最古の『忠臣蔵』映画

  • 国立映画アーカイブ(元・東京国立近代美術館フィルムセンター)で現存する一番古い全通しの『忠臣蔵』(1910年、横田商会)の映画特別上映会があった。牧野省三監督で主演は尾上松之助である。三本あったものを、一番映像の綺麗な映像を基本に、無い部分を他の映像で補い、デジタル復元した最長版である。討ち入りの日に特別上映会で昼夜二回で、夜は音楽と弁士つきとなっているが、昼の部の鑑賞である。昼夜どちらも音楽と弁士付きと勘違いしていてややこしいことになったが、とにかく昼の部だけでも鑑賞できてよかった。

 

  • 音が一切無いのでその分、絵に集中できた。歌舞伎の動きである。舞台が映画になっていると思っていい。ただロケもあり、セットも幕に絵を描いただけであったりして、それも屋外で撮っているらしく風で後ろの背景絵が風にゆれているという珍現象もおこるが、最古の『忠臣蔵』としては上出来である。

 

  • 日本初の映画スター尾上松之助さんは、目玉の松ちゃんと言われただけあって眼力がすごい。歌舞伎の見得の眼なのでそうなって当然であるが、小柄な方なので意識的に演じられ印象づけられたのかもしれない。女性役も女方で美しいとはいえない。「南部坂の別れ」で、間者の腰元が連判状を盗み逃げようと応戦するのであるが、それが結構長く、男なみの争い方で笑ってしまったが、やはりチャンバラの場面はお客の要求ということなのであろう。

 

  • 松之助さんは、浅野内匠頭、大石内蔵助、清水一角の三役をやっていて、やはり松之助さんのチャンバラ場面は必要不可欠というところなのであろう清水一角ではたっぷりと立ち廻りをみせる。討ち入りが終わり引き上げる時両国橋を渡るが、役人から江戸市中は通らないでほしいとの要請であろうか引き返す場面がある。その辺は両国橋を見せ色を添えつつ史実に合わせたのであろう。

 

  • 泉岳寺の内匠頭の墓の前に、瑤泉院つきの局が現れ吉良上野介の首実検をするという場面もあり、確かに吉良内上野介に間違いない、でかした!の強調であろうか。映画は匠頭の墓前で終わりということになった。所々にコミカルさをいれつつ約90分の上映で、終了後、担当者のどのように編集しデジタル復元したかの解説があった。こうして最長版が出来上がり観やすくなったのでこれからもこの映画の公開はあるであろう。生の弁士、伴奏つきはなかなか大変と思うので、録音していただいて、録音音声つきで鑑賞させてもらえればありがたいのであるが。

 

  • 日本映画の父・牧野省三監督 Χ 日本最初の映画スター・尾上松之助」の最古の『忠臣蔵』が映像も新たに討ち入りの日に復元上映であった。

 

  • 横田商会の横田永之助さん、牧野省三監督尾上松之助さんの関係について『映画誕生物語』(内藤研著)から少しまとめて紹介する。著者・内藤研さんの母方のひいおじいさんは、活動弁士・駒田好洋さんの巡業隊に加わり好洋さんと交代で弁士をつとめた芹川政一さんで芸名を芹川望洋といわれた。後に東京シネマ商会というニュース・文化映画の制作会社を創立している。

 

  • 横田永之介さんは、23歳のときコロンブス世界大博覧会に京都府出品委員として渡米し、展示されていたX線装置(レントゲン)を持ち帰り見世物の電気ショーをはじめる。自分の骸骨がみたいと評判になる。その後、日本に初めて映画を運んできた稲畑勝太郎さんからシネマトグラフの興行をまかされ、東京で映写技師も活弁士もかね興行をし横田商会を設立して巡業にでる。その後、日露戦争関連のフィルムを購入し大当たりとなる。次に考えたのが映画製作である。お金を出して任せらる人はいないか。紹介されたのが牧野省三さんであった。

 

  • 牧野省三さんの母親は離婚して、大野屋という演芸場を経営し、義太夫の師匠もして三人の子を育て、省三さんは芸能好きの末っ子であった。母親と省三さんは、大野屋を改造し千本座を開き、芝居の上演・興行のすべてにかかわっていた。そこに横田永之助さんがやってきて、映画監督・牧野省三の誕生となった。

 

  • 牧野省三監督は1907年(明治40年)劇映画をつくりはじめる。初めてつくったのが、『本能寺合戦(ほんのうじがっせん)』で、千本座に出演していた一座をつかい、東山の真如堂の境内を本能寺にみたて撮影した。その多くは、歌舞伎の名場面、歴史上の有名場面の映画化であった。牧野省三さんは、熱心な金光教(こんこうきょう)の信者で、岡山の金光教本部に生まれたばかりの長男の名前をもらいにいった。この長男が正唯(まさただ)で芸名がマキノ正博である。このとき、生神さまが、この近所に好い役者さんがいるから探してみなさいとのお告げがあった。近くの芝居小屋にでていたのが尾上松之助一座である。

 

  • 尾上松之助さんは、武士の子として生まれるが踊りや芝居が大好きで役者になりたかった。反対の末、父は守り刀を手渡して許してくれた。旅回りの一座で修業し19才で座長となる。牧野省三監督と会うのはそれから19年目である。しかし、土の上でやる芝居は本当ではないと断る。牧野省三監督は京都西陣の自分の千本座で興行させ、一座全ての生活面の面倒を見た。尾上松之助さんは、西陣周辺の人気者になり、牧野省三監督に恩義を感じ、活動写真への出演を承諾。

 

  • 監督が松之助さんを見込んだのは、身の軽さであった。活動写真なのだからはつらつとして動く役者を求めていたのである。牧野省三監督、尾上松之助主演の最初の映画は『碁盤忠信(ごばんただのぶ)』(1909年)であった。義経の家来佐藤忠信が重い碁盤を振り回して活躍するのである。松之助さんは自分の映画をみて納得し、活動写真に力を入れることにした。牧野省三監督と尾上松之助コンビの映画は13年間で約700本つくられた。一週間に一本の割り合いである。

 

  • 「目玉の松ちゃん!」は、映画『石山軍記』(1910年)で楠七郎を演じた松之助さんが、敵の足利尊氏軍を大きな目玉でギョロリとにらみつける場面に観客が反応して思わず掛け声をかけたのである。『忠臣蔵』は『石山軍記』より同じ年でも後の作品と思われるが、映画を観てその背景設定などから如何に短時間で撮影されていたかが納得できた。人力車に何通りもの衣裳や小道具を積み込み、同じ場所で違う作品もつくっていたのである。

 

  • サイレント(無声)なので子役だったマキノ正博さんが台詞を覚えられないときは、松之助さん相手に「いろはにほへと」とやり松之助さんも「ちりぬるをわか」と答えた。シナリオが間に合わない時は口伝えであった。牧野省三監督と松之助さんコンビがのりにのっている時、東京ではあの「ジゴマ事件」がおこるのである。その同じ年・1912年、横田商会、吉沢商店、M・パテ商会、福宝堂が合併し「日活」となる。横田永之助さんは後に五代目社長となる。東京の撮影所は現代物、京都は時代劇がつくられ、牧野省三監督と尾上松之助さんコンビは看板となり、されに忍術もの『猿飛佐助』『豪傑児雷也』へと進むのである。 『ジゴマ』の大旋風

 

  • 牧野省三監督のお孫さんが、長門裕之さんと津川雅彦さん(合掌)で、お二人から譲り受けた資料なども国立映画アーカイブで保管しているとのことである。この復元『忠臣蔵』を通じて新しい事実がでてくるのかもしれない。周防正行監督最新作『カツベン!』のフライヤーがあった。活動弁士を夢見る青年が主人公だそうである。「フライヤー」。今まで映画や芝居の案内をチラシと記していた。フライヤーという言葉があるのは知っていたが広告案内のためのチラシの感覚でチラシにしていたのであるが、劇団民藝『グレイクリスマス』のパンフレットで、片岡義男さんが「フライヤーにならんでいる言葉を引用して」と書かれていて「フライヤー」のほうがいいなあと思ったのである。そこでこれからは「フライヤー」と記すことにする。