歌舞伎座12月『赤い陣羽織』『重戀雪関扉』

『赤い陣羽織』は劇作家木下順二さんの脚本である。原作はスペインの喜劇『三角帽子』ということで、これはバレエにもなっている。デイアギレフのロシアバレエ団が初演でピカソが衣装・装置を担当した作品でもある。三角帽子が権威の象徴で、木下順二さんは赤い陣羽織を権威の象徴にしている。

十七代目勘三郎さん主演の映画『赤い陣羽織』を見ているが他愛無いお話しなので映画としてはそれほど面白い作品ではなかった。

旧東海道の「宇津ノ谷峠」入口に<お羽織屋>さんがある。豊臣秀吉が小田原征伐のときに馬の沓(くつ)の取り替えをこの民家で頼んだが三脚しか取り換えず、あと一つは残して戦勝を祈るつもりですと答えた。戦さは勝利し帰るときに寄り陣羽織を与えたのである。その後、武将達がここを訪れ秀吉にあやかりたいと、この陣羽織に触ってここを通ったという。

今も、この家のお婆ちゃんが展示している陣羽織の説明をしてくれる。軽いように和紙で作られている部分が多く、沢山の人々に触られてすり切れてしまったのを、国立博物館で修復してくれたそうである。こちらは、身頃は和紙の白である。

芝居の中の<赤い陣羽織>は農家の女房がやはり立派な陣羽織なので代官に頼んで触らせてもらう。代官はこの美しい女房を気に入っているので大得意である。自分ではなく、自分の着ている陣羽織に人は権威を感じているのであるが、それを権威の象徴として胸を張っている代官にとっては自分が褒められたように満足である。

ではこの赤い陣羽織が無くなった代官はどうなるのか。

農家のおやじの門之助さんと女房の児太郎さんは仲の良い夫婦である。おやじにとって勿体ないほどの美しい女房である。その女房をおやじそっくりの赤い陣羽織を着た代官の中車さんが気に入り何んとか我がものにしたいと思い、おやじを庄屋のところに閉じ込める。そして女房をおもいのままにしようとするのである。おやじは家に戻ると赤い陣羽織がある。さてはとその陣羽織を着て代官屋敷へと乗り込むのである。

代官は慌てて屋敷にもどると、赤い陣羽織を着ていないものは代官とは認められないとの代官の奥方の吉弥さんのお達しである。代官は奥方に灸をすえられてしまうのである。そしておやじ一筋の女房は、代官の魔の手から逃れていた。そのことは台詞で話されるので、代官の振られる部分の芝居としては、笑いどころは少ない。笑いの芝居でありながら、笑いの取りづらい芝居となっている。どこで笑わせるかは、役者さん達の腕である。代官のこぶんの亀寿さんを含め、さらにもう一頭参加してのコラボは日々かわることであろう。

おやじと女房の夫婦仲は、赤い陣羽織では何の影響もなかった。

『重戀雪関扉』。『積恋雪関扉』常磐津の大曲であるが、今回は常磐津と竹本の掛け合いで演題も『重戀雪関扉』としている。読み方は同じ<つもるこいゆきのせきのと>である。ではどういう風に違うのかと思ってもわからない。関兵衛が松緑さん、小野小町姫が七之助さん、宗貞が松也さん、傾城墨染が玉三郎さんと役者さんが変わると芝居の雰囲気も変わり、掛け合いになるとこうであるという高尚な感想が書けない。

一人の役者さんが二役をする小町姫と傾城墨染を今回は、七之助さんと玉三郎さんがそれぞれ演じられわかりやすくなった。最初のこの芝居を観たとき、二役とわかっていても混乱してしまっている部分があった。

小町姫は宗貞の恋人である。関兵衛は、宗貞と小町姫とのやり取りでは本性を現さない。三人の手踊りがあって、小町姫と貞宗は関兵衛の素性を怪しむのである。

しかし、小町桜の精の力を借りてまで姿をあらわす傾城墨染の怨念は夫の仇の大友黒主の本性を暴きだすのである。そこまでの郭での様子を再現しつつ墨染は、じわじわと黒主を追い込んでいく。その場その場を見る者も想像しつつの流れである。

関兵衛の小町姫と宗貞の対し方、黒主の傾城墨染への対し方は違っている。傾城墨染との場合は、黒主へ変わるための手順が芝居として計算されている。傾城墨染と黒主の対局は次第に大きくぶつかりあっていく。その辺の違いがはっきりしていて面白かった。

小町桜の精が黒主の大きな斧を目の前にして墨染の想いと合体する魔力と大伴黒主の魔力の争いである。玉三郎さんにぶつかる松緑さん。そして大きく変身する。芝居のなかの役と、生身の役者さんのぶつかり合いは、役どころを邪魔しないところで垣間見えるとき、観客としては嬉しい現象なのである。

玉三郎さんは、若い役者さん達へ次への一歩を指し示めされたように思う。喜んではいられない責任の重い一歩でもあるに違いない。

 

 

 

歌舞伎座12月『本朝廿四孝』

『本朝廿四孝(ほんちょうにじゅうしこう)』<十種香> 武田と上杉の戦の時代に、中国の二十四人の孝行な人を集めた故事を重ねた話らしいが、その辺はおいておいて、そのうちの<十種香>は、二人の女性の亡き人を弔うためのお香をさしている。

一人は長尾謙信の息女・八重垣姫で許婚の武田勝頼が切腹したと聞き勝頼の絵姿の前で回向している。もう一人は、花作り箕作と共に長尾家に召し抱えられた濡衣(ぬれぎぬ)である。濡衣が回向しているのは、勝頼の身代わりとなって死んだ夫のためである。勝頼は生きていた。箕作となって、武田家の家宝の兜を取り返そうと、謙信の館に潜入していたのである。

箕作のを中央に、下手の部屋で先ず濡衣が正面を向いて回向し、それが終わると、上手の部屋での八重垣姫の絵姿をみての後ろ姿の回向の場面となる。ここからが八重垣姫の見せ所であるが、七之助さんの八重垣姫は清楚な感じで色香は薄い。

この八重垣姫が、箕作の松也さんを見て絵姿の勝頼にそっくりなため一瞬にして生身の人を恋する姫に変身してしまうのである。ただ深窓の姫君であるから口説きも袂を使っての愛らしい色香とならなければならない。七之助さんはあくまでも清楚な愛らしさで一途さを貫いた。濡衣の児太郎さんに仲を取り持ってくれと頼む。

濡衣の児太郎さんは、芝翫さんを思い出させるしっかりさである。八重垣姫の様子から、兜を盗み出してその想いの証明とするならと持ち掛ける。それを聴いた八重垣姫は、やはり勝頼様だと確信する。ところが箕作は違うと否定する。それを聴いた八重垣姫、違う人に懸想してしまったと生きてはは居られぬと自害しようとする。濡衣、そこまでするならと勝頼であることを明かす。あらうれしや。

そこへ、謙信の市川右近さんがあらわれ勝頼を使いに出す。箕作が勝頼であることを見抜いていた。もどるときに勝頼を殺すため、六郎の亀寿さんと、小文治の亀三郎さんを送り出す。驚く八重垣姫と濡衣を謙信は押さえこむ。

黒の濡衣、紫の勝頼、赤の八重垣姫と衣装が艶やかで、襖絵には菊の花が広がっている。襖の前には、寄り添う一対の小鳥が雪の枝にとまる墨絵の描かれた衝立が置かれていて、それも八重垣姫の口説きの時に赤い袂が振りかかるという道具立てになっている。

長い振袖の袂を自在に優雅に扱うことによって生身の相手を目の前にして初めて恋に目覚めた、お姫様の想いを表現するのである。その動きが年齢に関係ない役を描き出せる魔法の力なのである。

今の若い力の素直な見せ所となった<十種香>である。香りの高さが増すのはこれからである。

話しに出てくる<兜>は、武田家の<諏訪訪性の兜>で、謙信が借りたのに返さないというのが、両家の不和の原因とされている。この兜が今回は上演されない<奥庭>の次の美しい場面の小道具の一つになるのである。衣裳から小道具まで全て芝居のために考えられ構築されていくのである。

武田信玄と上杉謙信のことを少し調べたところ、信玄の五女の菊姫が上杉景勝に嫁いでいる。信玄と謙信の次の世代、武田勝頼と上杉景勝の時代、甲越同盟が結ばれる。その時、菊姫は上杉に嫁いでいる。

謙信の甥の景勝は、幼少から謙信に可愛がられ、謙信は景勝のために「伊呂波尽手本」(国宝)を書いている。謙信30代なかばの戦さに忙しい時期に、一字の漢字の横に幾つかの読み方も書き加えている。その甥が川中島で戦った信玄の娘と結婚するのであるから時代の流れというのはわからないものである。

政治戦略として、嫁がなければならない深窓のお姫様が、この人と思ったら思い込むエネルギーの凄さを歌舞伎のお姫様は度々見せてくれる。或る面では、自分の意思を貫く道の一つを表しているともいえる。

 

歌舞伎座12月『妹背山婦女庭訓』

今月の歌舞伎座は坂東玉三郎座長公演の感がある。若い歌舞伎役者さんをどこまでの基準に到達させ、その上に玉三郎さんの芸を乗せることが出来るかどうかである。若い役者さんが頑張ってくれて、芝居を損なうことにはならなかった。

『妹背山婦人庭訓(いみせやまおんなていきん)』 酒屋の娘お三輪が、求女に恋をしてその一途さが自らの死を招いてしまい、その死が想い人求女の役にたち、義憤も消えて死んでいくのである。

お三輪は、<杉酒屋><道行恋苧環(みちゆきこいのおだまき)>の場を七之助さんが、<三笠山御殿>を玉三郎さんが受け持った。求女は松也さん。求女に恋するもう一人の女性・橘姫を児太郎さん。お三輪を刺し、求女が実は藤原鎌足の嫡男・藤原淡海で自分は鎌足の家臣で、お三輪の血が敵の蘇我入鹿を滅ぼせるとお三輪に告げるのが鱶七(ふかしち)の松緑さんである。

<杉酒屋>は、東京では54年ぶりの上演だそうで、お三輪と求女が出逢った場所がわかり、そこへ橘姫が訪ねてきて三人の関係と赤と白の苧環の最初の役割がわかるのである。糸が巻いてありそれに手を持つところがついていて、糸を引くと糸巻きがくるくるまわるのである。

お三輪は隣に住む烏帽子売りの求女と恋仲である。今夜は七夕で、赤糸と白糸の苧環に願をかけている。(七夕は色々な意味が重なっているお祭りである)里では井戸替えをしているが求女は身分を隠しているから近所付き合いも悪い。そんな世間から浮いた求女のところに橘姫が訪ねて来る。丁稚の子太郎(ねたろう)の團子さんが達者で、里人にお酒を注いで回ったり、お三輪に求女のところへ橘姫が訪ねてきたことを知らせたり、後家の歌女之丞さんと大家の権十郎さんの間に入って動いたりと勘所が良い。

お三輪は求女を呼び出し、お互いの気持ちが変わらない様にと赤糸の苧環を渡し、自分は白糸の苧環を持つ。

<道行恋苧環>は、求女を挟んでのお三輪と橘姫との恋の駆け引きである。入鹿討伐の志がある求女は素性を表すわけにはいかない。のらりくらりの色男ぶりの松也さん。気の強い里の娘お三輪の七之助さん。おとなしそうだが芯が強そうな児太郎さん。足並みはそろった。求女は橘姫の袖に赤い糸をつけ、お三輪は求女の裾に白い糸をつけ、相手の行き先をたどれるようにするが、白い糸は切れてしまう。ここで縁は切れるのであるが、お三輪はそこで諦めない。二人を捜して入鹿の屋敷に紛れ込むのである。

<三笠山御殿>は、入鹿の屋敷である。七之助さんは、お三輪の恋に一途な気の強い里娘をしっかり玉三郎さんにバトンタッチした。縁の切れていない求女と橘姫。橘姫は入鹿の妹であった。求女は橘姫に入鹿が手に入れた朝廷の宝剣を兄から盗んで来ることを承諾させる。引き受ける橘姫もなかなかである。

三笠山御殿で登場するのが、鱶七という漁師で、どてらに白と黒の大きな格子縞の裃姿である。この衣装と、台詞が合っていてなかなかいい役である。鎌足が入鹿に仕えるという書状を持ってくるのである。漁師であるから鎌足のことを「鎌どん」と言ったりして愛嬌がある。松緑さん、愛嬌は薄いがすっきりとした鱶七である。貫禄ある悪の入鹿の歌六さんに負けない荒事の心意気である。

御殿に迷い込んだお三輪の玉三郎さん、豆腐を買いに行く腰元のおむらに会う。中車さんである。この役女形ではあるが、忙しそうに一人芝居をして結構言いたいことをいって去り拍手を貰える役である。橘姫と求女が祝言をすると聞かされる。そんなことさせられないとはじめは思うが、勝手のわからない場所で、官女たちに邪魔される。気はあせるが、官女は示めし合わせいじめがエスカレートしていく。心細さと恥ずかしさで涙するお三輪。求女に会いたい一心が、官女に置き去りにされ、祝言の祝いの声を聞いてお三輪は一転嫉妬の念にかられ着物も髪も乱れてしまうが、そこで鱶七に刺されてしまう。

なんという口惜しくておぞましいことか。鱶七は事の次第を話す。横笛に二つの種類の生血を注いで吹くと入鹿が正体を失うのである。一つは黒爪の鹿の生血でもう一つが嫉妬に狂った擬着の相の女の生血である。

これを聞いてお三輪は得心するが、一目求女に会いたいと苧環を抱きしめて息をひきとるのが健気である。御殿に紛れ込んでからのお三輪はあらゆる娘の姿を映し出してくれる。それを描く玉三郎さんの芝居を支えるだけの基本を守れたのであるから、若い役者さんも立派であった。亀三郎さんと、亀寿さんも脇の堅めがしっかりしている。

お三輪が死んだ後の、最後の納めも松緑さんすっきりと気持ちよく締めてくれた。

 

宇都宮と大谷地底探検

餃子の街宇都宮であるが、自転車の街宇都宮でもあった。『サクリファイス』を読まなければタウン情報誌を見ても気に留めなかったであろう。プロサイクリングロードレースチーム「宇都宮ブリッツエン」は特定の企業に依存せず、地元企業や個人支援者に支えられているチームで、日本初の地域密着型とのこと。

古賀志エリア・森林公園は、ツール・ド・フランスなどの世界トップクラスの選手が一堂に会する「ジャパンカップサイクルロードレース」のコースの一つになっている。

宇都宮は<二荒山(ふたらさん)神社>の門前町として栄えたまちで、この神社は源頼朝や徳川家康などが戦勝祈願したと言われている。JR宇都宮駅から歩いて15分位であろうか、この近くに評判の餃子屋さんがあるが、お客さんが並んでいるためここで食したことはない。

大谷石の採石された大谷地区へは、バスなら最初に行っておいたほうがその後の計画にゆとりをもてる。大谷石は二千万年前に火山の海底爆発でできた凝灰岩(ぎょうかいがん)の一種で、大谷石が有名になったのは、旧帝国ホテルに使われ、関東大震災で耐震と火災に強かったことである。

<大谷公園>、<平和観音>、<大谷寺>と石の自然と人工の芸術郡である。<大谷寺>は弘法大師開基といわれ、古代の横穴に建てられた観音堂の中には平安時代に造られたといわれる「大谷観音」(千手観音立像)があり、その他十体の磨崖仏が並んでいてこれまた大きくて見事である。そこから、<大谷景観公園>へ向かいそれこそ景観を楽しみながら<大谷資料館>へと進む。<大谷資料館>は石を採石した後の地下が石の神殿のような空間となっていて灯りに照らされた内部は神秘的である。

市街地にも大谷石の建物は幾つかあるが大きな建物としては昭和初期のカトリック教会の<松ヶ峰教会>がある。こちらは東武宇都宮駅方面で、JRと私鉄東武は離れているので見るとなるとかなり歩くことになる。タクシーを使うか飛ばすかである。

友人から大谷石の採石した地下をゴムボートで探索する旅があり、なかなか予約出来ないが、キャンセルがあったから行かないかと誘われて即決である。

JR宇都宮駅からバスで<道の駅 ろまんちっく村>へ移動、そこで案内人と他の参加者と合流してマイクロバスに乗り換えて出発である。この企画は地質調査をした個人の私有地へお邪魔するのである。最盛期には200位の採石所があったらしいが、今は数ヶ所である。

途中大谷石の建物があるが、明治時代に建てられていて、一度も水洗いなどしていないのに綺麗である。汚れが目立たない。質の良い大谷石は、汚れにくいらしい。

休日なので作業はしていないが現在も採石している採石場を見学した。そこで、案内の方が、「ここはアニメの『天空の城ラピュタ』の一場面を思い出しますよ。」と言われる。上からみると凄い深さまで採掘されていて、足場から覗く形となり、採掘の機械などもあり、シータが天から降って来て、パズーが受け止める場面設定と似ているのである。「なるほど!」である。

採石していた石工さん達の休憩所も大谷石の小屋であるが、質の落ちる小さな穴があいている石を使っている。最初のころは手掘りでそれから機械化されているわけで、手掘りは手掘りならではの綺麗な線が残っている。縦に掘って行き、良い石の層が見つかると横に掘っていくのである。30年前に採石を止めその後地質調査で入ってみたら水が溜まっていたのである。そこで、地下クルージングを企画したらしい。

用意してくれた長靴、ヘルメット、救命具を身につける。小さな電気にぼんやり照らし出される水面に浮かぶゴムボートに乗る。電気の点いているところもあるが、ライトを照らしての深淵な雰囲気の中を8人づつのゴムボート二隻が静かに進む。天井の低い所は触ると湿気を含んでいてざらざらしている。違う場所に降りたち、さらなる採石跡へ向かう。低い所、階段が出来ている高く掘られたところなど、良い石を求めて掘り進めたのであろう天井の高低差があり急に広い空間に出たりする。

地下クルージングは30分位であるが、<大谷資料館>とは違い、石工さん達の労働の姿が想像出来、さらに、溜まった地下水から生きている自然の力を感じる。

何年か何十年かするとまた違っているのであろうか。この地下の冷気を使って夏イチゴを作ることに成功したようである。再活用の道を模索している大谷地区である。案内してくれた若い方も、新しい楽しみ方のアウトドアを捜している様子が生き生きとしていて楽しかった。

アニメ映画『天空の城ラピュタ』を見直した。こちらは青く光る飛行石である。海賊の女首領ドーラがたくましい。ドーラの息子が、シータがいずれママの様になるの?と心配しているのが可笑しかった。

 

長野~松本~穂高~福島~山形(番外篇)

映画『男はつらいよ』の寅さんが山形の慈恩寺に行っている。16作・葛飾立志篇である。葛飾柴又の「とらや」に修学旅行生の桜田淳子さんが寅さんを訪ねて来る。寒河江(さがえ)町から来て、寅さんが自分のお父さんではないかと確めに来たのである。それは思い過ごしであったが、桜田さんの母親が昨年亡くなったことを知り、寅さんはお墓参りに行くのである。そのお寺がどうやら慈恩寺らしい。そこの住職が大滝秀治さんである。

御前様・笠智衆さんの姪御の樫山文枝さんが大学の考古学の助手をしていて、「とらや」に下宿することになる。やっと、茶の間からの階段を上がる部屋が見れた。寅さんはいつも台所の土間からの階段を上がった部屋であるが、そこを樫山さんが使うことになり、寅さんは二階のいつもとは違う部屋に寝泊りするのである。茶の間からの階段の部屋が気になっていたのでこれで一つ解決。

巡査が米倉斉加年さんと劇団民藝の方が3人出られている。樫山さんの師の大学教授が小林桂樹さんである。ラストは小林桂樹さんは樫山さんにプロポーズして断られ、寅さんは小林さんがだれにふられたかは知らないで二人で一緒に旅をしている。

「七つ長野の善光寺 八つ谷中の奥寺で 竹の林に萱の屋根 手鍋下げてもわしゃいとやせぬ 信州信濃の新そばよりも あたしゃあなたのそばがよい」

市川市文学ミュージアムで『山田洋次☓井上ひさし展』を開催している。( 2015年11月21日 ~ 2016年2月14日まで)

お二人の縁と、笑いと平和に対する想いなどが中心である。その他12月12日に公開される山田監督の映画『母と暮らせば』の小道具や衣装など、さらに『男はつらいよ』の「とらや」の茶の間のセットもある。井上ひさしさんのカード式メモは読みやすく几帳面に記入されていて驚いた。誰が見ても資料になる。そして、『男はつらいよ・葛飾立志篇』のタイトル前の寅さんが馬の引く荷台に乘っている大きな写真があり、出た!

文翔館では映画『るろうに剣心 京都大火編/伝説の最期編』の撮影があったが、この映画の撮影現場として、栃木県宇都宮にある<大谷資料館>でも知らされた。こちらでは、背景が白なので剣を交える場面を撮りそれを合成して映像化したのであろうと思うが。

映画『セーラー服と機関銃』で、薬師丸ひろこさんが捕らえられ十字架に張りつけになる場面がある。その白い巨大な柱郡はセットではないし、どこで撮ったのであろうかと気になっていたが、<大谷資料館>に行って納得であった。ここかと思ったら、ここで撮影されたとの掲示があった。

そんなこんなで『るろうに剣心』『るろうに剣心 京都大火編』『るろうに剣心 伝説の最期編』をレンタルした。『るろうに剣心』は剣心が刀を逆刃刀にして人を斬ることをやめるのであるが、その理由が弱くこちらには伝わらなかった。闘いのスピード感に比して、かおるとのやりとりなどの間の長さのギャップに閉口してしまった。続きを見るかどうか躊躇したがとにかく見ようと『るろうに剣心 京都大火編』を見ると、様々なキャラの人物が出て来て、会話部分の間もよくなり、剣心の佐藤健さんのアニメ的台詞も身につき良くなって面白くなった。ただ『るろうに剣心 伝説の最期編』では、剣心の剣の師が福山雅治さんで福山さん長髪似合わないし、ちょっと違うなと思ってしまった。

剣心の子供時代の事と新婚の侍を斬ってしまう重大な剣心の心の芯の決め所が弱かった。それに対し、藤原竜也さんの志々雄は生き残ってしまったら怨みしかないであろうということは明白。田中泯さんが引き締め、伊勢谷友介さんとの関係を盛り上げ御庭番のその後に色添え、幅が広がった。漫画、アニメの見ない者にとって、青木崇高さんの左之助の単純さが気分を変えてくれる。

漫画には漫画の、アニメにはアニメの、実写には実写の、芝居には芝居の心意気があるのであろう。というよりそれが必要である。

 

長野~松本~穂高~福島~山形(4)

四日目である。<慈恩寺>である。山形からJR佐沢線に乗り羽前高松駅で降り、徒歩20分。昨年ツアーで来た時自力で来れると知り、もう一度と思っていたところ思いのほか早く実現した。 慈恩寺~羽黒山三神合祭殿~国宝羽黒山五重塔~鶴岡 さて地図を見つつ歩き始めたが、最初から道を間違えた。なにかおかしいなと思いつつ大きい道はあそこかなと思うが、中々近づかない。人の姿もないので友人は余所のお宅を訪ねてくれたがお留守のようである。車に乗る人を見つけた。すいませんがと尋ねたところ、方向がかなり違うらしく、説明しても無理と思われ車で送って下さった。慈悲に預かってしまった。

帰りはこの道を下るようにとしっかり教えられる。朝のお仕事の途中申し訳ないことであった。若い女性二人なら幸先よき一日であったろうに。天気も曇りであった。

お陰様で無事大きな山門の前に立てた。友人には申し訳ないが昨年は今世紀初の秘仏御開帳で十数体の秘仏にお会いできたのである。真近で拝観することができたので、時間が短く数は少なくともゆっくり拝観したかった。今回はお寺の方が丁寧に解説してくれた。それで知ったのが、大阪天王寺の楽人林家が慈覚大師に随徒して舞楽を山寺に、そして慈恩寺へと伝えられた。1200年の伝承を持つ慈恩寺舞楽は5月5日の一切経会(いっさいきょうえ)に林家と慈恩寺一山衆によって八つの舞楽を奉奏される。写真もあり衣装も美しい。山門の二層が楽屋となり、本堂に向かって舞台が組まれる。見たいものである。

ここの十二神将は頭に小さな干支が乗っていて、ぐっと睨んでいるのに上の干支が可愛らしくそのアンバランスがユーモアに満ちている。幾体かは、これから海外に出かけられる予定とのこと。平和を広めて欲しいものである。京から仏像は最上川を渡って運ばれたのか尋ねると、最上川は流れも速いし命がけだろうからそうとは言い切れないとのことであった。「五月雨を集めてはやし最上川」と詠んだぐらいだからそうかもしれないとも思う。

実は列車を一本乗り過ごしたのである。タクシーで寒河江駅まで行く方がいて友人がどうすると言うのを、慌ただし過ぎるからもう少し居ようよと引き留めたのである。しかし次の列車は2時間半先となる。

境内を散策し上の公園までと思ったが足元も天気も芳しくないので、休憩所でからしこんにゃくなぞを食べながら、さて、タクシーを呼んで寒河江駅で昼食とすることにしようかと何気なく取った慈恩寺の地図にお蕎麦屋さんがある。そこにいた方にこのお蕎麦屋さんは近くですかと聞くと近いとのこと。そして、親切にも電話で休みでないかどうかを確かめてくれた。

ここでお蕎麦も挽回である。土地の季節の野菜の煮物なども付いてゆっくりできた。これで羽前高松駅まで歩ける。歩くとそこまでの風景が残るので歩いておきたかったのである。そして、羽前高松駅に無事到着できたのである。

この時間のロスで、東京までの帰りの新幹線を遅くして山形駅から近い二か所だけ周る。明治に建てられた旧県庁の<文翔館>と霞城(かじょう)公園の中にある明治に県立病院として建てられた<旧済生館本館>である。<文翔館>には歴代の県令の名と出身地があり、なるほど、初代県令は薩摩藩出身である。明治政府の縮図が日本のいたるところに残っているようだ。ここで、映画『るろうに剣心 京都大火編/伝説の最期編』の撮影があったらしく写真があった。重厚な部屋の雰囲気が上を見上げると全く違う様相を呈している。天井の漆喰の白い花の飾りが手作業なのであろうが繊細で美しかった。

バスで<文翔館>へ、そこから歩いて<旧済生館本館>へ周ったが途中に山形城主最上義光歴史館があったがパスである。二ノ丸東大手門から入り山形市郷土館にもなっている<旧済生館本館>へ。三層の中庭を囲む円形の擬洋風建築である。中庭が石を配した純日本庭園である。疲れていたので資料のほうの見学はパスである。

受付の方に一番近い駅に向かう道を尋ねる。お城の場合は入るところと出るところで目的地までの移動に差が出てしまう。南門からと言われる。山形駅は山形城の外堀の中にあり、山形城内の広さがわかる。人に聞くのが一番と、再び駅方向を尋ねたら、あの高い建物を目指してと言われる。なるほど、解からなければそこでまた誰かに尋ねてということであるらしい。そうなのである。教え方が機能的である。道を教えるのは難しいのである。その高い建物と駅が繋がっているようなのであるが、どこからが近いのか判らない。また尋ねる。教える人はいつもビルの中を通って駅へ行っているらしいが、説明が難しいと思ったのか駅名の見えるところを教えてくれる。駅名が見えた。駅名が見えればそれを目指せばよいが階段を使うのが一番の早道であった。

それにしても、山形駅の西口と東口では雰囲気が全然違った。開発の違いであろう。

とにもかくにも無事終了であった。これからが番外篇である。