気分回生には玉三郎舞踊集

気分転換でなくても当たると思うのが、玉三郎さんの舞踊集DVDである。明治座5月の『男の花道』で、猿之助さんが、歌右衛門がお風呂帰り花道を、長谷川一夫さんが、長唄の『黒髪』の独吟に乘って出るという情報を得た。猿之助さんの出がそうだったかどうかは、観た後の情報なので捉えていない。その程度の音感ということである。

ただ、金谷の宿でだったと思うが御簾から良い音曲が流れていたのは記憶にある。なんだろう後で調べようと思って詞を気をつけていたが、見事に忘れている。それはいいとして、『黒髪』が気になる。手もとには玉三郎さんの舞踊集の地唄の『黒髪』がある。やっと手が伸ばせる時間がめぐった。今回は詞の字幕、解説つきで観る。人の意見に左右されやすいので、解説つきでみるのは初めてである。こちらの想いの邪魔にはならなかった。次が大好きな地唄の『鐘ケ岬』である。もうはまってしまった。

舞踏集2と6を一気に観た。詞の重なり、枕詞、などなどもうたまらない。なんでこう遊び心を挿入しつつ人の想いを伝えられるのか。そしてそこに玉三郎さんの踊りがある。『鷺娘』など<妄執の雲 晴れやらぬ 朧夜の恋に迷いしがわが心・・・>とはじまり、最後は地獄の呵責の責めに合い死んでいくわけだが、その間に傘づくしなどがあり、傘を車に見立てた箇所では、『日本橋』のお孝を思い出す。『鷺娘』は舞台でも何回も観ているのに改めてその新鮮さに驚愕してしまった。

荻江節の『稲舟』は、最上川を渡る稲穂をつん小舟のことなのだそうで、最上川特有の風物だったそうだが、玉三郎さんは、遊女の恋という設定である。日本各地の風物も詞に入っている。

『藤娘』では、近江八景が歌いこまれている。行ったところが半分、行っていないところが半分。この機に、今年は制覇しようなどと余計なことも考える。

『保名』は、どうも中だるみしてしまう。<男物狂い>で気がふれて亡くなった恋人を捜したり、幻覚をみて恋人の打掛を恋人にみたてたりする。この作品は保名の美しさだけでは物足りないのである。具体的な物語は語られないのである。

そこで、大川橋蔵さんの映画『恋や恋なすな恋』を見直す。1962年の作品で監督は内田吐夢監督である。1959年に萬屋錦之助さんの『浪花の恋の物語』を内田吐夢監督が撮っていて、橋蔵さんの役の流れに違う流れも入れてみようとされたと思う。脚本・依田義賢、音楽・木下忠司、美術がのちに『トラック野郎シリーズ』の監督・鈴木則文、撮影・のちに任侠映画の吉田貞次。1962年には橋蔵さんは大島渚監督の『天草四郎時貞』にも出られていて、時代劇スターの変わり目の時期であることがはっきりしてくる。『天草四郎時貞』は、橋蔵さんに合わなかった。権力者と宗教、信者のキリスト教の解釈も絡んでくるので大島監督流の問題提起の映画である。

『恋や恋なすな恋』は、保名(大川橋蔵)が天文博士・加茂保憲の一番弟子なのであるが、跡目相続の争いに負け、師匠の娘で恋仲の榊(嵯峨美智子)にも死なれ気がふれてしまう。その場面を踊り『保名』として作ったわけである。映画のなかでも保名は踊るのである。そのあと、狐葛の葉(嵯峨美智子)との場面となるが、保名に恩ある狐が、榊の妹・葛の葉(嵯峨美智子)になりすますのである。映画ではその場面は舞台上での物語として設定している。いわゆる安倍清明の誕生と狐葛の葉との別れである。幕がぱっと落とされたような場面展開や、一面菜の花での保名の狂乱振りなど映画と舞台との共存のようである。

最期は、病が治ったと思った保名は踊っていた保名で、恋人の小袖をかぶって伏してしまう。そして、狐の葛の葉の鬼火であろうか、石の周りを飛び回っている場面で終わりである。あの石は、保名なのであろうか。理解に苦しむ終わり方である。保名と榊との関係から舞踏『保名』が生まれ、保名と葛の葉の関係までは、歌舞伎や文楽では『芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』がある。通しで観たくなる。

トントンとノックして返事の無い部屋に入り、様々な想いをもらって後にするプロの部屋は新たな気分を発酵させてくれる。素人に媚びたプロの仕事は爪痕しか残さないが、素人に媚びないプロの仕事は足跡を残す。時には、痕跡さえも消え、ふたたびノックさせるのである。