国立博物館 『栄西と建仁寺』

<栄西>に関しては知識はゼロに等しい。先ず、<栄西>が<ようさい>と読むことを知った。入ってすぐに、鎌倉寿福寺所蔵の栄西の座像があり、置いてあった目録と展示順番が違うので、係りの方に尋ねたら<ようさい>という。国立博物館では資料から今回の展示での呼び方を<ようさい>と統一している。チラシを良く見たら<ようさい>とひらがなをふってある。そのことに関しても、展示で説明があったが、<えいさい>と思っていたので、知らないことが沢山でてきそうな予感がする。寿福寺と<栄西>も?である。

栄西は吉備津神社の神職の子として生まれている。吉備津神社といえば、旅で訪ねたとき、『雨月物語』の<吉備津の釜>のように、神職の方が釜のお湯を沸かし、その前でお告げを待っているのか畏まっている方がいたので友人と、顔を見合わせたことがあるので忘れられない。

吉備津神社(0歳)→安養寺(11歳)→延暦寺(14歳)→入宋(28歳)→誓願寺(33歳)→再入宋(49歳)→聖福寺(55歳)→東大寺(60歳)→寿福寺(60歳)→建仁寺(62歳)

こんな流れである。入宋したときにお茶を持ち帰り、お茶の効用を説いた本などを残している。聖福寺ではお茶の種を播いている。寿福寺は北条政子が栄西を招き開山させている。そして、建仁寺は源頼家の庇護のもと建立している。

再入宋の時は清盛が衰退し仲原氏がパトロンとなっている。栄西の年令と時の政治情勢も照らし合わせなければならないのであろうが、その辺は深く興味を持ったときにする。

お茶に関しては、今も建仁寺で一年一回催される、<四頭茶会>が興味深い。茶会の行われる方丈内も再現され、ビデオでも紹介されているので、この場所でこういう風に行われるのだと様子がよくわかる。禅の茶礼ということで、今のお茶の前の形ということになる。

一番引き付けられたのは、栄西が明恵上人へ、南宋時代の<漢柿蔕茶入>に入れて、お茶の種を5粒贈っている事である。柿の形をした渋い茶入れである。高山寺所蔵であるから見たのかもしれないが記憶にない。お茶の記念碑があったのは覚えているが、今回、栂尾(とがのお)の茶の始めとあるから、初めて心に染みついた事柄のようで嬉しい。旅の時は、高山寺は鳥獣人物戯画と開け放たれた廊下からの庭が強い印象であった。

そして、高山寺、西明寺、神護寺と見て、もう一つの大きな目的である清滝川に沿って愛宕神社の鳥居前保存地区まで歩くことであった。自然の中を一人歩くのは清々しい。誰も人がいないというのは怖くないのであるが、前から雨上がりでビニール傘をもった男性が来たときは緊張してしまった。すれ違うほどの細い一本道で、あのビニール傘の先は凶器になる。〇〇サスペンス劇場の世界。<清滝殺人事件>。それからは急ぎ足となり、清々しさも半減したのでもう一度歩きたい道である。紅葉の頃がいいのであろう。さらに、 栄西さんと明恵さんの事も少し調べておいてからがよいであろう。

栄西禅師と明恵上人の交流が実態として明らかになり、実際に展示物をみての実感は嬉しいものである。

俵屋宗達の「風神雷神図屏風」は三回目なので、また逢えたなとの感覚である。初めて見た時は、風を吹かせ、雷を起こす勢いを感じたが今回は冷静であった。

海北友松(かいほうゆうしょう)の絵のほうが面白かった。この絵師も今までインプットされていなかった。線が面白く、「雲龍図」は、ぼかしかたの大胆さが面白かった。

建仁寺の法脈は一つではなく「両足院」が栄西系統の拠点として存続しているとあり、有楽斎が、大坂の陣後、正伝院を再興し隠居所としていたようだ。小野篁(おののたかむら)の像には会ったが六道珍皇寺と六波羅密寺にはまだ行っていないので、気に留めておこう。

建仁寺も再訪したら、違う顔を発見できるかもしれない。