茅ヶ崎散策(1)

JR茅ヶ崎駅から海側に10分位歩くと茅ヶ崎市美術館があると知り、鎌倉の帰りに寄ったことがあります。

残念ながら美術館は何かの都合で展示室は閉館でしたが受付の人はいまして、川上貞奴さんの写真絵葉書に目がとまりました。どうして貞奴さんの絵葉書があるのか係りのひとに尋ねますと、隣に川上音二郎さんと貞奴さんの住んで居た邸宅(萬松園)があったということです。

写真絵葉書は <舞台の貞奴「八犬伝墨田高樓」帝国劇場> とあり緑地、頭に烏帽子の横向きの舞台衣装すがたで静かな気迫と気品があり、きちんと和物の舞台姿を写真で眺めたのは初めてでした。

貞奴さん、女好きの伊藤博文さんの寵愛からするりと抜け出し、壮士芝居の川上音二郎さんと結婚、海外での巡業芝居で「マダム貞奴」として名を馳せたかたです。その二人の邸宅跡が今は高砂緑地となっていて、その後そこは実業家の原安三郎さんが購入し松籟荘(しょうらいそう)となり、茅ヶ崎市美術館の入口脇には、松籟荘の玄関前庭と塀の一部が残されています。

森まゆみさんが『断髪のモダンガール』のなかで貞奴さんのことも書かれていますが、名古屋の町づくりNPOに招かれた時旧貞奴邸があって驚かれています。私もこの地域は歩いたことがあり、ステンドガラスの美しい旧邸は「文化のみち二葉館」の名称で市民に広く利用されていました。

ただ入ってこの建物が貞奴さんの旧邸で、川上音二郎さんの死後、福沢諭吉さんの娘婿である福沢桃介さんと同居していたことを知り驚きました。貞奴さんは学生時代の桃介さんに会っていて別れざるおえない状況だったのですが、再び出会い生活を共にするのですから、時間の経過の面白さです。

貞奴さんは七歳のとき、人形町の浜田屋へ養女に入りますが、その浜田屋の位置が歌舞伎の『与話情浮名横櫛(よわのなさけうきなのよこぐし)』の<源氏店>の場と重なるのです。川上音二郎さんは、尊敬する九代目團十郎さんの別荘・孤松庵が茅ヶ崎にあるため茅ヶ崎に住んだともいわれています。茅ヶ崎の駅のそばには演劇学校予定地も購入していましたが、死によって中止となってしまいました。

茅ヶ崎市美術館のそばに、平塚らいてうさんの記念碑と八木重吉さんの記念碑があります。その時はらいてうさんよりも、八木重吉さんの碑が心に沁みました。

「蟲が鳴いている いまないておかなければ もう駄目だというふうに鳴いている しぜんと涙をさそわれる」

碑の説明には教師をしていたが結核となり茅ヶ崎の南湖院に入院し、その後自宅で療養し29歳で亡くなり、療養中のノートに「あの浪の音はいいなあ 浜へ行きたいなあ」とに記されていたとありました。

この南湖院がらいてうさんと奥村博史さんが出会った場所なのです。南湖院は当時東洋一のサナトリウムでした。らいてうさんの身近な人がここに入院していてここで『青鞜』の編集会議をすることもありました。そこへ雑誌社の人と列車の中で偶然知り合った奥村博史さんが訪れたのが初めての出会いです。お互いに一目惚れだったようです。世間では、奥村さんが6歳年下なので、<若い燕>などとも言いましたがそんなことにひるむような方達ではありません。

その後共同生活に入り、奥村さんは結核にかかりこの南湖院での闘病生活がはじまります。らいてうさんは看病に通うこととなり、幸い快方に向かうのです。そういう意味で茅ヶ崎はらいてうさんにとっては新たな出発地点でもあったわけです。

映画『『元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯』でもこの記念碑の除幕式の様子が映されています。「元始 女性は太陽であった 真生の人であった」やっとらいてうさんと茅ヶ崎が実態としてつながって浮かび上がってきました。

この南湖院は今、第一病舎だけが残っていて、今年の4月から建物は未公開ですが「南湖院記念 太陽の郷庭園」として公開されています。開設者が 高田畊安(たかたこうあん)さんで、奥さんが勝海舟さんの孫娘・輝さんです。

南湖院には、国木田独歩さんも入院し、ここで亡くなっています。

茅ヶ崎散策とは離れますが、少し拾い読みの明治女学校で学んだ人々とつながりました。明治女学校出身の女性で『青鞜』と少し係ったかたに作家の野上彌生子さんがいます。相馬黒光さんは、国木田独歩さんの最初の奥さんで有島武郎さんの『或る女』のモデルとされる佐々城信子さんの従妹にあたり『国木田独歩と信子』を書かれています。羽仁もと子さんは自由学園を創立します。

興味深いのは、相馬黒光さんは、明治女学校の生徒と教師の年の近さもある恋愛に懐疑的で、羽仁もと子さんは、学費は免除され『女学雑誌』の仮名つけを手伝いそれを寄宿舎料にあてるという苦学生でこちらも恋どころではなかったようです。若松賎子さんの『小公女』訳文や島崎藤村さんの原稿にも目を通されています。その経験から日本で初めての女性ジャーナリストとなり教育事業へとすすむのです。

その自由学園で学ばれたのが羽田澄子監督なのです。羽田監督の中に生きているのが、羽仁もと子先生の「感じた人は行う責任がある」という言葉で、言葉通りに生きておられます。

最初の散策は、高砂緑地と美術館だけでした。その後の時間の経過で今は訪れたときよりもかなり膨らみました。二回目は八木重吉さんの「あの浪の音はいいなあ   浜へ行きたいなあ」の浜まで行かなければと計画したのです。