日本近代文学館 夏の文学教室(53回)(二)

松浦寿輝さんは、「文学の戦場ー透谷・一葉・露伴ー」として、北村透谷、幸田露伴、樋口一葉を一つのくくりとしておられる。それは、この三人のかたが、言文一致による口語文に背をむけ文語文を使われたということです。

歴史の記述は同時に起こっていることを同時につたえることは出来ません。単線になります。これを複線にできるのが語りのしかけで物語化するしかない。この物語の文字の世界も明治の戦場であって、内なる闘争、外なる闘争、制度との闘争を、あえて古い文体をもちいた。

異質のなかでの闘い。漱石、鴎外の口語体の勝利だけでなく、敗者の復権ということ。

書き言葉の<坂の上の雲>をめざした文学者のなかにも、言文一致という流れに切り捨てられるものがなかったかという、もう一つの近代の可能性を照らされたのではないかということととらえました。進歩を信じ<坂の上の雲>をめざす明治ということを言われたのが松浦寿輝さんで、当時の文学にも文学者にも文体との闘争にも反映する表現のしかたとおもいます。

司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』は近年映像化されましたが、生前はこの作品の映像化は、間違った捉え方をされては困ると言うことで許可されなかったときいています。

幸田露伴さんに関しては、出久根達郎さんが、「読まれざる文豪露伴」として、露伴さんの作品は『五重塔』は読まれているが、印刷屋が使わないような漢字をつかっていて難しくて読まれていないのが残念で、露伴さんの作品には注釈をつける必要があると言及されました。露伴さんの用いた文体によるわけです。

露伴さんの作品はには、少年小説、ユーモア小説、大衆小説、探偵小説らがあって、その作品を紹介され興味深く楽しく想像しながら聴いていました。<歩く百科事典>とまでいわれ、娘の幸田文さんに家事をしこんだほどあらゆることに通じていて、水の辞書まで作られたとのこと。現在の天皇陛下が皇太子時代の教育係りの小泉信三さんは、露伴さんの作品『運命』を講義されてもいます。

聴いていると読みたくなりますが、本を開いてみると、露伴さんの作品はふりがなだらけで後ずさりしてしまいます。幸田文さんが父の本が売れていないことを娘時代の生活の様子の中でも書かれています。読まれるための工夫ということは必要なことかもしれません。

樋口一葉さんに関しては、小池昌代さんが「音読で開く、樋口一葉の世界」として、実際に一葉さんの文章を音読されてその世界へ連れて行ってくれました。

一葉の和歌の師匠である中島歌子さんの歌の教え方は、基本があってそれにあてはめて優劣をつけていく古い方法で、実朝のほうが古い時代でありながら、本歌取りしながら自分の歌にしていった新しさがあった。一葉は優秀で代教もしていたが、和歌では逸脱しなかった古さを小説のなかで発散していったといわれ、作品にあたられる。

一葉さんの作品の表現が面白く、各章の入り方が身を投げるようにサクッと入り、終わりは、ポトポトとゆっくり終わって行くと言われ、音読をすすめられた。

透谷さん、露伴さんに比べると一葉さんは映像化もされていて、原文に触れたくなるきっかけもあるような気がします。そのきっかけの一つとして音読は力強い方法です。そこから口語体とは違う魅力に触れることができ、一葉さんを通して明治の市井の人々の哀歓が胸までせまってくることでしょう。

透谷さん・露伴さん・一葉さんの文体は、それぞれの文学者が創作するうえで、時代のながれにはゆずれなかったのか、自分の創作上必然的なこととして生じたのかは、それぞれの闘いのなかにあることなのでしょう。

言文一致という動きとは別の位置としてとらえられる文学者を知ることによって、言文一致という、教科書的言葉をよりリアルなものとしてとらえることができました。