歌舞伎座12月『阿古屋』

  • 12月の歌舞伎座は『阿古屋』を梅枝さんと児太郎さんが演じるということで話題となっている。玉三郎さんの『阿古屋』と、日にちの関係からの梅枝さんの『阿古屋』の切符を購入していた。三人の役者さんの『阿古屋』を観るためには夜の部三回行かなければならないということなのである。梅枝さんを観て、玉三郎さんを観て、やはり児太郎さんも観ておきたいと一幕見となった。色々と考えさせられる舞台であり、『阿古屋』という特別視される演目が高嶺の花として奉られては『阿古屋』という芝居がさみしすぎるなとおもえた。

 

  • 玉三郎さんが三曲(お琴、三味線、胡弓)を習い始めたのが14歳の時だそうである。14代目守田勘彌さんは玉三郎さんの才能を見抜いておられたのは当然であろうが、三曲を14歳からやらせ、20歳までに女形の全てを身に着けるようにといわれたそうで驚いてしまいます。『阿古屋』を演じられるという保証は何もないわけである。『阿古屋』をやるのは、それから33年後だそうである。六代目歌右衛門さんに指導を受けたわけであるが、歌右衛門さんも芸には厳しいかたであったからそれなりの積み重ねがなければ演じることを許さなかったのではないだろうか。

 

  • 玉三郎さんは、女形の芸の途絶えることを恐れておられるようにも見受けられる。それだけ女形の芸は厳しい修練の上に成り立っていてそれを今の若い人にどう伝えていけばよいのか。一人がその芸を継承するのではなく何人かが切磋琢磨して継承していかなければ途絶えることもありえると考えられておらるのでは。急にできるものではなし、若い人にどうやる気を出してもらってその責務を感じてもらえるか。色々試みておられる。菊之助さんとの『京鹿子二人道成寺』。七之助さんとの『二人藤娘』、勘九郎さん、七之助さん、梅枝さん、児太郎さんとの『京鹿子五人道成寺』、『秋の色種』では、児太郎さんと梅枝さんに、琴と三味線を弾かせた。

 

  • それだけではない。壱太郎さんには、松竹座で『鷺娘』を指導され、『秋の色種』では琴と三味線を。今回は『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』での<お染の七役>である。七之助さんも<お染の七役>は習われている。七之助さんは、今まで勘九郎さんと公演していた特別舞踏公演を一人で主になって回られるという。よいことである。『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』より舞踊劇に構成したものを踊るらしい。演じることによって感じたものをさらに自分のものにしたいと思われているのだろう。玉三郎さんは、『於染久松色読販』を前進座の五代目河原崎國太郎さんに指導を受けられている。初演は21歳の時。

 

  • どんな素晴らしい演目も、舞台の上で花開かなくては意味がない。あれは凄い作品ですといわれて奉られて本として残っていても戯曲というものはうんともすんともいえないのである。それにしてもまさか、違う『阿古屋』を歌舞伎座で三回観させられるとはおもわなかった。玉三郎さんだからできたことなのであろう。

 

  • 『阿古屋』という作品は何回か観ているとその世界観を自分でいじくって考えられようになってくる。どうして重忠は、景清の行方を阿古屋に吐かせるため三曲を弾かせるのか。三曲を聴いた重忠の下す裁きは、阿古屋は景清の行方は知らない、である。その音曲に乱れがなかったからというのである。今回三人の阿古屋を観て、重忠は景清の恋人としての誇りを阿古屋が保つとすれば傾城としての芸であろうと考えたのではないか。芸を武士の刀に代えて曇りのない心意気をしめすなら阿古屋が形成する芸としての完成度、それを見極めればわかるはずだ。

 

  • 阿古屋はそれに気が付いたかどうかはわからない。ただ途中で分かったのではないか。梅枝さんは箏を弾きつつ「かげというも月の縁 清しというも月の縁」と景清を匂わす言葉を入れた歌をうたわれた。(児太郎さんは「かげというも」までだったので梅枝さんが歌われたかどうか揺らぐのであるが歌われたとしておく。)ここで、重忠は何の曲を歌えとは言っていないのである。その後の三味線も胡弓も弾けであって、何をではないのである。梅枝さんの胡弓は物凄く弱弱しい音色で、景清と会えない悲しさを現わしているようであった。

 

  • そのあと玉三郎さんの阿古屋を観た。何をいうかという感じの大きさと強さである。景清の相手としての傾城という立場を軽く見られてなるものかという感じである。三曲を弾くことになると、すこし重忠のやり方に戸惑いを持つが、景清の詞をいれて挑みかかるような感じである。ようするに傾城として養ってきた芸を軽く見てくれるなという感じである。ただ恐らく途中で景清のことを思い出しているのであろうがそこがどこかまでは見抜けなかった。重忠は、琴が終ると景清とのなり染めと別れを尋ねる。ここの阿古屋の語りがいいのであるが、梅枝さんと児太郎さんはまだそれぞれの味は出せない。弱い。

 

  • 三味線では、阿古屋は姿勢的にも顔をあげるのであるが、見ている方は三味線の手もとをみてしまう。三味線あたりで、阿古屋は三曲の物語と自分と景清のことを一体化して、そうか重忠は私の心が乱れれば景清の行方を知っていてまた会えると思っていると想像するのかもしれないと気が付くのではないか。そこで、胡弓ではいえいえ、もう逢う事もなく、愛も終わりなのですと胡弓独特のキー、キュッ、という切れるような音と優しい音色を奏でる。玉三郎さんの場合は胡弓はことさら力強く響いた。児太郎さんは、まだ弾くのに一生懸命であった。

 

  • 梅枝さんは、何んとか冷静に無事にこの場を切り抜けようという感じで、児太郎さんは玉三郎さんの後に観たので分が悪いが、一心不乱で阿古屋に臨む姿勢がそのまま阿古屋という傾城を描くこととなり、それぞれの阿古屋である。玉三郎さんの場合は、次第に三曲の物語性の構成をどう作り上げるかという面白さがさらに加わり、次の阿古屋に出会えるのがたのしみになった。三人の役者さんの阿古屋は、『阿古屋』という作品と対峙する楽しみを大きくしてくれた。

 

  • 重忠の彦三郎さんは、声の響きがよいがもう少し三曲の拷問の仕掛け人としての心持ちが現れてもよかったのではと思え、玉三郎さんの阿古屋の時には押され気味で小さく見えるのが面白い現象だった。松緑さんの岩永は愛嬌ある人形振りであったが胡弓の真似は、実際に弾く玉三郎さんのほうが芸が細かくなるほどと納得。六郎の坂東亀蔵さんは伝える時はしっかりと、控える時は折り目正しくであった。重忠に自由であると告げられ阿古屋は重忠に手を合わせるが、阿古屋の気持ちと無事終わってほっとしての役者の気持ちが重なって映る。そして『勧進帳』の弁慶が無事義経を逃がしホッとして花道で頭を下げる姿とも重なった。弁慶を多数の役者さんが勤めるように『阿古屋』も複数の女形さんが演じたほうが観客は違う色合いを楽しめるということである。