歌舞伎座 『鳳凰祭四月大歌舞伎』(夜)

久方ぶりに『平家物語』に触れたので『一條大蔵譚』からにする。阿呆と本性の行きつ戻りつの演技は、お手の内といった吉右衛門さんの一條大蔵卿である。今回衣装の色が淡く感じた。「物語り」(吉右衛門著)のなかで<初代以来原色っぽい強いものと、やわらかい色の二種類があります。僕の場合は、若いときは強い色にしていますが、最近はだんだんやわらかい色のほうになってきました。>とあり、以前からやわらかい色を使われていたのであろうが、その色が合ってきたということであろうか。一條大蔵卿の密かに一人企む腹が語られるとき、やわらかい色でも芸で伝わるようになったと理解した。魁春さんの常盤御前が品があり梅玉さんの鬼次郎に打たれて、よくやったと褒めるあたりは、こちらもギリギリまで本心を見せない、位の高さがあった。芝雀さんが間者として入り込む隙の無さが、阿呆の大蔵卿と対峙して、阿呆さを一層際立たせた。中村歌女之丞さんが幹部になられたようであるが、鳴瀬として阿呆の大蔵卿をしっかり補佐されていた。

『女伊達』の時蔵さんは大きかった。国立劇場での<切られお富>が色気のある悪婆で、この役をやったことによって線の太さがでてこられたように思う。(3月国立劇場は観たのであるが書こうと思っているうちに日にちが過ぎてしまった。)男伊達は松江さんと萬太郎さんであるが、ここで違いがでた。萬太郎さん頑張っているのだが、松江さんの年輪には負けていた。それは、女伊達の時蔵さんと絡むとき、萬太郎さんの時女伊達が小さくなってしまうのである。これは観ていて相手役によって主役も違ってくる例として勉強させられた。男伊達を翻弄するあたりも大きく血の気もかんじられる女伊達であった。

『髪結新三』は、幸四郎さんは小悪党は無理と観る前から思ってしまった。大悪党で貫禄がありすぎる。手代の髪をあつかう職人である。普段はヘイヘイと頭を下げている髪結いである。柄が大きいだけに損である。弥太五郎源七より始めから大きいのである。大家さんの彌十郎さんが声を大きくして大家の狡さを出して対抗し、幸四郎さんも大家には負けていたがそうへこまされていたようにも思えない。橋之助さんの手代忠七は芝翫さんの忠七をしっかり学ばれたのであろう。台詞まわしなど芝翫さんを彷彿とさせた。しかし、芝翫さんのほうが、新三がさっさと忠七を置いていってしまい、新三を呼び止めるあたりからは、やわらかさがあった。世話物のやわらかさというのは難しいものと思えた。ただ、幸四郎さんの考える髪結新三とはこういうことなのかと思って観ると、これは幸四郎さんの解釈の髪結新三としての楽しみ方はある。そう考えるとバランスが取れていた。ただ時代性をかんがえると江戸からはみ出してしまう。

 

 

『遊行寺』と『東慶寺』と『長楽寺』

藤沢の「遊行寺」は「清浄光寺」と紹介される時もあり、二つの名前を頭に入れておいたほうが良いかもしれない。出会いが「遊行寺」なのでその名前で通すが、この御本尊は阿弥陀如来で公開はされていない。「遊行寺」の宝物館は、土・日・月・祝日開館である。社務所に遊行寺の案内冊子が売られていたようであるが、そこまで頭がまわらなかった。ただ説明板にこの「阿弥陀如来像」が<定朝様>とあった。<定朝様>は「東慶寺」で出会う。

鎌倉の「東慶寺」松岡宝蔵に、<如来立像>がありその説明に<定朝様>とあった。定朝は平安時代の後期の仏師で「平等院」の<阿弥陀如来座像>を造った大仏師である。貴族の間でこの仏師の作風が人気となり全国的に<定朝様>の仏像が造られる、それが鎌倉にも伝わったのであろう。仏像にも時代によって<人気>というものがあったのである。スーパー歌舞伎Ⅱ『空ヲ刻ム者』の若き仏師は、その<人気>の意味にも悩むのである。信仰の対象でありながらそのお姿に時代の好みが加わる。そのあたりから『空ヲ刻ム者』の題名も出てくるのであろう。形があれば人の好みが加わるのは必然であろう。それを超えるものは何であろうか。<空(くう)>をもがくようなのでここまでとする。

京都の「長楽寺」はどう関係するのか。一遍上人尊像を、このお寺の収蔵庫で拝観する。「長楽寺」と言えば、平清盛の娘であり安徳天皇の母であり、壇ノ浦の合戦で入水されたが助けられ、この寺で出家された<建礼門院>のお寺として有名である。八坂神社の南門を左手にしてまっすぐ進むと長楽寺の参道があり、山門がみえる。この下からの眺めも好きである。桓武天皇の勅命によって最澄が開基し、天台宗の別院から室町時代時宗に改まる。<時宗宗祖一遍上人尊像>は重文であり、深淵を見つめておられるようなお顔である。両手をピッタリ合わせ少し前かがみで立っておられる。

山門を入ると拝観料を払い左の建物に建礼門院関係の寺宝がある。花の無い時期で玄関を上がると大振りの活け方で枝葉が飾られている。嬉しいお出迎えである。建礼門院が出家される時、『平家物語』 に次のように書かれている。

、<長楽寺の印誓上人(いんぜいしょうにん)に御布施として、先帝安徳天皇の御直衣を贈られた。御最後の時までお召しになっていたので、その移り香もいまだになくなっていない。><上人はそれをいただいて、なんと申し上げてよいやらわからず、墨染の袖を顔に押し当てて、涙にくれながら御前を退かれたが、のちにこの御衣を旗に縫って、長楽寺の仏前にかけられたということである。>

この<安徳天皇御衣幡>やこの幡を収めるための箱を織田信長の弟・有楽斎が寄付しており、その複製が見れる。本物は特別展覧の期間に展示のようである。ここから相阿弥作の庭を眺めることが出来、静かな時間をもらう。本堂、収蔵庫、建礼門院毛髪塔、頼山陽の墓などをみていると、誰が突いたか鐘の音がする。良い響きである。この音が祇園一帯まで響くのであろうか。鐘を突きたいと思い、入口のお寺の方に誰が突いてもいいのか尋ねたら、駄目であった。時々勝手に突いてしまう人があるそうで、年越しには除夜の鐘として突かせてくれるそうである。鐘も突き方があって、突き方が悪いと長い間にひび割れたりするそうで鐘にも扱い方というものがあるのである。

このお寺の特別のお花はなく自然に任せているとのこと。玄関に活けられた枝葉が素敵だったことを伝えると、定期的に活けられているそうで、目に留まって嬉しいですとのお返事。それから少しお話しさせてもらうと、<一遍上人>は一生涯お寺を持たずに旅に暮らされたことを教えていただいた。そうであったか。あの像のお姿からすると納得できる。そんなわけで、この「長楽寺」で<一遍上人>の生き方を知ったのである。

「遊行寺」から「東慶寺」「長楽寺」へ鎌倉から京へと思いは飛んだのである。長楽寺宿坊のお名前が<遊行庵>である。