歌舞伎座3月『明君行状記』『渡海屋・大物浦』『どんつく』

明君行状記(めいくんぎょうじょうき)』は、真山青果さんの作で、とらえどころがつかめなかったのです。名君といわれた岡山の城主池田光政の側に永く仕えている青地善左衛門が死罪にもあたる失態をしでかし、主君の本心が知りたいと裁きを待つのです。

光政の梅玉さんと善左衛門の亀三郎さんの弁舌さわやかなやりとりがお見事で、聞かせてくれるのです。結果的に、光政の機知が勝ちそれに対し善左衛門が感服して終わるというかたちなんですが、善左衛門が頑張っていたのは何なのか。

善左衛門は光政の本心が聞きたいのだと言うのです。光政は善左衛門の命を助けたいのが本心という建前を守ったのか。善左衛門は、法を破ってまで自分の命を守ってくれたことを本心としたのか。

光政からすれば、善左衛門の法に従う裁きをといって迫る善左衛門の考えに対して、そういう迫り方には応じられないという主君としてのプライドということなのであろうか。名君であろうとなかろうと、君主という者に本心というものなどないので、上手く治めるということだと言いたいのか。梅玉さんは、善左衛門の性格をよくしっていて、全くあいつはという大きさで情のある君主です。

善左衛門が主君の本心はなんてところに固執したところに、このはなしのややこしさの原因があり、光政の名お裁きとなるのですが、その終わり方がすっきりしなかったのはなんだったのでしょう。光政と善左衛門のやりとりに面白さがあったゆえにもう少し工夫が欲しかったとおもいます。

裁決の場の広い部屋の舞台は、光政の威光の大きさがうかがえる場面となり圧巻でした。そして台詞もそれに負けていなかったのですが。じれったいです。

渡海屋(とかいや)・大物浦(だいもつのうら)』は『義経千本桜』のなかでの話しで、知盛が碇(いかり)を身体に巻きつけて入水する<碇知盛(いかりとももり)>としてよく知られている演目です。

仁左衛門さんの碇知盛は初めて観ました。銀平の仁左衛門さんは海風を切るように颯爽と花道から現れ、知盛の亡霊としてはその知略さと威厳を保ち、戦さの立廻りでの知盛は悲壮感にみちていて、安徳帝が「恨むなよ」と幼くも自分の立場を理解するかのような言葉に、それこそ亡霊となってでもこの方をお守りしたいという最後の力を振り絞っての入水となりました。

船問屋渡海屋の主人である銀平が兄から詮議をかけられている義経を客として泊めているのですが、鎌倉側からの詮索の侍が来た時、義経に聴こえるように義経など知らぬ、ただ客をまもるのだといって自分を義経に信用させます。ここがはっきりしていました。

銀平の女房・お柳の時蔵さんも、自分の夫の天候の変化の読みの確かさを義経(梅玉)一行に伝え、信用させて送り出します。この世話から銀平は白装束の知盛となり、お柳は安徳帝の乳人・典侍の局(すけのつぼね)に、娘・お安(市川右近)は安徳帝という本来の姿となります。

安徳帝を支え海を見つめる時蔵さんの典侍の局の十二単の後ろ姿に涼やかな気品があり、その後平家側の破れていく状況を受けつつ安徳帝を諭すところも品位を崩しません。右近さんの安徳帝も最後までしっかりとそれぞれに目線をむけ幼いながらも優位を保ちます。

知盛が血だらけになり、突き刺さった矢を抜きその矢に付着した血を口に含んだのには驚きました。このしどころは初めてみました。それが一層悲惨さをかもしだし、これでもかという戦いぶりで、勇壮というよりも、戦さの虚しさと悲しさが伝わってきました。

知盛の最後を見届けた義経一行、どこかはかなさを残して真っ直ぐ花道をさります。弁慶(彌十郎)が一人ほら貝を吹き後を追います。

どんつく』の本題は『神楽諷雲井曲毬(かぐらうたくもいのきょくまり)』で、江戸の町の風俗を取り込んだ踊りです。十代目坂東三津五郎さんの三回忌追善狂言で子息の巳之助さんが、動きがにぶいドンな役どころのどんつくをつとめます。このどんつく太神楽の親方鶴太夫(松緑)、の荷持ちで田舎者です。太夫とどんつくが亀戸天神で踊っているのを見物しているのが、大工(菊五郎)、門札者(彦三郎)、芸者(時蔵)、田舎侍(團蔵)、太鼓持(彌十郎、秀調)、太鼓打(亀寿)、町娘(新悟)、子守(尾上右近)、若旦那(海老蔵)で、そこへ白酒売(魁春)が花道からあらわれます。

それぞれが、それぞれの持ち味で踊りを披露し、ときにはどんつくの指導で田舎踊りの総踊りとなり、その調子がどんどん早くなったりしてにぎやかな舞台となります。

どんつくドンドンと太鼓を叩いたり、太夫が籠毬をもっての踊り、どんつくがおかめの面をつけての踊りなど、亀戸天神の太鼓橋と満開の藤の花を背景に、皆さんに見守られての元気で愛嬌のある若いどんつくの追善狂言となりました。

 

シネマ歌舞伎『二人藤娘/日本振袖始』と公演記録映像『桜姫東文章』

東劇でシネマ歌舞伎『二人藤娘/日本振袖始』を観たのですが、はじめに玉三郎さんが、二つの演目の解説をしてくれまして、そのお話が興味深いものでした。

『日本振袖始(にほんふりそではじめ)』は日本神話をもとにしていて、イワナガヒメが大蛇となるのですが、このヒメは美貌ではなかったゆえに捨てられてしまい、そのことが原因で美しい女を消していくという行動にでるわけです。ただ変化(へんげ)するというのではなく、イワナガヒメにも、許しがたい悲しい怒りが渦巻いていたわけです。

郷土芸能にもよくあるように、お酒を飲ませて酔わせて退治してしまうという形式となりますが、歌舞伎の場合、ここに人の性(さが)が加えられているのではないでしょうか。そのあたりが、古典芸能のなかでも、歌舞伎は、心情がより具体的に垣間見られる芸能と言えると思えるのです。

なぜ振袖始なのかということも話されまして、イナタヒメが袖の下に太刀を隠しもつことと関連するらしく、あまり好きではない演目が、俄然興味がわきました。

『二人藤娘』では、お酒を酌み交わすところが、女でもあり男でもあり、女形が踊りの世界の中で女になったり、男になったりというちょっと不思議な関係も楽しめるのではというようなことを言われていました。女同士という感覚はありましたが、一人にとっては、相手の女性に対し想う男を想定して対峙するということで、それが女形というわけですから、二重、三重の芸の重なりがあるということなのでしょう。

たとえば幽霊などのばあい青白い人魂がでてきてその妖怪さを眼に映るようにしたりしますが、玉三郎さんの場合、独特の妖艶さを芸のかもしだす空気であらわそうとされているようにおもいます。それを若い役者さんにも容赦なく要求されます。

要求されなくなったら終わりとおもいます。それは、凄く有難いことだとおもいます。失敗しても玉三郎さんが受けてくれますから。

公演記録映像は、国立劇場の公演記録鑑賞会で、1962年(昭和42年)3月の公演『桜姫東文章』の上映でした。

上映されたのは、<江の島稚児ケ淵の場><桜谷草庵の場><岩淵庵室の場><山の宿町 権助住居の場>で古い映像のために途中で切れてしまうところもありましたが、これまた面白かったです。

守田勘弥さんが清玄で、玉三郎さんが白菊丸です。このお二人が恋仲で江の島で心中するわけです。玉三郎さん、こんなときがあったのだと観ながら、毎日、勘弥さんから駄目だしをだされて、帰ってからは正座してお話をきかれていたのであろうかと、そんなことまで頭の中の映像では写しだしていました。

桜姫が先代の雀右衛門さんで、私が観た雀右衛門さんとは違う面を観させていただき、雀右衛門さんがこんなに笑わせてくれるとは意外でした。私が雀右衛門さんを観たのは重い役どころばかりでしたので、お姫さまが、釣鐘権助というならず者に恋してしまい、苦界にまで身を沈めるという役どころを観て、驚きました。しかし、これが想像できなかったくらい面白いのです。あのしっとりした中にからっとしていて、あの苦しい心情を内に秘めての雀右衛門さんとは一味も二味も違うのです。新鮮でした。

私の観ていない雀右衛門さんが映像で埋めてくださいました。これらを突き抜けた雀右衛門さんを観ていたわけです。

釣鐘権助が坂東三津五郎(八代)さんで、実際には観たことのない八代目さんはこんな世話の感じも出されていたのかと、これまた楽しかったです。代々の三津五郎さんも芸を継承しつつ、それぞれの持ち味に到達するわけです。

昔はよかったとは言いたくありませんが、腰元の声の出し方の抑揚など、上手く言い表せませんが、これが歌舞伎独特の声の抑揚と言うものではないかと心地よく感じておりました。

ますます解らなくなっていきます。ただ、この奇想天外さは、さすが鶴屋南北さんです。それにしても、それを、こうも軽く客を乗せていくこの役者さんたちはなんなのであろうかと思ってしまいました。

今若手を引っ張る玉三郎さんも、かつては硬さのある演技で、シネマ歌舞伎を観たあとだったので時間の経過ということも感じ、こうした役者さんに囲まれて修業されていたのかという想いもありました。

近頃、退屈だった古い映像も面白いのです。ただ、鑑賞の軸がゆれて混乱させられてしまいますが。

 

旧東海道の鈴鹿峠越え 番外編の旅(2)

翌日は伊賀上野へ。伊賀鉄道の上野市駅前には、もちろん生誕地である芭蕉さんの銅像もありますが、『銀河鉄道999』のメーテルと鉄郎の像もあります。漫画家の松本零士さんが、「忍者列車」のデザインをしたからだそうで、電車には、メーテルの眼の部分が描かれています。今回友人にいわれて列車の全面の<メーテルの目>に気がつきました。乗り換えに気をとられていて、前回訪れた時は見ていませんでした。

友人は、メーテルのモデルは、松本零士さんの奥さんの漫画家の牧美也子さんであると言っていましたが、どうもシーボルトさんの孫娘の高子さんという説のほうが強いようです。どちらにせよ、切れ長の目の女性がお好きなのでしょう。

旧東海道を離れても、シーボルトさんの名前がでてきたり、そもそも芭蕉さんが関係していますからついてまわります。旧東海道では、芭蕉さんのお弟子のかたも旅の途中で亡くなりその土地のお寺に埋葬されたり、病気になったお弟子が先に進めないからと一人残り、養生してその土地に住み着いて俳句を広めたという方などの案内板もありました。旅の空の出来事です。

家康さんなどは、逃げたとか、かくまわれて助かったという箇所が何か所かあり、運がよいのか、助けたくなるような人物だったのか、その後の大御所である徳川家康さんからは、推し量れないようなところもあります。

今回は伊賀上野城の中を見学できる時間がありました。足が冷え切りましたが。藤堂高虎公の兜には驚きです。秀吉さんから賜った兜で、大きな扇風機の羽根のようなものが左右に伸びていて真っ黒で<唐冠形兜(とうかんなりかぶと)>とありました。安定感が悪そうで、戦いのための兜とは思えません。高虎さんの絵にもこの兜は脇に置かれて描かれていました。その後、この兜は高虎さんが自分の家臣にあたえてしまいます。ところが、この家臣が真面目な忠臣でかぶって戦さに出て、この兜のために命をおとすのです。罪つくりな兜です。それよりも秀吉さんが罪つくりなのか。いや高虎さんか。

<伊賀流忍者博物館>は説明を一度聞いていながら忘れていました。そして説明者が変わると、とらえどころも違ってくるものだとおもいました。忍者は情報を集めるのが仕事ですから、人を殺めるのではなく、見つかれば敵から身を隠し逃げて情報を守るわけです。家のカラクリもそのためにあります。普通カラクリは二箇所程度ですが、博物館の忍者屋敷は、それを一箇所に集めたものです。

回転する壁も、襲ってくるのが武士ですから、左手で回転するようになっています。武士は左手で刀を押さえていますから、右手で壁を押そうとする。その一瞬の時間差を使うわけです。人の習慣などの習性をよくとらえて、逃げる時間をつくり敏速に行動するわけです。上野天神宮で御朱印も頂けて無事伊賀上野の旅もおわりました。

鈴鹿峠越えの前の番外編の旅は、名古屋のひつまぶしです。その後をどうしようかと検討したのですが、欲を出さないように、御朱印も頂けるので<大須観音>にしました。旧東海道を歩きのうちは、御朱印のために時間調整はしませんので、そこからはずれたときは、組み込めれば調整しました。

大須観音の商店街が若返っていました。若い子向きのお店ができていて、若い人たちだらけです。二年前には閉館の話も出ていた「大須演芸場」も健在でした。コロッケさんも来られるようでポスターが貼ってありました。

そういえば、名古屋のさびれた地下街に若い人が飲食店を開き、活気が出始めたという様子をテレビでやっていました。

旧東海道で、シャッター街や、住んでいないため傷んだ家だけが残っていたりする風景も見てきましたので、若い感覚で人が集まってくるのを見れるのは明るい気分にされます。大須は寺町でもあるので、散策のあとのカフェも愉しめます。

浅草演芸ホールも随分ご無沙汰しています。友人が三遊亭白鳥さんの『任侠流山動物園』がもう一度ききたいといい内容を話してくれましたが、落語家さんの特定の噺をきく機会をつかまえるのはなかなか難しいのです。

 

旧東海道の鈴鹿峠越え 番外編の旅(1)

順調にいき関宿に早く到着したらと考えていた行きたい場所。もうこれで基本線にそれて勝手に行動できるとばかり、私のお気に入りの<油日神社>に行くことを友人に提案しました。

JR草津線の油日駅から歩いて30分弱のところにある神社で、ツアーで2度行き、いつか駅から歩いて行きたいと思っていたのです。神社に電話でお聴きすると、5時までなら御朱印も頂けるということで、油日駅に着いたら電話くださいとのことでした。関駅に着くと電車の出発時間まで30分あります。隣の道の駅に飛び込み遅い昼食をとり油日に向かいました。JR関西本線の柘植(つげ)から草津線に乗り換えです。

油日駅で駅のかたに神社までの道を教えてもらいました。踏切を渡ると立派な大きな赤い鳥居があります。長閑な田舎道をてくてくとあるきます。道なりにと言われたのですが途中で再度地元の方に尋ね、道に大きめの灯籠が並んでいるのがみえました。その先に油日神社があります。平地にあるシンプルな神社で、これぞという自己主張があるわけでなく、いつ行っても変わらぬ安心感で包んでくれる神社なのです。

楼門から回廊で囲まれていて、拝殿があって、その先に本殿があって、調和があり、重厚でありながら圧迫感がなく、それぞれの檜皮葺の屋根の反り具合にほど良いリズミカルさがあり、木造の建物の時間経過がじーんと伝わってきます。甲賀の総社で油の祖神だそうですが、土地になじんでいるその建物の作り出す空気に恋しているのです。

友人も気持ちよく御朱印を頂けて気に入ったようです。御朱印を頂くとき嫌な気分にさせられることもあるらしいのです。神社の前には神様用の水田がありました。

「夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘がなる」 そんな気分の風景です。でも、今の子どもたちは何が起こるかわからないので、早く帰っていらっしゃいといわれ、子供たちだけでこんな風景は見れないのかもしれません。

駅について電車の時間を見たら30分以上あります。すると駅の方が<柘植>行きの時刻表はこっちですよと教えてくれて見ると5分後です。お礼を言って疑問に思ったことをお聞きしました。ここの駅のかたは私服なのです。油日駅は無人駅で「油日駅を守る会」の方々が駅の業務をされているのです。新しいレンタルの自転車が並んでいました。

ホームに出て掲示を見つけました。

レンタルサイクル(有料)「モデル観光スポットコース」(走行距離:11.1km 移動時間:約1時間」

①油日神社➡②櫟野寺➡③滝川城跡➡④大鳥神社➡⑤鹿深夢の森➡⑥くすり学習館➡①油日神社

出ました。<櫟野寺>。これで甲賀三大佛の道筋ができ、またまた油日神社も加わります。この企画は「油日駅を守る会」の方々で、地元ならではです。有難うございます。

柘植駅から油日駅までの間におせっかいもしてきました。車内放送の声小さく途切れて聴きずらいので、車中を通った車掌さんにつげました。マイクが違い調整していたようで、次の放送は聞きやすくなりました。油日駅で降りた時、大きなマルの合図をしました。

 

旧東海道の逆鈴鹿峠越え(坂下宿~関宿)

家康や家光も休息したという<金蔵院(こんぞういん)跡>は石垣だけが残り、<法安寺の庫裏(くり)玄関>は、坂下宿本陣の一つであった松屋の遺構を門の一部に再利用したものと書かれていましたが見ていません。

宿のおもかげはほとんどなく、<小竹屋脇本陣跡><梅屋本陣跡><大竹屋本陣跡><松屋本陣跡>と軒並み石碑のみで、本陣が三つもあり大きな宿場であったのがわかりますが、そのおもかげはほとんどなくてつーっと通過してしまいました。

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鈴鹿馬子唄会館>で坂下宿の概略を知ったのです。<坂下宿>は江戸から48番目の宿場で、鈴鹿峠の下にあることからこの名前がつき、旅籠の数は48あり、亀山が21、関が42ですから、それよりも多く、旅籠の割合は箱根に次ぐ高いものだったのです。大竹屋本陣の平面図面がありましたが一目で大きいとわかります。しかし今はかつての旅籠宿は夢の跡という静けさです。

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ここを歩いた人々の数は数えきれないほどだったでしょう。様々な人々の中にオランダ商館医師のシーボルトさんもいました。彼は江戸へ向かう途中でこの坂下で「オオサンショウウオ」を捕獲してオランダへ持ち帰り、今もオランダのライデン博物館に標本として残されているのだそうです。ここに「オオサンショウウオ」が生息していると知っていたのか、たまたま見つけたのでしょうかね。「オオサンショウウオ」も、見慣れない人だなあと姿を現したのか。

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井伏鱒二さんの『山椒魚』を思い出してしまいました。「君は何やってんだい。おいらなんかオランダまできてしまったよ!」「さらし魚になったのか~~」「・・・・」

シーボルトさんに関しては朝井まかてさんの小説『先生のお庭番』がシーボルト事件まで触れていて参考になりました。

東海道で芭蕉さんの次に歌を紹介されているのが西行さんですが、ここでの西行さんの歌です。「鈴鹿山 憂世をよそにふりすてて いかになり行く わが身なるらん」

では芭蕉さんも。「ほっしんの 初の越ゆる 鈴鹿山」。この時の自分の気持ちは芭蕉さんに近いです。反対方向からくると、西行さんの気持ちに近いかもしれません。憂世をすてるまではいきませんが、さあこれから上手く峠を越えられるであろうかと。

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町家が残っている沓掛の少ない家並みを通ります。<筆捨山>は絵師があまりの素晴らし山の景観に筆を捨てたといわれる山ですが、どれがその山なのか見える木々の山がそうであろうとしておきました。亀山市民文化部で出している案内図には、筆を捨てた絵師として狩野元信さんの名前がありました。鈴鹿峠を越え、坂下宿も過ぎ、思っていたよりも早く<関宿>の西追分の公園に到着です。

江戸側からこの公園に着いた時、ご夫婦が丁度鈴鹿方面から到着しまして、どうでしたかとご婦人に尋ねたんです。「そんなに大変じゃありません。」水口から土山までタクシーを使い、そこから歩かれたらしいのです。

ご主人のほうは、休憩所の東屋で座っていたのが、お疲れか横になってしまいました。ご主人のほうは、旧東海道歩きの途中から参加され、奥さんのほうは、中山道も歩いたということですから、歩きに関しては、奥さんのほうが上のようです。これから亀山宿まで行くとのことでした。

私たちの足は、ご主人と奥さんの間くらいの力と解釈しました。健脚の友人は、関宿から水口まで歩いています。私たちには無理。ここは途中の交通機関がないので自分たちの体力から、多少調子が悪くても一日かけてこれくらいとゆとりをもたせました。ただここはタクシーは呼べるでしょう。箱根は交通の便はいいですが、一部は車の入れない場所を歩きますから、鈴鹿峠との違いはその辺でしょうか。

私たちは、旧東海道の道を歩くというのが基本でしたが、ほかの友人は、開発されて面白くなさそうな道は電車にして、美味しい飲食店に出くわすと、次の出発には、そのお店を再度訪るという計画にしたりして変化させており、それぞれの楽しみ方をしています。

テレビでも「鉄道でたどる 東海道五十三次」という番組ををやっていまして、そこで、ひつまぶしを食べていて、それを見て友人は食べたくなったわけです。わたしは、<どまんなか袋井>の「たまごふわふわ」が食べたかったです。土鍋にだし汁を入れ、餅を入れて、メレンゲにした卵をふんわりとかけ火にかけるのです。作れますが、旅の途中で出くわすというのが楽しいです。特に寒いときには。江戸時代にこの「たまごふわふわ」があったというのですからおどろきです。

テレビ番組では、宿泊と食事が豪華で、次の日の私たちならゴマノハイにあった状態でしょう。番組とは反対に、三条大橋から八坂神社に向かったのですが、かき氷が食べたくて表示をみると高いのです。庶民の食べ物がなんでこんなに高いの。1000円以上のかき氷なんて食べないよ。八坂神社のそばにありました。抹茶かき氷。白玉とあずきも添えられて。みうらじゅんさんといとうせいこうさんの東京と京都のかき氷談義がふっと頭をかすめましたが、口と喉の触覚優先でした。夏になあ~ると思い出す~

悟りの薄い者は、憂世に即もどります。基本形から解放され番外編の旅のつづきとなりました。

旧東海道の逆鈴鹿峠越え(田村神社~坂下宿)

旧東海道歩きの<鈴鹿峠越え>ができて、一応旧東海道を歩いたことになります。

関宿から土山宿までの間に鈴鹿峠があります。すでに土山宿手前の田村神社前から土山宿、水口宿へと歩いているので、関宿から坂下宿、そこから鈴鹿峠を越え田村神社までとなるのですが、色々検討し、田村神社から関宿に向かう逆コースにしました。これが良かったのかどうかは反省点も残ります。旧東海道は日本橋(東京)から三条大橋(京都)に向かう方向性で表示してあり、その通りに歩くと何の問題もない道が反対方向からくると表示がなくて混乱するのです。戸塚の権太坂もそうでした。

鈴鹿まで行くなら友人を伊賀上野まで連れて行きたいのと、名古屋でひつまぶしが食べれなかったのが残念とのことでしたので、先に名古屋に寄りました。

鈴鹿峠越えは草津線の貴生川駅からバスで田村神社で下車そこから一日かけて三重の関宿に向かう計画としたのです。全てクリアできましたので、結果的には良しということになりました。

田村神社>前の国道一号線に近い鳥居を潜ると旧東海道があります。そこから出発です。歩き終わった友人からも判りやすい道で、ただ長いと言われていたのでそのつもりで歩きはじめます。

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広重さんの絵「土山 春の雨」の田村川に掛る橋を渡り大きな工場の間を通ります。このあたりは、<蟹坂古戦場跡>で伊勢の北畠具教が甲賀に侵入しようとしますが、山中城主・山中丹後守秀国がこれを阻止したとのことです。私のわかる歴史範ちゅうにはないことがらです。

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蟹が坂>があり、かつてここに罪を犯す大きな蟹が住んでいて祈り伏せられたという話しがあります。その蟹の甲羅を模した飴が田村神社前の<土山の道の駅>でも売っていました。

猪鼻村>の標識があり「土山宿」と「坂下宿」の間の立場(休憩所)があった場所で、赤穂浪士の大高源吾が旅の途中で詠んだ「いの花や早稲のもまるゝやまおろし」の句碑もありました。東海道はやはり赤穂浪士が時々痕跡を残し登場します。

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そしてここにと思ったのが<檪野観音道(大原道)>の表示板です。旧東海道から檪野寺への参詣道があったのです。さらに関宿に着いた後に、もう一度檪野寺への道を知ることになるのです。<鈴鹿馬子唄之碑><山中一里塚

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十楽寺>は今回の楽しむのひとつでした。このお寺の阿弥陀如来坐像が、甲賀三大佛の一つなのです。大池寺の釈迦如来坐像、檪野寺の薬師如来坐像、十楽寺の阿弥陀如来坐像。檪野寺の薬師如来坐像は、昨年の11月に東京国立博物館で拝観しています。三大佛の一つが現地で拝観でき、友人も簡単には行けないお寺で御朱印が頂けるとよろこんでいたのですが、その日は宗教上の集まりがあり留守との張り紙でした。残念。

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しかし、この時間差で助けてもらえたのです。大きな灯籠の<万人講大石灯籠>に着き屋根のある休憩場でほっとしたとたん雨となり、驚いたことにそれが雹(ひょう)になったのです。やはり<鈴鹿峠>、何が起こるかわからないと思いました。少し様子をみて時間がとられるようなら雨具で歩くしかないかなと覚悟しました。風で雹が吹き込み休憩の椅子もどんどん濡れていきます。

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準備していますと、次第に小ぶりになっていくようです。大事にならず大丈夫でした。十楽寺で時間をとっていたら途中で濡れることになったでしょう。十楽寺の阿弥陀如来様がお会いできなかったかわりに濡らせませんでしたよと言われたようでした。

さらにこの先で、雪がちらつき、前方の山のほうは吹雪いているように白くかすんでいましたが、それはこちらまではきませんでした。鈴鹿馬子唄の「坂は照る照る鈴鹿は曇るあいの土山雨が降る」の鈴鹿峠の急な天候の変化を身をもって体験しました。

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さてこれから鈴鹿峠越えとなるのですがこちらからは下りとなるので気分てきには楽です。ところが、降りたところで前の一号線を渡ったところに旧東海道があるはずなのですが覗いても道がないのです。おかしい。もしかして途中で違う道があったのかともどることにしました。<鏡岩>を天候不順なのでそこへの道は通り過ぎたのですが、ここまでもどったのならとそこへも寄ることにしました。<田村神社旧跡>とあり田村神社はかつてはこの峠にあったのです。

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<鏡岩>というのは、断層が生じる際に強力な摩擦力によって研磨され、平らな岩面が鏡のようになるのだそうで、山賊がこの岩を磨いてそこに映った旅人をおそったという伝説の岩です。そういう伝説がのこるほど山賊がいたということでしょう。

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脇道もないのでまた<馬の水飲み場><芭蕉の句碑>を通り降りました。すると柵のようなものが眼につきました。下る階段があります。ここでもぐって国道1号線を渡るのです。

浅はかなおばちゃんもいるのですから、ちょっと表示しておいてくださいな。不思議なくらいそれが眼に入らず国道をふらふらしてしまいました。その下り階段を通り抜けた入口には東海道と表示があり、反対側から来れば難なく道なりに進めるようになっていました。

そしてもう一回やってしまったのが、無事<片山神社>に着き喜んで上まで上がりお詣りしてここでまた道を間違えまして国道へでてしまいもどることとなりました。そこも反対側からくればわかるように表示されていました。表示に頼って来ていた甘さでしょうか。

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そこからは、順調でした。<岩屋観音>と葛飾北斎さんの「諸国滝めぐり」にも描かれたという清滝は工事中なのかロープが張られていて行けそうもありません。そして坂下宿へと入ったのです。

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参考とした案内図

旧東海道の逆鈴鹿峠越え(坂下宿~関宿) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

国立劇場『執心鐘入と琉球舞踏』と映画『電光空手打ち』

和歌山県日高の「道成寺」へ行った時に、琉球舞踏にも「道成寺物」があるというのを知り観たいと思っていましたがやっと観ることができました。

『執心鐘入(しゅうしんかねいり)』で、美しい若者が一夜の宿を頼みますと、今親が留守だから泊めるわけにはいかないとことわられるのですが、若者が若松と名のりますと泊めてくれて夜中に語り明かそうと娘が若者のもとにきます。この娘は、若松を恋しく想っていた娘だったのです。しかし、若松は娘の行動に驚き、お寺に逃げ込み鐘の中に隠してもらいます。娘は追い駆けて来てその執心が凄いので、座主は若松を鐘から逃がし、娘を鐘の中に閉じ込めます。

祈り伏せ、鐘を釣り上げてみると誰もいません。鐘から・・・娘は蛇体の鬼女となって顔をだすのですが出方が予想していなかった展開で、こういう構成もあるのかとやはり観てみないとわからないものです。

琉球舞踏は足の動かしかたに特徴があります。摺り足であったり、少しつま先を上げたり、リズムよく足踏みしたりします。長い衣裳の時はわかりませんが、着物のすそが短くなるとよくその動きがわかります。

衣裳も、沖縄の紅型の美しい色であったり、芭蕉布の素朴な涼しげな布地であったりし、女性は長い上着の時は、中から白い細いひだの裳のようなものが見えたりします。上に来ている長着の持ち方も着物の前をきちんと合わせ、左右の手で乱れないように優雅に持つことを知りました。

静かに静かにゆったりと踊り心情を表現するものもあり、非常に力強いものもあります。

高倉健さんのデビュー作品が『電光空手打ち』という作品で、沖縄を舞台にしていまして、空手の修業をする青年の話しです。主人公・忍勇作(高倉健)は、自分が所属する空手の流派と相対する流派の名越(山形勲)から、空手は攻撃する武術ではないといわれ、その考えに心うたれ弟子になることを希望します。しかし、元所属していた流派からつけ狙われます。そんな時、陶芸家の娘・湖城志那子(浦里はるみ)から、空手を取り入れた琉球舞踏をみせられます。

この舞踏が素晴らしかったのです。これは、映画のために創作されたもので、実際の琉球舞踏にもあるのであろうかと疑問に思っていました。

『二才踊 前の浜(めえむはま)』は、浜の若い衆が踊るといった感じで、きりっと形のきまるところがあり、もしかしてこれは空手からきているのかなと映画をおもいだしました。やはり空手を取り入れてあったのです。

空手は、沖縄が発祥の地だったのです。沖縄の古武術でした。映画でも、沖縄の空手を東京の運動体育展覧会で披露するため、代表として名越が選ばれ東京にて披露します。そして志那子の踊りも披露されます。ここは次の映画『流星空手打ち』となります。映画製作にあたり、当てずっぽうではなく、琉球舞踏に関しても調べて、話しの中に組み込んでいたのです。

琉球舞踏でも小物が使われ、女性が肩にかけていた赤い手巾(ティサジ)を恋する男性に与え、男性は腰に巻いた紫の腰布を女性に渡し、それを女性が腰に締めて踊り、男女の恋の語らいの踊りとなります。

同じ男女の踊りでも、滑稽味のあるものもありますが、サラッと可笑し味を表し、くどい表現ではなく、沖縄の風土とも関係するのでしょうか。

頭に巻く布の巻き方も独特のもので、長い布を前から巻いてなどと観察してしまいました。紫がアクセントとなっています。そして、あの女性の美しい赤い笠。

琉球舞踏も奥が深そうです。今回二日に渡って開催されたのですが、一日だけ観させてもらいました。どちらの日にも『執心鐘入』が踊られ、これは琉球舞踏でも大作なのでしょう。

国立劇場では、旅で出会って観て見たいと思っていたものが東京で見ることが出来て嬉しいです。沖縄に行った時は、ホテルで観させてもらいましたがほんの一部でなのがわかりました。お隣のかたも琉球舞踏ははじめてで、能のような感じもあり驚いたと言われていました。機会があれば、また観させてもらいます。

道成寺・紀三井寺~阪和線~関西本線~伊賀上野(4)

沖縄の『執心鐘入』を観ることができたので、<福島県白河市歌念仏安珍踊根田保存会>のほうはいつであろうかと調べたところ、今年は、3月27日ということです。安珍堂に10時ころまでにいれば「安珍念仏踊り」が観られるということです。

 

 

前進座『牛若丸』と映画『歌舞伎十八番「鳴神」 美女と怪龍』

前進座創立八十五周年記念公演の一つで、源義経が牛若丸と名のっていたころの創作歌舞伎『牛若丸』の公演を観てきました。

藤川矢之輔さんが口上のあと、「歌舞伎の楽しさ」ということで、音楽、立役、女方、立ち回り、だんまりなどの解説がありました。国立劇場での歌舞伎鑑賞教室などで「歌舞伎のみかた」という同じような解説がありますが、この分野まだまだ工夫の余地ありだと思わせてくれました。

驚いたのは舞踊のところで、『操り三番叟』をたっぷり踊られたことです。矢之輔さんが操る後見で、三番叟はどなたが踊られたのかわからないのですが、しっかりと踊られていました。

口上のときに『牛若丸』は、九州の子ども劇場からはじまり巡業してこられたとの話しがありました。浅草公会堂は27日一日一回だけの公演でした。

牛若丸』は三幕で、常盤御前(早瀬栄之丞)が乳飲み子の牛若丸を抱いて逃げる雪の場、京都五条の橋に美しい少年が現れ刀を奪い、それを聞いた弁慶(渡会元之)が退治しようとして反対にやられてしまい、それが牛若丸(本村祐樹)で弁慶が家来となるという月の場、鞍馬で剣術の稽古をする牛若丸が大天狗僧正坊(矢之輔)に兵法書の一巻を与えられ、陸奥の国へと花道をさる花の場の三幕になっていて、「雪月花」として変化をあたえる構成です。

本村祐樹さんは、玉浦有之祐さんに名前をかえられたようですが、チラシではもとのお名前のままでした。玉浦有之祐さん、発声もよく牛若丸の幼さを残した雰囲気があり、それでいて敏捷な動きで形もよく華やかさがあり、役がよく合っていました。歌舞伎の弁慶としては元之さんには、もう少し大きさが欲しいところです。矢之輔さんはさすが舞台を締めてくれます。

わかりやすく、美しい舞台で、牛若丸と弁慶の立ち廻り、牛若丸とカラス天狗の立ち廻りなど、楽しい舞台で、子供たちが喜びそうです。

映画『大人は判ってくれな』(フランソワ・トリュフォー監督)で、子供たちが人形芝居「赤ずきんちゃん」のお婆さんの化けた狼と赤ずきんちゃんの場面を観ている子供たちの様子が映しだされますが、子供たちがお話しのなかに入り込んでいる表情が素晴らしいのです。その表情が浮かんできました。

出演・中嶋宏太郎、上滝啓太郎、忠村臣弥、嵐市太郎、和田優樹

五月には国立劇場で山田洋次監督の脚本で『裏長屋騒動記 落語「らくだ」「井戸の茶碗」より』の公演があります。

山田洋次監督が、歌舞伎学会で「演劇史の証言」として話してくださった時、新たな視点 <江戸・文七元結・寅さん> 歌舞伎をまたやりたいというお話があったのですが、落語をもとにした脚本で前進座とのコラボが実現するわけです。どんな世話物となるのか前進座としての新しい世話物のができあがるかどうか楽しみです。

前進座と映画会社提携の映画や座員複数の出演映画が幾つかありますが、歌舞伎『鳴神』をもとにしたのが『歌舞伎十八番「鳴神」 美女と怪龍』(1955年)です。前進座25周年記念映画でもあり、鳴神を演じるのが河原崎長十郎(四代目)さんです。

監督・吉村公三郎/脚本・新藤兼人/撮影・宮島義勇/音楽・伊福部昭

音楽があの『ゴジラ』の伊福部昭さんで、古典との融合と斬新さを模索したであろうことが感じられます。スタッフをみるとその意気込みが伝わります。

かんばつが続き、早雲王子は気ままで、頼りない関白のもと仕える文屋豊秀、小野春風は困りはてています。かんばつは鳴神が朝廷に裏切られ、竜神を滝に押し込めてしまったからです。阿部晴明も、呼ばれますが、読み解けば鳴神の三千力の強力をおさえることができるという唐文を読み解くことができません。

そこへ呼ばれたのがくものたえま姫で、自分が読み解くというのです。そして文屋豊秀との結婚を約束させます。くものたえま姫は、みよしとうてなを連れて、鳴神のもとへ行きます。実写ですから、この道が岩肌の見える大変な道中です。途中でくものたえま姫は唐文を投げ捨てます。最初から読む力などなく、くものたえま姫は自分が鳴神に対峙してそこで思案してこの大役を果たす心づもりなのです。

鳴神上人に仕える黒雲坊と白雲坊はを、みよしとうてなの踊りとお酒で酔いつぶれさせ、鳴神上人には、自らの手で酔わせ、滝にかかるしめ縄を切り滝つぼから竜神を解き放ち雨を降らせます。最初に舞台場面があり、実写となり、鳴神の怒りで舞台場面にもどるという手法を使い長十郎さんの歌舞伎のしどころをも観せるという手法を使っています。

中村翫右衛門(三代目)さんと長十郎さんが、それぞれの芸風のぶつかり合いで観客を歓喜させたようですが、映画『人情紙風船』(山中貞雄監督)の主人公とは違うおおらかな明るさもあって、さもありなんと想像できました。くものたえま姫の乙羽信子さんがこれまた現代人の若い娘のようなあっけらかんとした人物像で、鳴神上人を自分の思い通りにしていき、歌舞伎とは違う人それぞれの可笑しさが漂う映画となっています。戦争が終わった解放感もあるのかなと思わせられました。

出演・鳴神上人(河原崎長十郎)、くものたえま姫(乙羽信子)、文屋豊秀(東千代之介)、みよし(日高澄子)、うてな(浦里はるみ)、早雲王子(河原崎国太郎)、関白基経(嵐芳三郎)、小野春風(片岡栄二郎)、黒雲坊(市川祥之介)、白雲坊(殿山泰司)、(瀬川菊之丞、田代百合子、河原崎しづ江)

 

映画『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』

池袋の「新文芸坐」で、三船敏郎、勝新太郎、中村錦之助の映画の特集をやっています。驚きましたことに、このビッグな俳優さんたちは、1997年の同じ年に亡くなられたのですね。そして没後20年ということです。

今回のなかで一番見たかったのが、『荒木又右衛門 決闘鍵屋の辻』(1952年・東宝)です。3月の国立劇場での歌舞伎『伊賀越道中双六』と関係してもいて、実際に<鍵屋の辻>に行ってもいたのでそこが映像でどう映るのか楽しみでした。                伊賀上野(忍者と芭蕉の地)(5-2)

東京国立近代美術館フイルムセンター収蔵作品で、フイルムセンターで上映の際、見逃してしまったのですが、今回借りられたようで感謝です。

監督が森一生さんで、脚本が黒澤明さんです。最初、荒木又右衛門の三船敏郎さんが、額のハチマキに投剣を数本差し、勇ましく闘っているのですが、ナレーターが入り、講談では36人斬ったというが実際に斬ったのは二人で、二人斬るということがどんなに大変なことであるかというようなことを言われ、ここでは講談ではなく史実に基ずいた話しを描くということなのです。講談調の娯楽時代劇映画と思っていたのが大逆転に大歓迎でした。

さらに、<鍵屋の辻>が、映画を撮影した時の風景が映され、説明が入り、仇討の時代に合わせてのセット組み立ての風景となり、私が見た2015年から1952年さらに仇討のあった嘉永11年(1634年)へと、<鍵屋の辻>がどんどんタイムスリップしていってくれ、お城の石垣がそばにあり、橋がありと嬉しくなりました。実際にその場に立ってみても、想像では補えない風景でした。映画用のセットだとしても一応当時の様子として全面的に受け入れます。

渡邊数馬(片山明彦)の弟が河合又五郎(千秋実)に殺されたとして、数馬、荒木又右衛門(三船敏郎)、川合武右衛門(小川虎之助)、森孫右衛門六助(加東大介)が仇をとるのです。

河合又五郎のほうには、叔父・河合甚左衛門(志村喬)がいて、荒木又右衛門とは朋友の仲なのですが、話しが前後して二人の別れの場面もでてきます。寛永11年11月7日からさかのぼって5年前から仇討ちの日まで、行きつもどりつの話しのすすめかたもこの映画のみどころのポイントでもあります。

鍵屋で仇を待つ間、それぞれが今までの5年間を思い出すのです。六助は一行の到着を知らせるため橋のたもとで待ちます。川の流れが映り彼もまた思い出しています。老齢の父から父の名前の孫右衛門をもらった日のことを。

又五郎側には槍の名人・櫻井半兵衛(徳大寺伸)がいます。その半兵衛の顔を見知るため、道中の茶屋で教えてもらいここを通ると言われ確かめます。数年後ここの茶屋に再び寄り、亭主から半兵衛の行先を聞き付けます。江戸に二回行き、行先がわからず、また江戸に向かうしかないのかというような時です。いかに仇の相手の居所をつきとめるのが大変かがよくわかります。

相手は隠れ逃げているわけで、又五郎は旗本の家中にいます。この仇討は旗本と外様をかけての果し合いでもあったのです。仇討の討つものと討たれるものの制度的な虚しさも伝わってきます。それを感じさせながらも、行きつもどりつして、今に至っているという臨場感や登場人物の心の内を上手く出していきます。

六助は一行の姿をみて動転しながらもゆっくり鍵屋に報せにもどります。しかし、橋の向こうで一行は止るのです。数えていませんが、史実では相手は11人です。問題は、川合甚左衛門と槍の名人・櫻井半兵衛です。

甚左衛門は又五郎が斬り、半兵衛に槍を持たせないように槍持ちを六助と武右衛門が阻止して、数馬は又五郎を討つという手はずです。ところが、ここにきて一行が待ち伏せに気がついたのか止ったのです。カメラは又五郎側に移ります。甚左衛門が、寒さのため着るものを重ねたのです。「こんなに着込むと、いざという時に動きがとれないであろう。」と甚左衛門はいいます。待ち伏せに気がついていません。

身を守るため、鎖帷子(くさりかたびら)を着ていますが、これが寒いといっそう体を冷やすのです。なるほどとおもいました。そして、又五郎も頭にかぶっていた鉄かぶとを取ってしまうのです。先導の馬上の人物が先に偵察をして大丈夫と手をふります。

ここから仇討が始まるのです。ここまで又右衛門の三船敏郎さんが力強く冷静に判断して3人を引っ張ていきます。このあたりが三船さんらしい役どころです。三船さんは予定どおり朋友の志村さんを斬り、加藤さんと小川さんは、槍を徳大寺さんに持たせることはありませんでしたが、小川さんは斬られてなくなってしまい、徳大寺さんは三船さんに斬られます。

一対一の片山さんと千秋さん。これが、どちらも剣に強いとはいえず勝負に時間がかかります。それだけ人を斬るという行為は簡単なことではないのです。簡単であってはこまる行為です。しかし見ていると片山さんにイライラしてきます。何をやっているのと。仇討ちを見ている人々もそうだったのでしょう。こういう心理って怖いですね。

黒澤さんはこのへんの心理も判っていたとおもいます。映画のチラシに「リアルな立ち廻りを狙った作劇は、黒澤が自身の時代劇を探っていたのではないかと森は推察する。」とあります。時間差の押し戻し、仇討ちの緊迫感、心理情況など森一生監督の腕も素晴らしいとおもいます。変化球がきちんと捕手のグローブ、観客に納まった映画でした。

国立劇場『復曲素浄瑠璃試演会』

国立劇場あぜくら会の会員を対象にした「あぜくらかいの集い」での催しものがありました。

途絶えていた曲の復活で、滝沢馬琴さんの『南総里見八犬伝』をもとにした『花魁莟八総(はなのあにつぼみのやつふさ』のうち「行女塚(たびめつか)の段」「伴作住家(ばんさくすみか)の段」の復曲をめざし、今回はその試演会ということですが、すでに、大阪・国立文楽劇場で試演ずみです。さらに「芳流閣の段」は、3月22日、大阪・国立文楽劇場で試演会があるようです。

この催しは、大阪でも友の会の会員対象で、今回の東京のあぜくら会は抽選で、当選して聴くことができました。『南総里見八犬伝』は歌舞伎では、国立劇場でも上演され、澤瀉屋一門のスーパー歌舞伎でもあるのですが、文楽では途絶えていたわけです。

床本は残っていて、深川の名コンビ、竹本千歳太夫さんと野澤錦糸さんが中心になって復曲に尽力されたのです。 素浄瑠璃の会 『浄瑠璃解体新書』

はじめ児玉竜一さんの解説があり、床本の資料は渡されていたのですが資料は読まないで、実際に聴いて内容の変化を楽しんでくださいと言われました。犬がでてくるが猫の役割にも注目とのことです。猫のところでの語りが、ある作品と似ているのでどの作品か当ててくださいともいわれ、浄瑠璃の後の座談会で回答を披露されました。回答は来月の歌舞伎『伊賀越道中双六』の岡崎でのお谷のなげきのところだそうですが、全くとらえられず、残念ながら、猫に小判でした。

場所は大塚村で、今の東京の大塚でのはなしで、犬塚信乃と浜路はロミオとジュリエットのような関係で、浜路は、信乃の父親・伴作の異母姉の亀笹と夫・大塚蟇六の養女で、両家は反目しています。さらに里見の重宝村雨丸もでてきますし、信乃は刀をみると震えあがってしまうという病ですが、その病もなおります。どうして治ったかというのも聴きどころです。

亀笹の可愛がっていた猫が、伴作が飼っている与四郎犬にかみ殺されてしまいます。これは何か起こりそうです。

「行女塚の段」は豊竹靖太夫さんと野澤錦糸さん、「伴作住家の段」は、豊竹亘太夫さんと豊澤龍爾さん、竹本千歳太夫さんと豊澤富助さんです。

流れに変化があり、伴作は、自分の腹を切るのです。そこからが長く、座談会でも(竹本千歳太夫、野澤錦糸、豊澤富助/司会・児玉竜一)、切腹するとそこから20分位ですが、ここでは40分はあり、これを語る太夫さんも力量がいるわけです。千歳太夫さん、座談会では力を使い果たしたという感じでした。

試演会ではなく、有料の会として聴く人の数を増やして欲しいですし、さらに人形がつく本公演として上演されることを期待したいです。なじみやすい『南総里見八犬伝』が、浄瑠璃でこんなにも因果関係が重層している作品となっているのかと新鮮でした。

座談会では、頭(かしら)はどうなるかというような話しもでてきまして、復曲は若い演者さん達の基礎能力が試される機会になり、さらに修練の場ともなるという話しもありました。録音で聴いて練習するのではなく、床本に全て書かれているのだから、本を読む基礎がなければだめだという事でした。

お話しを聞いていますと課題はたくさんありそうですが、すでに本があって、試演で評判がよいのですから、上演にむけてさらなる活動を進めていただきたいものです。その前に「芳流閣の段」、大阪の後、東京でもあることでしょう。

<芳流閣>の屋根の上では、犬塚信乃と犬飼現八がお互いのつながりを知らず一戦まじえます。<芳流閣>は滸我御所(古河御所)にあるとする架空の建物ですが、茨城県古河市の古河総合公園には、古河館跡があり、同じ場所に鎌倉円覚寺の末寺の徳源院跡があり、そこに古河公方足利義氏の墓所もあります。

この古河総合公園の「古河桃まつり」は緑や池を背景に白、ピンク、薄紅いの桃の花が見事でして、梅や桜とは違う可憐な明るさのある彩を楽しませてくれます。