能登の旅・能登演劇堂・無名塾『肝っ玉おっ母と子供たち』(1)

一度は訪れて仲代達矢さんの舞台を観劇したいと思っていた能登演劇堂での『肝っ玉おっ母と子供たち』です。舞台の背後が開かれ、そこにある自然と舞台が創り出す空間はそれだけで感動です。映像ではとらえられない圧倒感であり、舞台は生きているとおもわせてくれます。

スタッフ(ボランティアの方かもしれません)の方に、舞台後ろは、演劇の無い時自由に見れるのですかと尋ねましたら、「見れますが舞台のような風景ではありません。舞台のために造りますので、その為に穴を掘ったりなど造形しているのです。」とのことで、主軸は変わらないのでしょうが、舞台に合うようにあの風景は造られているわけです。灯りの火が燃えていて戦場のその中を進む<肝っ玉おっ母と子供たち>の幌車です。

幌車は幌馬車ではありません。自分たちで引いて移動するのです。時代は「30年戦争」と言われる1618年から1648年なで断続的に続いたカトリックとプロテスタントのキリスト教を二分する戦いで、その戦いの移動とともに<肝っ玉おっ母と子供たち>は商売をしながらついていくのです。

肝っ玉おっ母は、父親の違う三人の子供を育て、真っ当な仕事と信じて兵士たちにお酒を飲ませたり、日用品などを売って生活しているのです。兵士たちは、お金を出して雇われた傭兵です。肝っ玉おっ母の大きいあんちゃんと小さいあんちゃんも肝っ玉おっ母は好きですが、もっとお金が貰えて楽しいことがあると言われると幌車を引くよりもそちらの生活に魅かれてしまいます。

二人の息子は、肝っ玉おっ母の兵になることは死ぬことだという言葉も耳に入りません。肝っ玉おっ母は、プロテスタントに勢いがあればプロテスタントの旗を、カトッリクに勢いがあるとカトリックの旗を掲げて商売をします。休戦になると肝っ玉おっ母は商売にならず、戦争があればこその商売なのです。

しかし、肝っ玉おっ母の生きかたに破たんが生じてきます。確かに肝っ玉おっ母の生き方はたくましく子供を想う愛で満ちていますが、そこにはウソも繕いも偽善もあり、それでも生きて行こうとする民衆の生き方など戦争はサァ―と風が吹けばだれかれ関係なく吹き飛ばしてしまうのです。

末娘は、言葉を発することが出来ず、自分の思っていることを伝えることが出来ません。それだけに、心の中で熟慮しているのかもしれません。しかし、彼女だって、美しい帽子や靴、恋にもあこがれを持っていて、肝っ玉おっ母に対しても全面的に信頼しているわけではありません。そして、彼女は自分の意思に添って行動します。

鉄砲の玉が頭上を飛び交う中、大きな戦争という風の吹く流れの中、どんな生き方をすればいいというのなどと考えている時間もなく、ただ食べ生きていくために生活の糧である幌車を引きながら肝っ玉おっ母は今日も商売相手の軍隊を追いかけるのです。

仲代達矢さんの肝っ玉おっ母は、時には陽気に、時には怒り、嘆き、悲しみつつ子供たちや、肝っ玉おっ母のもとに集まる人々と冗談を言い、お酒を飲み、商売をします。肝っ玉おっ母の生き方が真っ当とは言えないだけに、肝っ玉おっ母の仕事を手伝ってついてきたり、本音を言って自分の利益を推し量ったりする人も登場します。

戦争という風のなかで、真っ当な生き方などできるのでしょうか。人が殺し合う状況の中でこれが正しい生き方であるなどという道など見つけられない空気で覆われてしまうでしょう。

そもそも汚れつつ人は生きて行かなくてはならない宿命なのだとおもいます。迷いつつ、汚れつつ、絵でかいたような美しい生き方などないでしょう。ただ、平和であれば立ち止まって考える時間はあるでしょう。仲代達矢さんの肝っ玉おっ母は、長い戦争のなかでの、そんな矛盾だらけの一人の母の姿を見せてくれました。

語りと唄での場面設定の紹介も、肝っ玉おっ母と子供たちのこれからの場面、場面を静かに暗示してくれます。

美しく美しく生きようとしてもそれは、周囲がまき散らす美辞麗句の飾り物でしょう。その中には、あらゆる混沌が、不純物が含まれています。肝っ玉おっ母には美辞麗句も悔恨もありません。だからといって他にどんな生き方ができたのか。劇作家のブレヒトは、この舞台では一人一人に捜させるということを、観る者に提示するという、冷静さをもった作家だとおもいます。ですから、暗さのみを強調することもありません。

肝っ玉おっ母には、同情したり、そのたくましさに感嘆もしますが、待て待て、本当にそうかと思わされるのです。そのあたりが、単純ではないこの舞台です。

カーテンコールの時、仲代達矢さんの役者人生の道標を示され、無名塾の母であり演出家であった隆巴さんの写真に、無名塾の出演者全員で頭を下げられるのが印象的です。

能登演劇堂は、のと鉄道の能登中島駅から歩いて20分位のところにありますが、金沢駅、七尾駅、和倉温泉駅からの予約制のバスが出ていまして、旅の計画を立てやすくしてくれました。

次の日、奥能登の定期観光バスで、中島町を通りまして、仲代達矢さんと能登演劇堂の関係も紹介してくれました。帰りにも紹介してくれましたので、行ってきましたと申告しましたら、他にも私もというかたがおられ、さらに観光バスの運転手さんのお母さんがボランティアで出演したことがあるということでした。

今回も遠くを歩く傭兵たちは、ボランティアの方々です。

肝っ玉おっ母は、年齢を超えた膨大なセリフの量と動きの〔上演時間80分、休憩20分、上演時間80分〕の舞台です。それをも越えて演じられる役者・仲代逹矢さんというのは何んと表現すればいいのか言葉が出てきません。

 

 

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2017年11月12日まで。

作・ブレヒト/翻訳・丸本隆/演出・隆巴/舞台統括・仲代達矢、林清人/音楽・池辺晋一郎/出演・仲代達矢、小宮久美子、長森雅人、松崎謙二、赤羽秀之、中山研、山本雅子、本郷弦、鎌倉太郎、進藤健太郎、川村進、渡邊翔、井手麻渡、吉田道広、大塚航二朗、十代修介、高橋星音、田中佑果、高橋真悠、上水流大陸、島田仁、中山正太郎

 

2017年10月30日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

歌舞伎座10月『沓手鳥孤城落月』『漢人韓文手管始』『秋の色種』

沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじょうのらくげつ)』は、大阪夏の陣での豊臣家最後の状況を坪内逍遥さんが脚本化したものです。(石川耕士 補綴・演出)

見どころは、淀君の心の動きということになりますが、玉三郎さんがその荒れ狂う機微を表現されることです。事に至って、秀頼(七之助)の正室で家康の孫である千姫(米吉)が、奥女中常盤木(児太郎)の導きで大阪城から脱出しようとしている現場を淀君は目撃します。

淀君にとっては、裏切りと家康の指図に煮えくりかえり、千姫にその気持ちをぶつけます。常盤木は舌を噛み切り、導いた局は斬られます。さらに、淀君は自分に仕える奥女中たちにも何をしていたのかと叱責します。そんな事がありながら、庖丁頭・与左衛門(坂東亀蔵)が台所に火をつけ混乱の中から千姫を城外へ逃がします。

淀君は、刻々と豊臣家の滅亡の中で、秀頼を守れない母としての想いと自分のかつての栄光などが入り乱れて、苦しい葛藤が起っているのであろうか、正常な状態を保てなくなっています。そんな母を前にして秀頼は母を殺し自分も死のうとしますが周りの説得で開城を決心します。

玉三郎さんの淀君の気魄に、周囲の役者さんも淀君に平伏したり、言上したり、なだめたりと必死さが出て、緊迫感がでていました。そういう点ではリアルさも増幅された芝居となりました。

淀君と秀頼は炎に包まれての自害や死までが描かれることが多いので、心理面での場面で終わる逍遥さんのこの作品は、難しく、やはり淀君の玉三郎さんの大きさで支えられた芝居となりました。

正栄尼(萬次郎・あの独特のお声で押さえがきいていました)、大野修理亮(松也)、饗宴の局(梅枝)、氏家内膳(彦三郎)

漢人韓文手管始(かんじんかんもんてくだのはじまり)』<唐人話>は、江戸時代におきた朝鮮国の使節が殺された実際の事件を題材にしていますが、場所を長崎に変えています。芝居の見どころは、役として「ぴんとこな」、「つっころばし」、「たちやく(立役)」がはっきりと印象づけられる芝居であるということでしょう。

「ぴんとこな」の代表は『伊勢音頭恋寝刃』の福岡貢のような色男の和事でありながら武士の心意気もあるという役どころのようですが、鴈治郎さんの十木(つづき)伝七は、さらに一生懸命なのであるが観客側からするとその一生懸命さに可笑し味と愛嬌も見え隠れするという味も加わるという役柄でした。

唐使接待役を仰せつかった相良家の若殿・和泉之助(高麗蔵)は、例によりまして頼りなく女にもてて身請けしたい名山太夫(米吉)がいますがお金がなく、さらに唐使に献上すべき家宝の槍先の菊一文字を紛失しているのです。色男だが頼りない、お金がない、家宝紛失の三無いづくしの「つっころばし」で、高麗蔵さんです。十木伝七は、相良家の家老で高尾太夫(七之助)と恋仲です。

「たちやく(立役)」は、通辞の幸才典蔵(こうさいてんぞう)の芝翫さんで、伝七と高尾太夫の深い仲を知らず、高尾太夫との取り持ちを伝七が引き受けてくれたと勘違いして、唐使呉才官(片岡亀蔵)が横恋慕している名山太夫の身請けの金も用立て、偽物の菊一文字も本物だと偽ってやると請け合います。

そこまでの経緯がそれぞれの役柄で演じられ、なんとかここまであたふたとして道筋をたてた伝七は柔らかさと懸命さで働きます。

ところが、高尾太夫と伝七の仲を知った典蔵はがらりと態度を変え、菊一文字を偽物だといい、名山太夫を呉才官に渡します。この変化を芝翫さんは上手くあらわし、それにあたふたする高麗蔵さんとそれを補佐する鴈治郎さんがそれぞれの役どころを掴み繰り広げてくれます。上方独特の持ち味です。

辱しめを受け我慢が爆発し、伝七は典蔵を殺してしまいます。そこへ奴光平(松也)が本物の菊一文字のありかを知らせに来て、伝七は本物を手に入れるため走ります。

話しは他愛無いですが、三役が上手く演じわけられ面白い舞台となりました。

千歳屋女房(友右衛門・珍しく女方ですが違和感ありません)、珍花慶(橘太郎)、須藤丹平(福之助)、太鼓持(竹松、廣太郎)

 

秋の色種』は、現実の気候はおかしいですが、舞台は理想的な秋の装いでした。背景が薄い水色系に秋の草花が程よく描かれ、玉三郎さんは高島田の前には輝きを押さえた金の花櫛で、着物は薄い紫のぼかしから薄い水色にかわり、袖と裾に秋の草花が刺繍されています。扇が秋風にここちよいほどに優雅に遊び、秋の虫の音に聴き入ります。

静かにしましょうとそっと梅枝さんがピンク系で、児太郎さんが朱色系のぼかしをいれた着物姿で花道からあらわれます。

あの扇使いは無理であろうから使って欲しくないなと思っていましたら、そこでお二人は使われませんでした。

終盤近くで、玉三郎さんが上手に消えて、梅枝さんと児太郎さんはお箏の前にすわります。誰もいないお箏が最初から気にかかりましたが、そういうことですかと、やはりサプライズありです。何事でもないようにお二人は箏を演奏されます。

それが終わり出て来られた玉三郎さんは黒の着物で、櫛と笄のみの名前はわかりませんが好きな髪型です。がらっと雰囲気が変わりこれまたサプライズです。三人で静かに扇を使われて終わりました。谷崎潤一郎も好んだと言われる『秋の色種』、堪能しました。満足感でいっぱいです。

 

歌舞伎座10月『マハーバーラタ戦記』

<新作歌舞伎 極付印度伝>とあります。「マハーバーラタ」は世界三大叙事詩の一つで、あと二つはギリシャの「イーリアス」と「オデュッセイア」だそうです。原作は膨大で手も足もでませんから、歌舞伎座の舞台で触れさせてもらうことにします。(脚本・青木豪/演出・宮城聡)

チラシ置きコーナーに、『マハーバーラタ戦記』の神たちと人物相関図がありました。この図がなくても、セリフを聴いていると何が起ろうとしているのか、どういう人物が出てくるのかは大体わかります。国立劇場で上演される菊五郎劇団の新作歌舞伎をイメージしていましたら、それとは違うセリフ劇でした。動きが少ないだけにセリフは聴きやすいです。

神の世界と人間の世界に分け、当然神様たちが人間界を眺め、人間は戦さを始めるらしいがどうするかと話し合いがもたれます。主なる神は、那羅延天(ナラエンテン・菊五郎)、シヴァ神(菊之助)、太陽神(左團次)、帝釈天(タイシャクテン・鴈治郎)、大黒天(楽善)、多聞天(彦三郎)、梵天(ボンテン・松也)の7神です。

古代インドの神々は知りませんので、シヴァ神や太陽神と並んで帝釈天、大黒天、多聞天が出てくるのが不思議な気持ちでした。話し合いの結果、様子を見ようということになり、太陽神は争いをさけ和をもって平定する自分の子を、帝釈天は力をもって支配する自分の子を人間界に送りだします。ここから人間界となるわけです。

子を宿すのが、(ここから人間界の人物はカタカナにします)クンティ姫(梅枝)で太陽神の子・カルナ(菊之助)はガンジス川に流され、帝釈天の子・アルジュラ王子(松也)は、クンティ姫の三男として育てられます。弓の名手に成長したカルナは王位継承の争いに巻き込まれ、結果的にはこの異兄弟同士の、一騎打ちの戦いとなります。

象の国のクンティ姫(時蔵)の夫は亡くなり、夫の亡き兄の先帝の長女・ヅルヨウダ王女(七之助)は自分に王位継承権があるとしてと弟王子(片岡亀蔵)とともに主張し、仙人クリシュナが仲裁に入ります。

カルナは自分がこの世を救う者であることを夢で知り、育ての親(萬次郎、秀調)のもとを離れて弓技を磨く修業にでて、この王位継承争いの中に係ることとなります。ヅルヨウダ王女はカルナを自分の永遠の友人となることを約束させます。ヅルヨウダ王女の本質を見抜けないカルテの呑気さが少々きになるところです。

クンテ姫には五人の王子がいます。ユリシュラ王子(彦三郎)、ビーマ王子(坂東亀蔵)、アルジュラ王子、双子のナクラ王子(萬太郎)、サハデバ王子(種太郎)です。ヅルヨウダ王女はユリシュラ王子を賭け事に誘い、いかさまで全ての兵力やアルジュラ王子の婚約者・ドルハタビ姫(児太郎)まで賭けのかたに奪おうとしたり、五人の王子を招待して焼き殺そうとしたりします。

それでもカルテはヅルヨウダ王女を永遠の友として、自分の倒すべき相手は、力で治めようとするアルジュラ王子であることを知り二人の対決となるのです。対決すべきアルジュラ王子が、帝釈天が言った力でおさえる性格より優しくて、自分がカルナと血のつながった兄弟であることを知っていて最後は、カルナもそのことがわかり、わざとアルジュラ王子に殺されて死ぬのです。

何かすっきりとしませんでした。その後神々があらわれて、象の国はユリシュラ王子が国を治めたといい、なぜなら彼には欲というものがないからであるというのですが、賭け事で物に対する執着心なく次々賭けていきますが、それが欲が無いとは違うであろうと思えました。

一応、まだ人間たちを生かしておいていいであろうということで、人間界は滅亡することなく続くということに決まります。

考えてみますに、太陽神の子カルナが自分の力を過信し、帝釈天の子アルジュラ王子が力ではなく情があり、それは人間界で生きていくうちに変わっていったことで、最後にカルナがそれに気がついたということなのでしょうか。そういう結論になってしまいました。

和だけではない楽器の生演奏も入り、古代インドの雰囲気も加わりました。ただ、両花道のつらねのときの音はいらないとおもいました。リズムが頭に響いて歌舞伎ならではのつらねのセリフの良さを邪魔されてしまいました。

舞台の大きな屏風様の背景が圧迫感があり、カルナとアルジュラ王子の一騎打ちになって初めてこの屏風が畳まれ、その回りを馬の引く一人乗り戦車機でカルナとアルジュラ王子が走りまわります。初めて観る舞台光景で新鮮でしたが、このためだけだとすれば勿体ない気もしました。せっかくの舞台空間なのですから。

シキンピ(梅枝)とビーマ王子のところは、二人で踊ってもいいのにとも思いました。ヅルヨウダ王女側と五人兄弟との対立が、神の子であるカルナとアルジュラ王子の一騎打ちで代表され、歌舞伎的大団円がなく、スペクタクルさにかけたのが少し寂しかったです。

叙事詩的であったということでしょうか。セリフ的にも聞きやすかったのですが、歌舞伎的セリフ術を味わうというわけにはいきませんでした。若い役者さん中心の世界三大叙事詩の一つの歌舞伎化ということでしょう。若い役者さんあっての歌舞伎化といえるのでしょう。

その他の出演/ドルハタ王と行者(團蔵)、修験者ハルカバン(権十郎)、シキンバ(菊市郎)、ラナ(橘太郎)

 

 

新橋演舞場 再演『ワンピース』観劇一回目

2015年の『ワンピース』が帰って来ました。ただ猿之助さんのルフィが難破したらしいとの情報が入り心配でしたが、白い島に無事漂着したらしいので先ず一安心です。その次の日に尾上右近さんの代役二代目ルフィ(二代目といってよいとおもいます。)を観劇することとなりました。

実は、チケットを取る日が遅れて、特別マチネの券は購入できなかったのです。仕方がない、マチネは11月と思っていましたら、10月に観れることとなりました。11月にはマチネの役者さんもかなり役が身についているでしょうとおもっていたのですが、何んと10月の始めからこの出来上がりなのかと驚きました。

結果的に、猿之助さんの演出家としての力を見せつけられたのと、初演の『ワンピース』が練り込まれてバージョンアップして個々の役が濃厚になり、その中で鍛えられ、二代目ルフィを持ち上げて舞台に飛ばすことができたわけです。事故は突発的なことですが、舞台はそれに対処できるように積み上げられていました。

2015年の感想で 新橋演舞場 『ワンピース』 <2年後には船長ルフィと仲間が船出できることを祈る。>と書きましたが、それはこの歌舞伎演目、海外に船出できるとの想いからだったのです。それが新橋演舞場に再上陸して観劇し、そうかここまでバージョンアップできる可能性を秘めていたのかと納得しました。

ハリウッドで実写映画が作られるということですから、実演で海外に船出するチャンス到来とおもいますが、宙乗りは海外では無理なのでしょうかね。猿之助さん白い島で考えて下さい。

ニコ・ロビン、ナミ、ゾロ、ブルック、ウソップ、サンジ、フランキー、チョッパーの見得のあと後方に名前が出ます。これは大助かりです。ウソップに抱かれたチョッパーに関しては名前が出たかどうか定かではありません。(11月にしっかり注視します。)

尾上右近さんのルフィでわかったのは、猿之助さんはルフィをゴム人間としてゴムまりのような動きを考えられていたようです(勝手に)。狐忠信は人間の姿で狐の習性を見せそれが形となっています。ルフィもそでに去るときゴムまりの弾むような走り方をするのを見て思った次第です。

手が伸びるところで手だけを見せる何人かの黒い衣裳の人と組み合わせて手を伸ばすときのルフィが、間で踊りのような手を使った綺麗な動きを見せますがこのあたりもただ手が伸びるだけではない歌舞伎ならではの動きでした。

ルフィは、兄エースや白ひげや仲間たちに対する想いが膨らむと物凄い弾みがでます。そして自由にどこでも転がって忍び込んだりします。しかし、その対象がなくなると空気が抜けたように動けなくなってしまいます。空気を入れてポンと弾ませてくれる力が必要なのです。その場面も後半の女ヶ島で丁寧に描かれたとおもいます。

ボンクレーと出会う大監獄インペルダウンも前回より印象的になっていますし、ニューカマーランドは、イワンコフを中心にやはり可笑しくて楽しくて愛すべき集団世界でした。

エースを捕らえたセンゴクを頭とする海軍一団も、つるが数回でることによって、人数が増えた白ひげ海賊団とのバランスもとれました。白ひげとスクアードの関係にプラスされて白ひげ海賊団がマルコなど登場人物がふえていました。尾上右近さんは、マルコとサディちゃんで大阪の松竹座から参加されたわけですが、こちらは、隼人さんのマルコで観ることとなりました。宙乗りありで羽根のような衣装がぴったりで、マルコが芝居の中に上手くはまっていて白ひげをより大きくしました。

エースは福士誠治さんから平岳大さんで、赤犬サカズキとの戦いの場のドグマの映像はなかったように思うのですが、(二年前に一回の観劇でしたので、反省し今回は11月も観劇します。)迫力がありました。岩の崩れるところ、他の海賊船が現れる映像も今回印象的でした。

平さんのエースは福士誠治さんのエースより大人っぽい感じで、シャンクスは恰好よく決まっていました。

本水も相変わらず頑張っていて、マゼラン前回あんな高い所から飛んだっけ、体重大丈夫かな。客席への水かけサービス多くなったような。看守役の人たちこんなにすべったかな。お風邪には要注意です。

初参加の新悟さんも前から参加されているような感じで、ニョン婆と三人姉妹のこともよくわかりました。冷静なマリーゴールド、それに従う新悟さんのサンダーソニア、サデちゃんで発散しています。『弥次喜多』で七之助さんに診断されていた竹三郎さんが女医ベラドンナで名医です。

ルフィとハンコックの早変わりもスムーズで、何の問題もありませんでした。元気いっぱいの尾上右近ルフィですが、これからもう少しゴムの弾みと、稚気が加わるといいなあと思いました。まだ少し尾上右近さんの演じるルフィですが、次第に尾上右近ルフィになっていくことでしょう。

ということは、猿之助さんは安心して白い島の駕籠の鳥として、もっと遠くの海と空を眺めていてもいいということになります。さらなる風を集めて帆をあげるために。

『TETOTE』のこの部分速くて波に乗りそこないそうになるんですよね。もちろんファーファータイムはスーパータンバリンで盛り上がりましたよ。マーガレットさんとスイトピーさんごめんなさいです。そちら見る暇なくて自己流で叩き続けていて、終わってみれば左手が痛かった。来月はきちんと指導に従います。以上。

追記: 昨年、シネマ歌舞伎『ワンピース』 見ていたのだ! ぽっかり抜けていました。ショック! 今回の実際の舞台を観つつ脳が探していたのは映像ではなく2015年の舞台の残像なんですよね。しかし、映画を見た事を忘れていたというのはかなり問題ありです。

11月に観に行った時、尾上右近さんのルフィ忘れていて、尾上右近さんのルフィ初めて観ましたと書いたら完全に問題ありです。しかし、猿之助ルフィがうかんだとしてもそれは問題ありとはいえません。

結論です。舞台は自分の眼でとらえたいように主体的に観ていますから記憶として残りますが、映像は誰かさんの勝手な眼ですから記憶としての濃度が薄いのでしょう。そういう事にします。呂上。

 

 

川島雄三監督映画☆『愛のお荷物』☆

赤ちゃん誕生にまつわる風刺喜劇で題名の『愛のお荷物』がなんとも可愛らしくユーモラスであると同時に大人たちの勝手さが見え隠れします。

上映が1955年(昭和30年)で、第一次ベビーブームが1950年前後で、始まりのナレーションも、こんなに人口が増えて将来どうなるのでしょうかと心配しています。今では羨ましい限りということになります。

国会では産児制限の必要性や性に関する論議が活発で、売春防止法が1956年に成立していますから、国会議員が並んでイチニイチニと行進しつつ、赤線地帯に視察に行くなど川島雄三監督の腕は冴えています。

そんな最中、厚生大臣夫人が48歳にして妊娠してしまうのです。子供は少なくしていこうと主張している大臣にとっては、夫人は高齢出産に困惑し、大臣は出生率を押さえる方法を考えて提案している立場上これまた困惑します。そのことはまだ公表されていませんが、国会の答弁から新聞に大臣が赤ちゃんのオシメを替える風刺漫画(清水崑画)が載ったりします。

大臣ご夫婦・新木錠三郎(山村聡)、蘭子(轟夕起子)には、きちんと定職につかず自分の好きな電気器械をいじり研究しながら新内などにも現をぬかす長男の錠太郎(三橋達也)がいます。名前に<錠>がつくのは、この家が老舗の薬屋であるためでしょう。お祖父さんも錠造(東野英次郎)という名で箱根で楽隠居で、薬店は妻に死に別れた番頭の山口(殿山泰司)が任されています。

錠太郎は、恋人である五大冴子(北原三枝)にもどうやら子供ができたようで、結婚したいと父に打ち明けます。五大冴子は錠三郎の秘書をしています。次女のさくら(高友子)には、婚約中の出羽小路亀之助(フランキー堺)がいて、京都に住む亀之助は元貴族の家柄ですがドラマ―で、電話でさくらにドラム演奏を聴かせながらのデイトです。こちらも赤ちゃんができているらしいのです。

結婚している長女夫婦(東恵美子・田島義文)には子供がいないため、私が赤ちゃんを引き取ってあげると軽くいいます。

蘭子の妊娠は誤診とわかり一安心。さくらは、結婚式を早めるため祖父を病気にして作戦成功、五大冴子との結婚を反対していた蘭子も、興信所で調べたら五大冴子が明治の大阪の実業家・五大友厚の子孫とわかりこれも了承となります。

京都で錠三郎は、昔舞子であった頃つき合った貝田そめ(山田五十鈴)に会いたいと言われ会ってみると思いがけないことに、そめは錠三郎に伝えずに子供を産んでいて育て上げ東京に就職したので、一度会ってやってほしいと告げます。錠三郎は承諾します。

その息子・錠一郎(三橋達也)は、錠三郎のいない時自宅に現れ蘭子と会い、帰り際、おばさんのことが好きになりましたと言われ、蘭子も呆気にとられる感じで事実を受け入れるかたちとなります。

番頭の山口はお手伝いのとめとの間に子供が出来、二人も結婚させる事にし、長女も子供が出来たから、他の子は引き受けられないといい、蘭子もガマガエルでの再再検査でやはり妊娠と判明。錠三郎の秘書官鳥井(小沢昭一)も具合が悪く実家に帰っていた妻が妊娠とわかり、厚生大臣の新木錠三郎の周囲には、赤ちゃんが6人生まれることになったわけです。「愛のお荷物」も無事「愛の贈り物」となってめでたく誕生できることになりました。

そしてなんと、内閣改造で新木錠三郎氏は、今度は防衛庁長官に就任ときまりました。

脚本は、川島雄三さんと柳沢類寿さんの二人で、助監督に今村昌平さんの名が映りました。登場人物の名前にも風刺がきいていて、厚生大臣に質問する神岡夏子議員(菅井きん)は神近市子さんをかけているらしく、質問で、厚生大臣はもはや青春の情熱もなく赤ん坊をつくる能力がないなどといわれ、大臣もそれは妻に聴いてみなければわからないことでと答弁していたり、なんともよく注意していないと聞き逃す台詞が飛び交っています。

三橋達也さんは、錠太郎、錠一郎、さらに京都で撮影されている場面で赤ん坊を背負った勤王が三橋さんで新撰組と戦っている俳優の三役です。その撮影を見て一言錠太郎が物申したりとテンポが軽快に進みますから、さらさら流されますが、川島監督流の風刺は結構強いですが、風刺喜劇ですからその手法はきっちり守られています。

それでいながら、祇園での場面などはしっとりと映され、このあたりの映像の変化は喜劇であっても見逃せないところです。

日活映画というと、石原裕次郎さん、小林旭さんらのアクション映画が前面に出されますが、この頃の映画の中の北原三枝さんや芦川いづみさんなどの演技力や、思いがけずちらっと出てくる宍戸錠さんなども楽しませてくれる一因でもあります。

映画館ラピュタ阿佐ヶ谷で、轟夕起子さん特集をモーニングショーのみ上映しています。宝塚出身でありながら小太りのおばさんの雰囲気も惜しみなく披露され、親しみやすさと天然の育ちの良さなども表現される女優さんです。今年は、生誕100年、没後50年だそうで、50歳で亡くなられているのです。かつての女優さんは短時間で人生の年輪を演じられていたわけです。

そういうところを引き出す映画監督の怖い存在もあったということになります。

 

追記: 子どもの頃、清水崑さんの政治漫画から似顔絵に興味をもったのが和田誠さんで、墨田区の『たばこと塩の博物館』で「和田誠と日本のイラストレーション展」(10月22日まで)を開催しています。『週刊文春』の表紙や作画姿の映像など和田誠ワールド満開です。

テレビで映画『快盗ルビー』(和田誠監督)が偶然見れてラッキーでした。映像が和田誠さんのイラストのように美しい色合いで、お洒落な喜劇です。小泉今日子さんのキュートさと、真田広之さんのずれ具合が軽くて楽しいコンビとなって展開します。

 

劇団民藝『33の変奏曲』

劇団民藝は知らなかった事、考えておかなくてはなどの事柄に灯をともしてくれつつ演劇を楽しませてくれますので、今回はどんな芝居であろうかと好奇心がわきます。

ベートーベンが、ディアベリの作ったワルツをもとに33の変奏曲を作ったという事実に基づき、どうしてなのだろうという疑問から展開していくお芝居です。西洋のクラシック音楽は苦手です。音の組み合わせから情景を想像したり情感を言葉に表すというのは至難の技です。

憎まれ口がまた出てきますが、野田秀樹さんの歌舞伎『野田版 桜の森の満開の下』のラストで音楽が流れて音が大きくなるにつれて涙が出てきまして、「野田さんこれはズルいですよ。」と思って高揚の気分の中にいました。音楽ってそういう効果があるのです。そういう怖さもあります。

演出家の丹野郁弓さんがパンフレットのなかで、自分の演出のときは音楽は最小限度しか使わないと書かれていて、丹野さんらしいなと思いました。ただ今回は生のピアノ演奏を使われ、音楽の力に「どっぷり甘えてみよう」との試みでした。

こちらは、音楽の力よりも台詞の力のほうが作用して丹野さんの試みに応えれなかったことが残念ですが、最初の<主題>のディアベリのワルツが、聴きやすい音楽でいいな!と思っていたら、めちゃくちゃけなされて、やはりこれは駄目だと小さくなってしまいました。ただこれは回復する結果となりますが。

ディアベリという人は作曲家なのですが、その作り出す力がないため楽譜出版もしているのです。自分の作ったワルツをもとに、五十人の音楽家に作曲してもらいそれを出版しようという企画です。ベートーベンはそれを33曲も作ってしまうのです。耳が聞こえなくなる状況の中で。ディアベリは一曲で充分だし、ベートーベンの秘書のシントラ―も身近で世話をしつつ、もっと大きな作品に力を注いでほしいと思っています。

この時代から飛んで現代、音楽学者キャサリンは、どうしてこの変哲もないディアベリのワルツからベートーベンが33もの変奏曲を書いたのかを研究しているのです。ただ彼女は難病に犯されていて肉体は変容していくのです。心配する娘のクララと恋人のマイクをよそにキャサリンは研究に心を躍らせています。観る側も推理劇のように謎解きを楽しみます。

ニューヨークに住むキャサリンは病の身で、ドイツのボンにあるベートーベンの資料のある資料館にいくのです。そこにはキャサリンの謎解きの資料が埋まっていて、資料館に勤める司書のゲルティはキャサリンのよき理解者として自分も一緒に謎解きに参加してキャサリンを支えるのです。

母娘関係が難しいながらもクララは、心配のあまりボンの母のそばにきます。それぞれの関係も変容していきます。

こちらは、台詞ではわかるのですが、音楽ではわからないというこまった症状です。猪野麻梨子さんの素敵なピアノも、それがベートーベンのどういう心の内を表しているのかというベートーベンとの一体化ができなかったということです。

ベートーベンとキャサリンは、生き方としても音楽のなかでも一体化できたのでしょう。変容する肉体と心の在り方において。それはわかりましたのでそれで満足することにします。これは、名を残した人も普通の人も、最後に向かう肉体と心の変容の過程時間をどう刻んでいくかの命題でもあります。

その一例を『33の変奏曲』は提示してくれたのです。そこで、浮かんだのが池田学さんの絵で、大きな宇宙や自然の驚異のなかでも、より良い変容をこつこつと営んでいる人々が無数に今存在しているということです。そう、こつこつ、こつこつと変容しつつ。どう変容するかを探りながら。

ベートーベンもキャサリンもそれを支える人々もコツコツコツコツと生をいとなんでいたのです。そこに何か心躍るものをみつけながら。

近頃、アマやプロの無料の音楽会で演奏を聴かせてもらっていまして、マンドリンの音がこんなにも優しくて繊細な音だったのかということを発見し、音楽に対して少し変容したかなと嬉しくなりました。

ベートーベンの音楽がもう少しわかっていれば、もっと躍動感があったのかもしれませんが、台詞だけでこれだけ感じれたのは役者さんたちの技の賜物です。ベートーベンの音楽をわかる方が観たらどう想われるのか知りたいところでもあります。

作・モイゼフ・カウフマン/訳・演出・丹野郁弓/出演・キャサリン(樫山文枝)、クララ(桜井明美)、マイク(大中輝洋)、ゲルティ(船坂博子)、シントラ―(みやざこ夏穂)、ディアベリ(小杉勇二)、ベートーベン(西川明)

紀伊國屋サザンシアターTAKASIMAYA(新宿南口)10月8日(日)まで

 

劇団民藝で上演した『野の花ものがたり』も人の最後の過ごし方の一つの選択肢を提示していました。鳥取市でホスピス「野の花診療所」を開かれている徳永進さんをモデルにしていまして、終末期の患者さんとどう寄り添っていけるのかということがテーマでした。

ひとりひとり違うわけで、ものすごく重いテーマですが、避けられない問題です。こういう方法もあるなと思わせてくれるのは、一つの灯りになりました。

作・ふたくちつよし(徳永進『野の花通信』より)/演出・中島裕一郎・出演・杉本孝次、大越弥生、加塩まり亜、藤巻るも、白石珠江、和田啓作、松田史朗、桜井明美、野田香保里、箕浦康子、安田正利、横島亘、新澤泉、みやざこ夏穂、飯野遠

 

 

『池田学展 ー凝縮の宇宙ー』

このところ高島屋と縁があるというか、友人に誘われて日本橋高島屋の『池田学展』に行ってきました。自分では選ばない展覧会とおもいますが、刺激を受けました。

絵の中に沢山の小さな人、動物、虫、電車、線路、飛行機などが描かれているため絵に近づいて見なくてはいけないので、その場に長くいることになり、人も多くちょっと見るのに苦労しました。それと、絵の前の近くには人がおられるので全体像が観れないのがちょっと残念でした。

まったく友人に聞くまでは知らない方で、緻密な絵だからルーペが必要だといわれましたので、ハズキルーペを持参で、メガネ二つをかけて見ましたが正解でした。

大きな岩山の中に大仏が描かれていて、よく見ると植物や様々なものが描かれています。下絵があってそこに細部を描いたのであろうが、それにしてもこのように描けるものであろうかと不思議でした。

池田学さんが描いてる映像をみて驚きました。細いペンで下絵無しで描きはじめて、ドンドン紙が足されて大きな絵になるのです。頭の中にある程度の下絵はあるのでしょうが、頭の中と、職人的腕の技術の一体化が、想像できない創作過程の中で起こっているわけです。

池田学さんは、自分の日常生活の総てを捨てることなく描く対象にしています。子供時代の自然界への興味、学生時代の山岳部での体験、旅をしたときの風景、その後過ごした場所での日常、家族など、さらに好きなアニメの世界も盛り込まれています。好きな飛行機、電車、線路など何処かにつながる流れが絵の中に隠し絵のように描かれています。

それぞれの眼で発見していくので見る時間が違うため友人とは離れ離れで、その後発見を知らせ合いまた眺めました。矢を射る人。飛ぶ矢がきちんと描かれていました。崩れるお城には、花々が季節感を表し、里見八犬伝の芳流閣の場のように屋根で闘うひと。十二単衣を着た人が空中ブランコ。呑気に一人露天風呂。とにかく発見しては笑ってしまいます。電車をたどって行けばとんでもない所からまた出現したりと、大きなテーマの中で、単純な作業の中で楽しんでいる池田学さんに安心したりします。

葛飾北斎さんの神奈川沖の波のような絵がありましたが、友人によると、波を描こうと思ったのではなく白を描こうとおもったら波になったのだそうです。どの絵に何が描かれていたのか忘れてしまいましたが、千手観音の手がにょきっととびだしていたり、電車が釣り下がっていたり、鳥の巣の中に卵がきちんとあったり、そのデッサン力は小さくてペンの点であってもしっかりされていています。北斎さんのように、なんでもデッサンしておられたとおもいます。

制作年代を見ますと、一つの絵から次の絵まで一年たっていたりしますし、この細かさなら時間を要することがわかります。小さな画面の動物などの絵もあり、リアルかと思うと、亀の甲羅が紫色の宝石だったりとユーモアと発想の転換がたのしいです。

子供のころからの絵やデッサンも展示されていましたが、ポスターなどは色がくっきりしていますが、どちらかというと優しい色使いです。法廷画家もされていて新聞にのったりもしています。そんなアルバイトもされて自分の目指す絵を描かれていたのでしょうが、そうしたアルバイトにも悲壮感なく、確実に自分の腕に教え込んでいる印象でした。

(法廷画家では、映画『ぐるりのこと。』のリリー・フランキーさんをおもいだしました。この方、映画が終わるまで、優しいおっさんなのか、突然へらへらと悪人に変身するのか要注意人物ですよね。すいません。関係のないことでした。)

壊れていきながらも再生していくというイメージで元気をもらいました。本会場が混んでいたので、グッツ売り場の絵のまえで、また発見ごっこをしてしまいました。お城が崩れていく<興亡史>の絵が400枚に切られてメモ用紙になっていて、全部糊しろの接着部分を張ると一枚の絵となりますが、広い何もない壁が必要です。

劇団民藝の『33の変奏曲』を観たのですが、「変容」ということがテーマの一つでもあり、パッと池田学さんの絵が浮かびました。ベートーベンさんと池田学さんがつながった一瞬でした。

飛ぶのはわたしの勝手と、勝手な解釈にも、池田学さんから力をもらいました。

 

 

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映画『おぼろ駕籠』と『大江戸五人男』(2)

大江戸五人男』は、『おぼろ駕籠』と同じ伊藤大輔監督で、脚本が八尋不二さん、柳川真一さん、依田義賢さんの三人なのです。原作が無いだけ束縛がないですが、三人でどのように話合われたのでしょうか、興味のあるところです。

五人の男は、幡随院長兵衛、水野十郎左衛門、白井権八、魚屋宗五郎、そして五人目が架空の歌舞伎役者・水木あやめです。魚屋宗五郎も架空でしょうが、水木あやめは、実在の芳澤あやめにかけているのでしょうか。

戦いのない時代になってみれば旗本の価値も下がり、そうなると町人をいじめては刀を振り回す傍若無人な徒党を組んだ幾つかの集団となり、白柄組(しらつかぐみ)もそんな旗本奴の集団のトップなのです。その組頭が水野十郎左衛門で、その旗本奴をかばう方に大久保彦左衛門が出てきたのにはちょっと驚きました。

山村座では、女方・水木あやめの道成寺がかかっており、所化たちの踊りが始まっています。舞台横には<菖蒲道成寺>とあります。そこへなだれ込むのが白柄組で、当然、幡随院長兵衛が花道から止めに入りますが、水野十郎左衛門は御簾席からではなく土間の枡席からの対峙となり、遺恨の蓋はあけられます。

幡随院長兵衛の家には、鈴ヶ森で出会った白井権八がいて、見ているとあなたは引っ込んでいて余計なことはしないのといいたいほど勝手な行動をとります。そのことによって幡随院長兵衛は水野の屋敷へ行くことになり、結果的には幡随院長兵衛の名を天下に残すことにもなるのですが、ちょっとあきれてしまうふるまいです。

権八は身分を偽って花魁道中で見初めた小紫太夫に会うため吉原に出向き、吉原にはもうこないようにと小紫に軽くいなされます。ところが小紫は、白柄組の近藤登之助に言い寄られ、思いつきで権八を自分がいいかわした人であると紹介し、権八も自分は長兵衛の身内の者だといきがり、白柄組はそれを聞いて権八を待ち伏せして喧嘩となり長兵衛の子分たちが駆けつけこれを撃退させますが、捕らえられたのは長兵衛の身内だけで、水野側はお咎めなしでした。

このことがあってから権八と小紫は事実上の恋仲となります。

水野十郎左衛門にも悩みがあり、腰元のおきぬを寵愛していますが、白柄組の頭としてお金が必要で、近藤から勧められた妙姫とお見合いをしますが気がすすみません。そんなおり旗本奴たちの会合を持ち吉原に乗り込むことになり、そのお金は自分が用意すると請け合い、家康公から拝領の南蛮絵皿を道具屋に売るようにとおきぬに申しつけていましたが、おきぬは自分の一存から売りませんでした。

それを知った水野は自分の男を下げる気かとおきぬを斬ろうとします。おきぬはそれを避け倒れ、皿の入った箱を足で蹴ってしまいます。それを見ていた近藤登之助は、水野がおきぬと別れないのをだらしがないと常日頃から言っており、ここぞとばかりに皿をあらためさせます。一枚、二枚、、、、。十枚目が割れていました。水野はおきぬを成敗することとなり、斬られたおきぬは井戸へ落ちてしまいます。

おきぬの実家は魚屋で兄夫婦がおります。兄が魚屋宗五郎で、おきぬの同輩から事情を聴きお酒を飲み水野の屋敷にいきますが、相手にされません。酔いつぶれた宗五郎を見つけた権八は、長兵衛に水野に掛け合うべきだといいますが、長兵衛は取り合いません。松平伊豆守のほうから、これ以上騒ぎを起こすなとの使いが来ていて、その使いが大久保彦左衛門でなるほどここで使うのかとおもいました。長兵衛は自分が大江戸八百八町の町衆を守ると言い彦左衛門を帰しますが、本当にそうかと振りかえります。

権八はさらに、水野がおきぬを斬ったことを、村山座の座元、戯作者、水木あやめをまえにして話し、これを芝居にしてはどうかと持ち掛けます。あやめは乗り気になり、他の二人は旗本相手ですから躊躇しますが、権八は長兵衛が後ろ盾になると勝手に約束して舞台にあげます。それが「播州皿屋敷」で、青山鉄山がおきくを殺す場面が評判になります。この舞台映像がなかなか面白いのです。おきくは井戸に縛り上げられなぶり殺しにされるのです。こういうやりかたもあるかと刺激になりました。

当然、青山鉄山は水野十郎左衛門とわかり、舞台をみた水野は水木あやめを屋敷に連れて行き、長兵衛に引き取りに来いといいます。長兵衛は小紫から権八がしくんだことだと知りますが、自分は本当に町人の味方であったのだろうかと思うところがあり、一人で出かけていくのです。もし帰らない時は、迎えにきてくれ。しかし、絶対戦いの恰好では来るなと子分たちに言い聞かせます。ここで争いがあったならどちらも容赦はしないという松平伊豆守からのお達しがあり、喧嘩両成敗、こちらが手だししなければ、旗本奴が罰せられるのだからと告げます。

水野の屋敷での長兵衛と水野のそれぞれの言い分のやり取りも見どころです。どうして、あの芝居を上演したのかということですが、水木あやめは長兵衛親分の知らぬことですといいますが、長兵衛は、旗本衆の町人を蔑む態度が、江戸八百八町の町の衆全部にあの芝居を書かせたのだといいきります。

水野は長兵衛の気持ちがわかり、わかった湯に入ってお互い遺恨を流し今夜は飲み明かそうと言います。水野にウソはなかったのですが、他の白柄組の侍は納得がいかず、白柄組の頭として水野自らが長兵衛を殺すこととなるのです。

このことで水野はお家断絶、切腹を申し渡されます。

水野の屋敷から長兵衛の遺体を運びだし、女房のお兼、息子・伊太郎、棺桶を担ぐ子分たちが町中をすすみます。お祭りの日なのに出入りがあると提灯の灯を消して戸を閉めていた町の衆に、もう大丈夫ですから灯りを入れて下さと言いなが通ります。特に息子の声には、涙が出てしまいます。終わり方も上手くできていました。

背中を丸めての阪妻さんには、もっと胸を張ってもいいのではと最初おもいましたが、町民の言葉からこれでよいのかと思考する長兵衛で、こういう長兵衛もありだなあと思いました。芝居は江戸の衆全部で考えたのだというところで、自分たちが主役ではないという想いがあり、そういう長兵衛像にしたのでしょう。こちらから見れば勝手気ままな高橋貞二さんの権八の気持ちまで汲み取り、権八を小紫に頼むあたりに長兵衛の大きさが出ました。

違う時代であれば、もっと違う意地の通し方もあったであろうと思わせる水野十郎左衛門の市川歌右衛門さん。周りに流されていた自分にふっと気がつきますが、遅かったようで、仲間を押さえる事が出来ず最後は白柄組の頭として、旗本奴の長として長兵衛を槍でつくこととなります。

お一人お一人が自分の役どころがわかっていて、それを映像に構成しまとめ上げた監督もさすがです。劇中劇もしっかりしていましたので、長兵衛と水野の対決の面白味が増し、さらに江戸時代、こういう感じで歌舞伎というものはその時に起こって皆が観たいと思うものを瞬時に舞台化したのだなということがわかる映画でもあり、脚本の力を感じました。

出演俳優では、水木あやめの川原崎権三郎さんはその後の三代目河原崎権十郎さんということで、劇中劇「播州皿屋敷」の青山鉄山は二代目権十郎さんということでしょう。魚屋宗五郎の月形龍之介さんは、その出番だけをしっかりまもります。

長兵衛の女房・お兼の山田五十鈴さんがこれまた押さえのきいた女房役で水野の屋敷へ行く長兵衛に羽織を着せるのをためらいますが、長兵衛の死後は腹の座ったところをみせ、じっーと脇としての存在感が大きいです。おきぬの高峰三枝子さんは、腰元という立場に不安を感じつつも、権現様からの品物を売っては水野の名前に傷がつくと心から心配し、小紫の花柳小菊さんは美しく威厳ある太夫で、若い権八を愛しく想いつつも姉のように心配します。

近藤登之助の三島雅夫さんがねちねちとした憎らしい悪役を好演で、最初に白柄組に道を邪魔される外様大名の高田浩吉さんに外様の意地があり、松平伊豆守の市川小太夫が大久保彦左衛門の山本礼三郎さんにピシッと采配を言い渡し、その下で働く町奉行の大友柳太郎さんも切れがいい町奉行です。悪役の多い進藤英太郎さんが、長兵衛の下で働く唐犬権兵衛です。

水野の小姓の澤村アキオさんは、長門裕之さんです。水野の見合い相手の妙姫は松竹歌劇団の小月冴子さんで個性的な演技をみせてくれます。

松竹30周年記念映画ということもあってか、とにかく俳優さんが多いです。撮影は『おぼろ駕籠』でも担当した石本秀雄さんでした。

長くなりましたが、映画の一場面一場面が密接に関連していて、そのつながりがどれも重要でくさりのように繋がっています。最初にお祭りの映像がながれますが、そのお祭りの灯が消え幡随院長兵衛の死によって各家の提灯に灯りがともされていくのが象徴的です。「もう喧嘩はありません。幡随院長兵衛が請け合います。どうぞ、提灯に火をお入れくださいませ。」「どうぞ提灯に火をお入れくださいませ。」

 

映画『おぼろ駕籠』と『大江戸五人男』(1)

映画『おぼろ駕籠』、『大江戸五人男』は1951年(昭和26年)に上映された伊藤大輔監督の映画です。『大江戸五人男』が面白く、やはり伊藤大輔監督はこうでなくてはと納得しました。

記憶違いでなければ、国定忠治が病から体が不自由で座ったまま捕縛と苦しい闘いをするサイレント映画の一部が、京橋のフイルムセンターの展示室で放映していたとおもいます。伊藤大輔監督作品で忠治は大河内伝次郎さんです。

おぼろ駕籠』(大佛次郎原作、依田義賢脚本)は、時の権力者・沼田隠岐守(菅井一郎)を気ままに暮らす夢覚和尚(阪東妻三郎)がやっつけるという内容です。

それは御殿女中お勝が殺されるという一つの殺人事件から始まるのです。お勝は殺される前、想いをよせていた旗本の次男・小柳進之助(佐田啓二)と会い、自分が中臈(ちゅうろう)にあがることになれば進之助と会えなくなると打ち明けていたのです。そしてお勝の殺されたそばには進之助の脇差があり、進之助は無実の罪のため逃げ、夢覚和尚と世を嘆いて隠遁している旗本・本多内蔵助(月形龍之介)に出会うのです。

お勝の殺されたそばには、女性の紙入れも残されており、その紙入れの紋をたどっていくと持ち主が中臈になった三沢(山田五十鈴)のものでした。お勝が殺されるまえに、怪しい駕籠が映され、それが、「おぼろ駕籠」ということなのでしょう。

つかみどころにない夢覚和尚は、実はかつて心中していて女だけが死んでしまったことが内蔵助から語られます。そんな夢覚和尚に惚れるのが深川芸者のお仲(田中絹代)です。お仲は三沢が犯人と知り、三沢の許嫁が彼女に会うことが叶わず自害したことを告げます。三沢は自分が沼田隠岐守に利用されていたことを知り、命を絶ちたいとしますが、夢覚和尚は今はならぬと告げ、生き証人として沼田隠岐守のもとに出向きます。

この時、夢覚和尚は河内山宗俊になりすまし、三沢は京人形の箱に入れられていきます。歌舞伎の二つの趣向をとっています。沼田隠岐守の悪が押さえられ、役目を果たした三沢は自害し、進之助は無実が晴れ、恋人も出来ています。内蔵助はひょうひょうとして現状維持で、お仲の気持ちを知りつつ夢覚和尚はその想いをはぐらかしてしまうのでした。

中臈三沢の山田五十鈴さんに中臈の威厳があり大写しが映えます。一方、田中絹代さんの芸者が向いていなかったですね。芸者お仲が三沢をさとして、三沢は自分の立場がわかるのですが、そう簡単に説き伏せられるような山田さんではない迫力ですし、ちょっと違うな、これが商家の女将さんだったら田中さんもやりようがあったのにと思いました。夢覚和尚との関係も地味で、面白可笑しくこの世を浮かれた感じの阪妻さんとの波長が良い響きとはなりませんでした。

河内山宗俊と京人形の趣向も、歌舞伎の趣向を取り入れましたという感じでつめが甘いです。かといって推理ものの面白さにも行かず、男と女のひたむきな愛なぞもからめたかったのでしょうが理屈っぽさもみえで、阪妻さんの破天荒かなと思われる夢覚和尚にかつて心中しての足かせをしてしまい、見る方は中途半端な気分でした。

伊藤大輔監督で依田義賢さんの脚本で出演者も豪華となると見る側の期待感も大きかったのですが、上手く俳優さんの組み合わせが面白いほうには回りませんでした。

その他の出演・伊志井寛、清水将夫、安倍徹、市川笑猿(岩井半四郎)、加東大介、川津清三郎、山本礼三郎、折原啓子、

大江戸五人男』は、題名からして出演者の役者さんを立ててのオールスターものの顔合わせで、幡随院長兵衛と水野十郎左衛門の対立に「番町皿屋敷」を入れ込んでいるということで、なんで「番町皿屋敷」をと思ったのですが、この映画は練に練っていて流れも継ぎ目が目立たず良く出来ている映画でした。

歌舞伎関係の芝居を盛り込んだ映画では、中村錦之助(萬屋錦之介)さんの映画『江戸っ子繁盛記』と同類の上手くいった映画でしょう。

京都の島原について知ったので、内田吐夢監督の映画『宮本武蔵 一乗寺の決斗』を見直しましたが、武蔵と吉野太夫との場面は緊張感といい、吉岡一門との最後の決闘のへの武蔵の心のやりどころへの場面として効果抜群です。六条でしたので、島原が六条柳町にあった頃の設定となっているわけです。本阿弥光悦との出会いといい剣豪宮本武蔵に全く違う世界に触れさせた名場面です。

吉岡一門について、検索していましたら「染司(そめつかさ)よしおか」に行きあたりました。剣術流派に吉岡流の家があって、大阪冬の陣には豊臣側につきその後は、家伝の染物業に専念し、その流れで今「染司よしおか」という染物屋さんがあるというのです。ちょっと不思議な流れでした。

 

映画『おぼろ駕籠』と『大江戸五人男』(2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

『劇団若獅子』結成30周年記念公演

大正6年に澤田正二郎さんが創設した『新国劇』が70年で幕を締め、その芸を受け継がれた笠原章さんを中心とする『劇団若獅子』が30周年を迎えられました。合わせると100年ということで、「新国劇百年」として、澤田正二郎さんが最後の舞台となった新橋演舞場での「新国劇百年」の記念公演は、喜びの涙ですと、南條瑞江さんが最初に挨拶されていました。

南條瑞江さんのお着物の裾模様に二艘の和舟が描かれていて、『新国劇』と『劇団若獅子』の二艘合わせての百年であり、それぞれの舟が木の葉のように揺れたこともあったわけで、そんなことを思わされる御挨拶でした。

ここでも継ぐということの難しさがあるわけで、ただ猿之助さんが客演されて、その立振る舞いをみたとき、もしかすると、大衆演劇を目指した『新国劇』の芸が歌舞伎に変化して続く可能性もあると思わされました。猿之助さんは、舞台や映画で大衆を魅了した『男の花道』や『雪之丞変化』を演じられていて、『男の花道』は観ています。

今回新国劇の『月形半平太』を初めて観まして、それまでのと違うのだということがわかりました。愛之助さんも舞台化していましてわかりやすく楽しませてくれましたが、新国劇とは違っていました。

染八(猿之助)、梅松(瀬戸摩純)、歌菊(珠まゆら)の三人の女性に囲まれる月形半平太(笠原章)ですが。

新国劇では、染八は旦那である会津藩の奥平を月形半平太に殺され、月形を敵とねらいます。その短刀は染八の刀鍛冶である父親・一文字国重(伊吹吾郎)が鍛えた業物(わざもの)だったのです。今まで見たものには染八のこうした生い立ちなど出てきませんので、ただ月形を敵として果たせなかった芸妓としてしか印象になく、月形半平太と梅松との恋仲のほうが中心になりますが、染八を通しての時代の眼があったのです。

染八と梅松のさや当て、そして染八の刀鍛冶の娘として育った世間を観る眼が月形の男気に惚れるのです。猿之助さんの染八で、染八像が一変してしまいました。そして猿之助さんは歌舞伎になっていました。いつか、猿之助さんが新国劇の『月形半平太』をされる日があるような気がします。継ぐという意味ではそれもありと思います。

歌舞伎から大衆へ、大衆から歌舞伎へ。それは時代劇が危ぶまれている時代の拡散の方向性はどちらであってもいいと思います。(どさくさにまぎれて、猿之助さん『雪之丞変化』関東でもやってください。)

さて、三条橋下での月形である笠原さんと『劇団若獅子』の役者さんとの見事な立ち廻りとなります。『新国劇』は剣劇を目指したわけではないのですがそれで人気を博するわけです。そしてその剣劇もリアルさ求められ、時代遅れとされる殺陣師・市川段平のいきさつが映画『殺陣師段平』になっていて段平が月形龍之介さん、森繁久彌さん(『人生とんぼ返り』)、二代目中村鴈治郎さんとそれぞれの役者の見せ所をたっぷりと味わわせてくれる好きな映画です。

後先になりましたが、『国定忠治』は、舞台で初めて観たのは市村 正親さんの『国定忠治』で、脳梗塞で倒れて寝ているところに捕縛たちが取り囲み何もできない忠治をみてそうであったのかとその晩年を知ったのですが、ちょっとリアルで忠治のイメージが変わってしまいました。

赤城天神山での名台詞が生まれるのは、忠治一家は赤城天神山に立てこもっていますが、忠治の舅と身内の浅太郎(佐野圭亮)の舅の両方が忠治たちを捕らえる側であり、その義理をたてるための一家離散して山をおりるということになり、「赤城の山も今宵限りか。かわいい子分のてめえ達とも別れ別れになる旅立ちだ。」となるわけです。この情のやりとりも見せ所です。

赤城天神山の名場面から世話物の山形屋の場面では、豪快にお酒を美味しそうに飲みますが、忠治さんはお酒が好きだったんだなあと思わせられるそういう飲みっぷりでした。この場は、山形屋の伊吹吾郎さんと忠治の笠原章さんとのコミカルなやりとりを楽しめます。

『国定忠治』は新派の喜多村緑郎さんが月之助の時に、笠原さんの指導を受けて演じられていて、よい意味で拡散しているわけです。

『新国劇』にはまだまだ演じるものがありますから、さらなる道がつづいていくでしょう。淡島千景さんとの『蛍 お登勢と竜馬』もよかったですし、神野美伽さんの小春の『王将』もよかったです。猿之助さんは、亀治郎時代には、笠原さんの駒形茂兵衛でお蔦もやっているんですよね。

躍動的な演劇のなかで、じっくり聴かせる演劇は難しい時の流れでしょうが、継ぐということが拡散したとしても、どこかでまた吹き返す芽がでてくるような気がしますので、これからも猿之助さんの勘違いの30年で終わるんじゃないんですかという言葉を蹴散らして頑張ってください。

笠原さんも最後の挨拶で『ワンピース』の練習の忙しいなかと言われていましたが、猿之助さんが参加されて色々考えさせられ、意義ある参加となられたと思います。