ルネサンスから『ダ・ヴィンチ・コード』まで(5)

ミケランジェロさんとボッティチェリさんの接点は、ミケランジェロさんの大理石の彫像「ダヴィデ」を設置するための設置委員会にボッティチェリさんが参加しています。この彫像はフィレンツェ市からの要請で作られ、何処に設置するかで意見がわかれたのです。ミケランジェロさんは外が良いと主張。ボッティチェリさんやダ・ヴィンチさんは外は痛みが激しいからと別の場所をすすめたのですが、ミケランジェロさんの要望が通りました。

現在は、本物はフィレンッェのアカデミア美術館にあり、市庁舎そばの本来の位置にはレプリカが立っています。

ボッティチェリさんも、1481年にシスティーナ礼拝堂に壁画を描いています。ミケランジェロさんが天井画描き始めたのが1508年で4年後に完成。そして「最後の審判」を始めたのが1536年で完成が1541年です。ミケランジェロさんが誰にも見せず描いたのに対し、ボッティチェリさんは皆にみせつつ描いたそうです。

システィーナ礼拝堂の天井画と壁画の「最後の審判」は、『ミケランジェロ展』でも詳しく解説を書いてくれていましたが、出品リストにも図入りで説明を加えてくれていまして今みても参考になります。天井画は<天地創造の物語><アダムとエヴァの物語><ノアの物語><旧約の7人の預言者>など一つ一つに意味があるのです。映画『E.T.』のポスターで、少年と宇宙人との人差し指の触れて合うのが印象的でしたが、天井画にあるアダムと神の絵と相似しているのであれが原点かなと話題になりました。

「最後の審判」は上が天国で下が地獄。左は善で、天国に迎えられる人々が描かれ、右は悪で地獄におとされる人々が描かれていていて、上下の人の流れがわかります。やはり説明がないと宗教画はわかりません。「最後の審判」は、メディチ家出身のクレメンス7世に要請されています。

星形の要塞の建築図面もありました。サン・ピエトロ大聖堂にかかわったり、メディチ家の礼拝堂にたずさわったりと、権威者に色々要求されて晩年も大変なミケランジェロさんでした。15歳の頃からその天分をロレンツォに認められ、ロレンツォの館でロレンツォの子どもと同じような扱いをうけ、88歳まで生きられたということもあります。サン・ピエトロ大聖堂にあるあの「ピエタ」が24歳の時の作品ですから、メディチ家もミケランジェロさんを放しませんよね。

イタリア・ルネサンスの全盛期の三大巨匠は、ダ・ヴィンチさん、ミケランジェロさん、ラファエロさんなのですが、ラファエロさんの展覧会は今回なかったのでラファエロさんは抜かしました。

  • ボッティチェリ    1444年頃 ~ 1510年(65、66歳没)
  • ダ・ヴィンチ     1452年 ~ 1519年(67歳没)
  • ミケランジェロ    1475年 ~ 1564年(88歳没)
  • ラファエロ      1483年 ~ 1520年(37歳没)
  • ヴァザーリ      1511年 ~ 1574年(62歳没)

ヴァザーリさんが生まれた時は、ミケランジェロさんしか師とする対象の人はいなかったことになります。ラファエロさんは早くに亡くなられていました。

ルネサンス期は感染病のペストが何回か流行し、隔離するということがわからずフィレンツェの人口が半分に減ってしまうという事態の時もありました。死と隣り合わせの時代でした。

こうした流れの中での、『ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち』へとなるわけですが、この流れがなければ宗教画中心のこの展覧会には行かなかったとおもいます。アカデミア美術館所蔵とありまして、えっ!「ダヴィデ」はフィレンツェよねとはてなマークになりましたら、<アカデミア美術館>は、ヴェネツィアとフェレンツェにそれぞれにあるということです。

ルネサンスはフェレンツェからローマそしてヴェネツィアへと波及していきます。今になって『カラヴァッジョ展』(国立西洋美術館)も観ておけばよかったと残念がっております。

 

ルネサンスから『ダ・ヴィンチ・コード』まで(4)

メディチ家の至宝 ルネッサンスのジュエリーと名画』は、フィレンツェに300年に渡って君臨したメディチ家の人々が身につけたであろう宝石類や肖像画などの展覧会です。

フィレンツェを追われたメディチ家は再びフィレンツェに戻ってくるのです。アレッサンドロは君主となりますが暗殺され、フィレンツェはトスカーナ大公国となりメディチ家からコジモ1世がうまれます。ここまでメディチ家は、兄脈でコジモ、ピエロ、ロレンツォ ~ アレッサンドロと続いていたのですが、コジモ1世(初代トスカーナ大公)からは弟脈のほうが第7代トスカーナ大公まで続くのです。

メディチ家の至宝 ルネッサンスのジュエリーと名画』は、この弟脈のトスカーナ大公時代のものの展示がほとんどでした。あまりの沢山のジュエリーに、宝石に関しては猫に小判の者としては、さらさらと眺め、それよりもメディチ家の家系図が手に入りニンマリでした。肖像画に描かれている宝石類のほうには眼がいきます。ジュエリーの高価さよりも、それをどう身につけているかということには興味があります。可愛らしい女の子が大きな玉の真珠の首飾りを首に巻きさらに垂らしているのを見るとお気の毒とおもわざるえません。とにもかくにも栄華を極めていたことはたしかです。

兄脈のほうにはローマ教皇になった人物もいて、ロレンツォの息子が教皇レオ10世に、暗殺されたジュリアーノの息子が教皇クレメンス7世になっています。このお二人はミケランジェロさんとかかわってきます。教皇も当時の芸術家にとっては、強力なパトロンだったわけです。

映画『ウフィツィ美術館』は、古代ローマ時代の彫刻からイタリア・ルネサンス時代の巨匠たちの美術品を中心に、さらにその後の名品が展示されているウフィッィ美術館を紹介するもので、メディチ家の歴代のコレクションです。

イギリスの俳優・サイモン・メレルズさんが豪華王のロレンツォになって解説してくれます。フィレンツェの街からウフィツィ美術館の中まで3D・4Kテクノロジー映像とやらで、例のメガネをかけてみるのですが、ウオン、ウオンと飛び込んできて奥行ができたりと、私は普通の映像でいいと思いました。気が散ってしまいます。

ミケランジェロの「ダヴィデ」などは、下から見て顔が小さく見えないように大きくしているので、そうした彫刻の立体感や大きな頭などはわかりますが、ダ・ヴィンチ未完の「東方三博士の礼拝」があったらしいのですが記憶が飛んでいます。普通の映像で再度観てみたいものです。

ウフィツィ美術館は、コジモ1世がヴァザーリに設計させて作らせた当時の官庁としての事務所で、その後、美術館となったのです。このヴァザーリさん少年のころ、ミケランジェロさんのアトリエに入門するのですが、ミケランジェロさんローマ教皇に呼ばれてローマに行ってしまい、直接教えを受けていないのです。しかしミケランジェロさんを師として機会があると助言をしてもらったようです。ミケランジェロさんはダ・ヴィンチさんのBBC制作のDVDの中でも何日も入浴しない変わり者として扱われていましたが気難しい人で、ヴァザーリさんには気を許していたようです。

ヴァザーリさん画家で建築家であると同時に評伝家でもあって、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、ボッティチェリ、ラファエロなどの多くの芸術家の『芸術家列伝』を書いていて、当時の文献として貴重な役割をはたしているのです。

ヴァザーリさんは、コジモ1世のお抱え画家で建築家でもあり、ヴェキオ宮殿の改装、ウフィッィ宮殿の建築、その二つを結ぶアルノ川にかかる橋のヴァザーリの回廊などを作りあげています。

ミケランジェロ展』は、ミケランジェロさんの彫刻、絵画、建築の三つの柱の建築を中心にして、その装飾についても言及していました。

函館の五稜郭で、こちらは司馬遼太郎さんの『燃えよ剣』を読んで、もう剣の時代ではなかったよなあなどと思いつつ、新選組副長土方歳三が死を賭けて最後に飛び出した橋はここかなどと思いつつ中に入ったのです。函館奉行所の展示室に五稜郭のジオラマもあって、そこで係りの人が他の人に説明していました。「星形のお城は、もとをたどればミケランジェロが考えたんです。日本に函館ともう一つ長野にあります。長野のほうは五稜郭の中に学校が建っています。」

長野の佐久市にあって龍岡城五稜郭といわれ、星の中に佐久市立田口小学校が建っているのです。

ミケランジェロさんと建築が結びついた一瞬でした。

ミケランジェロさんとダ・ヴィンチさんは仲が悪かったようです。ダ・ヴィンチさんが「画家は優雅だが、彫刻家は汚い労働者のようだ」と言ったらしく、ミケランジェロさんカチンときたんですね。BBCの映像でも、ミケランジェロさん、ダ・ヴィンチさんに挑戦的でした。23歳年上のダ・ヴィンチさんに突っかかるのですから、天才の負けん気でしょう。

この天才二人の作品での対決があるのです。ベェッキオ宮殿(市庁舎)の<五百人広間>の向かい合わせ壁画の制作でした。BBCの映像では、仕組んだのはマキアヴェリとしていましたがフィレンツェの政庁から戦闘図を描くように依頼されるのです。ダ・ヴィンチさんは「アンギアリの戦い」、ミケランジェロさんは「カッシーナの戦い」を描きます。ところが、ミケランジェロさんは下絵の段階でローマにいってしまい、ダ・ヴィンチさん、またや新しい絵の具を試し失敗してしまうのです。そのあとで完成させたのが、ヴァザーリさんなのです。

ミケランジェロ展』には、ヴァザーリさんの『美術家列伝』も展示されていました。初版が1550年でその後の1648年に刊行されたものです。

 

ルネサンスから『ダ・ヴィンチ・コード』まで(3)

ボッティチェリさんは、ダ・ヴィンチさんより7歳年上です。接点は、ダ・ヴィンチさんが負かしてしまった師匠ヴェロッキオの工房です。

ボッティチェリさんは、フィレンツェの革なめし職人の家に生まれ、金細工の工房に弟子入りし、絵の才能があることから、修道士画家リッピの工房へ。師匠のリッピの息子がのちにボッティチェリの弟子となり、リッピ親子の作品も『ボッティチェリ展』にも並んでいました。その後がヴェロッキオの工房に移ります。ボッティチェリさんが24、5歳でダ・ヴィンチさんが16歳ころです。二人は終生良き関係を保っていたようです。

ボッティチェリさんはその後独立します。銀行家仲買人のラーマの注文で「ラーマ家の東方三博士の礼拝」を描きますが、ここにメディチ家の人々が描かれていて、ボッティチェリさん自分をもしっかり描いているのです。<東方三博士>というのは、新約聖書にでてくるイエスが誕生したとき訪れて拝した三博士・三賢人のことです。<新約聖書>はイエスが生まれたあと、<旧約聖書>は生まれるまえのことが書かれたものということで、「受胎告知」は旧約聖書に書かれていると思われます。

宗教画は苦手です。枠と決まり事があって、少しわかると構図や描き方などそれぞれの画家の違いを比較ができたりもしますが、同じに見えてしまうのです。

この「ラーマ家の東方三博士の礼拝」は『ボッティチェリ展』にきていたのです。コジモ・イル・ヴェッキオ公(コジモ)がイエスの可愛らしい足に手をかざしています。ひれ伏している赤いマントの人物がコジモの息子のピエロ、その隣がピエロの弟のジョヴァンニ。あとは色々説があるようですが、コジモの後ろに帽子をかぶって立っているのが、のちに豪華王といわれたピエロの息子のロレンツォ・イル・マニフィコ(ロレンツォ)、それと対称的に右に立っているのがロレンツォの弟のジュリア―ノ、その右端に立ってこちらを見ているのがボッティチェリです。描いているのがボッティチェリでその中で「どう、この絵」といっているようにこちらを眺めているのですからまいります。美男子のジュリア―ノはのちに暗殺されてしまいます。

ロレンツォは、左側の剣を持っている人物とも言われていますが、何となくイエスを中心に向かって囲んでいるような気がします。注文者の人物はジュリアーノの後ろでこちらを見ている人物です。そうすると、左端でこちらを見ている人も気になりますがわかりません。

フィレンツェは、メディチ家のゴジモ、ピエロ、ロレンツォ三代によって、共和制でありながら君主のように統治していました。

ボッティチェリさんはメディチ家の要請で「プリマヴェ―ラ(春)」、「ヴィーナスの誕生」等を描きます。メディチ家の豊富な資金力からギリシャ・ローマ神話の世界を絵や彫刻などに表現させるのです。このあたりが<ルネサンス>の古代の再生といわれるところとなるのでしょう。

メジチ家の栄華と財力は『メディチ家の至宝 ルネサンスのジュエリーと名画』や映画『フィレンツェ,メディチ家の至宝 ウフィッィ美術館』での公開となるのです。ウフィッィ美術館には、「プリマヴェ―ラ(春)」、「ヴィーナスの誕生」などボッティチェリさんの多くの作品やそのほかイタリア・ルネサンスの作品が納められています。

ボッティチェリ展』に展示されていた「美しきシモネッタの肖像」のシモネッタはジュリア―ノの恋人で、「プリマヴェ―ラ(春)」、「ヴィーナスの誕生」のモデルだともいわれています。

神々を人間の美しさで表すあたりや、色の美しさなど、中世のキリスト教会に押しつぶされていた人間賛歌ともとれ、「書斎の聖アウグスティヌス」の深く思索する様子は、いままでになかった精神的表現ともいえます。

メディチ家の贅沢三昧の生活をに批判的なドミニコ会の説教師・サヴォナローラが出現します。ロレンツォが亡くなり息子の代になると力が弱り、フランス軍の侵攻となりメディチ家はフィレンツェから追放されてしまいます。サヴォナローラは華美なもの官能的なものを禁じ焼却させます。ボッティチェリさん、サヴォナローラの説教に共感し入信します。そのため裸体の素描は提出し、焼却されたようです。しかし人々はあまりの禁欲生活に嫌気をさし、サヴォナローラは逮捕され火刑に処せられてしまいます。

その後ボッティチェリさんは、キリスト教の宗教画しか描かなくなったようなのですが、その前とその後の絵に関しては比較していませんので違いは書けません。サヴォナローラに心酔したのも、メディチ家の実態を知っていたがためであり、その前から精神的な葛藤はあったのでしょう。ルネサンスは決して平安な時代ではありませんから、メディチ家をパトロンとする自分の芸術家としての自分の位置になんらかの想いもあったのであろうと想像します。

 

ルネサンスから『ダ・ヴィンチ・コード』まで(2)

レオナルド・ダ・ヴィンチ - 天才の挑戦』のお勧めの絵は「糸巻きの聖母」でした。「モナ・リザ」につながる作品とされ、ダ・ヴィンチが考え出した<フスマート>といわれるぼかし法で、ボッティチェリなどは細い輪郭線がはっきりしていますが、ダ・ヴィンチはぼわーんとしています。

「糸巻きの聖母」はマリアがイエスを膝にのせ左手で抱えるようにしていて、イエスは糸巻きを縦にしてに持っており、その糸巻きが十字架を暗示しているようで、マリアの表情は穏やかですが、右手が「あっ!」と驚くように大きく開かれています。ダ・ヴィンチさんの絵は何か謎めいた物語性を感じさせます。『モナ・リザ』も美しいほほえみに見えたり、角度によっては皮肉っぽい笑みに見えたりします。

この展覧会のときは、鳥の飛翔に関する手稿、簡単に組み立てられる橋の図、正確なデッサン、医学的人体デッサンなどが展示され、絵を中心に考えていたので肩透かしをされた気分が少しありました。

ところがその後、DVDで『ダ・ヴィンチ1 ~万物を知ろうとした男~』『ダ・ヴィンチ2 ~危険な関係~』を見て、<天才の挑戦>がわかってきました。

小さいころから何でも観察するのです。鳥はどうして飛べるのかと羽根とか空気の流れとかをじーっと観察するのです。鳥って飛べていいなあ!では止まらないのです。子どものころ文字をきちんと学ばなかったこともあり、絵で表現していて、絵の才能もあったので、文字で表すより絵で表すほうがダ・ヴィンチさんにとっては速い表現方法だったのかもしれません。

大人になれば自分の考案したものを実際に作りたいという、科学者としてのダ・ヴィンチさんでもあるわけです。そのために、嫌われ者のミラノ公のもとでは、パーティーの演出を任され、ロボットのようなものを登場させたりと参加者を驚かせ愉しませています。

さらに、冷酷非道といわれたチェ―ザレ・ボルジアに近ずき、戦争を悪だといいつつ、戦さに使うためのものを考案します。城を包囲されたら空を飛んで逃げるパラシュートとかグライダー、敵にわからないように船を沈没させるため、水の中を潜って進むための潜水服のようなものを考えたり、戦車のようなものも考えます。

DVDでは、これらをダ・ヴィンチさんの設計図で実際に作って実験していました。最初は失敗するのです。次に、設計図の横のほうにメモが沢山あって、それが鏡文字なのですが、そのメモを使って修正すると成功するのです。これは、自分の発明を他の人にはわからないようにしてのこととも思われます。そういう意味でも、ダ・ヴィンチさんの謎解きの研究がなされるゆえんなのでしょう。ダ・ヴィンチさん左手書きなのです。

とにかくなんにでも興味があり、死体の解剖をして解剖図を描き、鏡文字があったりしますから、教会に呼ばれ妖術家の疑いをかけられたりします。

血液中のコレステロールも調べていて、年齢とともにたまるということまで調べていましたが、不浄な行いとして研究は続けられませんでした。

壁画や絵画の仕事を引き受けても、完全主義ということでしょうか、そこに描く一人一人を街を歩く人から選びデッサンをして納得いくまで実際の仕事にかからないので、「東方三博士の礼拝」など未完成の作品も多いです。

20歳ころには「キリストの洗礼」を師匠ヴェロッキオと共作し、左の二人の天使を描きますがそちらに目がいくように工夫するのです。その通りとなり、ヴェロッキオは弟子の腕に驚きその後絵筆をとらなかったともヴァザーリは評伝に書いているそうです。

「モナ・リザ」は常にそばにおき、死んだときもそばにあり、忘れかけていた彼の名も『モナ・リザ』で世間に知らしめたとDVDではしめくくっています。確かにそうです。こんなに色々なことに精通していたとは知りませんでした。

イタリアのトスカーナで生まれ、フィレンツェ、ミラノ、、ヴェネツィア、フィレンツェ、ミラノ、ローマと移り住み最後はフランスで亡くなっています。

 

ルネサンスから『ダ・ヴィンチ・コード』まで(1)

新しい年の2017年となりましたが、気持ち的にはこれといった変化はありません。元旦は初日の出が眩しいほどよく見れたお天気で、自然界は少し渦巻いているようなので、「機嫌のよい年としてくださいな」と手を合わせました。

書くことは、これまた昨年の足跡なのです。なぜなら、2016年1月の『レオナルド・ダ・ヴィンチ展』から始まって日伊国交樹立150周年記念の年ということもあって、<ルネサンス>が目白押しでした。

こちらの意志とは関係なく<ルネサンス>の加速化が始まりまして、3月の函館の旅の五稜郭では、もとをただせば、ミケランジェロが考えた星形要塞の延長であることを知りました。最後は映画『インフェルノ』の公開があり、映画『ダ・ヴィンチ・コード』を見直し、これは小説『ダ・ヴィンチ・コード』を読まねば落ち着かないということで、2017年の読書本は年始から『ダ・ヴィンチ・コード』となりました。

簡単にルネサンス関連から観た経過を整理します。

  • レオナルド・ダ・ヴィンチ ー 天才の挑戦』(江戸東京博物館)
  • ボッティチェリ展』(東京都美術館)
  • メディチ家の至宝 - ルネサンスのジュエリーと名画』(東京都庭園美術館)
  • 映画『フィレンツェ,メディチ家の至宝  ウフィツィ美術館
  • ミケランジェロ展 - ルネサンス建築の至宝』(パナソニック 汐留ミュージアム)
  • アカデミア美術館所蔵  ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち』(国立新美術館)
  • DVD BBCアートシリーズ『ダ・ヴィンチ1 ~万物を知ろうとした男~
  • DVD BBCアートシリーズ『ダ・ヴィンチ2 ~危険な関係~
  • 映画『インフェルノ
  • 映画『ダ・ヴィンチ・コード
  • 映画『天使と悪魔
  • DVD『ダ・ヴィンチ・コード・ツアー
  • DVD『ダ・ヴィンチ・コード・ザ・トウルース
  • 小説『ダ・ヴィンチ・コード

最終的にはダ・ヴィンチさんが色濃くなったようです。

ダ・ヴィンチさんという人は天才で、それがルネサンス時代と重なり、同時にライバルとしてミケランジェロがいたり、あるいは、同時代の画家としてボッティチェリなどがいて、そのルネサンスの擁護者がメディチ家であったといういうことなどが見えてきました。

小説『ダ・ヴィンチ・コード』ですが、最初に「事実」という書き始めで、<シオン修道会>の会員として、サー・アイザック・ニュートン、ボッティチェルリ、ヴィクトル・ユーゴー、そしてレオナルドド・ダ・ヴィンチらの名が含まれていると書かれていて、さらに「この小説における芸術作品、建造物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている。」とあります。

DVD『ダ・ヴィンチ・コード・ザ・トウルース』は、その事実とされることへの反論の内容です。『ダ・ヴィンチ・コード』に関しては映画だけでは、流れが速くよくわからない部分があり、これは原作を読まなければとの結論になり本をよむことになったわけです。

『ダ・ヴィンチ・コード』のダ・ヴィンチさんは、宗教的な解釈の違いから異教者としての道標なっているようです。宗教に関しては深みには入る力もありませんので、キリスト教の解釈としてそういうこともあるのかという程度で、小説としての展開材料として読みました。

天才ゆえに、自分の才能を認めさせようとの積極的な行動もあり、色々な隠し味も作れる才のあるかたであったと思います。

映画『ダ・ヴィンチ・コード』のラストのラングドン教授が、ルーブル美術館の上から逆三角形を眺め降ろすのは、ここから始まってここで終わるということなのでしょうか。小説には無い場面ですので、その捉え方にとまどっていますが、<聖杯>に自分は包まれているともとれます。

 

日本近代文学館 夏の文学教室(53回)(五)

前説

気になっていったことがあります。

日本近代文学館の夏の文学教室での講義について書きましたが、明治の作家の作品から少し違う観点で明治を見られているとして別枠とさせていただいた講師のかたが5人いまして、まだ書いていなかったのです。(8月11日からの続き)

自分の中で上手くまとまらずどうしたものかとぐだぐだしていたのですが、ドキュメント映画『エトワール』を見て、力を貰いまして年内に自分のまとめ方で書いてしまおうと思い立ちました。思い立っただけではなく自分流に飛びますので、言っておきますが読まれるかたは時間を無駄にしたことに後悔されるとおもいます。

本題

ロバートキャンベルさんは『都会の中に都会ありー「銀街小誌」から読む明治の銀座ー』として、小誌や写真の資料があって、明治から大正、昭和への銀座の変遷を紹介されました。

たとえば、岡本綺堂「銀座の朝」(明治34年)によると、「夏の日の朝まだきに、瓜の皮、竹の皮、巻烟草の吸殻さては紙屑などの狼藉たる踏みて」が時間がたつと「六時をすぎて七時となれば、(略)。狼藉たりし竹も皮も紙屑も何時の間にか掃き去られて、水うちたる煉瓦の赤きが上に、青海波を描きたる箒目の痕清く」となります。散乱したゴミが掃き清められ、その箒のあとが<青海波>なんです。清々しい銀座の商家前のようすです。

清々しさから、北村薫さんの『「半七捕物帳」と時代と読み』に飛びます。言わずと知れた『半七捕物帳』は岡本綺堂さんの作品です。江戸というのは、現代人とは相当違う環境のなかで生活していたわけで、闇とか、はだしの感覚とか、そういうことも愉しんで『半七捕物帳』を読んでほしいということだと思います。これは私の勝手な結論ですが、読んでいないので、読むとしたら個人的にそういうところを愉しみたいという想いなんですが。<青海波>ですからね。

北村薫さんと宮部みゆきさんの選んだ『半七捕物帳傑作選』もあるようですのでこの際読まなくてはです。

捕物帳といえば、会話も多いと思いますので、次は平田オリザさんの『変わりゆく日本語、変らない日本語』ですが、何が変わって何が変わらないのかメモからは推論できずです。

平田オリザさんは演劇の脚本を書いたり演出されたりしているかたですが、一作品も観ていないのです。平田さんなりの演劇論もあるようですがそれも把握していません。日本の演劇は近代からで、小説に比べると出足がおそいそうです。

面白かったのは、女性が管理職につくようになりましたが、男性の部下に対して何かやってほしい時、男性どうしなら命令口調でもいいでしょうが、そうはいかないということです。例えば、男性同士の上下関係なら「コピーとってくれ」でいいですが、女性の上司と男性の部下なら「コピーとってくれる」となるというようなことです。これからこうした関係に合う言葉が出来上がっていくのかもしれないということで、時代に合わせた言葉の変化ということでしょうか。

平田オリザさんの小説『幕が上がる』が映画になっているらしいのでこれは見たいです。見ます。

群馬に飛びまして、群馬在住の絲山秋子さんは『明治はとおくなかりけり』と群馬からの明治を話されました。榛名山の噴火で埋まってしまったものが、新幹線の工事で出てきたものがあり、明治の人は古代人を見ずに東武鉄道を見ていて、現代の人は東武鉄道がなくなっていて、明治の人を飛び越えて古代をみているという不思議な時間差について話されてもいました。

地方ではこれからも、電車路線の廃止で、どちらが新しいのか古いのかわからない風景となるところもあるでしょう。

群馬の代表的な文学者、山村暮鳥さん、萩原朔太郎さん、土屋文明さんでしょうが、群馬の文学館は離れていて使い勝手が悪いと言われていましたが、そうなんですよ。

群馬に関しては、自分が飛びました。前から前橋にある前橋文学館に行きたかったのです。そこに萩原朔太郎展示室があるのです。前橋は群馬の県庁所在地なんですが、高崎からJR両毛線に乗り換えなければならず、ちょっと時間的ロスのあるところで、街の中心が、JR前橋駅から離れていて、上毛電鉄中央前橋駅からの方が近く、この二つの駅がこれまた離れているのです。どうも、生糸関連の事業主の力がつよかったためのではないでしょうか。

前橋駅から乗ったバスのなかが木でできていてこれは素敵でした。バスを降りてから文学館への道が広瀬川沿いの遊歩道でこれも気持ちよかったです。文学館のなかも充実していて、朔太郎が作曲したマンドリンの曲も流れていました。

萩原朔太郎賞があって、受賞者に講演を聞いたことのある町田康さん、荒川洋治さん、伊藤比呂美さん、松浦寿輝さん、小池昌代さんのお名前がありました。

萩原朔太郎さんの孫である萩原朔美さんの「朔太郎・朔美写真展」も開催されていました。

私のほうは、朔太郎さんの娘で、朔美さんの母である、萩原葉子さんの『輪廻の暦』を数日前読み終わったところで、『蕁草(いらくさ)の家』『閉ざされた庭』を読んでからかなり時間が経っての三部作目です。

ここから土屋文明記念文学館にいくには残念ながら時間的ロスがありすぎました。

最後は、橋本治さんです。『明治の光』はお手上げです。橋本さんは読んでいてもそうですが、一つのことに沢山の知識が合体します。そして、ご自分が違うとおもわれると、初めから自分で調べるかたで、伊藤整の『日本文壇史』が面白いというので読んでみたら面白くないので、自分で調べ始めたという方なのです。

橋本さんの著書『失われた近代を求めて』シリーズを読むと光が見えてくるのかもしれません。

橋本さんの『桃尻語訳 枕草子』は「春って曙よ! だんだん白くなってく山の上の空が少しあかるくなって、紫っぽい雲が細くたなびいてんの!」というはじまりです。でもしっかり、まえがきは必読しなければいけません。「いきなり本文なんぞをめくられると多分目を回す方が一杯あるでありましょうから、こうして前説がついております。」

橋本さんの場合の前説は深い意味があります。そして、よくこんな話しことばで通し続けて書けるものだと恐れ入ってしまいます。恐れ入ったところでお終いです。

というわけで、私といたしましては、とにかく何とかしようとしていたことなので不出来は承知の助ですが、これで年越しができそうです。

 

ドキュメント映画『エトワール』

ドキュメント映画『エトワール』(2000年)は、パリ・オペラ座バレエ団に初めて撮影を許可された映画だと思います。その後『パリ・オペラ座のすべて』(2009年)が公開されましたが、こちらは映画館で観ていて、練習風景や、バレエ団の組織としての運営や企画、団員との話し合い、団員の年金のことなど、知られざる様子がわかりました。そして、振付師や演出家の要求を次々クリアしていく過程もすばらしかったのです。

『エトワール』は、オペラ座バレエ団の5階級のトップがエトワールで、エトワールを中心に、その他の階級の団員の様子やコメントなど、団員の練習と本番が中心に撮られています。

パリ・オペラ座バレエ学校に世界中から試験を受けに来て、受かったものは一年間訓練をうけ団員への試験を受け、晴れて団員となります。とにかく競争に勝った者が残れる場所なのです。

バレエの踊れる年齢には限度があり、バレエ団の定年は40歳で、年金が貰えるようになっているようです。定年で退団する人も、この世界しか知らなくて他の世界のことは何もわからないが、まだやり直せる年齢よ、思っていたほど淋しくないわというかたもいました。

エトワールから指導する側になった人は、辞めて練習から解放され好きに生活していたら、半年くらいで筋肉が緩んであちこちが痛くなって関節炎もひどくなって、急に肉体を解放してはダメよともいわれています。年齢からくる骨の痛みは周りの筋肉を鍛えてカバーするのと同じように、毎日練習するのは、素晴らしい跳躍やステップ、柔軟性を表現してくれるその筋力を落とさないためでもあるのでしょう。

とにかくどの階級の団員も、単調な日常で、練習と舞台だけといってもよいような感じで、出演者に選ばれなければ誰かが故障したときの代役となるのですが、踊れることが生きているあかしとばかりにしっかりノートして自主練習し、踊ることしか自分のなかにはないといった人達です。それはそうだと思います。小さい頃から、このために遊びたいのも我慢して練習に励んできたのですから。踊ることが大好きな人達なのです。

パリ・オペラ座バレエ団は古典も新作も公演するので、イリ・キリアンさんやモリス・ベジャールさんも振り付けに来ていまして、こうして、ああしてというのをすぐ表現できる身体なのには驚きます。そして見ていてその完成度が楽しいのです。

実際の舞台では、衣装から見える素肌からは汗がにじみ出ていて、舞台から引っ込むと倒れてしまう団員もいます。トウ―シューズを履く前に足の豆にテーピングをして化膿止めに抗生物質を飲んだりと一回の短い出でも、踊ることが全てなのです。

何分か何秒のために長い練習時間があるのです。

エトワールも、エトワールになったからと言って上達するわけではなく同じ状態でエトワールになるので、その責任の重圧のほうが大きい場合もあり、今までの競争なり練習はそのための技術と精神力の両方のバランスを取って来た時間でもあるといい、バランスのとりかたが難しいと語ります。

同じメンバーでいる長い年月は、人によっては周りはライバルであり仲間であり、お互い深くは入り込まないし、孤独でもあり、時にはお互いがわかっているので信頼できる部分もあり特殊な狭い世界をかたち作っているとのこと。

そうした言葉を消してしまうほど、踊っているエトワールは、やはりエトワールの輝きに満ちていて映像であっても観る者を魅了し感動させます。

調べてみたら『エトワール』の後の『パリ・オペラ座のすべて』にも出てくる団員のかたも沢山いました。

二コラル・ル・リッシュ、マリ=アニエス・ジロー、オーレリ・デュポン、アニエス・ハテステュ、クレールマリ・オスタ、マニュエル・ルグリ、ウィルリード・モリスなど。

『パリ・オペラ座のすべて』は記憶部分が少なくなっており、『エトワール』から9年ほど経っているのでその変化を知りたく、もう一回みたいのですが、この時期ですからあきらめます。

『エトワール』は今年最後の映画の一本とします。凄く力を貰える映画でした。

来年の2017年には新しいドキュメント映画『パリ・オペラ座 夢を継ぐ者たち』が公開予定です。

 

国立劇場『仮名手本忠臣蔵』第三部(2)

天川屋義平内の場

「天川屋義平は男でござる」で有名な場です。歌舞伎では、商人の家族劇でもあります。

堺の商人・天川屋義平(歌六)は、使用人もやめさせ妻・お園(高麗蔵)も実家に帰します。幼い息子は少し気の抜けた丁稚・伊吾(宗之介)が面倒をみますが、幼いゆえ母を恋しがります。そこへ舅・太田了竹(錦吾)が何で娘を実家に帰したのか、それならかたちだけでも去り状を書けと義平にせまります。義平は考えたすえ退き状を書きます。立場によって<去り状><退き状>となるのが面白いです。<三行半(みくだりはん)>ともいいます。

この了竹が性悪で、去り状をもらったからは娘は自由の身、次の嫁ぎ先へ今日にもと自分の利益優先です。そんな後に今度は十手持ちがあらわれ、大星由良之助に頼まれ武器類を用意しているであろうとの取り調べで、長持ちをあけようとします。

ここからが義平が長持ちに座っての町人の意気地をかけた世間一般に知られている台詞となるのです。子どもを人質にとられ刃を向けられても「誰だと想う、天川屋義平は男でござる」と言ってのけ、さらに子どもを奪い取り、いっそ自分の手でと息子を殺そうとします。

そこへ、由良之助(梅玉)が現れ疑いをかけたことを謝ります。捕手は、義士の大鷲文吾(松江)、竹森喜多八(亀寿)千崎弥五郎(種之介)、矢間重太郎(隼人)の4人だったのです。由良之介の警戒心を見せる場でもあります。

義平の妻・お園(高麗蔵)は去り状を持ってやってきて、息子に合わせてくれと義平にせまりますが、義平はどうしても駄目だとお園が投げ返した去り状を突き返し、お園を外へ出します。今度はそのお園の持っている去り状を奪い取り、お園の髪を切って去る二人の覆面男にお園は悲鳴をあげ、義平が驚きお園を家にいれます。

そこへ由良之助が現れ、大鷲と竹森にやらせたことで、尼になれば嫁にはいけないであろうと時期を待つようにと去り状と切り髪を渡し、義平の働きに、義士の合い言葉を、天川屋にちなんで<天>と<川>にすると告げるのでした。

歌六さんの声と出の大きさ、啖呵の台詞の勢いで、義士を支える町人の心意気がでました。そして、由良之助の指図で行動する、義士の松江さんと亀寿さんのきびきびしてぬかりの無い動きと台詞が、種之介さんと隼人さんに一歩リードしていて舞台を引き締めました。

錦吾さんの了竹に強欲さがあり、わからずに翻弄されるお園の高麗蔵さんに自分で何とかしようとする一心さがあり、宗之助さんの丁稚に気の抜けたひょうひょうぶりが緊迫した場に変化をもたらしてくれました。

梅玉さんの由良之助の穏やかに落ち着いたたたずまいに、由良之助って、上演回数の多い場面では気づかなかった細かい所まで気遣いしているのだと、『仮名手本忠臣蔵』の別の一面を観させられました。

一転、二転する展開をはっきりみせてくれ、予想外の趣きある場面となりました。

最後の場面『十一段目』は、「高家の表門」「高家の広間」「高家の奥庭泉水」「高家の柴部屋、本懐、焼香」「花水橋引き揚げ」と流れていきます。

「高家の表門」では由良之助を筆頭に義士たちが集合していています。原郷右衛門(團蔵)、大鷲文吾(松江)、竹森喜多八(亀寿)がしっかりした佇まいと声量で脇をひきしめてくれます。團蔵さんらに続く松江さん、亀寿さんが心強く感じられる雰囲気になってきました。最後の力弥は女形の米吉さんで一同の中での幼さが出ていました。

矢間重太郎(隼人)、織部安平衛(宗之介)、赤垣源蔵(男寅)、織部弥次兵衛(橘三郎)、矢間喜兵衛(寿次郎)らによる、<天>とく川>の合い言葉の約束事。由良之介の梅玉さんが陣太鼓を打ちます。この打ち方は、来月の歌舞伎座『松浦の太鼓』につながります。

「高家の広間」は、高師泰(男女蔵)と力弥の立ち廻りと茶坊主(玉太郎)と矢間重太郎との立ち廻り。

「高家の奥庭泉水」は、和久半太夫(亀蔵)と千崎弥五郎(種之介)の立ち廻りがあり、うちかけをとって小林平八郎(松緑)が現れ、竹森(亀寿)との気合の入った雪の庭での立ち廻り。竹森足が滑って池に落ち、はい上がって来るのを小林は討とうとしますが、邪魔が入り、池より上がった竹森に切られ、織部弥次兵衛の槍で自らの脇腹を突き死闘のすえ倒れます。

「高家の柴部屋、本懐、焼香」は、柴部屋から矢間重太郎と千崎が師直を見つけ出し、切り付ける師直を由良之助が討ち取ります。

亡君の位牌の前に師直の首級(しるし)を供え焼香しますが、一番は初太刀として矢間重太郎、二番は不憫な最期を遂げた勘平の代理の勘平の義理の兄・平右衛門(錦之助)とし、その他の代表として由良之助が焼香し、かちどきの声をあげます。

「花水橋引き揚げ」は舞台正面の丸くカーブした橋の奥から義士の面々が姿を現します。そこへ、若狭之助(左團次)が現れ、由良之助と対面。由良之助は本懐を遂げたことを報告します。若狭之助は自分も師直から恥辱を受け、もしかすると自分が判官の立場であったかも知れぬと礼をいい、それぞれの名前を聞きたいと申し出ます。

ここから由良之助をはずして四十六人一人一人の名乗りとなります。これは時間がなければできない場面と思いますが、三ヵ月間、この『仮名手本忠臣蔵』に携わった人々の代表でもあり良い場面でした。

四十七士が橋の前で並んだ姿はまさしく民衆が歓喜した浮世絵のような立ち姿で、判官の菩提寺光明寺へと花道をゆうゆうと去っていくのでした。

芝居では場所を江戸から鎌倉にしていますので、両国橋は花水橋となり、泉岳寺は光明寺となるわけです。

若狭之助の左團次さんが、扇を上げ目出度い目出度いといいます。最後に由良之助の梅玉さんそれを受け静かに花道へと入っていきます。というわけで、目出度く幕となりました。

さて、こういう企画はいつになりますか、もう個人的にはお目にかかれないでしょう。幾つかの場面は観れるでしょうから、その時は、今回の役者さんたちが、どんな役をされるのかを楽しみにしておくことにします。

長く伝えられてきた作品は台詞も練り上げられ、重要な台詞が沢山あり、その配分のしかたが大変であることもわかりました。こちらを重くするか、いやこちらかなど、迷路のような感じもします。

来年の新たな出会いを楽しみに、お芝居はこれにてチョン。

 

国立劇場『仮名手本忠臣蔵』第三部(1)

三カ月続いた忠臣蔵も終わりの月となりました。三ヶ月に分けてということでしたので上演時間にもゆとりがあるためでしょうか、ラストは、浮世絵に出てくるような引き上げの場となりました。

道行旅路の嫁入り

加古川本蔵の妻・戸無瀬(魁春)と娘・小浪(児太郎)が、許婚の大石力弥のもとへ行く旅路です。舞台の後ろの背景と竹本を聞いていますと、東海道を使って京の山科へとむかっているようです。詳しく知りたいので上演台本を購入しました。

松並木から富士山の姿となり、薩埵峠(さったとうげ)、三保の松原、駿河の府中、鞠子川、宇津の山、島田、吉田、赤坂、琵琶湖の浮見堂、庄野、亀山、鈴鹿越え、土山、石部、大津、三井寺、山科へと、こんなにたくさんの宿場名がでていました。富士山からは煙が出ていたころのようです。

この舞踊は観かたを誤っていたのかもしれません。次の『山科閑居の場』での内容が頭にあって、『道行旅路の嫁入』も悲劇的に捉えてしまいますが、まだ先の運命はしらないのですから、もうすこし愉しむ気持ちで受け取ったほうがよいのかもしれません。

小浪の児太郎さんは力弥に会えるのですから嬉し恥ずかしで振りも一生懸命です。戸無瀬の魁春さんは歌右衛門さんの面影が垣間見られましたが、義理の母親ということもあって責任感のためか老けた感じでした。反対にここは生さぬ仲の娘と、旅で出会う様々なことを楽しむということでもいいのではないかとも思いました。

そして『山科閑居の場』できりっと母の腹を見せるというかたちで、その想像できなかった変化と闘う姿として強調されてもいいような気がします。<限りある舟急がんと、母が走れば娘も走り>のところが戸無瀬について走る小浪も可愛らしく一瞬たのしかったので、『道行旅路の嫁入り』の台本の全体像から考えて、娘のための旅で初めてこころが通い合う時間とも考えられました。

自分の中でも、もう一回考え直したい作品の一つとなりました。

師走に舞台での思いがけない東海道中の再現に出会い、友人の個人的事情から鈴鹿越えは残っていますが、東海道中の今年の締めとなりました。

山科閑居の場

<雪転し>から始まりました。祇園から一力の女将(歌女之丞)等を連れて山科の自宅に帰る由良之助(梅玉)、大きな雪の玉を転がしつつのご帰還です。むかえる妻のお石(笑也)がお茶をだすと無粋と言われます。せっかくの酒が覚めるということですが、栄西が二日酔いの源実朝にお茶を出したのいわれを思い出しました。

<雪だるま>といえば胴とその上に乗せた頭で<だるま>となりますが、台詞に<雪まろめ>の言葉があり、コロコロ転がしていくうちに大きな雪の玉となることをいうのですね。素敵なことばです。

その雪まろめに対して由良之助は、力弥(錦之助)に何と思うかと聴きます。この由良之助と力弥の問答、さらに、この場の終焉に大きな意味を持って雪まろめは出現するのです。

戸無瀬(魁春)と小浪(児太郎)大石宅に到着です。戸無瀬はどんなことがあろうと小浪を力弥に嫁がせる覚悟です。それに反しお石はつれなく力弥に代わって去るとしてその場を立ち去ってしまうのです。戸無瀬の帯に差した扇子が真ん中にあって、これは、主人本蔵に代わってという意味で刀を持参していて、その刀を差す場所をあけているということなのでしょう。

残された戸無瀬、義理の母ゆえかと自刃を決意し、小浪は力弥に捨てられては生きて行けぬと母の手で死にたいと申し出ます。ふたりはお互い納得し、母は娘に刀を振り上げます。今回嬉しかったのは早い段階で自分の耳が虚無僧の尺八の音をとらえたことです。気にせず舞台に集中していたのですが、ふーっと音が入ってきたのです。「やったー!」です。

「御無用」と二回声がかかり、戸無瀬は虚無僧の尺八の音かと戸惑いますが、止めたのはお石でした。二人の心意気に免じ祝言を許すというのですが、差し出す三方へ本蔵の首が欲しいというのです。

凄い展開です。主君塩冶判官が本懐を遂げられなかったのは本蔵が止めたからで、そんな男の娘と力弥をそわせられるかということです。

そこへ虚無僧に身を変え尺八を吹いていた本蔵(幸四郎)が現れ、お石を愚弄しお石は槍をとります。しかし女の身にて本蔵にあしらわれてしまいます。母を助けるため力弥が飛び出し本蔵に向かいます。ところが、本蔵はここぞとばかり、力弥の持つ槍で自分の脇腹を刺すのです。

幸四郎さん、現れた時から悪役のような憎憎しさの大きさを見せ、自ら引きつけた死を由良之助の梅玉さんは見抜いており、初めて本蔵は誰にも語らなかった本心を由良之助にあかします。そして、せつせつと小浪に対する親心となります。自分の死をもって娘の倖せを願う塩冶側から恨まれている親子の情をここでは描かれているのです。

力弥がサァーと障子をあけると、そこにはあの雪まろえが二つの五輪塔となっていました。力弥が日蔭に作り置いたのです。由良之助は力弥に言いました。< みな主なしの日蔭者。日陰にさえ置けばとけぬ雪 > 良い台詞が散りばめられています。

本蔵は嫁の親として信用されたことを喜び、婿への引き出物として師直の屋敷の地図を渡します。さらに身内として心配する本蔵に力弥は雨戸を外す工夫をみせます。ここは大石家と加古川家の縁戚となった特殊な交流でもあります。そして由良之助は、力弥に一夜の暇を与え、一足さきに虚無僧姿で堺へ向かうのです。

この段は、大きな武家社会の流れのなかで、加古川本蔵の娘が力弥の許嫁であったという設定によって、主役である大石家と加古川家の家族劇となっています。そうすると、勘平がおかるの実家に落ちたことで、こちらは貧しい田舎の猟師の家族劇ともいえ、山科は武士の家族劇をあらわしているととれます

火花散る場面の多い山科ですが、お姫さま役としての印象が強い笑也さんのお石には驚きました。風格は無理としても芯のあるお石で、新境地を開拓されました。錦之助さんの力弥、隼人さんの力弥とは違う芸による若さの力弥で、小浪の初々しさに負けぬはじらいと仇討の一途さをあらわされていました。児太郎さんは、国立劇場と歌舞伎座での大役に押しつぶされることなく頑張られ、充実した師走となられたことでしょう。

『仮名手本忠臣蔵』三部の中心的九段目を、魁春さんは義理の身の複雑な心境をあらわし、梅玉さんは短い出でその腹の内をおだやかに静ひつに出され、幸四郎さんは、武士のたたずまいと風格を崩さずに主君に仕える身と、一人の親としての情愛の変化を起伏をもってあらわされ、この段の見どころをささえられました。

 

歌舞伎座『二人椀久』『京鹿子娘五人道成寺』の二回目

参りました。良い意味でこんなに変わってしまうのかと。

先ず席に座り、あれっ!と思ったのが緞帳です。緞帳に<LIXIL>とあり、私が京橋のギャラリーで見た和紙展はこの「LIXILギャラリー」だったのです。

舞い扇も和紙からできています。紙は折ると折り目がついて閉じたり開いたりします。布は折っただけでは折り目がつきません。

一度目の『二人椀久』のとき、花道での舞い扇が無地の裏表色違いに見えたのですが、椀久と松山のときは金の三日月のような絵が入っていて、二人でその扇を眺めるのですが、扇に月夜が映っているような感じで、これは椀久が木に隠れたときに取り変えたのか、それとも、花道での扇を私が見誤ったのか、二回目はしっかり見定めようと思って見ましたら、前回と扇が違っていました。銀をちりばめたような模様が入っていて、今回はそれに合った雰囲気でした。

勘九郎さんの椀久には涙ぐんでしまいました。椀久は全く他の人が入れない世界の中にいました。前回もそれはありましたが、その非じゃありませんでした。自分だけの世界のなかで動きにまかせて自分のリズムで踊りつつ漂っているのです。

松山が出てくるのは決まり事でわかっています。今回は椀久に呼ばれて松山が出現するのだという事を教えられました。椀久に松山を出現させる力があったということです。椀久に呼ぶ力がなければ松山は出て来ないのです。言い方を変えれば踊り手に力がなければ松山は出てこないのです。

玉三郎さんの松山が静かにゆったりと現れました。それが当たり前のように。当たり前じゃないんですが当たり前であるということが大事なんです。上手く云えませんがそこは感じるしかないです。勘九郎さんが感じさせてくれたのですが。

そして二人だけの世界の中で、時には軽やかに楽しそうに踊ります。前回は、ちょっと待って、この踊りこんなに暗かったかなあと半信半疑だったのですが、そうですこの感じですとやっと、勘九郎さんと玉三郎さんの『二人椀久』として味わうことが出来ました。時間が経過すれば変わるとは思いましたが、こんなに満足でき堪能でき愉しめる世界になっているとは。やはり日を置いて二回観るにしておいて良かったです。

そして扇を二人で眺めつつ、玉三郎さんが、花びらを扇からつまんで飛ばすような仕草があり、扇の柄と関係しているのかなとも思いました。

現仁左衛門さんが襲名のおり<仁左衛門展>がありまして私が見ている時お弟子さんでしょうか、『二人椀久』の扇を今はこれではないのでと取り換えにこられたことがあります。「早く気がついてよかった」と安堵されていて、やはり踊っていかれるうちに踊りの世界と合うものを選ばれていくのかなと思ったことがありました。

書いていると、前回観た『二人椀久』も捨てがたくなります。こうやって、組む方によってその踊りの世界ができ上っていくのかと前回の踊りも、何かいとおしくなります。でもそれは、より作り上げられていく世界が上を目指しているからでしょう。

これが、玉三郎さんの若い役者さんや芸能者の育て方です。自分が愉しんで踊れたり演じたりできる世界まで引っ張て行き、その世界でゆうゆうと愉しんで踊られるのです。

松山を出現させた椀久、松山を愉しませることができたのか。勘九郎さん前回より松山を受け入れる態勢十分です。並んで背中合わせに座り、お互いの手が並びます。あの手重なるのであろうかと視ていましたら、お互いの肩と背が押し合いをしてそして手が重なりました。

ここは手が重なるところですから、ではないんです。お互いの心の流れがなす所作なんです。参った、参ったです。20日弱でこの世界になるのかと、椀久に連れられていった幻の世界でした。長唄もやはり素晴らしい。踊りと一体でした。

京鹿子娘五人道成寺』は、それぞれの持ち場が明らかになり、一人での『京鹿子娘道成寺』の踊りと重なって整理されあそこは、誰と誰が組んで、ここは玉三郎さんがということが浮かんできます。女子会はもちろん楽しかったですが、それぞれの踊りの輪郭がはっきりしてより立体感のある道成寺になっていました。

花道の出は七之助さんで花道のスッポンから勘九郎さんが出て二人で踊り、勘九郎さんが消えて七之助さんが所化との問答へ。所化の亀三郎さん、萬太郎さん、橘太郎さん、吉之丞さん、弘太郎さん等が声もさわやかに白拍子花子の美しさを楽しんでいました。

烏帽子を受けとり、そこからは玉三郎さんです。烏帽子も和紙で出来ているのではないでしょうか。赤の衣装から薄桃色の衣装に引き抜きされて、本舞台が玉三郎さん、勘九郎さん、七之助さんで花道に梅枝さんと児太郎さんと。児太郎さん、国立劇場との掛け持ちでした。

勘九郎さん・七之助さんと梅枝さん・児太郎さんが本舞台と花道の位置を取り換えます。そのあたりもさらさらと動かれて交替して綺麗です。

花笠踊りは児太郎さんで花笠も和紙なのではないでしょうか。恋の手習は玉三郎さんで、あの手ぬぐいの材質は何なのでしょうか。柔らかさからすると綿ではないでしょう。そんなことも気になりました。手ぬぐいの扱いが優しく美しく色っぽく品があり千変万化で、玉三郎さんにあやつられる幸せな手ぬぐいです。

羯鼓(かっこ)は息のあった勘九郎さんと七之助さん。そして、紺と紫の混ざったような衣装の梅枝さんが雰囲気を替え、引き抜きで白地になり、五人の鈴太鼓。前回はここが印象的だったのですが、それぞれ踊り込んできたからでしょう、そこまでの踊りにきちんと起伏が残り、やりましたねと語り勢いを付けつつ、さあー最後の仕上げにいきましょうかと暗黙の了解という感じで鐘入りに向かいます。女子会美しくて恐ーい。

鐘の上は、玉三郎さんと勘九郎さん、下の段差に七之助さん、梅枝さん、児太郎さんでした。ずっと愉しくて指で拍子をとりつつ観ていました。

休憩時間に久しぶりで舞台写真を見にいきましたが、皆さんいい表情をされていました。記念に玉三郎さんを真ん中に鈴太鼓を持って座っている微笑ましい娘五人の写真を購入してきました。

これで、勘九郎さんの椀久、玉三郎さんの松山、玉三郎さん・勘九郎さん・七之助さん・梅枝さん・児太郎さんの白拍子花子しっかり記憶の一ページに納めました。

頭の中で『京鹿子娘道成寺』の音楽と映像が断片的に回っています。