日本近代文学館 夏の文学教室(53回)(四)

夏目漱石さん、田山花袋さん、石川啄木さんと一気に加速させていきたいところですが、どうなりますか。

姜尚中さんは「近代の”憑きもの”と漱石」ということで話されたが、姜さんは政治が専門ですので漱石さんが明治42年に大連にいっていることなどに触れ政治的な面をどう見ていたかを話されたのだと思います。思いますとするのは、こちらが漱石さんの悩みに対する明確さに欠けているということが原因です。

熊本では今年が漱石さんが熊本五高に赴任して120年で、4月13日に<漱石先生お帰りなさい>というイベントが行われ、次の日の4月14日に熊本は震災に見舞われてしまいました。新宿歴史博物館で、漱石さんと小泉八雲さんの関係を知ったので、熊本と漱石さんの関係に興味を持ちましたが、こんなイベントがあったのを初めて知りました。

松山から熊本に漱石を奪い返すと冗談を言われていましたが、松山では正岡子規さんと会っていますから、これは鏡子夫人の力をもってしても手強いかもしれません。

藤田宜永さんが、漱石に関しては「『三四郎』『それから』にみる男と女」という作品上の話しのなかで、様々なかたの作品の批評を紹介されたのですが、『それから』に対してある方が「漱石の男の友情のなかに女は入れない」と言われたということがでてきて、やはり熊本は分が悪いとひとり笑っておりました。いやいや熊本には頑張っていただきたい。

姜さんは、漱石さんが東アジアに対する言及は慎重で、『三四郎』の中で広田先生が「日本はつぶれるよ」と三四郎に言い、『門』で伊藤博文の暗殺に触れていることなど政治的な記述はすくないが、ロンドン留学時代を経て、大連旅行などをふまえ、<近代>という憑きものが落ちた最初のひとであるとされています。

明治政府が目指していた<近代>ということでしょうが、漱石さんが明治をどうとらえ、それが漱石さんの頭の中でどう形成されていったのかとなりますと実際に読んでいる読書量からしますと、う~んとうなってしまう難しさがあります。

韓国で漱石さんの全集が出たということで、韓国では漱石さんがどう読まれいるのか知りたいところです。

藤田さんの選ばれた『三四郎』と『それから』は、経済的に困らない人々の男女が三角関係で悩むという作品です。『三四郎』は、三四郎というホワイトボードにまわりの人々が色々書きこんで行くというかたちを漱石が意図的に書いているとされ、なるほどと思わせられました。三四郎は上京の列車の中から女性に出会い、そして美弥子に会います。美弥子に対する女性作家達の見方のほうが厳しいですと言われ紹介されましたが、そうくるわけですかとこれまた笑ってしまいました。

『三四郎』では、出会うだけで自分から女性に対し積極的には行動しません。『それから』では行動します。主人公代助は好きな女性・三千代を友人も好きだと知り仲を取り持ち身をひくのですが、夫婦仲の冷めた二人に会い、三千代の自分に対する気持ちを確かめ友人に打ち明けます。漱石さんは、振り返ってもう一度考え直します。

話しを聞きつつずっーと疑問だった、どうして漱石さんは恋愛小説を書いたのであろうかということが少し見えてきました。島田雅彦さんの時に感じた<思索のプロセスを見直してもどってみれば、違う道が見えてくるのではないか>ということです。

このあと代助は経済的基盤を失います。漱石さんは、もし本来の道にもどるなら現状が崩れてしまう部分もあるということを示したのではないか。

恋愛という形をとっていますが、その形態をもっと広い視野に置き換えて見ることもできます。もし、間違っていた分岐点までもどると、経済的基盤を失うこともある。では、そのまま、意に添わぬ世界を生きるのか。恋愛の関係としたのは、時代が変わっても恋愛というテーマは終わることのない問題であり、社会小説は時代がかわると読まれなくなる可能性がある。しかし、恋愛小説はいつまでも読まれるのです。私小説は、作家の私的なことをほじくられて終りとなる可能性があるので、フィクションでいく。

とまあ、思索はここまでです。自分なりにこの視点で読むともっと漱石さんが面白くなりそうだと思った次第で、いただきです。これが、私の身勝手な講義の聴き方なのです。

田山花袋さんに対しては、『蒲団』と『田舎教師』の二作品に関して二人の方が話されましたが、先に書かれた『蒲団』のほうの中島京子さんの話しからにします。中島さんは、花袋さんの『蒲団』を読まれ、処女作『FUTON』を書かれました。フートンと読むのだそうです。中島さんが自分の作品として書かれたのは、『蒲団』に出てくる女性、奥さんと芳子に注目されました。奥さんは名前も付けられず、よくは書かれていない。芳子が新しい女なら奥さんは古い女で夫がいうような女性なのか。そこで、<妻の視点をいれる><現代の視点をいれる><時代の転換をいれる>この三点をご自分の作品にいれられたとのことです。

『FUTON』読んでいませんので比較できませんが、『蒲団』は「最後主人公が若い女性にふられその女性の蒲団にくるまって女性の残り香をかぎつつ泣く」というような紹介をされていて、これだけでちょっとひいてしまいますが読んでみると、意外とさらさらしていて最後だけ紹介するのは、この小説の不運かもしれません。中島さんに三人称で書かれているといわれなるほどと感じ、奥さんには全然注目していませんでしたので、中島さんの読み方が面白いです。

『唄の旅人 中山晋平』(和田登著)を読んだとき、『蒲団』のモデルの女性と中山晋平さんが文通をしていたということを知ったときには驚きました。中山さんは最初は文学の輪のなかにいたのです。文学青年だったのです。

さて花袋さんの『田舎教師』はどうなのか。川本三郎さんが資料つきで解説してくれました。近代文学における風景の発見。中学を卒業し貧しさのため進学できず弥勒高等尋常小学校の教師となり、不遇のなか21歳で死んでいく文学青年の話しです。花袋さんの義兄のお寺にいた小林秀三さんがモデルで、義兄から話しを聞き、日記を読み小説にしたのです。

実家の埼玉県の行田(ぎょうだ)から羽生(はにゅう)の小学校までの4里(16キロ)を歩いて通い、その風景が描かれています。国木田独歩の『武蔵野』(1898年)が雑木林の美しさを書き、『田舎教師』(1909年)は生徒と行く利根川べりなどの田園地帯の風景描写がすばらしい。主人公は日露戦争の勝利の沸くなかでひっそり亡くなりますが、お墓の前で泣いてくれる女性はいたのです。

明治の終わりに文学青年がでてきて、その悩める青春小説であり、風景小説です。花袋さんは自分の小説基盤の方向性の羅針盤を変えていったといえます。

羽生の弥勒高等尋常小学校跡には『田舎教師』のブロンズ像があるようですが、残念ながら当時の田園風景ではないようです。知らない土地を歩くのは好きですので、行田には『のぼうの城』の忍城のあったところですのでピンナップしておきます。

石川啄木さんの函館での関連場所は三か所ほどたずねました。旧居跡青柳町、啄木一族のお墓のある立待岬、啄木さんの好んだとされる大森浜。その他函館市文学館、弥生小学校。函館には4ヶ月少々しかいなかったのですが手厚く扱われている。

佐伯一麦さんの視点は「小説を書きたかった男、石川啄木」です。佐伯さんは、啄木は天才気取りのところがあり、私生活はメチャクチャで借金だらけで苦手であるとのこと。結婚式は節子夫人一人で啄木は現れなかった。小説を書くのがだめだったので歌のほうにいき、浪漫的だったのが伝統と離れ散文的な生活と結びつく歌作となっていく。晩年は天才主義から脱出し、もし志賀直哉のようにお金の心配がなく長生きできれば、小説を書き続けたであろうとむすばれる。

亡くなったのが26歳(1912年)である。処女歌集『一握の砂』がでたのが24歳で、『悲しき玩具』は、若山牧水さんが見舞った際もうどこからもお金が入らないと聞き、啄木さんの歌稿を土岐善麿さんに持ち込み出版の運びとなり20円の稿料を受け、出版されたのは6月で亡くなった2ケ月後です。これは、最後まで援助した金田一京助さんの『晩年の石川啄木』に書き記しています。

節子夫人は啄木さんの死後遺骨は、節子さんの希望で函館の立待岬のお寺に納め、実家のある函館に二児をつれ帰るが、次の年に肺結核で亡くなります。27歳でした。現在ある墓碑は有志の手によるものです。

もし、函館に職を得た弥生小学校と函館日日新聞が大火で焼けなければ少し事情が違っていたかもしれませんが、天才主義の啄木さんであるなら、それがなくても飛び出していたともおもえます。

文語文から口語文になることにより、文学は一般のひとに広く浸透し、新聞小説によって明治の一般家庭にその愉しみがお茶の間に入り込むそんな時代でした。そして、文学を通じて世の中のことも、人の心の動きをも考えるという現象がおこったといえるのではないでしょうか。