『夢酔独言』(勝小吉著)(2)

小吉さん、あちこちうろうろして、やっと江戸に帰ることにする.

山の中で崖より落ちて大事なところを打ってしまいながら箱根に向かう。関所のことは出てこないが箱根から、三枚橋へ着いているから手形を持っていたのでろうか。書かれていない部分が気になる。小田原では漁師の家で漁師の仕事を手伝い息子にと請われるが、こんなことをしていてもつまらないとお金をちょっと拝借し江戸に入る。ところが鈴が森、高輪、愛宕山、両国橋、回向院の墓場と家の敷居が高く何日か帰る時間を伸ばしやっと家の敷居をまたぐ。四カ月ぶりの帰宅である。

21歳の時の出奔は、吉原に寄ってからである。剣術修行もしたが他の修行もしていたわけである。やはり、一泊目は藤沢である。昔の人は朝の出立が早い。朝4時である。先日、藤枝から途中までバスなので、朝一番のバスで初めて朝6時出立としたら予定より早く目的地に到着したので、早朝出立は検討の余地ありである。

さて、小吉さんは小田原で世話になった漁師の家により、盗んだお金も返し、三枚橋まで送られている。仲間にお酒もご馳走し、きっとにぎやかにあの道を歩いたのだろうと想像する。手形がないので、剣術の道具一式と雪踏(せった)のいで立ちで、剣術修行だからお通し下されと言って通してもらう。夜である。そこから三島に行く。真っ暗でなんぎしたとあるが、もっともな話である。三島宿に着いたのが夜中の12時である。

三島宿では、ひとり旅は泊められないという。問屋場(とんやば)に交渉する。ここは宿の事務手続きをするところである。そこでも断られるので、水戸のはりまの守の家来とうそをつき、脇本陣にとまる。旧東海道を歩くときは、宿場に入るとこの問屋場跡、本陣跡、脇本陣跡などを探すのである。小吉さんのお陰で流れが分るし、小吉さんもどうすれば人が動くかを学んでいて、堂々と嘘をついて押し出すのである。かごまで出してくれる。

14歳の時と大きく違うのは、剣術を身につけたことである。「なんぞあったら切り死に覚悟して出たからは、なにもこわいことはなかった。」

大井川である。96文川になっている。川の水位によって渡しの値段が違うのである。私が見た説明板では、一番深いのが人の脇のしたで94文、約2820円であった。96文川とは増水で渡れないということである。名前が功を奏し水戸のはりまの守の家来はきちんと渡っている。蓮台がついた渡しである。4人が担いだとして、前を4人水よけをしていて、荷物は別の人足が担いで運んでいる。川越人足は、12、3歳から先輩のお茶出しや食事の世話などの雑用をやり、15、6歳で荷物を運び、それから一人前に人を運べるようになる。14歳の時の小吉さんは、大井川のことは何も書かれていないが浅いときは、大人の股下くらいであるから自分の力で渡ったのかもしれない。

川止めの最高は28日ということである。川止めとなると、宿が幾つか前の宿場まで宿泊客で埋まり相部屋となる。そこを狙うゴマの蠅もいるわけで、旅人にとって川止めは大変である。大井川に架かる大井川大橋は渡る時間12分であった。

小吉さんそこから掛川宿に入っているが、私たちは掛川まで入れなかったのである。この前に<小夜の中山>があり、東海道の三難所の一つであった。七曲り坂は、日光のいろは坂の徒歩バージョンと名付けたが、小吉さん元気であれば、難所などありはしない。

掛川から遠州の森町の昔の知り合いのところで逗留していたが、甥が迎えに来て江戸へ帰ることとなる。遠州森は、実在したかどうかは判らないが森の石松さんの生まれ故郷である。そして小吉さんは江戸にて座敷の三畳の檻の中である。

これにて、小吉さんとの東海道の旅も終了である。

舟木一夫さんの芝居『気ままにてござ候』は、この後からの話となるのであろう。斎藤雅文さんの脚本である。

『夢酔独言』(勝小吉著・勝部真長編)のまえがきに、坂口安吾さんの『青春論』『堕落論』、大仏次郎さんの『天皇の世紀』に『夢酔独言』に触れているとする編者の一文も好奇心を誘う。

 

 

『夢酔独言』(勝小吉著)(1)

新橋演舞場の12月『舟木一夫特別公演』のチラシに、勝海舟の父である勝小吉の自伝『夢酔独言(むすいどくげん)』とあり、視線がとまった。歌舞伎でも、勝小吉をモデルとした、真山青果作の『天保遊侠録(てんぽうゆうきょうろく)』がある。今年の6月に歌舞伎座で上演されている。

勝海舟さんの『氷川清話』が面白かったが、父・小吉さんの『夢酔独言』がこれまた面白い。 勝海舟 『氷川清話』

勝海舟ありて、この親・勝小吉あり。勝小吉ありて、この子・勝海舟あり。と言えるであろう。とにかく好き勝手に自分の思うがままに生きた人で、自分のような生き方はするなと書き残したのが『夢酔独言』である。小吉さんは自分から渦を起こしていて、海舟さんは外からの渦の流れを見つめつつ、思うように生きた人である。人の見分け方は、同じ目を持っているように思える。

一番面白かったのは、やはり東海道中である。14歳で江戸から飛び出す。21歳で再び飛び出し、戻ったときには、座敷の檻の中の人となる。その三年間の間に字を覚えるのである。14歳の時は、何も知らずに世間に飛び出し、21歳の時は旅の経験も人生経験も積んでいるから、その道中の違いが面白い。

14歳の時は先ず江戸からでて藤沢で泊まっている。50キロは歩いていることになる。次が小田原、箱根の関所は旅人から言われお金で手形を手に入れる。その親切な人に浜松の宿で着ぐるみ奪われてしまうのであるから、このごまのはいは最初から手形を用意していたのかもしれない。

宿の亭主が柄杓(ひしゃく)を一本くれて、これに銭を一文ずつもらって伊勢参りをしてこいという。<おかげ参り><抜け参り>というのがあって、ひしゃく一本持って歩くと銭や米を恵んでもらえるのである。使用人が主人に黙って、子供が親に黙って伊勢参りに出かけ、お金がない場合はほどこしを受けつつ行くのである。小吉の場合は、上方へ向かったのであるが、ごまのはいに会い伊勢参りとなる。

伊勢の相の坂で、同じこじきから龍太夫という御師のところへ行けば留めてくれるといわれる。『伊勢音頭恋寝刃』の世界につながる。10月国立劇場の『伊勢音頭恋寝刃』の序幕に<伊勢街道相の山の場>があった。<間(あい)の山>とも書かれ、外宮と内宮の間で、この道にお杉とお玉という二人の女芸人が間の山節を歌って人気を得ていたらしい。お杉を蝶紫さん、お杉が梅乃さんが演じられていた。御師のことなど筋書に詳しく載っていたが、先に進まないのでこれくらいにする。

小吉さんが乞食が教えてもらった江戸品川宿の青物屋大阪屋の名は、御師にとってお得意さんであったのであろう。その名によって良い待遇を受けお札とお金をもらう。しかしまた乞食となり、府中(静岡)の宿へ着く。ここで、馬の乗り方を披露する。初めて小吉さんが旅で自分の技量を見せた場面である。宇津ノ谷峠の地蔵堂で寝たり、毬子の賭場へ連れていかれたりとこちらが歩いたところが次々と出てきて、風景が浮かび、夜の暗さが想像できて可笑しいやら、度胸の良さやら、体を壊し水杯の状態やらといやはや大変である。

今まで、生きてきた体で覚えたことを全部出し切り、そこに新しい体験を加えて、ぎりぎりのところを生きているのに、嘆きや弱音はない。死と隣あわせなのに、生しかない。そして人の意見はよく聞く。それでいながら、絡めとられずに、自分の生き方をつき進んでいく。

 

 

邦楽名曲鑑賞会『道行四景』

国立劇場で、<邦楽公演>というのがあり、拝聴させてもらった。邦楽とは、日本の伝統古典音楽ということで、敷居が高い。観て聴いての方は、どちらかが観客を助けてくれるという感じであるが、詞と音楽(楽器)だけとなると、退いてしまう。一中節、宮薗節、義太夫節、清元節の競演である。

ではなぜ行くことになったのか。夏に歌舞伎学会で「演劇史の証言 竹本駒之助師に聞く」という企画があった。そこで初めて女流義太夫竹本駒之助(人間国宝)さんの存在を認識したのである。申し訳ないが、女性の浄瑠璃は聴きたいとは思わなかった。そのためチラシなど目にしても、手に取ることはなかった。今思うに、何と勿体ないことをしていたのであろう。

学会では始めに駒之助さんの語りの映像があり、ご本人のお話(聞き手・濱口久仁子)があった。映像での声の艶と、女性でも浄瑠璃は大丈夫であるということを知らされた。そして、ご本人が、魅力的なのである。気取りがなく、修行のこともさらりとテンポよく語られ、後輩に対しても、小気味よくもう少し頑張ってもらわなくてはとからっと激をとばされる。人間国宝のかたにこんな言い方はと思われるかもしれないが、茶目っ気もおありになる。これは生でお聴きしなくてはと思っていたら、10月の国立劇場での<邦楽名曲鑑賞会>まで空いてしまったのである。

駒之助さんは、「道行初音旅」で、『義経千本桜』の静御前と狐忠信との道行である。狐忠信の戦さの様子を語る部分もあるが、女性であっても全然違和感がなく、独特の絵巻ものを繰り広げるような面白さがあった。三味線も勢いがあり、どこかに潜んでいた固定観念も払拭である。

『道行四景』ということで、一中節「柳の前道行(やなぎのまえみちゆき)」、宮薗節「鳥辺山(とりべやま)」、義太夫節「道行初音旅(みちゆきはつねのたび)」、清元節「道行思案余(みちゆきしあんのほか)」の四分野の浄瑠璃の競演である。詳しくはわからないのであるが、浄瑠璃も枝分かれしているようなのである。このあたりも、邦楽のややこしさであるが、『ワンピース』ではないが、自分流の楽しみ方をさせてもらった。

はじめに、橋本治さんの「未知への憧れ」と題したお話しがあり、これも楽しみの一つに入っていた。橋本さんは、ジャンルが広く、なんでもござれのかたである。任侠映画の道行きから、水杯の旅のことなど楽しく話してくれ、思わず知らないお隣の人と顔を見合わせて笑ってしまった。

こちらも、小分けに東海道を歩いているので、不安が伴ったことがよくわかる。何があるかわからないのである。新幹線でぴゅーと行ったり来たりするわけではないのであるから、行ったところで、動きが取れない状態もありえるので水杯ともなるであろう。東海道は江戸時代に整備された道で、それまでは、伊豆半島で行き止まり、そこから船で房総半島に渡り、そこから関東に入ってくるのである。

そうなのである。頭の中の街道が、東海道になっているが、時代によってはそれも消さなくてはならないのである。憧れに伴う不安の入り組んだかなり感情起伏のある道行である。

「柳の前道行」には、田子の浦、富士川、鳴海潟、熱田の宮、亀山、関などの詞がでてきて移動がわかる。「鳥辺山」は「鳥辺山心中」があり心中道行とわかる。「道行思案余」は、お半、長右衛門の親子差の年の離れた心中道行である。どうこう説明はできないが、それぞれの旅の世界に入っていたことだけは確かである。

一中節は宇治紫文(人間国宝)さん、宮薗節は宮薗千碌(人間国宝)さん、清元節は清本清寿太夫(人間国宝)さんと最高級の方々の浄瑠璃を拝聴させてもらいながらもそれがどう凄いか言えないのであるから困ったものである。それだけまだまだ、汲み取る宝水が豊富にあるということである。

こちらの旧東海道の道行は、大井川歩道橋を歩き大井川を越し島田から金谷に入れた。時間的にゆとりができ、帰りには島田の蓬莱橋を往復し、大井川を三回歩いて渡ることとなった。現実の旅の未知への憧れと不安は満足感と疲労感でぼんやりしている。

 

劇団民藝 『大正の肖像画』

新宿区落合三記念館散策  この散策で、画家・中村彝(なかむらつね)さんを近く感じることができ、劇団民藝公演『大正の肖像画』も忘れずに観ることができた。

肺結核が死の病の頃で、多くの美術家が若くして亡くなっている。中村彝さんはそうした人々の中でも、20年間病と共存しつつ、かつ肉体の中に潜む病と精神の分離との葛藤と闘いつつ画布に向かった人である。その生き方を劇作家の吉永仁郎さんは、大正という時代背景を、中村彝さんを取り巻く人々を通して構成されている。

新宿中村屋サロンの空気の中で絵を描き、中村屋の長女・相馬俊子との愛と別れ、そこに「カーサン」と呼んでいた中村屋サロンの中心的な存在の相馬黒光との複雑な関係を絡めている。

吉永仁郎さんの、相馬黒光さんと中村彝さんとの恋愛感情の設定には、荻原守衛(おぎわらもりえ)さんと黒光さんの関係を反映させ、そのことで芝居にアクセントをつけ、下落合で彝さんの身の回りの世話をしていた、岡崎キイさんという老婦人との対比にもつながる面白さを加えた。

相馬黒光さんは、中村屋の創業者・相馬愛蔵の妻で、本名を<良>というのであり、どうして<黒光>というのか不思議であったが、パンフレットの説明に「女学校時代から、芯が強く向上心のある女性だった。「黒光」はあふれる才気(光)を目立ち過ぎるため少し黒く隠しなさい、と女学校の校長が命名した筆名。」とあり疑問が解決した。

彝さんの絵16枚をスクリーンに映し出し、どういう想いでその絵を描いていたのかの流れも加わり、彝さんの絵を堪能できるようにもなっている。下落合のアトリエに喪服を着た老婦人の絵の題名が「老母の像」とあり、その女性が世話をしてくれていた人で、<老母>としたところが印象的であったが、そのあたりも、吉永さんは最後に締めとしてもってこられた。

<中村彝作品 劇中映写画像>として、その作品がどこの美術館にあるのかを書かれたプリントも配布してくれ、中村彝作品がきちんと紹介されているのが嬉しい。

登場人物/ 中村彝(みやざき夏穂)、相馬俊子(印南唯)、中原悌二郎(小杉勇二)、エロシェンコ(千葉茂則)、相馬良(白石珠江)、大杉栄(境賢一)、神近市子(河野しずか)、宮田巡査(松田史朗)、古川巡査(梶野稔)、山村巡査(岡山甫)、岡崎キイ(塩屋洋子)、相馬愛蔵(伊藤孝雄)

中村彝さんは、水戸藩士の家系で兄二人と同じように陸軍幼年学校に進むが、結核のため退学する。次兄は在学中に事故で亡くなり、長兄は日露戦争で亡くなっているから、病気にならなければ、違う形で亡くなっていたかもしれない。そして絵と出合い、美術家の仲間が出来、生命感にあふれた相馬俊子と出逢うのである。

中村屋サロン美術館に相馬黒光さんが晩年になってからの聞き書き『碌山のことなど』の小冊子があった。芯のしっかりしたかたで、自分の言いたいことは冷静な感性で語っている。碌山とは、荻原守衛さんが、夏目漱石の『二百十日』の主人公の碌さんの自由さに共感して自分に使ったのである。碌山が外国から戻ったとき「先ずかけつけてきたのは、中村彝さん、中原悌二郎、広瀬常吉の三人で、生命の芸術とは何だろうといふわけでした。」とある。作品の中にそのものの本質、命を表出するにはどうしたら良いかを求めていたことが想像される。中村彝さんにとっては、その描く対象も人も俊子さんであったわけである。

それが破れ、実業家・今村繁三さんの援助で下落合にアトリエを持つのである。そしてついに、37歳でその生命は閉ざされてしまう。

新劇の役者さんの細かい手順の演技をみるのも刺激になる。その日常の動きに人物の投影がなされて生命を宿すからである。そこにフィクションがあっても、そういう事があれば、この人物はこう考え、こう動いたであろうと共感できるからである。

11月、友人達が長野善光寺に行っていないから信州方面に行きたいとの希望があり、それでは穂高の「碌山美術館」まで足を延ばそうと思っている。

長野~松本~穂高~福島~山形(1) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

長野~松本~穂高~福島~山形(2) | 悠草庵の手習 (suocean.com)

『大正の肖像画』公演 新宿・紀伊國屋サザンシアター 10月20日~11月1日

 

函館にある中原悌二郎の墓

 

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国立劇場 『研修発表会』『伊勢音頭恋寝刃』(2)

『研修発表会』の『伊勢音頭恋寝刃』は<古市油屋店先の場><古市油屋奥庭の場>である。若い役者さんだけではなく、いつもは脇を固めておられるベテランの役者さんも大役に挑まれる。

福岡貢(中村亀鶴)、仲居お万(中村鴈之助)、油屋お紺(中村梅丸)、料理人喜助(松本錦弥)、今田万次郎(中村春之助)、油屋お岸(中村春希)、油屋お鹿(中村東志也)、仲居千野(中村蝶紫)

春之助さんの万次郎を見たとき、〔つっころばし〕というのは難しい役どころだと思った。これは時間のかかる役どころである。貢は〔ぴんとこな〕といわれる型で、柔らかいのであるが、武士の一面をものぞかせるといった役で、亀鶴さんは強さの中に柔らかさがあるといった配分であった。梅丸さんのお紺は、幼さが見受けられ若すぎると思ったが、貢に愛想づかしをするあたりから、乗ってきて不自然ではなくなっていた。鴈之助さんのお万と亀鶴さんの貢とのかけひきも体形的に立派なので上手く見せてくれる。

梅丸さんが、折り紙を貢にぽんと投げるところなどは、幼さが却ってよくやってくれたと思わせる。名刀・青江下坂を抜いてからの亀鶴さんは、妖刀に操られているといった感じを強く出し、刀に引っ張られる感じで、それはそれで面白かった。一回の舞台であるからか、全てを出し切りたいとの思いが強いであろうが、動きは丁寧に次第に芝居に乘って来る感じで邪念なく演じられていたようで、気持ちのよい舞台となった。それぞれが、自分もモチベーションに力を尽くし、それが芝居の形を上手く作り上げ見応えある舞台となった。

『通し狂言 伊勢音頭恋寝刃』は序幕から初めてであるから興味津々である。油屋のお岸(梅丸)等を連れての今田万次郎(高麗蔵)の花道からの出、放蕩好きの頼りない万次郎を高麗蔵さんがよく表している。この後も、そんな頼りなさでいいのと思わせる程のつっころばしである。将軍家に献上する名刀・青江下坂は質に入れ売り払われ、折紙(おりがみ・刀の鑑定書)は持っているから、刀を捜すようにと奴・林平(亀鶴)にいうが、その折紙も侍に化けた阿波の商人に騙し取られてしまう。

伊勢の御師で、万次郎の叔父・左膳(友右衛門)の配下である貢(梅玉)は、左膳に刀を捜すよう頼まれる。貢の実家は今田家に仕えていたことがあり、貢は今は御師の福岡孫太夫の養子となっていた。左膳の逗留する宿で、貢と万次郎は会い阿波国のお国騒動の絡んでくるのがわかる。

奴・林平は、万次郎のそばにいた大蔵(錦弥)と丈四郎(梅蔵)が裏切者であることを知り、敵がわの密書を手に入れるべき大蔵と丈四郎との追い駆け合いとなり可笑しさを誘う場面となる。亀鶴さんは、研修発表会も終わったためか弾けていた。

貢も加わり、夜明け前の二見ケ浦でのだんまりは綺麗に決まっていた。夫婦岩から朝日が差し手に入れた密書を貢が読むというこれまたユーモアに富んだ場面となる。

貢養子先での場<太々講>である。養父の孫太夫は留守で、弟の彦太夫(錦吾)の甥・正直正太夫(鴈治郎)が、孫太夫の娘を口説いたり、今田家の敵側から刀を手に入れば侍にするとの密書が届いていたため、貢の伯母・おみね(東蔵)がまだお金を払ってはいないが、青江下坂を持参していたのを、手に入れようとする。その為、太々講の奉納金を盗んだりと大忙しである。そこには、油屋のお紺(壱太郎)も貢を訪ねてきていてややこしいことになっているが、伯母はお紺に貢のことを頼み、名刀・青江下坂のいわれを話す。この刀を手に入れた貢の父はその刀で人を斬ってしまい、子孫まで相性が悪い刀だから、心して扱うようにと伝え聴かす。

この刀のいわれと、お金も無いのに刀が貢の手に入るのが、ここでの面白さで、狂言回しが正直ではない正直正太夫の役どころで、あたふたと軽妙に鴈治郎さんは演じられる。

これで、貢と刀との関係、お紺との関係、万次郎との関係が明らかになり、後は、刀を早く万次郎に渡し、折紙を捜すことである。ここから、油屋の場へと移るのである。先は見えてきているのに、油屋の仲居万野がそこに立ちはだかってしまう。父がここ刀で人を斬ったのも、朋輩に罵らからであり、貢も同じ道を歩むこととなる。今度は、お紺の心を知らずに、衆人の中でお紺にまで愛想づかしをされたという義憤が加わり大勢の人を斬り殺す結果となってしまう。

お鹿の松江さんは、身体は女形としてはスムーズではないが、声が女形としても自然の声で台詞はよくわかった。お鹿の出をじっと待って愛想づかしの壱太郎さんの一途さがある。お岸の梅丸さんは、今度は健気に、貢さんの怒りを静めようとする。

貢は武士の出といっても早くに養子に出ているわけで、自然な身体の柔らかさの中に主に仕える志がうかがえる。魁春さんの万野とのやりとりも上手く相対している。伯母に刀のことを言われながらも、違う刀を手にしていると思っているわけで心ならずも妖刀に引きずられていく。

通しで観ることによって、油屋の場面の因果関係がより明確になった。お紺の愛想づかしも、<太々講>で伯母に認められ、ここで貢さんのために何かしなくてはとの想いがあったから、後でことの次第を話せばよいと考えたのであろう。しかし、刀への作用が違う方に傾いてしまうのである。貢と万野のやり取りにしても、可笑し味を誘い、この演目はそうした可笑し味を多く取り入れつつ終局にもってくるように計算されて構成されているのである。

国立劇場 『研修発表会』『伊勢音頭恋寝刃』(1)

「伝統歌舞伎保存会」という組織があり、初めて『研修発表会』(第16回)を観た。その月に公演されている演目を若手の歌舞伎役者さんたちが演じるのである。

10月の国立劇場『通し狂言 伊勢音頭恋寝刃』をまだ観ていないので、若手の役者さんのを先に観ることとなった。『研修発表会』の前に、<お楽しみ 座談会>があり、中村梅玉さん、中村東蔵さん、中村松江さん、中村壱太郎さん、中村鴈治郎さん、中村魁春さんが出席され葛西聖司さんの司会で文字通りお楽しみなお話しであった。

今回の『通し狂言 伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)』は、国立劇場では初めての上演で、二幕目の<太々講(だいだいこう)>は歌舞伎座上演から53年ぶりということである。鴈治郎さんによると、二代目鴈治郎さんの時には、<太々講>のみの上演が何回かあり、この場面だけでも観客に喜ばれていたようで、ただ、どのような音楽が入っていたのかなどの記録がないので、新たに作られていったとのことで、4代目を襲名された年に二代目の得意とした正直正太夫の役で演目を復活されての出演は興味深いところである。

<太々講>で、妖刀とも言える名刀・青江下坂のいわれも分かり、その場面が可笑しみのある一幕なわけで観た事のない者にとっては楽しみである。さらに、序幕も初めてである。東蔵さんが、この作品では一番多くの役を演じられている。松江さんが、お鹿をされるのには驚きである。立ち役のお鹿ではなく、女形のお鹿として田之助さんに習われたそうで、笑いをとるお鹿ではなく、貢を一心に思うあまりの可笑しさにしたいと語られた。

お紺の大役を受けて、壱太郎さんは、大詰の油屋のところだけの出と思っていたら<太々講>にもお紺が出てくると初めて知ったそうで、松江さんが国立劇場開場の年の生まれなら、その時壱太郎さんはまだこの世に登場していないのであるから、当然である。

魁春さんは、万野は自分の性格と似ているからそのままでやってますといわれたが、貢の梅玉さんから、もう少し強くでていいよとの注文もあったようである。梅玉さんは、襲名の時が貢の初役でそのときの配役の豪華も話された。葛西さんが、歌右衛門さんに強く出れたのは魁春さんだけだそうですがの問いに、魁春さんが父の意見が長くなったので、「もうわかりました」と言っただけですの答えに、梅玉さんは「とても言えません」。どなたも言えなかったでしょう。

今回の研修会でも刀のことがはっきり出てくることを前提に梅玉さんは指導され、江戸と上方とあるが、江戸のほうでやらせてもらいましたと。鴈治郎さんは、料理人喜助も演じられている。喜助が鞘を取り換えられた本物の青江下坂を貢に渡し、万野に刀が違うから貢を追いかけて刀を取り換えてくるように言われ、花道で「ばかめ」というところを「あほうよ」とだけ言わせてもらっていると。

1796年5月に起こった事件を題材に、7月には大阪で上演されている。凄い早さである。憧れの伊勢参りの場所が舞台であるから、江戸でも大阪の芝居の話が話題になったことであろう。人形浄瑠璃になったのは1838年だそうで意外と時間がかかっている。

<お楽しみ座談会>は、『研修発表会』、本公演を見るうえで大変参考になり、楽しかった。

 

 

歌舞伎座 10月『音羽嶽だんまり』『一條大蔵譚』

『音羽嶽(おとわがだけ)だんまり』。平将門に関連するだんまりである。音羽嶽の八幡神社に刀と旗が供えられる。その刀が平将門の遺品の名刀・雄龍丸(おりゅうまる)であり旗には、繋馬(つなぎうま)の印がある。その二品を、狂言師に化けた盗賊・音羽夜叉五郎(松也)が盗んでしまう。そこから、この二品を巡り、平将門の遺児・将軍太郎良門(権十郎)、妹・七綾姫(梅枝)、源頼信(萬太郎)保昌娘小式部(児太郎)、夜叉五郎、弟分・鬼童丸(尾上右近)、6人の奪い合いとなり、その見せ場が暗闇でのだんまりとなっている。

CD『歌舞伎下座音楽集成』によると、「音楽を主奏とした暗中の奪い合い、探り合いの立ち廻りの、パントマイムの一種。舞踏とは全く異なった動作美に加えて、衣装の引抜、ブッ返りの技巧を用い、同時に見得、型の静止美がある。」とある。

だんまりの見せ場の見せ所は薄かった。若手の役者さんで動きが良かったのは萬太郎さんである。体全体がバランスよく気持ちよく動いてくれた。松也さんは、上半身でのくねりが気になる。歌舞伎役者さんの場合、動きのバランス、動きの大きさを見せるめに、背が高くても低くても苦労する。先輩達から習い盗むしかない。

『一條大蔵譚(いちじょうおおくらものがたり)』。 阿呆の一條大蔵卿は、平清盛に破れ亡くなった源義朝の妻・常盤御前を妻としている。平清盛が常盤御前を寵愛したが、息子の重盛に意見され、歌舞音曲に現を抜かす大蔵卿の元へ押しつけたわけである。

源氏方のものは、清盛に寵愛され、さらに輿入れした常盤御前の行動が信じがたい。もし本心なら、打擲せずにはおけないと、吉岡鬼次郎夫婦が策をねる。そして、吉岡鬼次郎の妻・お京が狂言師として大蔵卿の屋敷に入るのである。この鬼次郎夫婦の菊之助さんと孝太郎さんが、源氏としての常盤御前に迫る気持ちがぴりっとしていて良い。

お京は白川御所の外<桧垣の茶屋>で大蔵卿の出るのを待つのである。なんとも上手い趣向である。誰が見てもよい場所で大蔵卿は狂言師を雇い入れるのである。舞台設定であるのに、大蔵卿の用意周到さのようにも思わせられる。そして大蔵卿の阿呆ぶりが衆人にも一目瞭然である。仁左衛門さんの大蔵卿は、公家の柔らかさと阿呆の気を抜いたところが一体となって、公家の阿呆とはこういうものであろうと思わせられる。屋敷へ帰る花道で鬼次郎の姿に気がつくが、表情も目線の強さも表さない。どんな視線になるかオペラグラスで見つめていたが変わらなかったので、そうくるのかと思った。

大蔵卿を取り巻く雰囲気がわかり、鬼次郎はお京の手引きで常盤御前の部屋に忍び寄る。今回この二人には緊迫感がある。常盤御前の時蔵さんも本心を隠し自分を打擲する二人の忠誠心にやっと威厳をもって本心を言って聞かせる。

そして、大蔵卿は平家の世を忌み嫌いつつ作り阿呆として、世渡りしていたのである。鬼次郎夫婦の出現によって初めて本心を現したということは、この夫婦に源氏に対する信頼をおいたということである。またこの夫婦も、大蔵卿の本心から源氏を思っていてくれる人がいるという大きな力を貰うわけである。

大蔵卿は本心を見せた後、また阿呆に返るのであるが、今回は本来の一條大蔵卿の公家の品格と位を見せての幕となった。武士の気概とは一味違う、公家としての仁左衛門さんの妙味を含んだ一條大蔵卿であった。

歌舞伎座 10月『矢の根』『人情噺文七元結』

『矢の根』二世松緑さんの二十七回忌追善狂言で、現松緑さんの曽我の五郎である。この五郎の動きは松緑さんの身体の中に、完璧に入っている感じでスムーズに動かれる。この動きを安心して見せられていると、少し五郎のヤンチャなアクセントが欲しくなる。稚気さが欲しい。台詞で工夫されているのかもしれないが、それが一本調子に聴こえる時がある。そこが松緑さんの稚気としての狙いなのかもしれないが。

十郎の藤十郎さんは、夢の中に出てきているのだと思わせる雰囲気である。手の動かし方の柔らかさ。短い出なのに十郎が夢の中にでてきていると考えなくても納得できるのである。それを観て、十郎が夢に現れた前後での五郎の気持ちのクッションが欲しいと思えた。

古い雑誌を読んでいたら(断捨離するべきが読んでしまった)、小沢昭一さんが「虎が雨」という文があり、 小学唱歌に「曽我兄弟」があったいう。♪ 富士の裾野の夜は更けて 宴のどよみ静まりぬ 尾形尾形の灯は消えて あやめも分かぬ五月やみ ♪ 十八年のうらみを果たしてから兄弟は討たれ、十郎の死を知って遊女虎御前の流した涙を<虎が雨>といって俳句の季語になっていると。

私も一句。「柴又を 番傘で去る 虎が雨」・・・アッ、これは「虎」ではなく「寅」か、没です。

そう言えば、五郎の台詞や大根をムチにして兄救出に馬を駈けさせる五郎には、寅さんに通ずる可笑しさもある。

『人情噺文七元結』こちらも二世松緑さんの追善狂言である。左官長兵衛は菊五郎さんで、相手とのせりふの妙味で聴かせる芝居であった。女房お兼(時蔵)とのからみ、角海老女将お駒(玉三郎)からの諭しに対する会心、娘お久(尾上右近)との親子の情愛、自殺しかける和泉屋手代文七(梅枝)とのやりとり、和泉屋清兵衛(左團次)とのお礼のやりとりなど、それぞれに相対するところから浮かび上がる江戸っ子職人左官長兵衛の可笑しくも憎めない人間像を浮き彫りにしっていった。

角海老で足をしびれさせるところも大袈裟にはせず、和泉屋清兵衛との文七にやった50両のお金のやりとりも何回も固辞せずさらりっと納得して受け取り、笑いを強調するのではなく、貧しい中での江戸の庶民の人情をさらりっと表現した。

長兵衛の貧しさに気を効かす角海老手代藤助(團蔵)、店子の世話を焼く大家(松太郎)、ここぞという時に締める鳶頭伊兵衛(松緑)など役者さんもそろった。

文七の梅枝さんは、かなり主張の強い手代でおかしかった。主人に信用され仕事も完璧と思っていた若者の挫折から死しかないと思うとすれば、こうなるかもと思わせた。

お久の右近さんの長屋にもどった時の着物の柄が良かった。これはいつも決まっているのであろうか。今回どういうわけか柄に目がいった。角海老の女将がお久にあう着物を選んで着せてくれたと思わせるものであった。

ちょっとしたところにも、貧しいその日暮らしの江戸の庶民の交流が芝居の中にはあった。

 

 

歌舞伎座 十月歌舞伎 『阿古屋』

体調不良で街歩きには最適な季節なのに、用事が済めば、じーっと閉じこもっていた。『歌舞伎 下座音楽集成』という150種類に近い下座音楽が収録されているCDがありそれを聴いたりした。下座音楽というのは、舞台下手の黒御簾(くろみす)の中で場面に合った音楽を演奏していてくれて、そこから流れてくる音楽のことである。

例えば、<巽合方(たつみあいかた)>といえば、『髪結新三』の閻魔堂橋の場で演奏され、観客の耳に入ってくるということになる。こういうふうに、歌舞伎の場合この場面にはこの下座音楽が流れるとか決まっているのである。そのことが頭に入っている観客は相当の歌舞伎通である。

こちらは、役者さんが出てくればそちらの感覚が優先するから、どんな下座音楽であるかなど飛んでいる。そこで、流し聴きしようと考えたのである。ところが、次から次流れていくだけである。歌舞伎の役者さんたちは、この音楽はこの場面とそれに合わせて体も自然に動くのであろう。

聴いたことのある音楽もあるが、次々と流れるのを聴いていると退屈過ぎて飽きてしまう。そしてひらめいた。そうだ、ポータブルDVDプレーヤーで音だけ聴けばいいのである。これを購入すれば、映像を見る時間が増えすぎると控えていたのである。今、座ってDVDを観る元気はない。『阿古屋』のあの素晴らしかった三曲をDVDで聴けるだけでいい。

これが思いのほか成功であった。聴くことに集中できるのである。無理して小さな映像を見る必要もない。聴きつつ、生の舞台を思い出していた。やはり、生の舞台の空気や音は違うなと思いつつ。

『阿古屋』。浄瑠璃『壇浦兜軍記』全五段の三段目の<琴責め>の場だけが残ったのである。浄瑠璃の場合は、琴、三味線、胡弓を別々の奏者が弾くが、歌舞伎では、遊君阿古屋役者が三曲を唄いながら演奏するわけである。今の歌舞伎界では、玉三郎さんしかいない。

平家が壇の浦で破れ、源氏の世界となっており、逃げている平家の景清の行方をかつて馴染みのあった遊君(遊女)阿古屋に景清の行方を詮議する場面である。詮議をするのは、秩父庄司重忠(菊之助)と岩永左衛門(亀三郎)であるが、岩永左衛門は阿古屋を拷問にかけると主張するが、重忠は琴、三味線、胡弓の三曲を弾かせて景清の行方を阿古屋が知っているかどうかを調べるという。拷問強硬派の左衛門は人形振りである。ここが、この芝居の摩訶不思議なところであるが、三曲を弾かせて阿古屋の心の中を覗くというのであるから、これもまた奇想天外である。そのお陰で、観客は阿古屋役者さんの芸のしどころを堪能できるわけで至福の時間である。

阿古屋の玉三郎さんは出から大きく、さらに、火責め、水責めなどには耐えられるが、重忠の情けには心も砕けるから、殺してくださいと身を投げ出すところは覚悟のほどが知れる。その阿古屋に三曲弾かせ、阿古屋は景清の行方を知らない。なぜなら、どの楽器を弾いても、その音締めに狂いがなく、知っていれば心乱れて音も狂うであろうとの重忠の判断である。

阿古屋は、重忠の本心を知らないから、弾きつつ景清との逢瀬が思い出され、ふーっと遠くを見る視線になったり、心が余所にむく素振りなどが微かに匂う時もあるが、しっかりと三曲の腕をみせるのである。玉三郎さんの三曲のコンサートとも言える場面である。聴き惚れていた。途中で入る拍手も邪魔なくらいである。

唄いつつ弾きつつ想いつつの芸の見せ所。重忠から景清との成り染を尋ねられて答える台詞。その台詞がまた上手くできていてる。平家全盛の頃、景清が尾張から清水に毎日参拝にきて五条坂を通りそこで逢うのである。

互いに顔を見しり合い、いつ近付きになるともなく、羽織の袖のほころびちょっと、時雨(しぐれ)のからかさお易い御用。雪の朝(あした)の煙草の火、寒いにせめてお茶一服、それが高じて酒(ささ)一つ、こつちに思へばあちらからも功徳(くどく)は深い観音経。普門品(ふもんぼん)25日の夜さ必ずと戯(たわむ)れの、詞を結ぶ名古屋帯。終わりなければ始めもない。味な恋路と楽しみしに、寿永の秋の風立ちて、須磨や明石の浦船に、漕ぎ放れ往く縁の切れ目、思い出すも痞(つかえ)の毒。

 

語り終わり恥じらいを見せる阿古屋。身体を張って殺せと言った阿古屋とは思えぬ阿古屋の一面である。

これだけの阿古屋の玉三郎さんに対し、菊之助さんと亀三郎さん、玉三郎さんに位負けしているかなという感もあるが、重忠の品格のそなわり、美声を押し込めての人形振りの可笑しさの左衛門と、お二人とも初役としての形は見せられた。

聴いてたDVDは、歌舞伎座2002年(平成14年)で、阿古屋(玉三郎)重忠(梅玉)左衛門(勘三郎)である。

 

歌舞伎座 十月歌舞伎『髪結新三』

今月は<二世尾上松緑二十七回忌追善狂言>とされる演目が三つある。『矢の根』『文七元結』『髪結新三』。

京都千本閻魔堂のからみで『髪結新三』からとする。松緑さんの新三には、すさみがある。<深川閻魔堂橋の場>では、今までだれも見せたことのない、すさみからくる一か八かに生きるはぐれものの狂気をみた。腕の入墨の二本の線がくっきりと目につく。かつては、羽振りをきかせた弥太五郎源七(團蔵)を鼻からバカにしてかかり、弥太五郎源七もこわっぱの新三めという憎さが現れていた。

<深川閻魔堂橋の場>は、お付き合いといった感じがあるが、今回は、月代を伸び放題にした新三のすさみが一層協調され着物の着方もよく、対する團蔵さんも殺気がある。新三という人物がいかに世の中からはぐれて自分の価値観だけで生きてきた男であるかがわかる。ここで殺されても仕方のない男と思わせられた。

こう思わせる新三の描きかたが、悪を格好良く見せる歌舞伎の様式美からすると異論のでるところかもしれない。

一つ問題は、これだけのすさみを出すなら、店を持たずに出張して髪を結いを生業とする、腰の低さと客に取り入る明るさが欲しい。新三というのはその辺りが上手い人間と思っている。ところが相手が利用価値のない人間となるところっと変わるのである。松緑さんは、その辺りの高低さが低い。予想がついていても、親切そうな新三がと、忠七との花道から驚かせてくれなくてはならない。その点、時蔵さんの忠七は、私が悪かったと新三の本心がわからず、新三の機嫌を損ねないように取り入り次第に騙されたのかという状態を上手く演じられていた。

<深川閻魔堂橋の場>の新三の台詞が気に入ったので記す。

ちょうで所も寺町に娑婆と冥土の別れ道 その身の罪も深川の名さえも閻魔堂と鬼といわれた源七がここぞ命の捨てるのも 我鬼より弱い手業(しょうべえ)の地獄のかすりを取った報いだ おれも遊び人 釜とはいいながら 黒闇地獄(ごくあんじごく)のくらやみでも亡者(もうじゃ)の中の二番役 業(ごう)の秤(はかり)にかけられたらば貫目の違う入墨新三 こんな出合もその内にてっきりあろうと浄玻璃の鏡にかけて懐に隠しておいたこの匕首(あいくち) 刃物があれば鬼に金棒 どれ血塗れ仕事にかかろうか

今までにない新三の命の張り方を松緑さんは見せた。この命のやり取りは途中で幕となる。話としては、新三は弥太五郎源七に切り殺され、大岡裁きとなるのである。

粋がっているが、新三ははぐれ者である。そのすさみ部分の出し方はここでもかという感じがあり、そこを上手く粋さと組み合わされば、他では見られない松緑さんの新三になるであろう。この歩合をどう持っていくかが秤のかけどころである。

難しいだけにやりがいのある黒闇役者道である。

(体調がすさんでいて、気は焦るが良い思案が浮かばない。これにてチョン!)