十二月歌舞伎『寺子屋』『二人椀久』『京鹿子娘五人道成寺』

寺子屋』は、勘九郎さん、松也さん、梅枝さん、七之助さんが大役に頑張っておられるが、やはり若すぎます。こういう時代物はやはり先輩たちが空気を締めてくれるから若手も光るので、自分のしどころだけでいっぱいいっぱいであるからして、からみが面白くならず、すーっと流れてしまう感じです。

今回観ていて、大役がくるこないではなく、先輩たちの間に入って順番に教えを受けて進むということが、いかに恵まれたことであるかということが実感されました。しかしそんなことは言っていられない歌舞伎界の現状ですから、とにもかくにもこの作品の自分の原点を見つけていただきたいです。

勘九郎さんは、きちんと作品の解釈をできる人です。泣き過ぎないでください。松也さんは声の響きが良いのですが、それに甘えすぎずに工夫してください。梅枝さんは古風さがよいところですので、そのままで全体の浮わつきを押さえてください。七之助さんは泣いて松王丸に怒られたらじーっと耐えてください。

これは、私が観た『寺子屋』の先輩役者さんたちの良かった場面を勝手に思い出してピンポイントで思った感想です。そして一番肝心なことは、こうした感想を吹き飛ばす負けん気と若さを発揮していただきたいです。

勘九郎さんの他の作品ことを書かせてもらいますが、井上ひさしさんの『手鎖心中』を小幡欣治さんが脚本にした『浮かれ心中』というのがあります。兎に角世の中に注目されたい栄次郎が絵草子を書いて死後にその絵草子が世の中に認められるのですが、ラストで栄次郎は宙乗りであちらの世界へいくところで、友人の太助が栄次郎に声をかけます。 <茶番でも本気に勝てる気がしてきた。太助の名前を式亭三馬にかえてあなたの分まで書きます。> 栄次郎は答えます。<たくさん書いてくれ。絵草子の中には夢と笑いがつまっているのだから。>

勘三郎さんの栄次郎と三津五郎さんの太助の時、勘三郎さんならではの華やかで、観客は手をたたき盛り上がるしでこのラストがぴりっとした栄次郎と太助の絆がなくて、私的には不満だったのです。ところが、勘九郎さんの栄次郎と亀三郎さんの太助の時 <茶番でも本物に勝てる> の言葉が生き、栄次郎のばかばかしい生き方が無駄ではなく太助に受けつがれるのだとジーンときまして、そうだよこの作品はこうこなくてはと、すっきりしたことがあります。

勘三郎さんのときはもっと盛り上がったがという意見のかたもいましたが、たとえ勘三郎さんでも盛り上がればいいというものではなく作品の中から観客に伝えたいことがあるとしたらそれを伝えなくてはと、私は勘九郎さんに軍配をあげました。

何を言いたいかといいますと、古典でも勘九郎さんは勘三郎さんを越す時がくるということです。ということで、『寺子屋』のことを書くテンションが上がりませんでしたが、若い役者さんたち時代物も頑張ってください。

二人椀久』の勘九郎さんは動きを一つもおろそかにはしないぞという感じでした。玉三郎さんの松山との踊りにもまだゆとりがありませんでしたが、日にちが立てば、変化していくことでしょう。今回はどう変化するかを確かめにいきます。

京鹿子娘五人道成寺』は最初から、玉三郎さん、勘九郎さん、七之助さん、梅枝さん、児太郎さんの五人も白拍子花子がいるのでは、一回ではとらえきれないと二回いくことに決めていました。五人の配置はどうなるのか。最後、まさか五人が鐘に乗るわけではないであろうしと楽しみでした。

目移りはしましたが、花道二人で本舞台三人とか、それが入れ替わったり、「恋の手習い」は玉三郎さん一人で踊られてたっぷりという感じだったり、おかしかったのは、梅枝さんがひとり紫地の衣装を引き抜くと、四人の白拍子花子がさーっと登場して鈴太鼓を使うのです。白拍子花子の女子会で、そこに玉三郎さんが違和感なく加わっているのが可笑しくて、鈴太鼓の軽快さが楽しさを増してくれます。しかし、鐘に対する恨みを忘れているわけではありません。鐘の上は玉三郎さんと勘九郎さんで蛇の尾をあらわすように下に段差をつけて七之助さん、梅枝さん、児太郎さん三人が並ばれました。並んだ順番は記憶していません。

書きつつ思いました。二回目もぼーっとして楽しんで来ようと。

道成寺を観ていて一つ気にかかっていたことがやはりとおもうので書き足します。十月の新橋演舞場の『GOEMON 石川五右衛門』ですが、出雲阿国の壱太郎さんが五右衛門の愛之助さんからフラメンコを習って踊る場面があるのですが、あそこは、五右衛門から受け継ぐという意味で途中から日本の楽器をもって、阿国が歌舞伎に取り入れたとしてつなげて欲しかったと思ったのですが、今回その気持ちがよみがえりました。

そして権力者秀吉の座る場にはあの秀吉なのですからその工夫を考えてもらいたかったです。舞台装置が鉄骨のような無機質感を出していましたが、フラメンコとのコラボということなのでしょうが、芝居の中には流れがあるわけですから、筋を説明するながれとフラメンコだけでは薄すぎると思いました。

五右衛門と南禅寺の山門の場も、あれは、五右衛門が南禅寺の山門を自分を大きく見せるために盗んだともいえるんじゃないでしょうか。そこを台詞だけで聴かせる意味はなんなのか。秀吉も登場しているのに。よくこのへんもわかりませんでした。パフォーマンスに終わってしまった感じでした。

歌舞伎も次々と新しい試みがある昨今ですので、観客も整理のつかぬまま混乱気味ですので筋違いにはご容赦を。