女流義太夫演奏会『合邦辻閻魔堂』と『三井記念美術館』(仏像の姿)

  • 松竹座へ歌舞伎鑑賞で行った時、以前閉まっていた『合邦辻閻魔堂』に再度訪問を果した。無事お参りできた。これで一つ気にかかっていたことを終わらせることができた。そして、無償に『摂州合邦辻(せっしゅうがっぽうがつじ)』の浄瑠璃が聞きたくなった。タイミングよろしくお江戸日本橋亭で女流義太夫演奏会があり聞くことができた。『摂州合邦辻 合邦庵室の段』を浄瑠璃・竹本越若さん、三味線・鶴澤駒治さんである。
  • お辻(玉手御前)が嫁入り先の継子に恋をして、お辻の父・合邦が継子の俊徳丸と許嫁・浅香姫をかくまっているのを知り、合邦庵室に訪ねてくるのである。事情を知っている合邦は家にいれるのを拒みますが母のほうが懇願し入れてやるのである。何んとかお辻の考えを改めさせようとする親とあきらめない娘のやりとりとなる。恋に狂うというがあるがお辻はその典型で、恋に狂う女の妖しさもかもしだされるのである。そこが、女流ならではの妖しさとなって聞かせてくれた。これもまた実はがあるのだが、それは無しとして聴くのが常道である。
  • まじかで聞かせてもらって、三味線の手にも感心してしまった。どうしてこういう好い手がはいるのであろうか。浄瑠璃はそのふしの流れと、三味線の手のシステムがよく分からないのであるが、魅了される。ほんとに不思議である。それに合わせて動く人形。それをさらに人間の身体で表そうとして取り入れた歌舞伎の先人たちにも思いが馳せる。
  • そのほか『絵本太功記 尼ヶ崎の段』(浄瑠璃・竹本越里/三味線・鶴澤津賀榮)、『伽羅先代萩 政岡忠義の段』(浄瑠璃・竹本駒佳/三味線・鶴澤賀寿)、『妹背山婦女庭訓 金殿の段』(浄瑠璃・竹本綾之助/鶴澤津賀花)であった。
  • 義太夫の後は、『三井記念美術館』へ。「仏像の姿(かたち) ~微笑む・飾る・踊る~」仏師がアーティストになる瞬間。「顔」「装飾」「動きとポーズ」に切り口をいれての展示である。こんなお顔が。こんなに前かが身なの。力士さんみたい。風をおこして動いてる。不動明王さまの髪がそれぞれ違うがかつらみたい。さすが力の入った見得。全身飾ってますね。その変化が楽しかった。
  • 東京藝術大学文化保存学(彫刻)とのコラボとして仏像の復刻作品や修復作品なども展示され、寄木作りでは部分、部分がどのようにつながるかも分かりやすく少し離して分解してくれていて、なるほどパーツごとに彫られて一つになるのかと大変参考になった。
  • 正式には東京芸大大学院美術研究科文化財保存学保存修復彫刻研究室(籔内佐斗司教授)のスタッフが制作した薬師如来が、福島県の磐梯町にある史跡慧日寺跡の金堂に納められ、その映像があった。慧日寺(えにちじ)は徳一という人が開いた寺で司馬遼太郎さんが『白河・会津のみち』の「徳一」「大いなる会津人」で書かれている。旧仏教(奈良仏教)を代表して、新仏教(平安仏教)の最澄と論戦し、最澄を苦しめつづけたと。その新しい金堂に平成に作られた薬師如来像が納められたのである。慧日寺の名は忘れていたが、徳一という名前は憶えていて『磐梯とくいつ芸術祭』のチラシにもしかしてあの徳一さんかなと思ったのである。
  • 2018年の『磐梯とくいつ芸術祭』はチラシによると慧日寺資料館で「薬師如来像ができるまで」を紹介しているらしいが、検索してもでてこないので、もし興味があるなら慧日寺資料館に電話で問い合わせるほうがよい。金堂の薬師如来像の拝観も同様に問い合わせられたい。慧日寺跡はいってみたい場所である。何もないとおもっていたので。

10月歌舞伎座『宮島のだんまり』『吉野山』『助六曲輪初花桜』

  • 宮島のだんまり』は、宮島の厳島神社を背景に13人の登場人物が闇の中を動きまわって探り合うのである。赤旗が出てくるので、それをめぐる平家と源氏ということになる。途中でこの赤旗を全員が手に見得を切ったりするので小道具としてもいきる。最初は、大江広元、典侍の局、川津三郎の三人で次々増えてゆき、中心となる傾城浮舟太夫(実は盗賊)が背後中央から姿を見せて消え、さらに増えてゆく。役よりも役者さんは誰とそちらが気になる。

 

  • 観たときは何んとなくどんな人物かを姿でとらえていた。武士、奴、奥女中、姫とか。登場人物名をみて少し探りを入れた。観る前に知っていたらもっと楽しめたであろうと残念に思う。間違っているかもしれないが記しておく。傾城浮舟太夫・盗賊袈裟太郎(扇雀/ほかでのこの名は聴かない。衣裳と最後の引っ込みに注目)、大江広元(錦之助/『頼朝の死』に出てくる。政治に長けた立役)、典侍の局(高麗蔵/『大物浦』で安徳帝を抱える乳母)、相模五郎(歌昇/『大物浦』での注進。衣裳も分かりやすく目立つ)、本田景久(巳之助/くわしくは不明で立役ということでは他にもいるので難しいしどころ)、白拍子祇王(種之助/清盛に愛され捨てられた方で白拍子は分かりいい)、奴団平(隼人/色奴でこれも一目でわかる)

 

  • 今回の舞台は、来年の新春浅草歌舞伎のメンバーが色々な役を受け持ってい、修練の舞台のようでもある。役の衣裳を着させてもらうだけでも勉強になる。新しい春にはどんな役に挑戦することになるか楽しみである。ただ人形振りが二つあるというのは避けていただきたい。歌舞伎初めての観客が『操り三番叟』で、おう!といって興味を示したが、『京人形』では次第にテンションが下がりきみであった。気持ちわかります。興味度を表に出す分かりやすいお客さんでさすが浅草である。

 

  • 息女照姫(鶴松/お姫様)、浅野弾正(吉之丞/浅野長政のことなのであろうか。悪の立役であろうか不明)、御守殿おたき(歌女之丞/『小猿七之助』の奥女中滝川。そろそろ『小猿七之助』が観たい)、悪七兵衛景清(片岡亀蔵/名は分かりやすいが演る方にとっては重い)、河津三郎(萬次郎/曽我五郎、十郎の父。名前はでても、芝居には出てこない方である)、平相国清盛(彌十郎/これまた知られ過ぎていてかえって難易度)

 

  • 書いているともう一回観たくなる。13人を捉えるのは観る方にとってもゲームに挑戦する能力が必要になる。「だんまり」とは「暗闇」とも書くのだそうだ。暗闇でのだんまりとは言わないということか。まあいいでしょう。人間だもの。改ざんされた数字に比べれば。ただ時々やってしまうお名前の間違えは平身低頭である。ご容赦ください。

 

  • 吉野山』は言うことなしの満足である。静御前の玉三郎さんは花道からの出で、たっぷりと見せてくれる。失礼ながら、何が失礼なのかわからないが、勘九郎さんの忠信とぴったりなのである。勘九郎さんがそれだけ成長されたということであろうか。これ以上書くとはげ山になりそうなのでおしまい。

 

  • 玉三郎さんを観たいと友人がいうので先月夜の部の切符を用意してあげた。「『幽玄』、よくわからなかった。」気持ちはわかる。彼女は『鷺娘』で時間が止っているのである。『吉野山』を観せるべきであったかも。こちらも観てみないと決められないのである。海老蔵さんが観たいというので『源氏物語』を。「『源氏物語』は荒事のような張る台詞がないのね。あれが好きなんだけど。」それは『新・新・源氏物語』でもできればあるかもである。「歌舞伎って何か新しく変わってしまったのね。」観せたものがそうだったのであるが、選択の難しい時代ともいえる。

 

  • 今回の『助六曲輪初花桜(すけろくくるわのはつざくら)』はおおいに笑ってしまった。いつもは少々固まって観ていたようにおもう。揚巻の出とか、助六の花道のしどころとかしっかり観なくちゃの意識が働きすぎていた。七之助さんの揚巻は、匂いたつ花魁というより実のあるしっかり者という印象で、それがかえって助六を子供に見せているところが面白い。

 

  • 助六の仁左衛門さんは格好良さが決まっていた。助六は自分というモテモテ男をもっと格好良くみせようとしているのである。よく先人の役者さんはこうでもかというしどころを考案したものである。助六は、どうしたら相手に刀を抜かせられるか、その場その場でアドリブで考え行動しているのである。芝居として形になっているが、ちょっとそれを横に置いておくと現代のコミックも真っ青の行動である。

 

  • お兄ちゃんがまた助六に輪をかけて可笑しい。お兄ちゃんが勘九郎さんだからまたまた可笑しい。この兄弟メチャクチャである。これが成り立って名作となってしまうのであるから、歌舞伎おそろしやである。それに付き合う髭の意休が歌六さんで、ばかめと助六を甘くみていてはいけません。ほらね、やはりはまってしまった。

 

  • 助六に遊ばれるくわんぺら門兵衛の又五郎さんも喜劇性がなじんできました。朝顔仙平の巳之助さんはこういう役はやはり上手い。若衆とはいかにの片岡亀蔵さん。勘三郎さんの通人みましたよ。同じ役の重責を担って彌十郎さんが勘三郎さんに舞台から中村屋兄弟の活躍を報告をされていました。まだ少し繊細な千之助さんの福山かつぎ。男伊達もずらーっと男でござると微動だにしないで脇にひかえていました。さりげなく役目をはたす白菊の歌女之丞さん。大阪で見かけないと思いましたら竹三郎さんは遣り手お辰で江戸でしたか。さすが引き締め役の三浦屋女房の秀太郎さん。傾城はつぼみがはじけそうな白玉の児太郎さん。舞台の板にしっかり根を張り始めた宗之助さん。お名前わからないが堂々とした傾城が声もよくそろっていた。

 

  • 兄弟の母の玉三郎さん。このしっかりした母親だからこそ、こういう兄弟に育ったのか。こういう母親にいいところを見せようと思うからこそ、早く刀を見つけてと無理を通すのか。凄いですこのお母さん。こんな状態では、父に申し訳ないからお墓の前で自害するという。こういう母には勝てません。そして、紙子の着物を助六にお守りとして渡す。無理をすれば破れるのである。考えることが凄いです。こんなにハチャメチャ楽しい芝居だったのだ。そこを格好良くみせてしまうという表と裏の一体感。これだけだまされたら許せます。愉しみました。

 

  • 兄弟の母の玉三郎さん。このしっかりした母親だからこそ、こういう兄弟に育ったのか。こういう母親にいいところを見せようと思うからこそ、早く刀を見つけてと無理を通すのか。凄いですこのお母さん。こんな状態では、父に申し訳ないからお墓の前で自害するという。こういう母には勝てません。そして、紙子の着物を助六にお守りとして渡す。無理をすれば破れるのである。考えることが凄いです。こんなにハチャメチャ楽しい芝居だったのだ。そこを格好良くみせてしまうという表と裏の一体感。これだけだまされたら許せます。愉しみました。

 

歌舞伎座10月『三人吉三巴白浪』『大江山酒呑童子』『佐倉義民伝』

  • 10月の歌舞伎座は、十八世中村勘三郎七回忌追善公演である。一階ロビーに勘三郎さんの遺影が飾られている。『三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)』は、お嬢吉三の七之助さんとお坊吉三の巳之助さん、味が薄かった。台詞やしどころは教えを受けていればその通りに、あるいは相当丁寧に練習されているとは思うが引きつけられなかった。和尚吉三の獅童さんは勘三郎さんの台詞を練習されたように響き、上手く自分の中に取り込まれたように思えた。和尚吉三がでてきて三角形になったように思う。おとせの鶴松さんは生活からくる哀れさが欲しい。可愛らし過ぎた。

 

  • 大江山酒呑童子(おおえやましゅてんどうじ)』は面白かった。勘九郎さんの酒呑童子がいい。こんな童子のお人形があるなと思わせられる。国立劇場で『舞踏・邦楽でよみがえる 東京の明治』の中に『茨木』があった。録画で歌右衛門さんのと茨木童子、松緑さんの渡辺綱を先に観た。歌右衛門さんが最初の伯母真柴のところで、こちらが茨木童子に変わるのだと知っているのに、そのことを忘れさせるくらい綱を想う真柴であった。国立劇場での花柳寿楽さんの茨木童子と花柳基さんの綱も踊りの心の骨格がしっかりされていて良かった。ただ観る条件として、前の方が背の高い方で視野がさえぎられ残念であったが、こればかりは仕方のないことである。

 

  • 国立劇場で、鬼人などに変わるものは、観る方も先ず最初の役の踊りに没頭し、演者も没頭させてくれなくてはいけないのだと確認できた。勘九郎さんの酒呑童子はまさしくその条件にかなっていた。その稚気さ、気持ちをそらさない動きなど大変気にいった。ただ勘九郎さんは膝大丈夫なのであろうかと気になる。かなり以前ドキュメンタリーで膝を悪くされていたのを見て以来、好い踊りを見せられると気にかかるのである。使い続ける箇所なので大切にされてほしい。舞台にでると無理を承知で動かれてしまうことになるのであろうから。

 

  • 扇雀さんの頼光は、八月の『花魁草』のお蝶とはガラっと変わる声質である。頼光が出れば四天王で、平井保昌の錦之助さんを先頭に颯爽とした四天王であった。童子に捕らえられていた女たちの踊りが花を添える。初めて観るような新鮮な『大江山酒呑童子』であった。

 

  • 佐倉義民伝』は、何回観ても泣かされる。命をかけての直訴。命と引き換えても訴えなければならない窮状なのである。二階ロビーには、御本尊宗吾様像が祀られていた。直訴を決めて最後の家族との別れに向かう白鷗さんの宗五郎。お咎めを覚悟で渡しの舟を出す歌六さんの甚兵衛。家に帰ってみると、子供の着物も困っている同郷の人に持たせ、夫の離縁に抗議する女房おさんの七之助さん。七之助さんが芯のしっかりしたところを見せて白鷗さんの慈愛に満ちた宗五郎と上手くマッチして大きな仕事を支える様子がよい。

 

  • ぱっと舞台が紅葉に赤い渡り廊下となる東叡山の場面。苦しむ農民の生活と余りにも違うこの明るさと赤は、血潮さえ思い起こさせる。そこに現れる将軍家綱の勘九郎さんが凛々しく大きい。宗五郎の直訴文を読む松平伊豆守の高麗蔵さん。上書きは投げつけ、直訴文は袂にしまう。安堵する宗五郎。観ている方も涙する。将軍を囲む武家たちの長袴の裃姿の若手さんも美しくきまっていた。

 

  • 友人が『宗吾霊堂』に行った事がないというので夏、甚兵衛渡しまで行くことにした。半日コースと『宗吾霊堂』まえでお蕎麦を食べてからお参り。境内には『御一代記館』があり佐倉惣五郎の一代記が見れる。人形をつかった場面、場面に音声解説がついている。歌舞伎の場面と相似している。『宗吾霊宝殿』には惣五郎ゆかりのものと、様々な方の色紙などがある。確か、幸四郎時代の現白鷗さんと勘三郎さんの色紙もあったように思う。漫画家やイラストレーターの方の色紙の「義」の文字に対するアイデアがやはりユニークである。

 

  • 『宗吾霊堂』から甚兵衛渡しまで「義民ロード」というのがあり、その地図をダウンロードして検討を付けて行ったのだがどうも違うらしく戻って地元の方にきく。その地図では地元の人も説明できないと丁寧に教えてくれた。途中に『麻賀多神社』があり、そこまでももう一度地元の方に尋ねた。『麻賀多神社』は、なかなか趣のある木々に囲まれた古い神社で気に入ってしまった。ただ常時人がいるわけではなく、御朱印は日にちがきめられていた。空が真っ黒な雨雲発生で、途中で降られては大変とひきかえした。もし行くことがあったらバスで甚兵衛渡しまで行きもどるコースとしたい。道に迷った時、一日一便のバス停があった。一日一便は初めて見た。どんなひとがどんな使い方をするのかと友人と首をかしげてしまった。

 

  • 一階、二階のロビーのことを書いたのですから、三階も書かなくては。三階には、亡くなられた名優たちのお写真がありますが、初世齊入さんのお写真が以前よりかなり近くに感じられます。誰かが思い出せばその人は生きている人の中で生きかえります。でも憎らしかったあいつなんていうのは。う~ん、それもありでしょうかね。人間だもの。(相田みつをさん風締めになってしまった)

 

松竹座 十月歌舞伎(二代目齊入、三代目右團次襲名公演)

  • 大阪松竹座の十月歌舞伎は、市川右之助改め二代目市川齊入、市川右近改め三代目市川右團次・襲名披露と二代目市川右近初お目見えの舞台である。昨年(2017年)の1月に新橋演舞場で三代目右團次さんと二代目右近さんの襲名舞台があり、7月に歌舞伎座で二代目右之助さんが二代目齊入さんとなられた。そして今回、お二人の生まれ故郷大阪での襲名披露公演である。

 

  • またまた映画のことになるが、映画『殺陣師段平』の中で段平が自分は右團次のところにいたんだと自慢する。歌舞伎にいたんだではなく、右團次のところにいたと作者が書いたのであるから、右團次という役者さんは言ってわかるような方だったのだとは思ったがそのまま深く考えなかった。そして、右近さんが右團次を襲名されても、三代目猿之助(二代目猿翁)さんのところに部屋子として入られたかたが右團次さんを継がれるのは、お目出度いことであるでとまっていた。

 

  • 今回、松竹座のロビーに、初代右團次(初代齊入)さん、二代目右團次さん、二代目齊入さん、三代目右團次さんの4人のかたの紹介が掲げられていた。それを読んで、初代、二代目とケレン歌舞伎を得意とされていたことがわかった。そしてその芸を受け継いでいたのが三代目猿之助さんで、さらに猿之助さんのもとで修業されその芸を受け継いでいるのが現右團次さんである。

 

  • 右之助さんは、曾祖父の名・齊入の二代目代を受け継がれ、芸がつながっている市川右近さんによって右團次の名前が復活したのであるから、こういう繋がりかたもあるのかと素敵な風を感じる。二代目齊入さんは、三代目寿海さんの部屋子となられ、右之助を襲名し、寿海さん死後は十二代目團十郎さんに入門され現在に至っている。

 

  • 1962年の映画『殺陣師段平』を少し前にみていた。澤田正二郎は市川雷蔵さんで、雷蔵さんが寿海さんのところを離れ映画に移られたのが1954年で、1955年に右之助さんは寿海さんの部屋子となられている。映画での段平は鴈治郎さんである。右團次のところにいたという段平が橋の欄干でトンボをきるが、これは右團次さんのところにいたケレンの芸の一端として見せていたのであったかと気が付く。当時、鴈治郎さんや雷蔵さんの中では、右團次さんの名前は生きていたであろう。

 

  • 今回の襲名口上に藤十郎さんや鴈治郎さんが並ばれ、大阪生まれの齊入さんと右團次さんが大阪で襲名公演をされるというのが、なにか巡り巡って頑張ってこられたお二人にとってとても喜ばしく感じられるのである。そしてそれを支える海老蔵さんと猿之助さん。二代目齊入さん、三代目右團次さんも芸にさらに力が加わることであろう。とてもいい襲名公演である。

 

  • お芝居については、サクッとすかし編みで。『華果西遊記(かかさいゆうき)』は、孫悟空の活躍で蜘蛛の精の姉妹から三蔵法師を助け出すという痛快劇。耳から如意棒を出したり、分身を登場させたりと大活躍である。ひょうきんさは、猪八戒と沙悟浄が担当で、孫悟空は耳から如意棒を出したり、分身を登場させたりと大活躍である。孫悟空(右團次)と分身(右近)は、きんと雲に乗って(宙乗り)三蔵法師を助けに行き無事助けだす。歌舞伎の西遊記ならこれ!として気楽に楽しめる芝居となって定着。

 

  • 市川右近さんも無事挨拶ができ、大きな拍手のなか『口上』も目出度く終了。『神明恵和合取組(かみのめぎみわごうのとりくみ) め組の喧嘩』は、町方の鳶と力士の喧嘩という江戸の華同士の喧嘩を粋にいなせに見せてくれる。江戸の風景が舞台いっぱいのさく裂。鳶は町人で力士は武士のお抱えのためそれを鼻にかけている。鳶たちにはそれが気に食わない。こちらは庶民のために命を張っているのだの意識がある。品川島崎楼で一度は尾花屋女房おくら(齊入)の仲裁もあったが、芝居小屋でも小競り合いがあり、鳶の頭・め組辰五郎(海老蔵)はついに堪忍袋の緒が切れ、四ツ車大八(右團次)らとの喧嘩場面の大詰めとなる。

 

  • これでもかという喧嘩場面で、大勢の鳶が屋根の上に壁伝いに上から差し伸べる手を頼りに登っていくが、一人くらい失敗するのではと思ったが全員無事屋根に上った。つまらぬ期待をしてしまった。力士も力士らしく、鳶も格好良くと転んだりすべったりで、ひとりひとりの役者さんを確認するのは難しいが、ときにはぱっとわかることがある。おっ、頑張っていますね。これを仲裁するのが、喜三郎(鴈治郎)で、町方を取り締まる町奉行と相撲を取り締まる寺社奉行からたまわった法被を見せるのである。江戸の取り締まりの仕組みの一端がみえる。間に、鳶頭の女房・お仲(雀右衛門)と息子とのやりとりがあり、ことここにいたったら覚悟はできているの夫婦のみせどころと親子の情が展開される。

 

  • 玉屋清吉』は、新作歌舞伎舞踏で、海老蔵さんの新作のときはどうも捉えられないことがあり今回も。このように思っているのだろうなとは感じるのですが。江戸の花火師を主人公にしている。愛嬌のある花火師・玉屋清吉が登場。鳶頭・辰五郎の時、鋭利な中にもふっとやわらかさも欲しいとおもったのでこれはとおもったのである。下駄タップになって、そのあと舞台は映像の花火と三味線の音の掛け合い。この掛け合いは、面白かった。少し長い。出ました。花火の精ということなのでしょう。荒事の姿。うーん。個人的要望としましては気風の好い粋さの踊りで埋め尽くして欲しかった。

 

  •  雙生隅田川(ふたごすみだがわ)』は、新橋演舞場 壽新春大歌舞伎 ~ 三代目市川右團次、二代目市川右近襲名披露~ 昼の部 を参照されたい。書かれている中で今回役がかわられているのは、勘解由兵衛景逸(九團次)、局・長尾(齊入)、大江匡房(鴈治郎)である。齊入さんは女形のほうが向いておられるように思う。市川右近さんが成長されて、梅若丸が猿島惣太に折檻される場面で逃げまわる動きがスムーズになられ、最後の松若丸が掛け軸を持つ場面もしっかりしていて、これなら次の当主になれると思わせる。

 

  • 大きく変わるのは、「鯉つかみ」の前に、齊入さんがお家芸であることが紹介され「鯉つかみ」もその芸の歴史が明らかとなる。小布施主税役の米吉さんも小粒できりりとの感じで脇に並び控え頼もしかった。右團次さん本水の立ち廻りの「鯉つかみ」をしっかりつとめられる。伴藤内は新橋でも滝にうたれたであろうか。記憶が定かでない。今回は『黒塚』がないので隅田川での斑如御前の猿之助さんの踊る場面が見どころとなる。

 

  • 絵から鯉が飛び出し、人買いが出てきて、お金が出てきて、隅田川物がありなどで芝居にどんどん取り入れていくのが近松門左衛門さんさんらしいかななどともおもえた。流れもスムーズで、時間をかけてここまできたのであろう。全体に世代交代も感じられじわじわと役者さんが足跡を残しつつ移行していくのが感じられる。あまり早くに空白ができることなくじわじわ進むことを願う。

 

  • 新橋演舞場では夜の部で『源平布引滝(げんぺいぬのびきのたき) 義賢最期』が上演された。「布引の滝」の名の滝が新神戸駅から五分のところにあるということで行った。ところがよく調べていなくて少し雨も降っていたので案内もよく見ず「雌滝」のみで引き返してしまった。その上に「鼓滝」「夫婦滝」「雄滝」とありこの四つの滝で「布引の滝」というのだそうである。見晴展望台までいくのがよさそうである。「雌滝」と反対方向に北野異人館に行ける案内石碑が1100メートルと記されそちらも興味ひかれた。駅から近いのでまたの機会である。

 

景勝・布引の滝碑藤原定家歌碑 (布引の滝のしらいとなつくれば 絶えずぞ人の山ぢたづぬる)

 

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藤原基家歌碑 (あしのやの砂子の山のみなかを のぼりて見れば布びきのたき)

 

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藤原良清歌碑 (音のみ聞きしはことの数ならで 名よりも高き布引の滝)

 

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雌滝取水堰堤(めだきしゅすいえんてい)

 

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雌滝

 

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北野異人館方面案内碑

 

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『昭和浅草映画地図』

  • 大阪の松竹座(二代目市川齊入・三代目右團次襲名披露)から帰ると申し込んでおいた『昭和浅草映画地図』(中村実男著)が届いていた。もう夢中で読んでしまった。きっちり調べておられるので信頼でき、たくさんのことを教えてもらった。浅草が映されている映画が170本以上ある。ため息がでそうであるが、俄然元気になってしまう。行くぞ!

 

  • 映画の中で浅草のどこが映されているかも一本、一本について記してくださり、もう嬉しくなります。自分でもメモしたりしたのだが、次第に雰囲気がわかればいいやと正確に調べることをやめてしまったのである。浅草の変遷も詳しく書かれていて、たとえば昭和34年(1959年)に完成した「新世界ビル」の中にあった「劇場キャバレー」のホステスさんの人数は500名とある。そんな時代もあったのである。

 

  • 何本かの映画は内容も詳しく紹介されているが、映画『喜劇 にっぽんのお婆ぁちゃん』は読んでいても北林谷栄さんとミヤコ蝶々さんの様子を思い出して吹き出してしまう。今井正監督は先を見込んで撮られたようであるが、それを越える程、おふたりはしたたかである。老人はしたたかに生きるべしである。

 

  • 脚本を書かれた水木洋子さんは、「死を目前にみた老人が一日をたのしく遊べるところ、といえば浅草意外にない」といわれたそうで、右同じと同意させてもらう。浅草でしか会えないような多種多様の人々に会い、二人のお婆ぁちゃんは新たな社会体験をするのである。老人施設の面倒な人間関係それを浅草に照らしてみるとまだまだと元気になるのである。テレビに映った北林谷栄さんを見て「浅草のあの人」から、ミヤコ蝶々さんは元気をもらう。シニカルでコミカルで、脚本の力、役者さんの力、監督の力、そして浅草の力が融合した傑作である。その浅草を懇切丁寧に解説されているのがこの著書である。今度は根気よく確認しなければ。

 

  • この著書には出てきてない映画がある。『ガキ☆ロック』である。コミックの実写化である。浅草に住む人情に長けた若者が時には暴走しつつも人助けに浅草を走り回る4人である。コミックならではの登場人物のキャラを楽しむ映画でもある。歌舞伎の『助六』だって江戸のキャラ満載の芝居である。

 

  • ガキ☆ロック』は東武鉄道浅草駅が重要な場所となっている。そこにおり立った蝶々さんに主人公の源(上遠野太洸)は一目惚れである。源はストリップ劇場の息子で仕事を手伝っている。劇場の名前が、イギリス座。フランス座にぶつけたとおもわせる。蝶々さんはストリップの踊子さんで、兄を探しに大阪からでてきてイギリス座に世話になることにしたのである。その兄探しを手伝うのが源の仲間の、人力車の車夫のマコト(前田公輝)、フリーターのジミー(川村陽介)、坊主向きではないまっつん(中村僚志)である。

 

  • お兄さんは見つかるのであるが、気の弱いヤクザになっていた。皆は、お兄さんを大会社のサラリーマンにし、恋人役も頼み、兄と妹の再会を演出する。しかし、それも蝶々さんにばれてしまい、最後はお兄さんもヤクザから堅気になって、兄と妹は東武浅草駅から大阪に帰るのである。(2014年/原作・柳内大樹/監督・中前勇児/脚本・山本浩貴)

 

  • 東武浅草駅はかつては今のとうきょうスカイツリー駅が浅草駅で、その後隅田川を渡って延長し、浅草雷門駅とした。それが、浅草駅は、業平橋駅となり、浅草雷門駅は浅草駅となり、スカイツリーができ、業平橋駅はとうきょうスカイツリー駅となったわけである(詳しく知りたいかたは是非本で)。この東武浅草駅は電車が隅田川を渡って駅に入るのがなかなか面白いのである。

 

  • 東武伊勢崎線で浅草からとうきょうスカイツリー駅まで乗ったのだが、どうもピントこないので、また引き返した。やはり駅構内に入っていくほうが新鮮な気分になる。隅田川に架かる東武鉄橋は隅田川が見えるように設計されている。かつてはとうきょうスカイツリー駅(浅草駅)から皆歩いて浅草に遊びにきたのである。ただ、上野などからは都電はあったであろう。今度はとうきょうスカイツリー駅から歩く機会をつくろう。

 

  • 『ガキ☆ロック』の一人は人力車の車夫である。かつては、樋口一葉さんの『十三夜』のように、密かに想いあっていた男のほうが車夫に身を落としてといったような印象であるが、今の浅草では勢いのある格好いい姿を楽しませてくれていて浅草になくてはならない存在である。日本近代文学館(『浅草文芸、戻る場所』)では人力車・明治壱号が展示されていた。車輪は荷車の車輪職人、金属部分は鍛冶職人、座席は家具職人、塗装部は漆職人によって制作されていたとか。それぞれの専門の職人さんの合作だったわけである。

 

  • 車夫の印象といえば、美空ひばりさんの歌『車屋さん』で明るい光があたったような気がする。『小説 浅草案内』(半村良著)では、主人公が猿之助横丁を歩いている時、ご苦労さまという芸者に見送られて梶棒をあげる俥屋のシルエットをみて、「たった一台だけだが、この界隈には俥屋がまだ残っていて、それが走っても全然違和感のない町並みなのだ。」と書いている。そして「生き残った最後の何台かは、木曽の妻籠あたりへ移って、観光用の商売をしているとか」とくわえている。実に色々な顔をみせてくれる浅草である。

 

  • 昭和浅草映画地図』には参考資料文献も記載されているので、興味ひかれるものは目を通したいものである。図書館にリクエストした本も二冊ほど届いたそうなので秋の夜長映画と本で楽しめそうである。そして思い立った時には浅草へ。夏に友人が浅草神社の夏詣での特別御朱印を貰いに行ったのだそうである。最終日で凄い人で整理券の番号からすると夕方になっても無理そうで、整理番号券があれば違う日でもよいということで後日再び出かけたらしい。

 

  • 美空ひばりさんの映画『お嬢さん社長』で、お参りする神社があって、映画の流れからすると浅草神社のようなのだが、随分心もとないたたずまいなので違うのかなとおもったところ、『昭和浅草映画地図』にやはり浅草神社と書かれてあった。そんな具合に曖昧さを払拭してくれる有難い本でもあるわけである。

 

映画『ハチミツとクローバー』『ヘアースプレー』

  • 上野の『藤田嗣治展』の後、上野公園を歩いていると、スプレー缶で絵を描くアーティストに遭遇する。音楽を流しながらリズミカルにシュー、シューと吹きかけていく。材質は紙なのであろうか。どうやら海のようである。波かな。上から光が差し込む。できあがった絵も素敵ではあるが、やはりこれは絵の出来る過程が愉しいパフォーマンスアーティストである。

 

  • 次は奥に雪山が顔を出し、手前は木々の森であろうか。木々の葉っぱの感じも細かく描かれていく。あーなって、そーなって、こーなってと早いのである。シューにためらいがない。紙を波型に切ってそれを当ててシュー。直角に板を当てて45度の線にシュー。観ているほうは必死でそのシューを追いかける。描く方はいたって軽やかである。たのしかった。

 

  • 頭の中で思い描いた映画が、『ハチミツとクローバー』。登場人物はある美大の学生たちで、皆どこか変わっている。原作は、羽海野チカさんのコミック。でも美大にはこんな個性的な人がいそうである。天才的な力を持っているが、人と上手くコミュニケーションがとれない転入生の女子。ヘッドホンで音楽を聴きながら絵を描く。(はぐみ) その娘に恋心をいだく正当な青春派の建築学科生。(竹本佑太) その娘の才能を理解し、その娘をうろたえさせる、突然もどってきた才能ある先輩の自称芸術家。(森田忍)

 

  • 好きな人の建築デザイン事務所でアルバイトをし、ストーカー的行動に出てしまい首になる建築学科生。(真山巧) その学生を好きでふられてしまうが、彼を応援し、再びアルバイトに復帰させるべく手助けする陶芸科の彼女。(山田あゆみ) この五人の物語で、この五人とつながっているのが、多くの学生に慕われている美大の教師で、彼の自宅は、時々飲み会の会場となる。(花本修二)

 

  • 主なる登場俳優。蒼井優さん、櫻井翔さん、伊勢谷友介さん、加瀬亮さん、関めぐみさん、堺雅人さんとなれば、この順番をバラバラにしても、なんとなくキャラがわかってこの役はこの俳優さんと結び付けられると思う。青春物でドロドロした人間関係にはならない。美大の教師たちの年代のほうが何かあったような雰囲気であるが、そこは少し匂うぞで終わらせている。

 

  • 一人は少し年上であるが、気持ちは青春で、まだ学生ということもあってそれぞれの才能の浮き沈みははっきりしない出発点で、それが青春物の基本ともいえる。こういう個性的な面々と一時期過ごしたくもなる良きキャラの面々である。(2006年・監督・高田雅博/脚本・河原雅彦、高田雅博)

 

  • シューのスプレー缶とくれば映画『ヘアースプレー』。ぽっちゃりタイプの女子高生が毎日元気に青春を謳歌している。歌とダンスが好きで、歌とダンスのテレビ番組を観るのが一番の楽しみである。番組のホスト役の名前をとって「コ―ニー・コリンズ・ショー」。場所はアメリカ・メリーランド州ボルチモア。1960年代で人種差別の強いところらしい。主人公のトレーシーは、授業時間中に先生から注意を受け居残りの紙をもらってしまう。

 

  • 居残り組の教室に行ってみると黒人の生徒たちが、ダンスを踊っている。新しいステップを教えてもらいトレーシーは彼らと踊るのが大好きになる。そして、「コ―ニー・コリンズ・ショー」のダンスメンバーに欠員が出来、トレーシーはそこに加わることができる。人気者になったトレーシーは、お母さんが巨体で家に引っ込んでいるため、自分の楽しさをお母さんにも味わわせたいと外に引っ張り出す。

 

  • お母さん役がジョン・トラヴォルタで特殊メイクで、あのトラヴォルタだからこそ、あの巨体でダンスが出来てしまうのであろうと、その違いがたのしい。父親がクリストファー・ウォ―ケンである。あの渋さを崩さずにトラヴォルタとの組み合わせにはさすが役者さんとおかしくなる。ミュージカルで歌とダンスがたっぷりで、歌の歌詞を追っているとダンスがよく見れず、大忙しである。

 

  • 人種問題や偏見などがテーマとなっているが、明るく乗り越え、好い方向に進んで行く。1988年に公開され、それがブロードウェイでミュージカルとなり、そのブロードウェイ版が再び2007年に映画となったらしく、監督も違う。とにかくトレーシーはキュートに踊って前へ前へと進む。それを阻止しようとする側にミシェル・ファイファーと脇の堅めもしっかりである。主人公役は、オーディションで射止めたニッキー・ブロンスキー。恋人役のザック・エフロンは『グレイテスト・ショーマン』の劇作家役だったらしいが、ちょっとそちらの顔が思い出せない。

 

  • ヘアースプレーは当時の髪型を決めるための必需品でもあり、「コ―ニー・コリンズ・ショー」のスポンサーがヘアースプレーの会社なのである。テレビのなかでもむせ返るほど、シュー、シューとスプレーしている。というわけで、この二本の映画の登場となったのである。

 

『没後50年 藤田嗣治展』(東京都美術館)

  • 『没後50年 藤田嗣治展』(東京都美術館)終わり一週間前なので混んでいるのは覚悟でして行ったのだが、入場は並ばずに入れた。とにかく史上最大の大回顧展ということなので流れがわかればよいと力まずに観覧することにした。「Ⅰ原風景ー家族と風景」で、『父の肖像』があった。嗣治さんの父上は軍医でもあり、森鴎外さんとも知り合いであるということを文京区の鴎外記念館で知った。嗣治さんは鴎外さんに父とともに訪れ、学校をやめてパリに行きたいがどうでしょうと意見を求めている。鴎外さんは学業を終えてからにしなさいといわれ、嗣治さんは鴎外さんの意見に従う。

 

  • 鴎外記念館で、コレクション展『東京・文学・ひとめぐり~鴎外と山手線一周の旅』を開催していた時で、『藤田嗣治展』があるということもあってか、その関係が少し展示されていて、そこだけ印象に残ったのである。「鴎外と山手線一周の旅」は範囲が広すぎた。そして浅草がなかったのでなおさらサラリで終わってしまった。美術館で嗣治さんが描いた『父の肖像』がすぐにあったので、このかたがお父上かと注目してしまった。父・藤田嗣章(つぐあきら)さんは、森鴎外さんの後任として陸軍軍医総監になっている。

 

  • 東京美術学校(東京藝術大学)では、黒田清輝さんらに教えを受けている。黒田清輝さんはフランス留学帰りで印象派の光の当たった絵を描かれていて、東京都美術館の近くには『黒田清輝記念館』があり無料であるが、代表作の公開は期間限定であるので注意されたい。黒田清輝さんというと、熊谷守一さんの先生の一人で『へたも絵のうち』に書かれている青木繁さんのことが浮かぶ。

 

  • そのころに美術学校には変わった人がたくさんいて、青木繁さんが変わり者であった。絵をかいていて黒田さんが入って来るとすーっと教室を出て行くのだそうである。「あんなヤツに絵をみてもらう筋合いはない、という意思表示なのです。」それも戸をわざと音をたててしめてでいくのです。熊谷守一さんも黒田清輝さんは、どちらかといういと政治家だから、美術学校には役立ったでしょうが、絵はあまり感心しませんとしている。

 

  • 黒田さんも、絵を志す青年の気持ちはわかるのか自分の描き方はおしつけなかったとし、青木繁さんの態度にも、別に怒りもせず知らぬ顔をしていたようである。こちらが黒田清輝さんの絵を観るとさすがフランスで印象派を学ばれたかたの絵であるとおもって観てしまうが、才能のある人はそう単純ではないようである。黒田清輝さんが政治家になったとき、政治家は大変でしょうと聞かれて、美術界の集まりに比べればたいしたことはないと言われたと書かれたものを読んだことがある。納得してしまう。政治家のほうは損得で動きそうだが、画家はそう簡単には動かなさそうである。

 

  • 藤田嗣治さんも、新しさを求めてパリへ行き、パリっ子も羨望し感嘆するあの「乳白色」を見つけ出すのである。それまでの貧しい時代には、自分の回りにある物を絵にしていて、その細やかな線や色にも目がいく。モディリアーニの長い顔とかユトリロのような真っ直ぐな建物の街角、ゆがんだ街角など、吸収すべき技は貪欲に学んでいる。そのうえで独自のものを見つけるのである。北米、中南米、アジアを旅すればそこの土地の色を見つけ出し、土地の人をとらえる。日本に帰り戦争時代である。そして最後は宗教画となるのである。

 

  • 藤田嗣治さんのこの技に対する貪欲さと才が、あの戦争絵に反映しているように思える。『アッツ島玉砕』などは、こんな死に方をしなくてはならないなんて戦争は嫌だとおもう。『サイパン島同胞臣節を全うす』なども民間人が自決する絵である。なんと戦争とは悲惨なことを強いるものなのだとおもう。しかしその時代には、逆なのである。国を守るためには皆この心構えで戦わなくてはいけないのだ。前線では皆お国のために、このように身を捧げているのだとなるわけである。

 

  • そのことが戦後、問題となってくる。それだけではないようだが詳しくはわからない。画家として絵に対する技の追求の想いがあったことはたしかである。それと日本を離れていたので、ここで日本人にならなければという想いもあったのかもしれない。戦争責任問題で彼は失望し日本を離れる。その後何処へ行っても藤田嗣治の絵の人気は高かった。

 

  • 一つの場所に集められた一人に画家の多数の絵の変化には、やはり驚きもあり、興味深かった。一人の画家から、どうしてこんな変化にとんだ絵が出来上がるのであろうかと不思議におもう。マジックにかかっているみたいである。秋田県立美術館の『秋田の行事』も思い出してしまう。あそこにも藤田嗣治さんの色と雪国の人々がいた。才をあたえられ、さらに技を磨いて、華々しく開花したゆえに、生き方が難しいということもあるのだろう。

 

『瀬川昌久の94才 僕の愛した昭和モダン流行歌』

  • 刺激してくれるCDである。『瀬川昌久の94才 僕の愛した昭和モダン流行歌』。こういう素敵な構成はさすが94才の音楽とともに生きて来られたかたならではであると嬉しくなる。淡谷のりこさんは、テレビの映像で胸の前で手を組んでブルースを歌う姿しか印象にないが、こんな歌も歌われていたのかと淡谷さんの歌の領域が広がる。二葉あき子さんもしかりである。「僕の愛した」が根底にあるのが聞く者を楽しさと驚きの世界に運んでくれるのであろう。

 

  • 瀬川昌久さんが三才のときロンドンで聞いた西洋メロディを、日本に帰って来て日本人が唄っているのを聴いてその違いをも楽しむのである。日本版になるとこうなるのかと。昭和8年(1933年)から昭和28年(1953年)までである。解説が軽く専門的で、なるほどなるほどと知った気にさせてくれるのが、これまた瀬川昌久流であろうか。

 

  • 劇団民藝『時を接ぐ』を観たばかりなので、李香蘭さんにも注目する。瀬川昌久さんは、アメリカ映画が上映禁止になったので、中国人の李香蘭さん(そのころは日本人とは誰も知らなかった)がハリウッド女優に代わる異国情緒の魅力的存在となったとされ、そういうことも加味されての李香蘭さんの人気だったのかと当時の人々の気持ちも伝わる。

 

  • 満映と東宝提携映画『私の鶯』の主題歌『私の鶯』の李香蘭さんのソプラノには驚愕してしまった。『蘇州の夜』は仁木他喜雄さん作曲であるが、仁木さんがこの旋律を映画『そよかぜ』のなかでバンド演奏のメドレーにいれているというので観なおした。

 

  • 映画『そよかぜ』はGHQの検閲を通った第一号映画である。『リンゴの唄』は大ヒットした。歌手を目指す18歳のみち(並木路子)が照明係をしつつ舞台をみつめ、バンド演奏の『蘇州の夜』を聴きつつハミングしている。あの中国メロディを思いっきりアレンジしている。つながっていたのだと「接ぐ」が浮かぶ。

 

  • コロムビア収録のものが中心である。昭和10年代、銀座や浅草の劇場では、映画とコロムビアの歌手がコロンビア・オーケストラをバックで新しい流行歌を歌っていたのである。10代の少女がタップを踏みながら『靴が鳴る』や『お祖父さんの時計』を歌っている。ミミ―宮島さん。初めて名前を知る。可愛らしい歌い方である。

 

  • サトウハチローさんなどもこのことは知っておられたであろうし、美空ひばりさんが登場した時あまりにも堂々と歌われるので、なんだあれはと思われたのもうなずける。少女には可愛らしさを求めていたのである。でも少女は大人になるわけで、何の違和感もなく大人になられた美空ひばりさん。歌に関しては、世の中の可愛らしさのみそぎを自ら済ませての登場である。CDには美空ひばりさんは出てこないのであしからず。

 

  • 解説をながめつつワクワクしながら聴いた。映像で流される「思いでのメロディ」とか「懐かしのメロディ」とは違う。どんな時代にもワクワクさは大切である。どんな時も前を向く時間はそれぞれれ、一人一人違う。戦時下でもワクワクしているものを持っていた人はいた。それが音楽だったり、本だったり。瀬川昌久さんの「昭和モダン流行歌」は、次はどんな歌なのと今の時間をワクワクさせてくれた。そして勝手に飛ばさせてもらった。

 

  • 瀬川昌久さんには15年ほど前にカルチャーでお話を聞いたことがあった。その資料を探したらでてきた。フランク永井さんの『君恋し』は、二村定一さんが唄ってヒットしたもので、アレンジを変えてフランク永井さんの歌のようになったのを初めて知った。この後で下北沢の小劇場で『君恋し~ハナの咲かなかった男~』の舞台を観劇して二村定一さんがよりインプットされる。二村定一さんの『青空』『アラビアの唄』は日本版ジャズソング第一号とのこと。CDでは川畑文子さんが歌われる。それは、瀬川昌久さんの個人的こだわりがあるからである。

 

  • ミュージカル『青空~川畑文子物語~』(監修・瀬川昌久)も博品館劇場で上演されたが5日間で時間がとれず、いまでも残念に想っている。舞台『君恋し』、『青空』はもう一度上演してほしいと今でも願っている。映画『舗道の囁き』も瀬川さんから聞いていたのであるがその映画を観た時は忘れていた。瀬川昌久さんのCDを聴かれて、文字的歌のながれが、メロディーにのった歌としてよみがえったかたが多くおられるのではなかろうか。そのひとりがここにもいるのである。

 

 

劇団民藝『時を接ぐ』

  • 時を接ぐ』は、映画の編集をしていた岸富美子さんが、「フイルムを接ぐ」ことと、大きな歴史の流れの中にいた一人として「時間を接ぐ」ということを重ねている作品である。岸富美子さん(98歳)が書かれた『満映とわたし』(共著・石井妙子)から脚本を書かれたのが黒川陽子さんである。黒川さんは、一昨年NHKで『中国映画を支えた日本人~“満映”映画人秘められた戦後』を見てもっと知りたいと思い『満映とわたし』に出会ったということである。(パンフレットより)

 

  • このドキュメンタリー見たかったです。満映に関しては、2013年11月新橋演舞場で『さらば八月の大地』を上演している。この舞台はフィクションであるが、『時を接ぐ』はノンフィクションである。岸富美子さんは15歳で映画の編集の仕事につく。映画界における職業婦人の誕生といったような華やかさではない。家族の生活を支えるために、兄が日活に勤めていた関係で日活から独立した第一映画社に編集助手として入社する。

 

  • 岸富美子さんを演じたのが日色ともゑさんである。入社した日から映画作りの激しい風に吹かれてウロウロする。岸さんが編集助手として参加した映画に『新しき土』(監督・アーノルド・ファンク、伊丹万作)がある。あの映画なのかと原節子さんが着物を着て山を登って行く映像がうかぶ。浅間山らしいのだがその場面があきるほど長いのである。ドイツとの合作映画である。新しき土というのは、満州をさしていて、若い二人(小杉勇、原節子)は新しい土地を新天地として頑張ることを誓うのである。

 

  • 舞台には、アーノルド・ファンク監督が登場した。編集者に言わず勝手にフイルム編集をし、ドイツ人女性の編集者は音合わせなど大変なのだから一言いってくれと抗議して監督を納得させる。富美子は驚く。このドイツ女性は13歳から編集の仕事をしていると言い、富美子に新しいやり方を教えてくれる。相当過酷な労働時間であったろうし、監督たちとの上下関係などもたいへんであったとおもうが、富美子は仕事が好きであった。彼女は仕事と共に、満州に渡り結婚をし、家族をもつ。そこには、娘がお婆ちゃんから生まれたという母の支えもあった。

 

  • 兄も夫も満映のカメラマンであった。満映の理事長は甘粕正彦である。日本の国策映画というより中国人が楽しめる映画をつくれという。そしてそこを日本人は上手く捉えられないので中国人を多く映画人として採用するのである。やっとその人たちに技術などを教えたところで戦争は終わる。

 

  • ここから歴史は変わるのである。満映にいた日本人にとって大変なことであったが、後に満映で働いていた中国人の人々も文化大革命のとき、さらなる試練に立たされる人々もいた。岸さんは、個人として不用意にこの時代とそれ以後のことを長い間語らなかったのは、そういう災いがどこでだれに振りかかるかわからないということもあったであろう。そういう思いがけない人間同士のぶつかり合いを見て来た人であるから。

 

  • 満映の人々も日本に帰る人、中国共産党の要請もあり、映画技術を提供するために残る人などに別れ、富美子は、兄と母と家族で残ることにし、映画の仕事を続ける。ところが、人員削減があり兄がその中にはいる。富美子は自分も兄達について行くと主張。夫もそれを承諾してくれ、映画の仕事から離れることになる。

 

  • 富美子は日本に帰ってくる。今、富美子はせっかくここまできたのだから中国に協力して映画技術を残したいという想いに迷いはなかった。自分は周りの事がわかっていたであろうか。自分におごりはなかったであろうかとふと思ったりもする。

 

  • 中国が長い間日本人の映画技術や技術者のことを伏せて認めなかった。後にそれは公認されるが。そういうことだけではなく戦争という歴史のなかで個人ではどうすることもできない事がおこる。生きて行くために人は隣の人を名指しでおとしめることもある。富美子は思想はわからない。だが、映画を愛してその技術を伝えようとした人々のいたことは事実である。そのことは知ってほしいし伝えたいと思う。

 

  • 富美子はドイツ女性の編集者を思い出す。富美子が、フイルムをなめてから接ぐ方法を習っていたのでその通りにする。彼女はなめてはいけない、体に良くないのだといい、機械がそれをしてくれる新しい技術を教えてくれたのである。そうやって色々な人々の教えで仕事の辛さも楽しさにかえられたのである。それだけに、個人的な想いとして語っておきたいと広告のチラシの裏に書き始めたのである。

 

  • 満映にいた人々のなかで、中国に残られた人もいたらしいということは知っていたが、その後どういうことがあったのかはわからなかった。『時を接ぐ』で、概略を掴むことができた。そして、上に兄三人の末っ子の岸富美子さんという少女が、映画編集という仕事を全うしつつ生き抜いたことに感嘆する。日色ともゑさんの小柄な身体が嵐を受けながらもぽっきり折れないで進む姿が、富美子役にあっていた。

 

  • 作・黒川陽子/演出・丹野郁弓/出演・日色ともゑ、有安多佳子、河野しずか、細川ひさよ、石巻美香、森田咲子、仲野愛子、山本哲也、境賢一、横島亘、吉岡扶敏、天津民生、神敏将、塩田泰久、吉田正朗、岩田優志、仁宮賢、近藤一輝(新宿・紀伊國屋サザンシアター/~7日(日)まで)

 

 

  • 民藝の観劇の後、『NHK古典芸能鑑賞会』に行く予定であったが台風のため中止となってしまい残念である。途中で電車が午後8時で止まってしまうとの情報であったが、これが旅行中ならどうなるのであろうか。宿とかとれないとき、ここに避難していてもいいですよという場所があるのであろうか。まずどこに尋ねればいいのであろうか。そうなったら手当たり次第に尋ねるしかないか。

 

『浅草文芸、戻る場所』(日本近代文学館)

  • 京王井の頭線・駒場東大前駅西口改札から歩いて7分の「日本近代文学館」で『浅草文芸、戻る場所』展をやっている。関東大震災のころは、写真というものが庶民に広く普及していたわけではないので、十二階の凌雲閣などの様子も銅板画とか錦絵などで、こういう貴重な絵をしっかり保管しておられる方がいての展示である。2時からギャラリートークもありそのあたりのことの解説があった。

 

  • 凌雲閣は関東大震災で二つに折れて倒れ、その後爆破されて消滅してしまうが、今年の2月にその建築跡が出て来てきちんとその位置が確認されたそうである。そのときに分けてもらった赤レンガの破片が展示されていた。凌雲閣が重要な場面となっている文学作品の紹介もあった。爆破のときのことは、川端康成さんの『浅草紅団』にもでてくるし、江戸川乱歩さんの『押絵と旅する』にも出てくるらしい。乱歩さんが使いたい建物である。青空文庫にもあるらしいがまだ読んでいない。

 

  • 凌雲閣の映画といえば、『緋牡丹博徒・お竜参上』である。最後の闘争の場所が凌雲閣なのである。お竜さんが、鉄の門を開けるのであるが、そこからすぐに凌雲閣の建物がありこんなに狭いのだろうかとおもったが、絵からするとかなり正確である。架空の東京座という劇場の利権争いがあるが、この東京座の前に実際にあった電気館の建物が映り、この六区のセットには相当力を入れていたのがわかる。

 

  • 監督は加藤泰監督で脚本も鈴木則文さんとふたりで書いているので、意識的に凌雲閣を選んだのであろう。お竜さんが世話になるのが鉄砲久一家で、色々調べられて、六区を選んだ以上その雰囲気を作り出そうと頑張られている。映画人の心意気である。お竜さんが馬車で走る鉄で覆われた橋はかつての吾妻橋のように思える。今戸橋の雪の中をころがるミカン。この映画の事は書いているかもしれない。

 

  • 文学のほうにもどると、ひょうたん池に噴水があったが、もう一つ浅草寺の本堂の後ろにも噴水があってその真ん中に立っていたのが、高村光雲作の龍神像で、今はお参り前に清める手水舎に立っているのだそうで、よく見ていないので今度いったときは見つめることにする。その噴水で子供の身体を洗ってやる親子のことを書いているのが、堀辰雄さんの『噴水のほとりで』である。堀辰雄さんは橋を渡ったすぐの向島の育ちであるから浅草育ちと言ってよいだろう。

 

  • 浅草はレビュー、カジノフォーリー、オペレッタ、浪花節、女剣劇、喜劇などのエノケン、ロッパ、シミキンなど多くの芸人さんの名前が登場する。シミキンこと清水金一さんなどの「シミキンの笑う権三と助十」の宣伝ポスターもある。伴淳さんもロック座で一座を構え、喜劇とレビューをやっていたが、レビューのほうが人気となりそれがストリップとなり、伴さんの退団でストリップ劇場になったとあった。こういうポスターやチラシなどを収集しているかたがいてその方たちからお借りしての展示となったようである。

 

  • 同時開催として『モダニズムと浅草』として、川端康成さんを中心にした展示室もある。川端さんは映画『狂った一頁』(1926年)で映画製作にも参加している。小説『伊豆の踊子』の発表が1926年で、小説『浅草紅団』が1929年に発表され浅草が評判となり、1930年には映画化されている。そして『伊豆の踊子』が1933年に映画化されている。大正時代の経験が小説となり、そして、映画化さる。川端康成さんの作家として、あるいは作品としての知名度は芸人さんと芸人さんのいた場所と映画とが結びついて始まっているわけである。

 

  • 大正モダニズムについては、日比谷図書文化館で特別展を『大正モダーンズ 大正イマジュリィと東京モダンデザイン』も7月1日まで開催していたが、そこで観たいと思っていた浅草ひょうたん池の夜の絵葉書があった。

 

  • 高見順さんの『如何なる星の下に』で、主人公と嶺美佐子という女性がひょうたん池の橋の上から池に映るネオンをみて「綺麗だ」という場面がある。展示物に東京の地図に当時の写真の絵葉書をそえて名所を紹介していたものがあった。名所用でもあるから、夜のひょうたん池はネオンの灯が映って美しかった。けばけばした歓楽街とすたれた歓楽街の両極端のイメージがついて回りちょっと気の毒な六区なので、「綺麗」の言葉にちょっと気恥ずかしがっている六区に思えた。

 

  • 東京モダーンズ』では、大正時代の印刷術の発達と出版文化の興隆時代であることに触れている。なるほどと納得する。雑誌の表紙や挿絵、そして、浅草でのカジノフォーリー、レビュウー、演劇、音楽などのポスター、パンフレット、プログラムなどにどんどんポップな絵やデザインが使われるのである。それが『浅草文芸、戻る場所』の六区のポスターなどにもあらわれている。

 

  • 女性や子供に人気があったのが竹久夢二さんである。その他、杉浦非水さんなどが図案集などをだし、そこから商店などが宣伝用に図柄を使っているのである。「新時代のジャポニズム」として小村雪岱さんや橋口五葉さん、鏑木清方さんなどの絵も新しい浮世絵として見直される。

 

  • 次に出てくるのが写真ということになる。浅草の芸人さんたちも写真で紹介され雑誌などにも写真で登場ということになる。劇場も実演が成功すると芸人さんは浅草六区から出て行き映画のほうが主となっていく。この辺の変遷は沢山あった劇場のそれぞれの変遷でもあり複雑で手に負えない分野である。浅草を舞台とした小説も書かれた年代によって浅草の顔が違う。

 

  • 高見順さんの『如何なる星の下に』は、1939年(昭和14年)に連載され、その時代の浅草なのであるが、主人公はその一年前に浅草の本願寺うらの田島町に部屋を借りるのである。しかし主人公は六区や浅草寺の境内や仲見世などにはいかないのである。その反対側にある「風流お好み焼 惚太郎」が軸になっていて、そこで出会う芸人さんなどとのことで回転していくのである。

 

  • 活躍している芸人さんたちではないのでその人達からきく六区の様子はかなり厳しい状態のようである。浅草国際劇場の松竹歌劇団華やかなりし頃で、そのお客は脇目もふらずに田原町の停車場か地下鉄駅と劇場を真っ直ぐに往復すると書かれてある。そういう時代である。

 

  • 「風流お好み焼き 惚太郎」は現在の「染太郎」さんで、「高見順の観た浅草」ということで、日本近代文学館では染太郎二代目ご主人の対談があったようである。『如何なる星の下に』で主人公は、浅草レビュー発祥の水族館も廃屋のままで、ただ食い物屋は凄いと言っている。確かに無くなってしまった飲食店もあるがいまだにしっかり残っているところもあり、主人公の考察は当っていることになる。また半村良さんの『小説 浅草物語』は時代も違い、浅草の別の顔がみえるが、長くなるのでこのへんで・・・。

 

  • 『浅草文芸、戻る場所』の主催は「浅草文芸ハンドブックの会」である。