『鉄砲喜久一代記』と「江戸東京博物館」(1)

  • 映画『浅草・筑波の喜久次郎 浅草六区を創った筑波人』から、喜久次郎さんを知り、不完全燃焼から『鉄砲喜久一代記』の本に出会い、ドカーンと壁が破られたような感じである。筑波山下の北条村の茂在喜久次郎は、子どもの頃から天性の暴れ者で暴れ喜久と呼ばれていた。そんな喜久次郎に剣術、柔、読み書き、算術などを教えたのは、宝安寺の住職・宗円である。喜久次郎が子供の頃、天狗党の旗揚げがあり、喜久次郎の父は天狗党の後押しをしていた。著者の油棚憲一さんは本名・茂在寅男さんで、600年以上続く家系の同じ一族の出であることは間違いないとされている。資料的にもよく調べられていて水戸藩が幕末から明治にかけて内紛でいかに多くの人材をを亡くしたことかと言及されている。

 

  • 喜久次郎は、天狗騒動で、まじかに人の生死をみている。さらに人の浮き沈みも目の当たりにし、12歳で父が亡くなり父の遺言で他人の冷や飯食わなきゃ偉くなれないと、奉公にでる。よく働いたが、番頭の不正を見逃しておけず暴力をもって懲らしめる。喜久次郎には、三つ年上の初恋の人・お辰が心の支えでもあった。ところがお辰は嫁入り前に桜川に飛び込み自殺していた。その日は、喜久次郎がかつて桜川に流され死にそうになった日であった。お辰の覚悟の自殺であった。喜久次郎は放浪の旅にでる。18歳の時、東京にでてきて新富町の劇場の前にたつ。大看板が風で倒れそうになり、それを押さえる木戸番に喜久次郎は加勢する。ふたりは筑波下の方言を飛ばし合う。それが、根岸浜吉との出会いであった。「長脇差しの浜吉」として喜久次郎も名前は知っていた。

 

  • 浜吉は新富座の立見席の株をもっていて木戸を預かっており、十二世守田勘弥とは縁続きであった。喜久次郎が初めて観たのは『川中島』で芝居と役者に魅了された。浜吉の手はずで喜久次郎は初代市川左團次の家に住み込みで働くことになる。浅草猿若町に中村座、市村座、守田座があったが、新富町は短期間新島原の名で遊郭があり大暴風で多くの家が倒壊し、遊郭も立ち退きとなる。その空き地に浅草から新しい新富座を立てたのが十二世守田勘弥であった。

 

  • このあたりは、四世市川小団次と河竹新七(黙阿弥)の関係、小団次の養子となって上方から江戸に下った升若が左團次と改名。上方弁が観客に失笑を買い、河竹新七や守田勘彌に助けられ修業に修業を重ねたことなどが書かれていて興味深い。猿若町時代は劇場がはねると車に乗れるような役者になれと言い聞かせ、吾妻橋を渡り自宅の柳島まで歩いて帰り、夜食をとると妙見様へはだし参りをして、江戸流の台詞の練習をしたとある。喜久次郎が仕えたころは、団・菊・左の時代で、左團次は大成していた。喜久次郎はこの苦労人の左團次を敬愛しよく仕えたのである。

 

  • 新富座は建てて五年で火事のため全焼してしまう。守田勘弥は、新しい新富座を建てることを発表する。総レンガ造りで、照明はガス燈である。収容人数は2000人。資金集めに苦労し、工事は中止という事態もあったが、そんなことが外にもれては信用にかかわるので、偽装をした。こういう時活躍するのが道具方と親しくなっている喜久次郎である。道具方に頼み、あちこちの建築現場からかんな屑を買い集め新富座の建築現場入口に盛り上げたり、金主をつれて勘弥が案内するときは、新富座の印半纏の者が先にいって忙しく立ち働くのである。大工棟梁以下がいかに勘弥を応援していたかである。

 

  • 明治11年めでたく開場となった。国家行事のような大イベントであった。陸軍軍楽隊の演奏、続いて海軍軍楽隊の演奏。音楽が終ると、菊五郎、團十郎の祝辞。幕がおりた舞台では、團十郎の翁、菊五郎の三番叟、左團次の千歳、家橘のツレである。舞台が終わりに近づいたところで、ガス燈がつく。その明るさに皆驚いた。読んでいると写真でみただけの新富座の中まで観えるようである。浜吉も喜久次郎も涙、涙である。ここから歌舞伎の演劇改良も始まるのである。喜久次郎はといえば、またまた怒りを抑えられない場に遭遇してしまうのである。

 

  • 苦労人の左團次を敬愛する喜久次郎は、菊五郎の物腰が気になっていた。そこへ、『高橋お伝』の舞台幕引きで、幕引きが腹痛をおこし、喜久次郎が代わってやることになった。初めてである。幕が足に絡まりつつも何とか引き終るのである。菊五郎から叱責が飛んだ。喜久次郎はカチンときて言いたいことを言ってしまい火に油をそそいでしまった。浜吉が間に入っておさめたが、役者側も道具方も後へは引かず、次の日の幕は開かなかった。喜久次郎は責任をとって再び流浪の身となった。浜吉は、二、三年たったら俺のところに戻ってこいといったが、ふたたび会うのは十年後であった。

 

  • この旅で、喜久次郎は、「役者の大詰めの所作と、幕引きとの間の呼吸の一致ということは、素人である自分などには分からない真剣なものがあるのだろう。」ということなどまで考えられるようになっていた。陸(おか)蒸気で横浜へ出て、そこから九州までめぐり、日本海側を通って人々の生活を見って回った。新しい世の中について行けない人々。自由民権運動。東京に近づき、八王子で足を止めた。秩父貧民党。八王子困民党。そんな中、困民党に間違われ警察に引っ張られる。すぐ釈放されたが、そこで知り合った者の紹介で鉄道馬車の御者となる。

 

  • 一回目の流浪の時、盛岡の馬市の仕事をして馬のあつかい方と乗り方は経験ずみであった。御者を別当(べっとう)と呼び、半纏が細かな弁慶模様で粋だった。「馬車の別当さんは小弁慶のそろいで、東京島原迷わせる」と歌われた。郵便乗合馬車というのがあり、郵便物を運ぶのが第一で、そこに6人ほどお客が乗れた。東京から甲府まで、三日かかった。喜久次郎はそれを一日にする提案をする。優秀な御者を選び、馬車も新しくして要所、要所に替えの馬と御者も替え連続13時間で走らせる。客を安心させるため転覆保険付きとした。「はやあし馬車」。馬車の急行である。雨のときは、小仏峠、笹子峠は駕籠にして運賃を安くするのである。定期便二便と「はやあし馬車」が一便走ることになった。

 

  • この乗合馬車、「車の構造は悪く、車輪は鉄の輪付きの木製。ガラガラと音はうるさいし、道路はでこぼこ。尻は席から飛び出すし、頭は屋根にぶっつかる。」喜久次郎の手綱さばきは見事だったようである。少し寄り道をしますと、泉鏡花の『義血侠血』(滝の白糸)で、水芸の太夫滝の白糸が出会うのが馬丁(べっとう)の欣也である。馬車の客と人力車の競争となる。三月歌舞伎座の演目である。この部分は、滝の白糸(壱太郎)の語りとなる。途中、二頭の馬の一頭を馬車から放し、酒代をはずんだ滝の白糸を乗せて欣也は次の茶店まで走り届けるのである。これには滝の白糸もぞっこんである。話しだけの馬丁・欣也(松也)がさらりと登場である。滝の白糸の話しに納得である。この馬車の中の客の様子も、この本ではっきりした。