十二月歌舞伎座『あらしのよるに』『吹雪峠』

三部制の一部は新作歌舞伎『あらしのよるに』です。原作がきむらゆういちさんで、絵本の「あらしのよるシリーズ七巻」のようです。歌舞伎のほうでほろりときて、絵本のほうをよんだところ、絵本のほうが一冊ごとにほろほろで図書館の児童室で、あらしのよるぽろぽろでした。

お芝居の休憩時間のとき観客のかたが「これは親子劇場とかで観せるといいよ」といわれていましたが、私もその意見に賛成です。国立劇場で歌舞伎鑑賞教室などやっていますが、もっと年令を下げた観客に歌舞伎を観てもらう演目として、もう少し短くして解説無しでやるとよいと思います。

お話の中に引き込んでいく力がある作品ですので、芝居を観る中で、歌舞伎の音楽、歌舞伎ならではの動物のしどころなどを無で受け入れてもらえると、どこかで刺激のボタンが作用して興味の広がりのきっかけとなるのではないでしょうか。全国を駆けめぐってもっと若い若い歌舞伎ファンの種をまいてほしいと思います。

今まで子どもが入り込める作品がなかったので、狼のがぶの獅童さんと山羊のめいの松也さんのがぶとめいの登場は画期的です。原作の持ち味を壊さずに歌舞伎化されました。童話などは深く考えると怖さがあるのですが、この作品も、肉食と草食の動物の友情ですから、一緒にいながらも二匹には常に葛藤があるわけです。これって現実に合わせると凄くつらいことでもあります。そこさえも上手くいかして、狼と山羊の世界のぶつかり合いや権力闘争を加えて歌舞伎様式を使い話しを広くしたのも舞台の動をつくり、がぶとめいの友情の焦点を持続させました。

絵本でみて読んだお話しが時間が過ぎてふーっと思い出すように、小さいころにみた歌舞伎をどこかで思い出し、歌舞伎を観てみようかなと思ってくれるような人生での出会いの作品として尊重すべき作品になるとおもいます。内容や細かいことは絵本を開いたときのようにそれぞれの世界観におまかせします。

二部の『吹雪峠』を観終ったかたが、『あらしのよるに』は入って行けたのに『吹雪峠』は入って行けなかったと言われていましたが、これは入っていく作品ではないでしょう。あらしの夜ではなく吹雪の夜は裏切った人間同士が出会ってしまうのですから。

吹雪の夜やっと小屋にたどり着いた夫婦はいろりに火を入れ一息ついての会話の中に一人の男の話しがでてきます。どうやらこの夫婦は、兄貴分の男を裏切った兄貴分の元妻・おえんと弟分・助蔵のようです。助蔵は兄貴分を裏切ったという気持ちがあり、自分の病気もそのことで罰が当った思っているところがあります。そんな助蔵をおえんは今を大切にしようと助蔵の気を振るい立たせます。

そんなところへ、一人の旅人が吹雪に難渋し小屋にたどり着き、おえんは自分たちもこの小屋に助けられたので快く応対します。その旅人が二人が裏切った直吉でだったのです。事情のあるもの同士がこうした場面に合った場合、人間の心理とはどう動くのであろうかという密室劇です。

いったん二人を許す直吉が、突然二人に小屋から出ていけと伝えます。そこからおえんと助蔵の命乞いがあり、おえんと助蔵はお互いに相手を口汚くののしり始めます。それを見て直吉は自分から吹雪の中に出ていくのです。この芝居役者さんによって雰囲気がちがってきます。どうも、おえんは色男で優男の助蔵に魅かれて、そんなおえんに抵抗できず間違いをおかしたようです。助蔵の松也さんとおえんの七之助さんにはそんな感じがありました。

直吉の心は。これが難しい。中車さん、台詞の見せ所ですが、心理劇で、ここでこうだからこう結論が出るというものでもありません。格好良く許したが、それは本当の心ではない、この状況がいやになってふたりに、自分の前から姿を消せということでしょう。ところが益々人間の欲が見えて来て、このシチュエーションから俺は降りるぜということのように思えました。外は吹雪です。吹雪はおさまっていないのです。

恰好の良い股旅ものではありません。心理描写は直吉にまかされています。しかし台詞で全部語られるわけではありません。直吉はおえんの本質をすでに知っていて、それでも惚れている自分をもてあましたのかもしれません。そのあたりの想像の世界は観客にゆだねられています。そういう直吉の中車さんの台詞術でした。

すまないと思いつつも自分可愛さの人間性を助蔵の松也さんとおえんの七之助さんが上手く出していました。原作は宇野信夫さん。演出に玉三郎さんの名前がありました。