城雪吉原』

壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき) 阿古屋』は、おそらくこの後しばらくは上演がないであろうとの予想で南座へ。2月に文楽の第三部でも上演されこちらも観劇したので「阿古屋づくし」の感がある。

 

文楽では人形が三曲の演奏者(寛太郎)の音に合わせて手や指を動かすのである。国立劇場のHPに阿古屋をつかう桐竹勘十郎さんが動画で説明されているが、観劇してから動画を見た。その説明によると、いつもの右手と違う、お琴と三味線と胡弓のための右手に替わり、左手も指が動く手に替えるのだそうで納得でできた。右手つかいう方と左手つかいの方は別の人であるが、同一人物が動かしているような息の合い具合であった。そして愛らしい人形の指がよく音に合わせて動くのである。演奏方法身につけておられなければあそこまで出来るであろうかと思えた。見惚れてしまった。

 

人形の阿古屋は詮議の途中で髪に右手をちょっとさわるところがあり、これは人形だから爽やかであるが役者さんがやっては変な生々しさが出て合わないなと思わせる箇所もあり、それぞれの違いが多少なりとも目にとまる。人形が不自由でありながら軽快に動かすのであるから、責めとしては人形のほうが健気に見える。そのあたりも役者さんの表現と違う印象を受けるが、人形の遊君阿古屋もやはり意地を感じさせてくれた。文楽の岩永左衛門は人形であるが、歌舞伎の人形振りのような動きではなくもっと自然の動きに近い。

 

文楽の三部のもう一つの演目が『鶊山姫捨松(ひばりやまひめすてのまつ)』で、当麻寺の中将姫の話しである。中将姫が継母にいじめられ雪の中で責められるのであるが、侍女のはからいで責め殺されたことにして命を助けられるというどんでん返しがある。こちらは「中将姫雪責の段」で二演目めが「阿古屋琴責の段」とそれぞれ難局を乗り越えることとなる。面白い並べ方である。

 

歌舞伎の『阿古屋』であるが、京都南座ということもあり、景清が清水寺へ参詣にきたとき五条坂で出会ったという様子が場所柄もあり、物語がずうっと近く感じられる。景清が平家の勢いを無くした時に五条坂の自分のような浮かれ女に心を寄せたとあっては弓矢の恥である。そっと別れはすませましたと言い切る遊君阿古屋の覚悟のほどが遠い時間空間を越えて伝わってくる。

 

若手に伝えるべきことは伝えたということでもあろうか、玉三郎さん、東京の歌舞伎座よりも少しゆったりとして観える。彦三郎さんの重忠のセリフも強弱が出てきていてさらに味わいがでてきそうである。坂東亀蔵さんの岩永もその場その場の可笑し味が出ていて、六郎の功一さんもすっきりとしていた。南座は微かな音も響き阿古屋の髪飾りのゆれてぶつかる音や、懐紙で胸をたたく音も聞こえた。ある面では怖い劇場であると思った。不味い音も捉えてしまいそうである。先ずは『阿古屋』とのお付き合いも満足の中で無事終わらせることができた。

 

太刀盗人』は、彦三郎さんの抜け目のない太刀盗人・すっぱの九郎兵衛の愛嬌振りが出色であった。吉之丞さんのどちらの太刀であろうかの詮議も年寄りすぎて詮議の方法を従者の玉雪さんの意見に従いゆったりとしているのも、すっぱの九郎兵衛にとって都合がよい。それを正直に答えて太刀を盗まれたことを証明しようとする田舎者万兵衛の坂東亀蔵さんも、ついに、自分が先ではそのマネをされると気づく。そこはかとない可笑し味が観ている方の気分を『阿古屋』の緊張感から解放してくれる。

 

傾城雪吉原』は、やっとその世界に浸ることができた。透かしの黒傘で打掛けを広げた形良い玉三郎さんの傾城が中央のセリから上がって来る。黒塗りの高い下駄の足さばきが際立つ。下駄の底についた雪を軽く払うしぐさのようにも見える。雪の白と黒。南座の広さにあっている踊りに思える。透かしの幕が上がると後ろの長唄と囃子の方々の姿が現れ、その後ろに仲之町が遠近法で続く。そこに並ぶ提灯。

 

この提灯だけ赤の透光性のある染料で塗られているそうで、さらに裏から明りをあてる明るさを出すのだそうである。傾城の打掛を脱いだ下の着物の赤と呼応する。舞台はその後、辺りを暗くしてこの提灯だけが灯され、劇場の客席の提灯と一体化する。その他、下手からのライトが傾城に微かにあたり夕陽を想像させ長唄の詞と重なる場面などもある。そして楽し気に音に誘われ傾城が踊る場面では今回気が付いたがお囃子にチャッパとうちわ太鼓が加わっていた。

 

傘の扱い、手紙の扱い、打掛を脱いでの打掛けに気持ちを伝える扱いなどたっぷりと傾城の情感を味わうことができた。最後に重いであろう打掛けを事も無げに着ながら見せる所作の美しさにはまたまたさすがであると思いつつ締めとなる。踊りの中の情景に誘われるヒダの膨らみが深くなっていた。最初にこの踊りを観た時の気分が払拭されて嬉しい事このうえなしです。(「坂東玉三郎特別公演」)