『満映とわたし』の嵯峨野時代

  • 満映とわたし』(岸富美子・石井妙子共著)は、劇団民藝『時を接ぐ』の原作である。岸富美子さんが15歳で映画の編集助手として働き始め、そこで出会った映画関係の人々との交流で今まで知り得なかったこともかかれてある。富美子さんは、原節子さんと李香蘭さんと同じ年で、二人の作品の仕事もしている。岸さんの姿勢はおそらく色々な噂も耳にしていたのであろうが、自分で眼にしたことのみ書いている。そして仕事柄、自分と大スターとは違うというところをきちんと踏まえられている。

 

  • 活動写真『ジゴマ』を見た少年に後の伊丹万作監督が紹介されていた。(『怪盗ジゴマと活動写真の時代』永嶺重敏著) 伊丹万作少年は、『ジゴマ』の内容よりも弁士駒田好洋の説明ぶりやポーラン探偵のしぐさのほうが印象に残る映画だったといわれている。その伊丹万作監督が『満映とわたし』にも登場した。

 

  • 伊藤大輔監督伊丹万作監督と松山中学で同窓で親友だったらしい。三十代後半の伊藤大輔監督は兄たちが次々病気で倒れ、15歳の少女が一家を支えなければならない事情もわかっていたのであろう。富美子さんに優しく接してくれた。家が近いため夜遅く帰宅する時は歩いて送ってくれたりもした。その時の様子が映画の名シーンのようである。

 

  • 伊藤監督は蝙蝠傘をいつも持っていてその蝙蝠傘で蛍をつかまえ、チリ紙に包んで持たせてくれた。富美子さんはその蛍を仏壇の花のところにはなすと父や兄の位牌をほの白く照らしてくれた。富美子さんには5人のお兄さんがいて長男はアメリカで一歳半で亡くなり、三男は満州にいる時伯母の養子となっている。富美子さんは満州で生まれている。同じくして父を失う。母と四人の子は日本にもどってくる。次男は映画の仕事でアメリカに行き家族の星であったが肺結核で亡くなってしまう。五男も映画の音楽担当であったが結核で療養中で母が付き添い、四男は徴兵検査に合格して入隊してしまうのである。(『時を接ぐ』では次男、四男、五男の三人の兄が出てくる)

 

  • 伊藤大輔監督はある日近道があるからと細い路地を入って行った。田んぼの中のある家の前で立ち止まり、伊丹万作監督の家で、今彼は病気なんだと教えてくれる。伊藤大輔監督は声はかけずじっと見つめて帰るだけであった。富美子さんは、その後、その道を通って家の様子をそっとのぞきながら仕事に通った。大好きな伊藤監督が心配している伊丹監督の様子を知っておきたかったとある。元気なようすであればお元気そうでしたよと伊藤監督に伝えたかったのでしょう。

 

  • 富美子さんは、勤めていた第一映画社が倒産し、日独合作映画『新しき土』の編集助手となる。この映画の日本側の共同監督が伊丹万作監督であった。共同監督とは名ばかりでアーノルド・ファンク監督の助監督のような立場で伊丹監督は降りるというのを周囲が伊丹監督にも編集権を与え伊丹版も作るということになった。これは知りませんでした。私が観たのはどちらだったのでしょうか。感じとしてはファンク監督版のような気がするのですが。比べて観てみたいものです。

 

  • 最初、富美子さんはファンク監督の映画の編集助手であったが、伊丹監督の編集助手にまわされる。伊丹監督の編集現場は仕事が過酷で次々と編集助手が倒れてしまうのである。一緒に仕事をして親切に教えてくれたドイツ人のアリスさんも困ると反対してくれたがどうにもならなかった。伊丹監督は病気が治ったのであろうかと顔をみるとやはり病人にしかみえなかった。編集助手と口をきく様なかたではなかった。そしてついに富美子さんも倒れてしまうのである。伊丹版で倒れた編集助手の5人目だった。伊藤監督のところではウルウルしたのに、映画監督の絶対的権力に唖然としてしまった。

 

  • それが当たり前だったのであろう。この過酷さを乗り越えなければ良いものは作れないとの想いが映画人にはあって、あの監督の映画のためならと思う映画人も沢山いたであろう。しかし末端の仕事をする者には過酷であった。幸いお兄さんが除隊となり富美子さんはほっとする。しかし、富美子さんも映画人気質が身についていて、元気になると、兄にどこの会社が良いであろうかと相談している。富美子さんはお兄さんと同じ日活の京都撮影所に入社する。

 

  • 『満映とわたし』であるからこれからが本題でもあるのだが、富美子さんが一人の映画人となっていく過程も魅力的である。人との出会いによってどんどん仕事にのめりこんで行くのである。若さの輝きとでもいうのであろうか。ここでは嵯峨野時代を少し紹介するにとどめる。

 

  • 満映のあった南新京についた町の様子が書かれていて、新京神社があり、西本願寺があったと書かれてあり、そうか神職に仕えるひとやお坊さんも行っていたのだと愛知県一宮の妙興寺の歌碑を思い出した。歌碑には「親のなき 子等をともない荒海於 渡里帰らん この荒海を」 妙興寺の十八世老師は旧満州の新京の妙心寺別院に布教のためにいかれ終戦をむかえられた。多くの孤児がさ迷っているので禅堂を改造して孤児を収容するため慈眼堂を開園。この歌は孤児三百名と共に帰国乗船の折り詠まれたとあった。岸富美子さんの家族もよく生きて帰られたと思われるような状況がこのあとやってくるのである。映画人の貴重な資料ともなっている。
  • 劇団民藝『時を接ぐ』

 

  • 少しつけ加えると、満映から日本にもっどた映画人の受け皿が東映であったとくくられるのはこの本を読んで違うなと思った。最後まで中国に残った内田吐夢監督が復員後東映に入り活躍するが、それは特例で岸富美子さん等は門戸を閉ざされ独立プロなどに入る。そのあたりは、この本を読んでもらうほうがよい。内田吐夢監督の苦悩とその後の映画作品にどう反映したかなども考察できるかもしれない。民藝『時を接ぐ』でも最後は岸富美子(日色ともゑ)の長いエピローグで締めくくるという形でなんとかおさめた。