新橋演舞場 九月新派特別公演(2)

『振袖纏(ふりそでまとい)』  川口松太郎さん作で、しっかり最後涙を誘います。実際の話しを参考にしたようでモデルがあるようです。川口松太郎さんは<親は誰だか判らない>と語られていて若い頃苦労されていているので、市井の人々の悲喜こもごもを小説や芝居にされていますが、その人情味は実感がこもっていて新派が隆盛だった頃の観客がすっぽり入りこめる世界でした。

映画監督の松山善三さんが先頃亡くなられましたが(合掌)、高峰秀子さんが、演出助手だった松山善三さんと結婚するとき、「なにがなんでも川口先生に彼を見てもらった上で決めよう」とおもったほど川口さんの「人の見る目」を信頼していて「あの男はまるでおまえの亭主になるために生まれてきたみたいな奴じゃねえか」と太鼓判をおされ即座に決心したと書かれています。(「人情話 松太郎」高峰秀子著)

その川口さんの本も後半までの話しにダレがきてしまいます。それは、纏持ちに憧れた芳次郎(松也)が大店の実家・大黒屋から勘当されても自分のやりたい道に進み、ち組の頭・藤右衛門とお徳(春猿)に世話になります。そこの娘・お喜久(瀬戸摩純)と夫婦となりますが、大黒屋の番頭に子供が出来たら跡取りのいない大黒屋に子供を渡すという約束をします。この約束と、勘当された身だからと生まれた子供を捨て子として大黒屋の前に捨て、その子を番頭が拾い、捨て子として育てられるのですが、現代の感覚からすると、そう簡単に約束するの、捨てる必要性があるのと突っ込みたくなるのです。

ただこの設定が後半の泣かせどころとなるのですが、前半の観客の突っ込みをいれない工夫が現代では必要になってきます。貧富の差は現代でも判りますが、暗黙の了解の当時の身分差などが通じなくなっているということです。『婦系図』で、お蔦の姉貴分にあたり酒井先生の世話にもなる芸者の小芳に主税が手をついて挨拶しますが、酒井先生は、お前は芸者に手をつくのかと怒るところがあります。これは驚きますよ。そういう風の吹いている時代なのです。

その辺りが芝居の中にしかない感覚となってしまい、庶民がすっぽり芝居の中に入れないところに新派のジレンマがあります。『振袖纏』も、前半は番頭の田口守さんが持ちまえの演技力で頑張ります。猿弥さん、春猿さんが纏の頭の一家としても雰囲気を出します。そして、後半になって松也さんと摩純さんも芝居に乗って来て、立松昭二さんと伊藤みどりさんが大黒屋夫婦として締めるという形となります。この前半が説明的にならず時代を表せるかどうかが、課題となるとおもいます。

『深川年増(ふかがわとしま)』  北條秀司さんの喜劇作品です。浅草の十二階の凌雲閣の場面から始まり時代が何んとなくわかります。さらに、歌舞伎の演劇改良運動のことが出てきます。明治の西洋化の風潮から歌舞伎を外国人にも観て貰えるように改革しようとしたのです。九代目團十郎さんの時代で同時に川上音二郎さんの新派の誕生とも関係してくる時代です。

改良運動により歌舞伎役者の身辺もきれいにしようということで、地位の低い歌舞伎役者・三十助(緑郎)も囲っているおきん(八重子)と別れることにします。そのおきんに別れ話をもっていくのが、三十助の弟子の伊之助(猿弥)です。三十助は良い役が回ってくるようにときんつば屋に婿に入っており、おきんのことも女房のおよし(英太郎)にばれているのです。当然すったもんだがあるわけです。

北條さんのことですから細工は流々で、おきんはお金持ちの奥様になりすまし、きんつば屋へ乗り込んでくるのです。その前に三十助との間の子供まで送り込んできます。

欲をいいますと緑郎さんは喜劇のテンポはまだこれからの感があります。猿弥さんとは澤瀉屋での長い時間がありますのでツーカーですが、八重子さんや英さんとの間の取り合いはこれからの時間のなかで修練され絶妙さに進んでいかれるとおもいます。話しの面白さが構成されているとその展開にのりつつ、いかに自分の置き場所をみつけるかが喜劇の場合難しいです。

それにしても、劇団新派は沢山の作品をすぐれた作家のかたから書いてもらっていました。『振袖纏』も『深川年増』も初めて観る作品でした。

新派の芝居は奉公人が使いに行く時前掛けに品物を隠して出かけたりなど、今は見かけなくなった細かい時代の動作のしどころをも伝えてもらえます。

『婦系図』などは、黒御簾から「勧進帳」の長唄が流れ、小芳が娘に会えて涙するところは、「ついに泣かぬ弁慶の~」と流れます。

お蔦が妙子さんがきてお茶を入れる時、焙烙(ほうろく)でお茶を焙ってからいれたりと、座布団の外しかたなどその時代の身についた動きかたが新鮮に目にとまります。

そしてそうした動きも立場のちがいによっても変わってくるのです。そうした細かな動きを学んだ新派の役者さんたちが、喜多村緑郎さんが誕生したことによって、新しい作品をもっと学んで披露していければ今回の襲名も大きな成果となって現れることでしょう。

国立研修生の同期である春猿さんと猿弥さんの澤瀉屋そして 音羽屋の松也さんを迎え、新しい緑屋の二代目喜多村緑郎さんの襲名披露公演にふさわしい旅立ちにまずは拍手を。

その他の出演者・佐堂克実、尾上徳松、半田真二、村岡ミヨ、鴫原桂、山吹恭子、市村新吾、英ゆかり、只野操、三原邦男、筑前翠瑶、鈴木章生、児玉真二、久藤和子、川上彌生、川崎さおり、矢野淳子 他

 

新橋演舞場 九月新派特別公演(1)

市川月乃助改め二代目喜多村緑郎襲名披露

初代喜多村緑郎さんは1871年生まれで1961年に亡くなられていて名前は聴けども映像で少しみているだけで実態はわかりません。二代目を襲名された月乃助さんも緑郎さんに関しては雲をつかむような状態のことでしょう。この名跡を継ぐことによって、新派からは逃れられない立場に立たれたわけですが、国立劇場開場50周年の年に、国立劇場の歌舞伎研修生出身の月乃助さんが新派の大名跡襲名となり喜ばしいことです。

口上の挨拶でも、「この先茨の道とおもいますが」と覚悟のほどをみせられていましたが、旧派に対する新派というよりも現在の<劇団新派>の存続の一端を肩に背負われたわけでそれはかなりの重さと思います。

今回の演目の一つ『婦系図(おんなけいず)』を観て、初代水谷八重子さんが背負われていた女優の劇団新派が、これからは男優の風が強くなるような予感がしました。そしてそれはそれで新しい劇団新派として、違う要素の芝居も見せてくれるのではないかという期待感も膨らみます。

『婦系図』は、<湯島境内>が多く上演され、二代目八重子さんや波乃久里子さんが花柳章太郎さんや初代八重子さんの芸を踏襲され、どうしてもお蔦に目がいきます。今回、通しで公演することによって早瀬主税の復讐劇が加わり<湯島境内>だけではわからない話の筋がわかり二代目喜多村緑郎さんも好演でした。

チラシによりますと ー初代喜多村緑郎本に依るー とあります。かつて通しでみたときの記憶では、主税が静岡でドイツ語の塾を開いていてその場面もあったような気がしますが、今回は静岡では<静岡貞造小屋>で、河野英臣(こうのひでお)と対決する場にすぐ入りました。河野英臣というのは、名家とつながることで一族を大きくしようと野心にもえた人物で、主税がお世話になっている酒井先生の娘さん妙子を息子の嫁にしようとして素行調査をしています。

主税はそのことが気に入らず、またその関係から主税がスリを助けたことが役所にしれ職を失ってしまい郷里の静岡に引っ込むことになります。そのことなどから、静岡の場は主税の河野家への復讐の場となるのです。泉鏡花さんの作品自体はこの復讐劇が主なのですが、舞台化された際、主税と元芸者のお蔦が酒井先生に隠れて所帯をもっていてそれが先生に知れて別れるようにいわれ、その別れの場面を湯島境内の場面として書き加え、この場面のみが多く上演されることとなったわけです。

湯島境内の緑郎さんの主税よい寸法でした。何回も演じられている波乃久里子さんのお蔦に対する情もでていて、スリの万吉の松也さんにスリをやめるように言うところに説得力がありました。吉右衛門さん、仁左衛門さんら何人かの歌舞伎役者さんの主税を観ていますが、歌舞伎役者さんの寸法が大きすぎ、主税がかつて「隼(はやぶさ)の力(りき)」とよばれたスリであったということを万吉に伝えるとき、台詞としては伝わっても実感として浮かんでこなかったのですが、緑郎さんの場合浮かび、酒井先生に助けられた話しで万吉が、改心すると決めるのに無理なく得心できました。

いったんスリの世界に入ればそこから抜け出すことは当時の環境からしても容易なことではないのです。それに加え学問まで身につけさせてもらえた。その恩は自分をとるかお蔦をとるかと言われれば先生をとるしかないのです。そこがストンと気持ちに入っていますから、主税とお蔦の古風な別れもじわじわと深く伝わってきます。

さらに今回、客演している尾上松也さんの妹さんの春本由香さんの劇団新派入団の紹介が口上でありました。由香さんの祖父の春本泰男さんが新派におられ、お母さんも新派にいたことがあったのだそうです。酒井の娘・妙子を演じられ、この役は女学生なので、演じられた役者さんたちは、年齢もあり皆さん芸でみせるのですが、由香さんの場合、恐らく言われたまま素直に演じられているのでしょう。それが自然のかたちとなり芸を見せるという堅苦しさのない清楚な妙子となり、芸者小芳の八重子さんとのお蔦さえ知らなかった親子の関係がわかるもう一つの隠された部分が明かされる場面を良い形に納めました。

酒井先生の柳田豊さんも独特の台詞まわしで酒井先生の威厳をしめし、田口守さん、伊藤みどりさんの身についた庶民性、石原舞子さんの小芳に次ぐ妹芸者ぶり、河野家側の高橋よしこさん、市川猿弥さん、市川春猿さん、喜多村一郎さんらがそれぞれの役どころをおさえられていて、新しい新派の新しい『婦系図』となりました。

南木曽・妻籠~馬籠・中津川(4)

藤村さんの系図を簡単に紹介すれば、藤村さんは馬籠宿本陣の四男として生まれています。母(ぬい)は妻籠宿本陣の娘で馬籠本陣の長男(正樹)と結婚し、藤村さんの二番目の兄(広助)は三歳のとき、母の実家の妻籠本陣に養子にはいっています。もともと、妻籠本陣と馬籠本陣の当主は島崎家から出て続いていくのです。

藤村さんは、九歳の時、三番目の兄と一緒に勉学のため東京にでてきて泰明小学校に通います。本陣を継ぐものは一人でいいわけで、長男以外はそれぞれの生きる道を見つけなければなりません。

馬籠本陣の隣の大黒屋の娘・おゆうさん藤村さんの幼馴染で初恋の人といわれていますが、おゆうさんは、14歳の時、妻籠の脇本陣にお嫁入りしています。

妻籠宿の本陣は江戸時代の本陣を再現し、藤村さんのお母さんとお兄さん関係の島崎家の印象が強いです。脇本陣にはおゆうさんの使っていたものも展示され、それらの高価さから見ると藤村さんのその後の生活と比較し、おゆうさんも収まるところへ収まったのかなという感じを持ちます。

妻籠の脇本陣は屋号を「奥谷」といい、9月から3月まで夕方明かり窓を通して囲炉裏ばたに美しい縦じまの光の道を描きます。係りの方が、「残念です。陽が射していれば見れるのですがと」と教えてくれました。ここには歴史資料館もあって三館をゆっくりみさせてもらいました。

そのほか瑠璃山光徳寺には、幕末から明治にかけてここの住職さんが考案したという駕籠に車をつけた人力車が飾ってありました。面白い事を考える住職さんです。

馬籠宿は本陣跡は藤村記念館となり、第二文庫では、藤村さんの長男・楠雄さんの息子さん・緑二さんの作品展があり、穏やかで優しい水彩画が展示されていました。大黒屋さんも楠雄さんの四方木屋さんも残っています。馬籠脇本陣は史料館となっていてめずらしいのは、玄武石垣という亀の甲羅ににた六角形の石垣が積まれているものです。

永昌寺にある島崎家のお墓もいってみました。島崎藤村家は楠雄さん達もふくめ幾つかのお墓が一つの集まりとなって肩よせあい静かに眠られていました。

『夜明け前』では、藤村さんの祖父の時代からはじまり、藤村さんのお母さんが半蔵さんのところにお嫁に来て、お母さんの兄で妻籠本陣の当主・寿平次さんが訪ねてきたり、半蔵と寿平次とが一緒に三浦半島にいる先祖を訪ねて江戸にでてきたりします。その時半蔵は国学の平田門人としての許可をもらうのです。半蔵はそのことだけに集中し、寿平次との性格の比較としても際立つ旅です。

落合宿や中津川宿には、半蔵の学問の友や師がいて、師の宮川寛斎は、中津川の生糸商人に頼まれ開港した横浜へ生糸を売り込むためにつきそい、その後よそで隠遁生活に入りますが、半蔵は別れの機会があると思っていましたが寛斎は半蔵にあわずに去ってしまいます。

中津川宿は、信濃とは違う商人の宿でもあり、これからの『夜明け前』でもいろいろでてくるのかもしれません。

実際の今の中津川宿は、説明書きも新しく整備されていて、日本画家の前田青邨(まえだせいそん)さんの生まれ故郷でもありました。桂小五郎さんが隠れていた家などもあり、「中山道史資料館」には、桂小五郎、井上薫、岩倉具視、坂本龍馬など幕末から維新にかけて活躍した人たちの資料があるらしいです。行ったときは、<企画展 中津川の明治時代 ー情熱をそそいだ学校教育から地域の発展へー >をやっていました。ここは脇本陣のあったところで、建物の一部と土蔵一棟が公開されています。皇女和宮さまの降嫁の際に随行した江戸城大奥老女花園が尾張徳川家の御用商人である間家に宿泊し、さらに翌年に寄りその応対ぶりに感激し人形などを送りその品も飾られていました。

皇女和宮様の降嫁の行列はそれを受け入れる側も大変で、人はもちろんのこと立派なお嫁入り道具などもあるわけで死人もかなりでたようです。山道を考えるとそうでもあろうとおもえます。人足などはただ囲われた寝泊りの場所で、農民たちは農作の繁忙期に宿の手伝いにでなければならず、それに対する不満も次第に膨らんでいきます。

明治にはいると明治15年4月3日には自由党総裁・板垣退助が中津川で演説を行い、その3日後に岐阜で暴漢におそわれています。「板垣死すとも自由は死せず」

歴史資料館を見てますと、平田学などの国学の人々が自由民権運動にも参加して、さらに中津川の教育にたずさわっていったような感じもみうけられました。

中津川は江戸末期から地歌舞伎が盛んのようです。横浜港が開港したと聞くとすぐ生糸を売りにいき紡績がはじまり、水力発電がはじまるとその工事関係の人でにぎわったようでそういう人の集まりに合わせて芸能も楽しみの一つとして受け入れられたのでしょう。江戸の歌舞伎役者さんにもきてもらったようで、地歌舞伎が今も残っているというのは凄いことです。

旅としては中山道はしばらくないと思いますが、中津川の資料館では、この近辺の中山道の道をコピーして置いてくれてましたので、それを眺めつつ観光として出かけることもあるでしょう。

さらにここで『夜明け前』の文章と写真で構成した『夜明け前ものがたり』(白木益三著)を購入したので、それを開きつつ、『夜明け前』の続きにとりかかるとしましょう。

 

南木曽・妻籠~馬籠・中津川(3)

落合の石畳が思っていたより長かったので調べたところ840メートルでした。十国峠を歩きやすくするために石を敷きならべたもので当時のままの部分が三か所70.8メートルあります。なだらかな石畳の坂で芸術品のような趣です。

途中に今は閉められている山のうさぎ茶屋というのがあって、その前にかなりはげてしまった<中乗り新三>の旅烏姿の看板がありました。聞いた事のある名前ですが、どんな人なのかわからないので検索しましたら、芝居や映画にでてくる主人公で、映画では三波春夫さんが演じてました。江戸から木曽に材木を買い付けにきて、まあ渡世のいろいろなことがあるということらしいのです。

木曽の木は尾張藩にとっては宝の山で、村人は非常に厳しい規制のなかにあり、勝手に木を切らない様に、のこぎりを使わせなかったのです。斧だと音が響くのでこっそり切ろうとしてもすぐ判ってしまうからです。木一本首ひとつといわれているほど厳罰が待ち構えていました。

切った木を木曽川を使っての運搬方法も木曽川本流では大川狩(おおかわがり)といって、組み立てられた木を流す通路を一本一本流していくのです。模型があり木の流しそうめんのようでした。

明治となり山林が自分たちの手に戻ってくると信じていたのにそうはならず、『夜明け前』の半蔵は奔走するのですが、明治22年には皇室の財産に編入されてしまうのです。とまあ資料館的にはそうなりますが、『夜明け前』ではこれから読んでのことです。

馬籠では昼食をしたお店のかたが、一人なら熊よけの鈴をもっていったほうがよいということなので、観光案内所で借りました。これはお金を払って借り、次の宿場の観光案内所で返すとお金をもどしてくれます。

妻籠に向かいますが馬籠宿の家並みを抜けたところに展望台があり、恵那山が見え、半蔵とお民夫婦の恵那山を眺める会話と妻籠と馬籠の風景の違いがでてくる『夜明け前』の一文が紹介されています。馬籠峠の頂上といっても山の中で見晴しの良いのはここだけといえます。

山の中ですので道は判りやすく案内表示がしっかりしていますので、天気と体力だけそろえば大丈夫ですが、馬籠峠まではちょっときつい登りもありました。所々に熊よけの鐘があって、このときとばかり元気づけに鳴らして歩きました。途中に十返舎一九の狂歌碑もあります。「 渋皮のむけし女は見えねども栗のこはめしここの名物 」 渋皮そのままの女も名物の栗のこわめしは食べました。

馬籠峠を越えると下りですので気分も樂でしたが、途中の休憩場所でお茶をすすめられましたが先が急がれておことわりしました。外国人のかたのほうが歩いてられる数は多いです。休憩所の人が、15分ぐらい歩くと女滝男滝があるので涼しいから寄って見ていきなさいと教えてくれました。妻籠までは1時間といわれましたが、私は1時間半かかりました。15分たっても滝の案内がなく見逃したかなとおもった頃にありました。滝の水の力におおわれた涼しい時間でした。しかし歩みは予想どおりおそくなっていました。

はるか下のほうに家が見える箇所もあり、馬籠に入る途中の棚田の風景とは違い、その深さに木曽の山中をあらためて感じる風景にも出会います。前日、妻籠の宿場は観光しておいたので宿に入る見知った家並みを通るようにして無事鈴も返しましたが、久しく歩いていなかったので思いのほか疲れました。

妻籠も馬籠も宿場にすぐ入れない様に道を直角にまげている枡形(ますがた)が道が狭く坂なので面白いかたちで残っていました。大名なども泊るのでその身の安全や大名たちの格差もあるので、行列が鉢合わせしないための工夫でもあったようです。中津川宿などは平らなためもあって枡形が直角に曲がっているのが一目でわかります。

東海道は、開発のためどんどん枡形も壊されてしまっています。疲れはしましたが、自然も中仙道を味わったという気分にさせられ満足、満足です。

南木曽・妻籠~馬籠・中津川(2)

藤村さんんの『嵐』の中に、馬籠の長男・楠雄さんの新しい家を訪れた時のことが書かれています。

中央線の落合川駅まで出迎えた太郎は、村の人たちと一緒に、この私たちを待ってい木曽路に残った冬も三留野(みどの)((たりまでで、それから西はすでに花のさかりであった。水力電気の工事でせき留められた木曾川の水が大きな渓(たに)の間に見えるようなところで、私はカルサン姿の太郎と一緒になることができた

藤村さんたちは、甲府を通り下諏訪で一泊し、落合川駅かから木曽路に入っています。私は、中津川駅からバスで木曽路口へ行き、そこから歩きたかった落合の石畳を登って馬籠へ。雨の後で石がぬれておりすべる。登りでよかったです。水力電気の工事での木曽川の様子も藤村さんは見ていたわけです。

途中で私はさんという人の出迎えに来てくれるのにあった。森さんは太郎より七八歳ほども年長な友だちで、太郎が四年の農事見習いから新築の家の工事まで、ほとんどいっさいの世話をしてくれたのもこの人だ。

藤村さんはこの森さん(原さん)には、お金は登記をしてから渡したほうがよいなど細かく手紙で書かれていて、原さんも若いながらしっかり楠雄さんの自立に手をかされています。

私のほうの旅には、藤村さんだけではなく、もう一人同道者がいました。それは、ノボさんこと正岡子規さんで、子規さんは念願だった木曽路を歩いた紀行文『かけはしの記』を書いています。念願とはいえ、健康を害し帰郷する途中で歩いているのです。このあたりが子規さんの無茶なところであり、この性格が皆に愛されると同時に血を吐いても鳴きつづける<ホトトギス>の一生となりました。

子規さんは、上野、軽井沢、善光寺、川中島、松本、三留野、妻籠、馬籠、余戸村、御嵩を越えて、舟にて犬山城の下を過ぎ舟を降り、木曽停留場に至っています。

この旅ついに膝栗毛の極意を以て終れり

信濃なる木曽の旅路を人問はばただ白雲のたつとこたへよ

妻籠と馬籠にかんしては

妻籠通り過ぐれば三日の間寸時も離れず馴れむつびし岐蘇川(きそかわ)に別れ行く。

馬籠峠のふもとで馬を頼もうとするがいなくてわらじを履きなおし、下りてくるひとに里数をききながらのぼりつめている。私は馬籠側から子規さんとは反対方向から登り妻籠へ向かったわけで、子規さんと同じようにあと何キロかと標識を眺めつつ馬籠峠目指して登ったのです。

子規さんは馬籠宿で一泊していますが、次の日雨なのに宿の娘に合羽を買って来るように頼み馬籠を下っています。病の身でありながらと紀行文を読みつつ気にかかりました。

馬籠下れば山間の田野稍々開きて麦の穂已に黄なり。岐岨の峡中は寸地の隙あればこゝに桑を植ゑ一軒の家あれば必ず蚕を飼ふを常とせしかば今こゝに至りては世界を別にするの感あり。

桑の実の木曾路出づれば穂麦かな
 
藤村さんの書いた「是より北木曽路の碑」の先に正岡子規さんの「桑の実、、、」の句碑があり、ここからの風景を一望すると登ってきているなと感じます。
 
 
 
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芭蕉さんの「送られて送りつはては木曽の秋」の句碑もあり、この芭蕉句碑を建てた頃のことが『夜明け前』に出てきます。島崎正樹(藤村の父)翁記念碑もありました。そしてここは美濃と信濃の国境なのです。
 
 
 
 
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私の歩いた時は、山々の緑と麦穂の黄色に百日紅の濃い桃色の花が調和した木曽路の風景でした。
 
 
 
 
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<百日紅なにをかたらん麦穂かな>
つまらぬ句を書けるのは、今回の旅の友の本『笑う子規』のせいであります。
俳句とはおかしみの文芸として、子規記念博物館の館長もされた天野祐吉さんが、子規さんの俳句から笑える句を選び、それぞれの句に天野さんが短文を書き、南伸坊さんが絵を添えられているのです。子規庵で見つけたのですが、楽しい本で笑えます。
 
桃太郎は桃金太郎はなにからぞ (金太郎は飴から生まれたに決まっとるじゃろ)
 
えらい人になったそうなと夕涼み (「秋山さんとこのご兄弟は、えらいご出世じゃそうな」「それにくらべて、正岡のノボさんは相変わらずサエんなあ」)
 
夕立ちや蛙の面に三粒程  (一粒じゃ寂しい。五粒じゃうるさい。三粒程がよろしいようで。)
 
そういえば、どこかの風邪くすりも三回と三錠でした。俳諧の心のあるひとがコマーシャルつくったのでしょうか。三を二回も使っているのでそれはないか。そこで自分の句?に解説を。(百日紅の高さと下をむく麦穂が話をするのはかなり困難であろう。ないしょばなしはむりである。)つまらぬと思った人は、『笑う子規』を購入して口直しをされたがよかろう。
 
 



南木曽・妻籠~馬籠・中津川(1)

『夜明け前』を読んでいると、やはり現地へいかなくてはと思い立ちました。JR南木曽駅で降りてバスで妻籠へ。南木曽から妻籠まで歩いて一時間ということなので歩くことも考えたのですが、東海道歩きでどうしても時間に追われるのを経験しているためそれをやめにし、今回は宿場をゆっくり見学することにしました。正解だったとおもいます。南木曽は<みなみきそ>ではなく<なぎそ>と読むのですが、<なぎそ>にすぐ反応できず、一呼吸おいて気がつきあわてて降りました。

南木曽はもう一つ発見があり、記憶に強い場所となりましたが、それはのちほど。

妻籠と馬籠間は歩きました。ここは歩いて置かなければ『夜明け前』の世界により密着できないですし、まだ四分の一しか読んでいないのですから、このあとのための楽しみとも関係してきます。『夜明け前』は面白いです。島崎藤村さんは、この作品があっての文豪とおもいます。

明治維新前の木曽路の山の中で限られた情報と規制の多い生活の中でこれから起こるであろう渦をまだ捉えられず、続いてきたしきたりを受け継いでいこうとする主人公・半蔵がゆっくりと自分の生き方をさぐりはじめています。

妻籠、馬籠、中津川は半蔵にとっての心の支えともなる地域であり人でもあります。

本陣の仕事、それを助ける宿のそれぞれの立場の人。宿には旦那衆という集まりもあって、そこでは、俳句であるとか、古美術に対する趣味であるとか、それを理解する仲間があったようです。本陣とか脇本陣となれば、お殿様が泊ったり休憩したりするので、床の間の掛け軸や置物などのためにも名のあるものを収集したりもしていたのでしょう。

ただ本陣は副業が許されず、脇本陣は許されていたようで酒造業を兼ねたりして、維新の時には脇本陣のほうが長く生き残れたところもあるようです。

先に馬籠で、藤村さんの家族のことで気にかかっていたことのあらましがわかったのでそのことから書き記します。

年譜に1923年(大正12年)8月藤村さんが52歳のとき、「長男楠雄を郷里で帰農させ、妻子の遺骨を埋葬するため帰郷した」とあり、楠雄さんが18歳のときです。一人で親戚にでもあずけたのであろうかと気になっていたのです。

馬籠宿に「清水屋資料館」があり、馬籠宿役人を努められた家で、建物は残っていて二階が資料館となっています。

 

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清水屋に立ち寄って二階を見せてもらったのですが、その時、「上には藤村さんの手紙などもあるのですが、お金の事が出て来て金貸しだったのですかとよくきかれます。そうではなく、藤村さんの息子さんの楠雄さんを預かっていたのです。」とご婦人が教えてくれました。「えっ、楠雄さんはここに預けられていたのですか。」私があまりびっくりして素っ頓狂な声をだしたからでしょうか、色々なお話しを聞かせてくださいました。楠雄さんは東京で明治学院に通っていたのに中退して馬籠にて帰農するのです。

そこまでにいたる、藤村さんと楠雄さんとの話し合いがどんなものであったのかはわかりません。清水屋さんの原家は、島崎家とは旦那衆としての付き合いもあり親しい関係で、すでに島崎家は馬篭をはなれだれも残っていませんでした。いわば他人に楠雄さんを一人農業にたずさわるため預けたわけで、相当信頼関係がなければできないと思います。

ご婦人は楠雄さんを預かった原一平さんの息子さんのお嫁さんで、一平さんは舅にあたるわけです。ご婦人からみても一平さんは穏やかで周りからも信頼されたかただったそうです。楠雄さんは、通りに面した部屋で寝泊りして農業に従事し、藤村さんがたずねてくると藤村さんはその部屋の二階の部屋に泊まられたそうです。

 

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資料の手紙には、細かくお金のことがでてきます。楠雄さんはその後家を持ち、田畑ももちます。そのため藤村さんはお金をだされたようで、そのやりとりの様子が手紙からうかがうことができるのです。そこまで原さんにまかせるということは、藤村さんが原一平さんを信頼して楠雄さんを預けられたのだということですし、原さんもその信頼にこたえて楠雄さんを受け入れられたわけです。

1926年(大正15、昭和元年)には、楠雄さんの新築の家に藤村さんも訪れています。楠雄さんが馬籠の人となり、藤村さんが『夜明け前』を書くことによって、馬籠から去った本陣の島崎家はその過去の足跡を残すかたちとなったわけです。

原一平さんのことは、藤村さんの作品『嵐』に「森さん」としてでてくるようです。ご婦人のおかげで、楠雄さんが親戚のいない馬籠で帰農するという新しい出発が危惧していた暗さとは違っていたらしいことがわかりお話しを聞けてよかったです。ご婦人のお嫁にこられた時の様子も聴かせてもらえて楽しいひと時でした。

南木曽の発見ですが、馬籠から妻籠に入るところに、「関西電力妻籠発電所」のたてものがあり、関西電力といえば、電力王の福沢桃介さんですので、桃介さんとこの旅であうかも、貞奴さんも出て来たりしてと思っていたら出現しました。

 

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木曽の豊富な水を見逃すような桃介さんではありません。しっかり水力発電をやっておりました。その仕事の関係で南木曽に別荘をたてており今そこが記念館として公開されています。もちろん貞奴さんも訪れています。そして木曽川に発電所建設資材運搬用の橋をかけ「桃介橋」となずけられ今は生活道路として使われている橋があるのです。

 

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日本最大級の木製吊り橋で、南木曽駅から5分のところにあり、急いで少しだけ渡ってきました。残念ながら福沢桃介記念館による時間はありませんでした。橋の竣工式の写真には、貞奴さんも写っていました。

 

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長谷川時雨さんの「近代美人伝」の「マダヌ貞奴」を読みました。時雨さんとしては、さらなる芸の修練をした役者貞奴さんを観たかったようです。それほで、役者貞奴は時雨さんの眼にかなった役者さんだったようです。時雨さんから観ると和物よりも洋物のほうが魅力的だったようですが、残念ながら写真と想像ではわかりません。おそらく和の型のないところから匂いたつ妖しさなのでしょう。

『夜明け前』は読み終わるのに時間がかかりそうです。

 

茅ヶ崎散策(2)

鎌倉で思い出しました。夏目漱石さんが円覚寺で参禅しましたが、そのときのことは『門』に書かれていて、『門』にでてくる釈宜道が釈宗活さんのことで、主人公の宗助は宜道さんあての紹介状をもって寺を訪れ、宜道さんによって老師とお会いします。らいてうさんはこの宗活さんのもとで「見性(けんしょう)」といわれる悟りの一つに到達しています。不思議なつながりです。森田草平さんとのことでは、らいてうさんは漱石さんを快くおもっていなかったようです。  東慶寺の水月観音菩薩

さて二回目の茅ヶ崎散策には、「開高健記念館」をいれ、そこから海岸にでて適当なところで高砂緑地に向かい、市立美術館へもより駅にむかうコースを考えました。

開高健記念館」は開館日が週3日ほどでバスを使うことにしましたが、開高健記念館前には停まらないバスに乗車したので、一番近いバス停を降りる時に運転手さんが道を教えてくれ助かりました。

 

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開高健さんならではの言葉の石碑やモニュメントがあります。「入ってきて人生と叫び出ていって死と叫ぶ」「朝露の一滴にも天と地が映っている」「明日世界が滅びるとしても今日あなたはリンゴの木を植える」

 

 

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可笑しかったのは家のサンルームから外にでて玄関のほうへ降りてゆく階段があるのですが、その階段の石が、火口から飛んで来てそのままの石というようなごつごつした石で、足元が危なっかしくあえて危険につくってあるようで、これは下駄で呑気に降りれない石段だと思わず開高健さんの怪しげな笑い顔を思い浮かべました。「遠い道をゆっくりとけれどやすまずに歩いていく人がある」

 

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書斎から見える庭には越前スイセンがあります。ベトナム戦争の取材を終えた冬、越前岬の深い雪のなかで、灯の様に咲く越前スイセンに強い感銘を受けたのがこの花との出会いのようです。

 

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柳原良平さんのイラストと開高健さんのキャッチコピーのトリスウイスキーの広告も多数展示されていますが狭いのがちょっと残念でした。映像の笑っていながら眼が笑っていないところが、開高さんの見て来た深淵を覗きみるようでしたが、つりのときが一番幸せな表情です。

 

 

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お隣が「茅ヶ崎ゆかりの人物館」になっていて、茅ケ崎ゆかりの土井隆雄さん、山本昌さん、加山雄三さん、桑田佳祐さんなどの関連するものが展示されていました。新しくて明るくて、休憩室に茅ヶ崎関連のコミュニティ雑誌もあり閲覧させてもらいました。

面白いのを見つけました。小津安二郎監督の甥御さんが撮影を見に行った時の文です。甥御さんが見ているときお風呂を沸かしていて、気に入った湯気がでず何回も同じことをやっていてあきてしまったというのです。これには笑ってしまいました。小津監督が俳優さんだけではなく湯気ともじっと格闘していたのです。

森田芳光監督も茅ヶ崎出身でした。函館を舞台にした映画を4本も撮られているので、海の近くに親近感があるのかもしれませんが、湘南の海とは違うなあとおもわれたかもしれません。でも湘南の森田監督の映画はまだみていません。あるのでしょうか。漱石さんの『それから』を期待せずにみたところ、松田優作さんが思いがけずはまっていて驚いたことがあります。

気持ちのよい時間のあと、係りのかたと少し話しをしましたら、小津監督の定宿がまだ営業しているということで、このまま海に出て海岸線を歩き、サザンビーチのモニュメントのあるあたりから駅に向かう途中であることを教えてもらいました。小津さんのことは調べていなかったので朗報でした。

海にでたところその砂山の感じに、映画『長屋紳士録』の飯田蝶子さんと少年がおにぎりを食べる場面を思い出し、きっとここの海岸線で撮ったのだろうと確信しました。この砂浜の山の感じなのです。ここと決めました。八木重吉さんの「あの浪の音はいいなあ 浜へ行きたいなあ」 の浜でもあります。  映画『長屋紳士録』と『日本の悲劇』

サザンビーチのCのモニュメントを背に国道にでて、途中昼食をとり、小津監督の定宿「茅ヶ崎館」に向かいます。この宿は、南湖院の国木田独歩さんを見舞った田山花袋さんなども滞在し、なんといっても小津監督の『東京物語』などの映画作品のうまれた場所です。宿は民家の住宅街にこじんまりとはまりこんで暖簾が静かにゆれていました。ここから浜へも散策にもいかれたのでしょう。

 

 

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最後は再び、高砂緑地から市立美術館へ。今回は開館していることを調べてありました。

青山義雄展 「この男は色彩を持っている ーマティスが認めた日本人画家ー没後20年」

初めて目にする画家でした。残念ながらこの人だけの色というのがわかりませんでした。歩き疲れた者にとってはじーっと見つめるというよりも、ふわっとながめる感じの絵でした。

茅ヶ崎関係の本が展示されていて、長谷川時雨さんの『近代美人伝(上)』がありました。貞奴さんのところだけでも読んでくださいとありました。ほかの本もながめ読まずにきましたが、今思えば読んでくればよかったとおもっています。いずれ手にしましょう。いずれが多すぎますが。

 

 

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森まゆみさんの『断髪のモダンガール』に<読書案内>があり、数えますと88あります。(上)(下)とか全集もありますから何冊になることでしょう。

菱沼海岸からサザンビーチを歩いたわけですが、東方面の鵠沼(くげぬま)海岸あたりも歩いてみたいと思っています。

茅ヶ崎は芸能の街で、壮士演歌手の添田唖然坊さんが住んで居たり、友田恭助さんと土方与志さんが子供芝居「南湖座」をはじめたりもしています。イサムノグチさんも小学校時代ここで過ごしていました。なかなか盛りだくさんの散策となりました。

 

茅ヶ崎散策(1)

JR茅ヶ崎駅から海側に10分位歩くと茅ヶ崎市美術館があると知り、鎌倉の帰りに寄ったことがあります。

残念ながら美術館は何かの都合で展示室は閉館でしたが受付の人はいまして、川上貞奴さんの写真絵葉書に目がとまりました。どうして貞奴さんの絵葉書があるのか係りのひとに尋ねますと、隣に川上音二郎さんと貞奴さんの住んで居た邸宅(萬松園)があったということです。

写真絵葉書は <舞台の貞奴「八犬伝墨田高樓」帝国劇場> とあり、頭に烏帽子の横向きの舞台衣装すがたです。静かな気迫と気品があり、きちんと和物の舞台姿を写真で初めて目にしました。

 

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貞奴さん、女好きの伊藤博文さんの寵愛からするりと抜け出し、壮士芝居の川上音二郎さんと結婚、海外での巡業芝居で「マダム貞奴」として名を馳せたかたです。その二人の邸宅跡が今は高砂緑地となっていて、その後そこは実業家の原安三郎さんが購入し松籟荘(しょうらいそう)となり、茅ヶ崎市美術館の入口脇には、松籟荘の玄関前庭と塀の一部が残されています。

 

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森まゆみさんが『断髪のモダンガール』のなかで貞奴さんのことも書かれていますが、名古屋の町づくりNPOに招かれた時旧貞奴邸があって驚かれています。私もこの地域は歩いたことがあり、ステンドガラスの美しい旧邸は「文化のみち二葉館」の名称で市民に広く利用されていました。

文化のみち二葉館 名古屋市旧川上貞奴邸 (futabakan.jp)

ただ入ってこの建物が貞奴さんの旧邸で、川上音二郎さんの死後、福沢諭吉さんの娘婿である福沢桃介さんと同居していたことを知り驚きました。貞奴さんは学生時代の桃介さんに会っていて別れざるおえない状況だったのですが、再び出会い生活を共にするのですから、時間の経過の面白さです。

貞奴さんは七歳のとき、人形町の浜田屋へ養女に入りますが、その浜田屋の位置が歌舞伎の『与話情浮名横櫛(よわのなさけうきなのよこぐし)』の<源氏店>の場と重なるのです。川上音二郎さんは、尊敬する九代目團十郎さんの別荘・孤松庵が茅ヶ崎にあるため茅ヶ崎に住んだともいわれています。茅ヶ崎の駅のそばには演劇学校予定地も購入していましたが、死によって中止となってしまいました。

茅ヶ崎市美術館のそばに、平塚らいてうさんの記念碑と八木重吉さんの記念碑があります。その時はらいてうさんよりも、八木重吉さんの碑が心に沁みました。

「蟲が鳴いている いまないておかなければ もう駄目だというふうに鳴いている しぜんと涙をさそわれる」

 

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碑の説明には教師をしていたが結核となり茅ヶ崎の南湖院に入院し、その後自宅で療養し29歳で亡くなり、療養中のノートに「あの浪の音はいいなあ 浜へ行きたいなあ」とに記されていたとありました。

この南湖院がらいてうさんと奥村博史さんが出会った場所なのです。南湖院は当時東洋一のサナトリウムでした。らいてうさんの身近な人がここに入院していてここで『青鞜』の編集会議をすることもありました。そこへ雑誌社の人と列車の中で偶然知り合った奥村博史さんが訪れたのが初めての出会いです。お互いに一目惚れだったようです。世間では、奥村さんが6歳年下なので、<若い燕>などとも言いましたがそんなことにひるむような方達ではありません。

その後共同生活に入り、奥村さんは結核にかかりこの南湖院での闘病生活がはじまります。らいてうさんは看病に通うこととなり、幸い快方に向かうのです。そういう意味で茅ヶ崎はらいてうさんにとっては新たな出発地点でもあったわけです。

映画『『元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯』でもこの記念碑の除幕式の様子が映されています。 「元始 女性は太陽であった 真生の人であった」 やっとらいてうさんと茅ヶ崎が実態としてつながって浮かび上がってきました。

 

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この南湖院は今、第一病舎だけが残っていて、今年の4月から建物は未公開ですが「南湖院記念 太陽の郷庭園」として公開されています。開設者が 高田畊安(たかたこうあん)さんで、奥さんが勝海舟さんの孫娘・輝さんです。

南湖院には、国木田独歩さんも入院し、ここで亡くなっています。

茅ヶ崎散策とは離れますが、少し拾い読みの明治女学校で学んだ人々とつながりました。明治女学校出身の女性で『青鞜』と少し係ったかたに作家の野上彌生子さんがいます。相馬黒光さんは、国木田独歩さんの最初の奥さんで有島武郎さんの『或る女』のモデルとされる佐々城信子さんの従妹にあたり『国木田独歩と信子』を書かれています。羽仁もと子さんは自由学園を創立します。

興味深いのは、相馬黒光さんは、明治女学校の生徒と教師の年の近さもある恋愛に懐疑的で、羽仁もと子さんは、学費は免除され『女学雑誌』の仮名つけを手伝いそれを寄宿舎料にあてるという苦学生でこちらも恋どころではなかったようです。若松賎子さんの『小公女』訳文や島崎藤村さんの原稿にも目を通されています。その経験から日本で初めての女性ジャーナリストとなり教育事業へとすすむのです。

その自由学園で学ばれたのが羽田澄子監督なのです。羽田監督の中に生きているのが、羽仁もと子先生の「感じた人は行う責任がある」という言葉で、言葉通りに生きておられます。

最初の散策は、高砂緑地と美術館だけでした。その後の時間の経過で今は訪れたときよりもかなり膨らみました。二回目は八木重吉さんの「あの浪の音はいいなあ 浜へ行きたいなあ」の浜まで行かなければと計画したのです。

 

茅ヶ崎散策(2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

映画『元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯』

羽田澄子監督の2001年の作品です。

1998年に「平塚らいてうの記録映画を創る会」から高野悦子さん(元岩波ホール総支配人)を通じて話しがあり、軍国時代に青春を送った羽田監督が、平塚らいてうさんの『青鞜』の新しい女から平和運動に行き着いた生き方を通じて、反戦への想いがつながりそうである。

平塚らいてうさんらの創刊した『青鞜』は、文学作品としてこれだという優れたものがなく、運動の主軸もよく判らず、らいてうさんと森田草平さんとの心中未遂事件、それを題材にして森田さんが『煤煙』を書き、伊藤野枝さんが『青鞜』の編集を引き受け、その野枝さんは大杉栄さんとともに官憲に虐殺され、『青鞜』も廃刊といったことがばらばらと浮かぶ。きちんと、らうてうさんの生涯を知らないのである。総体を知るうえでは良い機会でした。

まず驚いたのは、らいてうさんは己とはなにかと自問し、禅に出会い修業し、自分を捨てることができたと感じていることです。塩原事件については、森田草平さんはらいてうさんに<あなたを殺したい。私は死ぬわけにはいかない。その後の全てを書かなくてはいけないから。>というようなことを言われ面白いことを言う人だとつき合いはじめ、<死のう>といわれ承知します。らいてうさんは母の守り刀を持ち森田さんに着いていきます。雪の中を歩き途中で森田さんに懐刀を投げ捨てられ、どちらかというと森田さんに嫌気がさし、森田さんを先導するようにあるき出し、捜索のひとに見つけられるわけです。

森田草平さんとは肉体関係はなく、らいてうさんは実際に己を捨てきれるかを試したようにも思えました。森田さんが本当のことを書くのかとおもったら期待はずれで、どうも、らいてうさんのほうが腹が座っていたようです。

本名は明(はる)で、心中事件のあと信州で感じた、雷鳥になって太陽を三回まわった幻想から<らいてう>をペンネームとします。スキャンダルをものともせず『青鞜』を創刊します。お金に関しては、母親が出してくれたようで、この母の娘に対する援助は普通では考えられない関係とおもえます。その後も何かのおりには、援助の手を差し伸べていたように思えます。

マスコミから批判的に<新しい女>と言われると、そうよ私は<新しい女よ>と逆手にとり、<新しい女>とは何かを探しつつ進んで行き、六歳年下の定収入のない絵かきの奥村博史さんと共同生活をはじめ、奥村さんとは最後まで添い遂げるのですから、らいてうさんにとっての新しい女とは、実戦の続きがそうなっただけよということなのでしょうが、そこが面白いです。実行ありきなのです。

『青鞜』は伊藤野枝さんにまかせますが野枝さんが虐殺され、創刊1911年(明治44年)9月から1916年(大正5年)2月で廃刊となります。当時の古い体制に対抗する様々の女性達が『青鞜』を訪れ、その中で考え、女性の問題を外からの異論に対し答えて行きつつ時代を照らし出して闘っていきます。

イデオロギーのなかったことが『青鞜』の弱さでもありますが、自分の頭で考えて行動していくということが、かえって束縛されない柔軟性でもあり、それが、らいてうさんの生き方ともいえますし、継続の無さと批判されるところでもあります。

子どもは産まないとしたらいてうさんは、妊娠すると産むほうを選択し、夫婦別性でしたが、子供が戦争への出征のさい、私生児だと不利益をこうむるとして婚姻届けを出しています。

子どもを産むことによって「母性保護」を考え、市川房江さんと名古屋の紡績工場を見てまわり、綿ぼこりの中で働く十代の女子の労働条件の酷さから「婦人と子供の権利」を考え、しばらく子育てに専念してから、相互扶助の消費組合運動、医療組合運動を支持し、敗戦後の新憲法に明記された婦人参政権に、よその国から与えられたとしてもそれまでの地道な女性たちの運動が実ったことを素晴らしいことであるとし、平和憲法があぶないと思い、1970年にはデモの先頭にたちます。亡くなる1年まえで、85歳で命の火を消します。太陽をまわり周られてて飛び立たれたのでしょう。

婦人参政権が認められて70年しかたっていないのです。今考えると、古い女の時代が70年前なのです。すぐそこであったのです。石を投げられ、罵倒されつつ、それをここまで運んでくれた女性達がいたわけです。主義主張の違いを論じつつここまで運んでくれたことの真摯さにあらためて驚かされます。

<新しい女>として奇異な扱いを受けながららいてうさんは、運動体からしりぞくこともありましたが、自分を捨てれると感じた時、再び表にでて主張することを始めるといった人のように思えました。

らいてうさんの一生を知らない者にとっては、基本線の自伝ドキュメンタリーでした。ここからもっとらいてうさんを知ろうと突き進めれば、その矛盾点も見えてきて次に続く人々への指針となります。

森まゆみさんの『断髪のモダンガール』を読み返しました。「42人の大正快女伝」で、人数が多くてそれぞれの生き方に圧倒されますが、<第三章「青鞜」と妻の座>に平塚らいてうさんについても書かれていて、森さんは岩波ホールで公開されたこの映画を見ていて、この映画に触れつつ書いておきたいとしています。森さんは、調べられているので、この映画にたいしては違和感をおぼえられ、らいてうさん自身にたいしても手厳しい。

世の中を知らなかったお嬢様が、それを見て、この理不尽さを何んとかしなくてはと思って行動している甘さとしても、そういう人が掻きまわさなければ水面下に隠されているものは隠されたままなのかもしれないので、それはそれで意味があるようにおもいます。そういう意味で、映画も基本線として受け入れられました。

それとは別に森さの『断髪のモダンガール』からは、『青鞜』に関係していた人はもちろんのこと、こういう繋がりであったのかと図式的にわかったこともあり、先に読んだときには素通りしたことをかなり埋めさせてもらいました。

羽田監督は新作にたいし「戦争の時代に育った人間ですからとにかく戦争反対の映画を作りたいと思って、同じ世代のインタビューを中心にやっています。」(NFCニューズレター第128号)と語られています。貴重な記録が一つまた残されそれを見て、考える人がでてくるという連鎖の波紋は静かに広がりつづけるでしょう。

監督・羽田澄子/制作・青木生子/撮影・宗田喜久松/美術・星埜恵子/デザイン・朝倉摂/録音・滝澤修/ナレーション・喜多道枝、高橋美紀子

星埜恵子さんの美術にも出会えました。円窓の下に文机のらいてうさんの部屋などがそうなのでしょう。らいてうさんの最初の評論集『円窓より』は発売禁止となり『扃(とざし)ある窓にて』とかえ再刊されています。

茅ヶ崎散策に行った時、らいてうさんの記念碑があり、どうして茅ヶ崎なのか不思議でしたが、今回納得できました。これで発見の多かった茅ヶ崎散策を書きすすめられます。

 

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追記: 2017年7月8日11時30分/7月16日3時 東京国立近代フィルムセンター小ホール(京橋)にて上映します。(アンコール特集)

 

茅ヶ崎散策(1) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

 

映画『山中常盤』

羽田澄子監督の『山中常盤』(2004年)を見る事ができた。取り逃がすところでした。

8月9日~8月28日 『ドキュメンタリー作家 羽田澄子』 東京国立近代美術館フイルムセンター 小ホール

羽田監督の特集だったのですが、7月に大ホールで加藤泰監督の映画を見に行った時は、チラシがまだ出来ていませんでしたし、他の映画館でも置いていませんでしたので、知ったのが23日。25日の『元始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯』と最終日28日の『山中常盤』は見る事ができホッと安堵です。いつまた出会えるかわかりませんので。

創造の情念の色     映画 『山中常盤(やまなかときわ)』

近世に活躍した絵師・岩佐又兵衛の絵巻『山中常盤』全12巻、全長150メートルを映しだし、その絵巻に書かれている詞に新たに浄瑠璃の曲をつけ、浄瑠璃を耳で受けつつ絵巻をながめられるという何とも贅沢な時間なのです。

牛若丸と別れた常盤御前は、平泉の牛若丸から手紙を受け取り、会いたさの一心から侍女を一人だけつれ平泉に向かいます。途中、美濃の山中宿で病となり宿で伏せっているところへ、盗賊が押しこみ美しい小袖など身ぐるみはがしてしまいます。常盤は、下着もないこんな辱かしめをうけるなら命も奪えと叫び、盗賊は常盤の胸を切りつけ殺してしまいます。侍女も殺され宿の主人夫婦はあわれにおもい塚をたてます。

牛若丸は母が夢枕にあらわれ心配になり都に出で立ち、この塚を眼にし、母と同じ宿に泊まり母の最後を知ります。牛若丸は宿の夫婦の力を借り盗賊をおびきだし母の仇をとり平泉に帰ります。数年後、牛若丸は平家討伐の大ぜいの軍勢をひきいた立派な若武者となり山中宿に立ち寄り、母のお墓にお参りし、宿の夫婦に領地を与えます。

最終日ということもあってか、羽田監督が見にこられていて映画の始まる前に少しお話して下さいました。この絵巻を撮ろうとおもったのは『風俗画 近世初期』(1967年)を撮ったとき「風俗画」の面白さを知ったためで、次は絵巻物を撮ろうと計画された。ところがそれから30年近くかかってやっと実現したのである。絵巻の『山中常盤』はMOA美術館が所有していてなかなか許可が下りず、安岡章太郎さんと辻惟雄さんの口添えもあり実現にいたったそうでお二人の名前はエンドクレジットにもながれます。MOA美術館では、常盤御前の胸を刺され血のほとばしる部分の絵は展示のさい残酷なのでみせないそうです。

絵巻物ですから、静かに自分が絵巻を開いていく感覚、きらびやかな衣装、ゆっくり見たい部分を見つめさせ、浄瑠璃が絵の心情を浮き彫りにしていく。すべて羽田監督の演出なのであるが、そのリズム感は自然に共有させてくれ、そのタイミングを持続してくれます。

ときに挿入された自然の映像、絵の常盤御前をおもわせる常盤御前に扮した片岡京子さんの古風なお顔、ナレーションの喜多道枝さんの声、高橋アキさんのピアノ。そして、17世紀の絵巻に負けない現代の古浄瑠璃。

作曲・鶴澤清治/三味線・鶴澤清治、鶴澤清次郎/浄瑠璃・豊竹呂勢大夫/胡弓・鶴澤清志郎/笛・福原寛/大鼓・打物・仙波清彦、望月圭、山田貴之

牛若丸が盗賊を切り刻み、その死体をむしろに包み縄でしばり川まで運び投げ捨てさせる場面は、母のうけた辱しめと殺された怒りの大きさを表しているようにもおもえる壮絶さがあり、絵師・岩佐又兵衛の自分の一族が受けた凄惨さの照り返しともおもえてきます。

始めは常盤御前の旅をつうじての庶民の明るい生活もうかがえるなか、次第にクライマックスにもっていく血の色は、又兵衛の想像のなかにあるぬぐい切れない色だったのでしょうか。今回この映画を見て、近松門左衛門が、『傾城反魂香』の絵師・又平を吃音にしたのは、簡単には言葉で言い表せられない岩佐又兵衛の胸の内を想ってのことだったようにおもえてきました。

この映画を見ることができ、次の作品にかかられているお元気な羽田澄子監督のエネルギーに嬉しい拍手をお送りできてよかった、よかった。このほか羽田監督の見たい作品はまだまだ沢山あるのでアンテナの感度調整をおこたりなくしておかなければなりません。

撮影・若林洋光、宗田喜久松/録音・滝澤修/照明・中元文孝/ヘアメイク・高橋功亘/デザイン・朝倉摂/製作・工藤充