日本近代文学館 夏の文学教室(53回)(三)

島崎藤村さんは荒川洋治さんの「明治の島崎藤村」です。藤村あまり好きじゃないんです、よくわかりませんこの人は、という感じで荒川流のしゃべり口です。私も藤村さんは好きではないので、最後はどうなるのであろうかと楽しみであった。

『若菜集』は六人の女性を対称にした詩です。五七五をあてはめると一語ぬかなければならなくなり、そうすることによって新しい強さをみせることとなり、ふるくからの様式を利用して新しくする。狡猾です。論理で押すのではなく情であり、曖昧さで押し通します。

『破戒』を越える社会小説はありません。読んでいると少しすきになってきます。なんといっても凄いのは『夜明け前』です。木曽路の宿場・馬籠の本陣が舞台で、主人公・青山半蔵は国学を学び本来の大和心を求めているのですが、明治は古代ではなく近代に進んでいく。その流れの中で伴蔵は精神を病み座敷牢に幽閉され亡くなってしまう。話していると藤村に親しみがわいてきます。

荒川さんは最終的には藤村さんの作品に寄り添えられたようです。私的には藤村さんの明治女学校時代からすきではなく『新生』で駄目だしとなるのですが、『破戒』には、夏目漱石さんも触発されたようです。『五分でわかる日本の名作』というあんちょこ本に『夜明け前』があり読みますと、伴蔵が一人では明治を受け止め得なかった流れが納得できます。伴蔵は木曽の民が自由に山林を使えた古代を理想としているのです。

馬籠にもう一度行ってみたくなりました。見方が以前とちがうとおもいます。映画でみれるとよいのですが。二時間ほどで終わりますから筋の流れと馬籠の風景もみられそうです。本陣、問場というのは名誉職的な部分もあり大変な仕事で、その周辺のひとびとも駆り出され負担が大きいのです。藤村さんすきではなくても、『夜明け前』は読んでおきたくなりました。

『夜明け前』開いてみました。時間があれば読めそうです。風景描写、庄屋・本陣・問屋の具体的な様子もわかりそうです。

伊集院静さんのお話しは「子規をめぐる明治の文学者たち」ということなのでしたが、子規さんを離れてその周辺にいくのかなとおもっていましたら、半分は伊集院静さん個人の周辺のお話しでした。

伊集院さんは『ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石』という本を書かれていますので、子規さんに関しては、本を読んでくれればわかるということなのでしょう。漱石さんが松山にいったのは、漱石さんは養子にでていてその養育費をはらうという金銭的問題がからんでおり、松山にいることによって、郷里にもどった子規さんと共同生活をするのですから、何がきっかけとなるかわからないものです。

子規さんが亡くなったときは、漱石さんはまだ留学中のロンドンでした。

話しのなかで印象的だったのが、子規さんが亡くなった時の母八重さんの一言です。八重さんは亡くなって子規さんの着物を替えつつ背中をだき「痛いといってごらん」(さあ、もういっぺん痛いと言うておみ)と言われたそうで、これまた八重さんらしいひと言だったと胸にどんとひびきました。劇団民藝『根岸庵律女ー正岡子規の妹ー』で、子規さんが亡くなった後で、母親の八重さんが庭に飛ぶ蛍にむかって「ノボさんあんたが悪いのよ」とつぶやいて終わるのも芝居のながれとしてじーんと沁みましたが、痛い、痛いと言っていてつらかったでしょうが、痛いが生きてゐると言う証拠なんですね。

子規さん関係の本をめくってましたら、木曽路をたどったときの『かけはしの記』という紀行文がありました。

藤村さんの『夜明け前』は「木曽路はすべて山の中である。」で始まりますが、子規さんの『かけはしの記』の結びは「信濃なる木曽の旅路を人とはゞたゞ白雲のたつとこたえよ」となっています。

つぎは、与謝野晶子さんです。東直子さんが「与謝野晶子と同時代の女性歌人」として、与謝野晶子、樋口一葉、山川登美子、増田雅子、柳原白蓮の歌を資料にして話されました。

当時の女性歌人は、白い花で自分のイメージキャラを作っていて、晶子が「白萩」、登美子が「白百合」、雅子が「白梅」という愛称をもっていました。

熱き想いを歌い上げる晶子であるが、「清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」など熱い恋をうたっているのに個人で終わっていない恋する人々全てをおおっている。

沈みがちの鉄幹をフランスへ行かせ、自分でお金をつくり子供達を預けりフランスへ旅立ちます。「生まれたる日のごと死ぬる日のごとく今日をおもひてわれ旅に行く」

フランスにつけば「ああ皐月(さつき)仏蘭西(フランス)の野は灯の色す君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟」、生き生きとしている女性をみて教育に関心をもち、日本へ帰ってから寛とともに文化学院創立に係るのです。

圧倒されるばかりの行動力です。東さんが、晶子は堺の実家で菓子屋の商売を手伝っていて数字に強いひとで合理的な考え方があったといわれましたが、賛同できます。情熱だけではなく、合理的な瞬時の判断があったとおもいます。子供が11人。何年かたてば上の子供が下の子たちを見ます。家計も、鉄幹と旅をしつつ、歌を作って収入を得ていた部分もあります。合理性と情熱の無意識のバランスがよかった人とおもわれます。当時の女流歌人のなかで抜きんでていたかたでした。

東直子さんが最後に、与謝野晶子さんの「君死にたまふことなかれ」を朗読されましたが、今の時代となれば深くひと言ひと言が響きました。

堺といえば、利休さんと晶子さんだと電車を降りたち、観光案内所で聞きましたら何もありませんでした。でも今は、「さかい利晶の杜」ができ、その中に、「与謝野晶子記念館」があります。「千利休茶の湯館」とあわせると結構時間がかかりました。

文学教室も、生徒によっては、話しの筋から逸脱し外に飛び出す引き金となっていきそうです。確かめているとこちらの関係のほうが面白そうと引っ張られてしまいそうです。