国立劇場12月『増補双級巴』

  • 通し狂言『増補双級巴(ぞうほふたつどもえ)ー石川五右衛門ー』。フライヤーには興味ひかれる言葉がたくさん並べられている。50年ぶりの上演となる「五右衛門隠家」。70年ぶり復活の「壬生村」。90年ぶり復活の「木屋町二階」。

 

  • 石川五右衛門は超有名な盗賊であるから江戸の人がほっとくわけがない。そうなると浄瑠璃、歌舞伎も舞台に乗せないわけがない。色々な五右衛門物の登場となる。今回は初代吉右衛門さんが上演したものを二代目吉右衛門さんがそれを継承し、新たに通し狂言として演じられるわけである。三世瀬川如皐(せがわじょこう)作を基本としている。

 

  • 石川五右衛門の生い立ちから、家族との関係。そこで見せる人間味あふれる五右衛門ということで、葛籠抜け(つづらぬけ)の宙乗りが夢であったとの設定である。五右衛門(吉右衛門)の夢が醒めたところが京の「木屋町二階」で、その場面で巡礼に扮した久吉(菊之助)との南禅寺山門のパロディ―である。あの豪華な「金門五山桐(きんもんごさんのきり)」が宿屋の二階と下ということであるが、何回もあの場面観させられているのでかえって新鮮で、夢と上手くつながっていた。葛籠抜けも『増補双級巴』で考案されたということである。

 

  • 芥川の場」から面白かった。お金をつくらなくてはならない百姓の次左衛門(歌六)が旅の途中の奥女中(京妙)が癪を起こし困っているのを介抱する。奥女中がお金を持参しているのを知って殺してしまう。定番であるが、奥女中は大名の子を宿していた。幕となってからオギャーと産声が響く。

 

  • 壬生村次左衛門内の場」では、芥川の場からかなり年数がたち、次左衛門は、目が不自由になっているがやはり貧乏である。赤貧である。どうしょうもなくて、娘の小冬を廓に売ることにする。小冬はけなげでひな人形さえも掛け取りに引き取らせる。借金のもとを作ったのは次左衛門の息子であるが行方不明である。その息子が帰って来る。喜ぶ小冬。父が連れてきた廓の使いの者に大金を投げて帰す息子。息子は石川五右衛門となっていた。

 

  • 次左衛門は自分の犯した罪が息子に災いしたかと怖れ、自分が五右衛門の母を殺したことを打ち明け、自分を殺し悪事から手を洗うようにさとす。五右衛門は自分が大名・大内義弘の子供であることを知って、大きな野望を抱くのである。次左衛門はこれ以上の悪事はさせぬと五右衛門を殺そうとして、目が不自由なため娘の小冬を刺してしまう。五右衛門を育てたことが次左衛門親子にとって悲しい結末となってしまうのである。小冬が父の罪も全てかぶることとなり、次左衛門は実の親のようにその後の五右衛門を心配して後を訪ねるのである。「壬生村」は罪の重なり合いの家族の悲劇を示した。歌六さんの複雑な親ごごろ。ひたすらけなげな小冬の米吉さん。自分の生い立ちをさらなる悪に増大させようとうそぶきたくらむ五右衛門の吉右衛門さん。この流れがバランスよく、しっかり見せてくれた。

 

  • 野望をいだいた五右衛門は、勅使に化けて将軍・足利義輝の館へ。ここで竹馬の友・猿之助(さるのすけ)が此下藤吉郎久吉となっており再会する。芝居などでは盗賊・石川五右衛門も話が大きくなり、秀吉の寝首をねらったということにまでなって、秀吉を久吉として登場させている。これも秀吉が百姓の出であるということが自由に登場させれる要因でもある。この「志賀郡足利別館奥御殿の場」「奥庭の場」は河内山宗俊を思わせる痛快な場でもある。

 

  • 奥御殿の場」は趣向があって、義輝(錦之助)はきんきらの御殿で傾城芙蓉(雀右衛門)をそばにはべらし遊興。そこへ御台彩の台(東蔵)が現れる。歌舞伎を観慣れない友人がよくわからなかったという場面でもある。義輝に気に入られるようにと彩の台は、芙蓉に傾城の話し方、作法の教えをこうのである。義輝はそれは面白いと、お互いの打掛けを交換させる。入れ替わらすわけである。そこへ勅使の五右衛門が現れ、御台としてその応対に出るのが芙蓉で、五右衛門は芙蓉の色香に相好を崩すというおまけがつくのである。当然お家をねらう悪玉がいて長慶(又五郎)であるが五右衛門に軽く抑えられる。

 

  • この場は、ニンにあった役者さんが揃い、居並ぶ大名たちの松江さん、歌昇さん、種之助さん、吉之丞さんたちも重さが出てきておさまり、軽く楽しめる。さらに久吉との再会である。ここは、他の五右衛門の芝居にも出てきてお馴染みである。吉右衛門さんの五右衛門と菊之助さんの久吉のコンビはセリフも明解で難はないが、役者同士の面白さまでには至らなかった。義父の次左衛門は五右衛門が心配で探し、久吉にとらえられていた。久吉は次左衛門を葛籠に入れ五右衛門につきつける。ここがややこしい駆け引きとなり、五右衛門の母の形見の笛も出てくるが詳しくは筋書でどうぞ。そこら辺をうやむやでも葛籠抜けというスペクタルな場へと飛んで楽しむのも一興である。

 

  • 五右衛門隠家の場」。五右衛門に家族がいて、母と子は生さぬ仲で継子いじめという現状であるが、実はという流れがある。五右衛門の女房・おたき(雀右衛門)は先妻の子・五郎市を事あるごとに小言を言って家から追い出す。五右衛門はそれを知っているが、おたきを家から出すと何を訴人されるか分からないので我慢してくれと五郎市に語る。そのとき胸にこたえるのは、おたきと間男のことであるとつぶやく。それを聞いた五郎一は、部屋にいるおたきの父(橘三郎)を間男と勘違いし刺してしまう。ところが刺したのはおたきのほうであった。

 

  • 瀕死のおたきの口から語られるのは、五郎市の将来に対する心配であり情愛であった。この部分見せ場なのであるが、もう少し色濃くでてもよいと思われた。継子いじめの雀右衛門さんに憎らしさがあるが、その裏返しが薄かった。雀右衛門さんがどうのというより、この場の情愛を増幅させるなんらかの演出が欲しかった。心理描写の上手い吉右衛門さんもしどころの少ない場となってしまった。訴人するのが、おたきの父である。最終場、「藤の森明神捕物の場」の立ち回りの場へと移る。

 

  • 捕物に囲まれ五郎市の名を呼ぶ五右衛門。五郎市は捕らえられ、久吉に連れられて登場する。その息子の姿をみて五右衛門は観念して縄にかかる。久吉の温情をことわり、縄打たれた五右衛門は倒れている五郎市の着物の襟首を歯でかんで立ちあがらせる。親の情愛を感じさせるしぐさである。友人は最後泣けたと言っていたがこの五右衛門のしぐさであろう。

 

  • こちらは泣けなかったのである。偶然、歌舞伎を長く観ている友人に会い聞いたところ彼女も泣けなかったと泣けた人がうらやましいと嘆いた。吉右衛門さんが情を表す役者さんなので、どうも二人とも期待が大きすぎたのではないか。やはり石川五右衛門という盗賊なので、その盗賊としての大きさを維持するとすれば、情のほうに深くというのは難しいのではの結論であった。感性が硬くなっているのかも。

 

  • 五右衛門の子分の種之助さんが、誰なのと思わせる盗賊ぶりであり、その子分たちに身ぐるみはがされる中納言の桂三さんが身分ゆえの情けなさと可笑しさを上手くだして笑いを誘っていた。何十年ぶりかの場面上演の石川五右衛門のお芝居、満足の域に達していて、新たな五右衛門物として愉しめた。時間が経つに従い先人たちの工夫をどう生かすか。工夫が多いだけにそれを整理するのも大変な作業でもありやりがいでもあろうし、観る方もその歴史を開けて舞台で見せてもらえるのであるから大きな喜びである。