映画『瀬戸内海ムーンライト・セレナーデ』

函館の旅のあと追いをしている。映画、歴史、文学などであるが、同時進行で、さらに寄り道もあり無法状態である。

函館が出てくる映画が、25、6本あって、20本は見たのである。旧作レンタル10本で14日間の貸し出しサービス期間がかさなり、これが強い味方であった。さらに、見たいとおもっていた映画もレンタルする。

その一本が、阿久悠さんの「瀬戸内三部作」の一本であり、篠田正浩監督の「少年三部作」の一本である『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』である。それぞれの三部作に共通する作品として『瀬戸内少年野球団』があるが、個人的内は『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』のほうが好きである。

それよりも良いと思うのが、『少年時代』である。こちらは、東京から富山に疎開した少年と地元の少年たちとの交流を描いているが、少年の世界も美しいことばかりではなく、力関係があり、そのなかでどう生きて行くかが問われる作品である。その人間関係が大人社会とも類似しているのである。ただ過ぎてみれば少年時代は、甘酸っぱい涙とともに短時間で終わるということである。

『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』は、主人公が、阪神大震災のニュースを見つつ、「神戸が燃えている」状態から戦争中、淡路島から空襲で焼ける神戸を見た少年時代にもどるのである。

少年の父親は厳格な警察官である。長男は17歳の時志願兵となり戦死してしまう。次男は父親に反発してぐれている。少年は三男で下に妹がいる。母は、父親に従順ではあるが思ったことを時には主張する。

この5人の家族が戦後の混乱する中、淡路島から父の故郷である九州の宮崎に、長男の遺骨をお墓に納めるための家族旅行をするのである。

神戸からフェリーに乗り九州に向かうのであるが、そのフェリー上での、様々な事情をかかえた人々との交流が、考え方を変えない父親を中心に少年の前に繰り広げられる。

それぞれの過去を抱えつつ戦後を生きるために皆必死である。瀬戸内海には時として地雷が発見されたりもし、戦争が終わっても安全とは言えないのである。そうして中で甲板にしか居場所を作れなかった人々は、楽しくやりましょうと歌をうたったり、映画の弁士が阪妻の『無法松の一生』の映画を映してくれたりする。

雨で中止となると、少年の手の平に映画が映る。阪妻の『雄呂血』である。

弁士の活弁が見る者をひきつける。捕吏に囲まれ立ちまわりの場面。「平三郎はわれにかえりふっと気がついたとき、かれの眼に映じたのはまわりにある無数の屍であった。ああ!おれはついに人を斬った。ああ!おれはついに人殺しになった。」平三郎は慨嘆し刀を捨てとらえられるのであるが、その時の平三郎である阪妻さんの表情の絶望感が何とも言えない。痛快娯楽時代劇とはちがう人気をあつめたのが、この映画のなかの映像でわかった。

『無法松の一生』は、戦中は内務省か戦後は進駐軍から一部カットされ、『雄呂血』は進駐軍から禁止されたチャンバラ映画である。価値観の違いを上からのみ押し付けられる時代の流れである。

父と少年は、船を下りてから映画館で『カサブランカ』をみる。父は真剣に観ていながら少年にはアメリカ映画は嫌いだと言い放つ。

地震がなければ、この連休には瀬戸内海の別府航路を使って九州に入る観光客も大勢いたことであろう。いつの日か、この航路から大きな月を見たいものである。

この映画に、震災と戦争という映像が重なってどちらも残酷な現象であるが、戦争は人が起こす現象である。今回も不眠不休に近い状態の自衛隊の救助活動をみて、あの方達を人殺しとなるかもしれない場所に送り出していいのであろうか、やはりもっと時間をかけ冷静になって考えなければ。

そして、大きな災害を抱え込んでいるこの国は、若い人の力が必要である。非正規雇用という不安定な比率が増加しているような社会体制では土台も不安定である。そのあたりから考えて積み直しをしなければ、大切な減少している若い人の力を使い捨てにしてしまうことになりかねない。

映画のなかの家族の次男は、父親に反発しながら自分の生き方を探し、それでいながら父との約束を守る青年でもあった。

長男の遺骨の入っている骨壺に入っていたのは・・・・

震災の神戸港を歩くかつての少年は、今の人々と過去の人々から何かを受け取ったようである。

阿久悠さんの「瀬戸内三部作」(『瀬戸内少年野球団』『瀬戸内少年野団・青春篇/最後の楽園』『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』)

篠田正浩監督の「少年三部作」(『瀬戸内少年野球団』『少年時代』『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』)

監督・篠田正浩/原作・阿久悠(『飢餓旅行』)/脚本・成瀬行雄/撮影・鈴木達夫

出演・長塚京三、岩下志麻、笠原秀幸、鳥羽潤、吉川ひなの、羽田美智子、高田純次、火野正平、河原崎長一郎、麿赤児、余貴美子、フランキー堺、西村雅彦、竹中直人

 

熊本と新宿をつなぐ作家 漱石・八雲

熊本の被災された方々の避難所にベビーバスが届き、赤ちゃんのお湯につかって満面の笑顔などもテレビみることができるようになった。うれしさが声になって出そうになる。「気持ちいいよね。よかったね。」

まだまだこれからであるが、少しずつ少しずつ、立ち上がる方向に進んでいるように思える。激甚災害制度も適用になったようである。

今回、被災者生活再建支援制度などもどんな制度かを調べた。阪神・淡路大震災があって、そこから制定された法律なのだということを知る。関東で竜巻があったとき、その地域で10世帯以上の住宅全壊被害がないので支援制度適用にならないという報道を目にし、そんな線引きがあるのと憤慨したが、どうもそうらしいのである。

東日本大震災の時も、仲間が家が傾き、住まいを借りるなら補助がでるということであった。その方は、A市在住で、B市の友人がB市にある家を安い家賃で貸してくれるということであったが、A市での賃貸でなければ補助は出せないとのことでA市で捜すこととなった。話しを聴いていた皆が、被災はA市がひどいんだからB市で借りてもいいのにねと言い合ったことを思い出す。

これからそうした手続きや、家族間での話し合いなども加わり大変さが加わるであろうが、少しずつもとの生活を取り戻していただきたいものである。

昨年の夏(7月19日~8月30日)、新宿歴史博物館で『熊本と新宿をつなぐ作家 漱石・八雲』展があった。夏目漱石さんは、小泉八雲さんの後を追うように熊本第五高等学校の教師となり、その後、東京帝大の英文科講師としては、八雲さんの後任である。そして、最後の住まいが同じ新宿であった。

東京帝大では、八雲さんは学生たちに大変人気があり、留任運動もおこったようである。しかし、漱石さんの講義も人気で、和辻哲郎さんなどは教室の外から聴いていた組である。

漱石さんは、熊本で結婚して父親となっている。八雲さんも熊本で父親になっている。漱石さんは、熊本には四年三カ月暮らしていて6回引っ越しをしている。<漱石先生くまもとMAP>があって、それをながめつつ、熊本の街をあるきたいなあと思っていたのである。

この新宿歴史博物館の企画展にはくまモンも来館し、学生服を着て第五高等学校生となって、展示をながめていったようである。

来年の平成29年9月には、「漱石山房」記念館が開館する予定である。くまモンもその時は元気になって来館し、熊本をアピールしてくれると良いのだが。

熊本の子供さんたちも、早く授業が始まって勉強ができるようになると笑顔がふえるであろう。学校の友達は、家族とはまた違ったつながりのある仲間である。

熊本市は路面電車が走っているのだ。3月末から4月にかけて函館に行ってきたが、路面電車が最高であった。熊本の路面電車も乘りたい。路面電車は、街を優しくする乗り物である。

今日は、日比谷と有楽町にある、鹿児島と博多のアンテナショップに寄る。時間がなかったので、九州全体と考えることとした。周りが元気なら熊本や大分も元気になれるであろう。博多織りの綺麗なしおりがあった。

その説明によると「献上博多織」とは、豊臣秀吉の軍師である黒田官平兵衛の長男黒田長政公(筑前福岡藩初代藩主)が毎年3月幕府に帯と反物を献上したため生まれた名前とある。文字でみるとなるほどである。

本屋にも寄って「東京防災」を聞いたが連休あけでなければ入らないとのこと。

地下鉄の中で、ベビーカーの若いお母さんを見て思った。だっこひもかおんぶひもを所持したほうがいいんじゃなかろうか。5年前より若いお母さんの一人でのベビーカーが増えている。ひもさえあれば誰かにおんぶしてもらうこともできるし。そんなこんなを思いめぐらされた一日である。

 

地震の多様性

熊本地震災害。テレビの情報を見つつ、原発は大丈夫。津波も大丈夫。火災も大丈夫。あとは、余震が徐々に治まってくれますようにと願っていたら、もっと大きな地震が起きてしまった。亡くなられた方々には、心静かに手を合わせるしかすべもない。

その後のテレビの地震学者の方々の話をきくと、とにかく複雑で難しい地震のようである。余震が多くて、大きい。

今までの地震とは違うようである。

車中で避難生活をされている方々も多く疲労がこちらにも伝わってくる。赤ちゃんや小さなお子さん、高齢者のおられるご家族やその他事情のあるご家族などは、特に大変である。避難場所の地域を広域にして、希望する方々には、一時的にもう少し精神的にゆったりできるスペースと衛生的に安心できる提供はできないのであろうか。

東日本大震災のときは、県外でも受け入れ体制をとってくれた。

地震の多様性がわかった以上、避難する方々の避難体制も多様性をもって取り組んで欲しいものである。

希望するかしないかは、被災者の選択で、その前に避難先を設定して声をかけるのが、行政や政治の仕事と思う。

がまん、がまん、だけではなく、地震国日本であるなら、より良い方法を見つけ出していかなくては。

地下よおだやかになっておくれ。土砂崩れよこらえてとどまっておくれ。

 

劇団民藝『真夜中の太陽』

書くよりも、読む・見る・行動するが優先していて、そちらのほうがクセになってしまった。多分このあともそうなると思うが。読む活字にもかなり飢えている状態で、補給が必要である。

劇団民藝『真夜中の太陽』は記録しておこう。太平洋戦争末期にミッションスクールに爆弾が落ち、防空壕にいた女学生と先生が亡くなり、一人だけ助かった女学生が、その時をやり直すことができないのだろうかと心にいつもやりきれなさを抱えている。生き残った自分は、亡くなったクラスメートの中に居場所はあるのだろうかと思う気持ちに答えるために教師やクラスメートが彼女の前に現れて当時の様子を共に再現してくれるのである。

戦争中の女学生の話題のなかに、長谷川一夫、灰田勝彦、佐藤春夫の詩「秋刀魚の歌」、そして、驚いたことにジェームス・スチュアートの映画『スミス都へ行く』がでてくる。当時の女学生のあこがれや、食べたいスイーツ、やりたいことなどが明るくそしてひそやかに語られる。今と変わらぬ若い命がはじけていた。

『スミス都へ行く』は開戦前に公開されていて、開戦の日と同時に上映されなくなったり、次の日にはほとんどほかの映画に変更されている。

この映画をいつ見たのかは定かではないが、題名をみて気が進まなかったのを覚えている。田舎から青年が出て来て、都会の娘に恋をして、たらららら~で終わるのであろうと思っていたら、とんでもなかった。地方の若き政治家が都で、政治の腐敗に立ち向かうのである。もちろんロマンスつきである。この若き政治家の雄弁さが日本人には無い素敵さであり、さすがアメリカ映画と思ったものである。それを演じるのがジェームス・スチュアートであるからなおさらである。

ところが、この映画は、想像していなかったくらい、日本の当時のひとびとに賞賛されていたらしい。アメリカでは反米的とみなされていたようだ。『スミス都に行く』にそんな映画の歴史があったとは。

芝居のなかの映画を観た女学生はその素晴らしさを語る。自由に観れたなら、あなたが私であり私があなたなのである。そういう時代に存在していたか、いなかったか。今の時代に存在していたか、いなかったか。今、存在する者の想像の力である。

そして、女学生たちは、五年前の東日本大震災にも重なるのである。

さらにもっと前のそれまでの災害とも。

墨田区観光協会で『向島文学散歩』という小冊子を出している。この小冊子の仕事ぶりは素晴らしい。きちんと調べたことがわかるし、そのまとめかたも簡潔でわかりやすい。向島のゆかりの文士たちの紹介と文学散歩が出来るようになっている。

幸田露伴、幸田文、堀辰雄、森鴎外、永井荷風、正岡子規などで、そこに知らなかった俳人富田木歩が載っていた。このかたは、「大正俳壇の啄木」と称され、1歳のときに高熱から歩行困難となり、貧しさと結核と闘い句作したひとである。関東大震災のとき、友人の新井聲風が避難していた木歩を見つけ出し、身体に縛り付けて背負って火の手から逃げるのである。ところが、橋は焼け落ち、三方から火が迫り、やむなくお互いの手を握りしめ、新井は木歩に許しをこい、一人川に飛び込むのである。過酷である。助けにきたのに。その後、新井は自分の俳句は捨て、木歩の作品を世に残すことに捧げるのである。

時代を越えて試練はつながっている。

『真夜中の太陽』の女学生たちも、自分たちの歌をつくるのである。それが「真夜中の太陽」である。いつも歌おうとして、空襲でさえぎられてしまうが、やっと皆で歌えるのである。美しく力強い合唱であった。

この戯曲のテーマとして選ばれた歌が谷山浩子さんの「真夜中の太陽」である。

若い役者さんたちが、明るさを失わず、その時の一瞬までの命を過去と現代の架け橋となって演じられていた。可愛らしいおばあちゃんの日色ともゑさんは、生き残ったことへの罪悪感を、時には少女となり、時には老女となり、喜んだり、不安になったり、意志をとおされたり、時をもどそうとしたりと、気持ちのゆれをその場に合わせて表現されていた。

生徒に寄り添う女教師・山岸タカコさん。父がイギリス人で母が日本人で日本国籍の生徒に信頼される教師・神敏将さん。事情があるらしいが国家に忠誠な教師・小河原和臣さん。平和な時間のなかで会えた過去の時間。それは大切な時間。

 

作・工藤千夏/演出・武田弘一郎

過去の大切な女学生たち・森田咲子、八木橋里紗、藤巻るも、長木彩、野田香保里、水野明子、加塩まり亜、金井由妃、平山晴加、高木理加、神保有輝美

新宿 全労済ホール スペース・ゼロ  27日(日)まで

 

歌舞伎座三月「五代目中村雀右衛門襲名披露」

中村芝雀さんが、五代目中村雀右衛門さんを襲名される披露公演である。五代目雀右衛門さんが演じるのは、八重垣姫・時姫・雪姫の三姫のうち昼の部で時姫を、夜の部で雪姫をと二姫演じられる。

口上の時に、役者さんのどなたかが、芝雀さんは立役を引きたてられるような相手役を勤められてきたので、今度は自己主張される女形を見せていただきたいと言われていたがなるほどと思わされた。

どちらかというと、ソフトタイプの女形さんである。四代目の雀右衛門さんは、私が歌舞伎を観始めたころはすでに女形の筆頭格におられた。書かれたものから推察すると名子役といわれていた。その後戦地にいかれ、復員されてから立役から女形にかわられ再出発である。ところが出演した映画『佐々木小次郎』がヒットしてしまい映画界でのスターとなられる。しかし、そこからまた歌舞伎界にもどられ、修業に励まれる。大変な努力と勉強をされて持ち前の才能を開花されるのである。年令的には遅い開花となったわけであるが、そうした道筋が、芸のうえで幾つになられても愛らしいお姫さま役を演じられる力を持ちつづけられることとなったわけである。

そうした四代目さんから推し測ると、五代目雀右衛門さんがどんな自分を押し出す立女形さんになられるかも楽しみのひとつである。

『鎌倉三代記』の時姫も『金閣寺』の雪姫も、自分の愛と意志を選択して突き進む役である。と同時に時代物で芝居自体が重い物である。そのため昼夜ともに、明るく楽しい舞踏を組み込まれ、襲名舞台に相応しい公演となった。

『鎌倉三代記』は大阪夏の陣が下地としてある作品である。時姫の婚約者である三浦之助は源頼家を主人としており、時姫はその敵側の北条時政の娘なのである。時姫は一途に三浦之助を想って三浦之助の不信感をくつがえすため父である時政を討つことまで約束するのである。

ところが、これが、三浦之助と佐々木高綱の計略であった。筋を知るとそんな、時姫をおとしいれてしまうわけと三浦之助と高綱にこちらが不信感をもってしまうが、この芝居の下敷きが大阪夏の陣である。三浦之助と高綱は豊臣側で、三浦之助は木村重成を、高綱は、真田幸村をモデルとし、北条時政は徳川家康を時姫は千姫をあてているのだそうである。

冬の陣で堀を埋めることになり、そして夏の陣である。三浦之助と高綱にとっては最後の場面ともいえる。高綱は、モデルの幸村の知略らしき展開を見せる。

時姫は、そんな戦の中でも自分の愛を貫くことだけにかけている。愛しい三浦之助は負傷してもいる。

時姫のしどころが沢山あり、三浦之助が気絶しているのを発見したときは、どうしよう、そうだ薬がある、それを飲ませようと口移しに呑ませるのである。書くと簡単であるが、お姫様である。行動までの心の流れをパントマイム的に表現する。あくまでもお姫様の優雅さで。このあたりが歌舞伎の時間をかけるところである。

この動きの一つ一つに心の内の驚き、動揺、不安、安堵などが含まれ凝縮されている。しかし、時間的には長くなるのである。そうした場面、場面の心もようをつぎつぎと表現していかなければならない。

五代目雀右衛門さんは、これまでの長い舞台歴で培ってきた様々な身体的表現を、丁寧にひとつひとつ気持ちをとらえて身体から発するように演じられていた。

自分が翻弄される立場にあることなど考えられず、ただひたすらその場その場に置かれる自分の気持ちに素直に突き進むのである。そしてどこか、ふわりとした芝雀さんならでわのソフトさが醸し出されていた。芝雀さんから雀右衛門さんへの新たな芸はこれからはじまるのである。

こちらもまだ、芝雀さんの芸の印象が強く、雀右衛門さんと思うまでには時間がかかりそうである。これまでやられなかった役も演じられることによって、新たな印象が増えていくことになりそうである。

 

 

無名塾『おれたちは天使じゃない』

驚いたことに、全国公演の途中である。東京の「世田谷パブリックシアター」での公演は、3月5日から3月13日までで、全国公演の真ん中あたりである。

仲代達矢さん。83歳。役者人生64年。無名塾創立40周年である。

『おれたちは天使じゃない』は映画で観ていて愉しみだったのである。ロバート・デ・ニーロ主演のほうで、これまた驚いたことに、あのハンフリー・ボガート主演の映画もあったのである。ボギーの喜劇は想像できないが、仲代さんの喜劇を近年になってたくさん観ることになるとは、これまた想像していなかったことである。

映画と舞台のほうは、設定がちがうらしい。違っていても良いのである。面白かったというだけの記憶しかないのであるから。芝居のほうは、これまた愉しかった。

訳・演出は丹野郁弓さんである。(作・サム&ベッラ・スピーワック)

囚人が、一般家庭の家の屋根の修理をするのである。話しの様子から、それが当り前のようである。舞台となる南米にあるこの町は、フランス領であった時代で、フランスの犯罪者の流刑地でもあったとか。

雑貨屋で労働している囚人は三人である。ジョゼフ(仲代達矢)、ジュール(松崎謙二)、アルフレッド(赤羽秀之)。このトリオが、屋根の上から雑貨屋の窮状を聴き何んとかできないものかと足りない部分をお互い補いながら動きだすのである。

一番ひょうきんなのが、詐欺師の仲代さんである。なんせ手八丁口八丁で身体もよく可笑しなフェイントをかける。三人でこうすれば良いと以心伝心。それぞれ役目はすぐ実行。結果はよいのかどうか。なんせ訪問者しだいである。三人にとっては当たり前のことが、観ているほうにはとんでも行動であるが、雑貨屋一家は三人とともにクリスマスイブを過ごすのである。

雑貨屋一家も夫婦と娘の三人で、一家に対するトリオの一人一人の担当もなんとなく決まってくる。そして、トリオのそれぞれの人間像も。

三人は自分たちの罪から逆算しつつ、雑貨屋一家の幸福を換算していく。トリオの三角形は時々変形し、危うい形となるが、思いは一つとばかりにしっかり三角形を維持していくのである。

雑貨屋に訪れる人があるたびにトリオは雑貨屋一家のためにどうすれば良いかを考え行動する。訪問者とトリオの関係はいかなる方向に展開するのか。それは観てのお楽しみということで。

パンフレットに囚人トリオと演出家の懇談が載っている。仲代さんは「いつも苦しんでやってるけど、今回は楽しんで・・・・」と言われているが、それを受けての丹野さんの返答に笑ってしまった。丹野さんの後ろに劇団民芸の宇野重吉さんや滝沢修さんが立っておられるのではないかと思えてしまったのである。続きはパンフレットで。これまた読んでのお楽しみとしておく。笑えなかったとするなら、『ドライビング・ミス・デイジー』以来のお二人の、役者と演出家の恐れ多くも拮抗する楽しい火花を察知されていないからである。

『光の国から僕らのために』のアフタートークのときに、民藝の劇団員が駄目なときは丹野さんから吹き矢が飛ぶとの報告があった。丹野さん「本物じゃありませんよ。」と言われてげんこうを口にあてふっと空気を飛ばされた。丹野さんの愛の激の吹き矢とおもわれる。

観劇者は申し訳ないことに役者さんの苦労は感ぜずに笑わせてもらった。

『バリモア』を観て、アル・パチーノを思い出した。かつてアル・パチーノの初監督作映画『リチャードを探して』を前売り切符を買いながら見逃したのである。さっそく手に入れたがまだかたずけていなかった。『ヴェニスの商人』も手にいれたので、今度こそ見てしまわなくては。

青い縞の服のトリオは、東京が終わると、どこの屋根の上であろうか。演劇一家がお待ちかねであろう。

他の出演者・神林茂典、西山知佐、松浦唯、菅原あき、平井真軌、吉田道広、大塚航二朗

 

 

 

国立劇場 三月新派公演『寺田屋お登勢』

初めての『寺田屋お登勢』の観劇である。

一軒の船宿を舞台に、幕末の歴史をしっかりと捉えて時代の流れを表現している作品が新派あったとは驚きであった。作は榎本滋民さんでなるほどとおもいいたる。

若き歴女がみても、面白いと思うのではなかろうか。薩摩と長州の主導権争い。同じ藩のなかでの反目と殺戮。その中で登場する坂本龍馬。そんな若き志士たちが立ち寄った伏見の船宿。その船宿の女将お登勢。お登勢は龍馬からお龍をあずかり、龍馬とお龍の祝言をととのえる。三人の男女の微妙な関係が軸の一つに入ってくる。

坂本龍馬の中村獅童さんがいい。龍馬は奔放なところがあり身なりなどかまわず即興で歌をつくったり、自分の考えをどんどん発言していく。このテンポと野放図さは、難しい。やりすぎるとわざとらしく、うそっぽくなってしまう。獅童さんの龍馬は、そのあたりも違和感なく受け入れられたし、お登勢の水谷八重子さんとのやりとりも、その場その場で変化をもたせた。

お登勢の八重子さんは、船宿に固定されている自分の身と、上り下りと行き来する若き志士たちの未来に向かってすすむ純なところを比較して、若者たちをがっちりと受け止める。身内のように話す龍馬のことが可愛く、時として語る龍馬の大きな計画に対し、男としての魅力にもひきつけられていくさまが、本人の無自覚のところでふくらんでいく。

そんなお登勢を揶揄しにくる同業の女将の高橋よしこさんとの掛け合い。養子でないのにそうおもわれている夫の立松昭二さんの微妙な立場。お登勢の心の内をのぞいた長州藩士の田口守さんとのやり取りなどそれぞれの人との関係もお登勢の人間性をあらわす。

お登勢は、お龍の瀬戸摩純さんを龍馬の嫁としては認められない。だが、自分には出来ない行動力にショックを隠せな。龍馬は、自分はいつどうなるかわからないとして嫁など考えられなかった。瀬戸さんのお龍は、龍馬が自分が死んでもお龍は負けずに生きて行く女であると思わせるようなお龍像で、龍馬が嫁とすることに納得できる。

納得のいかないお登勢。彼女が正直に向かい合えるのが龍馬の姉の乙女の英太郎さんで、お登勢の心の中の乙女は花道のスッポンからあらわれる。設定の仕方もよく、好い出であり台詞もよい。

時代変革の旅のなかでの母であり姉であり、お登勢のほのかな女としの魅力も感じていた龍馬は、あっけなく飛び立ってしまう。

龍馬の死を知ったお登勢は花道で熱唱する。八重子さんならではの締めである。

最初の音楽からして、時代劇映画がはじまるような高揚感である。新派はまだまだ発掘されるべき作品があるようである。月乃助さんが入団したことによって、いずれは『寺田屋お登勢』も新派だけでできるようになるであろうし、殺陣のあるものも形となりえる。

今は無き船宿の様子など、資料館にあるジオラマが、生き生きと動き出し飛び出してくれた楽しさがある。犬まで本物に代わる。獅童さんの愛犬が出演である。

新派はメロドラマ的イメージがあるが、なかなかどうして、底辺の女たちもどっこい浅はかな涙は流さないのである。そのあたりがわかってもらえれば、次世代のひとにも時代をこえて、現代でも通用できる全うな生き方の強さがあったとして観て貰えるのではなかろうか。

八重子十種『寺田屋お登勢』

演出・成瀬芳一、齋藤雅文

27日まで(10日、11日は休演)  開演時間12時

国立劇場 三月新派公演 『遊女夕霧』

新派の国立劇場での公演は15年ぶりとのこと。『寺田屋お登勢』で < なにをくよくよ川端柳 水の流れをみてくらす > の都々逸がでてくるが、新派の柳は時代の流れとともに様々ざまな揺れ方を通ってきた。新派だけではなく、演劇にたずさわる全体がそうであり、劇団という組織があるとその動向が検分されやすい結果でもある。

今回の公演は『遊女夕霧』と『寺田屋お登勢』である。

『遊女夕霧』。波野久里子さんの夕霧は二回目である。記憶がさだかではないのであるあが、そのとき、惚れた男への女のこんな貫き方があるのかと新鮮であった。

捜したらパンフレットがでてきた。2004年の4月である。第一場<吉原「金蓬莱」遊女夕霧の部屋>の場は、印象が思い出せないのであるが、第二場<深川西森下、円玉の家の二階座敷>の場は、吉原から場所もがらっとかわり、夕霧は円玉の家へ何をしにきたのであろうとじーっと夕霧の波野さんを見つめていた。

今回は、流れがわかっているので、夕霧が惚れた男はどんな男かと、第一場からじーっと見つめた。惚れられた男は呉服屋の番頭の与之助の月乃助さんである。月乃助さんは一月に劇団新派へ入団したということで、新派の古典といえる作品で相手役をするのは初めて観る。

大正十年頃の吉原の様子がえがかれる。酉の市の賑やかな日に、馴染みの客が遊女に「積み夜具」の贈り物をし、それが遊女にとっては鼻高々なことであった。夕霧も、与之助にお金持ちから贈られるより与之助のような普通のひとから贈られたのが一層うれしいと喜ぶのであるが、与之助は金銭的に普通の人であった。やはり、お金の工面から店のお金を遣いこんでいた。

皆に祝われ、いそいそとお酒の用意をする夕霧。やはり新派ならではの遊女の動きである。それに対する与之助のちょとした陰り、着物の着替えの間など流れはスムーズである。

与之助の苦難を自分にも分けて欲しいという夕霧。ここまでは、吉原という世界での男女の恋である。お互いの情をだしつつ様式美的に進む。月乃助さんは歌舞伎役者であっただけに自然さがいい。

第二場は夕霧が、吉原を出ての行動である。円玉は、かつては講釈師であったが、今は講談などの速記をしている。円玉は与之助の被害にあったひとである。そこへ夕霧はお詫びに来たのか。それだけではなかった。

前科者となる前に、与之助を助ける方法を、夕霧は検事から聞いたのである。だました17人から、そのお金は与之助に貸したのだという借用書を17人全員からもらってくれば、罪とはならないと教えられた。

遊女の姿から一変した姿で頭を下げる夕霧。波野さんのその座り方、卑屈さ、断られた時の啖呵のきりかた、円玉のおかみさんに止められても興奮する姿。捨て身の女の乱れが見どころである。

そして、おかみさんの口利きで借用書を書いてもらってからの与之助との出会いを語るとき、こちらも与之助を思い描く。

おかみさんが、夕霧にお茶ではなく、コップ酒をもってくるその事情をわかっての気の利かせ方。円玉夫婦の芸人であったゆえの情の表し方を柳田豊さんと伊藤みどりさんが手堅くおさえる。

この作品の作家は川口松太郎さんで、実際に円玉の弟子になったことがあり、夕霧のモデルもいるのである。その現実に体験していて、リアルと様式美のバランスの作品として新派に提供しているのである。

遊女であるゆえの意気地と情を、その生活ゆえの生態を匂わせつつ波野久里子さんならではの夕霧として演じられ、観客を泣かせてくれた。

円玉の家の二階から席亭<常盤亭>が見え、そこに灯りがともる。検索して調べたところ、永井荷風の随筆「深川の散歩」に<常盤亭>が書かれている。セリフのなかにもでてきて、こうした忘れらてしまう町のようすなどが散りばめられているのも新派をみる楽しみである。

花柳十種の内『遊女夕霧』

演出・大場正昭

 

加藤健一事務所『Be My Baby いとしのベイビー』

2013年に公演され、同じ組み合わせでの再演である。再演でもその可笑しさは軽減されない。簡単なあらすじは2013年の感想に書いておいた。                 加藤健一事務所 『Be My Baby いとしのベイビー』

先回は笑いと同時にちりばめられている心づいを受け取ってはいたが、笑いが先行していた。今回は、笑いを思い出しつつ、ジョンとモードの相手を気づかう言葉もキュンとくる。それが、相手のいないところで発露されたりと、手が混んでいる。

ジョンとモードは同じ深い傷をそれぞれ所有していた。モードはベイビーを抱きつつ、戦死した夫のジャックの眼の光をベイビーの中にみつける。そして、< あなたにジャックのことを話してあげる。話すことがジャックが生きていた証だとジョンがいうから> ジョンのモードに対する心づかいがこういう発露のしかたをする。

そんなジョンの好きな歌が、エルビス・プレスリーの「Hound Dog」。モードは、ジョンのために、レコードとポータブルレコードプレーヤーも買って来る。< それを聴いて天国にいった気分になりなさい > 心筋梗塞で倒れたジョンにむかって。

こうした逆説的笑いのやりとりの応酬が、加藤健一さんと阿知波悟美さんの間の良さと台詞術と演技力が見事に合体されていく。

スコットランド育ちのジョンとイングランド育ちのモードの生活習慣の可笑しさ。それが二人でアメリカのサンフランシスコへ行って、ベイビーが加わって変化していく可笑しさ。

題名が1963年にヒットした、ザ・ロネッツの「Be My Baby」で、この劇の時代設定も1963年と設定している。「蛍の光」や「故郷の空」の原曲はスコットランド民謡であ。その音階ではなく、ジョンが好きなのはプレスリーである。プレスリーは、アメリカとイギリスの若者たちに圧倒的に支持された。時代の流れを歌で表しつつ、イングランドとスコットランドとアメリカという設定がでてきて、さらに、ジョンとモードに見守られて育った若いクリスティとグロリア夫婦が、ジョンとモードとは相対的に違う位置に立ち、ジョンとモードを照らす役目もする。

時代、場所、世代、経過そして誕生がきちんと描かれているのである。

その状況のなかで交差する笑いが豊富に用意され、観客にとっては嬉しいかぎりであるが、それでいながらキュンもきちんと入れて、なんとも心憎い。

この複雑さを、笑いの中でハッピーにはこんでいく腕は、作、訳、演出、役者、舞台装置、挿入歌の上手さにある。

クリスティの加藤義宗さんとグロリアの高畑こと美さんは、初演の時に比べると時間経過の役者経験が自然な演技へとつながってきている。

加藤忍さんの8役と粟野史浩さんの9役、この設定発想にもあらためて脱帽である。

このお芝居これから全国ツアーにお出かけだそうで、笑いの渦が移動していくのであろう。笑ってキュンとなってハッピーに!

 

作・ケン・ラドウィッグ/訳・小田島恒志、小田島則子/演出・鵜山仁/舞台美術・乘峯雅寛/出演・加藤健一、阿知波悟美、加藤忍、粟野史浩、加藤義宗、高畑こと美

 

 

旧東海道五十三次・どまん中<袋井宿>から<見付宿><浜松宿>

東海道五十三次の真ん中の宿場が27番目の<袋井宿>である。やっとどまん中の宿場へたどり着き、<浜松宿>を通過することができた。

<袋井宿>は、袋井市が東海道宿駅制度開設400年(2001年)に東海道周辺を整備し、今年は、<袋井宿>開設400年ということである。

<袋井宿>近くに来た途端に松並木が目に優しい。土塁も残っていて旧東海道を満喫できる。案内板には、北斎や広重の浮世絵が配置され、唐獅子牡丹を描いた丸凧をあげている様子などが楽しい。風景の遠近、人々の感情。いつもながらの風景画であり、風俗画であり、広告画であり、多様な顔をみせてくれる。

 

 

 

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本陣や脇本陣などの建物は残っていないが、新屋秋葉燈籠が石燈籠でなく瓦ぶきの手の込んだ彫刻をした屋形燈籠である。街道には道標として常夜灯があるが、その石灯には「秋葉」と名前の書かれたものもあり、火事から守るという意味もあるようで、袋井には火伏せの神様をまつる「可睡斎」がある。一里塚も原寸大で復元し立派な榎がのびやかに空に向かっている。

 

 

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2001年にきちんと史実を調べて、堂々と<どまん中>と声をあげた感がなんともしっかりとしていて気持ちがいい。色々な現時点での宿場をみてきたが、袋井の現宿場は観光だけではない気持ちがこもっていると友人と賛同しあう。

宿場には「東海道どまん中茶屋」があり、年中無休で湯茶の接待をしてくれる。風の強い日で、炭火の炉の温かさが心地よい。こうした基礎をきずかれた人々が高齢化していくのが気がかりである。とにかく、どこもかしこも袋井は胸をはってどまん中を主張している。

 

 

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次が<見付宿>。ここは、歌舞伎と関係するものが多かった。「見付天神」(矢奈比売神社・やなひめ)は、東海随一の学問の神様である。となれば当然菅原道真公である。そして、鳥居のそばにはりりしき犬の悉平太郎(しっぺいたろう)の像があり見付天神の後方には、「霊犬神社」があり霊犬悉平太郎が祀られている。

 

 

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私はしっぺい太郎の話しは知らなかったのであるが、友人がしっかり日本昔話をかたってくれた。妖怪が「信濃のしっぺい太郎はいないな」というところがおもしろかった。信濃と遠州をつないでしまうのである。

そして、境内には「十二代目市川團十郎丈 お手植えの梅」の紅梅があって小さいが見事に咲き誇っていた。どうしてここで植えられたのかはわからない。

見性寺には白波五人男の頭目、日本左衛門のお墓もあった。見付に入るところに遠州鈴ヶ森があり、無縁墓碑があった。見性寺の説明板によると左衛門は京都町奉行所に出頭し、江戸の牢獄に移され、さらに遠州見付宿にうつされ町中引きまわしのうえ見付宿三本松の刑場にて処刑されるとある。

 

 

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あらゆることに優れていたようだが、少年時代より身持ち不埒で勘当され無宿人となったようである。

身体は見性寺に首は金谷宿宅円庵に葬ると伝えるとある。尾張国上宿に生まれ父の仕事の関係で金谷宿に移っている。享年29歳。

宿場から離れるが天竜川のそばが、『熊野』の熊野御前の郷里だそうである。渡船場跡の近くの「行興寺(ぎょうこうじ)」には、お墓もあるらしいが、渡船場跡までは行ったが時間配分もあるので、すぐ引き返し新天竜川大橋を渡った。

 

 

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関東は大井川、遠州は天竜川。西に入ったという感じがする。

2泊3日。向かい風ではあったが晴れてくれたので予定より一歩進むことが出来た。行き帰りとも富士山はくっきり姿を見せてくれた。

 

 

天竜川を渡って浜松宿までの旧東海道は往時の面影はない。標柱の写真だけは載せておく。