朝倉摂さんからスーパー歌舞伎へ

朝倉摂さんの訃報から、その舞台装置をあらためてみたいと考えたらスーパー歌舞伎『ヤマトタケル』のDVDがあるのに気が付く。さらに、梅原猛さんと市川亀治郎(現猿之助)さんの対談『神仏のまねき』をまだ読んでいないで書棚の中である。DVDを観て、本を読んで、大変面白かったのであるが、疲れも出てしまった。

DVDは1995年(平成7年)4月の新橋演舞場での公演である。私が『ヤマトタケル』の舞台を観たのもこの年が初めてである。この作品の初演は1986年(昭和61年)2・3月の新橋演舞場である。その時の配役は猿之助(現猿翁)さん、延若さん、児太郎(現福助)さん、宗十郎さん、門之助(七代目)さん等が参加されていた。舞台装置は朝倉摂さんで、音楽に文楽の鶴澤清治さんの名もある。『神仏のまねき』には、初演に至るエピソードやスーパー歌舞伎を目指した猿翁さんの思いや、哲学者である梅原猛さんが劇作家となった経過などが猿之助(亀治郎)さんとの対談を通して明らかになる。そして、今から10年前いやもっと前から現猿之助さんが新しいスーパー歌舞伎を目指していたことがうかがえる。

1995年の10年後の2005年には市川右近さんと段治郎(現月乃助)さんがヤマトタケルとタケヒコの交替ダブルキャストで公演されている。この時は右近さんのヤマトタケルで、2008年には月乃助さんのヤマトタケルで観ているが、猿翁さんのヤマトタケルとは違う意味で楽しめた。それは何かと言うと、猿翁さんの時は、当時の猿之助さんとしての猿翁さんの生き方イコールヤマトタケルが密着していて、「 天翔ける心 それが この私だ 」の科白を聞いてるこちらが気恥ずかしくなってしまったのである。わかっている事を面と向かって言われどうしたらよいのやら。今回、DVDを観ててもその感覚は同じであった。しかし、右近さんと段治郎さんのときは、芝居の中のヤマトタケルの科白として素直に容認できた。若い世代に受け継がれる事によって、芝居と演者の間に観客にとって必要な想像の空間が生まれたのである。

『神仏のまねき』のなかで、縄文人と弥生人にふれ「縄文人というのはたいへん精神的に高い人間で素晴らしい文化を持っていた。しかも人間的に非常に立派だった。しかし、弥生人が入ってきて、生産力の違い、それから武器の違いのために滅んでいった」と梅原さんは考えられる。ヤマトタケルは弥生人である。最初に猿之助(猿翁)さんが脚本を読んだとき、これではヤマトタケルが悪い事をしているようだとして、自分にも好い科白をといってできたのが「 天翔ける心」の科白ということである。

2005年のパンフレットには、鶴澤清治さんのお名前がないので、音楽も1995年と変化しているのであろう。そのあたりどのように変ったのか記憶に残っていない。1995年の太棹の音は琵琶にも聞こえ哀切と猛々しさが交差する。

残念ながら、現猿之助さんの『ヤマトタケル』は観ていないのである。『神仏のまねき』を読んでいると残念さが増すが、いずれ出会える事もあろう。

朝倉摂さんの舞台装置も思い出した。あかね雲や富士山は忘れていた。2005年のパンフレットには、1986年スーパー歌舞伎の原点として舞台写真が載っていて、舞台装置もしっかりみることができた。舞台転換などの時に観る者の気持ちを変えてくれ、その後は芝居に集中させるものであると朝倉さんは考えたであろうし、舞台装置が残るようでは役者さんの演技の意味がない。

『神仏のまねき』のなかで猿之助(亀治郎)さんが梅原猛さに尋ねられている。<今の若い世代が孤独に耐えうるために、西洋でいう一神教の神のような、そういうものに代わるのは例えばなんだと思われますか><怨霊が一番いいんだけどな><怨霊を鎮魂するという行為に向かえばいかがでしょう><そう、鎮魂です> あまり簡略化してはいけないのであるが、スーパー歌舞伎Ⅱの『空ヲ刻ム者』の若き仏師・十和の求めていた答えとも受け止められる。

観る対象者がいることからすると仏師も演技者も類似するところがあるかもしれない。

舞台美術から飛躍したが、朝倉摂さんはきちんと歴史を捉える事を大切に思っていた方だから、舞台を通じて通過した時代を眺めることを若い人達にも推奨するであろう。

朝倉摂さんの舞台美術でもう一冊パンフレットがあった。『6週間のダンスレッスン』である。2008-2009とあるので地方公演もされたのであろう。草笛光子さんと今村ねずみさんの二人芝居である。室内の白い籐椅子がクッションの色、草笛さんの衣装の色を引き立てる。パンフレットの表紙があまりにも素敵なお二人で思わず買ってしまった。もちろん舞台のお二人も魅力的でした。