歌舞伎1月 『黒塚』

猿之助さんの新しい歌舞伎座デビューが、早くも『黒塚』である。猿之助さんらしい挑戦である。阿闍梨祐慶が勘九郎さん。山伏大和坊が門之助さん。山伏讃岐坊が男女蔵さん。強力太郎吾が寿猿さんである。

『黒塚』は奥州安達ケ原の鬼女伝説をもとにした能の『黒塚(安達原)』を初代猿翁さんが新作舞踊劇とされたのである。二代目猿翁さんがそれを受け継ぎ得意とし追及していた舞踊である。それを、今度は現猿之助さんが受け継いでの更なる探究となるのか。楽しみの一つであった。

三つの場景に別れていて、一人住まいの老女のところに、諸国行脚の僧・祐慶らが一夜の宿を頼む。この老女は夫に捨てられ世を怨み鬼女となっているが、祐慶の話しから自分も悔い改めれば来世では成仏できると聞き喜び、祐慶たちをもてなす為、裏山へ薪を取りに行く。閨(ねや)を絶対に見ないようにと言いおくが、強力が見てしまう。閨は死骸の山である。

祐慶のことばを胸に柴を背負った老女は、、芒(すすき)の原を通って月明かりの場所にでてくると、自分の一生を踊りで語り始める。そして月明かりに移る自分の影に気がつきその影と戯れて、月に浮かれ軽快に踊り始める。ここは、初代猿翁さんは、ロンドンで観たロシア・バレエを取り入れるのである。つま先で踊ることによって腰のバネがきき、ふわふわとした能や日本舞踏にはない動きとなり、それが老女の喜びを表し、さらに地方さんとの絶妙な呼吸でメリハリのある踊りが披露されるのである。しかし、そこへ強力が事実を知り、腰を抜かしつつ逃げてくるのに出くわす。老女は閨を観られたことを知り、キッとなって鬼女の様相を見せ膝づめで強力をころがし、消えてしまう。

藍色の隈取をして老女は鬼女と化かし、長袴をさばきつつ、阿闍梨と二人の山伏との対決となる。成仏できるはずだった老女は、今は阿闍梨の祈りの力により回転させられたり、仏倒しとなったりして祈り伏せられる。この場での、鬼女が木に背中をもたせかけ、後姿で嘆く様子は、あんなに喜んだ老女がと可哀想になる。鬼女が一瞬人間の感情を見せる場面である。今回はこの部分に老女と鬼女のすき間の一瞬が見えることによって、この舞踊の厚みを感じた。

舞台装置、照明、老女の糸車を操る<糸操りの歌>、阿闍梨との問答、押さえも利かせる軽快な踊り、祈りなど、様々な要素を加え、調和させつつの舞踏で、黒塚に埋葬されている鬼女が実はこんな話しなんですよと、後の世に姿を一度だけ表すことが許されるなら、こうであろうかと思わせられる舞台であった。

猿之助さん、勘太郎さん、門之助さん、男女蔵さん、寿猿さんの息も合ってやはり『黒塚』は好きな舞踊の一つとしてゆるぎなかった。

福島県二本松にある、「黒塚」と鬼女の住まいとされる「岩屋」へは、かなり以前訪れている。JR二本松からタクシーを使い待っていてもらい戻ったと思う。今検索すると、岩屋のある 観世寺には宝物館もあり、鬼女伝説の資料もあるようである。訪れた時は、高村光太郎さん『智恵子抄』の妻・智恵子さんの生家があり、そこにも寄り、時間が足りなかった記憶がある。時間があれば歩ける距離かもしれない。

 

 

歌舞伎座1月 『番町皿屋敷』『女暫』

『番町皿屋敷』を初めて観たときは、一ま~い、二ま~い、三ま~いの幽霊の話と思っていたので、歌舞伎ではこいう話なのかと驚いた。<番町皿屋敷>の伝説を、岡本綺堂さんが恋愛ものに仕立てたのである。旗本青山播磨(吉右衛門)と腰元のお菊(芝雀)は恋仲であるが、播磨に縁談があると聞いて穏やかではない。ついに播磨の心を確かめるため家宝の皿を一枚わざと壊してしまう。播磨は粗相なら仕方がないと許すが、自分の気持ちを試したと知って、お菊を手にかけ井戸に投げ入れ、これで自分の恋も終わったと喧嘩に飛び出してゆく。

播磨の吉右衛門さんは、お菊に母にも二人のことは報せて良いぞと伝え、皿のことも間違いはあるものと穏便に裁くのであるが、自分の気持ちを疑われたと知るやそのことは許せざることであるとする恋に対する一途さを貫いた。お菊の芝雀さんは、身分の差からくる女の不安、播磨の本心を知ったときの喜び、自分の行為はどうであろうと播磨の気持ちが解った以上、それだけで良いという一途さを貫いて死に臨むのである。その二人の心理がよく表れていた。町奴との喧嘩に明け暮れる鬱屈している播磨の救いがお菊に対する心情だったのである。

喧嘩相手の幡随院長兵衛の子分の放駒四郎兵衛の染五郎さんは、幡随院長兵衛でもいいような粋と大きさがあった。播磨の苦手とする伯母の東蔵さんが、播磨と放駒の間に入り仲裁し、播磨を諌める伯母としての風格がある。

『女暫』は、題名のごとく女方の<暫>である。場所は京の北野天神で、平家が滅び功を遂げた源範頼(歌六)が祝宴の席を設け、木曽義仲の嫡子・義高(錦之助)と許嫁・紅梅姫(梅丸)を成田五郎(男女蔵)らに命じ殺そうとする。そこへ「しばらく」と声がかかり、巴御前(玉三郎)が現れるのである。花道で女ながらも「成田屋さんに借りた三升紋のこの衣装・・・」などと勇ましく<つらね>を述べ義高たちを助けるのである。その前に、このスーパーヒーローの巴御前を花道から後ろに下がらせようと女鯰若菜(七之助)、轟坊震斎(又五郎)らが試みるが、自分たちが引き下がるしかない。この変哲もない行為を役どころの面白さで見せるのであるが、そこがかえって難しい。ひょうきんさと愛嬌さを見せて、スーパーヒーローを際立たせるのである。スーパーヒーローもそれを軽くいなし更なる大きさを見せる。この『女暫』も玉三郎さんを中心に次の世代に繋がっていく基礎が出来上がってきたように思える舞台にしてくれた。

大役を果たした巴御前の玉三郎さんは素に戻ったという演技で、舞台番辰次の吉右衛門さんに花道の引っ込みを習う。この素と役の微妙な演じ分けがのお二人の駆け引きが、芸のつやを見せてくれての引っ込みとなるのである。

荒事は役者さんの大きさで見せるところがあり、内容も単純で史実も伝説的要素があり、歌舞伎を観始めたころは、その面白さがよく解らなかった。しかし、若手の役者さんが演じると、もっと面白くない。さらに鍛錬を積んだ役者さんのを観ると納得でき、若手が変化してくると成程こうなると随分面白さも加わるのだと楽しさが増してきた。

歌舞伎の場合、まだと思える役者さんと熟練の役者さんとが組み合い、演目も入れ込まれているので、観客は見たくないと思っても観ざる覆えない。それは、若い歌舞伎役者さんにとっては幸せなことであり、未熟さもあらわになるので怖いことでもある。その幸せと怖さを乗り越えて行くしかないのである。

観る側は動きもせず、ああでもない、こうでもないと勝手なことを言わせてもらっている単なる怠け者である。