観光ではなく災害地を調べるために地図を開くのは気持ちがおもくなりますが、やはりあの土砂に埋まった地域や寸断された線路など確認しておかないわけにはいきません。
佐賀県の白石町、福岡県の朝倉市と東峰村、大分県の日田市の被害が大きいようであり、JR久大本線の<てるおか>と<ひた>の線路が寸断され、JR久大本線は湯布院温泉につながる線だったのですね。まだ局地的雨が続くようで、「降るな降るな」と地図を手でなぜてしまいました。これ以上暴れないでください。救助し救助される人のためにも。避難されておられるかたは暑いので御自愛をされてください。
関東も暑さが続きます。その中、「團十郎稲荷」が埼玉県東松山市にあるというので出かけました。いつものようにどこかで手に入れた小冊子に載っていたのをスクラップしておいたのを思い出し取り出してみました。<旅>のスクラップは7冊目で、古いのは時々開いて見ないと忘却の彼方です。
説明によりますと、「箭弓(やきゅう)稲荷神社の境内にある末社。七代目市川團十郎が社に籠り芸道精進をご祈願したところ、江戸の歌舞伎興行で大盛況になる。文政4(1821)年に祠を建てると、技芸向上に励む人々から信仰されるようになった。」とあります。
お守りが、七代目團十郎さんが境内の樫の葉を懐にして新春歌舞伎に臨んだことにちなみ、葉の上に<十八番守>となっています。
東武東上線東松山駅西口徒歩3分で、赤い鳥居の並んだ正式には「宇迦之御神社」で<芸道向上の神様>とあり、通称「穴宮稲荷・團十郎稲荷」とあります。解説板には、「箭弓(やきゅう)稲荷神社」を信仰しておられ、新春歌舞伎興行において『葛の葉』『狐忠信』等の段が素晴らしく演じられ毎日札止めの大盛況で、石祠を建立したとあります。
拝殿の両脇には狐が飾られ左側は親子の狐が戯れていて親狐は何か口にくわえていまして、先が鍵型に曲がっていて、筆ではないんです。成田屋の三升紋を暗示しているのか、神社の巫女さんにお聞きしましたが判りませんでした。
「箭弓稲荷神社」の本社殿の外周囲の彫刻が素晴らしいです。ぐるっと回りましたが、6か所ほどだったと思いますが彫り物の説明板がありました。オペラグラスでも持って行き眺めたいような彫刻群でした。
<やきゅう>だからでしょうか、野球部の方がたもお詣りにこられるようです。
もう一箇所訪れたのが「吉見百穴」で、東松山駅前からバスがありますし、歩いて25分位とのこと。いつもなら歩く距離ですが暑いのでバスにしました。古墳時代の後期~終末期に造られた横穴墓で、大森貝塚を発見したモースさんも訪れています。明治には発掘の中に玉や金属器や土器などがあったため住居と発表されましたが、大正に入ってお墓であると訂正されました。
戦中には地下の軍需工場として掘られますが、生産活動まえに終戦となります。この地下軍需工場跡地のトンネルに一部に入ることが出来ます。凄い涼しさで、外に出たくない気分でした。
そして最低部の横穴にはヒカリゴケをみることができます。緑色の発光塗料をぬったように光っていました。レンズ状の細胞が外から入ってくるわずかな光を反射して黄緑色に淡く輝いて見えるとのことです。生息できる環境が限られている原始的コケ植物です。
正岡子規さんも明治24年11月に訪れていて「神の代は かくやありけん 冬籠」の句を詠まれ、句碑がありました。
吉見横穴の近くには、弘法大師が岩窟を選び観世音を彫刻して収めたといわれる岩室観音堂がありますが、御堂は江戸時代に造営され清水寺のような懸造りですがかなり老朽化しており階段で上がれますが色々な個所を支えて補強しています。
その御堂の山の分部が比企丘陵(ひくきゅうりょう)で松山城跡があります。このお城も小田原の北条氏に攻められ、その後、秀吉の北条征伐の際、攻め落とされます。吉見横穴へ行く途中で市野川を渡るのですが、市野川が外堀の役割をする形になっています。
松山城とあるようにこのあたりは比企郡松山町だったのですが、合併で市となり、松山市としたかったのですが、愛媛に松山市があるのでそれに対する東ということで東松山市となり、それでも自分たちは今でも松山と呼ぶと地元のかたが教えてくれました。
東村山市じゃないのと間違われそうですが、武蔵松山城があった東松山市です。