京都魔界めぐりの旅(1)

雑誌の<京都魔界巡りガイド>に3コース載っていた。2つのコースは行っていない個所が一箇所で、選んだコースは行った個所が一箇所である。

下御霊神社 → 一条戻橋 → 晴明神社 → 白峯神社 → 千本ゑんま堂

すでに訪れているのは、晴明神社である。ただその頃は『陰陽師』に興味がないから、単なる見学である。さらに、最後に 上御霊神社 を加えた。これで、南、西、北と御所を中心として周ることになる。

<京都観光一日乗車券(二日)>を購入。これは京都市バス全線、市営地下鉄全線、京都バスが乗れる。バスだけ、地下鉄だけの一日乗車カードもある。小銭の用意をしなくてもよいのが助かるし、場合によってはお得度も高い。しかし地下鉄など出口によっては進む方向性をつかめなくなるときがあり、出る前に確かめるがそれでも迷うことがある。方向音痴らしい。

上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)>。謀略などで命を奪われた魂は御霊になるといわれ、この高貴なかたが謀略の御霊を鎮める御霊信仰の始まりは<上御霊神社>からで、早良(さわら)親王の御霊を祀ったのがおこりである。早良親王は崇道(すどう)天皇の尊号を追贈されている。その他にも憤死した方々の御霊が祀られている。驚いたことに、ここは<応仁の乱>勃発の地であった。いやはや先人も静かには眠っておられません。

そしてここに晴明心の像がありました。違いました。<清明心の像>でした。中国宋代の学者・司馬温公が子供のころ、一緒に遊んでいた子供が、水の満ちた大甕に落ちてしまった。すぐさま大きな石で甕を割り友人を救ったということから、物より命が大切の心ということらしい。機転の早い子がそばにいてくれて良かった。

次に<千本ゑんま堂>に行こうとバスに乘ったところ、<船岡山>という停留所があり下車する。船岡山公園となっていて、その上からは、思いがけず五山送り火の左大文の<大>の字が見えた。こういう出会いは声が出てしまう。

「今より千二百年の昔、京都に都がさだめられる際、船岡山が北の基点となり、この山の真南が、大極殿、朱雀大路となった。これは、陰陽五行思想、風水思想に基づいて、船岡山は大地の気が溢れ出る、玄武の小山であるとされたためである。」

応仁の乱の際にこの山が西軍の陣地となり、この周辺を西陣とよんだ。そうなんだ。西陣織りの生まれたところと思っていたが、元をただせばそいうことなのだ。ここに建勳神社がある。秀吉はここに信長の御魂をまつろうとし、それ以来信長公の大切な地とされ、明治天皇が創建された。<人間五十年 下天の内ををくらぶれば 夢まぼろしの如くなり ひとたび生を得て 滅せぬ者のあるべきか>の織田信長が舞った「敦盛」の一節の碑もあった。

さて、<千本ゑんま堂>へと思っても道がわからず、地元の人に尋ねて歩いて行くと<長岡温泉>があった。ここであったか。雑誌で、京都の銭湯の一つとして紹介されていて頭に残っていた。銭湯は庶民のお風呂で、京都といえども同様である。ホテルのバスルーム兼トイレの狭さがいやで、近くに銭湯がある知ると利用することがある。猫ぎらいは行けそうにないような、猫だらけ銭湯もあった。バスルーム兼トイレは、東京オリンピックのとき考え出されたそうである。ホテルも大浴場ありだと嬉しい。疲れの取れ方が全然違う。とにかく、<長岡温泉>見つかり、大地の気も踏んだのである。

千本ゑんま堂>無事到着。雑誌のガイドとは反対に進んでいる。深く考えなかったが、こういう魔界巡りの場合、巡る方角など決まりがあるのであろうか。いまさら考えても遅いし、これからも考えないことにする。平安のころは、方角が悪いとして方違い(かたたがい)と称し、出立位置を違う場所に変えて、それから出立したりしている。時々それを言い訳に平安の色男たちは、恋人を訪ねてくるのが遅かった理由にしている。ゑんま様には効き目が無い。