木のまち鹿沼(2)

『鹿沼市立川上澄生美術館』の係りのかたから、すぐ前の建物<文化活動交流館>で屋台を無料で見れますので是非どうぞと薦められました。

中央公園に屋台展示館があるのでそこで見ればよいかなと思っていたのですが、せっかく薦められたのでのぞかせてもらいました。お祭りで引っ張るお囃子の屋台よね、ぐらいの感覚でした。

三台の屋台がありましたが、精巧な彫り物で囲われたものでした。見くびりすぎていました。色彩あざやかなものもあります。係りのひとが説明してくれました。鹿沼には27台の屋台があり、秋祭りにはそれが今宮神社に集まるのだそうです。

説明してくれた方の町内には屋台がないので詳しくはないのだそうですが、この展示している三台の町内のかたが見に来て色々教えてくれるのだそうです。自慢のおらが町の屋台ですから自慢したいところがそれぞれにあるようで、聴いていてもその語った人の様子が伝わってきます。

彩色のあるものとないものは、江戸時代のものであれば、八代将軍吉宗さんの時の倹約令の影響ではとのことでした。昭和に創作されたものは白木のままです。

屋台を方向転換させるのに現在ではネジ式ジャッキや油圧式ジャッキを使いますが、昔からの<テコ廻し>という方法も行われます。ウマというテコ台にテコ棒を乗せ屋台の前方を持ち上げ、ウシという回転台を屋台の下に入れ回転させますが、このテコで屋台が大きく傾いたところも見どころなのだそうです。

屋台の正面の屋根の唐破風が見事です。唐獅子、鳳凰、龍、魔除けの霊獣などがあり、花や鳥、波しぶきなど一つ一つ眺めていたら時間がいくらあっても足りませんので、中央公園の展示館に向かいます。<屋台のまち中央公園>とあり、この公園に<掬翠園(きくすいえん)>という日本庭園がありその入口に芭蕉さんの像がありました。芭蕉さん、『奥の細道』の途上この日光街道の鹿沼宿で一泊していてその時の句が「入あひのかねもきこへすはるのくれ 風羅坊」だそうです。<風羅坊>は芭蕉さんの別号とか、知りませんだした。

屋台展示館>は映像などもあり有料ですが、こちらの三台の屋台も立派で、ここの係りの方の町の屋台もあり、その彫刻の素晴らしさを解説してくださいました。日光東照宮にたずさわっていた彫刻の職人さんが冬の仕事にならない時に、屋台の仕事をしたのではないかということで、そのもととなる<木>が鹿沼にはあったということです。

良い木があったので職人さんも腕を振るえたわけで、休まずに腕を磨く訓練にもなっことでしょう。動かぬ建物の彫刻と近くで見れる動く祭り屋台の彫刻という事に対する職人としての腕の見せどころもあったかもしれません。

今は組み立てて展示していますが、10年くらい前は、毎年秋祭りに組み立てていたのだそうです。鹿沼の屋台を祭り以外の日でも観れるようになったのは10年前くらいからなのです。係りのかたは、この歳になって、こうして皆さんと屋台のことをお話しできるのも、ご先祖さんのお陰ですと言われていました。

10月の第2土曜・日曜の秋祭りには来てくださいといわれ、この彫刻の屋台が動くのを観たくなりました。お祭りでこの彫刻が欠けたり壊れたりすることはないのか聞きましたら、動かしては壊れないが、触る人がいて、つけたくはないが今は世話役の人が四方についてそいうことのないようにしているそうです。

数年まえから見物のお客さんが増えたそうで、一時は、屋台を出さない町内もあったのですが、今は27台が<今宮神社>に集合するそうで、古峰神社へのバス停とそこからすぐの<今宮神社>を通りまで出て教えてくださいました。バスの時間まで10分位ありましたので、急いで今宮神社へ行き、ここに27台が集まるのかと想像しました。これで今宮神社の場所もわかりました。

古峯神社>へのバス停が近くにあり助かりました。本数が少なく一時間ほどかかりますので行けるかどうかが問題でした。もどってくるバスも問題だったのですが、古峯神社のそばにある庭園<古峯園>が閉まっていましたので、帰りの30分後のバスに乘りました。それでなければ1時間半ここにいなければならないのです。お参りして、中を見させてもらいました。赤と黒の大きな天狗が飾られていました。御朱印のことも書かれていて種類が多いです。今日はどの御朱印なのでしょうか。友人が来れなかったのは残念です。私がもらって渡すわけにもいきませんし、帰ってから10月の秋祭りに行くことを告げてはおきましたので、その時にでも再度訪れることにしましょう。

<古峯神社>のまでの途中に<金剛山瑞峰寺>というお寺もありました。帰りなら下りなので次の機会には寄れるかもしれません。信仰の山奥といった趣きです。

さて、JR鹿沼駅までバスで直行ですが、バスの中で<屋台展示館>で手に入れました鹿沼秋祭りのパンフレットを取り出しますと英語版でした。このパンフレットの内容が良いので観光案内でもあれば日本語版をもらおうと思いましたが、それらしきところがありません。駅員のかたが、駅前を掃除されていましたので尋ねましたが観光案内は無いという事で、パンフレットをみてこれはいいですね、駅にも置きたいですといわれます。

屋台会館に電話してみますと中に入られました。ここで、電話されてもどうにもならないしと思っていましたら、出てこられて「住所を書いてください。」「え!」「送ってくれるそうですから。」と思いがけない展開でした。後日早々と届きました。

パンフレットを見つつ、「鹿沼秋まつり」の屋台に会えるのを愉しみにしていますが、頭の中で鹿沼の地図は出来上がっていますので秋祭りまえにもう一度訪れる可能性が大きいです。

「木のまち鹿沼」から「屋台のまち鹿沼」のほうが強いかもしれませんが、もとはといえば<木>があったからという想いが強いので「木のまち鹿沼」としておきます。

     掬翠園

     今宮神社 

     古峯神社

木のまち鹿沼(1)

栃木県鹿沼市も「木のまち」といえるということを行ってしりました。この町は、版画家の川上澄生(かわかみすみお)さんの市立美術館があることを知っていたのでピンポイントとして押さえていました。

川上澄生さんの作品「初夏の風」は、棟方志功さんが油絵から版画に変更するきっかけとなったという話しもあり興味あるかたでした。さて、調べてみますと、鹿沼市は祭りの<屋台>が展示されている場所があり、かなり山奥らしいですが、天狗で有名らしい<古峯神社>もあるらしく、この三か所を起点に計画しました。

<古峯(こみね)神社>のご朱印は種類が多いらしいのです。その時の書き手によって変わるらしいのです。この日に行きますが行かれますかと誘った友人は予定があり同伴できず残念でした。

鹿沼の町は、JR日光線鹿沼駅と東武日光線新鹿沼駅に挟まれていて、ちょうど中間あたりに見たい場所が集まっています。

JR鹿沼駅から歩いて20分のところに<鹿沼市立川上澄生美術館>があり、明治時代の洋館のような建物で、今回の「身近に楽しむ木版画 ー川上澄生・頒布会とその時代ー」は、洋風の小物などを題材としている作品も多かったのでの入場するのに雰囲気が合っていました。戦後、コレクターや愛好家に版画頒布会を開催した作品が中心です。

洋灯(らんぷ)、グラス、硝子瓶や明治時代の人々をモデルとする作品などが多く、色使いが明かるく、淡さとはっきりした色の調和が好もしい感じです。複雑な彫りを感じさせない単純化されて見えるのも川上さんの作風でもあります。

川上澄生さんは、宇都宮中学校の英語教師になってから本格的に木版画制作を始めています。戦争が始まると軍国主義の風潮を嫌って学校を退職、木の活字を彫ったり、絵本の製作などをします。1994年(昭和19年)の『明治少年懐古』を刊行し、少年時代の思い出を木版の挿絵と文で表現しています。その後、一時は、奥さんの実家の北海道苫小牧中学の教師となり、戦後宇都宮にもどり宇都宮女子高等学校の講師となり、宇都宮を終焉の地としています。

戦後、教え子さんたちが中心となり版画頒布会を組織されたようです。

『明治少年懐古』の文庫本を美術館で見つけました。作家の永井龍男さんが川上澄生さんが自分のことを<へっぽこ先生>と称したの受けて書かれた『へっぽこ先生』のエッセーが最後に載っていました。その中で「私は私を喜ばせ、また楽します絵を作っている」の川上さんの言葉を引用し、<短いが、川上澄生の作品の根本を語るに、これ以上適確な言葉はあるまい。>としていて、まさしくその通りで、少年・川上澄生の感性が素直に楽しめ、その当時の少年を身近に共有でき、ほっとさせてくれる作品です。

「俥屋さん」(人力車に乗る様子)、「へっつい直し」(煮炊きするかまどをなおす人)、「でいでい屋」(雪駄をなおす人)

桶屋さんの仕事、米屋のお米をつく仕事、九段坂の車を後ろから押すため立ちんぼをしている人、銀座で十二カ月分の種類があるお汁粉さん。

郵便屋さんが縁先で一服して一日5里は歩くというはなし。当時家の郵便箱は黒い四角いもので上に三角形の帽子がついていて、流行っていた『ふいとさ節』に「四角四面の郵便箱はね(ふいとさ)恋の取持ち丸くする(よいとふいとさ、おーさ、よいとふいとさ、ふいとさ)というのがあったと書かれています。子供が大人の流行り歌を自然に覚えてしまった時代です。

羽織り袴の小学生が、羽織の紐の先を前で結びくるりと後ろへまわし首にかけたり、袴の下から股引きがみえないようにたくしあげたりと、どんなときにもおしゃれを見つけ出す子供の姿も書かれていて微笑ましいかぎりです。

進む先に暗い時代があろうことなど考えもしない、明るい光を目指す子供の純真な観察眼にもどって書かれた短文は名文で、立、横、斜めの彫刻刀の彫りが心地よい音を伴って木版画を眺めてしまいます。

書き終わって思い出しました。澄生少年は写真屋で写真を撮った記憶で嫌になったのが、「立たされて居る時後から鉄のやっとこのようなもので頭を動かしたり曲げないやうにはさまれることだった。」と書いています。この<鉄のやっとこのようなもの>は、六本木のミッドタウンウエストにある、「フジフィルムスクェア」の写真歴史博物館で展示されていました。博物館といってもフォトサロンと同居した小さな場所ですが、写真をとるためにはかなり長い時間を要したらしく、下から伸びた棒に首をささえる丸い部分がついていました。

これを見ていたので、澄生少年の気持ちがよくわかりました。坂本龍馬さんの立ち姿は、木の台によりかかっている写真で龍馬さんらしく格好つけているなと思いましたが、もしかすると、長時間立ったままでは大変なのでこの姿になったのかもしれないと思った次第です。記憶がよみがえりました。

   鹿沼市立川上澄生美術館

  

木のまち鹿沼(2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

<相模湖>は神奈川

JR中央線高尾駅の次の駅、<相模湖駅>が気になっていました。駅から相模湖が近いらしいのです。一度行きたいと思っていました。湖の名前がついている駅名で、その湖へ歩いて行ける場所はそうないでしょう。

旅は行っての出会いと、<相模湖駅>に降り立ちます。山登りのいで立ちで駅を降りた人がみうけられました。駅に着替え場所があります。どうやら山登りやハイキングの場所の多いところらしいです。チラシをゲットしなるほどです。隣駅の<高尾>は東京です。<相模湖駅>、<藤野駅>が神奈川県で次の<上野原駅>が山梨県です。感覚として、神奈川は東海道と思ってしまいますので<相模湖駅>も山梨と思ってしまいます。

観光案内があったので寄りました。相模湖と相模湖交流センターの行き方を聞いて、ふと見ると<小原宿本陣>。出ました。そこへは駅から歩いて20分くらいとのこと。できあがりました。行けます。<小原宿>は、甲州街道の宿場まちです。

相模湖は相模ダムによってできた人造湖で、駅から歩いて10分位で公園となった場所に着き、遊覧船や貸しボートなどがあり、食事処などこじんまりとしています。桜はまだでした。

そこから、相模湖大橋へ。相模湖ダムの全貌がみえます。橋の真ん中から引き返し<県立相模湖交流センター>へ。ここで、相模ダムなどの役割が体験型で学べます。面白かったのが、手で触ってボタンを押すと、音が流れ、三つのボタンがあり違う種類の音が聞こえます。人の体温によって、それぞれの人の音が聞けるのですが、一人しかいなかったので比較が出来ず残念でした。

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そこで、<小原宿本陣>への道を聞き、歩きはじめます。国道をすすむので途中は趣きはありません。本当に残っているのかなと思っていましたら、大きな屋根の破風がみえました。高くて大きいです。立派な本陣でした。本陣だけが国道にそって残ったという感じで、いえいえよく残ったとおもいます。持ち主のかたが長く住まわれていたからでしょう。

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神奈川県下の東海道と甲州街道で合わせて26の本陣があったそうですが、現在残っているのは、この一軒だけです。この清水家は、名主・問屋を努めていました。造りが中二階、二階、三階と四層になっていました。中二階から上はお蚕さんのための造りなのです。本陣でこんな建物は珍しいです。この土地も畑作が出来ない地形であったゆえの営みです。

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甲州道は、大名としては高島藩、高遠藩、飯田藩の三つの藩だけが通るように指定されていたのです。これも初めてしりました。どこの道を通るか指定されていたのです。

問屋として人馬の継立てに要した人と馬の数と通行大名数が書かれてありました。

(文政4年)

  • 東海道  人足100人  馬100疋  大名数146
  • 中山道     50人    50疋      30
  • 奥州道中    25人    25疋      37
  • 日光道中    25人    25疋       4
  • 甲州道中    25人    25疋       3

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先に難所の小仏峠があり、片継ぎの宿場とあります。小仏宿からの人や荷物は与瀬宿を越して吉野宿まで継ぎたて、与瀬宿からは小田宿を通り越して小仏宿に継ぎたてをしたのです。

小仏峠には、美女谷伝説があり、歌舞伎『小栗判官』でお馴染みのあの照手姫が小仏峠の麓で生まれていて、その美貌から地名が<美女谷>となったといわれています。両親が亡くなって照手姫は<美女谷>から消えてしまいます。その後、相州藤沢宿で小栗判官と運命的出会いとなるわけです。案内板の古いのが残念です

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こういう流れがあるとは、やはり神奈川ですか。小栗判官と照手姫のゆかりの遊行寺の桜の開花状況はどうでしょうかね。

相模湖の半日旅に満足しまして、東京の新宿を通って目黒に向かいます。<東京都庭園美術館>での『並河靖之 七宝 一明治七宝の誘惑・透明な黒の感性一』鑑賞のためです。これでもかという細かい多数の花々や鳥などが描かれ、職人の極致といえます。

七宝の造る過程が解らなかったのですが、映像があり良く理解できましたが、益々その職人わざに驚きで人間というのは凄いですね。七宝というのは近年忘れられているところがあります。アクセサリーとして、あるいは自分で創作できるとして七宝焼きなどとして流行った時期もありました。

色の多種多様の美しさに嘆息しました。

ここでの桜は数本でしたが、緑の中にあってこれまた淡さがいいです。

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目黒川の桜が気になって行人坂から太鼓橋に出てみました。満開でした。地下鉄の中目黒方面のほうが桜並木が長いのでしょうが、船に乗った五反田方面に向かいました。地上からですと、桜は亀の甲橋までです。<荏原調節池>の入口が見えました。地上からこんなによく見えるとは思っていませんでした。しっかりお役目はたしてくださいな。

というわけで、執念深くも目黒川の桜のリベンジも終わらせました。リベンジしなくても、電車から見える風景は至る所が桜、桜でした。川といえば柳もありましたが、桜に押されて消えていってますね。夏は柳なども涼しげですが。

追記: 相模湖プレジャーフォレスト でイルミネーションをやっていることを知り数日後に相模湖を再訪。もう少し早く知っていれば小原宿とイルミネーションと一日コースでもよかったのですね。

夕暮れが迫り次第にイルミネーションが始まりだしました。

 

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桜さがし

数年前、友人たちが目黒川を船で桜見物をしたというのを思い出し申し込みました。ただ3月末は寒い日が続いたため、残念ながら亀の甲橋から太鼓橋までの桜メインストリートの花の開き具合はまだ早しで三分咲き、ピンク色には染まっていませんでした。

五反田駅ちかくのふれあい水辺広場からの乗船で、広場ではお花見をする人々が思い思いの楽しみ方をしています。船は10人ほどが乗船のエレクトリックボートで、幌もあるので全天候型といえます。電気なので静かでスピードが出ずゆったりとした進み具合です。

昨年あたりの目黒川は、他の地域からの船や水上バイクなどの行儀悪さが目立ち、今年からは規制して静かでスムーズになったとのことです。水上バイクなどもかもめの水兵さんのようなゆらりゆらりと流れて行く感じです。カヌーの人もいます。

角度の違う散策は、町の見え方も違い楽しいです。森永橋というのがあり、森永の会社があったときに会社が架けた橋で、今ではこうした個人的な橋は簡単には架けられないでしょう。目黒川は50幾つ橋があるらしいです。

 

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目黒川もかつては汚れていて、今も定期的に真水をかけて、海水、真水、その下にヘドロと浄化に努めているようで、雨の降ったあとは濁るようです。

地上から見てもここの桜は川面も向かって枝が伸びていますが、川に写る光に誘われて伸びるのでしょうとのこと。品川にも開花基準桜がこの目黒川にあって、満開でした。基準桜は早く咲く桜を基準にしているわけで、遅くては役目を果たしませんよね。

やはり植物は光に強く反応するらしく、満開となっている桜は近くのビルの窓ガラスに受ける光に反応するのではということでした。白い大島桜もありました。

 

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荏原(えばら)調節池と表示のある空間の入口がありました。この口から川の水位が上がった時一時的に地下に水をためる場所です。平成元年に目黒川が豪雨で氾濫して舟で往来するほどの被害だったのですが、この調整池ができてからそうした被害は一度もないそうです。目黒川も平成元年までは暴れていたわけです。地下鉄に溜まった水が流れる出る場所もありました。行きには流れていて帰りには止っていました溜まり具合によるのでしょう。

 

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桜が咲きほこると地上からはそんな川での様子はうかがい知れませんが、見えないところにも様々な役目が隠れているわけです。45分間の目黒川の船旅でした。

地上にあがり、日本橋の高島屋横にも桜ありとの情報を得ましたので寄ってみました。日本橋と桜はつながりがなかったのですが、ありました。高島屋の京橋側から東京駅八重洲口方面の通りが<さくら通り>となっていて桜が咲いていました。

日本橋船着場からもお花見船が出ています。

コレド室町1、2の間の小路の奥に新しくて小さな社殿があり<福徳神社>とあります。このあたりは福徳村といわれていたのです。

今日のテレビ情報で知りましたが、日本橋三越隣の<貨幣博物館>では桜の錦絵展を9日まで開催しています。この通りが<江戸桜通り>だそうです。貨幣のことなどの展示もありますからちょっと寄ってみるのもよいでしょう。無料ですのでツーと通過するだけでもいいでしょう。(通貨)とかけたのですが。余計なことでした。

今まで行けなかった場所からと知らなかった場所の桜さがしでした。このあとは、どこの桜でも咲いているところがお花見です。

通過して見つけた桜がありました。映画『麒麟の翼』の重要な日本橋の交番のそばに枝垂れ桜ともう一本はソメイヨシノでしょうか。これまた嬉しい発見です。現場にもどれですね。

中山道 『奈良井宿』(3)

天井に龍の絵があるという<長泉寺>は、お茶壺道中で毎年茶壺が宿泊したというお寺さんでもありました。「公儀の茶壺が11、西の丸の茶壺が2」で元禄2年の記録には5月27日宿泊とあり、中山道、甲州街道をへて江戸に向かったようですが、東海道の岡崎にもありましたので、両街道をつかったのでしょうか。正確なことはわかりません。途中、勝山城(現 都留市)で茶壺蔵におさめられ富士の冷気で熟成させ夏越をしてから、江戸へ運ばれたとあり、凄いお茶様です。「お~い、お茶!」なんて気軽に言えません。

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説明文によりますと、3代将軍家光からはじまり、8代将軍吉宗のときは1000人の行列のときもあったとか。この道中のときは、田畑の仕事は禁止、子供の戸口の出入りや煮炊きの煙も禁止で家に閉じこもり、童謡「ずいずいずっころばし」がその様子を表しているのだそうです。このお茶壺道中の再現が6月の木曽漆器祭・奈良井宿場祭の最終日にあります。

龍の天井絵は本堂に入ったすぐ頭上に描かれていて、飛騨の匠・山口権之正さんの手によるものでかつては「鳴き龍」でしたが今は建物の老朽化で音が響かなくなりました。

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朝はまだ開館していなかった上問屋であった手塚家が「上問屋史料館」となっていて開館していました。手塚家は270年問屋と庄屋を兼務していて、奥に明治天皇が休憩された部屋があります。昔は釘を使いませんが、今とちがい釘は鍛冶屋さんが一本一本打ちあげていたので貴重でもあったのです。釘を使わないことによって、かえって工夫をこらし組み立てる技術ができあがったのですから何が技となるかわかりません。

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日帰り手形というのもありました。係りのかたが隣の贄川(にえかわ)宿に木曽福島関所の補助の関所があったからですと教えてくださいました。「外国からの旅行者が多いですね。」「昨年から急に増えました。」「問屋が残っているのはめずらしいですね。」「そうですね、本陣や脇本陣が問屋を兼ねていることもありますから。問屋だけというのはめずらしいのかも。」「なるほど。」「下問屋は今も宿屋として活躍しています。」

奈良井宿は飲食店はもちろんですが、民宿や宿として使われている古い建物もあります。保存と生活を考慮して、修理、修復をされています。そういえば民宿で助六ののれんをかけられているところがあり、三月の歌舞伎座を思い出し、目立つので笑ってしまいました。

奈良井義高の墓所がある<大宝寺>。ここには、首のないマリア地蔵と呼ばれる抱かれる嬰児が手にもつ蓮華の先が十字状になっている観音像があります。昭和7年(1932年)に地元のひとが藪の中に埋もれていたのを掘りおこしたのです。

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おやき屋さんで、みそクルミのおやきを食べ、<八幡宮>へ向かいます。その先に杉並木と二百地蔵があります。これが最後の目的地です。最後にして勘違いをしてしまいました。八幡宮は階段の上のほうにありますので、杉並木は進んできた道をまっすぐ行けばよいとおもったのです。ところが、日のあたらないところは雪が残っていて車のタイヤの跡を行きますがどうも違うようなのです。

よくわからないので八幡宮の下にもどり、一つ目の階段を上ると右に道がありその道でした。階段の途中にあったとは。進みますと短い杉並木がありその先に地蔵堂があって、聖観音、千手観音、如意輪観音などの観音像がならんでおられます。

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明治期の国道と鉄道の整備のさい奈良井宿周辺から集められたのだそうで、こいう残し方もあるのだと当時の人々の想いが伝わります。

八幡神社はさらに階段をのぼります。奈良井宿下町の氏神で、奈良井宿の丑寅の方角にあたり鬼門除けの守護神でもあったのです。小ぶりな社殿の対面には、芝居をしたという建物もありました。楽しみの少なかった頃、ここに集まってにぎやかに芝居を見物したのでしょう。

細い階段には雪が残っていましたのでラストですから慎重に下りました。そんなこんなで駅に着いてみると電車の時間まで25分を切っていましたので、ここでの昼食はあきらめました。

宿場町でこんなにゆっくり見学したのは関宿以来でしょうか。あの時は食事時間をとりましたから立ちっぱなしの奈良井宿ということになります。奈良井宿は中山道の宿場町69のどまんなか34番目の宿です。塩尻側の隣駅木曽平沢駅が漆器の町として銘うち、「木曽漆器館」もあるので奈良井駅間を川沿いの道にそって歩くのも良いかもしれません。約2.5キロです。

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奈良井宿の資料として読みやすく参考になったのは、『続 探訪・奈良井宿ー小学生達の自由研究ー』(楢川ブックレット13)です。「伝統的建造物群保存地区制度」などについても小学生と一緒に学べますし、奈良井宿の取り組み方もわかります。

『探訪・奈良井宿ー奈良井氏がいたー』(楢川ブックレット1)はきちんと史実をさぐり解らない部分も多いのですこし迷路ですが、戦国時代は自分たち一族の生きる道を模索するうえで主人に忠実なばかりでは生きられない混沌さが感じとれ、それが戦国時代なのだと考えさせられました。

畑作では生活のなりたたない地域の人々のことに触れることができるのが中山道の木曽路の歴史かもしれません。

友人が大きな手術をしますので、元気になったら誘ってあげたい場所のひとつとなりました。大丈夫です。食事の時間はとります。JR小海線甲斐小泉駅すぐの「平山郁夫シルクロード美術館」も富士山と八ヶ岳が見える場所で美術館もゆったりと鑑賞できたのでここも加えようかな。また一緒に遊べるようにいいところを探しておきます。

中山道 『奈良井宿』(2)

手焼きせんべい店が外国の旅行者に人気でした。高札場が当時の絵図にもとずいて復元されていました。その横に宮の水場があり<高札場><水場>の説明がありました。

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<水場>は、生活用水の確保、火災が発生した場合に連なる家々の延焼を防ぐための沢水や湧き水を利用して設けられ、旅人にとっては飲み水として利用されたわけです。六ケ所それぞれに水場組合を作り維持、管理されています。

奈良井宿は江戸側に<八幡宮>、京側に<鎮神社(しずめじんじゃ)>があります。<鎮神社>のすぐそばに<楢川歴史民俗資料館>があり、このあたりは楢川村でしたが、今は合併して塩尻市になっています。

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ここで、<鎮神社>のことがわかりました。「すくみ」という難病が流行したため下総の香取神宮から経津主命(ふつぬしのみこと)を勧請し祀ったところ病気がおさまったので<鎮神社>といわれているとのことです。この神社の祭礼の様子が紙人形で再現されていました。裃姿の若い衆のお囃子や屋台、神輿、奴などが勢揃いした行列が続きます。

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子供みこしが展示されていましたが、本神輿は漆塗りの町ですからきっと立派なのだとおもいます。8月11日12日の二日間だけの登場です。漆塗りの挟み箱(衣装箱)には鎮神社と香取神社の紋が左右に金で印されていました。

かつての生活用品も展示され、蚕もかっていたらしく、綿帽子が真綿であるのをしりました。今は結婚式の女性の白無垢のときかぶり、綿帽子とか角隠しと呼ばれていますが、防寒のためのかぶりものだったのです。日本髪を崩さず、軽くて暖かいですから昔の人の知恵です。

初めてみたのが藁(わら)でできた<まぶし>です。蚕が繭を作るときの個室で、蚕は繭を作るとき自分の領分の場所を確保するんですね。その習性にあわせて藁で上手く編んでいるのです。さらに竹などで亀甲模様に編んだ蚕を飼育する平籠の<カメノコ>。カメノコに網をかけ、その上に桑をやると蚕は網をくぐりぬけて上にあがってくるので、網ごと別のカメノコにうつしてフンや食べかすの掃除をするのです。蚕の成長に合わせて網の目の大きさが三種類あるんだそうで、桑の取り換えをどうするのかと思っていましたのでこれまた納得です。

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櫛を作るときの動力として水車を使っていた時期があり、その動力を増大するためにどういうふうに使っていたのかはわかりませんが水車ベルトというのを使ったらしく、それが象の皮でできていたというのにはおどろきました。櫛の木地つくりのため原木を切ったり、玉切りをしていたのです。

櫛をみがくために貝を使っていました。つまみ細工の花の色があせていましたが花櫛も飾ってありました。櫛ができるまでの過程が見たかったです。

資料館のかたにこの先の石畳までの道について尋ねましたら、おそらく雪が残っているだろうとのことで、ここまでとしました。そのかたの子ども時代の奈良井の様子もお聴きしました。水車が4つあったとのこと。そして自分用に蚕が繭を作るとき仕切りのあるものに入れ、繭を破ってガとして飛び立つところを観察したそうです。

伊勢湾台風のときには、<鎮神社>の大木が風で倒れ、社はその大木で倒壊し、その後修復し後ろの木がまだ細いと言われていましたので帰りに見るとその通りでした。

駅のかたも、雪が降ると時にはその雪で枝が折れて道に散らばり歩けないときもあるといわれていました。中山道の木曽路ならではの自然の厳しさです。この先の鳥居峠では、木曽氏と武田氏の戦いのあった場所でもあり、戦国時代には勢力争いがあったわけで、この地の領主奈良井氏についてはよくわかりませんのでパスです。

さてここから折り返して八幡宮まで、お店も開きはじめましたので塗り物やつげ櫛などを眺めさせてもらいつつ進みます。説明も聞きましたので建物の造りが来たときよりもよくわかります。

 

2017年4月2日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

中山道 『奈良井宿』(1)

3月27日、福島県白河市での<安珍念仏踊り>を見るための旅の計画をしていたのですが、雨の予報なので来年に延ばすことにして、中山道で<奈良井宿>が気になっていましたのでそちらに変更しました。

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JR中央線の奈良井駅から一キロほどの宿で、見学に3時間あれば大丈夫であろうと思っていましたら、結果的に5時間近くも滞在することになりました。それも昼食もとらずにです。いやはや本人が一番驚いています。

駅で簡単に観光について教えていただきました。一応中山道の一番の難所である<鳥居峠>についても聞きましたが、2日前の雪でさらに難所のようです。

まだ9時前ですから見える宿場の家並みには静かです。線路をくぐる地下道を進み、ふれあい広場にむかいます。地下道の横を流れている細い水路の音が響き、流れの勢いをかんじます。ふれあい広場から国道19号に向かって奈良井川を渡る新しい<木曽の大橋>が架かっています。階段上になった太鼓橋で、木曽檜でできた橋脚のないもので雪が残っていて左側の雪のないところをあがり川をながめ引き返しました。

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さてほとんど一人占めの奈良井の宿の家並みをゆっくり鑑賞します。重要伝統的建造物群保存地区で奈良井ならではの保存にかける取り組みの感じられる町並みです。二階が一階よりも少し前にせり出ている「出梁(だしばり)造り」で、一階の格子から二階にかけてその風情がよくわかります。

湧き水の<水場>があって、歩いていると幾つかに遭遇しますが、奈良井の表通りには六ヶ所あるんだそうで、後で案内図で数えたらありました。<横水><鍵の手><宮の沢>など名前がついています。

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最初の見学場所は<中村邸>で、くぐり戸を入ると外国の方たちの団体さんがすでに見終わって帰るところでした。電車の本数の少なさからこちらは早いのですが、もっと早いかたが外国のかたとは、どんなコースでまわられているのでしょうか。

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中村邸は塗り櫛の問屋さんだった住居で、建物の説明もあり見どころありです。「出梁造り」で奈良井の場合の特徴は二階と一階の間にもう一つ小さな屋根があるのです。その上に「猿頭」といわれる波形のような木が並べられています。何のためなのかはわからないそうで、今の商店の小さなアーケードを兼ねていたのではといわれていましたが、雪の降るところですからそういう役目もあり、飾りも兼ねていたようです。中の梁が壁を突き抜けて外にまで出ています。

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道路側の蔀(しとみ)が三段階になっていて、真ん中の障子をまず外し、上のしとみを上にあげて金具で止め、下のしとみを上に移動し外すと店開きとなるわけです。さらにしとみを支えている真ん中の柱も外すことができ、全開となります。説明だけですがよくわかります。そして、しとみも障子の予備があって、締めて明かりが欲しい時は障子の数を増やすのです。さらに、雨戸にあたるものは、中で重ねるかたちとなっています。

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その天井に四角のでっぱりがありました。それは、二階に炉を切ってあるのです。京都からの商談で訪れる人も多く、その人たちのために二階でお茶のもてなしをするためです。

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天保8年(1837年)の大火のあとに建てられたもので、間口が狭く奥行が長い建物です。住居の真ん中が炊事場になっていて吹き抜けです。寒いので両方に少しでも暖がいくようにとのことのようです。そのため二階が表二階と裏二階に別れています。

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表二階には炉がありました。道路に面した障子戸が開いていて、小屋根と「猿頭」を見ることが出来ます。

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裏二階には、塗り櫛の展示もされています。櫛の原木は「みねばり」の木で非常に硬く「斧折れ(オノオレ)」とも呼ばれていた木で、そのほか「ずみ」「さくら」も使われていました。土産物として江戸、京都、大阪と全国的に人気があり大繁盛したようです。

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旅のお土産としては、軽くて小さいですし、女性が喜ぶでしょうから、愛妻へ、あの娘へと相好をくずして男性たちも買っていたことでしょう。漆ぬりですので美しい光沢の櫛が並んでいました。それから、土蔵に保管されていたという花櫛の写真もありまして、薄い絹でつくった造花が櫛に飾られていて、つまみ細工の技術がなかったので東京に送って製造したのだそうです。

説明には、島崎藤村さんの詩「初恋」の<前にさしたる花櫛の>の解説も書かれていましたが、この花櫛をさしていたなら、高価なものと思われますので相手がどういう人か詮索できますが、詩人は結構事実を自分の情感にあわせて言葉を選び脚色しますので、その件は想像にまかせますが、この中村家はなかなか商才のあったかたとお見受けします。

蔵の中にも木櫛が展示されていましたが、「月型」「鎌倉型」「利休型」「京型」「おはつ型」「お婆さん型」など様々な形があったのです。

ところで大繁盛だったこの中村邸ですが、空き家となり、神奈川県川崎市の「日本民家園」に移築の話しが持ち上がったことがあるのです。その時、住民の保存意識が高まり、復元修理して資料館として残ったそうで、ここに残ってよかったです。やはりこの奈良井宿で見れるからこそ、見る者もいろいろ当時の様子が膨らみ想像が高まります。

東京都小金井市にある「江戸東京たてもの園」へは行ったことがありますが、川崎の「日本民家園」はまだでしたので今度訪れることにします。思わぬところで新たな刺激を伝授してもらいました。

2017年4月1日 | 悠草庵の手習 (suocean.com)

旧東海道 藤川宿~岡崎宿(~宮の渡し)

二川宿から吉田宿までは途中JR飯田線の小坂井駅までとし、そこから宮宿を通り<七里の渡し>までは名鉄名古屋本線、桑名側の<七里の渡し>から四日市宿までは、近鉄名古屋線の駅とぶつかるところで宿泊場所を探します。無い時はもどったり進んだりして宿泊場所を決め、それからどこまで歩けるかを検討し、何泊にするかを決め、さらに友人の仕事のシフトと合わせ、予定日1週間前に天候を確認して最後の検討。

今思い出しますと、進め進めの前進あるのみで、予定通り進むと達成感で脳は高満足度で、身体の高疲労度は飛んでおりました。この疲労度が結構たまりあとに残りましたが。

さてその中で、歌舞伎『伊賀越道中双六』に登場しました<藤川>と<岡崎>について書いておくことにしました。『伊賀越道中双六』に出てくるのが<三州藤川 新関の場><三州藤川 新関裏手竹藪の場><三州岡崎 山田幸兵衛住家の場>として出てくるのです。重ね合わせるのは無理な風景となってしまっています。

名鉄名古屋線の本宿駅を赤坂宿側に少しもどったところに、<法蔵寺>があります。家康さんの先祖の松平一族の墓のあるお寺で、家康さんも手習いに通いその手習いした紙をかけたといわれる松があります。驚いたことに近藤勇さんの首塚がありました。江戸板橋で処刑され京都にさらされた首を、同志が盗み、めぐりめぐってここに葬られたが、その後また盗まれ今は墓碑と胸像がありました。

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御朱印をもらう時お寺のかたが、かつては新撰組ファンが催しをしていたが、今は年齢的にそれもなくなったと言われていました。

本宿は<赤坂宿>と<藤川宿>の中間にあり、茶店など休憩としてにぎわったところです。一里塚の標柱があり名鉄名古屋線の線路にそって旧東海道は続きます。左手に急な石段があり上には<山中八幡>があります。三河一揆のとき家康さんが洞窟に隠れ見つかりそうになった時、ハトが飛び立ち助かったと伝わっています。

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東棒鼻(ひがしぼうばな)>の標識があり、<棒鼻>は宿場の出入り口のことで、解説案内には、1601年(慶長6年)に整備された<藤川宿>は小さく幕府の要求にこたえるために困窮したようです。補強するため他の村を移住させ加宿させたのですが、それでも小さな宿の部類に入ります。小さいながらも本陣、脇本陣、問屋場、高札場、鼻棒などの施設をつくりに頑張りました。

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脇本陣跡にたつのが無人の<藤川宿資料館>です。その近くに<むらさき麦>栽培地とあって、本当に美しい紫色の麦でした。芭蕉さんがこれを詠んでいます。「ここも三河むらさき麦のかきつばた」1994年(平成6年)に県の農業試験場が栽培に成功させ、その年は芭蕉さんの300年忌の年だったのです。「むらさき麦のかきつばた」。優しい美しさでした。はからずも5月の旅ゆえにまぼろしの<むらさき麦>を見ることができました。

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この資料館には、かつては<からむし細工>も藤川のおみやげ品で、今は福島県の昭和村しか生産されていませんが、からむし製品も展示されていてここでお目にかかるとはおもいませんでした。

西鼻棒><一里塚><吉良道標>を右に進みますと、<藤川の松並木>が続きます。1キロメートルに90本のクロマツが並び、夜には足下を照らす灯りが設置され、夜になるとほのぼのとした明るさが出現するようです。松並木の灯りとは風情があります。<藤川宿>から、<岡崎宿>は6.6キロと近いです。

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進むと<岡崎源氏蛍発生地碑>がありました。ここは、大岡越前守の領地でもあり、<西大平藩陣屋>の解説板があり、大岡忠相は旗本でしたが、吉宗の口添えもあり1万石の譜代大名になり西大平に陣屋がおかれます。

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しかし藩主だったのは3年だけで亡くなってしまいます。大岡家は江戸に常駐する定府大名で参勤交代がありませんでした。そのため、ここの詰めている家臣は多い時で12、3人です。

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さらに<大岡稲荷神社>がありました。大岡越前さん、豊川稲荷の本尊「吒枳尼眞天(だきにしんてん)」を信仰していて、江戸赤坂の藩邸内に豊川稲荷の分霊社として赤坂稲荷を祀り、西大平陣屋内のも大岡稲荷を建立していたのだそうで、2002年(平成14年)に再築されたものです。検索しましたら赤坂稲荷は豊川稲荷東京別院でその由来を引き継いでおられるようです。

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大きなエノキの<大平一里塚>があります。岡崎は、家康さん生誕の地で、浜松城に移るまえに本拠地としていていました。ここには外敵からの防衛のために東海道を<二十七曲り>させたのですが、これは家康さんではなく、岡崎城主の田中吉政さんが造りあげたのです。

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冠木門と<二十七曲りの碑>がありまして、金のわらじの案内柱があります。しかし、地図がほしいです。複合公共施設が目にとまりそこで地図を手に入れました。「岡崎開運の旅シリーズ まち歩きマップ」これが(二十)までありまして<二十七曲り>マップは(四)でした。金のわらじは㋑㋺㋩で続き㋹で愛知環状鉄道の中岡崎駅と名鉄名古屋本線の岡崎公園駅のそばとなります。一応そこで岡崎宿の終わりとします。二十七曲りはまだ続くのですが、なくなっていたりもしますので、そのあとは数えませんでした。

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ここまでで十七の曲りを曲がったことになります。慌ただしかったです。曲りを確認しつつ、三つの本陣跡を確認、<お茶壺道中>の茶壺の石碑があり、宇治茶を将軍家に献上するために始まった道中で、将軍の権威を示すため、100人の人足をだす定めがあり、お茶壺奉行をはじめ100人以上の行列をもてなすときもありこれまた負担が大きかったとのこと。

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大正時代の建物の<岡崎信用金庫史料館>、<田中吉政像>、籠田公園を通って連尺通り、どんどん曲って岡崎城を遠く半周する感じで㋹に到着です。

旧東海道を歩いていると、時間的にお城には行けないのです。お城巡りをするためには、別の計画を立てねばなりません。

岡崎はその他、家康さんの正室、築山御前の首塚がある<八柱神社>、信長の命により自刃した家康さんの嫡男信康さんが祀られている<若宮八幡宮>などもあり、幾つもの厳しい曲り角を歩まれた家康さんの人生が詰まった地でもあったのです。

岡崎城から八丁離れていた八帖町。

江戸時代、東海道で一番長かった木橋。ここを渡って知立(ちりゅう)へ。

追記: 知立宿鳴海宮宿までの写真を載せておきます。「有松鳴海絞会館」見学に時間をかけました。

尾崎一里塚跡の石碑

永安寺の雲流の松

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来迎寺一里塚(左右一対)

池鯉鮒宿の石碑

伊勢物語のマンホール (からころも きつつなれにしつましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ)

知立古城址

弘法大師御自作知立不動尊

阿野一里塚 (国の史蹟指定)

市雪歌碑 (春風や 坂をのぼりに 馬の鈴)

有松一里塚石碑

笠寺一里塚

熊野三社

熱田神宮と旧東海道

裁断橋址

都都逸発祥の地記念碑

姥堂と裁断橋の解説案内

加藤図書助館跡 (家康が竹千代時代に預かる)

伝馬町(かつての熱田神宮の門前町)

宮の宿赤本陣跡

熱田魚市場跡

熱田荘解説案内

宮の渡し公園七里の渡し場跡

国立劇場『伊賀越道中双六』

2014年(平成26年)12月に上演された再演です。演劇全般に与えられる読売演劇大賞が歌舞伎の作品として初めて受賞したのだそうです。歌舞伎は古典のイメージがあり、こういう演劇賞とは縁がないようにおもわれますが、古典作品も現代に通じるという視点をもたせる作品だったということでしょう。

2014年の観劇については書いており、あらすじも紹介していますので、よろしければ下記を参考にされてください。

国立劇場 『伊賀越道中双六』(1) 国立劇場 『伊賀越道中双六』(2)

前回と今回では違うところがあります。前回の<大和郡山 誉田家城中の場>がなくなりました。唐木政右衛門(吉右衛門)が、誉田家に仕官が決まりながらわざと御前試合に負け、敵討ちのため誉田家を去る場面です。ここがなくなり、<相州鎌倉 円覚寺方丈の場><同 門外の場>が加わりました。

沢井股五郎(錦之助)は、和田行家(橘三郎)を殺し、<正宗>を奪おうとしましたが、<正宗>は行家の高弟の佐々木丹右衛門(又五郎)が預かっていてありませんでした。

<円覚寺の場>は、<正宗>と股五郎を交換する場で、<正宗>を渡し、股五郎を護送中、丹右衛門はだまし討ちにあってしまい、股五郎に逃げられます。心配になって駆けつけた志津馬(菊之助)と姉のお谷(雀右衛門)に丹右衛門は、お谷の夫・政右衛門に助太刀してもらい本懐をとげよと遺言するのです。

<円覚寺の場>のほうが、股五郎側の悪戸さが増し、政右衛門の助太刀がはっきりし、志津馬の仇討ちの意志決定の度合いも増しました。そもそも股五郎の図りごとにはまったのは志津馬で、<三州藤川 新関の場>では、お袖(米吉)をだまし、腹のみせずらい役となっていましたが、<円覚寺の場>があることで、それまでの話しに出てくるダメ男志津馬が、敵討ちをする志津馬として観客はのり移れました。志津馬役の菊之助さんにとっては、心おきなくお袖をだませます。

お谷の場合も父の死に続いて丹右衛門の言葉を聞いていますから、政右衛門と会って、もう少しで敵と会えると言われれば子供は寒さからのがれ家の中ですから素直に山田幸兵衛(歌六)の家からはなれられます。

敵討ちに入りやすい状況なのですが、結果的には前回よりも、縛られている人々がより鮮明にうちだされました。素直に敵討ちのためとわが子と離れたお谷のその後の嘆きが伝わります。何のためだったのであろうか。

もつれもつれて、敵討ちという世界に絡めとられていく人々。錦之助さんの股五郎は前回より悪が大きく強くなっていました。憎しみが増しますが、それなのに、敵討ちという道しか進む道のない不条理。あともどりの道がないのです。

莨(たばこ)の葉をきざむ政右衛門の吉右衛門さんの刃の音が、早くなったり、時にゆっくりと強い音になったりして、ここを乗り切ればといった迷いを消そうとするおもいが響きました。その想いが頂点に達した時、人はとんでもない行動に出るものなのだとおもいしらされました。

前回よりも、判りやすくなっているのに、深さが増していました。悲しいながらも、志津馬は周りに助けられながら本懐を遂げることができました。そういう意味では、志津馬という人は恵まれた若者です。

再演で一つの場がなくなって、一つの場が増えるというのを意識して観れたのは初めてでした。前上演も再演も効果を考えられ、思考を重ねられたのでしょう。役者さんも、役どころが深くなっているのも再演の見どころです。幸兵衛の女房・おつやの東蔵さんは幸兵衛とは違い、物事を理詰めでなく情で動くところに暖かさがあり、幸兵衛夫婦に味わいが加わりました。

又五郎さんは、丹右衛門と助平の二役の変化を上手く出されています。吉右衛門さんと歌六さんの師弟関係と敵の立場の複雑さが今回もダイナミックにしめられました。また雀右衛門さんの母としての哀しさが一層細やかで、それを受けとめる吉右衛門さんに口は出さない情がありました。歌六さんと雀右衛門さんは、歌舞伎座との掛け持ちだったのですね。役どころが違うので、それぞれを楽しませてもらいました。

米吉さんのお袖も可愛らしさだけではない、許婚の股五郎を振っての女の性(さが)が少しだけ匂いました。菊之助さんは今回の<円覚寺の場>で、筋の通った役に昇格したと思います。

新しい<円覚寺方丈の場>の床の間の達磨の絵の掛け軸が臨済宗の雰囲気を表していてよかったです。すぐ目につきました。そういうところにも、舞台装置の効果があらわれます。

映像は残りますが、舞台は消えてしまいます。しかし、その時舞台は息をしています。

 

 

歌舞伎座3月『引窓』『女五右衛門』『助六』

『双蝶々曲輪日記(ふたわちょうちょうくるわにっき)』は全九段あり八段目にあたるのが『引窓』です。場所は八幡の里とあり、現在の京阪本線の「八幡市駅」の近くに<引窓南邸跡>の石碑があるようです。引窓のある家が多かったということらしく、登場人物は架空ですから、芝居名のある建物のほうのモデルとしてとりあげているのです。それくらい、この<引窓>は人の心情と切り離せない重要な役目を担っています。

またここは石清水八幡宮に近い場所で、女房のお早がお供え物を持って出て来て二階の窓に飾ります。ススキがあり十五夜だなとわかりますが、明日は石清水八幡宮の放生会なのです。そういう季節の設定もなされているわけです。『日本橋』で橋からサザエをはなしてやりますが、あれは、3月3日の雛祭りです。年の瀬と思っていました『女殺油地獄』は、5月5日の端午の節句の節季(掛け金の決算期)なのだそうで、寒い時期と思って観ていたのが恥ずかしいです。

『引窓』のお早の出も季節感があり、魁春さんのいそいそとしてお供え物を飾る姿には幸せな様子がでています。今、この家の主人・南与兵衛は留守なのです。そこへ、姑・お幸(右之助)の実子・濡髪長五郎(彌十郎)が訪ねてきます。お幸は南家の後妻で、与兵衛は先妻の子で夫は亡くなっています。

与兵衛、お早、お幸は家族ではありながら義理の形で、そこへ実子の長五郎が人を殺して訪ねてくるのです。波風が立たないわけがありません。二階で長五郎を休ませます。

花道から、急ぎ足で与兵衛の幸四郎さんが帰ってきます。着衣を直したりどこか落ち着きません。帰った与兵衛を見て、お幸とお早は驚き喜びます。町人だった与兵衛が亡き父と同じ郷代官に取り立てられ、父の名前南方十次兵衛を継ぐこととなります。お幸は義理のなかゆえ亡き夫に対しても義理がたつと大喜びです。

客があるからと与兵衛に言われ女ふたりは奥へはいりますが、お里の魁春さんが侍姿の夫をほれぼれとして見つめつつ去るところに、廓勤めをしていた名残の色気があり、夫に対する情があります。

ところが出世した与兵衛は、長五郎を捕える側の人間となってしまいます。右之助さんは与兵衛と長五郎の間で揺れる母の心情を細やかに表現され、幸四郎さんはそんな母を実をもって受け止め、母と長五郎の絆を第一に考える腹を見せます。

長五郎の彌十郎さんは、昔のお里のことも知っていて、ここには自分とは違う幸せな世界があるとふっと寂しくなりますが、与兵衛が自分のために出世さえも投げ捨てようとしているのに感じ入り、与兵衛の手柄にと母に頼み、母もそうであったと自分を戒め長五郎を引窓の紐でしばります。

外で様子を見ていた与兵衛は、家に入り、長五郎の縄を切ります。ぱっと引窓があき、十五夜の月の明かりがこの家の人々を照らします。その明るさから、与兵衛は自分の役目は夜の間で、朝になったから自分の役目は終わったと告げるのです。

それは、既に出世を捨てて町人となった与兵衛の心根で、幸四郎さんは曇りのない月明かりのように言い切ります。寸法があった役者さんのほどよいかみ合わせの芝居となりました。

女五右衛門』は、石川五右衛門を傾城真砂路という女性に書き換えた『けいせい浜真砂』で、『女五右衛門』と呼ばれているわけです。その<南禅寺山門の場>で短いですが、あの大きな派手な山門の上に女方で傾城の藤十郎さんが負けることなく、飛んできた雁の口ばしから手紙をとって読み、下に巡礼姿の仁左衛門さんの久吉が現れ、久吉にぱっとかんざしを投げ、久吉はかんざしを柄杓で受け、傾城は手紙をなびかせお互いに見得を切ります。

役者さんの大きさで短時間にみせる、豪華で色鮮やかな心意気を見せ合う場面でした。

助六』は、曽我五郎が身をやつしている名前、花川戸の助六です。やつしているどころか超目立つ江戸の華そのものとなっているのですが。人気者の曽我五郎を江戸仕立てにかぶかせたらこうなるのではといった趣向たっぷりで、黒紋付で着流し風ながら顔には「むきみ」の荒事の隈取をしてしまっているという、まったくもってへんてこりんな助六さんです。そこがまたやんやと女にもてる。意休さんでなくても文句をつけたい御人は沢山いたことでしょう。

頭には紫の鉢巻。病気なのではありません。右側に結ぶと力強さをあらわすんだそうです。襟、袖、裾からのぞく赤。足袋が黄色。そして下駄です。背面には尺八。蛇の目傘を持っていまして、開いたり閉じたり回したり、格好良く傘も遊ばれます。開いてかざしたときの、中の支えの糸が彩りがまた綺麗なのです。四谷怪談の伊右衛門が作った傘でないことはたしかです。花道で、たっぷりやってくれるのが「出場」といわれる演技で踊りではないのです。

先ず口上がありまして、今回は右團次さんがされました。『助六』と團十郎家の関係、後ろで演奏してくれるのが河東節十寸見会御連中で、助六の「出場」だけをそれも成田屋のときだけ演奏してくれるのだそうです。その河東節が開曲して300年で、これを記念しての上演でもあるのです。右團次さん、ご自分の襲名興行での経験もあってか落ち着いた押さえどころのよい口上でした。

『助六』というとぱーっと華やかにぱーっと終わる感じですが、これが2時間という長さなんです。

吉原の仲ノ町の三浦屋前で、傾城が並び、傾城揚巻の雀右衛門さんが酔って登場し、意休相手に、助六が間夫だと言い切りたちさります。間夫は命ですから。

いよいよ助六の海老蔵さんの花道からの登場となり「出場」をたっぷり演じてから、下駄の音も高らかに本舞台にかかり、これでもかと傘をかざしいい形となります。江戸庶民は、自分が助六になって吉原に乗り込んだ気分で入り込んで観ていたのでしょう。そういう意味では、左團次さんは悪役としての威厳あり。敵役はよりにくらしくなくては、こちらの気分も盛りあがりません。

曽我十郎が甘酒屋にやつして菊五郎さんが登場。菊五郎さんの身についた動きと台詞の和事が、荒事と侠客の助六の海老蔵さんを空気のように自然に受けます。喧嘩の仕方を助六は教えるのですが、喧嘩を吹っかけて「こりゃまた何のこったい」と調子を変えてうそぶくところで、十二代目團十郎さんが浮かびます。真面目な方とお見受けしましたのでその落差にふんわりと笑いを誘われました。

当代の海老蔵さんは、年齢的にやんちゃな五郎だけでは物足りないし、かといって分別くさくなっても面白くないし、台詞、姿、形ともに急上昇途上ということにしておきます。

兄弟の母の秀太郎さんは、ふたりをかしこまらさせる威力があり、揚巻も嫁の気持ちでつとめられ、助六の手助けへと展開していきます。

とにかく、色々なタイプの役のかたが登場しますので書ききれなく、楽しみどころいっぱいの江戸の吉原風景です。男なら助六、女なら傾城に憧れるところでしょうが、いやいや、あの重い衣裳を着ての堂々の傾城には憧れる前にへたりまする。