京都魔界めぐりの旅(2)

<千本ゑんま堂・引接寺(いんじょうじ)>のある千本通りは、かつての朱雀大路で羅城門から朱雀門までを貫いていた。朱雀大路の西側は水はけが悪く、疫病も蔓延し、船岡山の西嶺は<蓮華台>と呼ばれる葬送の地であった。死者を弔う無数の卒塔婆が立てられたことから、千本通りと言われるようになる。都の中心は東に移り、朱雀門も荒廃し鬼の出没する場所となる。

<千本ゑんま堂>のしおりによると、小野篁(おののたかむろ)は、この世とあの世を行き来する神通力を持っていて、昼は宮中、夜は閻魔庁に仕えていた。閻魔法王より現世浄化のため亡くなった先祖を再びこの世へ迎えて供養する「精霊迎え」の法儀を授かり、篁自ら閻魔法王の塔を建立したのが始まりとされる。

旧盆には、水塔婆を流し迎え鐘をついて、その音にのって閻魔様のお許しを得て帰ってこられる「おしょらいさん」を、お仏壇の扉を開いてお迎えするのである。

ここには紫式部さんの供養塔もあり、紫式部さんと小野篁さんのお墓は、北大路堀川に並んであるらしい。不思議なつながりである。

そのほか、京都三大念仏狂言の一つ<ゑんま堂狂言>があり、春には花冠のままぼとりと落下して散る<ゑんま堂ふげんざくら>が咲く。堂のおもむきは地域に親しみを込めてにらみを効かす閻魔大王様といった感じである。

今月の歌舞伎座『髪結新三』では「深川閻魔堂橋の場」がある。<深川閻魔堂>へはまだ行っていない。行かなくては。

<白峯神宮>へ行く途中で、<京都市考古資料館>があり入館してみた。係のかたがこちらの時間にあわせて資料の説明をしてくれた。ここでは来館した人で希望者に、一人4コースの、京都歴史散策マップをくれる。40コースあって、選ぶのに迷ってしまった。コースの地域で発掘された遺跡と、裏には散策地図がのっている。近ければすべて手に入れたいが残念である。

白峯神宮> 明治天皇が崇徳上皇の霊を鎮めるために創建された。崇徳上皇は不義の子とされ、父・鳥羽法皇にうとまれ、父の死後、後白河天皇と対立し保元の乱がおこり、後白河天皇に負け、讃岐に流されて亡くなる。

ここは、蹴鞠(けまり)、和歌の宗家である飛鳥井家の邸宅のあったところで、蹴鞠は落とさない競技なので、球技や学業の神様とされている。蹴鞠がはめ込まれた<蹴鞠の碑>がある。

晴明神社> 安倍晴明さんは陰陽寮の最上位になったのは57歳で、85歳で亡くなっている。当時としては驚異的長寿といえるであろう。初めて訪れたときは他の有名な神社に比べると狭いのでがっかりした記憶がある。一の鳥居の中央には五芒星が掲げられている。五芒星は晴明桔梗とも言われるらしい。晴明が操った式神の石像、五芒星のしるされた石から流れる晴明井戸や晴明像などがある。<千利休聚楽屋敷趾>の碑があった。晴明神社の地に千利休の屋敷があり、晴明の井戸の水を茶湯に使ったとされる。利休さんこの屋敷で切腹したのでしょうか。そうだとすると、利休さんの映画の場面の見方にこの地が加わってくるが。

一条戻橋> 葬送の際に遺体を運ぶ橋であった。現世と来世をつなぐ橋といわれ、歌舞伎の演目にもあり沢山逸話が残されている橋である。この橋の上で死からよみがえった人もいて、それから戻橋といわれる。堀川に架かるコンクリートの短い橋でそんな力のある橋とは思えない。晴明さんはこの橋の下に式神を隠していたとも言われている。今はこの橋の下が川に沿って遊歩道となっていて、時間があれば歩いてみたい場所である。どこに通じているのか。

この近くに「樂美術館」があった。一度は訪れたいと思っている美術館の一つである。

最終地のは<下御霊神社>である。ここは、桓武天皇の第三皇子・伊予親王が謀反の嫌疑をかけられ、母と共に服毒自殺をされ、その霊を鎮めるために祀られている。

あの世とこの世を行き来するということが異形のことで、それを鎮めたり、あるいは、一年に一度この世にお迎えし、またお送りするといったことには、異形とはならないようにとの願いと祈りがあるようである。

<上御霊神社>→<船岡山公園>→<千本ゑんま堂>→<京都市考古資料館>→<白峯神宮>→<晴明神社>→<一条戻橋>→<下御霊神社>